1953–1962
なぜ絵画に身近な物やイメージが入り込んだのか?
ラウシェンバーグ、ジョーンズとニューヨークのネオダダ
1950年代のニューヨークでは、絵画の表面に新聞、布、写真、看板の断片が貼り込まれ、やがて枕や布団、タイヤ、剥製の動物までもが姿を現した。同じ頃、ジャスパー・ジョーンズは誰もが知っているアメリカ国旗や射撃の標的を、蜜蝋を混ぜた絵の具で丹念に描いた。ありふれた物や見慣れたイメージが、なぜ美術の中心的な問題になったのだろうか。この変化を理解するには、物を持ち込む行為と、身近な記号を描く行為の違いから見ていく必要がある。
当時、ニューヨークでは抽象表現主義の画家たちが独自の大画面絵画を発展させ、その革新が美術館や批評家から評価されていた。絵の具の動き、筆触、巨大な色面は、それぞれの画家が世界に向き合う方法となった。その環境で活動したロバート・ラウシェンバーグとジョーンズは、先行世代の成果をよく知りながら、新聞に印刷された文字、使い込まれた寝具、国旗のような公共的な記号を絵画の問題に加えた。
二人の活動は、20世紀初頭のダダやマルセル・デュシャンによる既製品の作品化とも結びついている。美術品と日用品の境界、作者が何を決めるのかという問いが、戦後の大量印刷物や都市生活のなかで新たな形をとった。またジョン・ケージやマース・カニングハムとの交流は、偶然の出来事、身体の動き、舞台と客席の関係をめぐる実験につながり、美術作品を作るという行為そのものを広げた。
本記事では1953年から1962年を軸に、ラウシェンバーグの《消されたデ・クーニングのドローイング》《ベッド》《モノグラム》、ジョーンズの《旗》《4つの顔のある標的》《3つの旗》などを具体的に読み解く。1958年のレオ・カステリ画廊、1959年のMoMA《16人のアメリカ人》、1961年の《アサンブラージュの芸術》展を通じて、個々の実験がどのように美術史上の変化として認識されたのかを追い、1962年に印刷画像を用いる絵画へつながる過程までたどる。
CONTENTS
- 戦後ニューヨークで絵画の何が変わろうとしていたのか
- ダダの再発見と1953年という節目
- 絵画の外にある出来事を受け入れる
- 1953年、描かれたものを消すという制作
- 新聞と布が絵画の材料になる
- コンバインは何を変えたのか
- 1954〜1955年、ジョーンズはなぜ国旗を描いたのか
- 1955年、標的と身体の断片が同居する
- 1955年、《ベッド》が示した生活と絵画の接点
- 1955年、《レバス》と都会のイメージ
- 1955〜1959年、《モノグラム》に何が起きたのか
- 1959年、《キャニオン》に集まる物と記憶
- 1957年、同じように見える二枚の絵を作る
- ジョーンズは記号を繰り返すことで何を見つけたのか
- 1960年、ビール缶が彫刻になる
- 作家同士の協働は何を生み出したのか
- 1958年、画廊が新しい作品を評価し始める
- 1959年、MoMA《16人のアメリカ人》展
- 「ネオダダ」という名前が持っていた問題
- 1961年、アサンブラージュが美術館で語られる
- 1962年、印刷された写真が絵画の中へ流れ込む
- なぜ身近な物やイメージが絵画に入ったのか
- 年表|1953〜1962年の主要な出来事
- まとめ|身近なものが絵画を変えた理由
- 参考資料・出典
戦後ニューヨークで絵画の何が変わろうとしていたのか
抽象表現主義が切り開いた画面の自由
1940年代後半から1950年代前半のニューヨークでは、ポロックの滴下技法やデ・クーニングの塗り直された人体など、絵の具を使って画面を成立させる方法が大きく変わっていた。批評家たちは画家の身振り、素材の扱い、大画面の経験を論じ、ニューヨークを新しい絵画の中心として紹介した。
この変化はラウシェンバーグらの制作条件にもなった。彼らは絵の具の自在な運動を知っていたからこそ、その運動が向かう先に日常の布や印刷物を置くことができた。1960年代の美術が突然抽象を捨てたという物語より、抽象のなかで開かれた自由が別の材料へ及んだ過程として見る方が、作品の質感や時間を理解しやすい。(参照:ラウシェンバーグ財団|1948〜1954年の初期作品)
大都市の路上と大量に流れる印刷物
戦後のマンハッタンでは、新聞、広告、写真雑誌、商品包装、商店の看板が日々の視覚環境をつくっていた。新聞の文字は情報を届けると同時に、時間が経てば捨てられる物でもある。ラウシェンバーグが拾い上げたのは、そうした都市の現在を直接まとった材料だった。
新聞を貼れば、そこには文字の断片と印刷の色、紙の皺、切り抜いた跡が同居する。時間や場所に結びついた物質が画面の中へ入り、絵画は完成した構図だけでなく、都市から運ばれた複数の痕跡を受け止めるようになった。これは1950年代後半に複製画像そのものを扱う制作へ発展する重要な条件となる。(参照:MoMA|ラウシェンバーグ《レバス》)
「ネオダダ」はどのような呼び名だったのか
1950年代末、ラウシェンバーグやジョーンズらの作品は「ネオダダ」と呼ばれるようになった。MoMAで紹介された研究によれば、当初は新しい作品を軽視するような響きで使われることもあり、作家たちが同じ綱領を掲げた運動の正式名称だったわけではない。
この呼び名が示しているのは、1910〜20年代のダダが投げかけた問題が戦後の状況で再び現れたことである。同時代の画家をひとつの様式に閉じ込めず、既製品、日常の記号、偶然、複製をめぐる複数の実験を結びつける歴史的な目印として用いると、作品の違いを保ったまま時代を把握できる。(参照:MoMA|戦後ニューヨークにおけるダダの再発見)
ダダの再発見と1953年という節目
デュシャンが残した「選ぶ」という制作
マルセル・デュシャンは20世紀初頭、既製の物を選び、題名や展示場所を与えることで、何が美術作品になるのかを問い直した。物を精巧に作る技術に加え、どの物を選び、どこに置き、どう名づけるかという判断が芸術の一部になった。
ニューヨークの若い画家にとって、この考え方は抽象表現主義とともに参照できるもうひとつの先例だった。国旗を描くこと、他人の絵を消すこと、街で見つけた品物を絵へ貼り込むことは、作品の輪郭をどこに引くのかという問いを異なる手段で具体化していた。(参照:MoMA|ダダの歴史と制作方法)
1951年のダダ資料集と歴史の再編集
1951年、ロバート・マザウェル編集の『The Dada Painters and Poets』が刊行された。抽象表現主義の主要な画家でもあったマザウェルは、以前の前衛運動の文章や図版を集め、ダダを戦後アメリカの読者がまとまって検討できる対象にした。
