Art Library
Art History

1948–1951

CoBrA

コペンハーゲン、ブリュッセル、アムステルダム、子どもの絵、民俗芸術、共同制作

CoBrAは、第二次世界大戦後のヨーロッパで最も短命でありながら、後の美術へ長く影響を残した運動の一つです。正式な活動期間は1948年から1951年まで、わずか三年でした。しかも参加した作家たちは、同じ絵を描こうとしたわけでも、一つの理論へ完全に合意したわけでもありません。むしろ意見の衝突、国籍や言語の違い、詩人と画家の協働、雑誌制作、共同制作、展覧会を通して、戦争後の社会で「芸術をもう一度誰のものにするのか」を問い続けた集団でした。

名称のCoBrAはCopenhagen、Brussels、Amsterdamの頭文字を組み合わせたものです。1948年11月8日、パリでAsger Jorn、Christian Dotremont、Joseph Noiret、Karel Appel、Constant、Corneilleの六人が新しい国際的な実験芸術家の連携を立ち上げました。彼らはそれぞれDenmark、Belgium、Netherlandsから来ていましたが、国民的な「デンマーク美術」「ベルギー美術」「オランダ美術」を作ろうとしたのではありません。むしろ国境を越え、戦前の芸術制度と社会秩序から距離を取ろうとしました。

CoBrAの作品は、鮮烈な色、鳥や動物、怪物、顔、太陽、子どものような線、厚い絵具で知られます。しかし、これを単純に「子どものように自由に描いた絵」と理解すると重要な部分を失います。Jornたちは子どもの絵を大人が模倣するための様式見本とは考えていませんでした。子どもが既成の美術規則を気にせず、自分の必要に応じて線や色を使う姿勢に、創造性を社会から解放する可能性を見ていました。

その考えの背景には、戦前から続くSurrealism、DenmarkのHelhestenとHøst、Belgiumの革命的シュルレアリスム、Netherlandsの実験グループがあります。とくにDenmarkでは、ドイツ占領下の孤立の中でJorn、Ejler Bille、Henry Heerup、Carl-Henning Pedersen、Else Alfeltらが民俗芸術、子どもの絵、先史時代の造形、北欧の教会壁画、非西欧美術、心理学、人類学を横断的に研究していました。CoBrAは1948年にゼロから突然生まれたのではありません。

また、CoBrAを「楽しくカラフルな戦後美術」とだけ見ることもできません。作家たちは戦争と占領を経験し、社会の既存価値が破綻したと感じていました。そのため芸術も、美術学校で習う正しいデッサンや、美術館に置かれる完成品だけでは足りないと考えます。絵を作る行為そのもの、複数人が一枚へ描くこと、詩と絵を混ぜること、雑誌を共同で作ること、子どもや素人の創造力を重視することが、社会を作り直す実験と結びつきました。

この点でCoBrAは、前の記事で扱ったArt informelとも似ていて異なります。どちらも幾何学的な秩序やアカデミックな完成度から距離を取り、痕跡や自発性を重視します。しかしCoBrAでは、動物、顔、怪物、太陽といった具象的な像が繰り返し現れ、共同制作、詩、民俗文化、政治、子どもの創造性がより前面に出ます。抽象絵画の新しい様式を作るより、創造する行為そのものを社会へ開くことが大きな目標でした。

一方、その「自由」には現在から見直すべき問題もあります。CoBrAの作家はアフリカや北アフリカ、オセアニアなどの造形に強く惹かれましたが、それらはヨーロッパの民族学博物館や植民地的な収集制度を通して見られた場合も多く、異文化を「文明以前の自由な表現」として理想化する視線が含まれていました。Cobra Museum自身も近年、North Africaとの関係やErnest Mancobaの位置を通して、この歴史を再検討しています。

さらに、後世のCoBrA像は男性作家を中心に作られてきました。Else Alfelt、Sonja Ferlov Mancobaらは活動に関わりながら、長く周辺的な存在として記述されてきました。Cobra Museumは近年、女性作家を特集する展覧会を通じてその偏りを修正しています。またSouth Africa出身のErnest Mancobaも、Denmarkの前衛と深く関わりながら従来のCoBrA正典では十分に扱われてきませんでした。

1949年、AmsterdamのStedelijk Museumで最初の大規模なCoBrA展が開かれると、作品は激しい反発を受けました。新聞は絵を落書きやでたらめと評し、Karel Appelらは嘲笑の対象になります。しかし、この展覧会には十か国から29人が参加しており、CoBrAが三都市だけの小さな仲間内ではなく、戦後ヨーロッパの広い実験芸術をつなぐ場になっていたことも示しました。

1951年、Liègeで開かれた大規模展を最後にCoBrAは事実上解散します。病気、経済的困難、政治的見解の違い、個々の作家活動の拡大などが重なり、短い共同体は終わりました。しかし、DotremontやAlechinskyが重視した詩人と画家の協働、Jornの共同制作、Constantの社会的想像力は、その後も続きます。本記事ではCoBrAを「1948–51年の絵画様式」ではなく、短期間に芸術の作り方、見せ方、共有の仕方を作り直そうとした国際的な実験として追います。

