紀元前332–30
ギリシア系王朝下の古代エジプト
神殿建築と王の肖像
紀元前4世紀のエジプトでは、ナイル川が毎年運ぶ泥を使った農業が暮らしを支え、川沿いの都市には古くからの神殿と祭司団がありました。北の地中海沿岸ではギリシア人の商人や兵士も以前から活動し、ナイルの水路は穀物と石材、人や品物を運ぶ通路になっていました。紀元前4世紀末、マケドニア軍がペルシア支配下のエジプトに入ると、この土地の政治は地中海東部に広がるギリシア系勢力の争いへ組み込まれていきます。
アレクサンドロスの死後、将軍プトレマイオスとその子孫は地中海に面したアレクサンドリアを王国の中心とし、ナイル流域ではエジプトの王として神殿を建て続けました。王の顔を横向きに打ち出したギリシア式の貨幣と、頭巾や王冠を着けて神に供物を捧げるファラオの浮彫が、同じ王朝のもとで作られています。神殿の石壁に刻まれた碑文、女王の像を付けた水差し、個人の葬送用パピルスまで見渡すと、作品ごとに選ばれた形と使われた場所が異なることが分かります。
CONTENTS
征服からプトレマイオス朝へ|二つの王権表現
紀元前332年の征服と305年の王位|ナイルと地中海を治める
紀元前332年、アレクサンドロス大王はエジプトに入り、翌年には地中海に面した新都市アレクサンドリアを創建しました。紀元前323年に大王が死ぬと、将軍の一人プトレマイオスがエジプトの統治を引き受け、紀元前305年に王を名乗ります。以後、同じ名前を継いだ男性たちとアルシノエ、ベレニケ、クレオパトラなどの王妃・女王が王家を形成しました。王国は紀元前30年、クレオパトラ7世の敗北後にローマの支配に入りました。
この王家はギリシア系の支配者として周辺の王国と外交や戦争を行いながら、エジプトの神官たちにとっては歴代のファラオに続く国王でもありました。王のギリシア語名は、神殿では象形文字の王名枠に収められます。アレクサンドリアの宮廷で使われた像と、上エジプトの神殿に刻まれた王像に姿の違いがあるのは、地域だけでなく奉納・礼拝・貨幣といった用途が異なっていたからです。(参照:エジプト観光・考古省|プトレマイオス朝時代/メトロポリタン美術館|プトレマイオス朝時代のエジプト)
アレクサンドリアの王都|港、神殿、学問の施設
アレクサンドリアはナイル川デルタの西、地中海沿岸に設けられた王都です。碁盤目状の街路、海に面した王宮地区、船が集まる港を備え、ギリシア人をはじめ多様な出自の住民が暮らしました。王家は学者や文書を集め、後に有名になる図書館と研究施設を支えています。街に立った神殿や王の彫像は、上エジプトの伝統的な神殿と同じ形ばかりではなく、ギリシア風の柱や衣服の表現も採用しました。
現在のアレクサンドリアでは古代の王宮地区の多くが後世の市街や海面の下にあり、地表で当時の配置を一望することはできません。アレクサンドリア研究センターは19世紀以降の測量図と発掘地点を重ね、かつての道路や街区の配置を検討しています。ギリシア語が王国の行政と都市生活で広く使われるようになった一方、地方の神殿や住民の記録ではエジプト語も使い続けられました。(参照:メトロポリタン美術館|プトレマイオス朝時代のエジプト/マーシャ・ヒル(2016年)|エジプトのプトレマイオス朝美術/アレクサンドリア研究センター|古代アレクサンドリアの街路と発掘地図)
セラピス神|ギリシア風の神像とエジプトの聖牛
アレクサンドリアではセラピス神が王朝の守護神として祭られました。もとになったのは、メンフィスで聖なる牛として尊ばれたアピスと、死者を治めるオシリスの信仰です。新たな神像には、ギリシアのゼウスや冥界の神を思わせるひげと長い髪が与えられました。メトロポリタン美術館の紅玉髄の印章(収蔵番号26.7.1362、直径約1センチ)には、その顔が小さく彫り込まれています。印章に使われるほど、この神の姿は小型の道具にも広がっていました。
