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1620–1680

ベルニーニとボッロミーニのローマ

彫刻、建築、礼拝堂と都市空間

大理石の彫刻は、どこから見ても同じ形に感じられるでしょうか。ベルニーニの《ダヴィデ》の前に立つと、投石器を引いた青年の視線が、作品の外側にいる敵へ向かっていることに気づきます。鑑賞者は、眼には見えないゴリアテのいる位置へ導かれ、彫像の周りに続く物語を想像することになります。同じローマでボッロミーニが設計した小さな教会へ足を踏み入れると、柱に支えられた壁が曲線を描き、その上の楕円形の天井が光を受けて高く浮かび上がります。見る人の身体がどこにあるかによって、作品の経験が変わるのです。

16世紀のローマでは、ミケランジェロが巨大な大理石像とサン・ピエトロ大聖堂の設計で、人体と建築に並外れた造形力を示しました。その遺産に向き合った17世紀の芸術家は、彫像の動作が周囲に及ぶ範囲や、教会の床から見上げる光と天井の形まで、作品の構想に組み込んでいきました。ミケランジェロから学んだ身体の緊張と、ローマの古代建築に由来する柱やドームの構成が、予想外の組み合わせで使われます。

この時代に活動したジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(1598〜1680年)とフランチェスコ・ボッロミーニ(1599〜1667年)は、現在ともにローマ・バロックを代表する芸術家として知られています。ベルニーニは彫刻、建築、噴水、祭礼空間を統合し、ボッロミーニは限られた敷地の中で壁、柱、天井の幾何学を組み替えました。二人は一時期、同じ大規模事業に関わり、後に異なる注文主と仕事の条件の中で活動しました。

本記事は1620年代のボルゲーゼ家の彫刻から始まり、バルベリーニ家の教皇ウルバヌス8世が推進したサン・ピエトロ大聖堂の造営、聖テレジアの礼拝堂、ボッロミーニのサン・カルロ聖堂とサンティーヴォ聖堂、広場と噴水の整備へ進みます。作品の形に加え、何を目的に作られ、どの場所から鑑賞するのかを確かめ、17世紀ローマの新しい空間表現を具体的に考えます。

教皇都市ローマ――なぜ彫刻と建築が集中したのか

教会、古代遺跡、広場が共存する都市

17世紀のローマは、教皇が宗教的権威を行使する中心であるとともに、教皇領の政治を担う都市でした。サン・ピエトロ大聖堂のような大規模な聖堂と古代ローマの建築遺跡が近接し、枢機卿や修道会は教会、礼拝堂、宮殿を競うように整えました。古代彫刻の収集と研究が盛んであったことも、彫刻家と建築家がローマを目指す理由でした。

都市整備の下地は16世紀末に築かれています。教皇シクストゥス5世は主要聖堂を結ぶ道路を整え、広場や街路の要所に古代のオベリスクを据えました。17世紀の新しい噴水や列柱廊は、巡礼者がどの道を通り、どこで立ち止まるかという都市の経験に働きかけます。彫刻が彫刻だけで、建築が建築だけで完結しない歴史的な環境が存在しました。 (参照:メトロポリタン美術館|バロック期のローマ)

ウルバヌス8世、インノケンティウス10世、アレクサンデル7世

1623年に教皇となったウルバヌス8世はバルベリーニ家の出身で、サン・ピエトロ大聖堂の整備と一族の宮殿を通じて巨大な美術事業を進めました。続くインノケンティウス10世はパンフィーリ家の教皇として、ナヴォーナ広場とその周辺の景観を重視します。1655年に選ばれたアレクサンデル7世はキージ家の出身で、サン・ピエトロ広場の列柱廊などを推進しました。

事業の継続と変更には、信仰上の目的、家門の名誉、都市の整備、資金と技術が関係します。教皇が交代すれば支持される芸術家も変わり、大規模な建築の途中で設計担当者が交代することもありました。両作家の成功と困難を理解するには、個人の才能に加え、この注文制度と政治的な時間の流れを見ることが欠かせません。 (参照:メトロポリタン美術館|バロック期のローマ、ローマ市観光局|バルベリーニ宮殿)

宗教的な目的と見ることの関係

カトリックの教会で彫刻や絵画が作られる際には、主題の聖人や聖書の出来事が重要であるだけでなく、礼拝者が作品に出会う場所も考えられました。祭壇の後ろに置かれる像、横の礼拝堂に据えられる像、長い身廊の終点を飾る作品では、見る距離と視線の高さが違います。自然光が入る窓、儀礼で使われるろうそく、礼拝者の歩く方向も視覚の条件です。

トリエント公会議後のカトリック改革は信仰と宗教画像の役割を重視しましたが、そこで一つの建築様式や彫刻様式が定められたわけではありません。芸術家は依頼された聖人の図像、修道会の礼拝、注文主の意図、敷地の制約に応じて解決策を考えました。ベルニーニの豊かな多色大理石と、ボッロミーニの白い壁が示す違いは、その具体的な選択の中にあります。 (参照:メトロポリタン美術館|バロック期のローマ、ローマ市観光局|サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア聖堂)

ベルニーニの出発点――ボルゲーゼ家と動く大理石

父ピエトロの工房とシピオーネ枢機卿

ベルニーニはナポリに生まれ、彫刻家の父ピエトロとともに若くしてローマで制作を学びました。工房には石材を切り出し、荒彫りをし、形を磨く職人の仕事があり、古代彫刻の研究と実際の制作が結びついていました。1610年代には父子で制作した作品もあり、彫像が完成するまでの技術を身近に学ぶ環境がありました。

重要な後援者となったのが、教皇パウルス5世の甥シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿です。ローマの別荘に絵画や古代彫刻を集めた彼は、若いベルニーニに大型の大理石群像を注文しました。《アイネイアス、アンキセスとアスカニウス》《プロセルピナの略奪》《アポロンとダフネ》《ダヴィデ》は、こうした収集と展示の空間で制作された仕事です。 (参照:メトロポリタン美術館|ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、ローマ市観光局|ベルニーニの作品を訪ねる)

《プロセルピナの略奪》――指が皮膚へ食い込む

《プロセルピナの略奪》(1621〜1622年、ボルゲーゼ美術館)は、冥界の神プルートーがプロセルピナを連れ去る神話を描いた大理石像です。プルートーは相手の身体を力ずくで抱え、プロセルピナは顔を背け、片腕を伸ばして抵抗します。彼女の頬を伝う涙、開いた口、踏ん張ろうとする脚によって、捕らえられた瞬間の恐怖が表されています。古代神話の略奪を、双方の身体がぶつかる具体的な暴力として見せています。

最も有名な細部は、プルートーの指がプロセルピナの太腿と腰へ沈み込むように彫られた部分です。硬い大理石の表面に深い凹みと柔らかな起伏を作り、指が生身の肉を押す錯覚を生みます。顔の表情、髪、皮膚、筋肉の質感を変えることが、神話の意味を観客に伝える手段になっているのです。この作品の制作にはシピオーネからの支払い記録も残り、1621年の注文が確認できます。 (参照:ボルゲーゼ美術館|《プロセルピナの略奪》作品目録)