CONTENTS

  1. CoBrAに一つの「様式」はなかった
  2. 名前は三都市の頭文字
  3. 1948年11月8日、パリ
  4. 「実験芸術家インターナショナル」
  5. 一致より対立が多かった
  6. 戦争後の「自由」
  7. 「明るく楽しい運動」だけではない
  8. Denmarkの前史
  9. Linien
  10. Høst
  11. 雑誌『Helhesten』
  12. 「地獄の馬」という題名
  13. 美術だけを見ない
  14. Asger Jorn
  15. Jornの国際的な結びつき
  16. 1946年、ConstantとJornが出会う
  17. Miróという接点
  18. 革命的シュルレアリスム
  19. Communismとの緊張
  20. Christian Dotremont
  21. Joseph Noiret
  22. 詩と絵を分けない
  23. オランダ実験グループ
  24. 雑誌『Reflex』
  25. Constantの宣言
  26. 芸術を誰もが作るものにする
  27. 1948年、Dutch artistsがDenmarkへ
  28. Carl-Henning Pedersen
  29. Else Alfelt
  30. 「CoBrAらしくない」ことが重要
  31. Henry Heerup
  32. Ejler Bille
  33. Egill Jacobsen
  34. Parisでの創設へ
  35. 名称を考えたDotremont
  36. 六人の創設者
  37. Pierre Alechinskyの参加
  38. Micky Alechinskyの実務
  39. 雑誌『Cobra』
  40. 図録ではなく制作の場
  41. 子どもの絵
  42. 子どもの絵を真似するのではない
  43. 「子どものように最初から始める」
  44. 戦争の犠牲者としての子ども
  45. 《Questioning Children》
  46. 民俗芸術
  47. 先史時代の造形
  48. 非西欧美術
  49. North Africaとの関係
  50. 民族学博物館を通して見る
  51. 「原始的」という語の問題
  52. 動物
  53. 怪物
  54. 顔
  55. 太陽、月、星
  56. 色彩
  57. 絵具の厚み
  58. 自発性
  59. Appelの「適当にやっている」神話
  60. 完成品より過程
  61. 共同制作
  62. 「巨匠の一点物」への距離
  63. peinture-mots
  64. JornとDotremontの共同制作
  65. AlechinskyとDotremont
  66. Dotremontのlogogramは後の展開
  67. Ateliers du Marais
  68. 陶芸
  69. 彫刻
  70. Shinkichi Tajiri
  71. Ernest Mancoba
  72. 人種差別とMancoba
  73. Sonja Ferlov Mancoba
  74. Ferlovと「自発性」のずれ
  75. 女性作家が見えにくくなった理由
  76. Lotti van der Gaag
  77. 「メンバー」の境界は固定できない
  78. 1949年Stedelijk Museum展
  79. Willem Sandberg
  80. 《International Experimental Art》
  81. Amsterdamでの騒動
  82. 美術館と観客の距離
  83. 1949年騒動後の離脱
  84. Appel、Parisへ
  85. 《La Promenade》1950
  86. Constant《L’animal sorcier》
  87. Constantの政治性
  88. CoBrA後のConstant
  89. Corneille
  90. Denmarkからの刺激
  91. Karel Appel
  92. Appelの物質感
  93. Jornの絵画
  94. Jornと共同性
  95. 共同制作は「仲良し」ではない
  96. 政治的立場も統一されていない
  97. 反エリート主義
  98. 反エリート運動がmuseumへ入る矛盾
  99. 市場との矛盾
  100. Jazz
  101. 詩
  102. 版画
  103. 本という作品
  104. 壁画
  105. 都市と公共性
  106. 1950年頃のParis
  107. 病気
  108. 経済的な困難
  109. 1951年Liège展
  110. なぜ三年で終わったのか
  111. 短命=失敗ではない
  112. Appelのその後
  113. Jornのその後
  114. Alechinskyのその後
  115. Dotremontのその後
  116. Constantのその後
  117. 「CoBrA language」をめぐる論争
  118. 様式か共同性か
  119. 正典が作るCoBrA
  120. 女性作家を戻す
  121. Mancobaを戻す
  122. 非西欧美術への関心を再検討する
  123. 子どもを「純粋」と固定しない
  124. folk artを固定しない
  125. 専門分業への批判
  126. 「専門横断的」な制作
  127. 作者は一人なのか
  128. 署名と共同性
  129. 芸術と生活
  130. museumに遊びを持ち込む
  131. 観客の役割
  132. 創造性と民主主義
  133. 芸術革命と社会革命
  134. 抽象と具象の二択を拒む
  135. Art informelとの比較
  136. Dubuffetとの接点
  137. Surrealismとの関係
  138. Expressionismとの違い
  139. 行為としての芸術への影響
  140. Situationistへの接続
  141. 美術教育への影響
  142. CoBrAがmuseum canonになる
  143. 1948–1951年の三年間
  144. ART HISTORYとしてのまとめ
  145. 次へ — DubuffetとArt Brut
  146. 参考資料・出典

CoBrAに一つの「様式」はなかった

後世には鮮烈な色、太い輪郭、怪物のような人物を「CoBrA風」と呼ぶことがあります。しかし、Jorn、Appel、Constant、Corneille、Pedersen、Alfeltの作品はかなり異なります。Cobra Museumも、作家たちは一つの共通様式を目指していなかったと明記しています。

名前は三都市の頭文字

CoBrAという名称はCopenhagen、Brussels、Amsterdamをつないだものです。国名ではなく都市名を結んだ点も重要で、国家を越えた文化的連携を示す名称になっています。

1948年11月8日、パリ

Cobra Museumによれば、運動は1948年11月8日にParisで正式に結成されました。創設者はAsger Jorn、Christian Dotremont、Joseph Noiret、Karel Appel、Constant、Corneilleの六人です。

「実験芸術家インターナショナル」

新しい連携はInternationale des Artistes Expérimentaux、国際実験芸術家連合という性格を持っていました。名称に「インターナショナル」が含まれることからも、単なる絵画グループより広い政治的・社会的連帯を志向していたことが分かります。

一致より対立が多かった

Jornは後年、Dotremontとほとんどあらゆる点で議論し反対し合ったと回想しています。Cobra Museumも、内部の矛盾や対立こそ運動の活力だったと整理しています。完全な理論的一致を前提にCoBrAを見るべきではありません。

戦争後の「自由」

占領と戦争を経験した若い作家にとって、芸術上の自由は単なる表現技法ではなく社会的問題でした。既存の規則に従った文化が戦争を防げなかった以上、芸術も根底から作り直す必要があると考えました。

「明るく楽しい運動」だけではない

鮮やかな色や動物のため親しみやすく見えますが、背景には占領、破壊、政治運動、社会改革への欲望があります。CoBrAの自由は戦争経験への反応でもありました。

Denmarkの前史

CoBrA成立以前、DenmarkではLinien、Høst、Helhestenを中心に実験芸術が発展していました。NetherlandsやBelgiumより戦時中の制作・展示が一定期間可能だったため、この蓄積が戦後に若いDutch artistsへ大きな刺激を与えました。

