1001–1100
ロマネスクの形成
修道院改革、巡礼、ノルマン世界、石造教会
11世紀の西ヨーロッパでは、修道院や司教座、巡礼地で大きな教会の建設が進みました。聖人の墓や聖遺物を訪ねる人々が各地を行き交い、王家や貴族、司教、修道院長による寄進が工事を支えます。古代から受け継がれた柱列や半円アーチを使いながら、天井や礼拝のための空間に新しい工夫が加わり、後に「ロマネスク」と呼ばれる建築と美術が形を取り始めました。
ドイツのシュパイアーでは皇帝家の墓所を持つ大聖堂が築かれ、ヒルデスハイムでは旧約・新約聖書の物語を刻んだ大きな青銅扉が制作されました。フランスのコンクに伝わる《聖フォワの聖遺物像》は、木製の芯を金属板と宝石で覆った聖女の像です。壮大な石造建築から細部まで装飾された工芸品まで、造形の大きさも素材も多彩でした。
ノルマン人の征服を経験したイングランドでは新たな大聖堂の造営が進み、イタリアの港湾都市でも大きな教会が建てられました。同じ時代のイベリア半島にはイスラム宮廷の建築があり、地中海東部ではビザンティンの修道院が金色のモザイクで飾られました。ここからは、教会の空間とそこに置かれた作品、地域ごとの技術や文化のつながりをたどりながら、ロマネスクが形づくられた11世紀の美術を見ていきましょう。
CONTENTS
- 11世紀の西ヨーロッパ|ロマネスクが形になる時代
- 11世紀の建築|石造教会の拡大とその技術
- ドイツ・ヒルデスハイム|オットー朝の建築の継承
- ドイツ・ヒルデスハイム|青銅扉と物語の円柱
- ドイツ・シュパイアー|皇帝の大聖堂
- フランス・クリュニー|修道院改革と大教会
- フランス・アルプスとブルゴーニュ|新しい修道院共同体
- フランス・コンク|聖フォワの聖遺物と教会
- フランス・トゥールーズ|サン=セルナン聖堂
- スペイン・サンティアゴ|巡礼と新しい大聖堂
- フランス・ノルマンディー|11世紀の修道院建築
- イングランド・ノルマン征服|建築の注文主が変わる
- 《バイユーの刺繍》|1066年の征服を布に描く
- イングランド・ウィンチェスター|王と修道院の写本
- スペイン北部|王妃の寄進と象牙・金工
- イタリア・ピサ|港湾都市が建てた大聖堂
- イタリア・モデナ|1099年の大聖堂計画
- イタリア・バーリ|1087年の聖遺物と新しい聖堂
- スペイン・カタルーニャ|山地の石造教会
- フランス・サン=サヴァン|石の天井に広がる絵画
- スペイン・サラゴサ|11世紀のイスラム宮殿
- ギリシアのビザンティン修道院|11世紀のモザイク
- 建物の内部で起きたこと|祈り、移動、色と素材
- 11世紀末|教会改革と新しい造営の背景
- 略年表|1001〜1100年の出来事
- まとめ|地域の技法と祈りの空間
- 参考資料・出典
11世紀の西ヨーロッパ|ロマネスクが形になる時代
古代ローマの建築を受け継いだ新しい造形
11〜12世紀の西ヨーロッパで発達した建築と美術を、現在は「ロマネスク」と呼びます。この名称が広まったのは19世紀で、古代ローマの建築を思わせる半円アーチや柱列がその由来です。中世の教会では、古代以来のバシリカ式の平面を受け継ぎながら、身廊の天井を高くしたり、入口や柱頭に石彫を施したりしました。ひとつの決まった形が各地へ広がったというより、地域の材料と礼拝の方法に合わせて建物が造られています。
初期キリスト教聖堂からカロリング朝、オットー朝に至る建築の伝統は、11世紀にも受け継がれました。古い教会を建て直す際には、その土地にある石材や、それを加工できる職人の技術が使われます。たとえば北フランスの石灰岩、イタリアの大理石、イングランドの砂岩では、切り出し方も表面の色も異なります。半円アーチなどの共通する形式があっても、壁や柱の姿には地域ごとの違いが残っています。(参照:メトロポリタン美術館|ロマネスク美術)
王権、修道院、巡礼地の広がる地理
大きな教会を建てるには、土地を確保し、石材を運び、長期にわたって職人を雇う必要がありました。その費用を支えたのは皇帝や王、司教、修道院長、貴族、都市の共同体などです。シュパイアーでは皇帝家の墓所が、クリュニーでは多くの修道士が典礼を行う場所が、ピサでは都市の大聖堂が求められました。同じ石造の大建築でも、誰が資金を出し、どのように使うのかによって平面や装飾の重点は変わります。(参照:ユネスコ世界遺産センター|フランスのサンティアゴ巡礼路)
11世紀の建築|石造教会の拡大とその技術
「教会の白い衣」と当時の建設熱
11世紀の修道士ラウル・グラベールは『歴史五書』第3巻で、新しい教会が次々と築かれる様子を、世界が「白い衣」をまとったようだと表現しました。古い聖堂の建て替えが相次いだことを伝える有名な記述です。この比喩には、教会を新しくする仕事が信仰生活の立て直しと結び付いていた、当時の修道士の考え方もうかがえます。
建設が盛んになった背景には、修道院の財産が増えたこと、聖人の遺骨を納める場所を整えたこと、司教や領主が寄進したことなど、地域ごとに異なる事情がありました。既存の建物を広げた教会もあれば、新しい敷地に一から造営された教会もあります。グラベールが記した当時の建設熱を、個々の遺構と照らし合わせると、創建と増築が異なる時期に進められたことも確かめられます。(参照:コーネル大学出版局・Oxford Academic|「教会の白い衣」の史料と解釈)
身廊、翼廊、内陣、周歩廊をつなぐ平面
教会の入口から祭壇へ向かって伸びる中央の空間を身廊、その両側の通路を側廊と呼びます。東端には祭壇を置く内陣があり、身廊を横切る翼廊を設けると、建物は十字形の平面になります。聖人の遺骨を訪ねる人が多い教会では、内陣の外側を回れる周歩廊や、小さな祭壇を置く小祭室が造られました。参拝者はそうした通路を進み、聖職者が祭壇で典礼を行っている間も聖遺物へ近づくことができたのです。(参照:メトロポリタン美術館|ロマネスク美術)
木の屋根と石のヴォールト
11世紀の教会では、石の壁を築いても、身廊の上には木造の屋根や天井を架ける例が多くありました。石やレンガを曲面に組んで天井を覆う構造を「ヴォールト」と呼びます。木の屋根に比べて重く、壁を外側へ押す力も生じるため、柱や側壁を強く造り、工事中には曲面を支える仮枠を組む必要があります。ヴォールトの採用は屋根を葺き替えるだけの工事ではなく、建物全体の構造に関わる変更でした。