この刊行は、ダダと抽象表現主義を遠く離れた二つの時代に置く見方を揺さぶるものだった。先行する運動を、過去の奇抜な逸話として扱う段階から、今の作品づくりを考える資料として読み直す段階へ移したのである。歴史を編集する行為そのものが、次の表現を育てる環境となった。(参照:MoMA|戦後ニューヨークにおけるダダの再発見)
1953年のシドニー・ジャニス画廊「ダダ」展
1953年、ニューヨークのシドニー・ジャニス画廊では、デュシャンが企画に関わったダダの展覧会が開催された。かつての作品をまとめて展示することで、ダダは回想の対象から、ニューヨークの現役作家が身近に検討できる美術史へ姿を変えた。
同じ年、ラウシェンバーグはデ・クーニングのドローイングを消す作品に取り組んでいる。二つの出来事を直接的な因果関係として結びつける必要はない。ダダの歴史が展示される街で、現代の絵画に対する敬意と挑戦がひとつの作品へ凝縮されていたという同時代性に意味がある。(参照:MoMA|戦後ニューヨークにおけるダダの再発見)
絵画の外にある出来事を受け入れる
ブラック・マウンテン・カレッジの実験
ラウシェンバーグはノースカロライナ州のブラック・マウンテン・カレッジに学び、ジョン・ケージや振付家マース・カニングハムとの交流を深めた。この学校では、美術、音楽、詩、ダンスが互いの方法へ影響を与え、作品が生まれる状況自体を考える実験が行われていた。
完成された画面を一人でつくる方法に、偶然の音、複数の人の行為、場の変化を重ねる。こうした経験は、都市で見つけた物を画面へ迎え入れる姿勢とも結びつく。ニューヨークのネオダダを絵画の材料史として読む際にも、同時代の舞台芸術や音楽との関係を視野に入れる必要がある。(参照:ラウシェンバーグ財団|ブラック・マウンテン・カレッジでの協働)
1951年の《ホワイト・ペインティング》
ラウシェンバーグの《ホワイト・ペインティング》は、真っ白に塗られた複数のパネルからなる作品群である。空白に見える表面は周囲の光や影の変化を映し、鑑賞者が通り過ぎればその気配を受ける。絵画は描かれた形だけを見せるものという習慣が、ここで揺らぎ始める。
作品そのものは一定の白さを保ちながら、見る時間と空間によって経験が変わる。画面を外部の世界へ開くこの発想は、後の新聞や身の回りの物を使う作品と異なる見た目を持ちながら、日常を芸術から切り離さずに扱う基礎的な実験となった。(参照:ラウシェンバーグ財団|ホワイト・ペインティング)
1952年の舞台実験とケージの音楽
1952年のブラック・マウンテン・カレッジでは、ケージが企画した上演が行われた。話す人、踊る人、音を出す人の行為が同じ時間に現れ、観客は決められた単一の筋を追うより、周囲で起こる複数の出来事を経験した。ラウシェンバーグの白い絵画も会場に掛けられたという。
作品を一つの意味へ収束させず、その場の偶然や観客の注意によって経験が組み立てられる方法は、1950年代の美術に重要な刺激を与えた。絵画へ実物や印刷物を持ち込む行為も、画家が完全に制御する外側から別の出来事が入り込むことを認める試みとして理解できる。(参照:ラウシェンバーグ財団|ブラック・マウンテン・カレッジでの協働)
1953年、描かれたものを消すという制作
《消されたデ・クーニングのドローイング》の成立
1953年、ラウシェンバーグは当時高く評価されていた画家ウィレム・デ・クーニングを訪ね、一枚のドローイングを譲り受けた。そしてその線や陰影を時間をかけて消し、《消されたデ・クーニングのドローイング》を制作した。消し跡と紙の表面が、作品として見るべきものになった。
ここでは何かを描き加える代わりに、すでに存在していた絵から痕跡を取り除くことが制作の中心にある。もとのドローイングが高い評価を受けた作家のものであったため、消去という行為には、先行世代への敬意と新たな表現へ向かう緊張が同時に生まれた。(参照:SFMOMA|《消されたデ・クーニングのドローイング》)
額縁と文字によって成立する作品
現在の作品には、細い額縁と余白の下部に記された作品名、作者名、制作年が伴っている。ラウシェンバーグとジョーンズは、消された紙を展示する際の文字や額装も検討した。SFMOMAの研究によると、ジョーンズが文字を書き入れたのは1955年の展示準備に際してだった。
線がほとんど見えない紙を前にした鑑賞者は、題名を読んで、見えなくなったドローイングと消去の時間を想像する。ここでは作業そのものに加え、題名、文字、展示の形式が作品の成立に深く関わっている。後のコンセプチュアル・アートを考えるうえでも重要な先例となった。(参照:SFMOMA|《消されたデ・クーニングのドローイング》調査論考)
破壊なのか、別の形の制作なのか
デ・クーニングのドローイングを消す行為は、攻撃、献辞、挑発、ユーモアなどさまざまに解釈されてきた。SFMOMAが残存する線を可視化した調査は、消された元作品の存在を改めて示すとともに、この作品が消去という出来事の記憶によって成り立っていることを際立たせた。
一枚のドローイングには、最初に描いた時間と、後から消した時間が重なっている。紙の上で新しい形を増やすことに加え、既存の美術作品へ新しい行為を加えることも創作になり得る。この問いは、物の選択や複製を使う後の美術にまでつながっていく。(参照:SFMOMA|《消されたデ・クーニングのドローイング》調査論考)
新聞と布が絵画の材料になる
1953年から始まる赤い絵画
ラウシェンバーグは1953年頃から、新聞紙や模様入りの布を下地に貼った赤い絵画に取り組んだ。赤い絵の具は筆で塗られ、滴らされ、厚く盛られ、ときにはチューブから直接押し出された。下の印刷物や布の模様がところどころ透け、表面には異なる種類の情報と触感が重なる。
絵の具の激しい扱いには抽象表現主義に通じる部分がある。そこにすでに使われていた布や印刷された文字が入ることで、画面は画家の筆触だけに由来するものではなくなっていく。この連続性を知ると、1954年頃のコンバインが前の時代から突然断絶したようには見えなくなる。(参照:ラウシェンバーグ財団|レッド・ペインティングからコンバインへ)
キャンバスの上に異なる時間が重なる
新聞紙には印刷された日付や見出しがあり、布にはかつて衣服や室内で使われた可能性のある手触りが残る。画家が選んだ色と形は、それ以前に誰かが作り、流通させた材料の上で初めて成立する。絵画の表面が、異なる人々の仕事と時間を重ねる場所へ変わっていく。