Linien

1930年代のLinienにはJorn、Ejler Bille、Sonja Ferlov、Carl-Henning Pedersenらにつながる前衛的な交流があり、Surrealismと抽象をDenmarkへ導入しました。CoBrAの土壌は戦前から形成されていました。

Høst

Høstは1940年代Denmarkの重要な作家団体で、Jorn、Pedersen、Alfelt、Bille、Heerupらが参加しました。戦争下でも展示と議論を続け、後のCoBrAへ多くの人が接続します。

雑誌『Helhesten』

Jornが1941年に始めた『Helhesten』には画家だけでなく、考古学者、人類学者、心理学者、科学者も参加しました。Cobra Museumは、この異分野交流がDenmarkの実験芸術を育てたと説明しています。

「地獄の馬」という題名

Helhestenは「地獄の馬」を意味し、ドイツ占領への文化的抵抗の意味を持ちました。雑誌制作そのものが戦時下の文化活動であり、後のCoBrA誌へつながる共同編集の経験になります。

美術だけを見ない

考古学、民俗文化、心理学、子どもの絵、先史時代の図像を同じ雑誌で扱う姿勢は、専門美術だけを価値の中心に置かないCoBrAの考えへつながります。

Asger Jorn

JornはCoBrAの創設者であるだけでなく、Denmark、Netherlands、Belgium、Parisをつなぐ媒介者でした。Cobra Museumは彼を運動の「魂」と評した証言を紹介しています。

Jornの国際的な結びつき

戦後すぐにJornはParisを含むEurope各地で交流を広げ、Constant、Dotremontらと関係を作りました。作品だけでなく、人と人を結びつける活動がCoBrA成立に不可欠でした。

1946年、ConstantとJornが出会う

Cobra Museumによれば、ConstantとJornは1946年ParisのJoan Miró展で出会いました。JornはDenmarkで発展していた自由な表現をConstantへ紹介し、その後二人は文通を続けます。

Miróという接点

動物、星、目、記号のような形を自由に配置したMiróの作品は、CoBrA作家に重要な刺激を与えました。Constantの《L’animal sorcier》にも、記号化された動物像との対話が見られます。

革命的シュルレアリスム

Belgiumでは1947年にChristian DotremontがLe Surréalisme Révolutionnaireへ関わり、SurrealismとCommunismを結びつけようとしました。André Breton系のSurrealismでは社会革命への関与が足りないと考えた点が背景にあります。

Communismとの緊張

一部メンバーはCommunist Partyと近い立場にありましたが、党側はSurrealismの自由な想像力に警戒しました。CoBrAには左派的志向がありつつ、党の文化方針へ完全に従うこともできない緊張がありました。

Christian Dotremont

Belgian poet Dotremontは理論家、編集者、組織者としてCoBrAの中心でした。Cobra Museumは、Jornを「魂」とする一方、Dotremontなしには組織が成立しなかったという評価も紹介しています。

Joseph Noiret

Joseph Noiretも創設時から参加したBelgian poetです。後世は画家中心のCoBrA像になりやすいため、創設者六人のうち二人が詩人だったことは重要です。

詩と絵を分けない

CoBrAでは詩が作品解説として絵の外に置かれるのではなく、文字と絵を同じ紙・canvasへ直接入れる共同制作が行われました。これは運動の中心的実践の一つでした。

オランダ実験グループ

1948年夏、Constant、Appel、CorneilleらはDe Experimentele Groep in Hollandを結成しました。第一号雑誌『Reflex』にはConstantのmanifestoが掲載されます。

雑誌『Reflex』

『Reflex』は作品図版、詩、理論、lithographを一冊へ集め、Dutch experimental artistsの考えを発信しました。CoBrA以前から、雑誌が活動の中心媒体になっていました。

Constantの宣言

Constantは芸術を専門家だけが作るものから解放し、社会のあらゆる人が創造へ参加できる状態を求めました。Cobra Museumの政治展も、CoBrAが「人々のための、そして人々による芸術」を理想としたと整理しています。

芸術を誰もが作るものにする

CoBrAにとって民主化は「美術館の入場者を増やす」だけではありませんでした。創造する能力そのものを、専門教育を受けた芸術家だけの特権から解放しようとしたのです。

1948年、Dutch artistsがDenmarkへ

Appel、Constant、CorneilleはJornの導きでDenmarkを訪れ、Høstの作家たちと直接接触しました。Cobra Museumは、民俗芸術や自発的な表現への共通関心をそこで強く確認したとしています。

Carl-Henning Pedersen

Pedersenは1930年代末から鳥、馬、太陽、人物、神話的世界を鮮やかな色で描いていました。CoBrA成立前にすでに、後に「CoBrA的」と見える多くの造形を発展させていました。

Else Alfelt

Else AlfeltはHøstに参加し、CoBrA展にも関わった重要なDanish painterです。山、月、自然現象を抽象化した作品は、怪物や人物を好んだDutch membersとは異なる方向を持っていました。

「CoBrAらしくない」ことが重要

Cobra Museumによれば、Alfeltの作品は一部Dutch membersから抽象的すぎると見られたとされます。これはCoBrAに一つの様式がなかったことを示す具体的な証拠でもあります。

Henry Heerup

Heerupは石彫、絵画、日用品を使った造形で、民俗的・日常的な材料とユーモアを持ち込みました。Appel、Constant、Corneilleらはその簡潔な造形に強く惹かれました。

Ejler Bille

BilleはDenmark avant-gardeの思想的な先行者の一人で、芸術と社会の関係について文章も書きました。Cobra magazineには彼の政治的な文章も掲載され、Jornへ影響を与えています。

Egill Jacobsen

Egill Jacobsenの仮面を思わせる人物像は、Denmarkで戦前から展開された自由な色彩と原始的な顔の重要な例です。彼自身はCoBrAへ正式参加しなかったものの、前史として重要です。