《アポロンとダフネ》――変身が進む一瞬

《アポロンとダフネ》(1622〜1625年、ボルゲーゼ美術館)はオウィディウス『変身物語』に由来します。アポロンの求愛から逃れるダフネが父の力で月桂樹へ姿を変える場面です。アポロンは片脚を地面につけたまま走り込み、ダフネの腰へ手を伸ばします。彼女は上体を反らして振り返り、足先は樹木の根となり、指先と髪は葉や小枝へ変わり始めています。

鑑賞者の眼は、アポロンの走る脚から伸ばした指、ダフネのひねった上半身を経て、宙へ広がる枝葉へ移ります。身体が石から植物へ変わる部分では、肌と樹皮の境界を丁寧に彫り分け、変化の途中を目に見える形にしました。所蔵館は、当初この像が礼拝堂に隣接する部屋の壁側に、現在より低い台座で置かれていたと説明しています。今日の展示位置をそのまま制作当時の鑑賞条件と考えず、部屋の入り方や像との距離を想像すると、造形の工夫が見えてきます。 (参照:ボルゲーゼ美術館|《アポロンとダフネ》作品目録、ボルゲーゼ美術館|《アポロンとダフネ》展示室の歴史)

《ダヴィデ》――見えない敵に向けられる身体

《ダヴィデ》(1623〜1624年、ボルゲーゼ美術館)は、旧約聖書の青年が巨人ゴリアテへ石を投げる直前の姿です。体重を支える脚、強くねじれた胴体、引き絞った腕、歯を食いしばる顔が、一つの行為へ集まっています。地面には王サウルから与えられた鎧と竪琴が置かれ、竪琴を飾る鷲には注文主ボルゲーゼ家の象徴が読み取れます。

ミケランジェロの《ダヴィデ》が敵と戦う前の緊張を直立する全身へ蓄えたとすれば、ベルニーニの像では投石器の先が彫像の外へ向かい、動作が観客のいる空間へ延びます。ボルゲーゼ美術館は、当初壁を背に置く配置を想定していたと記しています。正面から彫像の目線を追うと、その先にゴリアテがいるように感じられ、見えない相手が作品の空間を完成させます。 (参照:ボルゲーゼ美術館|《ダヴィデ》作品目録)

四つの初期群像が示した異なる時間

《アイネイアス、アンキセスとアスカニウス》は三世代の人物が滅びゆくトロイアから脱出する神話、《プロセルピナの略奪》は二人の力が衝突する場面、《アポロンとダフネ》は人体が樹木に変化する瞬間、《ダヴィデ》は放たれる直前の石に向けて身体が引き絞られる場面を描きます。それぞれの群像で、ベルニーニは人物の関係と時間の表し方を変えています。

これらの作品を「動きのある彫刻」という言葉だけでまとめると、見るべき細部を見落とします。人物が誰の方向へ向かうのか、手は相手の身体のどこへ触れているのか、力を受ける側の表情はどう変わるのか。大理石の扱いと視線の方向から考えると、彫像を見る人が物語の位置を自分で補う仕組みがよく分かります。 (参照:ボルゲーゼ美術館|《プロセルピナの略奪》作品目録、ボルゲーゼ美術館|《アポロンとダフネ》作品目録、ボルゲーゼ美術館|《ダヴィデ》作品目録)

肖像彫刻――人が話し始める瞬間

《シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿胸像》の視線と口元

1632年に制作された《シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿胸像》(ボルゲーゼ美術館)は、衣装のボタンや布の厚みを精密に表しながら、今まさに誰かに話しかけるような顔をとらえています。頭は少し横へ向き、唇がわずかに開きます。枢機卿の地位を示す正式な肖像でありながら、対話の途中を切り取ったかのような即時性があります。

胸像の前で見る場所を変えると、顔の角度に応じて相手が話している方向まで想像されます。衣服の折れ目の奥行き、顎の下へ落ちる影、口元の小さな開きが、ひとつながりの存在感を作ります。ベルニーニは大理石像に動作だけでなく、表情の変化が起こる寸前の時間を彫り込んだのです。 (参照:ボルゲーゼ美術館|《シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿胸像》作品目録)

二つの胸像と記録の読み方

この肖像には非常によく似た二つの大理石胸像が残されています。所蔵館によれば、最初の像の額付近に石材の欠陥によるひびが見つかり、ベルニーニは別の像を作りました。二作を見比べると、顔の向きや肩の形、衣装の皺の細部が異なります。単なる機械的な複製ではなく、同じ人物を短期間に観察し直したような違いが見られます。

17世紀末から18世紀初頭に書かれた伝記には、数日や十数夜という驚異的な短さで二作目を作ったとする逸話があります。伝記ごとに日数が違うため、正確な制作期間を確定した史料として扱うには慎重さが必要です。美術館の研究目録は作品の表面、来歴、当時の記録を整理しており、伝説的な技巧の物語と実際の作品比較を分けて読む手がかりになります。 (参照:ボルゲーゼ美術館|《シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿胸像》作品目録、ボルゲーゼ美術館|シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿胸像の複製)

サン・ピエトロ大聖堂――巨大空間を結ぶ彫刻と建築

ミケランジェロの大聖堂に何を加えるのか

サン・ピエトロ大聖堂は、ルネサンスの長い計画と工事を経て17世紀に完成へ近づきました。ミケランジェロの構想を受け継ぐ巨大なドームと、カルロ・マデルノによって延長された身廊や正面があり、教皇の重要な儀礼が行われる場所でした。広大な空間の中で礼拝者はどこに目を向けるべきか。主祭壇、使徒ペテロの墓、奥の司教座を視覚的につなぐ仕事が求められました。

ベルニーニの大聖堂内での活動は、壁や柱の外観を飾る仕事にとどまりません。天蓋、聖人像、教皇墓、後陣の記念物は、それぞれ聖堂内を歩く人の視線を制御します。遠くの祭壇を見た後に大きな青銅の柱が現れ、さらに奥には光の中で司教座が浮かび上がる。この連続した経験に注目すると、個々の作品が大聖堂の規模に応じて構想されたことが分かります。 (参照:メトロポリタン美術館|ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、サン・ピエトロ大聖堂|ベルニーニとバルベリーニ家の美術)

《バルダッキーノ》――約束された祭壇の場所

《バルダッキーノ》(1620年代から1630年代、サン・ピエトロ大聖堂)は、ウルバヌス8世のもとでベルニーニが設計した主祭壇上の青銅製天蓋です。四本のねじれた柱が高く伸び、金色の装飾や布のような形が頭上の天蓋を支えています。通常なら布で作られる行列用の覆いや儀礼の天蓋が、恒久的な建築彫刻へ変えられたように見えます。

主祭壇はペテロの墓と結びつく場所に位置します。遠くから身廊を進む礼拝者にとって、黒みを帯びた柱と金色の装飾は巨大な大聖堂の中で祭壇を見失わない目印になります。柱がねじれた形を取ることで、建築の直線的な柱列とは異なる動きが生まれ、儀礼の中心を取り囲む印象が強められます。制作には多くの職人が関わり、記念物と建築の境界を横断する長期の仕事となりました。 (参照:サン・ピエトロ大聖堂|天蓋《バルダッキーノ》、メトロポリタン美術館|ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、サン・ピエトロ大聖堂|ベルニーニとバルベリーニ家の美術)

