1880–1900年代
象徴主義
モロー、ルドン、クノップフ、ベックリンと見えない世界の絵画
十九世紀後半のヨーロッパでは、同じ時代を生きる画家たちが、異なる方法で絵画の可能性を探っていた。印象派が光と現代生活の経験を更新していた頃、ギュスターヴ・モローは古代神話を不可解な対決へ変え、オディロン・ルドンは巨大な眼や漂う頭部を木炭と石版画に描いていた。写実的に描く技術を保ちながら、現実には見えない経験を画面へ招き入れる試みが広がっていた。
象徴主義という名称は1880年代の文学から広まった。絵画については単一の団体や共通技法を指す名称ではなく、神話、夢、宗教、記憶、愛、死といった主題を、見る者の内面へ働きかけるように造形したさまざまな制作を結びつける歴史的な呼び名である。モローの絵画には細密な装飾があり、ルドンの紙には消えかけた黒があり、クノップフの作品には写真を組み替えた人物が現れ、ベックリンの風景には実在しない島がある。
この違いを見失うと、象徴主義は「不思議な絵が集まった時代」としか見えなくなる。何が描かれたのかに加え、どのような下絵や材料が使われ、誰に注文され、どの展覧会へ出され、後世にどう受け取られたのかを調べると、各作品の独自性が明瞭になる。とりわけ版画の複製と写真の利用は、幻想的なイメージを十九世紀の新しい視覚環境と結びつけていた。
この記事では、モロー、ルドン、フェルナン・クノップフ、アルノルト・ベックリンの四人を中心に、重要作品を具体的に分析する。ピュヴィス・ド・シャヴァンヌやバーン=ジョーンズなどの先行者、ベルギーの展覧会文化、薔薇十字サロンにも目を向ける。印象派やポスト印象主義と並行して展開した象徴主義が、十九世紀の絵画にどのような別の道を開いたのかを考えていく。
CONTENTS
- 象徴主義の成立――詩と絵画に異なる時間が流れる
- モローの制作――神話を組み替える工房
- 《オイディプスとスフィンクス》――対決が静止する瞬間
- サロメ――聖書の出来事を幻視へ変える
- モロー晩年の大画面――精神世界を積み重ねる
- ルドンの出発点――自然観察と黒い画面
- 《眼の気球》――見える世界の仕組みを変える
- ルドンと文学――読む経験を版画にする
- 《閉じた眼》と色彩への展開
- ベルギーの象徴主義――クノップフの位置
- 《記憶》――一人の女性が七人になる
- 《私は私自身に扉を閉ざす》――詩を空間へ変える
- 《愛撫》――スフィンクスのもう一つの姿
- ベックリン――風景の中に生まれる神話
- 《死の島》――何度も描かれた架空の場所
- 象徴主義の展覧会と国際的な交流
- 女性像、死、夢――繰り返された主題を読み直す
- 象徴主義から二十世紀の絵画へ
- 象徴主義とその周辺の年表
- まとめ――見えないものを描く多様な方法
- 参考資料・出典
象徴主義の成立――詩と絵画に異なる時間が流れる
1870年代から1890年代へ――発生の時間差
1864年にモローが《オイディプスとスフィンクス》をサロンへ出品した時、象徴主義という統一された美術運動はまだ成立していなかった。1880年代には印象派の展覧会が続き、その同じ時期にルドンは黒い素描や石版画を制作していた。十九世紀後半の美術を順番に入れ替わる流派の物語として見ると、この長い重なりが見えなくなる。
「象徴主義」は1886年にジャン・モレアスが文学の宣言で明確に用いた名称であり、絵画の多様な試みはその前から始まっている。後世の研究で同じ名称の下に置かれる作品にも、1860年代の歴史画、1880年代の版画、1890年代の写真を用いた絵画が含まれる。年代をまたぐこと自体が、この潮流の性格を教えてくれる。 (参照:メトロポリタン美術館|象徴主義の美術史、モロー美術館|《オイディプスとスフィンクス》の素描とサロン)
詩人たちが求めた「暗示」という働き
象徴派の文学では、物の名前を挙げて意味を一つに決めることより、言葉の響きや連想から読者の内面に像が生じることを重んじた。マラルメの詩についての議論は、現実を逐語的に説明する表現と、読者自身の想像力を動かす表現との違いを際立たせた。絵画もこれに呼応して、描かれた人物や物語の意味を完全には閉じない構成を探り始めた。
画面上のスフィンクス、閉じられた眼、暗い島は、必ずしも一つの概念だけを指す記号ではない。作品ごとの形、色、物質感が鑑賞者の連想を方向づけ、異なる読みを生む。文学との関係を考える際には、「何を象徴しているか」という正解探しより、意味が立ち上がる仕組みに注意を向けたい。 (参照:メトロポリタン美術館|象徴主義の美術史、グッゲンハイム美術館|薔薇十字サロンの出品規則)
自然主義や印象派と同じ時代を生きる
同時代の画家には、光の変化や都市生活を観察して描く者もいれば、神話や記憶をもとに組み立てる者もいた。メトロポリタン美術館は、象徴主義に関わった作家たちが、色と線と構図によって感情や観念を伝えようとした点を重視している。光を再現するための色彩と、感情を喚起するための色彩は、同じパリで並行して研究されていた。
ここで象徴主義を反近代的な趣味として片づけると、版画による複製、写真の活用、新しい展覧会制度といった側面を見落とす。見慣れない題材を描いたこと以上に、十九世紀の技術と制度を利用して見る経験を変えたことが重要である。以下ではそれぞれの作家の固有の仕事へ目を向ける。 (参照:メトロポリタン美術館|象徴主義の美術史、ニューヨーク近代美術館|石版画《奇妙な気球のように眼は無限へ向かう》)
モローと歴史画の内部から始まる変化
ギュスターヴ・モローはパリの美術教育を受け、古代神話と聖書を大画面の主題とする、歴史画の伝統に属する画家だった。彼の《オイディプスとスフィンクス》は1864年のサロンで高い注目を集めた。革新的な表現が既存のサロン制度の内部から現れた事実は、象徴主義が前衛団体の単純な宣言によって始まったわけではないことを示している。
古典的な人体表現や精緻な下絵を用いながら、画家は人物の周囲に説明しきれない緊張を生み出した。主題は古代から知られている物語であり、そこに何を見せ、どこを曖昧にするかが絵画の課題となった。この方法をより詳しく理解するためには、画家が具体的に配置した身体と物の関係を追う必要がある。 (参照:メトロポリタン美術館|《オイディプスとスフィンクス》、モロー美術館|《オイディプスとスフィンクス》の素描とサロン)
ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの静かな寓意
ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌは壁画と装飾画の領域で、静かな人物群と明るさを抑えた色彩を発展させた。1891年の《羊飼いの歌》はリヨンの美術館の壁画から発展した油彩で、笛を吹く青年や布をまとった人物が、明快な出来事へ結びつかないまま同じ空間に置かれている。人物は互いに直接語り合わず、画面全体に夢のような間合いが残る。
この油彩では、古代やルネサンスのフレスコ画を思わせる乾いた表面が意識されている。メトロポリタン美術館の解説によれば、弱い陰影、少ない細部、鈍い色調が人物を現実の時間から遠ざける。装飾的な単純化が後のゴーギャンやスーラを刺激したことは、象徴主義と近代絵画の平面性が交わる例でもある。 (参照:メトロポリタン美術館|《羊飼いの歌》、メトロポリタン美術館|象徴主義の美術史)
