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Art History

1948–1951

CoBrA

コペンハーゲン、ブリュッセル、アムステルダム、子どもの絵、民俗芸術、共同制作

1948年11月8日、デンマーク、ベルギー、オランダから集まった六人の芸術家と詩人が、パリで国際的な実験芸術家の連携を立ち上げました。三都市の頭文字を組み合わせたCoBrA(コブラ)という名称は、1951年の解散までわずか三年間しか使われませんでした。その短い活動の中で彼らは、絵画、彫刻、詩、雑誌、共同制作、展覧会を通じて、芸術を作ることと社会で生きることの関係を問い直しました。今日、CoBrAの名は鮮やかな色と怪物のような人物像で知られています。歴史をたどると、その造形を生み出した国際的な交流と、相容れない考えを抱えながら協力した人々の姿が見えてきます。

運動の出発点には、デンマークで1930年代から続いていた実験美術、ベルギーの革命的シュルレアリスム、1948年に生まれたオランダ実験グループがありました。デンマークの芸術家は戦争中にも雑誌『ヘルヘステン』を刊行し、民俗芸術や考古学、子どもの絵を研究していました。ベルギーの詩人ドートルモンは芸術と政治の結びつきを問い、オランダのコンスタントは誰もが創造に参加できる社会を構想していました。こうした複数の関心が交差したことで、CoBrAは一つの絵画様式を共有する団体より、互いの実験に参加するための場として発展しました。

アペルの《問いかける子どもたち》には戦後ドイツで目にした飢えた子どもたちの記憶があり、コンスタントの《魔法の動物》には既存の抽象を越えようとする想像力が表れています。ペデルセンの天体やアルフェルトの山々、ヨルンの不安定な人物、フェルロフ・マンコバの彫刻、タジリの戦士像もそれぞれ異なる経験と制作方法から生まれました。詩人と画家が同じ作品へ書き込む共同制作や、編集と出版の活動も、CoBrAの重要な成果でした。完成した絵画の見た目に加え、作品が作られる工程と、それを支えた人々の関係を具体的に検討します。

CoBrAが掲げた芸術の自由には、現在から見直すべき問題もあります。女性作家の活動が後世の歴史で見えにくくなったこと、南アフリカ出身のアーネスト・マンコバが人種差別の影響を受けたこと、非西欧美術への関心が植民地時代の収集制度と結びついていたことです。1949年のアムステルダム展をめぐる激しい論争や内部の政治的な対立も、自由を実現することの難しさを示しています。本記事では結成前から解散後までを作品と資料に沿ってたどり、CoBrAを戦後ヨーロッパで芸術と社会の可能性を試した多面的な共同実験として読み解きます。

CONTENTS

  1. CoBrAは何を変えようとしたのか
  2. 戦争の終結と芸術の自由
  3. デンマーク前衛の蓄積
  4. 占領下の雑誌『ヘルヘステン』
  5. ベルギーの革命的シュルレアリスム
  6. オランダ実験グループと『レフレックス』
  7. 1948年11月8日の結成
  8. 雑誌『Cobra』が作った共同体
  9. 子どもの絵から何を学んだのか
  10. カレル・アペルと子どもたち
  11. コンスタントの絵画と政治
  12. コルネイユの自然と想像力
  13. アスガー・ヨルンの制作と組織
  14. ペデルセンとアルフェルトの異なる世界
  15. ヘールプと先行したデンマーク作家たち
  16. 鳥・顔・怪物の造形
  17. 絵具・素材・制作速度
  18. 民俗芸術と先史時代の表現
  19. アフリカ美術への関心と植民地の歴史
  20. 詩と絵画が出会う場所
  21. 共同制作は何を変えたのか
  22. アレシンスキーと制作の拠点
  23. 彫刻と身近な素材への実験
  24. 新吉・タジリと戦争の記憶
  25. ソニア・フェルロフ・マンコバの彫刻
  26. アーネスト・マンコバの不在を問い直す
  27. 女性作家と見えにくい制作の仕事
  28. 1949年のアムステルダム国際展
  29. 観客の反発と公共美術の問題
  30. 組織内部で広がった対立
  31. 1950年、パリへ広がる制作
  32. 1951年リエージュ展と活動の終結
  33. 解散後へ続いた表現
  34. 「CoBrAらしい絵」が作られた歴史
  35. 社会を変える芸術という理想と限界
  36. 戦後美術の中でCoBrAをどう読むか
  37. 音楽・遊び・観客へ開かれた創造
  38. 年表
  39. まとめ
  40. 参考資料・出典

CoBrAは何を変えようとしたのか

三年間の活動が残した問い

CoBrAは1948年11月に結成され、1951年に組織としての活動を終えた国際的な芸術運動です。画家と詩人が国境を越えて協力し、絵画、彫刻、版画、雑誌、共同制作を横断しました。後に著名になるアスガー・ヨルン、カレル・アペル、コンスタント、コルネイユらも、当時は既存の美術制度から十分に認められていない若い実験者でした。

彼らが考えた自由は、鮮やかな色や荒々しい筆触を使う権利にとどまりませんでした。創造する能力を専門家の特権から解き放ち、詩や遊び、日常生活まで広げる構想を持っていました。その理想が作品、出版物、展覧会のどこに現れ、どこで現実と衝突したのかをたどることが、運動の歴史を理解する入口になります。(参照:CoBrA美術館|CoBrA運動)

都市を結んだ名前

CoBrAの名称はコペンハーゲン、ブリュッセル、アムステルダムという三都市の頭の文字を組み合わせたものです。結成場所はパリでしたが、中心的な活動基盤を持っていた三地域が運動名になりました。この命名には、特定の国家の美術を代表するより、既に存在した複数の実験的な集団をつなぐという考えが表れています。

参加者の範囲は三都市の出身者に限定されず、フランスやイタリア、アメリカなどで活動する作家へ広がりました。詩人、編集者、彫刻家、画家の結びつき方もさまざまです。現在の美術史が一つの流派として扱うCoBrAは、実際には移動と交流によって変化し続ける人間関係でした。(参照:CoBrA美術館|運動の形成と展開)

一つの画風に収まらない多様性

アペルの厚塗りの怪物、ヨルンの不安定な人物、アルフェルトの山々を思わせる抽象、ドートルモンの文字と絵の共同制作は、外見上同じ系列へきれいには並びません。運動の名称が先にあり、その形式へ全員が作品を合わせたという理解は、実際の活動と合致しません。

美術館が今日「CoBrAらしい」と紹介する原色と動物像は、確かに多くの作品を特徴づけています。その背後には自由と共同性、反権威主義、芸術と社会の関係をめぐる互いに異なる主張がありました。運動内部の不一致も歴史の中心に位置づけることで、短い活動期間の密度が見えてきます。(参照:CoBrA美術館|「自由の叫び」展)

戦争の終結と芸術の自由

1945年、破壊されたヨーロッパから

ドイツによる占領と第二次世界大戦は、北欧と西欧の芸術家たちに異なる条件をもたらしました。公的な美術活動が制限されたオランダでは、解放後に新しい発表の機会を求める熱意が高まり、デンマークでは占領期に独特の実験芸術が発達しました。ベルギーではシュルレアリスムと政治運動の関係をめぐる議論が続いていました。

彼らが合流したとき、戦争以前の秩序をそのまま戻すことより、芸術と生活をどのように変えるかが共有の関心になりました。子どもや民衆の表現を尊重し、国家と学校の権威に距離を取る態度は、戦時下に経験した統制への応答という意味も持っていました。(参照:CoBrA美術館|CoBrAと政治)

色彩と怪物に込められた時代感覚

CoBrAの画面には鳥、太陽、顔、得体の知れない生物がしばしば現れます。明るい色が用いられていても、画面には緊迫した視線や奇妙な身体、裂けたような線が混じります。戦後の希望と不安が同居する形として、それらを読むことができます。

運動の参加者には、戦争体験から政治的な活動を強めた人物も、造形そのものの自由に集中した人物もいました。全員の制作を共通の感情で説明するより、各作品に込められた表現と、当時の活動を支えた社会状況を確かめる方が、戦後美術の具体的な姿を伝えられます。(参照:CoBrA美術館|75周年記念展「境界のない自由」)

大衆のための芸術から大衆による芸術へ

CoBrAの重要な考えの一つは、芸術作品を人々へ届けることと、人々自身が創造に参加することを結びつけた点にあります。デンマークの作家やコンスタントらは、専門的な訓練を受けた画家だけが文化を生産する社会の構造そのものに関心を向けました。

この理想は壁画や出版物、共同制作、子どもの絵への関心へ展開しました。同時に、参加作家たちは展覧会を開き、作品を販売し、美術館の評価を求めてもいました。社会を開こうとする理想と制作生活の現実の間には、運動を続けるうえで避けがたい緊張がありました。(参照:CoBrA美術館|CoBrAと政治)

デンマーク前衛の蓄積

1934年、作家集団「リニエン」

デンマークでは1934年に設立されたリニエンと同名の雑誌を中心に、抽象絵画とシュルレアリスムの研究が進んでいました。芸術家たちは国際的な前衛に関心を持ちながら、北欧の神話や民俗的な造形を、自分たちの新しい表現へ結びつけていきます。後のCoBrAの源流は、この戦前の活動までさかのぼります。

CoBrA美術館が2023年に開催したデンマーク近代美術展は、1934年から1948年までの作品を一つの独立した歴史として紹介しました。オランダの若い作家たちが1948年に出会ったのは、既に十年以上の模索を重ねてきた表現でした。(参照:CoBrA美術館|「大地に口づけする」展)

ヨルン以前から存在した実験

エイラー・ビレやエギル・ヤコブセンらは、記号や仮面のような形を通して、幾何学的な抽象とは異なる方向を探っていました。デンマークの戦前・戦中期の作品には、後にCoBrAの特徴として扱われる動物像や鮮烈な色彩が既に現れています。