四隅の像と《聖ロンギヌス》

大聖堂の交差部を支える巨大な柱には聖遺物や聖人に関わる装飾が設けられ、ベルニーニの《聖ロンギヌス》もその一つです。ロンギヌスは磔刑のキリストの脇腹を槍で刺したと伝えられる人物として知られます。像は腕を大きく開き、衣が複雑なひだを作って広がります。見上げる人には、身体を覆う布まで強い感情に反応しているように感じられます。

教会の内部で巨大な彫像を見るとき、近くで確認できる髪や指の細部と、離れて認識する全身の動きには違いがあります。ベルニーニは建築の柱の大きさに合わせ、遠くからでも分かる腕の開きと布の輪郭を利用しました。顔の感情や身体の方向は、一体の像として独立しているとともに、聖堂の中央部に集まる視線の一部になっています。 (参照:サン・ピエトロ大聖堂|ベルニーニとバルベリーニ家の美術、メトロポリタン美術館|ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ)

《聖ペテロの司教座》――後陣を満たす光

ベルニーニの《聖ペテロの司教座》(1650年代半ば〜1666年、サン・ピエトロ大聖堂)は、使徒ペテロに結びつけられてきた古い木製の椅子を納める壮大な記念物です。金色に輝く青銅の司教座を四人の教会博士の巨像が支え、その上方には天使と雲、金色の光線が広がります。最上部の窓に描かれた鳩は聖霊を示し、自然光が内部へ入り込むことで彫刻の輝きが変わります。

大聖堂の身廊から見ると、手前には主祭壇の天蓋、さらに奥には司教座が見えます。二つの巨大な装置は別々に存在しながら、長い軸線によって一つの視覚的な関係に置かれます。所蔵・管理機関の公式資料は、木製の司教座が古代から中世にかけて成立した構成を持ち、青銅製の記念物が1666年に完成したことを詳しく説明しています。光の意味を考える際には、聖霊を示す鳩の図像と実際に窓から入る光を合わせて見るとよいでしょう。 (参照:サン・ピエトロ大聖堂|聖ペテロの司教座、メトロポリタン美術館|ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ)

教皇墓――権威と死を同時に見せる

ベルニーニはウルバヌス8世の墓碑や晩年のアレクサンデル7世の墓碑にも関わりました。教皇の姿は祈る人々の記憶に残り、同時にすべての人間が死を迎えるという宗教的な主題とも結びつきます。身分を示す礼服や紋章、寓意像、色の異なる石材は、人物の栄誉を語ると同時に、墓を教会の礼拝空間に置く意味を作ります。

大理石や青銅を用いた墓碑は、人物像を作るだけでは完成しません。壁の窪みと祭壇の位置、彫像が重なる高さ、見る人が墓碑を横切る時の角度が、その意味を左右します。ベルニーニの墓碑を見ると、宗教的な祈りと教皇家の政治的記憶が、建築の中の一つの場所を共有していることが分かります。 (参照:メトロポリタン美術館|ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、サン・ピエトロ大聖堂|ベルニーニとバルベリーニ家の美術)

《聖テレジアの法悦》――礼拝堂全体を一つの場面にする

コルナーロ家の礼拝堂と聖女テレジア

ローマのサンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア聖堂には、ベルニーニが1647〜1652年に整えたコルナーロ礼拝堂があります。注文主のフェデリコ・コルナーロ枢機卿とその家族の記憶を残す礼拝空間で、中心には聖テレジアと天使の大理石彫刻が置かれました。聖女テレジアは16世紀スペインのカルメル会改革に関わった修道女で、自らの宗教体験を文章に記した人物です。

彫刻の主題となったのは、天使が心臓を燃える矢で貫くように感じたという霊的な体験です。テレジアの著作では痛みと喜びが深く結びついた経験として記述されます。ベルニーニは人物の表情や衣服の形に加え、神秘的な出来事を見つめる観客を礼拝堂に組み込む構想を作りました。宗教的な伝記、注文主の家門、建築と彫刻の配置が、ひとつの事業として重なっています。 (参照:ローマ市観光局|サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア聖堂、メトロポリタン美術館|ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ)

天使の矢、閉じた瞼、重力を失う衣

中央の聖テレジアは雲のような台の上に横たわり、頭を後ろへ傾け、目を閉じ、口をわずかに開いています。横に立つ天使は柔らかな笑みを浮かべ、細い矢を手にしています。テレジアの衣服は深い溝を伴う大きなひだを作り、胴体の輪郭をほとんど覆い隠します。顔と手の小さな露出した部分に比べ、布の動きは極端に大きく、身体が通常の重力から離れているような印象を与えます。

彫像に接近した視線だけでは、表情の意味がつかみにくい部分もあります。礼拝堂の入口から見ると、明るい大理石像は濃い色の柱や壁に囲まれて浮かび上がり、その背後には金色の光線が扇状に伸びています。光を受ける白い肌と波打つ布、背後の金属光沢が重なり、体験の性質を説明する文章を読まなくても、尋常ではない出来事の最中であることが伝わります。 (参照:ローマ市観光局|サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア聖堂、メトロポリタン美術館|ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ)

隠れた窓と色大理石の壁

彫刻を照らす自然光は、正面から見えにくい高い位置の開口部によって取り入れられています。建築の窓を単なる採光設備として扱うなら、光を浴びた石の表情だけを考えることになるでしょう。ここでは光の入口を隠すことで、白い彫刻が自ら輝いているような印象が生まれます。金色の放射状の線も、その明るさを目で追わせる仕組みです。

礼拝堂の柱と壁には複数の色をもつ石材が組み合わされ、中央彫刻の白さが強調されます。石材の色と光沢、建築の枠組み、隠れた採光窓を連携させた点で、作品は彫刻、建築、装飾の境界を横断しています。写真で中央群像だけを見る機会が多い作品ですが、現地では左右の壁や天井、床から見上げる位置を含めて鑑賞すると構想がよく分かります。 (参照:ローマ市観光局|サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア聖堂、メトロポリタン美術館|ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ)

左右の観客席――コルナーロ家の人物像

中央の出来事を挟む左右の壁には、コルナーロ家の人物たちが浅い区画から顔や身体を見せています。彼らは劇場の観客席を思わせる空間で、互いに話し、中央の聖女へ注意を向けているように見えます。彫像で表された一族の人物、礼拝堂を実際に訪れる人、聖女の宗教的な体験が、同じ部屋の中に並びます。

こうした演出は宗教的な出来事を単なる娯楽へ変えるために存在したのではありません。礼拝者が自らの立つ場所から中央像を眺め、礼拝堂に置かれた一族の像と同じ場面を共有するための設計です。左右の人物像を中央の群像と切り離さず、互いの視線と距離を結んで見ることで、ベルニーニが作品全体を一つの礼拝空間として作ったことが分かります。 (参照:ローマ市観光局|サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア聖堂、メトロポリタン美術館|ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ)

噴水と広場――都市を歩く人々への働きかけ

《トリトンの噴水》――水が彫刻を完成させる

ベルニーニがバルベリーニ広場に設計した《トリトンの噴水》(1642〜1643年)は、大きな貝の上に立つ海の神トリトンが巻き貝を吹く姿を示しています。下部では尾を交差させた四頭のイルカが台を支え、中央に空いた部分から上方へ構成が伸びます。水はトリトンが口に当てた貝から噴き出して落ち、彫られた姿と実際に動く水が一体になります。