英国のラファエル前派と夢のような時間
英国のエドワード・バーン=ジョーンズも同時代の重要な先行者である。《愛の歌》では、楽器を奏でる女性と、その音を聞く人物たちが、現実の演奏会から切り離されたような空間に置かれる。楽器や衣装は丁寧に描かれていても、人物同士の距離は感情的な物語をすぐには説明しない。時間が静止したような感覚が、詩に由来する主題と響き合う。
メトロポリタン美術館の収蔵記録は、本作の制作期間を1868年から1877年とする。フランスの文学的象徴主義が名称を得る以前に、英国にも夢と詩を絵画の構造へ結びつける方法が育っていた。後にクノップフが英国の画家たちから刺激を受けた経緯を考えると、その接続はさらに重要になる。 (参照:メトロポリタン美術館|《愛の歌》、バイエルン州絵画コレクション|クノップフ作家記録)
モローの制作――神話を組み替える工房
膨大な素描から作られる幻想
モローの神話画を一見すると、細部まで装飾された世界が自由な想像だけから現れたように感じられる。実際の仕事は多量の素描、模写、構図研究に支えられていた。《オイディプスとスフィンクス》のための大きな下絵には格子が引かれ、完成油彩へ形を移す過程が残る。空想の場面を構成するために、画家は古典的な制作技術を丹念に用いている。
さらに彼はイタリアの絵画や古代・中世の造形を参照し、異なる時代の断片を一つの場面へ取り込んだ。作品の建築が特定の遺跡や民族の記録に見えないのは、装飾の組み合わせ自体が架空の舞台を成立させるからである。想像力は研究と技術を経て、目に見える像へ変わっていった。 (参照:モロー美術館|《オイディプスとスフィンクス》の素描とサロン、メトロポリタン美術館|《オイディプスとスフィンクス》)
未完成作品にも残される試行
《キマイラたち》は1880年頃から手がけられ、1884年の年記を持ちながら完成には至らなかった。画面には多くの女性、動物、人間と怪物が混じった存在が描かれ、細い線と抑えた色彩が中世のタピスリーを思わせる。モロー美術館は、ヴェネツィアで研究したカルパッチョの絵画が、この複雑な群像構成の手がかりだったと説明している。
制作が中断された画面を見ると、彩色が深まる部分と下絵の性格を保つ部分が同居する。完成品の滑らかな表面だけで見ると気づきにくい、構想と描画の往復が見える。奇怪なモチーフを無数に並べることも、単なる装飾の過剰ではなく、人間の欲望や精神的な変化を画面内の小さな場面に分散させる方法だった。 (参照:モロー美術館|《キマイラたち》、モロー美術館|画家の家から美術館へ)
自宅を美術館に変えるという決断
モローは1895年、建築家アルベール・ラフォンに依頼し、パリの自宅を作品展示のための建物へ改造し始めた。上階には北から光を取り入れる大きなアトリエが設けられ、絵画、水彩、素描を大量に展示できる空間となった。画家の死後に公開された美術館の成立には、作品を後世へどのように残して見せるかという本人の意思が関わっている。
一点の代表作を美術館で鑑賞する経験と、画家が蓄積した途中段階をまとめて見る経験は異なる。大きな油彩のそばに小さな水彩や素描を置くと、完成作を単独の夢として眺めるだけでは分からなかった手順が浮かび上がる。彼の家は作品の保管場所であると同時に、制作の思考を伝える装置となった。 (参照:モロー美術館|画家の家から美術館へ、モロー美術館|主要作品と展示室)
《オイディプスとスフィンクス》――対決が静止する瞬間
怪物が青年に取りつく構図
1864年の《オイディプスとスフィンクス》では、岩の間に立つ青年の胸に、女性の頭部と翼を持つスフィンクスがしがみついている。二人は顔を近づけて見つめ合い、戦闘の激しい動作は止められている。画面の縦長の形と、身体を結ぶ斜めの線が緊迫した接触を強調する。観客は謎を解く前後の出来事より、視線がぶつかる瞬間に長く留め置かれる。
背景の岩の裂け目は奥行きを持ちながら、画面の左右を塞いで逃げ場の少ない空間を作る。青年の身体には古典的な人体研究の痕跡があるが、怪物と向き合う関係は異様に親密である。知性と危険、美しい身体と獣の身体を一つの接点へ圧縮した構図が、よく知られた神話に新しい緊張を与えた。 (参照:メトロポリタン美術館|《オイディプスとスフィンクス》、モロー美術館|《オイディプスとスフィンクス》の素描とサロン)
岩場の細部が加える死と勝利の暗示
手前には以前の犠牲者の身体の一部が見え、謎を解けなかった者に起きた結末を伝える。月桂冠や装飾された柱、道具などは、物語の舞台が単純な自然風景ではないことを示す。モロー美術館に残る準備下絵には完成作と異なる細部もあり、後から描き込まれたものが主題の意味を強めた過程を確認できる。
細部は鑑賞者に正解を教えるためだけに描かれているわけではない。勝利を予感させる月桂樹と、すでに殺された者の痕跡が、同じ視野へ入るためである。未来と過去が一つの静止した場面に凝縮され、神話を知らない鑑賞者にも生と死の緊張が伝わる。小道具と人物の配置の関係に、歴史画を幻想へ変える画家の編集力が表れる。 (参照:メトロポリタン美術館|《オイディプスとスフィンクス》、モロー美術館|《オイディプスとスフィンクス》の素描とサロン)
1864年のサロンでの成功と批評
モローの本作は1864年のサロンで大きな話題となり、称賛と風刺の両方を呼んだ。モロー美術館は、ゴーティエやカスタニャリらによる評価、同時代の風刺画、ナポレオン公による購入を伝えている。新しい象徴的絵画がサロンの外側だけで形成されたのではなく、公的な展覧会の観衆を前に議論された事実が重要である。
アングルの《スフィンクスの謎を解くオイディプス》との比較も当時から行われた。アングルが明瞭な人体と説明的な身振りによって知性を示したのに対し、モローは接触する二つの身体へ問いを集中させた。両者に古典研究という連続性があるからこそ、表情と細部を通して生まれる意味の違いが鮮明になる。 (参照:メトロポリタン美術館|《オイディプスとスフィンクス》、モロー美術館|《オイディプスとスフィンクス》の素描とサロン)
サロメ――聖書の出来事を幻視へ変える
《出現》に描かれた首と光
《出現》では、宮殿の室内でサロメの前に洗礼者ヨハネの切断された頭部が浮かぶ。頭の周囲には光が広がり、サロメの身振りと視線はその怪異へ向けられている。左方には玉座のヘロデが座り、右方には剣を持つ処刑人が立つ。複数の人物が同じ場所にいながら、もっとも強い視覚的な力を持つのは実体のない光る頭部である。
聖書の挿話を具体的な処刑場面として説明する代わりに、モローは出来事が記憶や恐怖の像として現れる瞬間を描いた。光は室内を均等に照らさず、浮遊する頭部を精神的な中心に変える。周囲の人物が静止しているため、時間が進む物語よりも、一つの衝撃が長く続くような経験を与えている。 (参照:モロー美術館|《出現》、メトロポリタン美術館|《ヨハネの首を持つサロメ》)
建築と装飾が時代を曖昧にする
《出現》の暗い背景には、異なる文化を思わせる柱、模様、人物像が細い線で組み込まれている。歴史的なエルサレムを考証する建築画として見ると、この空間は一致しない要素に満ちている。モロー美術館は、遠い文明の装飾や中世的な意匠が組み合わされ、場面を特定の場所と時間へ固定しにくくしている点を説明する。