若いオランダ人作家の活動と先輩世代のデンマーク前衛が出会ったことで、既存の研究が一気に国際的な運動へ広がりました。CoBrAの歴史を1948年の創設者六人だけから説明すると、その蓄積に関わった多くの作家が見えにくくなります。(参照:CoBrA美術館|「大地に口づけする」展)

民俗文化と近代美術の交差

デンマークの作家たちは、民間の彫刻、教会壁画、古い記号、子どもの表現を、近代絵画と同じ真剣さで研究しました。伝統的な美術史の中で周辺とされた文化から、素材の扱いや、像を生み出す別の方法を学ぼうとしたのです。

こうした研究は、単純な過去への回帰とは異なります。近代都市に暮らす芸術家が民俗文化へ向けた眼差しも、当時の政治や文化的価値観から自由ではありませんでした。それぞれの文化を特定の歴史から切り離して「自然で無垢な表現」として扱う傾向は、後年の再検討の対象になっています。(参照:CoBrA美術館|「大地に口づけする」展)

占領下の雑誌『ヘルヘステン』

1941年、雑誌が集会の場になる

1941年、ヨルンらが関わった雑誌『ヘルヘステン』は、占領下のデンマークで芸術家や研究者を結びつけました。表題は「地獄の馬」を意味し、ドイツ占領に対する反発を込めたものでした。作家たちは限られた発表環境の中で印刷物を共同で作り続け、作品だけでなく思想を伝える場を維持しました。

後の『Cobra』誌と同じく、この雑誌は既存作品の紹介だけを目的としていませんでした。どのような造形に価値があるのか、芸術を社会とどう関係づけるかを話し合う活動の基盤になっていました。短命な雑誌が国際運動の発生条件となることを示す重要な前史です。(参照:CoBrA美術館|運動の形成と展開)

考古学・心理学・人類学との交流

『ヘルヘステン』には画家や彫刻家と並んで、考古学者、心理学者、人類学者、科学者も参加しました。描画の技法を同業者同士で論じるだけでなく、人間が古代からどのように像を作り、物を形にしてきたのかを考える姿勢が共有されました。

子どもの絵、民俗芸術、先史時代の造形が取り上げられた背景には、こうした異分野の関心があります。専門領域を横断する出版文化は、後のCoBrAで詩人が絵を描き、画家が文章を書き、複数人が一つの作品へ関わる実践につながっていきました。(参照:CoBrA美術館|運動の形成と展開)

芸術家集団「ホスト」とのつながり

『ヘルヘステン』に関わった多くの作家は、展覧会を中心とするホストの活動にも参加していました。ヨルン、ビレ、ヘンリー・ヘールプ、カール=ヘニング・ペデルセン、エルセ・アルフェルトらの作品が、同じ環境で紹介されました。

雑誌での議論と展覧会での発表が結びつくことにより、デンマークの前衛は独自の広がりを持ちました。1948年にオランダの作家たちが訪れたとき、彼らが目にしたのは個々の優れた絵画に加え、制作と議論を継続できる共同体でした。(参照:CoBrA美術館|「大地に口づけする」展)

ベルギーの革命的シュルレアリスム

1947年の新たな政治的試み

ベルギーの詩人クリスチャン・ドートルモンは、1947年に革命的シュルレアリスムの活動へ深く関わりました。夢や無意識を重視するシュルレアリスムを、社会変革や共産主義とどのように結びつけるかが論争の中心でした。フランスとベルギーの関係者の間にも方針の違いがありました。

芸術の自由を求める人々にとって、政治的な連帯は切実でした。共産党の文化方針と自由な実験芸術の間にも緊張があり、政治と表現の関係は単純な一致に収まりません。この未解決の問いが、翌年に成立するCoBrAの内部にも引き継がれました。(参照:CoBrA美術館|運動の形成と展開)

詩人ドートルモンの役割

ドートルモンは運動を説明する文章を書き、参加者に連絡し、編集と展覧会を組織する人物でした。ヨルンが制作と交流の中心だったとすれば、ドートルモンは異なる立場を持つ人々の活動を具体的な企画へ組み立てる役割を担いました。

CoBrA美術館が紹介する当事者の回想には、両者の議論が激しかったことが残っています。その衝突を含めて活動が進んだ点に、理論が完全に統一された前衛団体とは異なるCoBrAの特徴が表れています。(参照:CoBrA美術館|クリスチャン・ドートルモン)

創設者ジョゼフ・ノワレの存在

ジョゼフ・ノワレはベルギー側から加わった詩人で、1948年の正式創設者六人の一人です。後に絵画作品が美術館で広く展示されるようになると、作家名は画家を中心に記憶され、詩人の活動は付属的なものとして扱われる傾向がありました。

ノワレを運動の創設者として位置づけ直すと、CoBrAは設立時から言語と造形の境界を横断する構想を持っていたことが分かります。詩は絵画について説明する文章にとどまらず、自ら共同制作へ参加する創造的な実践でした。(参照:CoBrA美術館|CoBrA運動)

オランダ実験グループと『レフレックス』

コンスタントとヨルンの出会い

1946年、パリのジョアン・ミロ展でオランダのコンスタントとデンマークのヨルンが出会いました。ミロの自由な記号と生物の形に関心を寄せる二人は、その後も文通を続け、デンマークとオランダの作家を結ぶ関係を築いていきます。ヨルンは1947年にコンスタントのもとへ滞在し、具体的な交流計画を進めました。

この出会いは、ヨーロッパ前衛の新しい世代が美術館の展覧会を通して接触した例でもあります。国際的な運動は一つの宣言だけで生まれたのではなく、作品を見る経験と個人的な対話が積み重なる中で形成されました。(参照:CoBrA美術館|運動の形成と展開)

1948年夏、オランダ実験グループ

1948年7月頃、コンスタント、アペル、コルネイユらはオランダ実験グループを結成しました。戦争で中断された国際交流を回復し、既成の写実主義や幾何学的な抽象の分類を越える作品を発表しようとします。若い画家たちはデンマークの先行する実験にも刺激を受けていました。

集団として活動することは、展示場所、出版費用、社会からの批判へ対処するうえでも意味がありました。美術学校や公的な制度の評価に依存せず、自分たちの文章と作品を広める方法を模索していたのです。(参照:ポンピドゥー・センター|コンスタント《魔法の動物》)

雑誌『レフレックス』とコンスタントの宣言

同年刊行された『レフレックス』は、作品、版画、詩、宣言をまとめた雑誌でした。コンスタントはそこで、創造する力を専門家が独占する文化へ異議を唱え、芸術を新しい社会のあり方と結びつけようとしました。

雑誌は思想の発表であると同時に、作品を載せ、版画を流通させる現実的な媒体でもありました。その経験はまもなく創刊される『Cobra』誌へ継承されます。文章、図版、印刷という複数の形式を一つにまとめる編集行為そのものが、彼らの芸術観を示していました。(参照:ポンピドゥー・センター|コンスタント《魔法の動物》)

1948年11月8日の結成

パリで六人が合流した日

1948年11月8日、アスガー・ヨルン、クリスチャン・ドートルモン、ジョゼフ・ノワレ、カレル・アペル、コンスタント、コルネイユの六人がパリで新しい国際的な連携を立ち上げました。デンマーク、ベルギー、オランダで既に進んでいた活動が、この会合で一つの運動として結びつきます。

結成の舞台がパリであったことも象徴的です。戦前から美術の重要な国際都市であったパリを交流拠点としつつ、運動名には別の三都市を採用しました。既存の文化的中心地へ参加することと、そこから独自の連携を築くことが同時に進められました。(参照:CoBrA美術館|CoBrA運動)

国際実験芸術家連合という構想

結成時の名称は「国際実験芸術家連合」を意味するものでした。異なる国の画家と詩人が、共通の完成様式を持つことを条件にせず、実験へ参加する関係を作ろうとしたのです。名称に含まれる国際性は、後の展覧会や雑誌で実際の活動として確かめられます。

既存のシュルレアリスムとの関係では、組織や政治方針をめぐる不一致が背景にありました。新しい集団には政治的な急進性と創造の自由を両立させたいという希望がありましたが、そのバランスは活動中にも繰り返し議論されました。(参照:CoBrA美術館|クリスチャン・ドートルモン)

『事態は明らかだ』という宣言

創設者たちはフランス語で「La Cause est entendue」と題する宣言を掲げ、新しい連携を表明しました。運動の出発点に詩人二人が参加し、言葉による意思表明があったことは、CoBrAが作品の見た目だけで成立した集団でなかったことを示しています。

実験を重んじることは、成果があらかじめ定まっていないという意味も持ちます。三年間の活動では、作品が多様化し、政治観の違いが表面化し、集団の継続そのものが問題になりました。結成宣言の理想と実際の変化を合わせて考えることが重要です。(参照:CoBrA美術館|運動の形成と展開)

雑誌『Cobra』が作った共同体

運動の名前を国境の外へ届ける

CoBrAの活動は各国の展覧会だけでなく、1948年から1951年にかけて刊行された雑誌『Cobra』によって結びつけられました。画家の作品図版、詩、議論、展覧会に関する情報を同じ媒体へまとめ、住む国が異なる参加者の活動を互いに見えるものにしました。

印刷物は展覧会へ訪れられない読者にも届き、集団の考え方を国際的に共有する手段になりました。雑誌そのものが運動の名称を広め、作品を歴史に残す媒体になったことは、後世にCoBrAがどのように記憶されるかにも影響しています。(参照:アムステルダム国立美術館|CoBrA)

編集者ドートルモンと制作の実務

ドートルモンは編集の中心を担い、後から加わったピエール・アレシンスキーも刊行に深く関わりました。アレシンスキーと妻ミッキーは、印刷物の制作や出版の実務を引き受けました。こうした活動は作品を描くこととは異なる労働であり、集団を維持するために欠かせないものでした。