この噴水を見る際には、石材に刻まれた筋肉や鱗の細部だけでなく、流れる水が作る弧と音にも注目できます。噴水は同じ形を保ちながら、水量や光によって見え方が変わります。ウルバヌス8世のバルベリーニ家を示す紋章の要素も取り入れられ、街の生活を支える水道施設が、教皇家の存在を示す公共彫刻にもなりました。 (参照:メトロポリタン美術館|ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、ローマ市観光局|《トリトンの噴水》)

《四大河の噴水》――岩、オベリスク、四つの大陸

ナヴォーナ広場の《四大河の噴水》(1648〜1651年)は、教皇インノケンティウス10世のために制作されました。中央には岩山のような台座と古代のオベリスクが立ち、その四方に巨大な人物像が配置されています。ドナウ川はヨーロッパ、ガンジス川はアジア、ナイル川はアフリカ、ラプラタ川はアメリカ大陸を表します。各人物の周囲にはその土地を連想させる動物や植物が加えられ、世界を一つの広場に集めた構想です。

岩山の中央には空洞があり、重いオベリスクが石の塊の上へ軽々と置かれたように感じられます。水が岩間から流れ、四人の身体はそれぞれ異なる方向へ向かいます。広場を横切る観客は歩くにつれて異なる河川像と向き合い、一つの正面に固定されない彫刻を経験します。公式資料によればベルニーニの構想の下で多数の彫刻家と職人が制作し、1651年6月12日に公開されました。 (参照:ローマ市観光局|《四大河の噴水》、メトロポリタン美術館|ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ)

図像が語る世界認識と教皇家の権威

四つの河川像は、当時のヨーロッパで知られていた四つの大陸を表す寓意です。アフリカを象徴するナイルの頭部に布が掛けられているのは、当時、源流がよく知られていなかったことを示すと説明されます。オベリスクの上にはパンフィーリ家を示す鳩が置かれ、都市と世界を象徴する装飾を、注文した教皇の権威へ結びつけています。

こうした世界の描かれ方には、ヨーロッパの地理的知識と政治的な視線が反映されています。人々が当時何を知り、何を知らなかったかを確かめることは、噴水の彫像を読むうえで重要です。また、ラプラタ川の像が向かいのサンタニェーゼ聖堂の崩壊を恐れて手を挙げているという逸話は、制作年代から成立しません。噴水の公開はボッロミーニがその聖堂を手がける前でした。 (参照:ローマ市観光局|《四大河の噴水》、ローマ市観光局|サンタニェーゼ・イン・アゴーネ聖堂)

都市の動線――広場から橋へ

広場の噴水は、宮殿に収蔵された彫像や教会の祭壇画と違い、人々が繰り返し通り過ぎる場所にあります。ナヴォーナ広場では教皇家の宮殿、教会、噴水が視野に入ります。橋や街路では、どこから歩いて来たかによって、彫刻が最初に見える方向が変わります。彫像が外部空間の一部になったとき、周囲の建物や空の明るさが作品の印象を左右します。

17世紀後半に整えられたサンタンジェロ橋では、キリストの受難に関わる器物を持つ天使像が連なり、巡礼者の歩く道筋に宗教的な図像が置かれました。全体構想にはベルニーニが関わり、複数の弟子が制作を担いました。像を一体ずつ間近に眺める行為と、川の上の道を進みながら順に見る経験が、同時に設計されています。 (参照:ローマ市観光局|サンタンジェロ橋、メトロポリタン美術館|ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ)

ボッロミーニの歩み――彫刻的な建築への道

石工の技術とカルロ・マデルノのもとでの仕事

フランチェスコ・ボッロミーニは1599年に現在のスイス南部にあたるティチーノ地方で生まれました。建築や石工の伝統をもつ環境からローマへ進み、カルロ・マデルノと関係の深い仕事場で建築の図面や細部の制作に携わりました。彫刻家として早くから名声を得たベルニーニと比べ、ボッロミーニの出発点には、建物を寸法や石材の加工によって形にする仕事がありました。

ローマでは、既存の建築を増築するために古い壁と新しい壁の位置を調整し、敷地の端や隣接する建物に応じて計画を組み立てる必要がありました。ボッロミーニの後の作品で、壁の厚さや角の処理、柱の曲率に細心の注意が払われる背景には、実際の建築現場で身につけた技術を見ることができます。 (参照:ローマ市観光局|ボッロミーニの建築を訪ねる)

二人が同じ仕事場にいた時期

1629年にマデルノが亡くなると、ベルニーニはバルベリーニ家の大規模な建築事業を引き継ぎ、ボッロミーニもその仕事に関わりました。サン・ピエトロ大聖堂の《バルダッキーノ》やバルベリーニ宮殿など、同じ計画の中に両者の名前が現れます。後世にはライバルとして対比されがちな二人ですが、作品が成立する現場には共同作業の時期があったのです。

建築では一つの部分を誰が最初に考え、誰が設計を修正し、誰が現場で実現したかを区別することが難しい場合があります。バルベリーニ宮殿の公式解説は、ベルニーニとボッロミーニが携わった部分の帰属についても研究上の議論があると説明しています。二人の仕事を考える際には、記録に残る関与と、後に伝えられた敵対関係の逸話を整理して読むことが必要です。 (参照:ローマ市観光局|バルベリーニ宮殿、ローマ市観光局|ボッロミーニの建築を訪ねる)

バルベリーニ宮殿の二つの階段

バルベリーニ宮殿の正面から内部へ入ると、広い空間を中心にして異なる形の階段が設けられています。ベルニーニに結びつけられる大きな四角い階段は、直線的で見通しのよい上り方を示します。もう一つの螺旋階段は楕円形の平面を持ち、曲線に沿って身体が進みます。後者は一般にボッロミーニの設計に帰されますが、所蔵館の説明にも帰属上の慎重な表現が見られます。

階段は建築を眺める場所であると同時に、そこを実際に移動する装置です。四角い階段では水平と垂直の骨格を把握しやすく、楕円の螺旋階段では上りながら柱と光の角度が少しずつ変わります。同じ宮殿にある二つの階段を比較すると、建築が人体の移動に与える影響を具体的に感じ取れます。 (参照:ローマ市観光局|バルベリーニ宮殿、ローマ市観光局|ボッロミーニの建築を訪ねる)

サン・カルロ聖堂――小さな敷地を動きのある空間に変える

スペイン系三位一体修道会と限られた土地

ボッロミーニの代表作サン・カルロ・アッレ・クアットロ・フォンターネ聖堂は、ローマのクイリナーレ付近に建つ小さな教会です。注文主はスペイン系の跣足三位一体修道会で、修道院の建物と教会を限られた街区に納める必要がありました。建物の整備は1630年代から始まり、聖堂本体は1638〜1640年代初頭にかけて作られ、正面などの工事は晩年まで続きます。