床、壁、衣装の装飾線は人体の周囲にも重なり、サロメを異質な舞台へ包み込む。複雑な文様は人物を美しく飾ると同時に、現実の空間感覚を弱めている。画面の中で装飾が担う役割を考えると、象徴主義と後のアール・ヌーヴォーの間にも、連続する視覚上の関心が見えてくる。 (参照:モロー美術館|《出現》、モロー美術館|主要作品と展示室)
サロメ像の複数制作と文学への波及
モローはサロメとヨハネの頭部をさまざまな油彩や水彩で繰り返し扱った。メトロポリタン美術館にある1876年頃の小型油彩《ヨハネの首を持つサロメ》では、聖なる光を放つ頭部から身をそらす女性の姿が描かれている。作品ごとに身振りも物語の時点も変わり、同じ主題に複数の見方が生まれた。
ユイスマンスの小説『さかしま』はモローのサロメ像を取り上げ、十九世紀末の文学的想像力の中へ作品を広めた。聖書の登場人物を、後世の読者が魅惑と恐怖の象徴として受け取っていく過程には、作品、批評、文学が互いに意味を作る連鎖がある。聖書本文の物語と十九世紀のサロメ像は分けて読んでおきたい。 (参照:メトロポリタン美術館|《ヨハネの首を持つサロメ》、モロー美術館|《出現》)
モロー晩年の大画面――精神世界を積み重ねる
《キマイラたち》の多数の場面
《キマイラたち》には、怪物に寄り添う人物、山へ向かう人物、誘惑や祈りを思わせる身振りなど、小さな場面が幾重にも重なっている。鑑賞者の眼は一人の主人公へすぐに定まらず、岩肌に沿って登るように動く。画面の各所にある異なる出来事が、欲望と救済の間を行き来する人間の状態として読まれるよう構成されている。
モロー美術館は、この作品に女性の幻想や情念をめぐる寓意が組み込まれていることを伝える。今日の鑑賞では、その女性像を当時の男性中心の象徴表現として吟味することも大切である。画面の密度を支える造形の巧みさと、そこで女性がどのような意味を与えられたかを、併せて考えることができる。 (参照:モロー美術館|《キマイラたち》、メトロポリタン美術館|象徴主義の美術史)
《ユピテルとセメレ》の上下に伸びる宇宙
1889年に注文を受け1895年に完成した《ユピテルとセメレ》は、豪華な玉座に座る神ユピテルと、その神性に触れて死に至るセメレを中心とする。画面の下方には夜の女神ヘカテや怪物たち、上方には天空の存在が重なり、単純な宮廷の場面とは異なる縦方向の世界を形成する。油彩による細かな装飾と多くの人体が、画面全体を満たす。
美術館の解説によれば、下部から上部へ進む構成は、魂がより高い精神的な領域へ向かう過程とも関係する。注文主レオポルド・ゴルトシュミットへ渡された後、この絵は1903年に美術館へ寄贈された。私的な依頼制作が画家の思想を集約する大作となり、現在はその仕事全体を示す資料にもなっている。 (参照:モロー美術館|《ユピテルとセメレ》、モロー美術館|画家の家から美術館へ)
《エウリュディケの墓前のオルフェウス》と個人の喪失
1890年に親しいアレクサンドリーヌ・デュルーを失ったモローは、妻を冥界から連れ戻そうとして失敗するオルフェウスの神話に取り組んだ。《エウリュディケの墓前のオルフェウス》では、薄暮の風景の中に悲しむ人物が座り、竪琴は傷んだ木に掛けられている。墓の前の灯火や傾いた樹木は、言葉で語られない喪失を形へ変える。
モロー美術館はこの作品を画家の個人的な悲しみと結びつけて解説している。神話を用いることで、実生活の出来事を特定の肖像や記録へ閉じず、多くの鑑賞者が接近できる情景へ広げた。色彩と木々の姿は感情を説明する台詞の代わりに働き、自然が内面を受け止める空間になっている。 (参照:モロー美術館|《エウリュディケの墓前のオルフェウス》、モロー美術館|画家の家から美術館へ)
ルドンの出発点――自然観察と黒い画面
ボルドーから広がる自然への関心
オディロン・ルドンはボルドーで育ち、十九世紀後半に素描や版画の独特な世界を形成した。眼、花、頭部、奇妙な生き物といった作品の形は、自然観察から完全に離れた創作物には見えない。植物の成長や身体の細部を思わせる形が、あり得ない組み合わせで現れる。見慣れた自然物が別の生物へ変わる境界に、ルドンの関心があった。
この態度は、同時代の科学や博物学への興味とも関係する。自然を調べる眼を捨てるのではなく、その知識を現実には存在しない像へ転用した。だからこそ不可能な姿をした眼球や怪物にも、触れられそうな輪郭と重みが残る。幻想を成立させるには、観察によって得た形の説得力が必要だった。 (参照:ニューヨーク近代美術館|木炭画《眼の気球》、ニューヨーク近代美術館|石版画《奇妙な気球のように眼は無限へ向かう》)
「ノワール」と呼ばれた木炭画
ルドンは黒を中心にした木炭画を「ノワール」と呼んだ。木炭の粉を紙へ置き、こすり、消すことで、輪郭の明確な部分と霧のようにぼやける部分を共存させる。1878年の《眼の気球》では、広い眼球が気球のように空へ上がり、下方の景色が遠ざかる。形は具体的なのに、空間の深さと意味がはっきり定まらない。
MoMAの解説は、木炭を拭い取った部分や柔らかい黒が、不穏な空の雰囲気を作ることに着目している。この画面で重要なのは、奇妙な対象を描いたことだけではない。粉状の材料が作る曖昧な境界そのものが、眼に見えるものの向こうを想像させる働きを担っている。 (参照:ニューヨーク近代美術館|木炭画《眼の気球》、オルセー美術館|ルドンの素描展とノワール)
暗さの中で像が現れる仕組み
ルドンの黒い作品では、真っ白な紙と黒い線の間に、多数の灰色の段階が広がっている。人物の頭が背景に溶け込む部分では、身体の境界は光学的にも心理的にも不安定になる。観客はすべてを即座に識別できず、何が描かれているのかを時間をかけて探す。その遅い鑑賞が夢の像と出会う経験に近づいていく。
こうした表現を後の色彩絵画へ単純に置き換えて理解することはできない。ルドンの黒は色彩を待つ未完成の段階ではなく、それ自体で成立した制作領域だった。オルセー美術館が黒い木炭画をヨーロッパ象徴主義の中心的な成果として扱う理由も、素材と精神的な効果が不可分だからである。 (参照:オルセー美術館|ルドンの素描展とノワール、ニューヨーク近代美術館|木炭画《眼の気球》)
《眼の気球》――見える世界の仕組みを変える
身体から離れた眼が運ぶもの
《眼の気球》の画面では、巨大な眼球が飛行船の袋のように空へ浮かび、下からは皿に載った頭部が吊り下げられている。眼は人間の顔に収まる器官としての役割を失い、自分で飛び、遠方を見る存在へ変わっている。下方の湿地を思わせる風景は小さく、上空の空間が大きく開かれる。眼と頭部の分離によって、見ることと身体の関係が組み直される。
人間の器官が奇妙な装置へ変わったにもかかわらず、紙上の濃淡には現実の物体らしい重さがある。鑑賞者は身体の構造を知っているため、この配置の不可能さを強く感じる。幻想は実在しない物体を漫然と並べて生じるのではなく、知っている形とあり得ない関係を精密に結びつけることで生まれる。 (参照:ニューヨーク近代美術館|木炭画《眼の気球》、ニューヨーク近代美術館|石版画《奇妙な気球のように眼は無限へ向かう》)
木炭から1882年の石版画へ