作家名だけを並べる美術史では、印刷、編集、発送、連絡といった仕事は見えにくくなります。共同制作を理念に掲げたCoBrAにとって、雑誌を実際に世に出す人々の協力も運動の一部でした。(参照:CoBrA美術館|ピエール・アレシンスキー)

作品紹介と制作が重なる誌面

雑誌には完成した絵画を紹介する図版だけでなく、詩や素描、造形的な実験が掲載されました。言葉が画像の近くへ置かれ、文字の形や余白も作品の印象を構成します。画家が書き、詩人が線を引くという境界の曖昧さが、誌面で具体化しました。

その結果、雑誌は展覧会の記録集であると同時に、新しい作品を制作する場にもなりました。現物を確認することで、CoBrAにとって出版が単なる広報手段以上の意味を持っていたことが分かります。(参照:アムステルダム国立美術館|CoBrA)

子どもの絵から何を学んだのか

教育以前の線をどう見たか

CoBrAの作家たちは、子どもの絵に現れる大きな顔、不釣り合いな手足、飛躍する色彩へ強い関心を向けました。比例や遠近法に従って対象を再現する訓練とは異なる方法で、身近な出来事や空想を表す力がそこにあると考えたのです。

子どもの絵は大人の絵より未熟だから興味深いという評価ではありませんでした。学習によって当たり前になった絵画の規則を問い直し、描く行為を再び自分の必要と結びつけるための重要な参照でした。(参照:CoBrA美術館|子どもの表現とCoBrA)

模倣より創造の態度を重んじる

ヨルンらが子どもの表現から受け取ろうとしたのは、見た目の単純さを大人が再現するための公式ではありません。初めから正解を想定せず、描きながら未知の形を発見する姿勢でした。自由な描画について論じながら、作家たち自身は長い造形経験を持っており、その蓄積も作品へ持ち込んでいます。

CoBrAの作品を鑑賞するときは、子どもらしい線がどこにあるかを探すことに加え、絵具の厚み、色の選択、繰り返し描かれた主題、作家の制作環境を見ることで、成熟した芸術家による独自の判断が明らかになります。(参照:CoBrA美術館|子どもの表現とCoBrA)

子どもを理想化することの限界

戦後ヨーロッパでは子どもが未来の社会の象徴として語られ、戦争で傷ついた存在としても注目されました。CoBrAの作家たちがその表現を自由の手がかりとしたことには、既存の文化的序列を変える意義がありました。

子どもを生まれつき自由で純粋な存在と決めつける見方には、大人の側の願望も含まれます。子ども自身が暮らす歴史的・社会的な条件を見失わないことが大切です。アペルの作品が現実の飢えた子どもを主題にしていた事実は、この問題を具体的に考える手がかりになります。(参照:CoBrA美術館|75周年記念展「境界のない自由」)

カレル・アペルと子どもたち

《問いかける子どもたち》の始まり

アペルは1947年から1949年にかけて《問いかける子どもたち》という主題に繰り返し取り組みました。デン・ハーグ美術館には1947年の水彩・インクによる作品や、1948年の紙上作品が残っています。同じ主題を異なる素材で制作したことからも、即興的な一作で完結する試みではなかったことが分かります。

顔は大きな目と簡略化された輪郭へ変形し、子どもが描いたようにも見えます。実際には、ヨーロッパを旅する途中に戦争で荒廃したドイツの駅で、食べ物を求める子どもたちを目撃した体験が、この主題の背景にありました。(参照:デン・ハーグ美術館|《問いかける子どもたち》1947年)

1949年の市庁舎壁画と抗議

1949年、アペルはアムステルダム市庁舎の食堂に壁画《問いかける子どもたち》を制作しました。1949年3月に完成した絵には黒い太い輪郭で表された子どもの顔が並び、現代的な描き方と、戦争の悲惨さを思わせる主題に対して職員や報道機関から反発が起こりました。

作品は覆い隠されることになり、後年に再び姿を現しました。公共の建物に置かれた前衛美術が、食堂を利用する人々の望む環境と衝突した出来事でした。子どもの絵への憧れと、現実の子どもの苦境への関心が重なった作品でもあります。(参照:アムステルダム博物館|アペル《問いかける子どもたち》)

《散歩》1950年の生き物たち

ポンピドゥー・センター所蔵の《散歩(La Promenade)》は1950年制作の油彩画で、鳥、犬、ぬいぐるみを思わせる生き物が画面を横切ります。鮮やかな色と強い筆触が重なることで、動物の輪郭が見えたり消えたりし、物語を説明するより絵画自体が動くような印象を作ります。

同館はこの作品を、アペルが1950年に移住したパリで描いたCoBrA期の重要作として紹介しています。人物や動物の形が抽象的な絵具の運動から立ち上がる様子には、絵画の意味を固定せずに生命感を表そうとした彼の姿勢が現れています。(参照:ポンピドゥー・センター|カレル・アペル《散歩》)

コンスタントの絵画と政治

幾何学的抽象から生き物の形へ

コンスタントは1940年代前半からセザンヌ、キュビスム、表現主義、モンドリアンの作品を研究していました。1946年にヨルンと出会い、ミロの作品に触れたことも、従来の構成を越える絵画へ関心を移す契機になりました。

彼にとって新しい絵画は、色や線を正確な秩序に従わせることより、想像力が生み出す形を積極的に受け入れることにありました。動物や幻想的な生物は、固定された図像というより、社会と人間を別の形で考えるための表現へ変わっていきました。(参照:ポンピドゥー・センター|コンスタント《魔法の動物》)

《魔法の動物》1949年

コンスタントの《魔法の動物(L’animal sorcier)》は1949年制作の油彩画です。鳥や犬、牛などを連想させる形が変形されて一つの生物に集まり、画面全体が奇妙な身体のように見えます。ポンピドゥー・センターは本作をCoBrA初期の代表作と位置づけ、同年のアムステルダム国際実験芸術展へ出品されたことを記録しています。

作品にはミロの記号的な造形との対話が見られます。具象か抽象かという分類に収まらない生物を描くことで、コンスタントは絵画が現実を別の仕方で捉える可能性を示しました。(参照:ポンピドゥー・センター|コンスタント《魔法の動物》)

誰もが創造できる社会という理想

コンスタントの文章では、芸術を少数の専門家へ限る社会制度そのものが問題になります。彼は自由な制作を社会全体の創造性へ結びつけ、作品の様式と政治的な目標を並行して考えました。この姿勢には、造形の即興性を主に追究したほかの作家との違いがあります。

CoBrA解散後、コンスタントは都市と生活のあり方へ関心を広げ、後に《ニュー・バビロン》を構想します。移動や遊びを通して住民が環境を変え続ける社会の想像は、CoBrA期の創造性をすべての人へ開くという問題から展開したものです。(参照:ポンピドゥー・センター|コンスタント《魔法の動物》)

コルネイユの自然と想像力

共同体を結んだ創設者

コルネイユは1948年のオランダ実験グループとCoBrAの両方に参加した創設者です。アペルやコンスタントと活動を共にしながら、展覧会を準備し、出版や交流にも関わりました。デンマークの作家たちと出会ったことで、民俗的な造形や自由な描画への関心が深まったことが、CoBrA美術館の記録から分かります。

一人の作家の画風の変化を追うと同時に、コルネイユがほかの作家を紹介し、展示の機会を作る役割を担ったことも重要です。集団を形成する仕事は、完成作品と同じようにCoBrAの歴史を支えました。(参照:CoBrA美術館|オランダのCoBrA作家)

鳥と風景が結びつく画面

コルネイユの絵画では、鳥や植物、太陽などが平面的な色の形と結びつきます。自然の形を写実的に再現するより、互いの関係を自由に変形させることで、空想的な風景が作られました。

同じ動物モチーフを描いていても、アペルの厚い絵具の衝突とは異なり、コルネイユは形の配置や色彩の広がりに独自の関心を持ちました。複数の作家を同じ「CoBrA風」という言葉で括ると、こうした画面構成の違いが見えなくなります。(参照:CoBrA美術館|オランダのCoBrA作家)

旅によって変化した造形

CoBrAの活動期間とその後、コルネイユはヨーロッパの外の文化にも関心を広げました。北アフリカへの旅に関する展示資料には、現地での経験を絵画や文章へ取り込んだことが紹介されています。

旅の経験は、画家が自分の世界を広げる機会であるとともに、異文化へ何を期待したかが問われる経験でもありました。後年の北アフリカをめぐる作品を1948年の創設時点へそのまま重ねず、関心の変化を時系列に沿って考える必要があります。(参照:CoBrA美術館|CoBrAと北アフリカ)

アスガー・ヨルンの制作と組織

画家であり国際的な媒介者

ヨルンは戦前のデンマーク前衛から1948年のCoBrA結成まで、異なる世代と国をつなぐ役割を果たしました。作品の制作に加えて雑誌編集、理論的な文章、展覧会の組織に関わり、ほかの作家が接触する機会を作りました。

CoBrAでは明確な中心人物の一人でしたが、彼が全員の考えを代表していたわけではありません。ドートルモンとの議論やコンスタントとの衝突も記録されています。芸術を共同で作るという理想は、互いの異なる意見を抱えたまま活動する方法として実践されました。(参照:CoBrA美術館|アスガー・ヨルン)

生き物と記号が混ざる画面

ヨルンの作品では、人間の顔や動物を思わせる形が荒々しい筆触と結びつき、像が定まる前の状態のように見えます。北欧の民俗的な造形、シュルレアリスム、同時代の抽象が交差し、正確な輪郭を持つ個体より、形が変わり続ける世界を表しています。

明瞭な形を描くことと、自由な筆触を用いることは、ヨルンにとって両立する問題でした。作品に見られる怪物のような存在は単なる題材としての奇抜さを越え、現実を理解する既存の分類を揺さぶる働きを持っています。(参照:CoBrA美術館|アスガー・ヨルン)