紀元前210〜204年の大理石の奉納板(同館89.2.652、縦17.5センチ、横27.9センチ)では、管理官コモンがプトレマイオス4世と5世のため、イシス、セラピス、アポロンにギリシア語で捧げたことが分かります。紀元前2世紀の金製耳飾り(同館1994.230.8、.9)は、先端に太陽円盤を角の間に付けたアピス牛の頭を備え、柘榴石、ガラス、七宝を組み合わせています。聖牛の頭を小さな装身具に作る職人と、複数の神を併記する奉納者は、同じ時代に異なる材料と言語で宗教的な姿を伝えました。(参照:メトロポリタン美術館|セラピス神の頭部を彫った紅玉髄の印章/メトロポリタン美術館|イシス・セラピス・アポロン神へのギリシア語奉納板/メトロポリタン美術館|アピス牛を飾った金・柘榴石の耳飾り)
ファロス島の灯台|失われた建築を石材から探る
港の入口のファロス島には、高い塔で船を導く灯台が建てられました。アレクサンドリア研究センターのイザベル・エリーが整理した古代文献によれば、着工はプトレマイオス1世の時代に当たる紀元前3世紀初め、完成はプトレマイオス2世の時代とされます。四角い下部、八角形の中部、円形の上部を重ねた姿は、後世の貨幣に描かれた塔や、紀元前2世紀の小さな灯台模型などから検討されています。灯火をどこへ置いたかなど細部には不確かな部分が残ります。
灯台は地震による損傷と石材の転用を経て失われました。海底調査では巨大な石のまぐさや柱の脇材などが見つかり、2025年には22点の大型部材を引き揚げて立体計測する作業が報告されました。重量が70〜80トンに及ぶ部材もあります。研究班は海中で記録済みの石材と照らし合わせ、門の高さや部材の組合せを検討しています。現在見られる完成予想図は、現存した塔を撮影したものではなく、出土品と後世の図像から作った復元案です。(参照:アレクサンドリア研究センター・イザベル・エリー|ファロス灯台の建築研究/アレクサンドリア研究センターほか|ファロス灯台の海中石材調査)
エドフのホルス神殿|180年にわたる建設
紀元前237〜57年の造営|石の門と列柱の中庭
ナイル川の西岸、エドフではハヤブサの姿をしたホルス神の神殿が造営されました。現存する建物の建設は紀元前237年、プトレマイオス3世の治世に始まり、紀元前142年にプトレマイオス8世が一度完成を祝います。その後も工事が続き、プトレマイオス12世の時代、紀元前57年に入口の扉が取り付けられました。王朝の中期から末期まで、複数の王が同じ聖域へ工事を重ねた例です。
正面には高さ約36メートルの二つの塔門が門を挟み、その奥に32本の柱で囲んだ中庭、屋根を支える列柱室、暗い内陣が南北に連なります。外側の開放された広場から奥へ進むほど、出入りできる人は限られました。塔門の表面に見える縦の溝は旗竿を立てるためのもので、王の奉納や祭礼では建物の正面も使われました。神殿の全長は140メートルを超え、古いホルス神殿の遺構の上に建っています。(参照:イェール大学エジプト学|エドフ神殿の建築と祭礼/エジプト観光・考古省|エドフのホルス神殿)
塔門の王と神々|大きさを変えて刻む人物
エドフ神殿の塔門には、プトレマイオス12世が敵を打ち倒す姿が大きく刻まれ、その近くにホルス神や別の神々が表されます。冠を着けた王が捕虜の髪をまとめてつかみ、腕を振り上げる型は、はるか以前の王の記念碑にも用いられました。王朝末期のギリシア系国王が、その古い図柄の中でエジプトの王として描かれています。
門をくぐった中庭の壁や列柱室には、王が神に香や食物を差し出す場面、祭礼の行列、神々の名前が細かく彫られています。正面で誇張された王の体の大きさと、神殿の奥で反復される奉納場面にはそれぞれ役割があります。碑文は神話や祭儀の手順、地名も伝え、ゲッティンゲン大学などによって読み直しと資料化が進められています。王の姿は個人の顔を正確に写したものというより、一定の儀礼を担う統治者の像として設計されました。(参照:エジプト観光・考古省|エドフのホルス神殿/ゲッティンゲン大学|プトレマイオス朝期エドフ神殿の碑文)