1878年の木炭画《眼の気球》を出発点として、ルドンは1882年に《奇妙な気球のように眼は無限へ向かう Odilon Redon The Eye like a Strange Balloon Mounts toward Infinity》 という石版画を制作した。MoMAの所蔵記録によれば、石版画は薄い中国紙を別の紙へ貼り込む方法で刷られ、パリのルメルシエ工房が印刷を担っている。もとの木炭画と版画には共通する構図があり、表面の黒さと線の質は媒体に応じて変わっている。
石版では油性の描画材料を用いるため、手描きの濃淡や柔らかな黒を印刷へ移すことができる。ルドンはその特徴を利用し、木炭画の曖昧な空気を別の物質的な像へ作り替えた。作品を別媒体で増やすことは、同じイメージを広める手段であると同時に、形の効果を調整する作業だった。 (参照:ニューヨーク近代美術館|石版画《奇妙な気球のように眼は無限へ向かう》、ニューヨーク近代美術館|木炭画《眼の気球》)
印刷技術が私的な幻想を流通させる
版画には複数を刷って他者へ届けられる性質がある。MoMAはルドンが生涯に二百点近い石版画を制作し、その多くを文学的な主題を持つ版画集に収めたと説明している。白黒の幻想は、作家の机やアトリエにとどまらず、詩人、収集家、展覧会の観衆へ流れていった。個人的な夢の像が複製技術によって広く知られる現象は、十九世紀末ならではの特徴である。
石版画の画像には、油彩一点物とは異なる鑑賞の距離が生まれる。鑑賞者は紙の小さな画面へ顔を近づけ、細い線と印刷の濃淡を追う。特定の文学作品に応じて連続した図版を見ると、一枚だけでは意味が決まらない像も、前後の作品との間で新たな連想を生む。印刷は幻想の受容方法そのものを変えた。 (参照:ニューヨーク近代美術館|石版画《奇妙な気球のように眼は無限へ向かう》、ニューヨーク近代美術館|《聖アントワーヌの誘惑》連作)
ルドンと文学――読む経験を版画にする
フローベール『聖アントワーヌの誘惑』
フローベールの『聖アントワーヌの誘惑』は、隠遁する聖人の前に宗教、欲望、怪物、知識の幻影が次々と現れる文学作品である。ルドンはその主題から複数の石版画集を制作した。1896年の第三組は二十三点の版画からなり、MoMAにはその個別の図版が残されている。たとえば虚空に眼が浮遊する場面や、花と蛇の頭部が交錯する場面が、文章の想像力を版画のかたちに変える。
画家は文学の全場面を説明的な挿絵へ直したわけではない。文中にある特異な像を選び、影、形、空白を与えることで、読む時に起こる不安定な想像を紙上へ定着させた。文章が次の行へ進むのに対し、版画は一瞬を長く眺められる。時間の異なる二つの媒体が交わる場所に、ルドンの幻想の性格が現れている。 (参照:ニューヨーク近代美術館|《聖アントワーヌの誘惑》連作、ニューヨーク近代美術館|石版画《奇妙な気球のように眼は無限へ向かう》)
ポーへの関心と題名の働き
エドガー・アラン・ポーの文学もルドンに強い刺激を与えた。MoMAの研究は、ポーやフローベールの特異な感覚が、画家の幻想的な石版画の制作と響き合ったことを指摘する。題名を読んでから図像を見ると、自然物のように描かれた形にも不可思議な意味が生まれる。文字が画像の意味を狭めることもあれば、連想の方向を開くこともある。
文学から生まれた絵画や版画を鑑賞する時には、原作との一致率を測る方法だけでは十分でない。ルドンは文の要素を独自の濃淡と形に変えており、視覚の沈黙の中で作者とは別の想像が生じる。彼が求めた暗示は、文学を絵に従属させることでも、絵を文学へ従属させることでもなかった。 (参照:ニューヨーク近代美術館|石版画《奇妙な気球のように眼は無限へ向かう》、メトロポリタン美術館|象徴主義の美術史)
連作を見ることで生じる意味の変化
一枚の《眼の気球》を単独で見れば、それは奇妙な器官の姿である。版画集の一部として眺めれば、ほかの怪物や風景と連続する世界の断片になる。同じ技法で作られた複数の図版が隣り合い、見慣れない形が繰り返されることで、鑑賞者はその世界なりの秩序を感じ始める。現実に存在しない像が、紙面で一貫した環境を作るのである。
石版画には刷りの違い、紙の種類、版の状態など、個々の物質的な条件もある。絵を写真で見るだけでは分かりにくいが、同じ図像が複数存在することは制作と鑑賞の両方に影響する。作品を唯一の原作に閉じ込めず、一群の像として考えると、ルドンが何度も形式を試したことの意義がより具体的になる。 (参照:ニューヨーク近代美術館|《聖アントワーヌの誘惑》連作、ニューヨーク近代美術館|石版画《奇妙な気球のように眼は無限へ向かう》)
《閉じた眼》と色彩への展開
1890年《閉じた眼》――極端に少ない要素
《閉じた眼》には、眼を閉じた頭部と胸像が、曖昧な空間の中に浮かぶように描かれている。顔は傾き、輪郭は空気へ消える。人物が立っている場所や視線の先を説明する物はほとんどない。オルセー美術館によれば、この1890年の油彩は以前の素描をもとにしたもので、妻カミーユ・ファルトの面影があると考えられている。
油彩は薄く溶かされ、布目が見えるほど軽い表面になっている。材料を厚く盛り上げて存在感を強める方法とは逆の選択であり、人物は消えかけた記憶のようにも見える。閉じた眼を眠り、死、内面、出現などに結びつける解釈は、美術館の研究でも示されている。画面はどれか一つの意味を確定させない。 (参照:オルセー美術館|《閉じた眼》、オルセー美術館|ルドンの素描展とノワール)
黒から色へ――同じ主題の変奏
1890年代以降、ルドンはパステルや油彩で鮮やかな色彩を積極的に使うようになった。暗い空間から浮かぶ頭部や花の像は、彩色されることで別の感覚を帯びる。白黒の作品で灰色の濃淡が担っていた境界の曖昧さは、色が交じり合う場所で新たな形を得た。彼の制作では、黒い初期作と華やかな後期作を切り離すより、同じモチーフが素材を越えて変わる過程が重要である。
パステルは粉末状の色材を紙へ付着させるため、光を含んだ柔らかい色面や、隣り合う色の重なりを作れる。ルドンはその性質を利用して、花や人物の周囲へはっきりしない光を与えた。色彩の増加は単なる気分の明るさの表現には収まらず、見える対象がどの程度存在感を持つかを試す方法でもあった。 (参照:オルセー美術館|《閉じた眼》、オルセー美術館|ルドンと仏教図像)
《ゴーギャン》の肖像と後期の精神性
オルセー美術館の《ポール・ゴーギャン》では、横顔の輪郭が金色を帯びた背景や幻想的な花に包まれ、肖像が人物の外観から離れた存在へ変わっている。二人が1890年代に象徴主義の作家として評価されたことも、美術館は記録する。モデルの特徴を完全に再現するより、画家同士が共有した芸術への信念を、古代のメダルのような横顔へ託した作品と考えられる。
ルドンは後年、仏陀や宗教的な人物を色彩豊かな画面へ描いた。これらは西洋から見たアジアの思想への関心と結びつく。オルセー美術館は、同時代の神智学や仏教関連文献を通じた受容の経緯も紹介している。異文化の図像がどのように理解され、創作へ変えられたかを含めて読むことで、後期作品の精神性を具体的な歴史へ戻せる。 (参照:オルセー美術館|ルドン《ポール・ゴーギャン》、オルセー美術館|ルドンと仏教図像)
ベルギーの象徴主義――クノップフの位置
ブリュッセルと「二十人会」の展示文化