この方法では、読み取れる文字や物の意味が強く主張しすぎると、画面の構造との関係が変わる。ラウシェンバーグはそうした不均衡も利用し、部分ごとに違う素材が互いの存在感を変える状態を作った。作品は日常の物の寄せ集めであると同時に、視線の動きを組み立てた絵画でもある。(参照:ラウシェンバーグ財団|1948〜1954年の初期作品)
1954年、実物が画面から突き出し始める
1954年夏頃の作品には、鏡、電球、傘などの身近な物が組み込まれるようになる。新聞や布を貼る平面的なコラージュから、見る人のいる空間へ物が突き出す構成へと広がった。ラウシェンバーグ財団は、同時期の作品を赤い絵画とコンバインが連続する過程として位置づけている。
厚い絵の具と実物が接する境界では、物が絵画の主題であり素材でもあるという状態が生まれる。日常で使われていた品物は元の機能を思い起こさせながら、画面の構図を決める形や色にもなる。1950年代のネオダダの重要な転換は、この二重の働きが作品の中心へ入ったところにある。(参照:ラウシェンバーグ財団|レッド・ペインティングからコンバインへ)
コンバインは何を変えたのか
絵画と彫刻が重なる新しい形式
ラウシェンバーグの「コンバイン」は、絵の具で描くこと、画像を貼ること、実物を取り付けることを一つの作品の中で組み合わせる形式である。壁に掛けられる作品もあれば、床へ広がる作品もあり、絵画と彫刻の分類が自然に揺らぐ。
作品の前では、鑑賞者はまず色面や筆触を追い、次に本物の布や木片がそこにあることに気づく。物の厚さや影は、絵の具だけで描かれた奥行きとは違う。現実に存在する物と、絵の中の構図とが同時に働くことが、コンバインの独特な鑑賞経験をつくっている。(参照:MoMA|コンバインの解説)
1954年の発表が示した戸惑い
1954年末、ラウシェンバーグの赤い絵画と初期コンバインがイーガン画廊で発表された。評判は概して厳しく、作品のまとまりや材料の選択に疑問を持つ声が強かった。抽象表現主義の絵画を評価する基準から見ると、物を貼り込んだ作品は理解しにくいものだった。
ここでの戸惑いは新しい表現の歴史に重要な位置を占める。何を描いたか、どう上手く描いたかという判断に、なぜその物を選んだのか、物が画面をどう変えたのかという別の問いが加わった。批評家フランク・オハラらが早くから可能性を認めたことも、評価の変化を考える手がかりとなる。(参照:ラウシェンバーグ財団|レッド・ペインティングからコンバインへ)
材料が選ばれた場所も作品の一部になる
コンバインには商店や路上で見つけられた品物が用いられた。材料の由来を知ると、一つひとつの形が単なる抽象的な色彩要素に見えなくなる。街を歩き、目に留まった物を拾い、アトリエへ運ぶ時間が、制作の中へ入り込む。
作品は都市生活をありのまま記録する資料とも異なる。拾った物は切り離され、別の物と隣り合い、絵の具を浴びて役割を変える。現実の断片と画家の選択が出会うところに、コンバインの創作上の強さがある。(参照:MoMA|ラウシェンバーグ《キャニオン》)
1954〜1955年、ジョーンズはなぜ国旗を描いたのか
身近すぎて見過ごされる形を選ぶ
ジャスパー・ジョーンズは1954〜1955年の《旗》で、誰もが形と配色を知っているアメリカ国旗を絵画の中心に据えた。新しい主題を想像して描くより、最初から社会の中にある模様を使うことで、描き方そのものへ注意を向ける余地が生まれる。
国旗は特定の風景や人物を描写するための輪郭を探す必要がない。その分、絵の具の厚さ、紙や布の重なり、画面が物として存在することがはっきり見えてくる。見慣れているはずの図像を見直させるところに、ジョーンズの革新があった。(参照:MoMA|ジョーンズ《旗》)
新聞、布、蜜蝋が作る国旗の表面
《旗》には、切った布と新聞紙を重ね、溶かした蜜蝋に顔料を混ぜたエンカウスティックや油絵の具を用いる方法が採られた。赤と白の縞は遠くから見るとすぐ国旗と分かるが、近づけば無数の皺や塗り跡が浮かび上がる。
旗の模様は既知のものでも、その表面を作る作業は一回ごとの判断の積み重ねである。新聞の文字は国旗の色の下から部分的に姿を見せ、社会の記号と個々の材料が同じ場所に重なる。絵が国旗を表すのか、国旗として存在するのかという問いも生まれてくる。(参照:MoMA|ジョーンズ《旗》)
冷戦期の記号をどう見るか
1950年代のアメリカ国旗は、戦後の国家意識や冷戦下の政治的緊張とも結びついていた。国旗が作品になれば、鑑賞者はその形に込められた意味を自分の経験から読み取る。愛国的な象徴として見る人もいれば、象徴の強さ自体を問い直す人もいる。
ジョーンズの作品が長く考察されてきたのは、国旗の意味を一つの政治的な主張へ固定しない構造にもよる。彼は多くの人が知っている記号を素材にすることで、同じ絵画が物質、図像、公共的な意味の間を行き来する状態を作った。(参照:MoMA|ジョーンズ《旗》)
1955年、標的と身体の断片が同居する
《4つの顔のある標的》という不思議な絵画
ジョーンズの《4つの顔のある標的》(1955年)には、青、黄、赤の同心円が描かれ、その上に顔の一部をかたどった石膏の型が四つ並ぶ。上部の箱には蓋があり、顔の断片を見せたり隠したりできる。平面的な模様と立体的な身体が、一枚の作品として結びついた。
射撃の標的は視線を中心に集めるための図像である。そこへ目を欠いた顔が置かれると、見るという行為自体が奇妙な緊張を帯びる。標的の模様はありふれていても、身体との組み合わせによって、新たな連想が作品の中へ入り込む。(参照:MoMA|ジョーンズ《4つの顔のある標的》)
触れられそうな表面が絵を見る習慣を変える
同心円は絵の具を薄く均一に塗った記号の再現ではない。エンカウスティックが新聞紙や布の上に重ねられ、表面に厚みとざらつきが残る。遠くでは単純な標識に見えたものが、近くでは複雑な物質の集積として現れる。
普通の標的は、遠くから正確に中心を狙えることが重要になる。ジョーンズの標的は見る人を近づかせ、形の間にある材料や塗り方を確かめさせる。よく知っている記号を、あらためて時間をかけて見る対象へ変えたのである。(参照:MoMA|ジョーンズ《4つの顔のある標的》)
絵画と立体の境目を問い直す
上部の石膏像を収めた木箱は、絵画の縁を越えた別の奥行きをつくる。観客は画面全体をひとつの絵として見ながら、石膏や蓋が現実に場所を占めていることにも気づく。標的の印刷図形を描き直すことが、物の存在を考える入口になる。
ラウシェンバーグは実物を持ち込んで絵画を変え、ジョーンズは既知の図像を緻密に作り直しながら立体を組み合わせた。同じ時代に並行していた二人の実験を比較すると、ネオダダの多様性が具体的な形で理解できる。(参照:MoMA|ジョーンズ《4つの顔のある標的》)
