紀元前800–300
鉄器時代のイタリア
エトルリアの墓室壁画と人物像
紀元前8世紀のイタリア中部には、ティレニア海へ注ぐ川、海岸の入り江、山あいの丘陵に農耕集落が広がっていました。穀物を育て、家畜を飼う生活が人々を支え、海に近い鉱山からは鉄や銅が得られました。丘の上に住居を築いた人々は、亡くなった人の遺骨を焼いて土器に納め、集落の外側に墓地を設けました。墓から見つかる骨壺、青銅器、衣服の留め具には、家族や地域ごとに異なる葬送の仕方が残っています。
やがてチェルヴェテリ、タルクィニア、ウェイイ、ヴルチなどの都市が発達し、鉄を含む鉱物資源や農産物が地中海の交易へ結び付きました。ギリシアやフェニキアの商人がもたらした酒器、陶器、装身具は、イタリア中部の工房で作られる新しい形や文様にも影響しました。紀元前7世紀の有力者の墓には黄金の胸飾りと大きな青銅器が納められ、紀元前6世紀には神殿の屋根へ彩色した人物像が置かれるようになります。
エトルリアの古い美術作品は、現在では墓や神殿の遺構から多く知られています。地下墓室の壁に描かれた酒宴や踊り、横たわる夫婦を表した土製の骨壺、神殿の高い屋根を飾ったアポロン像は、制作された場所と使われた場面が異なります。これらの作品を、土器や金属の加工法、発見された位置、残された銘文とともに見ると、紀元前800年頃から紀元前300年頃までのイタリア中部で何が変わっていったのかを具体的にたどれます。
CONTENTS
火葬壺の時代|ヴィッラノーヴァ文化から都市へ
双円錐形の骨壺|焼いた遺骨を納める容器
イタリア中部の紀元前9〜8世紀の墓地では、遺骨を納めた土器が地中へ埋められました。ヴィッラノーヴァ文化と呼ばれる時期の代表的な骨壺は、二つの円錐を底で合わせたように胴が上下へ細まる形です。表面には櫛状の工具で平行線や三角形を刻み、容器の肩に設けた小さな取っ手は一つだけを残しました。二つの取っ手がある場合、葬送の際に一つを折った例も知られます。
蓋には浅い皿を逆さに置く場合と、兜の形をした陶製の蓋を置く場合がありました。ヴァチカン美術館は、1853年にボローニャ近郊のヴィッラノーヴァで発見された墓地から、この文化名が付いたと説明しています。人間の全身を彫った墓標がまだ一般的でなかった時期、骨壺の形や蓋、墓穴への納め方が葬送の違いを表していました。(参照:ヴァチカン美術館|ヴィッラノーヴァ文化の双円錐形骨壺/メトロポリタン美術館|紀元前1000年以後のイタリア半島の編年)
青銅製の小像と容器|衣服や馬の姿
青銅を薄い板に打ち出した容器や、型へ流し込んで作った小さな人物像も初期鉄器時代の墓に残ります。メトロポリタン美術館が所蔵する紀元前8世紀の青銅製飾り(収蔵番号1991.171.53)は、二人が並び立つ姿を単純な幾何学的形でつなぎ、頭と肩、胴の輪郭を高さ約3センチの小さな金属片の中にまとめています。人物を夫婦と見るか、後世のエトルリアの神々に関係する組合せと見るかは確定していません。
同館の紀元前8世紀の青銅製バケツ形容器(収蔵番号17.190.2128)は、高さ約16センチで、器体が上へ向かって開く形です。下部の幾何学文様は同時期の青銅盾にも見られます。金属の器では薄板から胴を作り、別に仕上げた部分を組み合わせる方法も使われました。美術館はこの初期の容器の具体的な用途を未詳とし、紀元前6世紀の図像では類似の容器が宴席の飲み物を入れる器として描かれると説明しています。(参照:メトロポリタン美術館|人物二体を組み合わせた青銅製飾り(256041)/メトロポリタン美術館|ヴィッラノーヴァ文化の青銅製容器(249233))
ポッジョ・チヴィターテの建物|紀元前700年頃の大型屋根
シエナの南にあるポッジョ・チヴィターテ(ムルロ)では、紀元前700年頃に有力者の居住と生産を担う大きな建物群が築かれました。考古学調査団がEPOC4と呼ぶ長方形の建物は、周辺にあった小さな曲線状の平面を持つ小屋に比べて格段に大きく、屋根には素焼きの瓦が葺かれていました。調査団は、これをイタリア半島で確認された最初期の瓦屋根の建物の一つとしています。
紀元前650年頃、古い建物を解体した材料が次の大規模建造物へ再利用され、さらに後の建物では屋根の稜線へ土製人物像が並びました。発掘地からは細かな土器片と建築テラコッタが多数出土しています。住宅、生産施設、宗教的な空間が丘の上で近接する様子は、都市が整う前後の工房と建築の関係を伝えます。(参照:ポッジョ・チヴィターテ考古学調査団|遺構と発掘成果/マサチューセッツ大学|ポッジョ・チヴィターテ発掘調査)
チェルヴェテリの墓|地下に刻まれた建築と黄金
バンディタッチャ墓地|住居の形を彫った石室