教会へ入る前に敷地の小ささを知っておくと、内部の空間構成がより印象的になります。広い正面玄関や長大な身廊を確保できない条件の中で、ボッロミーニは柱と壁の曲線を組み合わせ、小さな室内に複数の方向への広がりを作りました。困難な敷地条件が発明の出発点になった事例です。 (参照:ローマ市観光局|サン・カルロ・アッレ・クアットロ・フォンターネ聖堂、ローマ市観光局|ボッロミーニの建築を訪ねる)

楕円の内部と、曲がり続ける壁

内部へ入ると、柱が壁の手前に連続して並び、全体を楕円に近い形へまとめています。壁は内側へ膨らんだり、奥へ引かれたりしながら移動し、正面の祭壇と左右の空間が緩やかにつながります。柱の上を走る水平の帯も、その曲線に沿って折れ曲がります。平面図では複雑な曲線の集合に見えても、床に立つ人には一つながりの部屋として感じられます。

見上げる際に、まず一本の柱の根元から上端まで視線を運び、その上に乗る帯を左右へ追ってみるとよいでしょう。帯が部屋の周囲を巡ることで、壁と天井の境界が一続きになっていることが分かります。柱が直立しているのに壁は曲がり、丸みを帯びた空間へ視線が導かれる。この組み合わせは、古典的な柱の形式を独自の空間計画へ組み直したものです。 (参照:ローマ市観光局|サン・カルロ・アッレ・クアットロ・フォンターネ聖堂)

格天井の八角形、六角形、十字形

サン・カルロ聖堂の天井は楕円形のドームで、内部には八角形、六角形、十字形などの小さな区画が並びます。区画の形と大きさは上へ進むほど変わり、頂部の採光部へ視線が吸い寄せられます。白い漆喰の表面に差し込む光が、区画の凹凸へ細かな影を作り、天井の厚みと高さを感じさせます。

頂部へ向かって模様が小さくなる構成には、奥行きを強く感じさせる視覚効果があります。絵画の遠近法が平面上に空間を描く方法であるのに対し、ここでは実際に存在するドームの表面に幾何学の模様を配置して見え方を調整しています。床の同じ位置から首を少し動かすだけでも、曲がった天井と光が別の表情を示します。 (参照:ローマ市観光局|サン・カルロ・アッレ・クアットロ・フォンターネ聖堂)

正面の凹凸と未完の仕事

通りに面したサン・カルロ聖堂の正面では、中央の壁がふくらみ、別の部分が奥へ引き込まれるように形を変えます。古典的な柱や円柱の間、壁龕、曲がった水平の帯が重なり、石造の正面そのものが波打つような印象を与えます。中央には聖カルロ・ボッロメーオの像が置かれ、建物の宗教的な主題が示されています。

ボッロミーニは晩年に正面の仕事へ戻り、1667年に亡くなった時点では建設が続いていました。作品を一度に完成した発想とみなすと、建築の制作に伴う長い時間が見えにくくなります。内部の空間、修道院の中庭、街路側の正面は、異なる段階と条件のもとで整えられました。こうした制作過程そのものが作品の歴史です。 (参照:ローマ市観光局|サン・カルロ・アッレ・クアットロ・フォンターネ聖堂、ローマ市観光局|ボッロミーニの建築を訪ねる)

サンティーヴォ聖堂――幾何学と光が上昇する

大学の中庭に置かれた教会

サンティーヴォ・アッラ・サピエンツァ聖堂(1642〜1660年)は、かつてのローマ大学サピエンツァの中庭奥に建てられました。中庭はすでに整備が進んでおり、ボッロミーニは既存の壁や正面の構成と調和させながら教会を設計する必要がありました。狭い街路から直接巨大な建物を見るのではなく、長方形の中庭を通して正面とドームへ近づく経験が設計の前提にあります。

中庭の柱廊は繰り返される水平の線によって広がりを作り、その奥の教会は曲線の壁と高く伸びる屋根によって視線を上へ導きます。建物を単独で切り取った写真では分かりにくい関係です。奥へ向かう通路としての中庭と、到着点としての聖堂を連続して観察すると、ボッロミーニが既存の空間を生かして新しい形を加えたことが見えてきます。 (参照:ローマ市観光局|サンティーヴォ・アッラ・サピエンツァ聖堂)

六芒星に近い平面と曲線の連続

聖堂の平面には三角形を組み合わせた六つの角の構成が用いられ、凹面と凸面の曲線によって壁が連続します。外側へ張り出す部分と内側へ引き込む部分が交互に現れるため、床の中心に立つと空間がいくつもの方向へ広がるように感じられます。形の複雑さは、単に珍しい平面図を作るためのものではなく、壁、柱、上部の天井をつなぐために働いています。

三角形はキリスト教の三位一体を連想させ、幾何学の構成には宗教的な図像としての読み方もあります。同時に、建築が実際の敷地や構造に応えた技術的な解決であることにも注意したいところです。上から見た設計図と、床に立った人が見上げる空間の印象を行き来することで、ボッロミーニの幾何学が建物全体に及んでいることが理解できます。 (参照:ローマ市観光局|サンティーヴォ・アッラ・サピエンツァ聖堂、ローマ市観光局|ボッロミーニの建築を訪ねる)

ドームから螺旋状の頂部へ

サンティーヴォ聖堂の内部では、壁の曲線が上へ伸び、白いドームの区分へ連続します。細い柱や壁の折れ目が上昇する方向を作り、頂部からの光がその流れを強めます。外へ出て中庭から見上げると、ドームの上に独特の螺旋状の塔が立ち上がり、建物の輪郭が空へ向かって伸びるように感じられます。

頂部の形を特定の一つの象徴へ還元する解釈には慎重さが必要です。ローマ市の公式解説では、三角形、バルベリーニ家の蜂、鳩などの図像と、建物の幾何学的な仕組みが説明されています。重要なのは、象徴の意味を探すことと同じくらい、下の平面からドーム、採光部、螺旋へ視線がどのように移るのかを具体的に見ることです。 (参照:ローマ市観光局|サンティーヴォ・アッラ・サピエンツァ聖堂)

白い内装は何を可能にしたか

サンティーヴォとサン・カルロの内部には明るい白が広く使われています。塗り分けられた絵画が壁面を覆う代わりに、柱の陰、壁の緩やかな湾曲、窓からの光が空間を表情豊かにします。石や漆喰の微妙な凹凸が読み取りやすくなり、建築の形そのものが見る人の注意を集めます。

白く仕上げることは装飾を単純に省く行為ではありません。窓の位置、壁の厚さ、模様の大きさを緻密に整えた結果として、光の明暗がはっきりと見えるようになります。ベルニーニのコルナーロ礼拝堂では色大理石と金色の線が光の劇的な効果に関わりました。ボッロミーニの教会では、建築そのものの曲面が明暗を受け止め、歩く人に少しずつ違う空間を感じさせます。 (参照:ローマ市観光局|サン・カルロ・アッレ・クアットロ・フォンターネ聖堂、ローマ市観光局|サンティーヴォ・アッラ・サピエンツァ聖堂)

ボッロミーニの建築は教会の外にも広がった

オラトリオ・デイ・フィリッピーニ――煉瓦で作る正面

フィリッポ・ネリに由来するオラトリオ会の施設として建設されたオラトリオ・デイ・フィリッピーニは、1637年の設計競技を経てボッロミーニが携わった建築です。修道院や集会のための建物を含み、街路に面した正面では煉瓦の壁が緩やかに凹凸します。石を豪華に積み重ねることができなくても、壁の形と窓の並び方によって人を迎える表情を作れることが示されています。