1955年、《ベッド》が示した生活と絵画の接点
枕と布団が壁に掛けられる
ラウシェンバーグの《ベッド》(1955年)は、枕、シーツ、キルトを木の支持体に組み合わせ、そこへ油絵の具や鉛筆の線を加えた作品である。通常なら身体を横たえるための寝具が、壁に掛けて鑑賞される美術作品になった。物が本来の機能を保ちながら新しい場所に置かれている。
絵の具のしぶきにはポロックの抽象表現主義を思わせる勢いがある。それでも枕の膨らみやキルトの縫い目を見ると、鑑賞者は日常の身体を想像せずにはいられない。絵画が暮らしの物へ接近し、物が絵画として扱われる境目が、この作品では目に見える。(参照:MoMA|ラウシェンバーグ《ベッド》)
塗ることと使われてきた物の記憶
キルトの模様は画家が絵の具だけで作った構成ではなく、布がもともと持っていた色や縫製の結果である。ラウシェンバーグは、その上へ絵の具を流し、鉛筆で書き込み、既存の物を自分の制作工程へ取り込んだ。完成作品には、布が使われた時間と制作中の時間が重なる。
寝具という用途が強く伝わるため、壁に掛けても単なる抽象的な矩形としては見えない。絵の具を浴びた布の表面から、そこにかつて身体があったことを感じ取る。作品の意味を一点に固定する代わりに、複数の経験を画面へ重ねる方法が成立している。(参照:MoMA|ラウシェンバーグ《ベッド》)
抽象表現主義の身振りを別の場所で使う
《ベッド》の筆触には、同時代のアクション・ペインティングを連想させる部分がある。大きな動作による絵の具の跡は抽象表現主義とのつながりを示し、同時に寝具の具体性がその見え方を変えている。画家の表現と日常の物は、互いの性格を押し返し合う。
この関係は、既存の絵画を単純に否定する姿勢より複雑である。先行世代が切り開いた塗り方を受け取り、ふだんの生活で使う物へ向けたことで、絵画をどこまで広げられるかが試された。そこにネオダダの美術史的な独自性がある。(参照:MoMA|ラウシェンバーグ《ベッド》)
1955年、《レバス》と都会のイメージ
新聞、漫画、ポスターが巨大な画面に集まる
1955年の《レバス》は、横幅3メートルを超える大きな作品である。新聞や雑誌の切り抜き、漫画、政治ポスター、布の断片、手描きの線が広い画面に配置されている。眺める距離によって、色のまとまりと個々の印刷画像が入れ替わるように見える。
新聞を読む場合、人は内容を追って意味を理解する。《レバス》では画像や文字が切り取られ、別の断片に隣接するため、ひとつの筋として読み通すことができない。都市で次々に現れる情報を、画面全体の経験へ変換した作品である。(参照:MoMA|ラウシェンバーグ《レバス》)
解ききれない判じ絵としての構成
「レバス」という題名は絵や文字を組み合わせた判じ物を連想させる。画面を近くで見れば何らかの手がかりが現れるが、すべてを一つの正解へ結びつけることは難しい。異なる情報が同時に存在する都市生活の感覚が、この複雑さに表れている。
MoMAの作品解説は、この絵画を制作時の周囲の環境や時間の記録として位置づける。ある日に見たもの、街で触れたもの、過去の芸術から受け取ったものが、整理しきれないままひとつの画面へ入る。そこでは意味の衝突そのものが構成をつくっている。(参照:MoMA|ラウシェンバーグ《レバス》)
都市の現在が抽象の画面構成へ入り込む
《レバス》を大きく離れて見ると、印刷された情報よりも色の帯や筆触のリズムが目立つ。近くで見ると、新聞の一部や絵柄がそれぞれ異なる世界を指し示す。抽象的な構成と日常のイメージが、見る位置に応じて前後を入れ替える。
この状態は、後のポップアートと共有される重要な前提となった。大衆文化の画像は美術の外に置かれた挿絵ではなく、絵画の空間や時間を実際に組み立てる材料となり得る。ネオダダの作品が次の時代へつながる理由は、ここに見いだせる。(参照:MoMA|ラウシェンバーグ《レバス》)
1955〜1959年、《モノグラム》に何が起きたのか
ヤギの剥製とタイヤが同じ作品になる
《モノグラム》は、剥製のアンゴラヤギの胴体を自動車のタイヤが取り囲み、絵画を置いた台の上に立つ作品である。元の用途も形も違う物が一つのまとまりになるため、見る人は彫刻なのか絵画なのかと考えながら周囲を歩く。
ヤギの剥製は、ラウシェンバーグがニューヨークの中古家具店で見つけた。生き物を思わせる強い存在感と、街で使われる工業製品の輪が重なることで、普通の物同士の意外な関係が生まれる。作品の魅力は奇妙な組み合わせだけに収まらず、形が互いを新しく見せるところにある。(参照:ラウシェンバーグ財団|《モノグラム》)
四年間に及ぶ構成の変更
《モノグラム》は1955年から1959年にかけて制作され、完成までに少なくとも三つの状態を経たことが、資料と写真で確認されている。巨大な実物を扱う制作にも、配置を試し、組み合わせを考え直す長い時間がある。
即興的に拾った物を使うことと、計画なしに完成させることは同じではない。作品の重さや安定性、床との接し方、色と形の釣り合いを考えながら、画家は結果を検討していた。コンバインでは、見つける行為と組み立てる行為の双方が制作の中心になる。(参照:ラウシェンバーグ財団|《モノグラム》)
床へ広がる絵画と鑑賞者の身体
《モノグラム》を正面から見ると、ヤギとタイヤが強く目に入る。横へ回ると、台上の絵画や剥製の厚み、タイヤと身体の位置関係が変わる。鑑賞者の移動によって異なる面が現れ、作品を見る行為そのものが三次元的になる。
壁の平面の中に窓のような奥行きを作る絵画とは違い、作品の物理的な配置が周囲の空間と結びついている。ラウシェンバーグが実物を使ったことは、主題の選択を変えただけでなく、絵画のある場所と鑑賞者の動きを変えたのである。(参照:ラウシェンバーグ財団|《モノグラム》)
1959年、《キャニオン》に集まる物と記憶
剥製のワシと枕を組み合わせる
ラウシェンバーグの《キャニオン》(1959年)には、布、写真、金属、ボタン、鏡、絵の具のチューブなど多様な材料が使われ、作品からワシの剥製と枕が突き出している。遠目では色や形が衝突する巨大な構成であり、近くではそれぞれの物が持っていた生活の記憶が現れる。
MoMAによると、ワシの剥製は友人の作家サリ・ディーンズが廃棄される品の中から見つけたものだった。捨てられるはずだった物が美術館で鑑賞される作品の中心へ移る経緯自体が、日常物と芸術の関係を問い直している。(参照:MoMA|ラウシェンバーグ《キャニオン》)
高価な美術材料から離れた物の選択