チェルヴェテリのバンディタッチャ墓地では、凝灰岩の丘を掘り下げた通路の両側に墓が連なります。紀元前7〜6世紀の大きな円墳には石で囲んだ土盛りがあり、内部へ向かう通路の先に複数の墓室を置きました。室内の天井や壁には梁、柱、寝台の形が彫られ、木造家屋の構造を岩へ移した例が残ります。墓地には直線の道に沿って四角い墓が並ぶ地区もあります。
ユネスコの登録資料は、チェルヴェテリの墓の造りと街路配置が古い居住空間の復元に役立つ点を重視しています。地下の石室に刻まれた寝台や柱は、亡くなった人の身体を置く構造であると同時に、当時の住宅の形を伝える造形です。墓の大きさと数、内部の配置は世代を越えた埋葬のために変わり、各墓が同じ時期に作られたわけではありません。(参照:ユネスコ世界遺産センター|チェルヴェテリとタルクィニアの古代墓地/チェルヴェテリ・タルクィニア考古学公園|バンディタッチャ墓地)
レゴリーニ=ガラッシ墓|女性の遺骸と三台の車
チェルヴェテリのソルボ墓地で1836年に発見されたレゴリーニ=ガラッシ墓は、紀元前675〜650年頃の豪華な埋葬で知られています。細長い通路の奥には高位の女性が葬られ、黄金の胸飾り、大きな衣服留め具、腕輪、首飾り、銀と青銅の器が重ねて置かれていました。脇の小室からは火葬された男性の遺骨が見つかっています。
前室には青銅製の葬送用寝台と大型容器、壁に立て掛けられた盾があり、車の部品も三組出土しました。ヴァチカン美術館が進めた再検討では、戦車、座って乗る車、棺を運ぶ大きな車として構造が整理されています。考古学者マウリツィオ・サンニバーレは2013年の報告で、1836年の記録には位置関係が食い違う箇所があり、副葬品のすべてを確実に元の場所へ戻すことはできないと述べています。(参照:ヴァチカン美術館|レゴリーニ=ガラッシ墓の埋葬と副葬品/M・サンニバーレ(2013年)|レゴリーニ=ガラッシ墓の発掘記録・年代・復元)
黄金の胸飾り|翼のある女性と動物の列
同墓の胸飾りは、薄い金板を胸の幅に合わせて大きく広げ、異なる形の打ち具を裏から当てて模様を盛り上げた品です。外側には小さな三角形を連続させ、内側に動物や人物を帯状に並べています。枝をくわえた獅子、グリフォン、キマイラ、ペガサス、首を曲げて草を食む鹿、蓮の花を持つ翼のある女性が、帯ごとに反復します。
動物の中にはイタリアの身近な風景では見られない生き物もあり、近東や地中海東部の装飾語彙との交流がうかがえます。同じ墓の銀器には、持ち主を示す『ラルティアのもの』という趣旨のエトルリア語の銘文もあります。金板の装飾がどこで制作されたかと、金具を身に着けた人が誰かは、金属加工の比較と銘文資料から別々に検討されています。(参照:ヴァチカン美術館|レゴリーニ=ガラッシ墓の黄金胸飾り/ヴァチカン美術館|レゴリーニ=ガラッシ墓の銀器と銘文)
黒い土器と物語を刻んだ青銅器|地中海との交流
ブッケロ土器|磨いた黒い表面と薄い器壁
紀元前7世紀以降、エトルリア各地の工房ではブッケロと呼ばれる黒色の陶器が作られました。粘土を成形して表面を磨き、焼成の際に酸素の供給を抑えることで、表層だけでなく器壁の内側まで暗い色になります。初期のものには薄い器壁と研磨された表面が多く、後のキウージ周辺では厚手の器に浮彫や大きな把手を付ける例が増えました。
メトロポリタン美術館のキウージ製一把手杯(収蔵番号96.9.151、紀元前550〜525年頃)は、広がる口縁の下に溝をつくり、把手の上へ女性の頭と巻き葉を付けています。別の注口容器(収蔵番号16.174.10、紀元前575〜550年頃)には、牡羊と人間の頭部を小さな立体として首や胴へ増やす独特の造形があります。後者はヴルチ周辺の工房でよく作られた装飾です。金属の酒器に似た器形を土で作り、接合と刻線で複雑な表面を与えた食器です。(参照:メトロポリタン美術館|エトルリア美術の概要/メトロポリタン美術館|キウージのブッケロ容器(246224)/メトロポリタン美術館|動物の頭を付けたブッケロ注口容器(249101))
コリント風の壺|移入品をもとに描き直す
地中海を航行した船は、ギリシアのコリントスやアテナイで作られた香油壺、酒器、大型容器もイタリアへ運びました。エトルリアの工房では、それらの形と黒色の顔料による人物・動物装飾を取り入れ、コリント式に似たアンフォラを製作しました。胴を帯状に区切り、鳥や獣の姿を横へ連ね、赤や白の色を加える作品も残っています。
メトロポリタン美術館のエトルリア=コリント式アンフォラ(収蔵番号2024.283)は、紀元前620〜610年頃にチェルヴェテリで製作されたと考えられています。胴の大半はコンパスで描いた鱗模様に覆われ、赤く塗った鱗が縦に一列おきに現れます。肩にはヤギや豹、馬のほか、ケンタウロスとグリフォンを並べています。器は2024年に同館へ収蔵されました。器そのものが遠くから運ばれた場合と、地元の陶工がギリシアの絵柄を学んで焼いた場合とでは、交流の実態が異なります。(参照:メトロポリタン美術館|エトルリア=コリント式アンフォラ/メトロポリタン美術館|エトルリア美術の概要)