ホルスとハトホルの祭礼|舟で運ぶ神像
エドフの祭礼では、普段は内陣に納められた神像が聖舟とともに運び出されました。『喜ばしい結合の祭り』では、デンデラから舟で来たハトホル女神の像をホルスの神殿へ迎え入れ、両神の結び付きが祝われます。中庭を囲む壁にはこの儀礼に関係する場面が刻まれ、宴や舟の行列に参加する人々もいました。神殿は石の建物として閉じた場所であると同時に、川の交通を利用した祭りの中心でもありました。
別の『生きたハヤブサの祭り』では、ホルスを体現する生きた鳥が選ばれ、神殿の塔門の上で人々に示された後、王権の更新に関わる儀礼を受けたと伝えられます。神殿の近くに造られた誕生殿では、ホルスとハトホルの子の誕生を祝う場面が彫られました。こうした情報は後世の想像に頼るのではなく、神殿の図像と碑文の記述を読み合わせて得られるものです。(参照:イェール大学エジプト学|エドフ神殿の建築と祭礼)
2024年の彩色調査|彫刻を覆っていた色と金箔
エドフ神殿の砂岩の浮彫は、現在は石の色が目立ちます。エジプトの修復家とヴュルツブルク大学の共同調査は2024年、神像を載せる聖舟の安置室を中心に堆積したすすや汚れを除き、彫刻の上に残る彩色と薄い金箔の痕跡を報告しました。浮彫の衣服や供物の細部には色で描き加えた線があり、石に彫った象形文字の誤りを塗装で修正した例も見つかっています。
高い壁の一部に残る金箔片は、神々の身体を金色で表す表現と関係する可能性があります。同じ空間では神官たちが書いたエジプト語の祈りも確認されました。色や文字を採取・記録する調査は、神殿を単なる石の浮彫集として見る理解を改めています。金箔がいつ、どの箇所へどれほど貼られたか、顔料に何を用いたかは、分析と修復記録をさらに照らし合わせる必要があります。(参照:ヴュルツブルク大学(2024年)|エドフ神殿の彩色と金箔の調査)
フィラエとコム・オンボ|川の神々のための建物
フィラエのイシス神殿|南の島へ集まる参拝者
アスワン近くのナイル川にあったフィラエ島では、イシス女神を祭る神殿群が整えられました。中心となるイシス神殿はプトレマイオス2世の治世に着工し、その後の王やローマ皇帝の時代まで増改築が続きます。開放的な中庭から列柱のある建物を通って内側の礼拝空間へ進む構成はエジプト式ですが、王朝の名を刻んださまざまな時期の部材が組み合わされています。
浮彫では国王がイシス、オシリス、ホルスに供物を捧げ、イシスが幼いホルスを守る場面も見られます。イシスは夫オシリスの復活と子ホルスの保護に関わる女神で、南のヌビア方面からも信仰を集めました。古代エジプトの伝統を引く図像は、プトレマイオス朝期に制作された建築の壁面にも繰り返し刻まれています。(参照:エジプト観光・考古省|フィラエ島の神殿群/メトロポリタン美術館|プトレマイオス朝時代のエジプト)
誕生殿の母子像と移設|古代の場所と現在の場所
フィラエ神殿の誕生殿には、湿地で幼いホルスに乳を与えるイシスの姿があります。母が子を膝に抱く像と、神々が新しい王権を守る儀礼が同じ聖域の中で結び付きます。近くのハトホル神殿にはプトレマイオス6世に始まる部分と、ローマ初代皇帝アウグストゥスの時代に加えられた部分があります。写真でよく知られるトラヤヌスのキオスクは紀元後2世紀初頭の建築で、プトレマイオス朝期の造営物ではありません。
現在、神殿群が立つのは元のフィラエ島ではなく、近くのアギルキア島です。アスワンのダム建設に伴う水没を避けるため、20世紀の国際保存事業で建物が解体・移設されました。石に刻まれた図像は古代のままでも、いま見える湖面と建築の位置関係はプトレマイオス朝期と同じではありません。発見・保存の経緯を知ることが、建物の年代を考える際にも欠かせません。(参照:エジプト観光・考古省|フィラエ島の神殿群)