共同制作と後年の活動

ヨルンは詩人との共同制作や陶芸へも関心を広げ、CoBrAの組織が終わった後もほかの芸術家と制作を続けました。1950年代半ばにはイタリアで国際的な陶芸の集まりを組織し、1957年にはシチュアシオニスト・インターナショナルの創設にも関わります。

個人作家としての絵画制作と、他者と制度を作る活動が同時に進んだことは、ヨルンを理解するうえで重要です。CoBrAの共同性は1951年を境に消えたのではなく、別の媒体や運動へと移り変わっていきました。(参照:CoBrA美術館|「自由の叫び」展資料)

ペデルセンとアルフェルトの異なる世界

カール=ヘニング・ペデルセンの天体

ペデルセンは1930年代後半から、鳥、馬、太陽、月、幻想的な人物を鮮やかな色彩で描いていました。デンマークの民俗的な造形や神話、シャガールやクレーなどの作品への関心が、独自の世界を形作ります。オランダの若い画家たちが彼の作品に刺激を受けたのは、こうした表現がCoBrA結成以前に成熟していたためです。

空想的な生き物や天体は一つの具体的な物語を説明するために配置されるとは限りません。明るい色と反復される記号によって、風景と神話と宇宙が同時にあるような画面が成立しています。(参照:CoBrA美術館|「自由の叫び」展資料)

エルセ・アルフェルトの山と光

エルセ・アルフェルトは山々や天体、自然の変化に関心を持ち、鋭角的な形や透明感のある色面を組み合わせて独自の抽象を発展させました。彼女はホストに参加し、1949年のアムステルダム国際実験芸術展にも出品しています。

その作品は、怪物や激しい人物像で記憶されるCoBrAの一般的なイメージから離れています。CoBrA美術館は、一部のオランダ人作家が彼女の絵を抽象的すぎると見ていたという証言も紹介しています。集団に属しながら独自の形式を保持した重要な作家です。(参照:CoBrA美術館|「新しいニュアンス」展)

夫婦関係から切り離して作品を見る

ペデルセンとアルフェルトはともにデンマーク前衛に関わった作家であり、その活動を夫婦の共同履歴として紹介することもできます。同時に、両者の作品は色彩、対象の構成、風景との関係において異なる研究を進めていました。

女性作家を有名な男性作家との関係を通してだけ説明すると、アルフェルト自身が作った形式と美術史上の位置が見えにくくなります。彼女が運動の内部でどのように評価されたかと、作品そのものをどのように見るかを分けて考えることが大切です。(参照:CoBrA美術館|エルセ・アルフェルト)

ヘールプと先行したデンマーク作家たち

ヘンリー・ヘールプの石彫

ヘールプは石彫、絵画、身近な材料を使った造形などに取り組み、簡潔で親しみやすい形を作りました。1944年には彫刻を台座から下ろし、大地に直接置く考えを示しています。作品と鑑賞者の間に置かれた制度的な距離を縮めたいという願いが、その展示方法に表れていました。

CoBrA美術館の「大地に口づけする」展は、この考えをデンマーク前衛の重要な姿勢として取り上げました。美術作品は特別な空間で遠くから眺めるものという前提を揺らし、人々の生活に近づけようとしたのです。(参照:CoBrA美術館|「大地に口づけする」展)

エイラー・ビレの思想と造形

ビレはデンマークの実験美術で先行する立場にあり、抽象とシュルレアリスムの展開へ関わりました。造形作品とともに芸術の社会的な意味について文章も書き、後のCoBrAの出版活動へ思想的な刺激を与えました。

自由な表現を掲げる作家たちにとって、筆触の形式だけでなく、作品が社会の中でどう存在するかを考えることも重要でした。ビレの役割は、デンマークでの前史とCoBrAの政治的な議論を結ぶものとして位置づけられます。(参照:CoBrA美術館|「自由の叫び」展資料)

エギル・ヤコブセンと参加範囲の違い

ヤコブセンは戦前から仮面や顔を思わせる作品を制作し、デンマークで実験的な造形が育った歴史に関わりました。CoBrAの近い芸術家環境にいましたが、活動の中心的な参加者と同じように正式なメンバーとして扱えるわけではありません。

重要なのは、CoBrAと関係するすべての作家を一つの名簿にまとめることより、先行する研究、個人的交流、雑誌掲載、展覧会出品がどのように重なっていたかを見極めることです。そうすることで運動に参加した作家の多様な距離感を残せます。(参照:CoBrA美術館|「自由の叫び」展資料)

鳥・顔・怪物の造形

人間と動物の境界を混ぜる

CoBrAの絵画には、人間の身体と鳥や獣の形がつながった怪物が繰り返し現れます。大きな眼や口、脚のような線があるため何かの生物に見えますが、正確に名前を付けられる形には収まりません。

作家たちは想像力を既存の分類に従わせず、絵具を動かす中で未知の生物が生まれる過程へ関心を向けました。人物画や動物画の伝統を踏まえつつ、具体的な対象の再現に作品を限定しない方法として理解できます。(参照:CoBrA美術館|オランダのCoBrA作家)

太陽・月・星が生き物になる

ペデルセンやコルネイユらの作品では、太陽や月、星が顔や動物と同じ画面に並び、互いに同じ生命を持つかのように表されます。自然を再現する風景画の構図から離れ、天体や生物が自由に移動する空想の空間が広がっています。

こうした構成には民俗文化や神話への関心が重なります。天体と動物を記号的な形に置き換える方法によって、現実には離れている存在が一つの画面でつながり、物語が始まる前のような不思議な緊張が生まれます。(参照:CoBrA美術館|「自由の叫び」展資料)

具象と抽象のあいだの表現

CoBrAの作家たちは写実と抽象を明確な二者択一として考えていませんでした。コンスタントの動物は抽象的な線から現れ、アペルの顔は厚い絵具に埋もれ、ヨルンの身体はほかの形と溶け合います。

絵画の意味は「何を描いたか」という題材だけで決まらず、線がどのように変わり、色がどう重なり、輪郭がどこで途切れるかによって成立します。抽象の自由と、具体的な存在を感じさせる力の両方を手放さなかった点が、彼らの絵画の特徴です。(参照:ポンピドゥー・センター|コンスタント《魔法の動物》)

絵具・素材・制作速度

厚い絵具が形を作る

アペルの作品には油絵具の盛り上がりや荒い筆跡が残り、描かれた生き物と絵具の物質感が強く結びつきます。輪郭を先に描いて内部を塗る方法より、色と絵具を置く動きから形が生まれていく印象があります。

実際の作品では、表面の厚み、重ね塗り、乾燥した層の上に加えられた色などが、図版では見えにくい時間の経過を伝えます。自由に見える作品にも複数の判断が重なっており、完成した表面は単なる一瞬の記録ではありません。(参照:ポンピドゥー・センター|カレル・アペル《散歩》)

自発性は無計画と同じか

CoBrAの中心的な言葉に自発性があります。あらかじめ決めた形式を機械的に再現するより、制作中に見つかった形へ応答する考え方です。アペルは豪快に絵具を使う作家像で知られますが、作品の発展や繰り返された主題を見ると、検討と選択の時間が存在していたことが分かります。

作家たちの発言に現れる即興性をそのまま制作の全工程へ当てはめると、画面の細部へ働いた構成上の判断が見えなくなります。自発性を実践するために、素材を研究し、形を試し、作り直すことも彼らの仕事でした。(参照:CoBrA美術館|「自由の叫び」展資料)

筆以外の道具と立体への展開

CoBrAの実験は油彩キャンバスに限定されず、版画、石彫、木、陶芸、印刷物へ広がりました。作家によって道具が異なると、線の性質や表面の抵抗も変わります。

素材と制作方法の違いは、運動を一つの画風へ整理しにくい理由の一つです。ヘールプの石とアペルの油絵具、タジリの彫刻、ドートルモンの文字は、それぞれ異なる身体的な工程を必要としました。共通していたのは、既存の形式から別の可能性を探る態度でした。(参照:CoBrA美術館|彫刻と作品の多様性)

民俗芸術と先史時代の表現

専門美術の外にある造形を参照する

CoBrAの作家たちは玩具、地域の彫刻、祭礼の品物、民俗的な装飾などに関心を持ちました。そこで重視されたのは、美術館や美術学校が定めた規則の外にも独自の造形が存在するという事実でした。

専門教育を受けた作家がそれらを自らの制作へ取り込む際には、原形をそのまま写す場合も、構成や素材への態度だけを手がかりにする場合もあります。個々の作品で何が参照されたかを具体的に確かめることが重要です。(参照:CoBrA美術館|「大地に口づけする」展)

考古学と先史時代の図像

デンマークの前衛は考古学者とも交流し、先史時代の記号や古い造形へ強い関心を持っていました。『ヘルヘステン』をめぐる環境では、考古学、心理学、美術が同じ議論の場に入りました。

先史時代の形を現代の画面へ持ち込むことは、文化や時間の違いを越えた創造力を探る試みでもありました。当時の作家自身が古い時代の作品へ自分たちの理想を重ねた面もあるため、実際の先史文化の意味と近代芸術家による解釈は区別して扱います。(参照:CoBrA美術館|運動の形成と展開)

生活にあるものを価値の中心へ

民俗的な造形が持つ大きな意味は、専門家が制作した高価な作品だけを美術の基準とする序列を問い直した点にあります。石や木、身近な紙などの素材を使う姿勢も、その考えとつながっていました。

もっとも、CoBrAの芸術家も作品を美術館に展示し、収集家に販売しました。生活の中にある創造性を評価する理念は、美術制度の内部で作品を発表する現実と結びつきながら広がっていきました。(参照:CoBrA美術館|「大地に口づけする」展)

アフリカ美術への関心と植民地の歴史

民族学博物館を通しての出会い

戦後のオランダ、ベルギー、デンマークの芸術家たちは、民族学博物館や近代美術館で非西欧の造形に触れました。仮面、彫刻、装飾品などを通して、ヨーロッパの美術教育と異なる造形方法に関心を寄せたのです。