シュパイアー大聖堂の身廊も創建当初は平らな天井でしたが、11世紀末の改造によって石造ヴォールトが架けられました。柱と壁面には天井の重さを受け止めるための変更が加えられ、内部のアーチも規則的に並んでいます。長い建設期間の中で、当初の設計を改めながら新しい構造を取り入れた実例です。(参照:ユネスコ世界遺産センター|シュパイアー大聖堂)
ドイツ・ヒルデスハイム|オットー朝の建築の継承
1010〜1022年の聖ミヒャエル教会
現在のドイツ北部にあるヒルデスハイムでは、司教ベルンヴァルトのもと、1010〜1022年に聖ミヒャエル教会が建てられました。東西の両端に内陣を置き、それぞれに翼廊を設けた対称的な平面が特徴です。身廊では円柱と角柱が一定の間隔で並び、長い内部空間を規則正しく区切っています。両端に祭壇を持つ構成には、カロリング朝からオットー朝へ続く建築の伝統が見られます。
外から見ると、東西の翼廊や交差部に立つ塔が、長い身廊の両端で釣り合うように配置されています。現在の教会には修復された部分もあり、堂内の木造天井に描かれた絵は13世紀の作品です。11世紀の平面や柱列と、後に加えられた装飾を一緒に見ることができます。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ヒルデスハイムの大聖堂と聖ミヒャエル教会)
司教ベルンヴァルトと教会の制作工房
ベルンヴァルトは993〜1022年にヒルデスハイム司教を務め、学校や典礼の整備に加えて、金工や青銅鋳造、写本制作を保護しました。宝石を埋め込んだ十字架、豪華な装丁の書物、大型の青銅鋳造品が、現在もこの土地に伝わっています。大きな金属作品を作るには炉や鋳型に加え、材料をそろえる資金と熟練した職人が欠かせません。司教座は礼拝の場であると同時に、そうした制作を支える拠点でもありました。(参照:ヒルデスハイム大聖堂|ベルンヴァルト司教と美術保護)
ドイツ・ヒルデスハイム|青銅扉と物語の円柱
1015年《ベルンヴァルトの扉》の16場面
《ベルンヴァルトの扉》は1015年に制作された大型の青銅扉で、現在はヒルデスハイム大聖堂にあります。二枚の扉には左右合わせて16の浮彫が並び、旧約聖書『創世記』のアダムとエヴァの物語と、新約聖書のキリストの生涯が対になっています。楽園から追放される人物たちの不安げな身振りや、細い手足を大きく動かす表現が目を引きます。広い青銅の面に複数の場面を置くことで、扉全体が罪と救済を語る画面になりました。
背景は比較的浅く、人物の頭や腕、胴体はそこから大きく突き出しています。横から見ると浮彫の厚みがよく分かり、正面からは人物たちの身振りが物語の進行を伝えます。扉を通る人がこうした場面を目にすることも、教会の入口に彫刻を置く意味のひとつでした。古代以来の金属扉の形式を受け継ぎながら、聖書の物語を連続して読ませる独自の構成が生まれています。(参照:ヒルデスハイム大聖堂|《ベルンヴァルトの扉》)
1020年頃《キリストの円柱》の螺旋
1020年頃に作られた《キリストの円柱》(ベルンヴァルトの円柱)も、ヒルデスハイムを代表する青銅作品です。円柱を囲む浮彫の帯が螺旋状に上昇し、その中にキリストの生涯の場面が続きます。古代ローマのトラヤヌス記念柱では皇帝の戦いが語られましたが、この作品では同じような螺旋の形式を宗教的な物語に用いています。見る位置を変えるたびに別の場面が現れ、立体的な柱の周囲に物語が展開する点も、平らな青銅扉との大きな違いです。(参照:ヒルデスハイム大聖堂|《キリストの円柱》)
ドイツ・シュパイアー|皇帝の大聖堂
1030年の創建とザーリアー朝
ライン川上流のシュパイアー大聖堂は、ザーリアー朝の皇帝コンラート2世が1030年に建設を始めた教会です。長い身廊と広い内陣を持つバシリカに四つの塔と二つのドームが加わり、都市の中でも目立つ大きな建物となりました。地下には皇帝家の墓所が設けられ、歴代の王や皇帝の埋葬と追悼の儀礼が行われています。皇帝の権威を示す建物であることと、礼拝の場であることが、同じ大聖堂の中に結び付いていました。(参照:ユネスコ世界遺産センター|シュパイアー大聖堂)
11世紀末の改造と石造ヴォールト
創建当初の身廊は木造の天井で覆われていました。11世紀末、ハインリヒ4世の時代の改造で石造ヴォールトが架けられ、柱と壁面の構成も新たな荷重に合わせて変更されました。現在の西側には19世紀に再建された部分もあり、創建時の石造部分と後世の改造が一つの建物に残っています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|シュパイアー大聖堂)
皇帝の墓所に託された権威
シュパイアー大聖堂の地下聖堂には、コンラート2世をはじめとする皇帝や王族の墓が置かれています。地上でミサが行われる教会と、地下で歴代の支配者を祀る場所が一体となった構成です。墓所を持つことは、王家がこの聖堂を長く支援する理由のひとつでもありました。埋葬された人々のために祈る儀礼が続くことで、建物は一代の皇帝の記念碑を越え、王家の歴史を受け継ぐ場所となっています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|シュパイアー大聖堂)
フランス・クリュニー|修道院改革と大教会
910年の創設から11世紀の修道院網へ
フランス東部ブルゴーニュのクリュニー修道院は910年に創設され、11世紀には多くの修道院を結ぶ中心となりました。ベネディクトゥスの戒律に基づく共同生活の中で、祈りと典礼が重視され、王家や貴族の寄進によって土地や収入も増えています。礼拝に使う書物や器物をそろえるほか、多数の修道士が暮らす建物を維持することも大きな仕事でした。1049年に修道院長となったユーグ・ド・スミュールの時代には、さらに大きな聖堂の建設が始まります。(参照:フランス国立文化財センター|クリュニー修道院の歴史)
1088年、第三教会の造営が始まる