フェルナン・クノップフはベルギーを拠点に、肖像画、幻想的な人物画、素描などを制作した。バイエルン州絵画コレクションの作家解説は、彼がブリュッセルの美術教育を受け、パリで学んだこと、1883年に前衛的な展覧会団体「二十人会」に加わったことを伝えている。象徴主義に近い絵画が、ベルギーでは独立した展覧会文化と結びついていた。
同じ作家がパリ、ミュンヘン、ウィーンなど複数の都市で作品を見せることにより、地域を越えた評価が形成された。ベルギーの象徴主義をフランスの模倣と考えると、この国際的な活動と美術制度の独自性が薄れる。クノップフの静かな人物像には、詩、写真、英国美術から選び取った要素が複雑に組み込まれている。 (参照:バイエルン州絵画コレクション|クノップフ作家記録、バイエルン州絵画コレクション|《私は私自身に扉を閉ざす》)
ラファエル前派から学んだ細い輪郭
クノップフは英国を訪れ、バーン=ジョーンズやラファエル前派の人物表現に関心を持った。長い身体、静止した表情、髪や衣装の緻密な描写には、彼が親しんだ英国美術との接点が見いだせる。画面が精密に描かれているほど、人物の内面は読みにくくなることがある。その緊張は、一見分かりやすい肖像を不可解な夢のように感じさせる。
モローの神話的な人物像とも共通点がありながら、クノップフは装飾を大量に積み上げるより、限られた人物と物で空間を閉じることが多い。英国で学んだ造形や文学の知識を、より冷たく静かな画面へ変えたのである。類似した主題を扱う作家の間でも、具体的な画面構成によって異なる鑑賞経験が生まれる。 (参照:バイエルン州絵画コレクション|クノップフ作家記録、メトロポリタン美術館|《愛の歌》)
音楽、沈黙、記憶という主題
クノップフの作品には、音楽を聴く姿、沈黙する人物、記憶の中にあるような風景が繰り返し現れる。音は直接描けないため、楽器に触れる手や人物の態度、互いに視線を合わせない距離によって暗示される。彼は動作の決定的な一瞬を描くより、その前後の時間が長く続いているような場面を好んだ。
そうした作品では、主題の心理的な意味を人物の顔つきだけから説明するのが難しい。全体を覆う静けさ、空間の密度、背景の省略が、観客の想像を引き出す。写真のような精密さと、時間の不確かな感じが同時に生じるところに、クノップフの造形の特徴がある。 (参照:ベルギー王立美術館|《記憶(ローンテニス)》、バイエルン州絵画コレクション|《私は私自身に扉を閉ざす》)
《記憶》――一人の女性が七人になる
テニス場のようで出来事のない風景
1889年の《記憶(ローンテニス)》には、芝生を背景に七人の若い女性が並んでいる。何人かはラケットを持つが、実際に球を打つ人物はいない。立ち姿と衣装はそれぞれ異なり、互いに声を交わしているようにも見えない。屋外で行われる社交的なスポーツを主題としながら、画面は動きの止まった舞台のようになっている。
ブリュッセルのベルギー王立美術館は、本作を1889年制作のパステル画と記録し、紙をキャンバスへ裏打ちした大画面であることを伝える。高さ127センチ、幅200センチの広がりは、私的な素描とは異なる鑑賞距離を生む。七人の姿勢を横へ追うと、時間が流れているようでどこにも出来事が進まない、不思議な反復を経験する。 (参照:ベルギー王立美術館|《記憶(ローンテニス)》、フランドル美術普及財団|クノップフ《記憶》研究)
写真を用いた構図――同じ人物の反復
《記憶》に描かれた女性像の基礎には、クノップフの妹マルグリットを撮影した写真が使われたことが知られる。美術研究資料は、同じ人物の異なる姿勢を画家が一つの風景へ並べ、写真を素材として再構成した点を指摘している。現実の集団写真のように見える場面が、時間と人物の数を人工的に編集して作られている。
人物の影や地面との関係が弱いため、それぞれが別の時間から切り出されて芝生に置かれたようにも感じられる。カメラで得た視覚資料は、写実的な細部を与えるためにも、現実の一瞬を作り替えるためにも利用できる。《記憶》では、その二つの作用が重なり、観察と記憶の境界が画面そのものになる。 (参照:ベルギー王立美術館|《記憶(ローンテニス)》、フランドル美術普及財団|クノップフ《記憶》研究)
パステルの質感と画面の距離
女性たちの服のひだや手の輪郭は注意深く描かれ、背景の風景は柔らかく処理されている。パステルの色材は明瞭な線にも粉を含んだ色面にもなるため、細密な姿とぼやけた遠景を一枚の紙の上で併存させられる。人物だけがくっきり見えることで、同じ空間に存在しているはずの七人が、背景から少し浮いているように感じられる。
ベルギー王立美術館は1900年に作者からこの作品を購入したと記録する。個人的な記憶を主題とする作品が、公的な収集対象になったのである。写真から構成された画面が大きなパステル作品として成立し、美術館で展示されるという過程には、十九世紀末の媒体間の往復がよく表れている。 (参照:ベルギー王立美術館|《記憶(ローンテニス)》、バイエルン州絵画コレクション|クノップフ作家記録)
《私は私自身に扉を閉ざす》――詩を空間へ変える
1891年の作品とクリスティーナ・ロセッティ
《私は私自身に扉を閉ざす》は1891年の油彩で、横長の画面に沈思する若い女性と、離れて置かれた複数の物が描かれる。題名は英国の詩人クリスティーナ・ロセッティの詩の一節に由来する。バイエルン州絵画コレクションの公式解説によれば、クノップフはその詩から、外の世界に向かわず自己の内側へこもる気配を画面へ取り入れた。
女性は明確な行為をしておらず、室内の物体も日常生活の道具として自然には結びつかない。鑑賞者はそれぞれの物に意味を求めるが、作品全体の心理を一つの言葉へまとめることは難しい。詩を知る読者にとっても、絵は原文の翻訳のように意味を決定するのでなく、新しい沈黙の場を作る。 (参照:バイエルン州絵画コレクション|《私は私自身に扉を閉ざす》、バイエルン州絵画コレクション|クノップフ作家記録)
ユリ、ケシ、眠りの頭部という配置
画面の前景には花が大きく置かれ、横には矢があり、頭上には古代の眠りの神ヒュプノスを思わせる彫刻が見える。所蔵館はユリを純潔、ケシを眠り、矢を愛や苦痛の暗示として説明している。個々の物は象徴的な読みへ誘うが、隣り合うと一つの出来事へ収まりにくい。清らかさと苦痛、眠りと覚醒が並ぶこと自体が作品の緊張を生む。
右側には壁を通り抜ける窓のような小さな絵の中の風景があり、閉じた室内から別の場所を覗く構造になっている。見える風景が実在の窓の外なのか、人物の内面へ開いた像なのかは決めがたい。非常に具体的な物の組み合わせが、空間の整合性をわずかに崩し、象徴主義特有の不確かな感覚を生んでいる。 (参照:バイエルン州絵画コレクション|《私は私自身に扉を閉ざす》、ベルギー王立美術館|《記憶(ローンテニス)》)
ミュンヘンで購入されたベルギーの象徴画
バイエルン州絵画コレクションによれば、この作品は1893年にミュンヘンの展覧会で作者から購入された。制作地や作家の国籍と、収集された都市が異なることは、象徴主義の絵画が国際的な展示と市場の中で評価されていたことを示す。クノップフの表現はベルギーの画壇に属しながら、ドイツ語圏の鑑賞者にも受け入れられた。