《キャニオン》の材料には、本来絵画制作を目的として作られたものと、街や家庭で別の用途を持っていたものが混在する。画家は物の形だけを利用する場合もあれば、付着した文字や印刷画像の意味を残す場合もある。
物が持つ過去を完全に消すことなく、別の構造へ組み込む。こうした作り方は、彫刻としてひとつの形を仕上げる方法とも、絵の具だけで表面を成立させる方法とも違う。身の回りの物は、現実の世界に属したまま、美術の構成要素として働くようになった。(参照:MoMA|ラウシェンバーグ《キャニオン》)
作品の解釈が一つに定まらない理由
ワシや枕を見れば、鑑賞者は神話、身体、飛ぶこと、落下することなどさまざまな連想を抱く。印刷物の断片から社会や個人の記憶を読み取ることもできる。作品はそれらの連想を完全に説明する物語を用意せず、多くの手がかりを同じ空間に残している。
この開かれた構成は、ラウシェンバーグの作品が当初理解されにくかった理由でもあり、その後の美術に大きな影響を与えた理由でもある。作品が何を表すかを知ることから、物同士がどのように関係しているかを経験することへ、鑑賞の重心が移る。(参照:MoMA|ラウシェンバーグ《キャニオン》)
1957年、同じように見える二枚の絵を作る
《ファクタムI》《ファクタムII》を比べる
ラウシェンバーグは1957年、《ファクタムI》と《ファクタムII》というよく似た二枚の作品を制作した。新聞や布、印刷されたイメージ、筆触の配置が対応し、一見すると同じ偶然の出来事が繰り返されたように見える。鑑賞者は二枚を見比べ、どこが一致し、どこが違うのかを確かめ始める。
それぞれの画面には実際の制作工程が残り、細部を見れば差も見つかる。この作品は抽象表現主義で重視された一回限りの身振りを、新しい角度から考えさせる。激情や偶然のように見える痕跡を、別の画面で改めて構成できるかという実験として読める。(参照:MoMA|ラウシェンバーグ《ファクタムII》)
偶然の痕跡を反復することの意味
一回の筆の動きによって生まれた線やしみには、偶然性が強く感じられる。二枚の絵が似ていると知ると、その偶然性は画家が選択し、操作できる対象にもなる。絵の具の表情を神秘的な出来事として眺めるだけでなく、作られた形式として考える視点が生まれる。
ラウシェンバーグは筆触の勢いを失わせるために比較を用いたわけではない。再び似た画面をつくる過程には別の判断が生まれ、二枚は互いの違いを際立たせる。オリジナルと複製、即興と計画をめぐる問いが絵画そのものの中に置かれた。(参照:MoMA|ラウシェンバーグ《ファクタムII》)
作者の個性をめぐる新しい議論
抽象表現主義の作品は、しばしば画家の身体や感情が画面に直接現れたものとして論じられた。《ファクタム》の二枚は、その考え方へ別の検討を加える。よく似た筆触の反復は、表面に見える勢いだけでは一枚の制作過程を説明しきれないことを示している。
画家の個性は筆触の形に加え、材料をどう選び、配置をどう決め、似た構成をなぜもう一度試すのかという判断にも現れる。ネオダダを「個性のない絵画」と理解すると、この複雑な制作上の意志が見えなくなる。(参照:MoMA|ラウシェンバーグ《ファクタムII》)
ジョーンズは記号を繰り返すことで何を見つけたのか
数字と文字を描く意味
ジョーンズは国旗や標的に加え、数字やアルファベットも繰り返し扱った。数字の形は多くの人が共有し、意味を読むために使うものである。絵の中へ置かれれば、意味を伝える形であると同時に、色や絵の具の厚みを持つ造形へ変わる。
たとえば同じ数字でも、塗り方や並べ方を変えると印象が異なる。記号を読むことと、画面を眺めることが同時に起こるため、鑑賞者は見慣れた形に注意を向け直す。既存の文化が提供する共通の図像を通して、絵画の知覚そのものを考える方法が発展した。(参照:MoMA|ジャスパー・ジョーンズの作品・展覧会)
1958年の《3つの旗》が作る奇妙な奥行き
ジョーンズの《3つの旗》(1958年)は、同じ国旗を描いた三枚のキャンバスを大きさを変えて前へ重ねた作品である。画面の奥へ小さくなるような遠近法とは反対に、小さい旗が鑑賞者の側へ突き出してくる。見慣れた記号が不思議な立体構造をつくる。
重なったキャンバスの縁には実際の厚みがあり、蝋を用いた絵の具の表面にも凹凸がある。国旗という平面的な模様が物理的な立体と結びつき、見る人は画像と物の関係を改めて考える。身近な記号が、絵画の奥行きの常識を問い直す装置になった。(参照:ホイットニー美術館|ジョーンズ《3つの旗》)
国旗と標的は抽象画にも見える
国旗の縞、標的の円、数字の輪郭は、形だけを見れば幾何学的な抽象にも近い。ジョーンズはその両義性を用い、誰もが意味を知っている図形を、色と形の構成としても成立させた。鑑賞者は対象を認識した瞬間と、画面の素材を見始めた瞬間の間を往復する。
抽象から具象へ戻ったという単純な歴史では、こうした絵画の面白さを十分に捉えられない。身近なものを描くことで、何を描いたかという問いと、描くこと自体の条件を考える問いが重なるようになった。(参照:ホイットニー美術館|ジョーンズ《3つの旗》)
1960年、ビール缶が彫刻になる
《ペインテッド・ブロンズ》の二つの缶
ジョーンズは1960年、ビールの缶を思わせる二つの立体を制作した。《ペインテッド・ブロンズ》では、ブロンズで鋳造された缶の表面に塗装が施され、一見すると日常の飲料容器と区別しにくい。目の前の品物を持ってきたように見えながら、実際には別の材料を使って作り直した彫刻である。
形がよく知られた日用品であるため、見る人は中身を飲むための物と美術作品としての物とを比較し始める。表面の塗装や缶の並びが、商品としての外観と彫刻としての存在を同時に感じさせる。(参照:ホイットニー美術館|ジョーンズ《ペインテッド・ブロンズ》)
デュシャンの既製品との違い
デュシャンの既製品は、工場で作られた物を選び出すことを重要な行為とした。ジョーンズのビール缶は、工業製品のように見える形を鋳造し、塗装して作り上げている。作品の前に立つと、それが本物の缶なのか、缶の像なのかという問いが続く。
ここでは再現する作業そのものが、既製品の概念へ新たなひねりを加えている。選ぶこと、作ること、似せることを重ねると、日用品が持つ実用性や商品の印象が少しずつ不確かになる。1950年代のネオダダが単なるダダの再演を超えたことが、具体的な素材から見えてくる。(参照:ホイットニー美術館|ジョーンズ《ペインテッド・ブロンズ》)
消費社会の物と美術館の物
飲料缶は大量生産され、使い終われば捨てられる容器である。ジョーンズの作品はその形を保存性の高いブロンズへ変え、鑑賞の対象として持続させる。身近な商品と美術館に収蔵される彫刻が、同じ形を共有することの奇妙さが作品の核になる。