コム・オンボの二つの内陣|ワニ神とハヤブサ神
エドフよりさらに南のコム・オンボでは、ワニの頭を持つソベクと、年長のホルスであるハルウェルの二神を同じ神殿に祭りました。建物には並行した二本の通路があり、柱の並ぶ広間を通って二つの内陣へ向かいます。南側の通路がソベク、北側がハルウェルの礼拝空間につながる構成は、一つの正面軸を持つエドフ神殿と大きく異なります。
現存する建物で最も早く確認できる王名はプトレマイオス6世、壁面装飾の多くはプトレマイオス12世の治世に施されました。浮彫には神々への供物、儀礼の暦、祭礼の日付などが刻まれています。壁に残る医療器具と解釈される図柄はローマ時代の紀元後2世紀の制作であり、プトレマイオス朝の医療を直接示す作品として扱うことはできません。(参照:エジプト観光・考古省|コム・オンボ神殿)
デンデラのハトホル神殿|王朝末期の奉納図
ハトホルの顔を載せた柱|神殿の建設時期を分ける
デンデラは牛の姿とも結び付くハトホル女神の古い聖域です。現在残る神殿の入口には女神の顔を四方に表した柱頭を載せた太い柱があり、その左右には儀礼に使う楽器シストルムを思わせる装飾もあります。壁面には供物、神々の行列、天体と暦の図柄が刻まれ、中央の礼拝空間だけでなく周囲の小部屋や屋上も儀礼に用いられました。
現存する神殿群の造営はプトレマイオス朝の後期に始まり、装飾の多くはローマ時代にも続けられました。天井の図像をすべて紀元前の作品として扱うと、建物の長い使用史が見えなくなります。エジプトの考古省は、今の神殿より古い時代から同じ場所に礼拝施設があった証拠も紹介しています。現在残る柱や壁の年代は、王名の銘文と建築の接合関係を確かめて分ける必要があります。(参照:エジプト観光・考古省|デンデラのハトホル神殿)
クレオパトラ7世とカエサリオン|南壁の親子像
デンデラのハトホル神殿の南側外壁には、クレオパトラ7世と息子のプトレマイオス15世カエサリオンを表した浮彫があります。王冠を着けた二人はエジプト式の衣装をまとい、神々への奉納者として並びます。古代エジプトの正式な壁面表現では、若い王が先に立ち、母である共同統治者が後ろに従う構図が採られました。母が息子を抱く家庭の肖像というより、王位を継ぐ者たちの儀礼の姿です。
クレオパトラ7世は紀元前51〜30年に在位し、息子カエサリオンは紀元前1世紀後半に共同統治者として掲げられました。神殿の壁に刻まれた顔は、女王の生前の容貌を精密に再現したものではありません。王冠、神々との位置関係、王名によって『誰が何を捧げているか』を表します。ローマの人物を描いた同じ神殿の浮彫と比較しても、政治体制が変わるたびにエジプト式の奉納図が直ちに消えたわけではありません。(参照:メンフィス大学エジプト美術考古学研究所|デンデラのクレオパトラ浮彫/エジプト観光・考古省|デンデラのハトホル神殿)
王の彫像|顔立ちと王冠の異なる組合せ
ヘリオポリス出土の王頭|名を決めきれない硬い石の顔
メトロポリタン美術館の灰色の硬い石で作られた顔部(収蔵番号12.187.31)は、1912年に古代の宗教都市ヘリオポリスで発掘されました。高さ16.2センチで、丸く張った頬、やや幅の広い口、肉付きのある顎を持つ断片です。もとは大きな立像の一部でした。博物館はプトレマイオス2世、3世、あるいは同時期の高官という複数の候補を挙げています。王を特定できる碑文があるわけではありません。
この頭部は、エジプトの古い王像に見られる左右の釣り合いを保ちながら、頬や唇を厚く表す彫りにギリシア系彫刻との接触が考えられています。発見地点が古い太陽神の聖域だったことは、神殿に置かれた像の可能性を示しますが、それだけで王名と制作年が決まるわけではありません。硬い石を磨いた表面と失われた胴体の接合関係を調べ、同時期の頭部と比較する研究が続いています。(参照:メトロポリタン美術館|プトレマイオス2世または同時代人とされる顔部/メトロポリタン美術館|プトレマイオス朝時代のエジプト)