1088年に着工したクリュニー第三教会は、それまでの修道院教会を大きく上回る規模で計画されました。長い身廊に複数の翼廊を組み合わせ、東端には多数の祭室を設けています。修道士たちが一日に繰り返す祈りやミサのためには、礼拝の場と人の通り道を十分に確保する必要がありました。そのための空間を大きな石造建築として造ろうとしたのが、第三教会の計画です。
1095年には教皇ウルバヌス2世が主祭壇を聖別しました。祭壇が礼拝に使われ始めた後も工事は続き、建物全体の完成は12世紀に持ち越されます。クリュニー第三教会は後世に大部分が解体され、現在残るのは一部の建築と発掘された遺構です。残存部分と調査記録を組み合わせることで、かつての広大な平面が復元されています。(参照:フランス国立文化財センター|クリュニー修道院の歴史)
祈りを支える書物と制作の経済
修道院で毎日使われたのは、詩篇集、聖書の朗読書、聖人の祝日を記した典礼書などです。修道士が文字を書き写し、画工が挿絵や装飾した頭文字を描くために、羊皮紙や顔料が用意されました。石工が建てる教会と、筆写者が作る書物では材料も作業場所も異なりますが、どちらも共同体の礼拝に欠かせません。クリュニーに集まった寄進財産は、大教会の建設と典礼用の品々の整備を支えています。(参照:フランス国立文化財センター|クリュニー第三教会と修道院網)
フランス・アルプスとブルゴーニュ|新しい修道院共同体
1084年のブルーノと山中の隠修生活
1084年、ブルーノと六人の仲間は、現在のフランス南東部にあるシャルトルーズ山地へ入りました。ここで始まったのは、独りで祈る時間と、礼拝のために集まる時間を組み合わせた生活です。後のカルトジオ会につながる共同体で、都市から離れた山地という立地も、その暮らし方に合っていました。初期の建物の詳しい姿には不明な部分がありますが、礼拝堂と住まいの配置にも、静かな祈りと共同生活の両方が求められたと考えられています。(参照:ラ・シャルトルーズ文化財機関|1084年のブルーノと共同体)
1098年、シトー修道院の創設
1098年にはブルゴーニュでシトー修道院が創設されました。規律ある祈りと労働を重んじる共同体は、12世紀以後にヨーロッパ各地へ広がるシトー会の出発点となります。典礼の充実とともに巨大な聖堂を築いたクリュニーに対して、シトーでは生活の簡素さが重視されました。後のシトー会建築に見られる抑制された装飾を、そのまま11世紀末の建物の姿と考えることはできません。創設から大規模な造営へ至る経過にも時間の幅があります。(参照:厳律シトー会|シトー修道院の創設)
フランス・コンク|聖フォワの聖遺物と教会
11世紀半ばに始まるサント=フォワ修道院教会
現在のフランス南部にあるコンクは、聖女フォワの遺骨を祀る修道院を中心に巡礼地として発展しました。サント=フォワ修道院教会では、修道院長オドルリック(1031〜1065年)の時代に古い聖堂の敷地で建設が始まります。工事は11世紀後半から12世紀初めまで続き、聖遺物を守る場所を確保しながら建物が整えられました。
コンクの教会に入ると、身廊の両側にはアーチで区切られた側廊があり、その上に回廊が重なっています。東端には内陣を取り巻く周歩廊と小祭室が設けられ、参拝者は修道士たちの祈りが続く祭壇の外側を通って聖遺物へ近づけました。上下に重なる通路と長い身廊が、比較的小さな町の中に大勢の人を迎える空間を作っています。(参照:コンク観光・文化遺産局|サント=フォワ修道院教会)
金色に覆われた《聖フォワの聖遺物像》
コンクの宝物庫に伝わる《聖フォワの聖遺物像》は、聖女フォワの遺骨を納めた木製の像です。金属板と宝石に覆われ、正面を向いた大きな目と動きの少ない姿勢が印象に残ります。中心となる像は9〜10世紀にさかのぼり、11世紀にも寄進によって宝石や金属の装飾が加えられました。長い時間をかけて作られた外観そのものが、この聖女への信仰と奉納の歴史を伝えています。
巡礼者は聖女フォワの遺骨を納めた像の前で祈り、宝物を奉納しました。金色の表面は華やかな装飾であるとともに、寄進者が聖女へ捧げたものを集めた姿でもあります。11世紀に新しい聖堂が建てられた時点で、像はすでに古くから崇敬される存在でした。建物の造営年代と、その中で礼拝される作品の年代が異なる例です。(参照:コンク観光・文化遺産局|《聖フォワの聖遺物像》と宝物)
12世紀の《最後の審判》へ続く扉口彫刻
コンクの西正面には、キリストを中心に救われる人々と裁かれる人々を左右に分けた《最後の審判》の大きな彫刻があります。タンパンと呼ばれる扉口上部の半円形部分に、数多くの人物が段ごとに並ぶ構成です。制作は12世紀前半と考えられ、11世紀に始まった教会の建設より後の段階に属します。巡礼地として使われ続ける中で、入口の彫刻も新たに整えられたのです。(参照:コンク観光・文化遺産局|《最後の審判》のタンパン)
フランス・トゥールーズ|サン=セルナン聖堂
1080年頃の造営と周歩廊
フランス南西部トゥールーズのサン=セルナン聖堂は、聖人サトゥルニヌスの墓を守る教会として発展しました。1080年頃から東端で始まった工事では、長い身廊、広い翼廊、周歩廊、放射状の小祭室を備える計画が採用されています。聖遺物を訪ねる人の流れを確保しながら、祭壇では聖職者が典礼を続けられる平面です。11世紀に始まった建設は12世紀以後も続きました。(参照:トゥールーズ市|サン=セルナン聖堂の建設史)
1096年の祭壇とベルナール・ジルデュアン
1096年、教皇ウルバヌス2世はサン=セルナン聖堂の祭壇を聖別しました。大理石の祭壇にはベルナール・ジルデュアンの名が残り、側面にも彫刻装飾が施されています。内陣近くの使徒像などにも、衣のひだと大きな身振りを刻む11世紀末の石彫表現が見られます。聖堂全体の工事が続く間も、祭壇は礼拝の中心として使われました。(参照:サン=セルナン聖堂|1096年の大理石祭壇/フランス建築文化財都市|サン=セルナンの歩廊彫刻)
スペイン・サンティアゴ|巡礼と新しい大聖堂
使徒ヤコブの墓と1075年の着工