こうした問いは、1960年代のポップアートが商品や商標を扱ううえでも重要になった。誰もが知っている物だからこそ、素材が変わると日常での扱い方も一変する。絵画や彫刻に何が入るのかという問題が、消費文化と美術制度の関係へ広がっていった。(参照:ホイットニー美術館|ジョーンズ《ペインテッド・ブロンズ》)
作家同士の協働は何を生み出したのか
ラウシェンバーグとジョーンズが交わした方法
ラウシェンバーグとジョーンズは1950年代半ばのニューヨークで親しく交流し、互いの作品づくりや展示を支えた。1953年の消去作品に後から付けられた文字や額装、1950年代のグループ展への参加にも、二人の関係が見えてくる。
ラウシェンバーグの作品には現実の品物が入り、ジョーンズの作品ではよく知られた記号が繰り返し描かれた。違う方法を試していたからこそ、日用品が美術へ入る際に何が起こるのかを互いに照らし合わせることができた。個々の作家を孤立した発明者として見るより、協働の場も重視したい。(参照:SFMOMA|《消されたデ・クーニングのドローイング》調査論考)
マース・カニングハムの舞台と美術
ラウシェンバーグはマース・カニングハムの舞踊作品に関わり、舞台装置や衣装を制作した。美術作品が劇場で使われれば、観客の視線は静止した一箇所だけに留まらない。踊る身体、音、照明、舞台に置かれた物の関係が、時間とともに変化する。
この舞台での経験は、作品を完成した一枚の画面に閉じない発想を支えた。日常にある物を持ち込み、その物が動く身体や空間との関係を変えるという方法は、コンバインに見られる立体的な構成とも共鳴する。(参照:ラウシェンバーグ財団|ブラック・マウンテン・カレッジでの協働)
街のショーウインドーと展示の感覚
1950年代、ラウシェンバーグとジョーンズは商業的なウインドー装飾の仕事にも関わった。商品の色や位置を整え、通行人に向けて物を見せることは、美術館の展示と同じではない。それでも、既存の物をどう選び、置き、見えるようにするかという判断には共通する部分がある。
大量生産された品物と人の視線が交わる場での経験は、画廊へ持ち込む物の扱いにも関わってくる。都市の商業文化と実験美術の距離が縮まる1950年代のニューヨークを、作品の外側の暮らしからも捉えることができる。(参照:SFMOMA|《消されたデ・クーニングのドローイング》調査論考)
1958年、画廊が新しい作品を評価し始める
レオ・カステリ画廊でのジョーンズ初個展
1958年1月、ジャスパー・ジョーンズはレオ・カステリ画廊で最初の個展を開いた。国旗や標的を描いた作品は強い注目を集め、多くが購入された。現代の観客には広く知られた作品でも、発表当時は抽象表現主義の後に現れた驚くべき表現として受け止められた。
一つの画廊で展示され、批評され、収集家や美術館の関係者に見られることで、アトリエ内の実験は公共的な評価へ移っていく。ジョーンズの成功は、1950年代末に美術市場が身近な記号を用いる絵画へ関心を持ち始めた節目となった。(参照:ラウシェンバーグ財団|1958年の展覧会年譜)
新しい美術の価値を作る場所
絵画の新しさは作品の内部に生まれる。同時に、どこで展示され、誰がそれを購入し、どのような文章で紹介するかによって、後の歴史への残り方も変わる。画廊の活動は、当初わかりにくかった作品を継続して見てもらう環境をつくった。
1950年代のニューヨークで、抽象表現主義の作家たちを紹介する画廊と、新しい世代へ関心を持つ画廊は活動を重ね合っていた。次の表現は完全に別の場所から登場したのではなく、同じ都市の画廊、美術館、批評のネットワークの中で見いだされていった。(参照:ラウシェンバーグ財団|1958年の展覧会年譜)
初期の評価が急速に変わった理由
ラウシェンバーグの1954年頃の作品は厳しい評価にもさらされていたが、1950年代後半には新しい作品を紹介する画廊や美術館の場が整い始めた。ジョーンズの成功も、国旗や標的という共通の図像が単純でありながら従来と違う絵画経験を生むことを、多くの鑑賞者へ示した。
評価が急に一つへ定まったわけではない。新しい表現を歓迎する人と、抽象表現主義の成果から後退したように感じる人がいた。異なる意見が交わされるなかで、既知のイメージを描くことや実物を貼ることの意味が、少しずつ美術史の言葉で整理されていった。(参照:ラウシェンバーグ財団|1958年の展覧会年譜)
1959年、MoMA《16人のアメリカ人》展
異なる新世代の表現が並んだ展覧会
1959年12月から1960年2月にかけて、ニューヨーク近代美術館ではドロシー・C・ミラー企画の《16人のアメリカ人》展が開催された。ジョーンズとラウシェンバーグに加え、フランク・ステラらの作品が紹介され、従来の絵画の枠組みを大きく広げる動向が一つの美術館で見えるようになった。
展覧会で取り上げられた作品は同じ見た目を共有していたわけではない。身近な物を使ったコンバイン、国旗や標的の絵画、ステラの黒い絵画が並ぶことで、美術が進む方向が一つだけではないことが伝わった。(参照:MoMA|1959年《16人のアメリカ人》展)
作品が美術館で見られることの変化
画廊の展示は新しい作品を知る入口となり、美術館での紹介は、作品が公的に記録され、比較される場を広げた。《16人のアメリカ人》展は、新世代の美術を抽象表現主義以後の重要な動向として認識させる節目のひとつとなった。
美術館では近くにある作品同士が互いの違いを際立たせる。国旗の蜜蝋の表面と、捨てられた品物の立体的な構成を同時に見ることによって、ネオダダという大きな呼び名に収まらない多様な問いが見えるようになった。(参照:MoMA|1959年《16人のアメリカ人》展)
批評家と観客が直面した戸惑い
MoMAの展覧会記録は、当時の保守的な批評家がラウシェンバーグのコンバインやジョーンズの国旗と標的、ステラの黒い絵画へ強い反応を示したことを伝えている。新しい作品が一つの展示で紹介されたことは、意見の衝突を生む出来事でもあった。
作品が評価されるためには、従来の技法で優れているかを問う基準だけでなく、何を作品へ持ち込み、鑑賞者にどのような経験を生んだかという新しい視点が必要だった。1959年の展覧会は、その基準が変わる過程を可視化した。(参照:MoMA|1959年《16人のアメリカ人》展)
「ネオダダ」という名前が持っていた問題
新しい作品を旧来の運動で呼ぶ難しさ