これらの作品がヨーロッパの美術館に所蔵されるまでには、植民地支配、交易、収集、展示の長い歴史があります。現地で作られた作品の用途と意味を離れて「自由な形」として受け取る態度は、現在の美術史研究で問い直されています。(参照:CoBrA美術館|CoBrAと北アフリカ)

北アフリカへの旅と作品への影響

ヨルン、コルネイユ、アントン・ロースケンスらは、モロッコ、アルジェリア、チュニジアなどの文化に関心を広げました。CoBrA美術館は2022年から2023年にかけての展覧会で、旅行や作品を通じて北アフリカと接触した芸術家たちを取り上げています。

現地の景色や人々との接触を真剣に受け止めた例がある一方、画家側の期待と現実の隔たりも資料で指摘されています。渡航時期や実際の作品を確かめずに、1948年の創設段階から全員が直接その文化を経験していたように説明することは避けたい点です。(参照:CoBrA美術館|CoBrAと北アフリカ)

「原始的」という価値づけを問い直す

20世紀のヨーロッパ前衛では、非西欧の文化や子どもの作品を「原始的」という言葉で称賛することがありました。そこにはアカデミックな美術の序列を壊す意図がある反面、他者の社会を歴史の外へ置き、現代ヨーロッパの失われた純粋さを投影する問題が含まれます。

CoBrAの自由を評価する際には、その自由の源として想像された人々自身の歴史と創造力を尊重する視点が必要です。運動がヨーロッパ中心主義へ挑んだ面と、植民地時代の見方を引き継いだ面を、具体的な作品と資料から検討できます。(参照:CoBrA美術館|CoBrAと北アフリカ)

詩と絵画が出会う場所

ドートルモンの言葉は造形でもあった

ドートルモンは詩人として活動しながら、言葉の配置や筆跡を視覚的な表現の一部として考えました。彼にとって文章は作品について後から説明する道具であり続けるものではなく、画家の線や色と同じ場所で新しい形を生み出せるものでした。

CoBrAでは、詩人が文章を担当し画家が挿絵を描くという決まった役割を越えて、両者が同じ紙やキャンバスへ関わりました。言葉が線へ近づき、絵が文章に触発される関係は、絵画と文学の境界を問い直す実践です。(参照:CoBrA美術館|言葉と画像の共同制作)

「言葉の絵」という共同形式

ドートルモンは言葉と絵画を一体化した作品を「言葉の絵(peinture-mots)」と呼び、ヨルンやアレシンスキーらと共同で制作しました。文字は意味を伝える一方で、筆の勢いや画面のリズムを作る視覚的な形にもなります。

一人が完成させた詩に別の人が絵を付ける方法とは、作者の位置づけが変わります。言葉を読んだ人が絵で応答し、そこへ別の線が加えられると、初めに想定していた作品とは違う全体が生まれます。共同制作そのものが創造の方法になるのです。(参照:CoBrA美術館|言葉と画像の共同制作)

1962年のロゴグラムとのつながり

ドートルモンが文字の筆跡を大きく発展させたロゴグラムは、1962年以降の制作です。ポンピドゥー・センターは、文字を読むことと見ることが同時に起こるこの独自の形式を、彼の重要な展開として位置づけています。

この実践は1948〜1951年のCoBrA活動と同時期の作品として扱うことはできません。運動期に広がった詩と絵画の共同制作から、後年に一人の作家が新しい形式を生み出した流れとして見ることで、その歴史的な連続と違いを正確に理解できます。(参照:ポンピドゥー・センター|ドートルモンと言葉のイメージ)

共同制作は何を変えたのか

一枚の作品へ複数人が関わる

CoBrAの共同制作では、複数の人が同じ支持体へ描き、書き、相手の形へ応答しました。制作の開始時に誰がどの部分を担当するかを完全に決めず、途中で別の線や言葉が入ることによって画面が変わる可能性を歓迎しました。

この方法は、一人の作者が初めから最後まで作品を支配するという近代的な作者像へ問いを投げかけました。別の人の判断を受け入れることは、自分の完成予想を崩す経験でもあり、自由は他者との関係を通して試されました。(参照:CoBrA美術館|言葉と画像の共同制作)

意見の不一致も制作の一部

ヨルンは後年、ドートルモンと数多くの点で意見が合わず、激しく議論したと回想しています。それでも両者の協力は多様な活動を生み出しました。集団で制作する価値は、互いに同じ考えを持つことより、違いを抱えた人間が一つの仕事へ参加する点にありました。

共同制作は調和のある友人関係だけを前提としません。意見の衝突、制作速度の違い、言葉と図像のずれによって作品は複雑になります。CoBrAが三年間の活動の中で経験した組織上の困難も、この共同性の難しさと深く関わっています。(参照:CoBrA美術館|CoBrA運動)

署名と所有をめぐる問題

共同作品には、複数の作家の名前が付く場合も、制作の寄与を明確に分けにくい場合もあります。誰がどの部分を描いたかという問題は、鑑賞の場では豊かな経験になる一方、作品を所有し、収蔵し、作者名で分類する制度においては複雑さを生みました。

後世の美術市場と美術館は、個々の著名作家の作品を中心に展示史を作りやすい傾向があります。共同制作の役割を十分に扱うためには、作品名と作者名だけでなく、制作に関わった人々、出版物、活動記録を合わせて見る必要があります。(参照:CoBrA美術館|言葉と画像の共同制作)

アレシンスキーと制作の拠点

1949年から参加した作家

ピエール・アレシンスキーは、1948年の六人の創設者には含まれず、1949年にCoBrAの活動へ加わりました。ベルギーで書物の挿絵やタイポグラフィーを学んだ経験を持ち、絵画と印刷、詩の関係に深い関心を寄せていました。

彼はドートルモンの活動を支援しながら、展覧会と雑誌の組織へ関わりました。後に有名になった作家が必ずしも創設当初から中心だったわけではない点を理解すると、運動の変化と組織の広がりが分かりやすくなります。(参照:CoBrA美術館|ピエール・アレシンスキー)

ブリュッセルの「マレ工房」

アレシンスキーがブリュッセルに設けたマレ工房は、CoBrA作家が顔を合わせ、制作し、議論する場所として重要になりました。国籍や言語の異なる人々が同じ空間に集まることで、手紙や雑誌を通じた交流が実際の共同作業へ発展しました。

作品を生み出す場は個人のアトリエだけではありませんでした。工房のような場所が存在することにより、別の国から訪れた作家が滞在し、新しい素材や方法を共有できます。CoBrAの国際性には、こうした具体的な場所の存在が大きく関わっていました。(参照:CoBrA美術館|ピエール・アレシンスキー)

版画と文字への持続的な関心

アレシンスキーは絵画に加えて版画や素描、印刷物に関心を持ち、CoBrA解散後もそれらを展開しました。印刷を通して同じ図像を複数人へ届ける方法は、国際的な交流や共同制作と相性が良く、絵画の一点物とは異なる流通の可能性を持ちました。

後年には日本の書の運動にも関心を深めます。1949年に集団へ加わった時点の作品と、その後の長い制作を時間順に分けることで、CoBrAで経験した制作上の自由が後年にどう変化したかを捉えられます。(参照:CoBrA美術館|ピエール・アレシンスキー)

彫刻と身近な素材への実験

絵画だけで語れない運動

CoBrAは原色の絵画で知られますが、立体作品にも多くの実験がありました。ヘールプは石や身近な材料を用い、ソニア・フェルロフ・マンコバは仮面や有機的な彫刻を作り、新吉・タジリは戦争の記憶に触れる彫刻へ取り組みました。

材料を実際に切り、削り、組み立てる立体制作は、厚い絵具の筆触とは異なる時間と技術を必要とします。作品が動くように見えることと、制作が短い時間で行われたことは同じではありません。(参照:CoBrA美術館|彫刻と作品の多様性)

台座と彫刻の距離

ヘールプが台座を取り除いて彫刻を地面へ近づけようとした考えは、作品が鑑賞者の生活と接する方法そのものを問い直します。公的な記念碑や伝統的な彫刻展示では、作品はしばしば日常の視線より高い場所へ置かれます。

地面に近い作品は、歩きながら周囲を見たり、作品と同じ高さで眺めたりする経験をもたらします。彫刻の形に加えて展示の条件を変えることは、CoBrAが重視した芸術と日常生活の関係を具体化する実践でした。(参照:CoBrA美術館|「大地に口づけする」展)

陶芸と手仕事の価値

絵画の技法から離れて粘土や焼成を使う場合、材料の重さ、乾燥、火による変化を考慮する必要があります。CoBrA周辺での陶芸への関心は、作者の判断と物質の反応が結びつく別の制作方法を開きました。

後にヨルンが陶芸家やほかの作家と集まって制作した経験も、CoBrA期の共同性を引き継ぐものとして位置づけられます。完成した物の形だけでは分からない工程と協力の関係を見ることが重要です。(参照:CoBrA美術館|「自由の叫び」展資料)

新吉・タジリと戦争の記憶

日本にルーツを持つアメリカ生まれの彫刻家

新吉・タジリは1923年にロサンゼルスで生まれた日系アメリカ人の芸術家です。第二次世界大戦後にパリで活動し、1948年にザッキンから彫刻を学ぶ環境の中でアペル、コンスタント、コルネイユらと出会いました。

CoBrA美術館は、タジリが素材を重視した実験的な彫刻によって運動と関係を築き、1949年のアムステルダム展と1951年のリエージュ展へ参加したことを記録しています。運動の国際的な広がりを具体的に示す存在です。(参照:CoBrA美術館|新吉・タジリ)

戦士の造形と身体の緊張

タジリの初期作品には「戦士」を主題とした造形があり、戦争を経験した人間の身体と暴力への関心が表れています。突起した形や複雑に組み上がった量塊は、人間を安定した立像として表す伝統と異なる緊張を持ちます。