正面の下層では中央が前へ出て、上層では奥へ引き込まれるように見えます。柱に似た壁の区切りと横に走る帯、曲面の光と影が、建築の動きを生みます。ローマ市はこの正面を、信徒を迎える腕のような形と説明しています。見る側の想像を支える比喩であるとともに、実際の凹凸や入口の位置を確かめる手がかりにもなります。 (参照:ローマ市観光局|オラトリオ・デイ・フィリッピーニ)

スパーダ宮殿――九メートルの廊下が遠く見える理由

ボッロミーニが枢機卿ベルナルディーノ・スパーダのために作ったスパーダ宮殿の遠近法廊下(1652〜1653年頃)は、長い列柱が奥へ続いているように見える建築です。実際の長さは約九メートルで、床は奥へ上がり、左右の壁は内側へ近づき、柱の高さも徐々に小さくなります。観客が決まった位置から見ると、線が遠方へ収束するように感じられ、距離が実際より大きく見えます。

ここにはルネサンス以来の線遠近法の研究が、実際の建築材料を用いた錯視として応用されています。絵画では平らな画面に消失点を設定しますが、この廊下では床や柱そのものが目の錯覚に参加します。入口の方向から見ると奥行きが強調され、別の角度から見ると計算された縮小が分かります。人がどこから見るかを建築の一部として組み込んだ、分かりやすい実例です。 (参照:ローマ市観光局|スパーダ宮殿)

信仰弘布省宮殿――窓の位置で壁面に動きをつくる

信仰弘布省宮殿は、教会の宣教活動に関わる組織のために整えられた建築です。広場側ではベルニーニが1640年代前半に設計した正面があり、別の通りに面する側ではボッロミーニが設計に関わりました。ボッロミーニの正面には大きな壁柱と形の異なる窓が繰り返され、比較的狭い通りの中で壁が立体的に感じられます。

ここでの建築表現は、広い広場で建物を見渡す場合とは条件が違います。近い距離から見上げると、窓枠の重なりや壁のわずかな前後関係が強く現れます。内部の「三王礼拝堂」もボッロミーニが設計し直し、矩形の空間に交差する曲線の天井を組み合わせました。ローマ市の資料は1662年の街路側正面と1666年の礼拝堂の工事を記録しています。 (参照:ローマ市観光局|信仰弘布省宮殿、ローマ市観光局|ボッロミーニの建築を訪ねる)

サンタニェーゼ・イン・アゴーネ――広場と建物の関係

ナヴォーナ広場に面するサンタニェーゼ・イン・アゴーネ聖堂は、教皇インノケンティウス10世のもとで1652年に建設が始まりました。最初の設計にはカルロとジローラモのライナルディ父子が携わり、その後1653〜1657年にボッロミーニが事業を引き継いで重要な変更を加えます。大きなドームの下では正面の壁が内側へ曲がり、左右には鐘楼が伸びます。

教会を広場から見ると、中央の凹んだ正面が奥のドームを強調し、周囲の建物と噴水の間に視線の通り道を作っています。広場の中心にある《四大河の噴水》は1651年に完成しており、ボッロミーニが聖堂を担当する前から存在しました。現存する建物は複数の設計者と長い工期によってできたもので、建築史を一人の作者名だけで語る難しさを示しています。 (参照:ローマ市観光局|サンタニェーゼ・イン・アゴーネ聖堂、ローマ市観光局|《四大河の噴水》)

ベルニーニの教会建築――楕円形を別の方法で使う

サンタンドレア・アル・クイリナーレの建設

ベルニーニが設計したサンタンドレア・アル・クイリナーレ聖堂は、1650年代末から1670年頃にかけて整えられたイエズス会の教会です。クイリナーレの街路に面した敷地で、外側に曲面を使い、内部には楕円形の平面を採用しました。サン・カルロ聖堂と近い地域にあり、二つの建物を見比べると、同じ幾何学的な形が異なる宗教空間へ使われたことがよく分かります。

サンタンドレアの楕円は、入口から主祭壇へ進む方向に対して横へ広がる向きで配置されています。入ってすぐに視界が左右へ開き、壁に沿って小礼拝堂が並びます。建物は小規模でも、色大理石、祭壇画、彫刻、ドームを組み合わせて、中央の祭壇へ視線を集める構成が成立しています。 (参照:ローマ市観光局|サンタンドレア・アル・クイリナーレ聖堂、ローマ市観光局|ベルニーニの作品を訪ねる)

殉教から天上への移行を導く視線

主祭壇には聖アンデレの殉教を描く絵画が置かれ、その上部では聖人の天上への移行を示す彫像的な装飾が展開します。礼拝者は祭壇画に描かれた地上の出来事を見た後、上方の金色の装飾とドームへ視線を移します。物語が床に近い部分から天井へ向かって進むように感じられる仕組みです。

ドームには窓があり、時間によって内部の明るさが変化します。ここでは楕円の形を使うことが、空間の動きだけでなく、宗教的な物語の順序を表す方法にもなっています。ボッロミーニのサン・カルロでは柱と白い曲面の連続が目立ち、サンタンドレアでは色彩と図像の重なりが強く働きます。同じ「楕円形の教会」という言葉の内側に、異なる設計上の選択が見えるのです。 (参照:ローマ市観光局|サンタンドレア・アル・クイリナーレ聖堂、メトロポリタン美術館|ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ)

二つの楕円を現地で比べる

サン・カルロとサンタンドレアを比較する際、まず入口から祭壇までの距離と、左右の壁までの距離を意識すると分かりやすくなります。前者では複雑な凹凸の壁が歩く人の周囲を連続して包み、後者では入口から主祭壇へ向かう視線が、楕円の幅の広い部分を横切ります。柱の連なりや祭壇の置き方が、身体の位置の感じ方を変えています。

天井を見上げるときも違いがあります。ボッロミーニは白い幾何学的な模様の縮小と採光によって奥行きを感じさせ、ベルニーニは彫刻と色彩、上方の光を組み合わせて宗教的な場面へ注意を向けます。どちらが「よりバロック的か」と順位を付けるより、空間をまとめるためにどんな要素が用いられたかを確かめる方が、作品の理解につながります。 (参照:ローマ市観光局|サン・カルロ・アッレ・クアットロ・フォンターネ聖堂、ローマ市観光局|サンタンドレア・アル・クイリナーレ聖堂)

サン・ピエトロ広場――大聖堂の外側に広がる設計

アレクサンデル7世の列柱廊

1656年、教皇アレクサンデル7世のもとで、ベルニーニにサン・ピエトロ大聖堂前の広場の設計が依頼されました。最初の案は修正を重ね、1650年代末に現在の列柱廊の構想が定まり、工事は1667年まで続きます。大聖堂へ向かう広場を大きく包む二つの湾曲した列柱と、その前方につながる直線的な部分が、建物と都市を結びつけました。