ネメス頭巾とギリシア風の髪|王冠の伝統と新しい顔立ち
紀元前2世紀前半のものとされる小さな石灰岩の王頭(メトロポリタン美術館、収蔵番号2021.41.96、高さ3.5センチ)には、縦縞のあるエジプト王の頭巾ネメスと、額に突き出した聖蛇の飾りが表されています。頭巾は古い王権を示す決まった図柄で、彫像を見た人は個人の顔を読まなくても王の姿と分かりました。
別の黒い斑れい岩の小頭部(同館2008.454、紀元前2〜1世紀初頭)は、エジプト式の王の頭飾りの下に、ギリシア風に整えた巻き毛を彫り出しています。髪の配置からプトレマイオス8世または10世が候補に挙がりますが、本人と断定はされていません。作品の一部にギリシア風の顔立ちを取り入れながらも、礼拝のための王像としてエジプトの決まった形を使い続けた例です。(参照:メトロポリタン美術館|ネメス頭巾を着けた王の頭部/メトロポリタン美術館|エジプトの冠とギリシア風の髪を持つ王頭)
王妃の大理石頭部|女神像に近いギリシア式の肖像
メトロポリタン美術館所蔵の大理石の王妃頭部(収蔵番号2002.66)は、高さ38.1センチ、紀元前270〜250年頃のギリシア系彫刻です。丸い顔の中央に鼻を置き、滑らかな頬と額の周囲に波打つ髪を配しています。頭の頂部と後ろは粗く仕上げられ、もとは別素材などのベールで覆った可能性があります。現在は首から上が残り、身体の姿や本来の設置場所は分かりません。
博物館はこの頭部をアルシノエ2世の肖像とみる説を紹介しています。大きく整った顔立ちがギリシア神話のヘラやデメテルに似ており、神格化された女王の像にふさわしいとの解釈です。エジプト式の比較例には、1922〜1923年にアブ・ラワシュで発掘された高さ12センチの石灰岩の頭部(同館38.10)もあります。こちらもアルシノエ2世に帰属しますが、王妃の名を刻んだ台座はありません。女王の名が残る貨幣と、名前のない彫刻の確実さを同じ水準に置くことはできません。(参照:メトロポリタン美術館|プトレマイオス朝王妃の大理石頭部/メトロポリタン美術館|アルシノエ2世に帰属する石灰岩の頭部/マーシャ・ヒル(2016年)|エジプトのプトレマイオス朝美術)
アルシノエ2世の崇拝|石像と彩釉陶器
死後の小像|エジプト式の姿と豊穣の角
プトレマイオス2世の妻で共同統治者だったアルシノエ2世は、紀元前270年に死去した後、女神として祭られました。メトロポリタン美術館の石灰岩製小像(収蔵番号20.2.21、高さ38.7センチ)は、紀元前150〜100年頃に作られたもので、背中の銘文が彼女を女神として記しています。死後100年以上たっても、女王の礼拝像が作られていたことを示す作品です。
像は正面を向いて左右の脚を揃えるエジプト式の姿勢をとりながら、腕にはギリシアの女神像にも使われる豊穣の角を持っています。顔には大きな丸い目、巻いた髪、小さく結んだ口が彫られ、顎と首の近くに金箔の名残が見えます。初めは顔にも金色の表面があったと考えられます。ポーズ、持ち物、彩色をそれぞれ見ると、古いエジプトの神像の形と王朝の女王崇拝が一つの石像に収められていることが分かります。(参照:メトロポリタン美術館|アルシノエ2世の死後崇拝像)
青い水差しの王妃像|祭礼の場面を器へ彫り出す
アレクサンドリア周辺で作られたファイアンスの水差しには、王妃が祭壇へ液体を注ぐ場面を浮彫にした一群があります。ファイアンスは石英質の素材の表面をガラス状の釉薬で覆って焼く技法で、青や緑の光沢を持たせられます。完形の例では、王妃が片手に浅い皿を持って供物を注ぎ、後方には神聖な柱、前方には祭壇が置かれます。小さな器の胴体を、人物の輪郭が浮き上がる画面にしています。