タジリ自身の言葉を伝えるCoBrA美術館の資料では、戦士の像が戦争の恐ろしさから自分を清めたいという欲求と関わっていたことが紹介されています。この場合は、造形と個人的な戦争経験との関係を具体的な証言から論じることができます。(参照:CoBrA美術館|新吉・タジリ)

移動を重ねた作家の多重の経験

タジリの経歴は、アメリカ、日本、フランス、後に移住したオランダへと広がっています。国籍だけで作品の位置を整理すると、戦争や移住による経験が複雑に重なっていることを捉えにくくなります。

CoBrAでは詩人と画家が国境を越えて協力しました。タジリのような参加者を見ると、その国際性は三都市の出身者だけに限定されないことが明らかです。作品の造形と移動の歴史を共に考えることで、運動の実際の広がりが分かります。(参照:CoBrA美術館|新吉・タジリ)

ソニア・フェルロフ・マンコバの彫刻

デンマーク前衛からの長い制作

ソニア・フェルロフ・マンコバは1930年代からデンマーク前衛と関わり、仮面や有機的な抽象形態を用いる彫刻を追究しました。彫刻の制作では、一つの形へ長い時間をかけて取り組むこともありました。

彼女はホストの活動を通して後のCoBrAとつながり、作品が『Cobra』誌に掲載され、出版物でも紹介されました。CoBrA美術館は、彼女が1949年のアムステルダム展と1951年のリエージュ展には参加していなかったことを明記しています。(参照:CoBrA美術館|「新しいニュアンス」展)

仮面と抽象のあいだ

フェルロフ・マンコバの彫刻には、顔や仮面のように見えるものと、特定の生物に結びつかない抽象的な量塊が共存します。支持体の周囲を歩き、表面の凹凸や内部の空間を確かめることで、平面作品とは異なる身体的な経験が生まれます。

彼女は抽象と自発性をめぐるデンマークの議論において、一方の立場へ全面的に加わることを避けました。その制作は「CoBrAらしさ」を表面的な即興表現へ限定することの難しさを示します。(参照:CoBrA美術館|ソニア・フェルロフ・マンコバ)

参加の形を正確に記述する

女性作家の活動を再評価するためには、彼女たちを運動の中心人物に置き換えるだけでは十分ではありません。展覧会へ参加した人、雑誌へ作品を寄せた人、集団と個人的に交流した人を区別することが、当時の実情を伝えることにつながります。

フェルロフ・マンコバのように周辺から関与した作家がいたことは、CoBrAの価値を狭めません。むしろ名簿だけに収まらない交流圏が存在したことを示し、独立した制作を続けた作家の位置をより明確にします。(参照:CoBrA美術館|「新しいニュアンス」展)

アーネスト・マンコバの不在を問い直す

南アフリカからヨーロッパへ

アーネスト・マンコバは南アフリカに生まれ、1938年にパリへ渡った芸術家です。第二次世界大戦中には収容生活を経験し、戦後はソニア・フェルロフとともにデンマークで暮らし、ヨルンらの前衛活動へ接触しました。

マンコバが関心を持っていたのは、芸術による精神的なつながりや、社会を変える可能性でした。無意識や民俗文化、共同性への関心にはCoBrAと共有する部分があり、運動の成立過程を考えるうえで重要な人物です。(参照:ポンピドゥー・センター|アーネスト・マンコバ展)

作品が正典から見えにくくなった理由

マンコバの抽象には、身体や記号を感じさせる構造的な形が残り、同時代の一部の作家が重視した即興的な筆触と異なっていました。ポンピドゥー・センターは、作品上の違いに加え、ヨーロッパの美術界に存在した人種差別が彼を周縁へ追いやったことを明確に指摘しています。

CoBrAの歴史をヨーロッパの男性画家による一つの画風として編成すると、マンコバのような表現が扱われにくくなります。2019年のポンピドゥー・センターでの展覧会は、その排除の歴史を見直す重要な機会となりました。(参照:ポンピドゥー・センター|アーネスト・マンコバ展)

夫婦としての生活と独立した制作

マンコバとフェルロフ・マンコバは長い時間を共に過ごし、互いの制作を支えました。CoBrA美術館は2023年、二人の作品を並べて紹介する展覧会を開催しています。二人が経験した人種差別や社会的な排除も、展覧会の重要な論点でした。

二人を一組として紹介することで見える歴史があると同時に、各自が独立した作家として追究した問題も残す必要があります。マンコバの抽象とフェルロフの彫刻をそれぞれ具体的に見ることが、従来のCoBrA像を広げます。(参照:CoBrA美術館|マンコバとフェルロフ)

女性作家と見えにくい制作の仕事

歴史に残りやすかった男性作家の名前

CoBrAの歴史は長く、ヨルン、アペル、コンスタント、コルネイユ、アレシンスキーらの絵画を中心に紹介されてきました。運動に関わった女性作家は、同じ時代に制作していても、配偶者や周辺人物として紹介される傾向がありました。

CoBrA美術館は2019年の「新しいニュアンス」展で、運動とその周辺にいた八人の女性作家を取り上げ、男性中心の歴史像を検討しました。女性の制作を加えることで、運動の造形と活動の幅そのものが広がります。(参照:CoBrA美術館|「新しいニュアンス」展)

アルフェルトとフェルロフの違い

アルフェルトは1949年アムステルダム展へ出品し、フェルロフ・マンコバは雑誌などを通して活動に関わりました。両者の参加形態は異なり、作品の表現も大きく違います。

女性作家を一つの章へまとめる場合でも、各自の作品分析を十分に行う必要があります。山や光を形にしたアルフェルトの絵画と、仮面のような有機的な立体を作ったフェルロフの彫刻は、CoBrAという名称の中に異なる制作時間と方法が存在していたことを示します。(参照:CoBrA美術館|「新しいニュアンス」展)

ロッティ・ファン・デル・ハーフの位置

ロッティ・ファン・デル・ハーフはパリの作家たちと交流し、CoBrAに近い造形の彫刻を制作しました。CoBrA美術館の資料では、彼女は主要なCoBrA展に参加せず、正式なメンバーとは区別されています。

それでも近い芸術家環境で制作し、相互の影響がありました。運動との距離を正確に示すことによって、当時の女性作家がどのような場所で活動を続けたかを理解できます。編集、出版、人的な交流を支えた女性たちの仕事にも目を向ける必要があります。(参照:CoBrA美術館|「新しいニュアンス」展)

1949年のアムステルダム国際展

ステデリック美術館が開いた展示の場

1949年、アムステルダムのステデリック美術館で国際実験芸術展が開かれました。館長ウィレム・サンドベルフの支援を受けたこの展覧会は、CoBrAの作家たちにとって、私的な交流を公的な美術館の舞台へ広げる重要な機会になりました。

CoBrA美術館によると、十か国から29人の芸術家が参加しました。出身地と媒体の多様さは、この運動が三都市の若い画家たちによる閉じた集団より広い交流圏であったことを示しています。(参照:CoBrA美術館|運動の形成と展開)

コンスタント《魔法の動物》の出品

1949年展にはコンスタントの《魔法の動物》が出品されました。ポンピドゥー・センターの所蔵記録によれば本作は1949年の油彩画で、110×85センチメートルの画面に動物を思わせる形が描かれています。

展覧会で作品が並べられると、作家ごとに異なる絵画が「国際実験芸術」としてひとつの空間に現れました。見る人は個々の作品だけでなく、新しい集団がどのような方向を探っているのかを判断するよう求められます。(参照:ポンピドゥー・センター|コンスタント《魔法の動物》)

彫刻家とデンマークの作家も集まる

同展にはアルフェルト、ヘールプ、タジリ、オランダのウジェーヌ・ブランズらを含む多様な作家が参加しました。絵画に加えて彫刻などを紹介することで、実験美術の範囲が広がりました。

アルフェルトの抽象的な風景や、タジリの立体をアペルの人物像と並べて見ると、CoBrAの共通点は単純な色彩や筆触の形式に収まらないことが分かります。作品の展示順序と参加者の選択は、運動を社会へどのように見せるかという編集の仕事でもありました。(参照:CoBrA美術館|「自由の叫び」展資料)

観客の反発と公共美術の問題

落書きと評された作品

1949年のアムステルダム展は、新聞などから激しい批判を受けました。CoBrA美術館は、当時の報道で作品が落書きやでたらめのように評されたことを記録しています。専門家にとっての実験と、一般の観客が美術に期待する完成度との間には、深い隔たりがありました。

色が強く、人物の形が崩れ、子どもの絵に近い作品は、従来の上手さを基準にすると理解されにくいものでした。作家たちはその反応を経験しながら、誰のための芸術なのかという自らの問いを、現実の社会との関係として考えることになります。(参照:CoBrA美術館|CoBrA運動)

市庁舎壁画に現れた批判の構造

同じ1949年、アペルの市庁舎壁画《問いかける子どもたち》も大きな反発を招きました。苦しむ子どもを描いた画面が、職員の日常的な食事空間に置かれたことで、題材と表現方法の両方が問題になりました。

公共空間の作品は、画廊へ足を運ぶ観客以外の人々にも日常的に接します。そのため、作家が自由を求めることと、そこで暮らし働く人が作品をどう受け止めるかという問題が鋭く現れます。アペルの壁画は後年に再び公開され、この論争自体が美術史の一部になりました。(参照:アムステルダム博物館|アペル《問いかける子どもたち》)

美術館の支援と社会の理解

ステデリック美術館が実験芸術を紹介したことは、CoBrAにとって大きな機会でした。その支持が直ちに社会全体の理解へつながったわけではありません。新聞や公共施設での論争を見ると、美術館の価値判断と日常生活の感覚の違いが分かります。

CoBrAが掲げた芸術の民主化は、作品を美術館へ置けば完成する目標ではありませんでした。見る側が参加する余地をどう作るか、従来の価値観との違いをどのように共有するかという課題が残りました。(参照:CoBrA美術館|CoBrA運動)