Parisでの創設へ

Denmark、Belgium、Netherlandsで別々に進んでいた実験が1948年11月Parisで合流します。CoBrAは一国の作家が海外へ拡張したのではなく、複数地域の既存の活動が連結した運動でした。

名称を考えたDotremont

Cobra MuseumはCoBrAという名称をDotremontの発案として紹介しています。都市名を組み合わせた短い言葉は、雑誌や展覧会で使いやすく、運動の国際性を印象づけました。

六人の創設者

創設者はJorn、Dotremont、Noiret、Appel、Constant、Corneilleです。後に著名になるAlechinskyは創設時には参加しておらず、1949年から積極的に関わりました。

Pierre Alechinskyの参加

Alechinskyは1949年初頭にCoBrA展を見て運動へ参加しました。彼はDotremontを補佐し、雑誌制作や展覧会組織へ深く関わり、BrusselsのAteliers du Maraisを国際的な交流拠点にしました。

Micky Alechinskyの実務

Cobra Museumによれば、Pierre Alechinskyと妻MickyはCoBrA誌の刊行実務を担いました。美術史では作品制作者だけでなく、出版を成立させた編集・制作労働も見る必要があります。

雑誌『Cobra』

雑誌は運動の理論、詩、図版、共同制作を各国へ届ける中心媒体でした。展覧会へ来られない人も雑誌を通してCoBrAの思想と作品を知ることができました。

図録ではなく制作の場

雑誌は既に完成した作品を記録するだけではなく、詩と図像を組み合わせ、新しい印刷物そのものを作る実験の場でした。

子どもの絵

CoBrAの最も有名な参照の一つがchildren’s drawingsです。大人の美術教育によって矯正される以前の、線と色の自由を作家たちは高く評価しました。

子どもの絵を真似するのではない

Cobra Museumの資料は、Jornが子どもより「下手に見える絵」を意図的に作ることを勧めていたわけではないと説明しています。子どもに学ぶべきなのは見た目ではなく、創作に対する態度でした。

「子どものように最初から始める」

Appelは、戦争を経た時代に「子どものように一から始める」必要を語りました。子どもは無垢な装飾モチーフではなく、既成社会から別の可能性へ移る象徴でした。

戦争の犠牲者としての子ども

Appelのchild imageryには単なる遊びだけでなく、戦後の子どもの貧困や苦しみが重なる場合があります。子どもの表現への憧れと、現実の子どもの状況を区別しながら見る必要があります。

《Questioning Children》

Appelは1940年代末にchildrenを主題とした作品を発展させました。鮮烈な色と単純化した顔は「楽しい落書き」のように見えながら、戦後社会の子どもの存在を強く前面へ出します。

民俗芸術

CoBrAの作家は専門美術の外にあるfolk art、地域の装飾、玩具、祭礼などへ関心を持ちました。美術館の正典より、生活の中で作られ続けてきた造形に創造性の源を見ました。

先史時代の造形

先史時代の岩絵、彫刻、記号も「制度化以前の表現」として参照されました。ただし現代人がそこへ「純粋な自由」を投影していた面もあり、実際の先史社会の意味と同一視することはできません。

非西欧美術

SMKとCobra Museumは、CoBrA artistsがAfrican masksやnon-Western artから刺激を受けたことを記録しています。これを単なる「影響」と称賛するだけでなく、植民地時代の収集制度との関係まで考える必要があります。

North Africaとの関係

Jorn、Corneille、Anton Rooskensらは後にNorth Africaへ旅行し、Morocco、Algeria、Tunisiaの文化と接触しました。Cobra Museumは、深い関心と同時に現実離れした期待もあったと批判的に整理しています。

民族学博物館を通して見る

戦後Europeの作家が非西欧美術へ接触する主要な場の一つが民族学博物館でした。そこに作品がなぜ存在するのか、植民地支配と収集の歴史を切り離すべきではありません。

「原始的」という語の問題

当時は「primitive」という語が肯定的意味でも使われましたが、現在では非西欧社会を文明以前へ置くEurocentricな階層観を含むため、批判的に扱う必要があります。

動物

鳥、犬、猫、馬、牛、想像上の獣がCoBrAに頻繁に現れます。動物は自然観察の正確な描写より、人間と非人間の境界を揺らす自由な形として使われました。

怪物

複数の動物と人間を混ぜたような怪物は、既存分類へ収まらない存在です。戦後の新しい世界を、まだ名前のない生き物として描くことができました。

顔

大きな目、歯、口、仮面のような顔は、portraitの個人性より「顔を描く衝動」そのものを前面に出します。

太陽、月、星

Pedersen、Corneilleらの作品では天体が生き物のように画面へ現れます。自然、神話、子どもの図像が重なり、日常と宇宙を一つの画面へ接続します。

色彩

赤、青、黄、緑など強い色を混色しすぎず並べることが多く、色は自然再現より画面の生命力を作る役割を持ちます。

絵具の厚み

Appelらは絵具を厚く置き、筆跡や盛り上がりを残しました。絵をきれいに仕上げるより、制作の身体的な痕跡を見せます。

自発性

CoBrAの中心語の一つがspontaneityです。しかし何も考えず瞬間的に描くことだけを意味しません。長い議論や研究の上で、制作時に既成形式へ頼りすぎない態度を重視しました。

Appelの「適当にやっている」神話

Appelは乱暴で即興的な作家像と結びつけられてきましたが、Cobra Museumは、彼が実際には言葉ほど無計画に制作していたわけではないと指摘しています。

完成品より過程

複数の作家は、作品の最終的な美しさより、制作中に予想外の形が生まれる過程を重視しました。失敗や修正も画面へ残ります。

共同制作

CoBrAの重要な実験は複数人が同じ紙やcanvasへ描くことでした。個人の署名を守るより、他者の線へ応答し、作品が予測できない方向へ変わることを歓迎しました。

「巨匠の一点物」への距離

Dotremontは後年、CoBrAの本質を個人の傑作より共同制作へ見ていました。Cobra Museumの近年資料も、画家と詩人が同時に作る「反専門的」「専門横断的」作品を彼が重視したことを紹介しています。

peinture-mots

Dotremontは言葉と絵画を同じ画面で作る共同作品をpeinture-motsと呼びました。文字は文章を読ませるだけでなく、線、密度、リズムとして絵画へ入り込みます。