「ネオダダ」という呼称は、20世紀初頭のダダを思い出させる。捨てられた品物、日常の記号、ユーモアを用いる作品には共通点が見いだせる。1950年代の批評家がこの名を使った背景には、抽象表現主義の後に登場した作品を説明する言葉がまだ定まっていなかった事情もある。
ラウシェンバーグやジョーンズは、それぞれ異なる材料と方法を追究していた。ひとつの運動名を先に置くより、作品がどんな経験をつくるのかを考えることで、この名称の便利さと限界が明らかになる。ネオダダは複数の実践が交差した時代を示す言葉として理解したい。(参照:MoMA|戦後ニューヨークにおけるダダの再発見)
1910年代のダダと戦後の作品をつなぐもの
ダダの作家たちは、既製品、コラージュ、写真の切り貼り、偶然による制作などを通して、美術の材料や作者の役割を問い直した。1950年代のニューヨークでも、既存の物や画像を作品へ取り込むことが重要になった。両者は、作品を作るための行為を広げた点で響き合う。
歴史的な状況は異なる。第一次世界大戦の社会への反応として生まれたダダと、第二次世界大戦後の都市と大量消費文化を経験した作家の制作には、それぞれ固有の課題がある。共通する方法の中に時代の違いを見つけることが、ネオダダを美術史に位置づけるための手がかりになる。(参照:MoMA|ダダの歴史と制作方法)
ダダが「美術史」になった後の挑戦
1951年のダダ資料集と1953年のダダ展は、かつての前衛的な実践を研究・展示できる美術史として整えた。若い画家たちは、その成果を知ったうえで、今の都市生活に接続する新しい方法を試していった。過去の革新が学ぶ対象になった時代に、次の革新をどう生むかという問題が生じたのである。
この背景を踏まえると、ラウシェンバーグの消去やジョーンズの再現は、単なる奇抜な行為として片づけられない。かつて日用品を選んだダダの問いを受け取り、さらに描く、消す、複製するという制作の工程へ広げた試みとして読むことができる。(参照:MoMA|戦後ニューヨークにおけるダダの再発見)
1961年、アサンブラージュが美術館で語られる
MoMA《アサンブラージュの芸術》展
1961年10月から11月にかけて、ニューヨーク近代美術館はウィリアム・C・サイツの企画による《アサンブラージュの芸術》展を開催した。日常の物を組み合わせる方法を、幅広い歴史や文化にまたがる美術の表現として紹介した重要な展覧会である。
ラウシェンバーグの《キャニオン》も出品され、同時代の作品が過去の実験と比較される場が生まれた。街で拾われた品物を使った制作は、数年前には理解しにくい新奇なものとして受け止められたが、1961年には研究と展示の対象として整理され始めた。(参照:MoMA|1961年《アサンブラージュの芸術》展)
集め、組み合わせる方法が示した広がり
アサンブラージュは、異なる物を集め、結びつけ、ひとつの作品とする方法である。その材料は印刷物、布、金属、商品、使い終えた道具など幅広い。1950年代のコンバインと重なる部分がありながら、より長い歴史を持つ表現として考えることができる。
サイツによる展覧会は、日用品を使う方法を偶然の流行として眺めるより、素材と作品の関係を変える美術史上の動向として示した。作品の見た目を分類する基準も、伝統的な絵画・彫刻の区別から広がっていった。(参照:MoMA|アサンブラージュと日用品の表現)
デュシャンとラウシェンバーグが同席した討論
《アサンブラージュの芸術》展に関連して、1961年10月19日にはMoMAで公開討論が行われた。デュシャン、リチャード・ヒュルゼンベック、批評家ローレンス・アロウェイらに加え、ラウシェンバーグが若い世代の作家として参加した。
かつて美術の常識を問い直した世代と、その方法を戦後の都市生活の中で発展させた世代が、同じ場所で意見を交わしたのである。1930年代以前のダダを伝説として読む段階から、具体的な作品と現役作家を通じてその問題を再検討する段階への変化が見える。(参照:ラウシェンバーグ財団|制作・展覧会年譜)
1962年、印刷された写真が絵画の中へ流れ込む
転写によるドローイングと複製画像
ラウシェンバーグは1950年代末から、新聞や雑誌の印刷画像を紙へ転写する方法を発展させた。画像を溶剤で移し、鉛筆や絵の具の痕跡と重ねると、別々の場所で撮影され、印刷された出来事が同じ表面に並ぶ。都市の情報を絵画やドローイングの中で組み替えることが可能になった。
切り取った紙を貼るコラージュでは、紙片の縁や厚みが残る。転写では印刷画像の一部が支持体へ移り、画面の筆触と近い層に現れる。作品内での画像の存在のしかたが変わり、複製された情報そのものを組み立てる制作へ関心が広がっていった。(参照:ラウシェンバーグ財団|画像転写によるドローイング)
1962年《カレンダー》が示す転換
1962年の《カレンダー》では、印刷された写真の転写と鉛筆の線、薄い絵の具の筆触が同じキャンバスに重なる。メトロポリタン美術館の解説によれば、ラウシェンバーグが転写技法をキャンバスで用いた早い重要作であり、後のシルクスクリーンによる絵画へ進む節目となった。
写真は過去の出来事を示し、筆触は画家が作業した現在の時間を表す。双方が重なることで、作品は印刷物の切り抜きとも純粋な抽象画とも異なる状態になる。新聞や雑誌の画像が、画面の主題であり、構成を決める材料でもあるという関係がいっそう明瞭になった。(参照:メトロポリタン美術館|ラウシェンバーグ《カレンダー》)
シルクスクリーンが開いた別の段階
ラウシェンバーグは1962年、アンディ・ウォーホルのアトリエで見た印刷技法にも刺激を受け、シルクスクリーンを使う絵画に取り組み始めた。雑誌や新聞の写真、自分で撮影した画像を版にし、大きなキャンバスへ繰り返し刷る方法は、作品の制作と複製画像の関係をさらに変えた。
この時期から、日常のイメージは紙片の形で物理的に持ち込まれるだけでなく、画面へ直接印刷されるようになる。ネオダダの実物やコラージュから、1960年代のポップアートと複製技術をめぐる美術へとつながる具体的な転換点である。(参照:ラウシェンバーグ財団|1962〜1964年のシルクスクリーン絵画)
なぜ身近な物やイメージが絵画に入ったのか
ラウシェンバーグとジョーンズの違いから考える
ラウシェンバーグは街で拾った物や印刷物を組み合わせ、作品の中に現実の断片を残した。ジョーンズは多くの人が知っている国旗、標的、数字などを取り上げ、描くことや彫刻として作ることによって見え方を変えた。二人は、日常にあるものを作品へ迎え入れる異なる方法を示した。
共通するのは、画家が自分の内面から新しい形を生み出すことと並んで、すでに存在する物や図像をどう扱うかを重要な問題にした点である。選ぶ、重ねる、消す、描き直すといった行為が、絵画の価値を考える新しい入口になった。(参照:MoMA|コンバインの解説)