ヴァチカンの公式資料では、列柱廊に284本の柱と88本の角柱が用いられ、四列に組まれたことが説明されています。広場の上部には多数の聖人像が並びますが、現存するすべての像が列柱廊と同年に完成したわけではありません。聖人像の制作は18世紀初頭まで続きました。列柱廊という建築と、その上を飾る彫刻の工期を分けて理解すると、巨大事業の規模が分かります。 (参照:ヴァチカン|サン・ピエトロ広場の列柱廊、メトロポリタン美術館|ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ)

列柱が一本に重なる地点

サン・ピエトロ広場では、柱の列を斜めから見ると多くの柱が重なり、奥行きのある森のように感じられます。地面に示された二つの円形の目印は、それぞれ湾曲した列柱の中心点です。その上に立って眺めると、四列の柱が同じ方向に重なり、一列の柱しかないように見えます。

この体験は、平面の幾何学を都市の中で身体を使って確かめられる例です。建築家が柱の位置を計算し、見る人が特定の地点に立つことで、複雑な立体の構成が明確になります。ボッロミーニのスパーダ宮殿では遠近法を用いて廊下を長く見せました。ベルニーニの広場でも、地面を歩く人の位置が建築の見え方を決めています。 (参照:ヴァチカン|列柱廊の中心点と視覚効果、ヴァチカン|サン・ピエトロ広場の列柱廊)

「抱く腕」という比喩と実際の使われ方

列柱廊の形は、教会が人々を迎える両腕のようだと説明されてきました。ヴァチカンの公式資料にも、カトリックの信徒だけでなく、教会への帰属を求められた人々に向けて腕を開くという、当時の宗教的な意味が紹介されています。この比喩は都市の空間を説明する言葉として分かりやすく、同時に17世紀の教会が自らの権威と普遍性をどのように示そうとしたかを物語ります。

列柱廊には宗教的な象徴に加え、多数の人々が集まり、教皇の祝福や典礼を受ける場所を整える実際の機能がありました。広場へ入る人は建築に囲まれ、大聖堂の正面へ導かれます。人々の移動、集会の規模、オベリスクとの位置関係が、象徴と実用を結びつけています。計画には完成しなかった第三の列柱翼もあり、1667年に教皇が亡くなると実現しませんでした。 (参照:ヴァチカン|サン・ピエトロ広場の列柱廊、ヴァチカン|列柱廊の中心点と視覚効果)

晩年の制作と工房――一人の名声を支えた人々

粘土模型から大理石へ

ベルニーニは大規模な彫刻を構想する際、粘土による小さな模型や素描を活用しました。手の跡や道具で刻んだ溝が残る粘土の模型には、完成した石像の滑らかな表面とは違う速さが見えます。身体の傾き、衣の広がり、頭の位置などを少しずつ変え、どの角度から見たときに意図した動きが伝わるかを試すことができました。

メトロポリタン美術館の研究図録は、五十点以上のテラコッタ模型を技法調査し、構想のための習作、注文者へ見せる模型、工房へ設計を伝える模型など、複数の役割を整理しています。模型が残る作品では、完成形を最初から一度で思いついたという見方を修正でき、試作を重ねる制作の過程が見えてきます。 (参照:メトロポリタン美術館|研究図録『ベルニーニ、粘土による造形』、メトロポリタン美術館|「ベルニーニ、粘土による造形」展)

設計と制作を分担する職人たち

巨大な噴水や列柱廊、石材を多く使う墓碑は、芸術家一人の手で制作できる規模ではありません。ベルニーニは構想を考え、素描や模型で形を示し、その実現には石工、鋳造職人、彫刻家、建築の担当者らが関わりました。《四大河の噴水》の河川像にも複数の彫刻家が携わり、ベルニーニの統括した一つの都市装飾を作り上げています。

後世の美術館や案内書では著名な設計者の名が最も目立ちます。作品を見る際には、構想した人、直接彫った人、石材を運び施工した人を分けて考えることにも価値があります。工房の作業分担は作品の規模を実現した条件であり、美術史上の帰属を考える際にも重要です。 (参照:メトロポリタン美術館|研究図録『ベルニーニ、粘土による造形』、ローマ市観光局|《四大河の噴水》)

《福者ルドヴィカ・アルベルトーニ》――晩年の身体表現

ベルニーニが晩年に制作した《福者ルドヴィカ・アルベルトーニ》(1670年代、サン・フランチェスコ・ア・リーパ聖堂)は、横たわる女性の身体と顔に宗教的な体験を表しています。ルドヴィカは貧しい人々のために活動した女性として知られ、作品は聖堂の礼拝堂に置かれています。白い石の顔と手が豊かな衣のひだから現れ、布の下にある身体の存在を想像させます。

コルナーロ礼拝堂の《聖テレジアの法悦》と比べると、同じように横たわる身体と精神的な体験が主題であっても、周囲の空間や鑑賞者との距離の作り方が異なります。晩年のベルニーニは彫刻と礼拝堂の関係を再び考え、祈りの場所にふさわしい明暗と身体表現を探りました。 (参照:ローマ市観光局|サン・フランチェスコ・ア・リーパ聖堂、メトロポリタン美術館|ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ)

ボッロミーニの最後の仕事と後世の評価

ボッロミーニは晩年にもサン・カルロ聖堂の正面などで仕事を続け、1667年にローマで亡くなりました。彼の生涯は、建築の仕事を獲得する競争、設計の変更、教皇の交代による後援関係の変化の中にありました。後世の伝記には性格や対立を強調した物語も残りますが、彼の建築そのものは、実務的な制約に応える工夫と緻密な幾何学によって理解することができます。

サン・カルロとサンティーヴォの平面、スパーダ宮殿の遠近法廊下、オラトリオの煉瓦壁、信仰弘布省宮殿の窓の配置を並べると、一つの曲線の形を使い回しているわけではないことが分かります。仕事の種類と敷地に応じて、平面、断面、外観のどこに新しい方法を加えるかを変えていたのです。 (参照:ローマ市観光局|ボッロミーニの建築を訪ねる、ローマ市観光局|サン・カルロ・アッレ・クアットロ・フォンターネ聖堂、ローマ市観光局|サンティーヴォ・アッラ・サピエンツァ聖堂)

ベルニーニとボッロミーニをどう比較するか

彫刻的な空間と建築的な曲面

ベルニーニの作品では、彫刻された人物がどの方向へ動こうとしているのか、観客がどこに立つとその出来事が立ち上がるのかが重要になります。《ダヴィデ》の投石器、《聖テレジアの法悦》の天使、サン・ピエトロ広場の列柱は、いずれも観客がいる空間へ意味を広げます。素材は大理石、青銅、水、実際の建築と多様です。

ボッロミーニの作品では、曲がる壁に沿って視線を運ぶこと、柱と天井が連続する感覚、光によって奥行きが変わることが重要です。サン・カルロの白いドーム、サンティーヴォの幾何学、スパーダ宮殿の奥行きの錯視は、建物の形そのものによって鑑賞者の経験を変えます。両者は異なる得意分野を持ち、仕事の場所によっては共通する課題にも取り組みました。 (参照:メトロポリタン美術館|ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ、ローマ市観光局|ボッロミーニの建築を訪ねる)