イベリア半島北西部、現在のスペイン・ガリシア地方にあるサンティアゴ・デ・コンポステーラは、使徒ヤコブの墓と信じられる場所を目指す巡礼地です。9世紀以来の教会に代わる大聖堂の建設が1075年頃に始まり、まず東端の内陣と祭室が整えられました。アルフォンソ6世と司教ディエゴ・ペラエスの時代の工事を伝える碑文も残っています。礼拝に使う東端から建設を進め、身廊などの工事は12世紀へ続きました。(参照:サンティアゴ大聖堂|1075年の着工を示す碑文)
周歩廊と長い身廊の動線
サンティアゴ大聖堂では、長い身廊と翼廊の両側に通路が続き、東端では周歩廊が内陣を回り込んでいます。遠くから到着した巡礼者が聖人の墓に近づく間も、聖職者は祭壇で典礼を行えました。
現在の西正面にある大きなバロック様式の建築や、マエストロ・マテオによる《栄光の門》は、11世紀の着工より後の時代に加えられました。最初に整えられた東端の石造部分と、後に完成した西側の装飾では制作年代が異なります。(参照:サンティアゴ大聖堂|大聖堂の建設と後世の増築)
巡礼路が運んだもの
サンティアゴを目指す人々は、フランス各地からピレネー山脈を越え、現在のスペイン北部を西へ進みました。道沿いの町や修道院には、宿泊施設、施療所、橋、礼拝堂などが整えられています。巡礼者は祈りのための小さな品や奉納品を携え、職人や商人も町の間を移動しました。聖堂だけでなく、長い旅を支える施設も巡礼文化の一部だったのです。
今日ひとまとめに「巡礼路」と呼ばれる道には、複数の経路があり、利用のされ方も時代によって変化しました。コンクでは身廊の両側にある側廊の上に回廊を設け、トゥールーズとサンティアゴでは長い身廊と広い翼廊を組み合わせています。参拝者を迎える周歩廊や小祭室には共通点がありながら、建物の規模や細部は町の条件と聖遺物の安置場所に合わせて異なっています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|フランスのサンティアゴ巡礼路/ユネスコ世界遺産センター|スペイン北部のサンティアゴ巡礼路)
フランス・ノルマンディー|11世紀の修道院建築
1040年代のジュミエージュ修道院
フランス北西部ノルマンディーのジュミエージュ修道院では、1040〜1060年代に大きなノートルダム修道院教会が築かれ、1067年にはウィリアム征服王の臨席で奉献されました。西正面に立つ双塔と長い身廊、厚い壁に連なる半円アーチが、この地域の大規模な石造建築をよく示しています。現在は屋根や天井を失った部分が多いものの、残された柱列と高い外壁から、かつての内部の広さを読み取れます。(参照:ジュミエージュ修道院文化財管理局|11世紀の修道院建築)
カーンの男子修道院と女子修道院
ノルマンディーのカーンでは、ウィリアム公と妻マティルダの寄進によって、1060年頃から男子修道院と女子修道院が建てられました。男子修道院のサン=テティエンヌ教会には双塔を備えた西正面があり、内部の壁面は柱とアーチによって規則正しく区切られています。こうした石造建築の形式は、1066年の征服後にノルマン系の聖職者が関わるイングランドの教会ともつながります。現在のヴォールトには後世に改築された部分も残っています。(参照:ノルマンディー修道院協会|カーンの男子修道院)
イングランド・ノルマン征服|建築の注文主が変わる
1066年の征服と司教座の再編
1066年、ノルマンディー公ウィリアムはイングランドを征服して王となり、その後、家臣やノルマン系の司教・修道院長とともに城や教会の建設を進めました。征服にともなう土地や財産の再配分は、新しい権力者が大規模な石造建築を注文するための基盤にもなりました。建築の変化には、こうした政治的な背景があります。
征服前のイングランドにも、ウィンチェスターをはじめとする写本制作と教会建築の伝統がありました。征服後も地元の職人たちの仕事は続き、新しく赴任したノルマン系の司教や修道院長が大規模な建設を注文しました。従来の制作技術を持つ人々と新しい注文主が同じ土地で活動したことが、征服後の建築や工芸の背景にあります。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ダラム城と大聖堂)
1093年に始まるダラム大聖堂
イングランド北東部のダラム大聖堂は1093年に着工し、主要な工事は1133年頃まで続きました。太い円柱と角柱が交互に立ち、柱の表面にはジグザグや菱形の幾何学模様が深く彫られています。大きな柱が並ぶ内部は、その装飾によって強い明暗とリズムを持っています。聖カスバートの遺骸を祀る教会として計画され、巡礼や礼拝の場であると同時に、征服後のイングランドにおけるノルマン系建築の代表例となりました。
ダラムの身廊には、細長い石材を肋骨のように組んで天井の曲面を支える、リブ・ヴォールトが架けられています。この構造の完成には12世紀の工事も関わっており、1093年の創建段階と同じ年代には置けません。分厚い柱と石の天井を組み合わせる試みが続いたことは、この大聖堂の内部に今も表れています。(参照:ダラム大聖堂|1093〜1133年の建設とヴォールト)
《バイユーの刺繍》|1066年の征服を布に描く
麻布と羊毛糸で作られた長大な物語
フランスのバイユーに伝わる《バイユーの刺繍》は、長さ約68.3メートルの麻布に羊毛糸で人物、馬、船、建物などを縫い取った作品です。《バイユーのタペストリー》とも呼ばれますが、図像は織り模様ではなく刺繍によって作られています。中央の帯には人物の動きと短いラテン語の説明が続き、上下の縁には動物や空想上の生き物が並びます。布の長さを生かし、画面を横へ追うことで出来事の順序を読み取れる構成です。(参照:バイユー美術館|《バイユーの刺繍》の素材・技法・注文主)
ハロルド王、ウィリアム公、ヘイスティングズの戦い
物語はイングランド王エドワードの晩年、ハロルドの旅と誓約から始まり、1066年の王位継承争い、ノルマン軍の渡海、ヘイスティングズの戦いへと進みます。船を造る職人、馬を積む兵士、食事の場面、砦や戦場に倒れる人々が、次々と現れます。人物の動作や船・武具の反復によって、大勢が関わる出来事が連続した物語として描かれました。
この刺繍の場面の選び方は、ウィリアムによる征服を正当なものとして伝えようとする見方と結び付けて研究されてきました。ハロルドの誓約を印象的に描き、ノルマン軍の渡海や戦いに長い画面を割いていることも、その解釈に関わっています。制作を支えた側の立場が反映された可能性を考えながら見ることで、同時代の政治的な主張と刺繍の造形上の工夫を読み取れます。(参照:バイユー美術館|征服の物語と画像)