英国ポップアートと同じ時代に起きた変化
1950年代のロンドンでは、インディペンデント・グループが広告、映画、雑誌、家電を新しい文化環境として検討していた。ニューヨークではラウシェンバーグが街の品物を画面へ持ち込み、ジョーンズが共有された記号を描き直していた。場所ごとに異なる文化の条件の中で、日常の物や画像が美術の課題になった。
英国で重要だった展覧会設計や広告文化への分析と、ニューヨークのコンバインやエンカウスティックによる絵画を比べると、後に「ポップアート」と呼ばれる領域の広がりが見えてくる。両都市を単純な先後関係で結びつけるより、同時代に重なった異なる実験として考えたい。(参照:ラウシェンバーグ財団|1962〜1964年のシルクスクリーン絵画)
1960年代のポップアートとその先へ
1962年頃にはウォーホルやリキテンスタインが商品、漫画、写真の複製画像を用いる絵画で注目を集め始めた。ネオダダが切り開いた日常物や印刷イメージの使い方は、ポップアート、アサンブラージュ、パフォーマンス、コンセプチュアル・アートへ広がる重要な条件となった。
その変化は、単に美術が扱う題材が増えたというだけではない。何を選ぶか、どこに置くか、どう作り直すか、鑑賞者がどのように見るかという判断が作品の中心へ入った。身近な物と絵画の境界を変えた1950年代の実験は、その後の現代美術を考えるための重要な出発点になった。(参照:MoMA|アサンブラージュと日用品の表現)
年表|1953〜1962年の主要な出来事
20世紀初頭のダダから1951年の再検討を経て、1953年以降の作品と展覧会の動きを年代順に並べた。制作上の変化と、それが発表・評価された時期を合わせて確認できる。
- 1910年代|デュシャンらが既製品を用い、ダダの作家が日用品や印刷画像を使う表現を広げる。
- 1951|マザウェル編集のダダ資料集が刊行され、ラウシェンバーグが《ホワイト・ペインティング》を制作する。
- 1952|ブラック・マウンテン・カレッジでケージらによる舞台実験が行われる。
- 1953|ニューヨークでダダ展が開かれる。ラウシェンバーグが《消されたデ・クーニングのドローイング》を制作し、赤い絵画へ進む。
- 1954|ラウシェンバーグが初期コンバインを発展させ、赤い絵画とともに展示。ジョーンズが国旗を主題とする絵画に取り組む。
- 1955|ジョーンズ《4つの顔のある標的》、ラウシェンバーグ《ベッド》《レバス》を制作。後者の《モノグラム》制作が始まる。
- 1957|ラウシェンバーグが《ファクタムI》《ファクタムII》を制作。
- 1958|ジョーンズがレオ・カステリ画廊で初個展。《3つの旗》を制作する。
- 1959|ラウシェンバーグが《モノグラム》《キャニオン》を完成。12月、MoMA《16人のアメリカ人》展が始まる。
- 1960|ジョーンズがビール缶をブロンズで再現した《ペインテッド・ブロンズ》を制作。
- 1961|MoMAで《アサンブラージュの芸術》展が開催され、デュシャンらとラウシェンバーグが公開討論に参加。
- 1962|ラウシェンバーグが《カレンダー》を制作し、シルクスクリーン絵画を始める。ポップアートの展開と接点が増える。
まとめ|身近なものが絵画を変えた理由
1953年から1962年にかけて、ニューヨークでは絵画を作る材料と方法が大きく広がった。ラウシェンバーグの《消されたデ・クーニングのドローイング》は、消す行為によって作品を成立させ、《ベッド》は生活に使う布や枕を絵画へ結びつけた。《モノグラム》や《キャニオン》では、実物が作品の空間を変え、鑑賞者が動きながら見る経験を生んだ。ジョーンズは国旗や標的を描き、印刷された記号をエンカウスティックの厚い表面や立体的な構造へ変えることで、見慣れた図像を考え直す機会をつくった。
これらの試みには、抽象表現主義の大画面や筆触から受け継いだ自由、ダダとデュシャンが問いかけた既製品と作者性の問題、ケージらとの協働による偶然と時間への関心、戦後都市にあふれた印刷物や商品といった複数の背景が重なっている。1958年の画廊での評価、1959年と1961年のMoMAの展覧会を通じて、その実験は美術史の言葉で語られるようになった。1962年に複製画像が絵画の内部へ入り込むと、新しい方法はポップアートやその後の現代美術へつながっていく。
参考資料・出典
本文は、MoMA、サンフランシスコ近代美術館、ホイットニー美術館、メトロポリタン美術館、ロバート・ラウシェンバーグ財団の作品解説・研究資料・展覧会記録を照合して構成した。作品の制作年、素材、展示の経緯は所蔵館と作家財団の公開情報を優先し、制作方法や鑑賞経験についてはそれらを踏まえてART LIBRARYが独自に記述した。
- MoMA|ダダの歴史と制作方法
- MoMA|戦後ニューヨークにおけるダダの再発見
- ラウシェンバーグ財団|1948〜1954年の初期作品
- ラウシェンバーグ財団|ホワイト・ペインティング
- ラウシェンバーグ財団|ブラック・マウンテン・カレッジでの協働
- SFMOMA|《消されたデ・クーニングのドローイング》
- SFMOMA|《消されたデ・クーニングのドローイング》調査論考
- ラウシェンバーグ財団|レッド・ペインティングからコンバインへ
- ラウシェンバーグ財団|制作・展覧会年譜
- MoMA|コンバインの解説
- MoMA|ラウシェンバーグ《ベッド》
- MoMA|ラウシェンバーグ《レバス》
- ラウシェンバーグ財団|《モノグラム》
- MoMA|ラウシェンバーグ《キャニオン》
- MoMA|ラウシェンバーグ《ファクタムII》
- MoMA|ジョーンズ《旗》
- MoMA|ジョーンズ《4つの顔のある標的》
- ホイットニー美術館|ジョーンズ《3つの旗》
- ホイットニー美術館|ジョーンズ《ペインテッド・ブロンズ》
- MoMA|ジャスパー・ジョーンズの作品・展覧会
- ラウシェンバーグ財団|1958年の展覧会年譜
- MoMA|1959年《16人のアメリカ人》展
- MoMA|1961年《アサンブラージュの芸術》展
- MoMA|アサンブラージュと日用品の表現
- ラウシェンバーグ財団|1962〜1964年のシルクスクリーン絵画
- ラウシェンバーグ財団|画像転写によるドローイング
- メトロポリタン美術館|ラウシェンバーグ《カレンダー》
- ラウシェンバーグ財団|版画と写真による制作
資料確認日:2026年10月14日 / ART LIBRARY