ミカリの画家|紀元前525〜500年頃の黒像式
紀元前6世紀末のヴルチ周辺には、黒像式の壺を大量に作った陶工・画家の工房がありました。『ミカリの画家』という現代の仮称でまとめられる作品の一つは、メトロポリタン美術館所蔵の蓋付きアンフォラ(収蔵番号96.9.177a・b)で、高さ39.2センチです。胴には翼の生えた馬と人面鳥身のセイレーンを、肩には二つの目の間にツタを描いています。黒い絵具で輪郭を作り、一部を刻線で補っています。
同館の研究は、この画家の特徴を、黒い絵具を密に塗る場所と素早く緩やかに広げる場所を使い分ける筆法に見ています。『ミカリ』は古代の署名で判明した実名ではなく、作品の形と筆致を比べて付けられた研究上の呼び名です。ギリシアの黒像式技法を利用していても、エトルリア側の描写は線の強さや画面の詰め方に独自の変化があります。(参照:メトロポリタン美術館|ミカリの画家の黒像式アンフォラ(96.9.177))
モンテレオーネの戦車|アキレウス物語を打ち出す
イタリア中部モンテレオーネ・ディ・スポレート近郊では1902年、墓から青銅で飾った二輪車が発見されました。ニューヨークのメトロポリタン美術館に残る車の高さは約131センチ、轅の長さは約209センチです。失われた木製の車体へ薄い青銅板を取り付け、正面と両側の大きな三枚の板に裏から模様を叩き出しました。象牙をはめ込んだ装飾もあります。
正面には母テティスから兜と盾を受け取るアキレウス、左側にはメムノンとの戦い、右側には翼のある馬に曳かれた車へ乗る場面が表されます。考古学者アドリアーナ・エミリオッツィらの2011年の専門研究は、車体の構造と古代の修理痕、工具の刻みを調べ、製作を紀元前560〜550年頃と推定しました。墓へ納められた時期を確定するには共伴土器も考慮します。(参照:メトロポリタン美術館|象牙象嵌を持つモンテレオーネの青銅製戦車/A・エミリオッツィほか(2011年)|モンテレオーネの戦車・製作年代と再復元)
神殿の屋根を飾る人物像|素焼きの土と彩色
木と土の神殿|軒飾りが伝える建築
紀元前6世紀のエトルリアの神殿では、石の基壇の上へ木の柱と梁を組み、日干し煉瓦や土を用いて壁を作り、瓦を葺くことがありました。建物の主要な木材は失われやすい性質を持ちます。発掘地には基壇の跡、落ちた瓦、梁を覆った飾り板、神々や動物の土製彫刻が残り、屋根の高さと装飾の配置を復元する資料になっています。
屋根の先端には、雨水が垂れる側で瓦の端を覆う『アンテフィクス』という軒飾りを並べました。メトロポリタン美術館にあるチェルヴェテリの女性顔形軒飾り(収蔵番号96.18.154、紀元前5世紀初頭)は、正面を向く髪と顔を土型で作り、細い冠と大きな耳飾りを付けた品です。左側には赤褐色の彩色が一部残ります。屋根の縁へ連続して置かれるため、同じ型から複数の飾りを作れる構造でした。(参照:メトロポリタン美術館(2022年)|エトルリアの建築テラコッタ研究/メトロポリタン美術館|チェルヴェテリの女性顔形軒飾り)
ウェイイのアポロン|歩き出す大きな陶製彫像
ウェイイのポルトナッチョ聖域にある神殿では、紀元前510〜500年頃、屋根の稜線へ大きな彩色人物像が置かれました。1916年に破片となって発見されたアポロン像は高さ約186センチ、幅約78センチで、つま先を前へ運び、長い衣の裾を揺らして進む形です。左腕を前に伸ばし、右手には弓を持っていた可能性があります。顔や手の褐色と衣服の白、縁取りの黒など、古代に塗られた色の一部が残されています。
同じ屋根の群像には黄金の角を持つ鹿を捕らえたヘラクレスが含まれ、アポロンは鹿を取り戻そうと近づく場面と考えられています。エトルリアで信仰されたメネルウァ神の神殿を飾ったギリシア神話の一場面です。大きな人物像の重心と脚の幅を調節して、地上から見上げられる屋根上で動きが伝わるように作られています。(参照:国立エトルリア博物館|ウェイイ出土のアポロン像(510〜500 BCE)/国立エトルリア博物館|アポロン像とヘラクレス像・彩色・発見状況)
アポロンの工房と1916年の発見|後から埋められた神像
アポロン像やヘラクレス像は屋根の装飾として使われた後、壊れた状態で聖域の一角にまとめて埋められました。国立エトルリア博物館に残る発見時の写真には、1916年に複数の大きなテラコッタ片が一列に並んでいた様子が記録されています。今日の彫像は保存処置と破片の接合を経て復元された姿です。
研究では、同じ様式の像を手掛けた人物を『アポロンの師』と呼び、ウェイイで活動した土像工房の作品と考えています。古代の文献で知られる工人ウルカとの関係も提案されてきましたが、アポロン像そのものには制作者の実名を証明する署名が残っていません。古い神殿建築の解体と、神像の後年の埋納は年代を分けて捉えられます。(参照:国立エトルリア博物館|アポロン像とヘラクレス像・彩色・発見状況/国立エトルリア博物館|ウェイイ出土のアポロン像(510〜500 BCE))