バイユー司教オドと制作地をめぐる研究
ウィリアム征服王の異母弟、バイユー司教オドが制作を支援し、1077年に奉献されたバイユー大聖堂に飾るために注文したという説が有力です。制作した工房の場所や職人の名前、詳しい完成年代については研究が続いています。王妃マティルダが自ら作ったという後世の伝承も知られていますが、制作主体を示す確実な史料とは区別されています。絵画のように連続する場面を、一本一本の色糸で縫い取った手仕事の規模も、この作品の大きな特徴です。(参照:バイユー美術館|《バイユーの刺繍》の素材・技法・注文主)
イングランド・ウィンチェスター|王と修道院の写本
1031年《ニュー・ミンスターの生命の書》
ウィンチェスターのニュー・ミンスター修道院で作られた《生命の書》(Liber Vitae)は、修道士や寄進者の名前を書き留め、その人々のために祈るための写本です。大英図書館所蔵のStowe MS 944には、1031年頃に描かれたクヌート王と王妃エマの献呈画があります。キリストの前に王夫妻が並び、王家と修道院の関係を図像によって示した頁です。後の時代に追記された多くの人名は、この本が長く使われ続けたことを伝えています。(参照:大英図書館|《ニュー・ミンスターの生命の書》Stowe MS 944)
寄進者の名前を残すための書物
この写本で目を引くのは、王夫妻を大きく描いた献呈画と、名前を丁寧に書き連ねた頁との違いです。華やかな人物像は寄進の場面を表し、名前の一覧は祈りの対象となる人々を記録しています。修道士は典礼の中でこれらの名前を読み上げ、亡くなった人々を記念しました。挿絵と文字は別々の役割を持ちながら、一冊の書物の中で王権と修道院の結び付きを伝えているのです。(参照:大英図書館|《ニュー・ミンスターの生命の書》Stowe MS 944)
スペイン北部|王妃の寄進と象牙・金工
11世紀後半、フェリシア王妃の十字架象牙板
メトロポリタン美術館所蔵の11世紀後半の《磔刑図の象牙板》には、十字架にかけられたキリスト、聖母マリア、使徒ヨハネらが象牙で彫られ、鍍金した銀の背景の前に配置されています。人物は平らな絵ではなく、小さく立体的に彫り出され、金属の輝きと象牙の柔らかな色が対照をなします。銘文には「フェリシア王妃」の名があり、現在のスペイン北部にあたるアラゴンとパンプローナの王妃による注文が有力視されています。
この作品は書物の表紙を飾った可能性があり、北スペインのサンタ・クルス・デ・ラ・セロス女子修道院への寄進とも結び付けられています。象牙の人物像を彫る職人と、銀を加工し、ガラスや七宝をはめ込む職人が、それぞれの材料を扱って一つの品を作り上げました。王妃がこうした工芸の注文主になったことは、宮廷の女性たちも修道院の美術制作を支えていたことを伝えています。(参照:メトロポリタン美術館|フェリシア王妃の十字架象牙板)
本の表紙に取り込まれたビザンティン象牙
同じ美術館には、10世紀にビザンティンで作られた磔刑図の象牙彫刻を、11世紀末にスペインで作られた金属細工の枠へ収めた書物の表紙もあります。中央の古い象牙彫刻を囲む装飾には、宝石などの高価な材料が使われ、アラビア文字を刻んだサファイアも取り込まれています。別の時代・土地・言語に属する品が、キリスト教の書物を飾る一つの工芸品として組み合わされた例です。地中海を通じて渡った材料や古い作品が、11世紀の西ヨーロッパでどのように使われたかを具体的に示しています。(参照:メトロポリタン美術館|ビザンティン象牙と11世紀スペインの装丁)
イタリア・ピサ|港湾都市が建てた大聖堂
1064年頃の創建と海洋都市の財力
イタリア中部の海港ピサでは、1064年頃から新しい大聖堂が建てられました。交易によって成長した都市が、広い身廊、翼廊、長い列柱、中央のドームを備える建築に資金を注いだのです。半円アーチを規則的に連ねる構成は古代ローマの建築を思わせ、地中海各地から運ばれた材料や古い石材も利用されています。海上交通の拠点という都市の性格が、建物の素材の選び方にも関わっています。
大聖堂が立つ現在の「奇跡の広場」には、洗礼堂、鐘塔、墓地もあります。斜塔で知られる鐘塔が着工したのは12世紀後半で、広場全体の整備は14世紀まで続きました。11世紀の造営を考えるときには、まず大聖堂の創建と初期の平面に注目できます。今日一緒に見える建物が、数世紀にわたって加えられたことも、この場所の歴史の一部です。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ピサのドゥオーモ広場)
石柱の反復と地中海の構成
ピサ大聖堂の身廊では、列柱と半円アーチが奥へ向かって続き、その上を木造屋根が覆っています。身廊の石造ヴォールトを追求した北方の教会と比べると、ここでは長い柱列と広い木造屋根の空間が印象的です。花崗岩の柱や大理石の装飾には古代の建物から再利用された材料もあり、柱の色や質感は一様ではありません。地中海で得られた石材と古代から受け継がれた建築の形式を、11世紀の大聖堂に取り入れた実例です。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ピサの聖堂平面と創建)
イタリア・モデナ|1099年の大聖堂計画
建築家ランフランコと新聖堂の起工
イタリア北部エミリア地方のモデナでは、守護聖人ゲミニアヌスの遺骨を祀る古い教会に代わり、1099年に新しい大聖堂の建設が始まりました。建築家ランフランコの名は史料や碑文に残り、造営に関わった人物として知られています。聖人の遺骨を納める教会を新しくする仕事には、都市の共同体も関わりました。正面や鐘楼の工事、彫刻装飾の制作は12世紀にも続き、現在の建物にその成果が残っています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|モデナの大聖堂と市民広場)
ウィリジェルモの石彫と古代の材料