JornとDotremontの共同制作

1948–49年頃、JornとDotremontは油彩による「言葉の絵」を共同制作しました。詩人と画家の役割が固定されず、文字が像へ、像が言葉へ変化します。

AlechinskyとDotremont

AlechinskyはCoBrA解散後もDotremontとの共同制作を続けました。CoBrAの組織が1951年で終わっても、協働の方法は長く残りました。

Dotremontのlogogramは後の展開

Dotremontの有名なlogogramは1962年以降の実践で、CoBrA活動期そのものではありません。ただし、文字を視覚的運動として扱う発想はCoBrA期の共同制作から連続しています。

Ateliers du Marais

AlechinskyがBrusselsに設けたAteliers du MaraisはCoBrA artistsの国際的な交流場所となりました。共同制作を理念だけでなく、実際に同じ場所で作る環境が支えました。

陶芸

CoBrAの実験はcanvasだけに限定されず、ceramics、sculpture、版画、book、wall paintingへ広がりました。土や焼成による予測不能な変化も、実験性と相性が良い媒体でした。

彫刻

Heerup、Sonja Ferlov Mancoba、Tajiriらを含め、立体表現もCoBrA周辺の重要な領域でした。絵画だけで運動史を書くと、多様な素材実験が抜け落ちます。

Shinkichi Tajiri

Japanese American sculptor Shinkichi Tajiriは戦後Europeで活動し、1949年Stedelijk展にも作品を出しました。CoBrAの国際性をCopenhagen–Brussels–Amsterdamだけに限定できない例です。

Ernest Mancoba

South Africa出身のMancobaは1938年Parisへ渡り、Sonja Ferlovと結婚し、Denmarkの前衛と深く接触しました。Cobra Museumは彼をCoBrA成立に「周辺から関与した」重要人物として近年再評価しています。

人種差別とMancoba

MancobaとFerlovはinterracial coupleとして差別を経験しました。Mancobaが従来のCoBrA正典で見えにくかったことを、作品の違いだけでなくEuropeの人種構造からも考える必要があります。

Sonja Ferlov Mancoba

Ferlovは1930年代からsculptureを制作し、仮面や有機的形態を長い時間をかけて作りました。CoBrA誌に作品が掲載され、Bibliothèque de Cobraでも扱われましたが、大展覧会には参加していません。

Ferlovと「自発性」のずれ

Ferlovは一つのsculptureへ何年も取り組むことがあり、即興的CoBrA像とは大きく異なります。それでも運動周辺に関わった事実は、CoBrAが制作速度で統一された集団ではなかったことを示します。

女性作家が見えにくくなった理由

後世のCoBrA史では男性創設者が中心となり、女性は配偶者や周辺人物として扱われがちでした。Cobra Museumの《New Nuances》はその正典を見直し、Alfelt、Ferlov Mancobaらを前景化しました。

Lotti van der Gaag

Lotti van der GaagはCoBrAに近い造形とParisの同じ芸術家環境を共有しましたが、1949年Amsterdam展や主要な活動には参加せず、正式メンバーとすることには議論があります。

「メンバー」の境界は固定できない

CoBrAは法人のような明確な会員名簿だけで動いたわけではありません。雑誌、展覧会、友人関係、共同制作への参加度が異なるため、「正式なCoBrA作家」の範囲は資料によって揺れます。

1949年Stedelijk Museum展

1949年AmsterdamのStedelijk Museumで最初の大規模CoBrA展が開かれました。Cobra Museumによれば十か国から29人が参加し、運動の国際性を可視化しました。

Willem Sandberg

Stedelijk Museum director Willem Sandbergは新しい実験芸術をmuseumへ受け入れ、CoBrAに大きな制度的舞台を提供しました。private groupがpublic museumへ入る重要な転換です。

《International Experimental Art》

展覧会名が示すように、CoBrAという狭いブランドより「国際実験芸術」を前面に出しました。運動自身が開かれた国際連携を目指していたことと一致します。

Amsterdamでの騒動

展覧会はDutch pressから激しい反発を受け、作品は落書きやでたらめと評されました。Appelは無能な塗りたくり屋のように批判され、CoBrAは一躍論争の中心になります。

美術館と観客の距離

Stedelijkが支持した実験芸術と、新聞や一般観客の反応には大きな隔たりがありました。museumが新しい美術を承認しても、その価値が社会へすぐ共有されるわけではありません。

1949年騒動後の離脱

Cobra Museumの資料によれば、Nieuwenhuys、Rooskens、WolvecampはAmsterdam展の騒動後にCoBrAから離れました。運動の内部でも、急進的な方向や組織運営への不満がありました。

Appel、Parisへ

厳しいDutch receptionもあり、Appelは1950年Parisへ移ります。国際的な美術環境へ入ることは、CoBrA活動と個人作家としてのcareerを同時に広げる選択でした。

《La Promenade》1950

Centre Pompidou所蔵《La Promenade》では鳥、犬、ぬいぐるみのような生き物が激しい色と厚い筆触で画面を横切ります。具象と抽象を分けず、「生命の叫び」のような形を作るCoBrA期Appelの代表例です。

Constant《L’animal sorcier》

1948年のConstant作品では鳥、犬、牛のような動物的形と子どもの想像力、民俗的造形が重なります。Centre Pompidouはこれを、戦後抽象からの解放を求める革命的なCoBrA美学として説明しています。

Constantの政治性

ConstantはCoBrAの中でも社会理論への関心が強く、芸術の自由を社会構造の変革と結びつけました。Appelのように理論から距離を取る作家と、内部で温度差がありました。

CoBrA後のConstant

Constantは後にNew Babylonで、固定労働から解放された人間が都市空間を遊びながら変えていく未来像を構想します。CoBrA期の「誰もが創造する社会」という考えが別の形で続いたと見ることができます。