組織内部で広がった対立

自由をめぐる異なる理解

CoBrAでは政治的な社会変革、表現の自発性、詩と絵画の共同制作、国際的な交流など、複数の目的が同時に追究されました。ヨルン、ドートルモン、コンスタントは芸術と社会を論じましたが、アペルのように理論的な活動への関与が比較的少ない作家もいました。

同じ運動に参加していても、何を最も重要と考えるかが異なれば、作品や展覧会の方針をめぐって意見の衝突が生じます。こうした対立は運動の初めから存在し、1951年の解散へ向かう間に蓄積していきました。(参照:CoBrA美術館|CoBrAと政治)

1949年展の後に離れた人々

1949年の騒動後、ヤン・ニューウェンホイス、アントン・ロースケンス、テオ・ヴォルフェカンプらが運動から距離を取りました。CoBrA美術館の展覧会資料は、参加者の不満や意見の違いが活動の継続へ影響したことを記録しています。

作品を発表するための集団から離れることは、その作家が実験美術への関心を失ったことと同じではありません。作家たちはその後も別の場所や方法で制作を続け、CoBrAの交流経験を独自の方向へ持ち帰りました。(参照:CoBrA美術館|「自由の叫び」展資料)

会員の境界が一様ではない

CoBrAの参加者を整理する際には、創設者、展覧会への出品者、雑誌への寄稿者、共同制作へ参加した人、近い芸術家環境で交流した人など、さまざまな関係が存在します。資料によってメンバーの範囲が異なるのは、活動の形が一つに固定されていなかったためです。

この複雑さは歴史をまとめる際の難しさであり、運動の独特な広がりでもあります。誰が何年に何をしたのかを具体的に記述することで、過度に整った会員名簿より豊かな運動像が現れます。(参照:CoBrA美術館|運動の形成と展開)

1950年、パリへ広がる制作

アペルの移住と新しい環境

アペルは1949年秋にパリへ移り、1950年には《散歩》などの作品を制作しました。国際的な美術都市に拠点を移したことで、ほかの作家や批評家、画廊との接触が広がります。CoBrAの集団活動と、個人の画家としての制作が同時に進んでいきました。

運動への参加が作家の名前を知られる機会になり、個人活動が広がると集団を維持する時間や意欲にも変化が起こります。国際化はCoBrAの当初からの目標であり、各作家の独立を進める条件にもなりました。(参照:カレル・アペル財団|作家年譜)

壁画と日常空間への展開

アペル、コンスタント、コルネイユはデンマークで共同壁画を制作するなど、キャンバスの外でも実験を行いました。壁や扉など建築の一部へ絵を描く行為は、絵画の境界を建物全体へ広げる方法でした。

壁画では周囲の空間や人の動きも作品の経験に関わります。CoBrAの創造性を生活へ近づけたいという理想は、こうした共同作業で具体化しました。1950年前後には個人制作と公共的な活動の関係が多様化しています。(参照:カレル・アペル財団|作家年譜)

三都市の外へ広がった交流

デンマーク、ベルギー、オランダを結ぶ活動は、パリの画廊、フランスの作家、さらに異なる国の実験美術へ接続していきました。1949年の国際展の参加者の多さにも、その広がりが示されています。

作品や雑誌が国境を越えると、運動は創設時の仲間だけでは十分に把握できない規模になります。国際的な連携を保つためには、多くの連絡と編集、移動の仕事が必要でした。自由な協力関係を継続することの難しさも増していきます。(参照:CoBrA美術館|運動の形成と展開)

1951年リエージュ展と活動の終結

最後の大規模展

1951年、ベルギーのリエージュでCoBrAの大規模な展覧会が開かれました。アレシンスキーが組織に深く関わり、1949年アムステルダム展に続く重要な発表の機会になりました。CoBrA美術館は、この展覧会を運動の終焉を告げる出来事として紹介しています。

出品者たちの制作は継続していたものの、異なる国を結ぶ組織を維持することは困難になっていました。集団としての活動が短期間で終わった理由は、作品の革新性が失われたことより、個々の状況と組織の問題にありました。(参照:CoBrA美術館|ピエール・アレシンスキー)

結核による療養と運動の継続

1951年、中心的な参加者だったヨルンとドートルモンは結核にかかり、療養生活に入りました。二人の健康状態は、連絡や編集、展覧会の組織を継続するうえで重大な制約になりました。

当時のCoBrAは大規模な常設組織ではなく、少数の作家による直接の交流と献身的な作業に支えられていました。主要な組織者が活動を続けられなくなったことは、すでに存在していた意見の対立や経済的な困難と重なりました。(参照:CoBrA美術館|「自由の叫び」展資料)

解散を一つの失敗へ還元しない

1951年をもってCoBrAは組織としての活動を終えました。病気、政治観の違い、制作活動の拡大、出版と展示を支える経済的な負担など、複数の条件が重なりました。集団の解散後も作家たちは制作と交流を続けています。

三年間で終わった運動の価値を組織の持続期間で測ると、雑誌、共同制作、国際展を通して実現した実験が見えにくくなります。CoBrAは一つの画風を完成させるための長期的な学校より、異なる作家を短期間に接続して新しい可能性を作った場として理解できます。(参照:CoBrA美術館|CoBrA運動)

解散後へ続いた表現

コンスタントから《ニュー・バビロン》へ

コンスタントはCoBrAの活動後、絵画を越えて都市や空間のあり方へ関心を広げました。1950年代後半から構想した《ニュー・バビロン》では、住民が移動と遊びを通して環境を変化させる都市の未来像を探ります。

そこにはCoBrA期に考えた、誰もが創造する能力を持つという理想が別の形で現れています。1948年の宣言と後年の都市計画を直結させるより、個人の探究が絵画から建築へ移り変わった過程を追うことに意味があります。(参照:ポンピドゥー・センター|コンスタント《魔法の動物》)

ヨルンと国際的な実験運動

ヨルンは1951年以後も絵画や陶芸を制作し、1957年にはシチュアシオニスト・インターナショナルの結成へ関わりました。芸術を生活から切り離さず、遊びや創造性を社会のあり方に関係づける姿勢が続きます。

CoBrAを後の運動の前段階としてだけ説明すると、1948〜1951年の活動そのものの独自性が薄れます。双方の作品と議論を区別したうえで、共同性の理念が次の世代へどう受け継がれたかを考えられます。(参照:CoBrA美術館|「自由の叫び」展資料)

ドートルモンとアレシンスキーのその後

ドートルモンは詩と図像の接続をさらに深め、1962年からロゴグラムを制作します。アレシンスキーも絵画や版画を通じて言葉と像の関係を探り続けました。CoBrAで得た経験が、それぞれ独自の制作方法へ展開した例です。

運動が終わった後も共同制作の経験は消えません。個人の作品を見ながら、その背後にあった作家同士の交流と、出版、工房での実験をたどることができます。(参照:ポンピドゥー・センター|ドートルモンのロゴグラム)

「CoBrAらしい絵」が作られた歴史

鮮やかな絵画が代表像になる

今日のCoBrAは鮮烈な色と大胆な筆触、怪物のような人物で知られています。この印象にはアペルやヨルンなどの絵画が後に大きな評価を受け、美術館に収蔵され、数多く複製されたことが関係しています。

同じ運動にあった詩、出版、陶芸、共同制作や、比較的知られていない作家の作品は、絵画を中心とする歴史では存在感が弱くなりがちです。現在の印象は活動当時の多様な実践から、ある部分を選んで作られたものでもあります。(参照:CoBrA美術館|運動の再評価)

美術史家による様式の整理

1970年代、美術史家ウィレマイン・ストクフィスは、デンマーク前衛から連続する共通の「CoBrAの言語」を歴史の中心に据えました。運動の前史と作品の形式的な共通点を説明する点で、その研究は大きな影響を与えました。

同時にドートルモンは、運動を一つの絵画様式の発展としてだけ語ることへ異議を唱えました。共同制作や詩、自由を重んじた参加者にとって、様式的な類似だけで運動の意味を決めることはできなかったのです。(参照:CoBrA美術館|運動の再評価)

資料を広げると別の歴史が現れる

CoBrAの展覧会記録に加え、雑誌、手紙、共同作品、編集の仕事を調べると、画家だけを中心とする物語から別の歴史が現れます。女性作家やマンコバ、タジリ、詩人たちの位置が明らかになり、運動の国際性も具体的になります。

美術館の再評価展は、過去を現在の視点で読み替える機会です。そこで新しく重視される論点と、当時の参加状況を区別して記述することで、運動の歴史をより立体的に理解できます。(参照:CoBrA美術館|「新しいニュアンス」展)

社会を変える芸術という理想と限界

政治的な統一より議論の持続

CoBrAの作家たちには左派的な志向が共有される部分がありました。デンマークの芸術家やドートルモン、コンスタントは、文化の民主化や社会変革との関係を真剣に考えていました。同じ集団でもアペルのように政治理論への関与が比較的少ない人物がいました。

CoBrAの活動を一つの政治的綱領から説明すると、作家たちの異なる関心が見えにくくなります。政治的な議論が作品と組織へどのように作用し、どの点で一致しなかったかを具体的に追うことが重要です。(参照:CoBrA美術館|CoBrAと政治)

自由の理念と女性・黒人作家の経験

すべての人の創造性を重んじるCoBrAの理念は、従来の美術制度の序列を問い直す力を持っていました。その運動の周辺では女性作家が男性に比べて記録されにくく、マンコバは人種差別によって十分な評価を得られなかったことが、美術館の研究で指摘されています。

理念があったからといって、参加者全員が平等に活動できたわけではありません。自由という言葉を実際の歴史と照合することによって、運動の目標の重要性と、当時の社会が抱えていた限界を共に考えることができます。(参照:ポンピドゥー・センター|アーネスト・マンコバ展)