モデナ大聖堂には、彫刻家ウィリジェルモの名に結び付く石彫が残っています。壁面に配置された『創世記』の物語では、人物の身体や腕の大きな動きと、衣のひだを刻む線によって出来事が表されています。建築に取り付けられた彫刻として、人々が近くを通りながら見ることも考えられた構成です。主要な彫刻の制作は12世紀に属し、1099年の着工後も建築家と石工、彫刻家が工事を引き継いだことが分かります。(参照:ユネスコ世界遺産センター|モデナの大聖堂と市民広場)
イタリア・バーリ|1087年の聖遺物と新しい聖堂
小アジアから移された聖ニコラの遺骨
イタリア南東部の港町バーリには、1087年に聖ニコラの遺骨が小アジアのミュラから船で運ばれました。遺骨を納めるため、修道院長エリアのもとで新しい聖堂の建設が始まりました。地中海を行き来する船乗りの活動と、聖人を訪ねて祈る人々の信仰が、この港町の教会の造営につながっています。遺骨を安置する地下空間の整備が、地上の大きな教会の建設に先行した点が特徴です。(参照:バーリ聖ニコラ聖堂|1087年の聖遺物移送と修道院長エリア)
1089年の地下聖堂と26本の柱
聖ニコラ聖堂の地下聖堂には、26本の柱が密に並んでいます。色や材質の異なる大理石の柱の上には交差ヴォールトが架けられ、低い天井の下に陰影が生まれます。古い建物から再利用した柱もあり、柱材の色合いや形に変化が見られます。1089年、教皇ウルバヌス2世はこの地下聖堂を訪れ、聖ニコラの遺骨を祭壇の下に納めました。地上の教会の工事が続く中で、まず聖遺物のための礼拝空間が使われ始めたのです。(参照:バーリ聖ニコラ聖堂|1089年の地下聖堂と石柱)
スペイン・カタルーニャ|山地の石造教会
カルドナのサン・ビセンス教会、1040年の奉献
スペイン北東部カタルーニャのカルドナでは、岩山の上に築かれた城内にサン・ビセンス教会があります。11世紀初めに建設が始まり、1040年に奉献されました。細長い身廊を横切るアーチと石造ヴォールト、東端の丸く張り出した後陣によって、内部は明快な幾何学的構成を持っています。大聖堂ほど大きくはありませんが、石の天井を架ける技術が、城の領主と聖職者に支えられた地方の教会にも用いられていた例です。(参照:カタルーニャ文化財局|サン・ビセンス教会1019〜1040年の造営)
ボイ渓谷の村々と教会群
ピレネー山脈のボイ渓谷には、山間の村や農地の近くに小さな石造教会が点在しています。11〜12世紀に領主の保護を受けて建てられた教会では、縦長の鐘塔、小さな窓、壁面に並ぶ浅いアーチがよく見られます。厚い壁に小窓を開ける外観と、山の斜面に立つ鐘塔の細長い形が、この地方の建築に共通する特徴です。アルプス南側から広がった建築の形式との関係も指摘されています。
タウイのサン・クリメン教会が奉献されたのは1123年で、よく知られる堂内の壁画も12世紀の作品です。ボイ渓谷では11世紀に始まった石造教会の建設がその後も続き、祭壇の周囲には壁画などの装飾が加えられました。石壁や鐘塔の造営と、内部の絵画の制作はそれぞれの時期を持っています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ボイ渓谷のロマネスク教会群)
1040年頃のエスタマリウと残された壁画
カタルーニャのエスタマリウにあるサン・ビセンス教会は1040年頃の建築で、壁面の調査からロマネスク期の絵画が見つかっています。石の曲面に沿う人物像や残された色彩から、壁画が礼拝空間の重要な部分を占めていたことがうかがえます。後世の改修で隠れた絵画が、調査や修復によって再び姿を現しました。建物が完成してからも、画工による装飾や塗り直しが続いたことを伝える例です。(参照:カタルーニャ文化財局|エスタマリウの11世紀教会と壁画調査)
フランス・サン=サヴァン|石の天井に広がる絵画
旧約聖書の場面で満たされた天井
フランス西部、ガルタンプ川沿いのサン=サヴァン修道院教会には、11世紀末から12世紀にかけて描かれた壁画が残っています。身廊の高いヴォールトには旧約聖書の物語が広がり、ノアの箱舟などの場面が曲面に沿って大きく描かれています。礼拝者は祭壇へ向かって歩きながら、その頭上に並ぶ人物や物語を見上げました。人物の大きさや構図は、高い天井を下から眺めることを考えて工夫されています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|サン=サヴァンの壁画)
彩色の残存と修復の歴史
壁画には赤、黄、緑、土色などが残り、人物の輪郭や衣の線を今も見分けられます。広い範囲に絵画が残るため、ロマネスク期の教会内部がどのように彩られていたかを伝える貴重な作品です。色や背景の一部は失われ、19世紀以後の修復によって変化した箇所もあります。現存する色彩をそのまま11世紀の状態とみなすことはできず、中世の顔料と後世の再彩色を区別する保存調査が行われています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|サン=サヴァンの壁画)
スペイン・サラゴサ|11世紀のイスラム宮殿
タイファ諸王国とアルハフェリア宮殿
11世紀初めにコルドバのカリフ政権が分裂すると、イベリア半島には各地を治めるイスラム系の地方政権が生まれました。現在のスペイン北東部サラゴサでは、バヌー・フード家の宮殿の一部がアルハフェリア宮殿に残っています。重なり合う複雑なアーチ、繊細な漆喰の植物模様、庭と水路による空間の構成が特徴です。キリスト教王朝の時代に加えられた部分や、後世の改修も残り、現在の宮殿には複数の建設段階が共存しています。(参照:アラゴン州文化財局|11世紀のアルハフェリア宮殿)
同じ半島に並ぶ宗教建築の技法
同じ11世紀のイベリア半島では、北部の王侯や修道院が教会を築き、サラゴサのイスラム系の支配者は宮殿を整えていました。カタルーニャの石造教会では厚い壁とヴォールト、サンティアゴ大聖堂では巡礼者が通る周歩廊が重要になります。アルハフェリア宮殿で目を引くのは、幾重にも重なるアーチと漆喰装飾です。建物の用途と注文主の違いが、空間の使い方や装飾に表れています。