ピュルギの神殿|黄金銘板とギリシア神話の浮彫
チェルヴェテリの港にあたるピュルギの聖域では、紀元前6世紀末に神殿Bが建てられました。考古学者マッシモ・パッロッティーノの調査で1964年7月8日に見つかった三枚の黄金銘板は、小さく折り畳まれ、まとめて埋められていました。薄い板の二枚にはエトルリア語、一枚にはフェニキア語で文を刻み、残された小孔と金の釘から、もとは神殿の入口の木枠へ取り付けられていたと考えられています。テファリエ・ウェリアナスという統治者の奉納と女神アスタルテに関係する記述があり、二つの言語の文は意味が近いものの、逐語訳にはなっていません。(参照:国立エトルリア博物館|ピュルギの黄金銘板/国立エトルリア博物館|1964年の黄金銘板発見と二言語の銘文)
紀元前470〜460年頃の別の神殿Aには、幅約140センチ、高さ約130センチの彩色土製浮彫が取り付けられました。テーバイの戦いの物語から、倒れたメラニッポスの頭部に噛み付くテュデウスと、それを見て離れるアテナ、雷を投げるゼウスが立体的に重なります。国立エトルリア博物館は、2000片を超える破片の接合によりこの図柄を復元しました。女神の同定や神話の意味には研究が続いています。(参照:国立エトルリア博物館|ピュルギ神殿の彩色浮彫(470〜460 BCE)/国立エトルリア博物館|ピュルギの浮彫の復元と解釈)
夫婦像をのせた棺と骨壺|横たわる身体の彫刻
チェルヴェテリの夫婦像形骨壺|腕を添えた二人
ローマの国立エトルリア博物館が所蔵する『夫婦の石棺』は、紀元前530〜520年頃にチェルヴェテリで作られた彩色テラコッタです。高さ約140センチ、長さ約202センチの横長の作品で、寝台の上に横たわる男女を上半身だけ起こした姿に造形しています。男は右腕を女の肩へ回し、女は胸の前で両手を掲げます。衣服のひだ、長い編み髪、顔の輪郭を大きくまとめ、横顔と正面から見る目の形が異なります。
この作品は約400個の破片を接合して復元されました。博物館は形式を『火葬骨壺』と分類し、一般に呼ばれる『石棺』という名前と埋葬具としての機能を区別しています。二人の手はもともと杯や香油容器などを持っていたと推測され、現在はそれらの品が失われています。宴席の姿を亡くなった人の容器へ刻んだ点に、この作品の葬送上の性格が表れています。(参照:国立エトルリア博物館|チェルヴェテリの夫婦像形骨壺(530〜520 BCE))
ルーヴルのもう一つの夫婦像|複数の工房と復元
チェルヴェテリからは、横たわる男女を表した別の大きな土製作品も知られています。ルーヴル美術館の『夫婦の石棺』は紀元前520〜510年頃とされ、キャンパーナ収集品を経てパリに入りました。長い寝台の上で男女が身を起こし、互いへ寄り添いながら、片腕を前へ伸ばす構成です。男女の頭髪と衣装、寝台の縁の文様を、複数の土の部材から組み上げています。
二つの所蔵館の作品は形と年代が近く、どちらもチェルヴェテリの葬送儀礼と結び付きます。現存する破片の出自と修復の履歴は同じではありません。ルーヴルは2016年のジャンパオロ・ナダリーニの研究や、2021年のマリア・アントニエッタ・リッツォの類例研究を参考文献に挙げています。同じ呼び名の彫刻を一作品として数えないよう、所蔵と年代を分けておく必要があります。(参照:ルーヴル美術館|チェルヴェテリ出土の夫婦像形棺(520〜510 BCE)/国立エトルリア博物館|チェルヴェテリの夫婦像形骨壺(530〜520 BCE))
宴席の女性像|身分と生活をどう読むか
夫婦像では女性の上半身が男性とほぼ同じ高さにあり、肩に添えられた腕と互いの近い顔が一体の構図を作っています。エトルリアの墓室壁画にも、男女が同じ寝台で宴席に加わる場面が残ります。ギリシアの酒宴図と似た寝台、杯、楽器の図柄を使い、女性を人物群の中央へ置く例があることが特徴です。
こうした表現は、墓を造ることのできた家族が望んだ姿を示します。女性の日常的な権利、全社会の慣行、実際の葬儀で誰が同席したかについては、絵だけで一律に定められません。古代の墓や器に記された女性の名、個々の副葬品、宴席場面の人数を合わせる研究が続いています。(参照:国立エトルリア博物館|チェルヴェテリの夫婦像形骨壺(530〜520 BCE)/イタリア文化省|モンテロッツィ墓地の彩色墓室/ヴァチカン美術館|レゴリーニ=ガラッシ墓の銀器と銘文)
タルクィニアの墓室壁画|宴・競技・海の景色
モンテロッツィ墓地|岩の奥に残された絵