作品の市場価値と反エリート主義

CoBrAの作家たちは芸術を少数者の独占から開こうとしました。解散後には個人作家の評価が高まり、アペルやヨルンらの絵画が市場や美術館で重要な作品として扱われるようになります。

こうした変化は、反エリート主義を掲げた実験が市場の外だけで続けられたわけではなかったことを示します。作品の価値が美術館や画廊の選択を通じて広がることを踏まえると、彼らが問いかけた「誰が芸術を作り、誰が評価するのか」という問題は現在も残っています。(参照:CoBrA美術館|75周年記念展「境界のない自由」)

戦後美術の中でCoBrAをどう読むか

アンフォルメルとの共通点と違い

1940年代後半のヨーロッパでは、アンフォルメルや抒情的抽象と呼ばれる非幾何学的な絵画が発展していました。CoBrAも厚い絵具、自由な線、自発性への関心を持っていました。実際には多くの作家が人物、鳥、怪物といった形を描き、詩や共同制作、社会思想も活動の中心に置きました。

両者を比較すると、同じ戦後の「自由な表現」という言葉に異なる問題が含まれていることが分かります。素材と表面を主要な問題とする作家、像と共同体を重んじる作家は、似た筆触を用いていても同じ制作をしていたわけではありません。(参照:CoBrA美術館|オランダのCoBrA作家)

デュビュッフェとアール・ブリュットへの接点

ジャン・デュビュッフェも美術教育や専門家による価値判断を批判し、一般の美術制度に属さない人々の表現へ関心を持ちました。子どもの絵や、制度の外部と考えられていた造形へ目を向けた点はCoBrAと響き合います。

デュビュッフェは独自の収集活動とアール・ブリュットの概念を発展させました。CoBrAの国際的な共同制作と同じ運動へ統合するより、近い問題にそれぞれ異なる方法で取り組んだものとして比較する方が理解しやすくなります。(参照:CoBrA美術館|子どもの表現とCoBrA)

美術教育と鑑賞の場に残る問い

CoBrAが重視した子どもの創造性、専門領域を越えた共同制作、生活の中の素材への関心は、今日の美術教育や参加型の制作にもつながる問題です。すべての後の実践がCoBrAから直接生まれたわけではありませんが、当時の実験は現在の考え方を比較する手がかりを提供します。

自由な造形への賛同だけで運動を評価することも、当時の問題を見失わせます。作品がどのように作られ、誰の活動が記録され、どの文化が参照されたかを確かめることで、CoBrAの成果と課題を現代の美術に結びつけて考えられます。(参照:CoBrA美術館|「自由の叫び」展)

音楽・遊び・観客へ開かれた創造

ジャズと集団による即興

CoBrAの活動を振り返る美術館の展覧会では、ジャズとの関係も紹介されています。複数の演奏者が互いの音へ応答するジャズの即興性は、詩人と画家が同じ支持体へ参加するCoBrAの共同制作を考える手がかりになります。

ジャズの演奏にも訓練と形式への理解があり、即興はその場で無作為に音を出すこととは異なります。CoBrAの作家が描画を始めるときにも、蓄積した技術と作家ごとの判断が働いていました。音楽との比較は、作品の自由を無計画さと同一視せずに理解する助けになります。(参照:CoBrA美術館|75周年記念展「境界のない自由」)

遊びを通じて変わる鑑賞

CoBrAにとって遊びは、子どもの行為に限定された趣味的な活動ではありませんでした。既に決められた規則を変え、他者と予想外の関係を作ることを通して、生活のあり方を組み替える可能性を含んでいました。

CoBrA美術館は子どもの創造性を扱った展覧会で、見る人が身体を動かしながら作品や空間と関わる展示を試みています。こうした現在の展示方法は、当時の作家の考えをそのまま再現したものとは異なりますが、運動が投げかけた鑑賞者と創造の関係を再考する方法の一つです。(参照:CoBrA美術館|子どもの表現とCoBrA)

芸術教育と参加の条件

CoBrAの作家たちは、絵画の技術を身につけた専門家だけが創造力を持つという文化観に異議を唱えました。子どもの表現を真剣に扱い、共同制作や出版を通して多くの人が芸術へ関われる可能性を求めました。

この問いは、現代の美術教育にも具体的な意味があります。どのような作品を上手だと評価するのか、模倣と実験をどう扱うのか、集団制作で個人の判断をどう生かすのか。CoBrAの歴史はそれらを考える材料になり、同時に自由な制作を支える場と労働の条件が必要であることも示しています。(参照:CoBrA美術館|CoBrAと政治)

年表

  1. 1934年 — デンマークで前衛集団「リニエン」と雑誌が活動を始め、抽象とシュルレアリスムの研究が進む。
  2. 1930年代後半 — ヨルン、ビレ、ヤコブセン、ペデルセン、アルフェルトらにつながる前衛美術がデンマークで広がる。
  3. 1938年 — アーネスト・マンコバが南アフリカからパリへ渡り、ヨーロッパで活動を始める。
  4. 1940年 — ドイツがデンマークとオランダなどへ侵攻し、芸術家たちの活動条件が変化する。
  5. 1941年 — デンマークでヨルンらによる雑誌『ヘルヘステン』が創刊される。
  6. 1943年 — デンマークの占領下で実験美術と雑誌を通じた文化活動が続く。
  7. 1944年 — ヘールプが彫刻を台座から下ろして鑑賞者へ近づける考えを示す。
  8. 1945年 — 第二次世界大戦が終結し、各国で新たな美術の発表と交流が広がる。
  9. 1946年 — パリのミロ展でコンスタントとヨルンが出会い、交流が始まる。
  10. 1947年 — ベルギーで革命的シュルレアリスムの活動が進み、ドートルモンが重要な役割を担う。
  11. 1947年 — アペルが後の《問いかける子どもたち》につながる紙上作品を制作する。
  12. 1948年7月頃 — コンスタント、アペル、コルネイユらがオランダ実験グループを結成する。
  13. 1948年 — 雑誌『レフレックス』が刊行され、コンスタントの宣言や作品が発表される。
  14. 1948年 — オランダの作家たちがデンマークを訪れ、先行する実験芸術に直接触れる。
  15. 1948年11月8日 — ヨルン、ドートルモン、ノワレ、アペル、コンスタント、コルネイユがパリでCoBrAを結成する。
  16. 1948–1951年 — 雑誌『Cobra』が活動の連携と国際的な発信を支える。
  17. 1949年 — アレシンスキーがCoBrAへ加わり、雑誌と展覧会の組織を担う。
  18. 1949年3月 — アペルの市庁舎壁画《問いかける子どもたち》が完成し、厳しい反発を受ける。
  19. 1949年 — コンスタントが《魔法の動物》を制作する。
  20. 1949年 — ステデリック美術館の国際実験芸術展に十か国から29人が参加する。
  21. 1949年 — アルフェルト、タジリ、ヘールプらの作品が国際展で紹介される。
  22. 1949年以後 — ヤン・ニューウェンホイスら一部の作家が集団から距離を取る。
  23. 1949年秋 — アペルがパリに移住し、制作と国際交流を広げる。
  24. 1950年 — アペルが《散歩》を制作する。
  25. 1950年前後 — 詩人と画家の共同制作や、マレ工房を拠点とする活動が広がる。
  26. 1951年 — リエージュで大規模CoBrA展が開催される。
  27. 1951年 — ヨルンとドートルモンが結核で療養し、活動の継続が難しくなる。
  28. 1951年 — CoBrAが運動としての組織活動を終える。
  29. 1950年代半ば — ヨルンがイタリアで陶芸をめぐる国際的な交流を広げる。
  30. 1957年 — ヨルンがシチュアシオニスト・インターナショナルの設立に関わる。
  31. 1962年 — ドートルモンがロゴグラムを制作し始める。
  32. 1974年 — 美術史家ストクフィスがCoBrAの共通する絵画言語を歴史として論じる。
  33. 2019年 — CoBrA美術館「新しいニュアンス」展とポンピドゥー・センターのマンコバ展などで、周縁化された作家が再評価される。
  34. 2023年 — CoBrA結成75周年に、デンマークの前史や女性作家、マンコバとフェルロフを含む展覧会が開催される。

まとめ

CoBrAは1948年に突然誕生した画風ではありません。デンマークの戦前からの実験、ベルギーでの政治とシュルレアリスムをめぐる議論、オランダの若い画家たちの共同活動が結びつき、短期間に国際的な実験の場を作りました。作品ではアペルの強い色と子どもの顔、コンスタントの動物、ヨルンの不安定な生物、ペデルセンの天体、アルフェルトの風景などが現れ、詩、印刷、彫刻、共同制作も重要な位置を占めました。

1949年のアムステルダム展とアペルの壁画をめぐる論争は、芸術の自由と社会の受け止め方の違いを可視化しました。1951年の解散までには、政治観の相違、病気、経済的な困難、個人活動の広がりが重なっていました。集団が終わった後も作家たちの制作は続き、詩と絵画の結びつき、遊びや都市への関心などは新しい方法へ発展していきました。

今日のCoBrAを理解するうえでは、女性芸術家やマンコバ、タジリなどを含む参加者の実際の活動と、非西欧美術への視線が持っていた歴史的な条件も重要です。多様な作家を一つの様式に整えることより、違いと対立を抱えながら共同で制作した三年間を具体的に見ることで、CoBrAが現代美術へ投げかけた「誰が、どのように芸術を作るのか」という問いがはっきりと見えてきます。

参考資料・出典

本記事はCoBrA美術館、ポンピドゥー・センター、デン・ハーグ美術館、アムステルダム博物館、カレル・アペル財団などが公開する作品・展覧会・研究資料を参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。参加の度合いが異なる作家の活動は、創設、展覧会、雑誌、人的交流を区別して記述しました。作品年代には所蔵館の記録を優先し、結成前の活動と解散後の発展を分けて整理しています。

資料確認日:2026年10月14日 / ART LIBRARY