イベリア半島には、キリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒の共同体が暮らし、それぞれの職人の伝統と材料の流通がありました。工芸品や技術が宗教や政治の境界を越えて伝わった例も知られています。どの装飾がどの工房から伝えられたのかを考える際には、形が似ていることに加え、制作年代や材料、関連史料を確かめる必要があります。複数の文化が並び立つ半島では、共通点と独自の発展の両方を見ることができます。(参照:アラゴン州文化財局|11世紀のアルハフェリア宮殿/サンティアゴ大聖堂|大聖堂の建設と後世の増築)
ギリシアのビザンティン修道院|11世紀のモザイク
ホシオス・ルカスの金地モザイク
現在のギリシア中部にあるホシオス・ルカス修道院には、11世紀のビザンティン建築とモザイクがよく残っています。中央のドームの下に広がる主聖堂では、金地のキリストや聖人の像が壁や天井に配置されています。モザイクは色のついたガラスや石の小片を組み合わせたもので、光の当たり方によって表面の輝きが変わります。西ヨーロッパで長い身廊を持つ教会が発展していた頃、東地中海ではドームを中心とした空間に聖なる像を配する建築が成熟していました。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ホシオス・ルカス、ダフニ、ネア・モニ修道院)
ヒオス島ネア・モニと地中海の金地空間
エーゲ海のヒオス島にあるネア・モニ修道院も、11世紀中頃に皇帝の保護を受けて整えられました。主聖堂には金色のモザイクと大理石の壁面装飾が残り、聖書の場面や聖人像がアーチや壁に沿って配置されています。こうしたビザンティンの工芸品は西方にも伝わり、古い象牙彫刻がスペインの書物の表紙に組み込まれた例もあります。建築そのものの形は地域で異なっていても、持ち運べる高価な作品は地中海を越えて用いられたのです。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ホシオス・ルカス、ダフニ、ネア・モニ修道院/メトロポリタン美術館|ビザンティン象牙と11世紀スペインの装丁)
建物の内部で起きたこと|祈り、移動、色と素材
祭壇と聖遺物が決めた空間の使い方
礼拝者が聖遺物へ近づく経路は、建物ごとに違います。コンクやサンティアゴでは内陣の外側に周歩廊を設け、祭壇で祈る聖職者のそばを参拝者が通れるようにしました。バーリでは聖ニコラの遺骨を納める地下聖堂へ下り、低い天井と柱の間を進みます。聖遺物の安置場所に合わせて通路や階段が設けられ、参拝者はそれぞれ異なる空間を通って祭壇へ近づきました。(参照:コンク観光・文化遺産局|サント=フォワ修道院教会/バーリ聖ニコラ聖堂|1089年の地下聖堂と石柱)
石工・鋳物師・画工・刺繍職人
同じ聖書の物語でも、作品の素材と置き場所によって見る方法は変わります。ヒルデスハイムの青銅扉では、入口に立つ人の前に人物の浮彫が縦に並びます。サン=サヴァンの壁画は高い天井を見上げる絵画で、《バイユーの刺繍》は横へ長く続く場面を目で追う作品です。鋳物師、画工、刺繍職人が使った材料も、青銅、顔料、布と糸でそれぞれ異なります。大きさと素材、作品に近づく身体の動きが、物語の伝わり方を変えているのです。(参照:バイユー美術館|《バイユーの刺繍》の素材・技法・注文主/ヒルデスハイム大聖堂|《ベルンヴァルトの扉》)
古代の柱を再び使うこと
ピサやバーリの教会では、古代の建物から取り出した柱や石材が新しい建築に組み込まれました。こうした材料の再利用は、遠くの採石場から新しい石を運ぶ方法と並んで、建設現場で選ばれた仕事です。古い大理石の柱には色や質感の違いがあり、並べて使うと列柱の表情にも変化が生まれます。新旧の石が同じ建物に使われていることから、材料の入手方法と古代の建築遺産の活用が読み取れます。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ピサの聖堂平面と創建/バーリ聖ニコラ聖堂|1089年の地下聖堂と石柱)
11世紀末|教会改革と新しい造営の背景
教会と皇帝の権限をめぐる対立
11世紀後半には、司教などの聖職者を任命する権限をめぐって教皇と皇帝の対立が激しくなりました。1077年、皇帝ハインリヒ4世がカノッサで教皇に許しを求めた事件も、その争いの中で起きています。聖職者を誰が任命し、教会の土地や財産を誰が管理するかという問題は、建築の注文主や寄進のあり方とも深く関わっていました。
シュパイアー大聖堂は皇帝家の墓所を持ち、クリュニー第三教会は多くの修道士が典礼を行うための大きな礼拝空間を備えていました。いずれも巨大な建物ですが、造営を支えた権力や共同体の性格は異なります。教皇と皇帝の対立が強まる時代、こうした大聖堂と修道院の建設は、信仰とともに支援者の立場を示す事業でもありました。皇帝家の埋葬に使われる地下聖堂と、修道士の典礼のために数多く設けられた祭室は、その用途の違いをよく示しています。(参照:ユネスコ世界遺産センター|シュパイアー大聖堂/フランス国立文化財センター|クリュニー修道院の歴史)
1095年の十字軍運動と地中海の移動
1095年、教皇ウルバヌス2世はエルサレムへ向かう軍事遠征を呼びかけ、1099年には十字軍勢力が同地を占領しました。この遠征は宗教的な動機とともに征服と暴力を伴い、地中海地域の人々に大きな影響を及ぼしています。11世紀末は、教会の建設と巡礼が広がる時代であると同時に、信仰が政治や軍事行動と深く結び付いた時代でもありました。
地中海の往来は、十字軍以前から交易や巡礼によって続いていました。バーリへ聖ニコラの遺骨が船で運ばれたのは1087年、ピサで大聖堂の建設が始まったのは1064年頃です。二つの都市では、海上交通がそれぞれ聖遺物の移送や建築材料の調達に関わっています。宗教的な旅と商業活動、軍事遠征には異なる目的がありましたが、人と物が地中海を移動するという条件を共有していました。(参照:バーリ聖ニコラ聖堂|1087年の聖遺物移送と修道院長エリア/ユネスコ世界遺産センター|ピサのドゥオーモ広場)
略年表|1001〜1100年の出来事
- 1010〜1022年|ヒルデスハイムの聖ミヒャエル教会が造営される。
- 1015年|《ベルンヴァルトの扉》がヒルデスハイム大聖堂のために作られる。