Corneille

Corneilleは創設者であると同時に、詩、版画、展覧会組織にも関与しました。1949年Stedelijk展の準備にも大きな役割を担いました。

Denmarkからの刺激

1948年Denmark訪問後、CorneilleはPedersenらの作品に強く反応しました。Cobra Museumの資料は、この直接の接触がDutch groupへ与えた影響を具体的に示しています。

Karel Appel

Appelは厚い絵具、原色、単純化した人物・動物で後世のCoBrA像を最も強く形成した作家です。しかし、運動全体をAppelの画面だけで代表させると、詩、彫刻、政治、共同制作が見えなくなります。

Appelの物質感

厚い絵具は線や面を超えて、ほとんどreliefのような存在感を持ちます。人物を説明するより、絵具そのものの勢いからfigureが立ち上がります。

Jornの絵画

Jornの画面では生き物、顔、記号が溶け合い、figureがbrushworkと分離しません。North European folk imageryやSurrealism、child artへの関心が一つに混ざります。

Jornと共同性

Jornは個人のmasterpieceだけでなく、他者との共同制作、雑誌、組織、理論を重視しました。後年のSituationist Internationalとの関係にも、この反個人主義的な態度がつながります。

共同制作は「仲良し」ではない

CoBrAの共同性は意見の一致を意味しません。JornとDotremontの激しい議論が示すように、他者と衝突しながら作品と考えを変化させること自体が共同制作の価値でした。

政治的立場も統一されていない

左派的な方向は共有されましたが、Communist Partyとの距離、社会革命と芸術の関係については大きな違いがありました。Appelのように政治理論へほとんど関心を示さない作家もいました。

反エリート主義

CoBrAは専門家だけが芸術を所有・判断する文化を批判しました。children’s drawings、folk art、amateur creativityを重視したのも、価値判断の権威を揺さぶるためです。

反エリート運動がmuseumへ入る矛盾

1949年にはStedelijk Museumで大展覧会を行いました。制度批判をしながらmuseumの支援を必要とすることは矛盾に見えますが、前衛運動が社会へ届くための現実的な条件でもありました。

市場との矛盾

CoBrAは芸術の自由と社会性を掲げましたが、解散後にはAppel、Jorn、Alechinskyらの作品が国際市場で高く評価されます。反エリート的な運動が後に美術市場の正典になる逆説があります。

Jazz

Cobra MuseumはCoBrAにおけるjazzの役割も紹介しています。即興、複数奏者の応答、決まった形からの逸脱は、彼らが求めた共同制作と自発性の比喩として機能しました。

詩

詩人は運動の付属的存在ではなく創設の中心でした。文字の意味と視覚的な形を同時に扱うことで、paintingとliteratureの境界を壊しました。

版画

lithographやprintは雑誌・本と相性が良く、共同制作を複数部流通させることができました。一点物だけでない媒体は、反エリート的な理念ともつながります。

本という作品

CoBrAの出版物では、詩、drawing、print、typographyが一冊の中で構成され、本そのものが共同作品になります。

壁画

壁へ直接描くことはcanvasを商品として扱う市場形式から距離を取り、architectureと共同生活の中へ絵を戻す可能性を持っていました。

都市と公共性

CoBrAはgallery内だけでなく公共空間や日常生活へ芸術を広げたいと考えました。後のConstantの都市構想は、その欲望をarchitecture規模へ拡張します。

1950年頃のParis

AppelやCorneilleらがParisへ移ると、CoBrAは三都市の結びつきからParisを含むより広いEurope networkへ変化します。同時に個人作家としての活動も強くなり、groupの維持は難しくなります。

病気

1951年、DotremontはDenmark滞在中にtuberculosisと診断され、Jornも同時期に療養生活を送りました。主要な組織者と理論家の健康問題は、短い運動の継続へ大きく影響しました。

経済的な困難

若い作家の多くは安定した収入を持たず、出版や展覧会の組織にも資金が必要でした。理想的な国際共同体を実務として維持することは容易ではありません。

1951年Liège展

Alechinskyは1951年Liègeの大規模CoBrA展を組織しました。Cobra Museumはこの展覧会を運動の終焉を告げる出来事として位置づけています。

なぜ三年で終わったのか

病気、経済、政治的見解の違い、各作家のcareer拡大、組織疲労が重なりました。一つの事件だけで解散したわけではありません。

短命=失敗ではない

三年で終わったことを組織の失敗と考える必要はありません。CoBrAは恒久的な学校を作るより、異なる人々が短期間接続する実験として大きな影響を残しました。

Appelのその後

AppelはParis、New Yorkなど国際的な場へ活動を広げ、絵画とsculptureを発展させました。CoBrA期のfiguresは変化しながら長く残ります。

Jornのその後

JornはSituationist Internationalなどさらに政治的・社会的な運動へ関与し、painting、ceramics、理論、収集を横断しました。

Alechinskyのその後

Alechinskyはink、paper、printへ展開し、日本の書にも関心を深めました。CoBrAで学んだ文字と像、共同制作の感覚は後の作品にも続きます。

Dotremontのその後

Dotremontはlogogramを発展させ、writingそのものをdrawingへ近づけました。CoBrA解散後も「共同制作こそ運動の精神」という立場を守り続けました。

Constantのその後

Constantはpaintingからarchitectureとurbanismへ関心を広げ、New Babylonを長期間構想します。遊び、自由、創造性を社会構造へ組み込む考えはCoBrA期から連続しています。

「CoBrA language」をめぐる論争

1970年代、美術史家Willemijn StokvisはDenmark avant-gardeから発展した共通の「CoBrA language」を論じました。一方Dotremontは、運動を一つのpaint styleへ還元する見方に異議を唱えました。

様式か共同性か

後世の評価は、作品の見た目を重視する立場と、共同制作・詩・政治・出版を重視する立場に分かれます。本記事では両方を扱い、どちらか一つだけを「本当のCoBrA」としません。

正典が作るCoBrA

museum collectionやart marketではpaintingsが残りやすく、Jorn、Appel、Alechinskyが中心に見えます。しかし雑誌、letters、共同制作、女性作家、詩人を含めると別の運動像が現れます。