タルクィニアのモンテロッツィ墓地には、凝灰岩の地下へ掘った数千の墓室が広がり、壁面に色を塗った墓も約200例知られています。最も古い壁画は紀元前7世紀までさかのぼり、紀元前6〜5世紀には宴席、音楽、踊り、動物、競技の情景を持つ墓が増えました。墓室の入り口は地中へ下る通路につながり、天井には木造家屋の梁を模した色の帯を描く例があります。
各墓の壁に絵を描いたのは特別な埋葬のためで、数多い一般の墓すべてが壁画を持つわけではありません。絵を残した部屋は地下にあり、狭い室内の三方の壁と天井を使って人物が配置されています。古い墓は盗掘を受け、絵具も剥落しました。現存する画面は、発見時の記録と保存修復を含めて読み取る必要があります。(参照:ユネスコ世界遺産センター|チェルヴェテリとタルクィニアの古代墓地/イタリア文化省|モンテロッツィ墓地の彩色墓室)
『占兆師の墓』|手の動きと競技場面
『占兆師の墓』は紀元前530〜520年頃に作られた、約3.6メートル掛ける2.6メートルの長方形墓室です。背面には入口のように見える暗い扉を描き、その左右に手を上げた人物が立ちます。側壁には綱の端を握る覆面の人物と犬に向き合う裸の人物など、身体を大きく動かす場面が続きます。描かれた扉は石室の壁を貫いておらず、奥の面をもう一つの空間のように扱った絵画です。
墓の名前は発見時に背面の人物を占兆師と解したことに由来します。イタリア文化財総合目録は、この同定を誤った初期解釈として記録しています。画面には競技や葬送の演技を思わせる人物があり、儀礼の具体的な名称や手順について議論があります。絵の様式からは、東方ギリシア系の画工の関与が提案されています。(参照:イタリア文化財総合目録|占兆師の墓(530〜520 BCE)/イタリア文化省|モンテロッツィ墓地の彩色墓室)
『狩猟と漁労の墓』|海と飛ぶ鳥を部屋へ描く
紀元前520〜510年頃の『狩猟と漁労の墓』は、地中の階段から二つの小室へ入る構造です。奥の部屋の壁面には、水の上へ突き出た岩、泳ぐ魚、鳥を追う人々、舟に乗る人物などが描かれています。海岸の曲がった輪郭を奥行きのある広い風景に見せ、青や赤褐色の小さな人物をその中に置きました。
文化財総合目録は奥の室内を高さ約2.4メートル、長さ約4.5メートル、幅約3.5メートルと記し、1873年の発見時にはすでに盗掘されていたと報告しています。絵の様式からギリシア系の画家が関わった可能性も挙げられています。海の景色は、日常の漁労の写生、葬送の競技、死後の旅路など複数の説明を生みました。図像だけから特定の信仰儀礼を確定する段階には至っていません。(参照:イタリア文化財総合目録|狩猟と漁労の墓(520〜510 BCE)/イタリア文化省|モンテロッツィ墓地の彩色墓室)
『豹の墓』|三組の寝台と左右の楽士
『豹の墓』は紀元前480〜470年頃の小さな一室墓で、奥の壁に宴席の人物を描き、上には二頭の豹が向かい合っています。宴席の寝台は三つあり、人物は左右を向いて横たわり、杯を差し出したり手を挙げたりしています。左壁の従者たちと右壁の楽士たちが中央の宴へ向かい、手足の細い輪郭が赤、黒、白などの色で区切られています。
イタリア文化財目録は部屋の大きさを約3.5メートル掛ける3.4メートル、高さ約1.7メートルとし、1875年の発見を記録しています。壁の図柄は部屋を一周して続く構成で、観客は入口から正面の三つの寝台を見て、横壁の楽士へ目を移します。飲食の準備に従う人物と寝台の人物の違いが描かれており、宴席の図像が当時の社会的な関係にも結び付いています。(参照:イタリア文化財総合目録|豹の墓(480〜470 BCE)/イタリア文化省|モンテロッツィ墓地の彩色墓室)
『宴席の墓』|踊る人と竪琴の奏者
『宴席の墓』も紀元前480〜470年頃の絵画で、奥の壁に寝台の人物、左右の壁に踊る男女と楽器奏者が並びます。左壁では複数の踊り手が互い違いに身体をひねり、男性の楽士が長い弦楽器を奏でます。天井には色の違う四角形を並べ、布や建物の内装を思わせる模様が描かれました。手足の方向と衣服の端をずらすことで、静かな地下の部屋に人の動きを広げています。
この墓の壁画は取り外されて保存された部分があり、もとの壁面と美術館で見る絵の位置関係は資料に照らして理解する必要があります。人の肌の色を男女で描き分ける慣行や、器と楽器の置き方にはギリシア絵画との交流が指摘されています。宴が実際の葬儀を描いたものか、死者が参加する理想化された場面かをめぐって、解釈が分かれています。(参照:イタリア文化財総合目録|宴席の墓(480〜470 BCE)/イタリア文化省|モンテロッツィ墓地の彩色墓室)
紀元前4世紀の墓|神話と家族の記憶
『オルコの墓』|一つの地下墓に重なった制作年代
タルクィニアの『オルコの墓』は、もとは別々だった地下の墓室が後に通路でつながれた複合墓です。『オルコ1』の壁には横たわる女性や宴席の人物が描かれています。女性は横顔の鼻筋と額が黒い線でつながり、肌には淡い色を重ね、耳飾りや髪の境界も細く描き分けています。人物の周囲に書かれたエトルリア語の文字は、故人の名前や家族の関係を考える資料です。