その後、ミュンヘンのコレクションの中に入ったことによって、作品は別の歴史を持つ。読者や批評家が詩との関係をどう捉え、絵の中の物をどう解釈するかも地域ごとに変わり得る。象徴主義を一つの国の様式として分類するより、作品の移動と受容の経路を追う方が、その実態を理解しやすい。 (参照:バイエルン州絵画コレクション|《私は私自身に扉を閉ざす》、バイエルン州絵画コレクション|クノップフ作家記録)
《愛撫》――スフィンクスのもう一つの姿
人と獣が親密に寄り添う画面
クノップフの《愛撫》は1896年の油彩で、若い人物と、人間の頭部を持つ猫科の動物が顔を寄せている。横に長い画面は二者の接触を強調し、怪物の身体の曲線と人物の直立する姿を対置する。ベルギー王立美術館は50.5センチ×151センチの油彩として記録している。モローの《オイディプスとスフィンクス》を思い起こさせる主題でもある。
モローの作品で怪物と青年は謎をめぐって対峙していた。《愛撫》では接触は柔らかく、危険と優しさをすぐに見分けることが難しい。スフィンクスの首や頭部が人間に近いことは、親密さと異質さを同時に感じさせる。二つの身体が交わる場所へ意味を集中させる点に、神話画を独自の象徴へ変えるクノップフの方法がある。 (参照:ベルギー王立美術館|《愛撫》、メトロポリタン美術館|《オイディプスとスフィンクス》)
直線的な背景としなやかな身体
背景の石壁や地面は水平・垂直の線で組まれ、二人の姿を舞台装置の前へ浮かび上がらせる。建築的な直線と、動物の背や尾の柔らかい線が互いの性格を強める。顔を寄せる身振りには動きがありながら、全体は古代彫刻のように止まって見える。この止められた時間が、画面を日常の動物とのふれあいから遠ざけている。
怪物の毛並みと肌、硬い壁面という異なる物質の描き分けにも注目できる。細部が写実的であるほど、あり得ない人獣の組み合わせが具体的な存在として立ち上がる。象徴主義の奇妙さは形を荒く崩すことによってだけ作られたのではない。クノップフの場合、精密な描写が幻想の説得力を支えた。 (参照:ベルギー王立美術館|《愛撫》、バイエルン州絵画コレクション|《私は私自身に扉を閉ざす》)
危険な女性像という同時代の視線
十九世紀末の象徴主義には、女性を謎や欲望、死の力と結びつける表現が数多く見られる。人間の顔を持つ怪物の主題もその一部であり、モローやクノップフは古代神話から豊富な材料を得た。これらを制作した社会では、女性の心理や役割が男性画家の想像の中で強く象徴化されていた。作品が描くものと、現実の女性の経験との間には歴史的な距離がある。
《愛撫》における関係は、人物が怪物を征服した場面とも、怪物に完全に屈した場面とも決められない。その曖昧さが画面の重要な性質になっている。作品を現代の視点から読む際には、当時の女性表象の慣習を確認しながら、実際に描かれた視線や身体の距離へ戻って分析したい。 (参照:ベルギー王立美術館|《愛撫》、メトロポリタン美術館|象徴主義の美術史)
ベックリン――風景の中に生まれる神話
スイスからイタリアへ続いた制作生活
アルノルト・ベックリンはバーゼルに生まれ、ローマやフィレンツェなどイタリアの環境と長く関わりながら制作した。地中海の岩山、樹木、海岸、古代の建築を知る経験が、彼の幻想的な風景を支えた。バーゼル美術館は彼を十九世紀の象徴主義を代表する作家の一人と位置づけ、古代神話と風景を結びつける作品を多数所蔵している。
画面の地形には現実の風景を思わせる質感があるが、そこへ神々や怪物が現れることで場所の性格が変わる。自然の観察と神話の想像が分かれず、一つの絵画空間を作っている。イタリア風景が単なる旅行先の記録を越え、死や不安を想像する場へ変わる過程に、彼の独特な風景画の考え方が見える。 (参照:バーゼル美術館|ベックリンと同時代美術の比較研究、メトロポリタン美術館|《死の島》1880年の第二版)
古代への関心と同時代の批評
ベックリンは神話的な題材で高い人気を得たが、同時代の評価は一致していなかった。バーゼル美術館は、革新的な画家として支持する人々と、近代美術の進歩を妨げる過去志向の作家とみなす批評家の対立を記録している。彼の作品が古代の形を使いながら、見る者の不安を強く刺激したことが、その評価を複雑にした。
美術史の進歩を写実から抽象へ向かう一本道と捉えると、古代神話を描く作家は後ろ向きに見えやすい。ベックリンが作った場所は、過去の神話を説明するための復元図とは異なる。存在しない風景を現実らしい空間として提示し、観客に見えない経験を思い描かせた点で、十九世紀の新しい絵画上の問題に応えていた。 (参照:バーゼル美術館|ベックリンと同時代美術の比較研究、バーゼル美術館|19世紀コレクションとベックリン)
《ペスト》に見る恐怖の擬人化
ベックリンの《ペスト》では、病の恐怖が空を移動する怪物の姿へ変えられている。バーゼル美術館の研究では、1898年のこの主題は、当時の伝染病への恐れと、作者自身の病の経験を背景に考察されている。ここで怪物は神話の登場人物を忠実に再現するためのものではない。目に見えない災厄を、都市の上へ現れる一つの動く身体として示すための造形だった。
現実に起こる病と、想像上の存在との間には大きな距離がある。画家はその距離を利用し、人々を圧倒する力を見える形へ変えた。出来事を医学的に説明する情報は少なくても、画面は災厄が訪れるときの恐れを伝える。象徴主義の「見えないものを描く」という志向は、宗教や夢だけでなく社会の不安にも向けられていた。 (参照:バーゼル美術館|ベックリンと同時代美術の比較研究、バーゼル美術館|19世紀コレクションとベックリン)
《死の島》――何度も描かれた架空の場所
岩島へ向かう舟と、静止する時間
《死の島》には、暗い海に囲まれた岩の島が描かれている。高く伸びた糸杉の間には白い建築や墓を思わせる穴があり、前景には小舟が近づく。舟の上には白い布をまとった人物と、布で覆われた棺のような形が見える。水面には大きな波がなく、移動中の舟がほとんど止まっているように見える。島の入口へ進む視線は、内部の見えない空間で遮られる。
ここに描かれた島を実在の地名へ確定することは、作品理解の中心にはならない。ベックリンは地中海の風景から形を得ながら、現実の旅行者が到着できない場所を作った。巨岩の重さと暗い緑、白い人物の対比が、観客を夢と弔いの境界へ導く。死そのものは描かれず、死へ近づく行為が風景の構成になっている。 (参照:メトロポリタン美術館|《死の島》1880年の第二版、バーゼル美術館|《死の島》の複数版と作家研究)
1880年の二つの作品と注文主
1880年、ベックリンは最初の《死の島》を描いていた。その制作途中にフィレンツェのアトリエを訪れたマリー・ベルナが作品に強く引かれ、第二の版を注文した。メトロポリタン美術館の所蔵記録によれば、注文主は亡くなった夫への追悼に結びつけて、舟へ棺と白い衣装の人物を加えるよう求めた。現在同館が所蔵する第二版は、木の板に油彩で描かれている。
第一版はバーゼル美術館にあり、両者はほぼ同じモチーフを共有する。注文と制作の順番を追うと、画面に最初からすべての意味が固定されていたわけではないことが分かる。特定の人の喪失という私的な事情が加わり、架空の島は追悼の場としてさらに強い性格を帯びた。象徴的な像は、制作途中の対話によっても変化した。 (参照:メトロポリタン美術館|《死の島》1880年の第二版、バーゼル美術館|《死の島》の複数版と作家研究)