女性作家を戻す

Cobra Museumの《New Nuances》は、CoBrAが「男たちのclub」のように記憶されてきたことを修正しようとしました。Alfelt、Ferlov Mancobaらを活動史へ戻すことは、単なる追加ではなく運動の定義そのものを見直します。

Mancobaを戻す

Mancobaの再評価は、Europe avant-garde史がwhite European artists中心に作られてきたことを問い直します。彼の位置は「正式会員か否か」という分類より、Denmarkのavant-garde networkへどのように関与したかを見る方が重要です。

非西欧美術への関心を再検討する

CoBrAがAfricanやNorth African artを尊重したことは、当時のEurope中心主義への批判でもありました。一方で、その文化を自由・原初性の象徴として利用した面もあり、現在は両面を同時に見る必要があります。

子どもを「純粋」と固定しない

children’s drawingsを高く評価することはacademic hierarchyを崩しましたが、子どもを本質的に自由で無垢な存在とするのも大人側の投影です。CoBrAの革新性とromanticizationを分けて考えます。

folk artを固定しない

folk artも「近代文明に汚されていない表現」と理想化される危険があります。実際には地域ごとの歴史、宗教、産業、観光、市場の中で作られた複雑な文化です。

専門分業への批判

画家、詩人、sculptor、editorという役割を固定せず、異なる分野が一つの制作へ入ることがCoBrAの重要な理念でした。

「専門横断的」な制作

Dotremontは複数分野の人が一つの作品を作る状態を重視しました。これは今日のcollaborative practiceに近い発想として読み直すことができます。

作者は一人なのか

複数人が同じ作品へ描き書きすると、誰のstyleかという鑑定的な考えが機能しにくくなります。CoBrAは近代美術の「一人の天才が一点を作る」という作者像へ揺さぶりをかけました。

署名と共同性

共同作品では複数の署名や無署名があり、所有と作者性が複雑になります。市場が個人名を必要とするほど、この共同性は後世の整理からこぼれやすくなります。

芸術と生活

CoBrAは作品制作を日常生活から切り離さず、家、studio、旅、雑誌、友人関係を一つの活動へ結びつけました。

museumに遊びを持ち込む

Stedelijk展でchild artやexperimental displayを取り入れたことは、美術館を静かに名作を見る場所から、議論や遊びが起こる場所へ変える試みでもありました。

観客の役割

CoBrAが理想とした創造性の解放を突き詰めれば、観客も受動的な鑑賞者ではなく潜在的なcreatorになります。

創造性と民主主義

誰もが創造する能力を持つという考えは、文化を少数の専門家が支配する社会への批判でした。ただし各作家が同じ政治制度を支持していたわけではありません。

芸術革命と社会革命

一部の理論家は新しい芸術を社会革命と直結させましたが、painting styleを変えれば社会が変わるわけではありません。CoBrA自身もこの理想と現実の距離を内部に抱えました。

抽象と具象の二択を拒む

動物や顔が見える一方、形は激しく崩れています。CoBrAはabstractかfigurativeかという分類より、描く過程で像が生成する状態を重視しました。

Art informelとの比較

Informelではsurface、material、gestureが中心になりますが、CoBrAではfigure、myth、child art、共同性がより強く残ります。同時期でも「自由な絵画」の意味は異なります。

Dubuffetとの接点

Dubuffetもacademic cultureを批判し、childrenや非専門家の表現を高く評価しました。CoBrAと共有点がありますが、Art Brutは独自のcollectionと理論を持つため別記事で扱う必要があります。

Surrealismとの関係

automatism、dream、unconsciousへの関心を継承しつつ、CoBrAはBretonを中心とするSurrealismの組織性や個人心理への偏りを批判し、よりcollectiveでsocialな方向を目指しました。

Expressionismとの違い

強い色と歪んだfigureはGerman Expressionismを思わせますが、CoBrAは戦後の国際共同体、child art、poetry、collective productionを中心にした別の歴史的条件から生まれました。

行為としての芸術への影響

作品より制作行為、共同性、即興を重視する姿勢は、1950–60年代のhappeningやperformance、Fluxusとも響き合います。ただし直接の一系譜として単純化はしません。

Situationistへの接続

JornとConstantは後にSituationist系の活動へ重要な形で接続します。都市、遊び、日常生活の変革という問題は、CoBrAでの社会的創造性からさらに政治化されます。

美術教育への影響

子どもの造形を完成度で評価せず、過程や自由な発想を重視する考えは、戦後の美術教育にも広く影響しました。

CoBrAがmuseum canonになる

かつて「落書き」と批判された作品は現在museum collectionの中心です。この逆転は、美術的価値が固定ではなくinstitutionとhistorical narrativeによって変化することを示します。

1948–1951年の三年間

1948年にParisで六人が結成し、1949年Amsterdamの大展覧会で激しい論争を起こし、雑誌と共同制作を広げ、1951年Liège展を最後に運動は終わりました。三年という短さの中に、painting、poetry、sculpture、publishing、politics、educationが密集しています。

ART HISTORYとしてのまとめ

CoBrAの重要性は、カラフルな怪物を描いたことだけではありません。戦争後に、誰が芸術家なのか、何を美術と呼ぶのか、作品は一人で作るべきなのか、子どもやfolk artから何を学べるのか、詩と絵をなぜ分けるのかという制度そのものを問い直しました。同時に、女性作家やMancobaの周縁化、非西欧美術への視線、子どもの「純粋さ」の理想化といった問題も抱えていました。その矛盾を含めて見ることで、CoBrAは一つのstyleではなく、戦後Europeで創造性を社会へ戻そうとした短く激しい共同実験として見えてきます。

次へ — DubuffetとArt Brut

次の記事ではJean DubuffetとArt Brutを独立して扱います。1945年の調査、精神科施設の作品、Aloïse Corbaz、Adolf Wölfli、Compagnie de l’Art Brut、Bretonとの関係、文化と美術制度への批判、現在のOutsider Artとの違いまで掘り下げます。