墓室の年代の見積もりには差があります。イタリア文化財総合目録はオルコ1を紀元前4世紀末、オルコ2を紀元前3〜2世紀に位置付けています。一方、ソードらが2008年に発表した顔料分析論文では、それぞれ紀元前4世紀初めと同世紀末という編年を用いています。これは顔料から制作年が直接測定されたという意味ではありません。同研究が調べたのはオルコ2の壁画で、鉄を含む赤や黄の顔料、人工顔料のエジプト青などが確認されました。(参照:イタリア文化財総合目録|オルコの墓の複数の時期/A・ソードほか(2008年)|オルコの墓の顔料と塗装技法の分析)
『フランソワの墓』|ヴルチの戦いとギリシア神話
ヴルチ近郊で1857年に発見された『フランソワの墓』は、紀元前340〜320年頃の壁画で知られています。長い通路の両側から部屋へ入る構造を持ち、宴席の家族像に加えて、剣を振り上げる人物や傷ついた兵士を壁一面に描きました。人物の脇には名前が記され、エトルリアの英雄カイレ・ヴィペナとその仲間、マスタルナ、ローマ側とされる敵の名が読み取れます。
向かいの壁にはアキレウスが捕虜を殺そうとするトロイア戦争の場面もあり、地元の英雄譚とギリシア神話を同じ墓に置いた構成が特徴です。紀元1世紀の皇帝クラウディウスはマスタルナをローマの王セルウィウス・トゥッリウスと結び付けましたが、墓の絵そのものが、その後世の説明を歴史的事実として証明するわけではありません。描かれた歴史と政治的な意図の解釈には論争が続いています。(参照:J・ニール|フランソワの墓の壁画・人名銘文と歴史解釈)
発見後に壁から取り外された絵画は長く別の場所で保管されました。国立エトルリア博物館の2026年の案内によれば、イタリア政府がこの壁画群を取得し、ローマのヴィッラ・ジュリアで展示しています。墓の空間と、移設された絵の現存位置を区別して考える必要があります。(参照:国立エトルリア博物館(2026年)|フランソワの墓の公開と研究)
チェルヴェテリの『浮彫の墓』|壁に作られた日用品
チェルヴェテリの『浮彫の墓』は、マトゥナ家が使ったとされる紀元前4世紀末から紀元前3世紀初め頃の大きな岩窟墓です。中央の柱と周囲の壁を漆喰で覆い、その上に細かな浮彫を作って彩色しました。柱には盾と武器、壁には鍋や水差し、道具、縄、革紐などが吊り下げられたように並び、奥の壁の下には寝台が連なります。
一つひとつの道具は平たい輪郭だけで示されたものも、取っ手や袋の厚みまで盛り上げられたものもあります。日用品、武具、動物が同じ墓室へ納められた理由については、家の生活を再現したもの、家族の身分や役割を示すもの、死後の供物に関係するものなどの説明が提案されています。壁面に作り付けた道具が、実際の副葬品をそのまま写したかどうかは、個別に確かめる必要があります。(参照:イタリア文化省|チェルヴェテリの浮彫墓・マトゥナ家/チェルヴェテリ・タルクィニア考古学公園|浮彫墓の保存と公開)
青銅の人物像と鏡|金属工芸に刻まれた名前
『トーディのマルス』|武具を着けた青銅像と奉納銘
1835年にウンブリア地方のトーディ近郊で、石灰岩の一種であるトラバーチンの板に囲まれて見つかった青銅像は、『トーディのマルス』と呼ばれます。高さ約141センチの兵士は片足に重心をかけ、胸に防具を着け、衣服を身にまとっています。片手には戦いの前に酒などを捧げる皿を持ち、もう一方の手を槍に添える姿でした。皿と槍の残存部分は像とは別にヴァチカン美術館で展示されています。各部分は失われる蝋型を用いる方法で鋳造し、はんだ付けして接合されました。
裾にはエトルリア文字を使ってウンブリア語を書いた奉納銘があり、アハル・トルティティスという人物が捧げた品と読み取られています。ヴァチカン美術館はギリシア古典期の人体表現との関係を指摘しています。ウンブリア地方で出土し、エトルリアの工房との関係が考えられる作品であって、像の奉納者まで単純に『エトルリア人』と決めることはできません。(参照:ヴァチカン美術館|トーディの戦士青銅像とウンブリア語銘文)
青銅鏡|磨いた面の裏へ刻む神々と物語
紀元前4世紀には、柄の付いた青銅鏡の裏にギリシア神話を線刻した品が多く作られました。表の金属面を磨いて姿を映し、裏面には先の細い工具で人物の輪郭と衣服のひだ、髪、持ち物を刻みます。磨かれていない現在の表面は緑青に覆われていますが、製作当時の鏡面は明るく光る金属でした。墓に副葬された鏡には、使われたまま納められたものと、葬送のために作られた可能性のあるものがあります。