鑑賞者の位置を変えると何が起きるか

作品の前では、少し移動するだけで見え方が変わります。《アポロンとダフネ》ではダフネの変身部分を確認する位置を探し、コルナーロ礼拝堂では入口から中央像と左右の人物を同時に見ます。スパーダ宮殿の廊下では定められた位置から遠近法の効果を確かめ、サン・ピエトロ広場では列柱の中心点に立って柱の重なりを観察します。

これらの体験を比べると、17世紀の造形において「鑑賞者」という存在が具体的な身体として想定されていることが分かります。光を受ける大理石の表面、建築を歩く足、天井を見上げる首の角度は作品の経験に関わります。彫刻や建築を画像として見るだけでは捉えにくい、空間に入って感じる美術の側面です。 (参照:ボルゲーゼ美術館|《アポロンとダフネ》作品目録、ローマ市観光局|スパーダ宮殿、ヴァチカン|列柱廊の中心点と視覚効果)

材料と注文主によって異なる解決策

ボルゲーゼ家の大理石群像は、収集家の部屋で神話や技術を楽しむための仕事でした。サン・ピエトロ大聖堂の天蓋や列柱は教皇の儀礼と巡礼者の経験を支え、スパーダ宮殿の遠近法廊下は個人の館の中で視覚的な知恵を示しました。サン・カルロ聖堂は狭い敷地を使う修道会の宗教建築であり、それぞれの目的によって作品の規模と設計が変わっています。

「バロックらしさ」を豪華さや曲線の多さだけで測ると、白い壁を持つ教会や、小さな煉瓦造の施設の重要性が見えにくくなります。どの材料を使い、どの大きさの場所に、誰が訪れ、どう歩くのか。各作品でこの問いを繰り返すと、同時代のローマで多くの表現が成立した理由が具体的になります。 (参照:ローマ市観光局|サン・カルロ・アッレ・クアットロ・フォンターネ聖堂、ローマ市観光局|オラトリオ・デイ・フィリッピーニ、メトロポリタン美術館|バロック期のローマ)

1620–1680年の主要な出来事

彫刻、建築、都市計画の事業は一度の制作期間で完結せず、設計の変更や後年の完成を伴います。以下の年表は代表作品の制作と重要な注文を中心にまとめたもので、年代に幅があるものはおおよその期間を示しています。

  1. 1598年:ジャン・ロレンツォ・ベルニーニがナポリに生まれる。
  2. 1599年:フランチェスコ・ボッロミーニがティチーノ地方に生まれる。
  3. 1618〜1619年:ベルニーニが《アイネイアス、アンキセスとアスカニウス》を制作。
  4. 1621〜1622年:ベルニーニが《プロセルピナの略奪》を制作。
  5. 1622〜1625年:ベルニーニが《アポロンとダフネ》を制作。
  6. 1623年:ウルバヌス8世が教皇に選ばれる。
  7. 1623〜1624年:ベルニーニが《ダヴィデ》を制作。
  8. 1620年代〜1630年代:サン・ピエトロ大聖堂の《バルダッキーノ》制作が進む。
  9. 1629年:建築家カルロ・マデルノが死去し、関連事業の担い手が変わる。
  10. 1632年:ベルニーニが《シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿胸像》を制作。
  11. 1633〜1634年頃:バルベリーニ宮殿の楕円形螺旋階段などの建築工事が進む。
  12. 1637年:ボッロミーニがオラトリオ・デイ・フィリッピーニの計画を担う。
  13. 1638〜1640年代初頭:ボッロミーニがサン・カルロ聖堂本体の工事を進める。
  14. 1642〜1643年:ベルニーニが《トリトンの噴水》を制作。
  15. 1642〜1660年:ボッロミーニがサンティーヴォ聖堂を設計・建設。
  16. 1644年:インノケンティウス10世が教皇に選ばれる。
  17. 1647〜1652年:ベルニーニがコルナーロ礼拝堂《聖テレジアの法悦》を制作。
  18. 1648〜1651年:ベルニーニがナヴォーナ広場《四大河の噴水》を制作。
  19. 1652〜1653年:ボッロミーニがスパーダ宮殿の遠近法廊下を設計。
  20. 1652年:サンタニェーゼ・イン・アゴーネ聖堂がライナルディ父子の設計で着工。
  21. 1653〜1657年:ボッロミーニがサンタニェーゼ聖堂の設計を担当。
  22. 1655年:アレクサンデル7世が教皇に選ばれる。
  23. 1656〜1667年:ベルニーニによるサン・ピエトロ広場の列柱廊が建設される。
  24. 1650年代末〜1670年頃:ベルニーニがサンタンドレア・アル・クイリナーレ聖堂に携わる。
  25. 1662年:ボッロミーニが信仰弘布省宮殿の街路側正面を完成。
  26. 1666年:サン・ピエトロ大聖堂《聖ペテロの司教座》の記念物が完成。
  27. 1667年:ボッロミーニが死去。サン・カルロ聖堂正面の仕事は未完のまま残る。
  28. 1667〜1669年頃:サンタンジェロ橋の天使像群が整えられる。
  29. 1670年代:ベルニーニが《福者ルドヴィカ・アルベルトーニ》など晩年の宗教彫刻を制作。
  30. 1680年:ベルニーニがローマで死去。

まとめ――彫刻と建築が人のいる場所へ広がった

ベルニーニは若い頃に作ったボルゲーゼ家の群像で、人物が動く一瞬や身体に働く力を大理石に表しました。注文の規模が拡大すると、その表現は礼拝堂の採光、教会の巨大な祭壇、広場を取り囲む列柱へ広がりました。彼が繰り返し追求したのは、作品を見た人がそこで起きている出来事に立ち会うような関係です。石の身体、光、水、建築、都市の動線が、そのための材料になりました。

ボッロミーニは、建築の壁や柱を幾何学的に組み直し、限られた敷地の中へ新しい空間を作りました。サン・カルロ聖堂では曲線の壁と楕円形の天井が白い空間を連続させ、サンティーヴォ聖堂では複雑な平面がドームと螺旋状の頂部へつながっています。スパーダ宮殿の廊下や信仰弘布省宮殿では、遠近法や壁面の細部を別の条件へ応用しました。

二人が残した仕事は、同じ世紀のローマで多様な注文主と場所があったことも示しています。収集家の別荘、教皇家の宮殿、修道会の小さな教会、巡礼者が集まる広場は、それぞれ異なる美術を必要としました。17世紀のバロックを知る手がかりは、華やかな形容詞よりも、作品の前に立って光と身体と空間がどのように結びつくかを確かめることにあります。

次の記事では、ここまで扱った建築空間の上方で何が起きたかを見ていきます。ピエトロ・ダ・コルトーナ、ガウリ、アンドレア・ポッツォらが天井に描いた人物と建築の錯視をたどると、彫刻や列柱によって形づくられたローマの空間が、絵画によってさらに大きく変わっていく過程が見えてきます。

参考資料・出典

本記事は所蔵美術館、サン・ピエトロ大聖堂、ヴァチカン、ローマ市の公開資料を中心に、ART LIBRARYが構成・執筆しました。彫刻の制作年代は所蔵館の作品目録を優先し、複数の設計者が関わった建築については担当期間と帰属上の問題を区別しています。本文の関連箇所に個別の参照リンクを設けています。

資料確認日:2026年10月11日 / ART LIBRARY