五つの版と複製による普及
ベックリンは1880年から1886年にかけて《死の島》を五つの版で制作した。バーゼル美術館によれば現在残るのは四つで、第五ではなく制作順で第四に当たる一作が第二次世界大戦中に失われている。複数の版では、島の岩や水面、舟と人物の位置がそれぞれ少しずつ違う。一枚の決定版だけで作品を理解しようとすると、反復によって像が調整された過程を見落とす。
《死の島》は版画などによって広く知られるようになり、ドイツ語圏の室内で親しまれた。メトロポリタン美術館は、後の作曲家ラフマニノフや画家ダリに影響を与えたことを紹介している。特定の風景が鑑賞者ごとの記憶と結びついて再解釈される現象は、象徴主義の像がもつ開かれた性格をよく示している。 (参照:バーゼル美術館|《死の島》の複数版と作家研究、メトロポリタン美術館|《死の島》1880年の第二版)
象徴主義の展覧会と国際的な交流
サロンから新しい展覧会へ
モローが1864年のサロンで注目された時代から、1890年代の象徴主義はさまざまな展示制度を利用するようになった。ブリュッセルの二十人会ではクノップフらが国際的な作家と交流し、パリでは象徴主義の文学・思想に近い展覧会が開催された。絵の意味や評判は、作品の内部だけで決まるものではない。誰が展示を企画し、どの作家を同じ場所に集めるかが、新しい芸術の輪郭を形づくった。
特定の団体に参加したかどうかと、今日の美術史で象徴主義に分類されることは同じ条件ではない。モロー、ルドン、クノップフ、ベックリンの制作と展示の経路は大きく異なる。互いに似ている題材があっても、作家が実際に何を見てどこへ作品を出したのかを確認することで、後世の分類と当時の活動を分けられる。 (参照:モロー美術館|《オイディプスとスフィンクス》の素描とサロン、バイエルン州絵画コレクション|クノップフ作家記録)
1892–1897年の薔薇十字サロン
作家・批評家ジョゼファン・ペラダンは1892年から1897年まで、パリで薔薇十字サロンを主催した。グッゲンハイム美術館の研究によると、初回は画商デュラン=リュエルの画廊で開かれ、フランスやベルギーを含む複数の国の画家が集められた。神秘、宗教、神話、夢を重んじる方針は、象徴主義の多様な表現の中でも特定の精神的な志向を強く打ち出していた。
ペラダンは出品作の主題へ厳しい条件を設け、カトリック的な理想や秘教的な思想を重視した。今日この展覧会を見ると、独立した作家の自由な表現と、主催者が期待した精神的な内容の間に緊張があったことが分かる。象徴主義が公的なアカデミーから離れたとしても、展示の場で独自の規範を作り出すことがあった。 (参照:グッゲンハイム美術館|薔薇十字サロン展の研究発表、グッゲンハイム美術館|薔薇十字サロンの出品規則)
文学、音楽、展覧会空間の連動
薔薇十字サロンでは、詩や音楽を含む複数の芸術を関連づける構想が示された。グッゲンハイム美術館は、ワーグナーの総合芸術思想がペラダンの美術観へ作用し、音楽が重要な位置を占めたことを解説している。展示される絵画だけでなく、どのような場で鑑賞者を迎えるかも、精神的な経験の一部として考えられていた。
現代の美術館でこれらの作品が個別に並ぶ場合、当時の会場が目指した雰囲気までは伝わりにくい。後世の展覧会が壁色、照明、家具を使って薔薇十字サロンの環境を再構成する試みもある。芸術作品と鑑賞空間を一体として考える課題は、次の時代の装飾芸術やウィーン分離派へも接続していく。 (参照:グッゲンハイム美術館|薔薇十字サロンの展示空間、グッゲンハイム美術館|薔薇十字サロン展の研究発表)
女性像、死、夢――繰り返された主題を読み直す
スフィンクスとサロメが担わされた意味
モローとクノップフの神話画を比べると、女性の顔を持つ怪物やサロメが、欲望、知性、死の力を表す存在として繰り返し現れる。同じ身体に美しさと危険を結びつける方法は、十九世紀末の美術と文学で強い関心を集めた。メトロポリタン美術館は、この時代の象徴主義において理想化された女性像と危険な女性像が対をなすことを指摘している。
こうした像の研究では、作品が何を暗示するかに加えて、誰が女性の身体へ意味を与えたのかを考える必要がある。スフィンクスの謎は女性の謎に結びつけて論じられたが、それは当時の批評と表象の枠組みでもあった。画家の技法を具体的に理解することと、その歴史的な視線を検討することは、同じ作品研究の中で進められる。 (参照:メトロポリタン美術館|象徴主義の美術史、メトロポリタン美術館|《オイディプスとスフィンクス》)
《閉じた眼》と《死の島》の異なる沈黙
ルドンの《閉じた眼》とベックリンの《死の島》は、どちらも観客に静かな時間を感じさせる。前者では人物の目が閉ざされ、後者では小舟が岩島へ近づく。画面から説明的な動作や音が省かれるため、観客は人物の内側や島の先にある未知の場所を想像する。形の違う二つの作品が、見えない部分を残すことで似た経験を生み出している。
両作を同じ死の象徴へ一括する必要はない。《閉じた眼》には眠りや夢の可能性もあり、《死の島》は追悼の依頼と結びつく。個々の作品の制作経緯を確かめれば、沈黙を作る方法と歴史的な背景が異なることが分かる。象徴主義の豊かさは、似た感情に到達する複数の方法が共存した点にもある。 (参照:オルセー美術館|《閉じた眼》、メトロポリタン美術館|《死の島》1880年の第二版)
謎が残ることと歴史研究の精度
象徴主義の作品は、すべてのモチーフを辞書のように置き換えて説明できるものとして扱わない方がよい。画家が残した言葉や、注文主の記録、当時の展覧会目録から確認できる事実と、鑑賞者が構図や色彩から読み取る印象は性格が異なる。前者には資料的な裏づけがあり、後者には作品を見る行為によって広がる余地がある。
たとえば《死の島》の棺の追加は所蔵館の資料で確かめられ、《私は私自身に扉を閉ざす》の文学的な題名にも出典がある。その先の心情をすべて作者の意図と断定することは慎重に考えたい。資料を丁寧に使うことで、作品が許す複数の解釈をいっそう豊かに鑑賞できる。 (参照:メトロポリタン美術館|《死の島》1880年の第二版、バイエルン州絵画コレクション|《私は私自身に扉を閉ざす》)
象徴主義から二十世紀の絵画へ
平面性と装飾――ナビ派との接続
ピュヴィスの淡い色面や、モローの細かな装飾、ルドンの曖昧な輪郭には、現実の空間を一義的に再現することから画面を離す動きが認められる。1890年代のナビ派はゴーギャンの表現を手がかりに、色と線の配置をさらに自覚的に探った。作家の目的は一様ではないが、鑑賞者が意味を感じるために画面そのものを構成するという課題には共通する部分があった。
先行する象徴主義者を抽象絵画の準備段階としてのみ見ると、それぞれの作品が持つ固有の主題を見失う。モローの歴史画は神話を再編集し、ルドンの木炭画は不安定な像を作り、ピュヴィスの装飾画は公共空間に静かな時間を与えた。これらを個別に理解したうえで、後の平面性の研究へつながる部分を考えることができる。 (参照:メトロポリタン美術館|《羊飼いの歌》、メトロポリタン美術館|象徴主義の美術史)
表現主義、形而上絵画、シュルレアリスムへの反響