メトロポリタン美術館の青銅鏡(24.1センチ)は、中央の青年に『アルクセントレ』(パリス)、両側に『トゥラン』(アフロディテ)と『エリナイ』(ヘレネ)の名をエトルリア文字で記しています。円盤部分の直径は約15.4センチです。別の鏡にはペレウスとテティス、ガレネという人物が刻まれています。神話の人物をギリシア語そのままではなくエトルリア語の名で示した点が、受け取った側の物語の扱い方を伝えます。(参照:メトロポリタン美術館|パリス・ヘレネ・トゥランの銘文を持つ青銅鏡/メトロポリタン美術館|ペレウスとテティスの青銅鏡)
黄金の耳飾り|金板の打ち出しと粒金細工
黄金の耳飾りには、薄い板を裏側から押し上げて立体的な植物などを作る打ち出しと、極小の金粒を並べて接合する粒金細工が使われました。メトロポリタン美術館が所蔵する紀元前4世紀〜3世紀初頭の一対の耳飾り(収蔵番号95.15.152・153)は、全体がブドウの房に似た形です。金板へ丸い飾りを盛り上げ、周囲へ細かな粒を連ねました。一方の大きさは縦約3センチ、重さ約2.8グラムで、小さな装身具の表面へ細工を集めています。
こうした細工には金板を薄く延ばす作業、細い線材と小粒を用意する作業、装飾を元の板へ固定する作業が必要でした。紀元前7世紀のレゴリーニ=ガラッシ墓に納められた大型胸飾りと比べると、4世紀の耳飾りは身体の小さな部分に技巧を集めています。金工技術が一つの地域で途切れず続いたことを個々の作品だけから断定できないため、墓地の出土状況と製作技法の比較が行われています。(参照:メトロポリタン美術館|打ち出しと粒金細工による黄金の耳飾り/ヴァチカン美術館|レゴリーニ=ガラッシ墓の黄金胸飾り)
壁画の顔料分析|赤土、黒い炭、人工の青
墓室壁画に使われた赤い色には鉄分の多い鉱物、黄には黄土系の鉱物、白には炭酸カルシウムを含む素材、黒には炭を使った例があります。彩色の下には岩を整えた層や薄い塗り下地が残ることもあり、現在の淡く見える色が描き始めの色と等しいわけではありません。バローネらが2018年に公表したタルクィニアの八つの墓の分析では、光と微細な物質の反応を調べる手法によって、緑の孔雀石や人工的に作るエジプト青など、複数の顔料が識別されました。
カザノヴァ・ムニッキアらが2026年に公表した五つの墓の研究では、エジプト青が青く見える部分以外にも使われていたことが確認されました。『男爵の墓』からは、天然の青い銅鉱物である藍銅鉱も検出されています。色名が同じでも材料は一種類ではなく、顔料を分析した結果から特定できるのは、その採取または製造と使用に関する事実です。絵を描いた人がその色に込めた意味は、顔料の化学組成だけでは分かりません。(参照:G・バローネほか(2018年)|タルクィニアの壁画8墓の非破壊顔料分析/A・カザノヴァ・ムニッキアほか(2026年)|モンテロッツィ墓地のエジプト青と藍銅鉱/A・ソードほか(2008年)|オルコの墓の顔料と塗装技法の分析)
略年表
- 紀元前800年頃|イタリア中部で双円錐形の火葬骨壺が広く使われ、地域ごとの墓地が形成される
- 紀元前700年頃|ポッジョ・チヴィターテで大型の瓦屋根建物が建てられる
- 紀元前675〜650年頃|チェルヴェテリのレゴリーニ=ガラッシ墓に金製胸飾りなどが納められる
- 紀元前650年頃|ポッジョ・チヴィターテの建物の改築が進み、屋根装飾の形式も変化する
- 紀元前600年頃|ブッケロ土器や大型の彩色建築テラコッタが各地の工房で発達する
- 紀元前560〜550年頃|アキレウス物語を打ち出したモンテレオーネの戦車が製作される
- 紀元前530〜520年頃|チェルヴェテリの夫婦像形骨壺が作られ、タルクィニアでは『占兆師の墓』が描かれる
- 紀元前525〜500年頃|ヴルチ周辺で『ミカリの画家』の黒像式陶器が作られる
- 紀元前520〜510年頃|『狩猟と漁労の墓』とルーヴル所蔵の夫婦像形棺が作られる
- 紀元前510〜500年頃|ウェイイの神殿屋根に彩色テラコッタのアポロン像が置かれる
- 紀元前500年頃|ピュルギの神殿Bにエトルリア語・フェニキア語の黄金銘板が捧げられる
- 紀元前480〜470年頃|タルクィニアの『豹の墓』『宴席の墓』が彩色される
- 紀元前470〜460年頃|ピュルギの神殿Aにテュデウスらの物語を表す彩色浮彫が取り付けられる
- 紀元前400年頃|ウンブリア地方の『トーディのマルス』など、人体表現を備えた大型青銅像が製作される
- 紀元前340〜320年頃|ヴルチの『フランソワの墓』で英雄譚とギリシア神話の壁画が描かれる
- 紀元前4世紀末〜紀元前3世紀初頭|チェルヴェテリの『浮彫の墓』に道具と武具を模した彩色浮彫が作られる
まとめ
紀元前8世紀の双円錐形骨壺は、幾何学的な文様を刻み、蓋や取っ手の扱いを変えながら火葬の遺骨を納める器でした。紀元前7世紀に都市の有力者の墓が大きくなると、薄い金板を打ち出した胸飾りや青銅製の車、大量の金属器が現れます。チェルヴェテリの岩窟墓は寝台と木造住宅の構造を石へ刻み、墓を家のように作る方法を具体的に残しています。