参考資料・出典

本ページは、Cobra Museum voor Moderne Kunst、Centre Pompidou、Statens Museum for Kunst(SMK)等の美術館・研究機関の資料を中心に参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。原文の全文翻訳ではありません。

CoBrAの正式な結成についてはCobra Museumを参照し、1948年11月8日にParisでAsger Jorn、Christian Dotremont、Joseph Noiret、Karel Appel、Constant、Corneilleの六人によって結成されたこと、名称がCopenhagen、Brussels、Amsterdamを組み合わせたものであることを確認しました。

Denmarkの前史についてはCobra Museum「More about the Cobra movement」「We Kiss the Earth」を参照し、Asger Jornが1941年に雑誌Helhestenを開始し、HøstのEjler Bille、Henry Heerup、Carl-Henning Pedersen、Else Alfeltらと、anthropology、archaeology、psychology等を横断する環境を作ったことを扱いました。

ConstantとJornの接触についてはCobra Museumを参照し、1946年ParisのJoan Miró展で出会い、その後文通と相互訪問を通してDutch experimental artistsとDanish avant-gardeを結んだことを扱いました。

BelgiumのLe Surréalisme RévolutionnaireについてはCobra Museumを参照し、1947年にChristian Dotremontがsecretaryとして関与し、communismとsurrealismの接続を目指したものの、内部対立から1948年のCoBrA成立へつながったことを扱いました。

オランダ実験グループについてはCentre PompidouのConstant《L’animal sorcier》解説とCobra Museumの資料を参照し、1948年7月頃Constant、Appel、CorneilleらがDe Experimentele Groep in Hollandを結成し、雑誌Reflex第一号へConstantのmanifestoが掲載されたことを扱いました。

Constant《L’animal sorcier》についてはCentre Pompidouを参照し、1948年のDutch experimental group、1948年11月のCoBrA成立、animal imagery、childlike imagination、folk culture、Miróとの関係、および1949年Stedelijk Museum AmsterdamのInternational Experimental Art展への出品を扱いました。

CoBrAの子どもの絵への関心についてはCobra Museum「An Unstoppable Force」と同館magazineを参照し、Karel Appelが「子どものように最初から始める」という姿勢を語ったこと、Jornがchildren’s drawingsを成人美術より劣るものとせず、しかし大人が子どもの見た目を模倣することを目的とはしなかったことを扱いました。

民俗芸術・非西欧美術についてはSMKとCobra Museumを参照し、artistsがfolk art、African masks、non-Western art等から刺激を受けたことを扱いました。Cobra Museumの「Cobra and North Africa」が、深い関心と同時に現実離れしたexpectationも存在したと現在の観点から検討していることを反映し、単純な「影響関係」にはしていません。

Christian DotremontについてはCobra MuseumとCentre Pompidouを参照し、theorist、general secretary、Cobra magazineのeditor-in-chiefとして運動の組織化に中心的役割を持ったこと、画家との共同制作をpeinture-motsとして展開したことを扱いました。Dotremontのlogogram自体は1962年以降の実践であるため、1948–51年のCoBrA作品とは区別しています。

Pierre AlechinskyについてはCobra Museumを参照し、1949年初頭にCoBrAへ参加し、Dotremontの展覧会・雑誌組織を補佐し、妻Mickyと雑誌刊行を担い、BrusselsにAteliers du Maraisを設け、1951年Liège展を組織したことを扱いました。

1949年Stedelijk Museum Amsterdam展についてはCobra Museumを参照し、最初の大規模CoBrA展に十か国から29人が参加したこと、Dutch pressとpublicから激しい反発を受けたこと、Appelの作品が強く嘲笑されたことを扱いました。

Karel AppelについてはCobra MuseumとCentre Pompidou《La Promenade》を参照し、CoBrA期のanimal/human creatures、鮮烈な色、厚いpaint、1950年Paris移住を扱いました。またAppelの「適当に描く」作家像をそのまま事実とせず、Cobra Museumが制作の計画性を指摘している点も反映しています。

Else AlfeltとSonja Ferlov MancobaについてはCobra Museum「New Nuances」および作家ページを参照しました。Alfeltが1949年Amsterdam展へ参加した一方、Ferlov MancobaはCobra magazineやBibliothèque de Cobraへ関与しながらAmsterdam 1949とLiège 1951の大展覧会には参加しなかったことを区別しています。

Ernest MancobaについてはCobra Museum「Ernest Mancoba and Sonja Ferlov」を参照し、South Africaから1938年Parisへ移り、FerlovとともにDanish avant-gardeと関係を持ち、CoBrA成立に周辺から関わったこと、人種差別と従来のcanonからの周縁化を扱いました。

女性作家の扱いについてはCobra Museumの「New Nuances」を参照し、従来CoBrAが男性中心のcanonとして語られてきたことを明記しました。Lotti van der Gaagについては同館が「CoBrAに近いが正式参加をめぐり議論がある」とする立場を反映しています。

CoBrAと政治についてはCobra Museum「Cobra and Politics」を参照し、Danish、Belgian、Dutch groupsに左派的・社会変革的志向が共有されていた一方、政治理論への関与の度合いは作家ごとに異なり、Appelのように距離を取る人物もいたことを扱いました。

文字と画像、共同制作についてはCobra Museum「Radical Social Animal Languages」と同館75周年資料を参照し、Dotremontがpeinture-motsを提唱し、artistsとpoetsが同一作品へ参加する「anti-specialist」「inter-specialist」な制作をCoBrAの重要な実践としたことを扱いました。

運動の終焉についてはCobra MuseumのPierre Alechinsky、Dotremont関連資料を参照し、1951年Liège展が最後の大規模展となり、DotremontとJornの健康問題、内部の不一致、個人活動の拡大などを背景に運動が解体したことを扱いました。

本記事では、1970年代以降に形成された「CoBrA language」という様式中心の理解と、DotremontやAlechinskyが強調した共同制作中心の理解を並記し、どちらか一方だけを運動の本質と断定していません。

資料確認日:2026年10月3日 / ART LIBRARY