- 1020年頃|ヒルデスハイムで《キリストの円柱》が作られる。
- 1030年|コンラート2世がシュパイアー大聖堂の造営を始める。
- 1031年頃|ウィンチェスターの《ニュー・ミンスターの生命の書》に王家の献呈画が描かれる。
- 1040年|カタルーニャのサン・ビセンス教会が奉献される。
- 1040〜1060年代|ノルマンディーでジュミエージュ修道院の大教会が建設される。
- 1049年|ユーグ・ド・スミュールがクリュニー修道院長となる。
- 11世紀半ば|コンクのサント=フォワ修道院教会の造営が始まる。
- 1060年頃|カーンで男子・女子の修道院が創建される。
- 1064年頃|ピサの新しい大聖堂の建設が始まる。
- 1066年|ノルマンディー公ウィリアムがイングランドを征服する。
- 1067年|ジュミエージュのノートルダム修道院教会が奉献される。
- 1075年頃|サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の工事が東端から始まる。
- 1077年|皇帝ハインリヒ4世がカノッサで教皇に赦免を求める。
- 1080年頃|トゥールーズのサン=セルナン聖堂で新しい建設が進む。
- 1084年|ブルーノらがシャルトルーズ山地で共同体を築く。
- 1087年|聖ニコラの遺骨が小アジアからバーリへ運ばれる。
- 1088年|クリュニー第三教会の大規模な造営計画が始まる。
- 1089年|バーリの聖ニコラ聖堂の地下聖堂に遺骨が納められる。
- 1093年|ダラム大聖堂の建設が始まる。
- 1095年|クリュニー第三教会の主祭壇が聖別され、十字軍運動が呼びかけられる。
- 1096年|サン=セルナン聖堂の祭壇が聖別される。
- 1098年|シトー修道院が創設される。
- 1099年|モデナ大聖堂の建設が始まり、十字軍勢力がエルサレムを占領する。
まとめ|地域の技法と祈りの空間
11世紀の西ヨーロッパでは、古代から受け継がれた建築形式と、各地の教会造営で生まれた技術が重なり、後に「ロマネスク」と呼ばれる造形文化が育っていきました。半円アーチや柱列という共通する要素があっても、建物の規模、天井の構造、石材の使い方、装飾のあり方は地域ごとに異なります。そこには職人の技術や材料を手に入れる条件とともに、建設を支えた人々の目的が表れていました。
教会の形は、そこを使う人々の動きとも結び付いています。皇帝家の墓所、修道士が典礼を行う場所、巡礼者が聖遺物を訪ねる通路には、それぞれ異なる役割がありました。青銅扉や写本は聖書の物語を伝え、《バイユーの刺繍》は征服の経緯を長い場面の連続で語ります。王権や修道院が制作を支えるなかで、石の建築から金工、刺繍まで、異なる素材を通して信仰と権力が表現されていました。
同じ11世紀、イベリア半島のイスラム宮廷やビザンティンの修道院でも、それぞれの伝統に基づく建築と装飾が生み出されていました。西ヨーロッパのロマネスクは、こうした多様な文化が存在した時代に形づくられた美術の一つです。シュパイアーやクリュニーの造営が世代を越えて続いたように、11世紀に始まった建設と装飾の仕事は12世紀にも受け継がれました。現在、一つの建物として見える聖堂の石壁や天井にも、異なる時代を生きた職人たちの仕事が重なっています。(参照:メトロポリタン美術館|ロマネスク美術/ユネスコ世界遺産センター|シュパイアー大聖堂/ユネスコ世界遺産センター|モデナの大聖堂と市民広場)
参考資料・出典
- メトロポリタン美術館|ロマネスク美術
- ユネスコ世界遺産センター|フランスのサンティアゴ巡礼路
- コーネル大学出版局・Oxford Academic|「教会の白い衣」の史料と解釈
- ユネスコ世界遺産センター|シュパイアー大聖堂
- ユネスコ世界遺産センター|ヒルデスハイムの大聖堂と聖ミヒャエル教会
- ヒルデスハイム大聖堂|ベルンヴァルト司教と美術保護
- ヒルデスハイム大聖堂|《ベルンヴァルトの扉》
- ヒルデスハイム大聖堂|《キリストの円柱》
- フランス国立文化財センター|クリュニー修道院の歴史
- フランス国立文化財センター|クリュニー第三教会と修道院網
- ラ・シャルトルーズ文化財機関|1084年のブルーノと共同体
- 厳律シトー会|シトー修道院の創設
- コンク観光・文化遺産局|サント=フォワ修道院教会
- コンク観光・文化遺産局|《聖フォワの聖遺物像》と宝物
- コンク観光・文化遺産局|《最後の審判》のタンパン
- トゥールーズ市|サン=セルナン聖堂の建設史
- サン=セルナン聖堂|1096年の大理石祭壇
- フランス建築文化財都市|サン=セルナンの歩廊彫刻
- サンティアゴ大聖堂|1075年の着工を示す碑文
- サンティアゴ大聖堂|大聖堂の建設と後世の増築
- ユネスコ世界遺産センター|スペイン北部のサンティアゴ巡礼路
- ジュミエージュ修道院文化財管理局|11世紀の修道院建築
- ノルマンディー修道院協会|カーンの男子修道院
- ユネスコ世界遺産センター|ダラム城と大聖堂
- ダラム大聖堂|1093〜1133年の建設とヴォールト
- バイユー美術館|《バイユーの刺繍》の素材・技法・注文主
- バイユー美術館|征服の物語と画像
- 大英図書館|《ニュー・ミンスターの生命の書》Stowe MS 944
- メトロポリタン美術館|フェリシア王妃の十字架象牙板
- メトロポリタン美術館|ビザンティン象牙と11世紀スペインの装丁
- ユネスコ世界遺産センター|ピサのドゥオーモ広場
- ユネスコ世界遺産センター|ピサの聖堂平面と創建
- ユネスコ世界遺産センター|モデナの大聖堂と市民広場
- バーリ聖ニコラ聖堂|1087年の聖遺物移送と修道院長エリア
- バーリ聖ニコラ聖堂|1089年の地下聖堂と石柱
- カタルーニャ文化財局|サン・ビセンス教会1019〜1040年の造営
- ユネスコ世界遺産センター|ボイ渓谷のロマネスク教会群
- カタルーニャ文化財局|エスタマリウの11世紀教会と壁画調査
- ユネスコ世界遺産センター|サン=サヴァンの壁画
- アラゴン州文化財局|11世紀のアルハフェリア宮殿
- ユネスコ世界遺産センター|ホシオス・ルカス、ダフニ、ネア・モニ修道院