神殿の屋根では大きな彩色土像を組み上げ、墓では横たわる人物を土の部材から作り、壁に宴や競技、海の景色を描きました。これらは制作場所も使用法も違います。モンテレオーネの戦車の板金細工、ウェイイの屋根彫刻、タルクィニアの壁画に共通するのは、ギリシアや地中海東部から得た図柄を各地の工房がそれぞれの製品へ取り込んだことです。神話の人物の脇にエトルリア語の名前を刻んだ鏡や墓絵には、図柄を受け入れた土地の言語も残っています。
墓の壁画が実際の葬儀をどの程度描いたか、夫婦像の姿が当時の社会生活をどこまで表すか、フランソワの墓の戦闘が歴史上の事件をどのように語っているかについては、複数の解釈があります。近年の顔料分析は、赤・黄・青の材料と塗装方法を具体的に示し、以前は区別できなかった青い鉱物も特定しました。出土時の配置、銘文、年代測定、保存科学を照らし合わせる調査が続いています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|チェルヴェテリとタルクィニアの古代墓地/国立エトルリア博物館|チェルヴェテリの夫婦像形骨壺(530〜520 BCE)/A・カザノヴァ・ムニッキアほか(2026年)|モンテロッツィ墓地のエジプト青と藍銅鉱)
参考資料・出典
- メトロポリタン美術館|エトルリア美術の概要
- メトロポリタン美術館|紀元前1000年以後のイタリア半島の編年
- ヴァチカン美術館|ヴィッラノーヴァ文化の双円錐形骨壺
- メトロポリタン美術館|人物二体を組み合わせた青銅製飾り(256041)
- メトロポリタン美術館|ヴィッラノーヴァ文化の青銅製容器(249233)
- ポッジョ・チヴィターテ考古学調査団|遺構と発掘成果
- マサチューセッツ大学|ポッジョ・チヴィターテ発掘調査
- ユネスコ世界遺産センター|チェルヴェテリとタルクィニアの古代墓地
- チェルヴェテリ・タルクィニア考古学公園|バンディタッチャ墓地
- ヴァチカン美術館|レゴリーニ=ガラッシ墓の埋葬と副葬品
- M・サンニバーレ(2013年)|レゴリーニ=ガラッシ墓の発掘記録・年代・復元
- ヴァチカン美術館|レゴリーニ=ガラッシ墓の黄金胸飾り
- ヴァチカン美術館|レゴリーニ=ガラッシ墓の銀器と銘文
- メトロポリタン美術館|キウージのブッケロ容器(246224)
- メトロポリタン美術館|動物の頭を付けたブッケロ注口容器(249101)
- メトロポリタン美術館|エトルリア=コリント式アンフォラ
- メトロポリタン美術館|ミカリの画家の黒像式アンフォラ(96.9.177)
- メトロポリタン美術館|象牙象嵌を持つモンテレオーネの青銅製戦車
- A・エミリオッツィほか(2011年)|モンテレオーネの戦車・製作年代と再復元
- メトロポリタン美術館(2022年)|エトルリアの建築テラコッタ研究
- メトロポリタン美術館|チェルヴェテリの女性顔形軒飾り
- 国立エトルリア博物館|ウェイイ出土のアポロン像(510〜500 BCE)
- 国立エトルリア博物館|アポロン像とヘラクレス像・彩色・発見状況
- 国立エトルリア博物館|ピュルギの黄金銘板
- 国立エトルリア博物館|1964年の黄金銘板発見と二言語の銘文
- 国立エトルリア博物館|ピュルギ神殿の彩色浮彫(470〜460 BCE)
- 国立エトルリア博物館|ピュルギの浮彫の復元と解釈
- 国立エトルリア博物館|チェルヴェテリの夫婦像形骨壺(530〜520 BCE)
- ルーヴル美術館|チェルヴェテリ出土の夫婦像形棺(520〜510 BCE)
- イタリア文化省|チェルヴェテリの浮彫墓・マトゥナ家
- チェルヴェテリ・タルクィニア考古学公園|浮彫墓の保存と公開
- イタリア文化省|モンテロッツィ墓地の彩色墓室
- イタリア文化財総合目録|占兆師の墓(530〜520 BCE)
- イタリア文化財総合目録|狩猟と漁労の墓(520〜510 BCE)
- イタリア文化財総合目録|豹の墓(480〜470 BCE)
- イタリア文化財総合目録|宴席の墓(480〜470 BCE)
- イタリア文化財総合目録|オルコの墓の複数の時期
- A・ソードほか(2008年)|オルコの墓の顔料と塗装技法の分析
- G・バローネほか(2018年)|タルクィニアの壁画8墓の非破壊顔料分析
- A・カザノヴァ・ムニッキアほか(2026年)|モンテロッツィ墓地のエジプト青と藍銅鉱
- 国立エトルリア博物館(2026年)|フランソワの墓の公開と研究
- J・ニール|フランソワの墓の壁画・人名銘文と歴史解釈
- ヴァチカン美術館|トーディの戦士青銅像とウンブリア語銘文
- メトロポリタン美術館|パリス・ヘレネ・トゥランの銘文を持つ青銅鏡
- メトロポリタン美術館|ペレウスとテティスの青銅鏡
- メトロポリタン美術館|打ち出しと粒金細工による黄金の耳飾り