ルドンの現実には存在しない生き物や、ベックリンの架空の島は、二十世紀に幻想的なイメージを制作した画家たちにとって重要な先例となった。メトロポリタン美術館は《死の島》が後のダリにも影響を与えたと記録する。視覚的な驚きを生む方法が、世代を越えて別の芸術の中で読み替えられたのである。
後の作家たちは、現実の物体を不可能な関係へ置く方法や、空間に説明しきれない時間を与える方法を、それぞれ異なる目的で再利用した。新しい政治的背景や技法の中で、先行作品の造形は別の意味を帯びていく。受容の歴史は引用と変化の両方を含んでいる。 (参照:メトロポリタン美術館|《死の島》1880年の第二版、ニューヨーク近代美術館|木炭画《眼の気球》)
神話、版画、写真、風景が示した複数の道
モローは神話の人物と装飾を積み上げ、ルドンは黒い粉と版画で像の境界を曖昧にし、クノップフは写真を用いて記憶を編集し、ベックリンは実在しない島を何度も描き直した。四人の作品は見た目も材料も異なる。同じ「象徴主義」の名のもとで、何をどのように作ったのかを比較すると、様式名では説明しきれない制作の具体性が現れる。
十九世紀末に共通していたのは、絵画が見える事物の説明だけで完結せず、鑑賞者の記憶や経験を動かす場になり得るという発見だった。それを実現する手段は、油彩、パステル、木炭、石版、写真資料、展覧会空間まで広がる。次の時代の画家たちは、これらの異なる成果と同時に向き合いながら、新しい表現を探していくことになる。 (参照:メトロポリタン美術館|象徴主義の美術史、バーゼル美術館|ベックリンと同時代美術の比較研究)
象徴主義とその周辺の年表
- 1826年 — ギュスターヴ・モロー誕生。
- 1827年 — アルノルト・ベックリン誕生。
- 1840年 — オディロン・ルドン誕生。
- 1858年 — フェルナン・クノップフ誕生。
- 1864年 — モローが《オイディプスとスフィンクス》をサロンへ出品。
- 1868–1877年 — バーン=ジョーンズが《愛の歌》を制作。
- 1870年代 — ルドンが木炭画による「ノワール」の制作を発展させる。
- 1876年頃 — モローが《出現》やサロメをめぐる複数の作品を制作。
- 1878年 — ルドンが木炭画《眼の気球》を制作。
- 1880年 — ベックリンが《死の島》の最初の二つの版を制作。
- 1882年 — ルドンが《奇妙な気球のように眼は無限へ向かう》を石版画で制作。
- 1883年 — クノップフがブリュッセルの二十人会に加わる。
- 1884年 — モローの未完成作《キマイラたち》に年記が入る。
- 1886年 — ジャン・モレアスが文学の象徴主義宣言を発表。
- 1886年 — ベックリンが《死の島》第五版を制作。
- 1889年 — クノップフが《記憶(ローンテニス)》を制作。
- 1890年 — ルドンが《閉じた眼》を制作。
- 1891年 — クノップフが《私は私自身に扉を閉ざす》を制作。
- 1892年 — パリで第1回薔薇十字サロンが開催される。
- 1893年 — バイエルン州のコレクションがクノップフの作品をミュンヘンで購入。
- 1895年 — モローが《ユピテルとセメレ》を完成、自宅の美術館改造を依頼。
- 1896年 — クノップフが《愛撫》を制作。
- 1896年 — ルドンが『聖アントワーヌの誘惑』の石版画集第三組を制作。
- 1897年 — 薔薇十字サロンの連続開催が終了。
- 1898年 — モロー死去。ベックリンが《ペスト》に取り組む。
- 1901年 — ベックリン死去。
- 1903年 — 《ユピテルとセメレ》がモロー美術館へ寄贈される。
- 1904年 — ルドンの《閉じた眼》がフランスの国立コレクションに入る。
- 1916年 — ルドン死去。
- 1921年 — クノップフ死去。
まとめ――見えないものを描く多様な方法
象徴主義の絵画は、特定の筆触や色彩だけで分類できるものではない。モローは古典的な歴史画の方法を用いて神話の緊張を強め、ルドンは木炭と石版画によって不可能な生き物を具体的な像へ変えた。クノップフは写真の観察と記憶の編集を重ね、ベックリンは自然の研究から実在しない死の島を描いた。いずれの作品にも技術上の選択があり、曖昧な意味を作るための明確な造形判断がある。
また、作家たちの活動はサロン、独立展、画廊、公的収集の制度と結びついていた。モローの1864年の成功、クノップフ作品の国際的な購入、ルドンの版画の流通、ベックリン作品の反復制作と複製は、精神的な主題が具体的な社会と技術の中で広まったことを示す。象徴主義を近代社会から隔絶した夢の世界として理解するより、近代の視覚文化が生み出した複数の方法として考える方が、その実像に近づける。
これらの作品には、作者の記録や所蔵館の資料から確認できる事実と、後世の鑑賞者が繰り返し見いだしてきた解釈が共存する。双方を区別しながら見ることによって、象徴主義が作った「暗示」の豊かさもより正確に理解できる。神話、風景、写真、版画から生まれた異なる成果は、1890年代のナビ派や装飾芸術、さらに二十世紀の新しい表現へ向かう画家たちが参照できる、多様な選択肢となった。
参考資料・出典
作品の制作年・材料・所蔵・来歴は各館の収蔵記録に基づき、当時の展示・思想の背景は美術館が公開する研究資料で確認した。構図と視覚的な効果についての分析は、確認できる事実と区別して記述している。
- メトロポリタン美術館|象徴主義の美術史
- モロー美術館|《オイディプスとスフィンクス》の素描とサロン
- メトロポリタン美術館|《オイディプスとスフィンクス》
- メトロポリタン美術館|《羊飼いの歌》
- メトロポリタン美術館|《愛の歌》
- モロー美術館|《キマイラたち》
- モロー美術館|画家の家から美術館へ
- モロー美術館|主要作品と展示室
- モロー美術館|《出現》
- メトロポリタン美術館|《ヨハネの首を持つサロメ》
- モロー美術館|《ユピテルとセメレ》
- モロー美術館|《エウリュディケの墓前のオルフェウス》
- ニューヨーク近代美術館|木炭画《眼の気球》
- ニューヨーク近代美術館|石版画《奇妙な気球のように眼は無限へ向かう》
- オルセー美術館|ルドンの素描展とノワール
- ニューヨーク近代美術館|《聖アントワーヌの誘惑》連作
- オルセー美術館|《閉じた眼》
- オルセー美術館|ルドンと仏教図像
- オルセー美術館|ルドン《ポール・ゴーギャン》
- バイエルン州絵画コレクション|クノップフ作家記録
- ベルギー王立美術館|《記憶(ローンテニス)》
- フランドル美術普及財団|クノップフ《記憶》研究
- バイエルン州絵画コレクション|《私は私自身に扉を閉ざす》
- ベルギー王立美術館|《愛撫》
- メトロポリタン美術館|《死の島》1880年の第二版
- バーゼル美術館|《死の島》の複数版と作家研究
- バーゼル美術館|ベックリンと同時代美術の比較研究
- バーゼル美術館|19世紀コレクションとベックリン
- グッゲンハイム美術館|薔薇十字サロン展の研究発表
- グッゲンハイム美術館|薔薇十字サロンの出品規則
- グッゲンハイム美術館|薔薇十字サロンの展示空間
資料確認日:2026年10月12日 / ART LIBRARY