メトロポリタン美術館のアルシノエ2世とされる顔の破片(収蔵番号26.7.1017)は、高さ3.8センチの青い焼物です。王妃の識別は銘文ではなく、ほかの作品や貨幣の髪形との比較によります。これらの水差しは王妃を記念する祭礼での献酒に使われた可能性が高く、墓地からも見つかっています。実際にすべてが同じ儀式で使われたと確定しているわけではありません。(参照:メトロポリタン美術館|アルシノエ2世を表す彩釉陶器の水差し片)
ベレニケ2世の器片|青い釉薬と濃い髪の線
アルシノエ2世の後にも、王妃を側面から浮彫にする水差しは作られました。紀元前246〜222年頃のベレニケ2世と考えられる破片(メトロポリタン美術館26.7.1016)は、縦15センチ、幅7センチのファイアンス製です。淡い青色の表面に女性の頭部が浮き上がり、髪や眉には濃い釉薬の痕跡が残っています。流れる髪や頬の線を、型で形作った立体と着色の両方で示しました。
水差しは飲み物を入れる器であり、王妃の像は単なる飾り以上の用途を持ったと考えられます。神へ捧げる献酒と王家の祭礼が交わる場面を表す一方、実際の出土地にはアレクサンドリア以外の都市や墓地も含まれています。作品群は紀元前3世紀初めから2世紀後半まで続きますが、どの祭礼で使われたかは一つの器片からは判定できません。(参照:メトロポリタン美術館|ベレニケ2世を表す彩釉陶器の水差し片/メトロポリタン美術館|アルシノエ2世を表す彩釉陶器の水差し片)
アルシノエの金貨|死後に鋳造された王妃の横顔
メトロポリタン美術館の金貨(収蔵番号2021.41.177)は、直径2.9センチ、厚さ0.4センチです。表にはベールと高い冠を着けたアルシノエ2世の横顔があり、耳の下には雄羊の角が添えられています。裏側には二つの豊穣の角と、彼女を示すギリシア語の名が刻まれました。石像で女王が手に持つ豊穣の角が、貨幣では像と対をなす図柄として使われています。
アルシノエ2世は紀元前270年に亡くなりましたが、この金貨自体の鋳造年代は紀元前180〜116年の間とされます。貨幣上の小さな文字の印によって、プトレマイオス6世または8世の時代に発行されたと考えられるためです。描かれた人物の生存期間と、現物が製造された年代は同じではありません。神格化した祖先の横顔を繰り返し流通させることで、後の王も王家との結び付きを示しました。(参照:メトロポリタン美術館|アルシノエ2世像の金貨/メトロポリタン美術館|アルシノエ2世の死後崇拝像)
ロゼッタ・ストーン|石碑に刻んだ三種類の文字
紀元前196年の石碑|文字を三段に分けた表面
ロンドンの大英博物館に収蔵されるロゼッタ・ストーン(EA24)は、紀元前196年の王命に関わる祭司団の決議を刻んだ石碑の断片です。現在残る石材は高さ112.3センチ、幅75.7センチ、厚さ28.4センチの花崗閃緑岩で、上端と側面が欠けています。表面には上から象形文字、エジプト語の民衆文字、古代ギリシア語の三つの段があり、それぞれ神殿の儀礼用、エジプト語の実務用、ギリシア語の行政用の書記伝統に対応します。
石の上部にある象形文字は欠損が大きく、中段の民衆文字は細い筆記体に近い字形、最下段のギリシア語は形を整えた文字が横に続きます。写す言語と文字の配置が異なる一方、内容は同じ決議を伝えます。上中下の三つの文書を並べて彫ることは、読み手の異なる社会集団へ同じ政治的・宗教的な内容を届ける方法でもありました。石碑そのものは作品というより公的な掲示物ですが、材料、字の大きさ、段の境界まで目的に沿って作られています。(参照:大英博物館|ロゼッタ・ストーン(収蔵番号EA24)/大英博物館|古代エジプト文字解読展解説資料)
祭司団の決議|若いプトレマイオス5世をたたえる
ロゼッタ・ストーンの文章は、メンフィスに集まったエジプトの祭司たちが若いプトレマイオス5世を称える決議です。神殿に対する王の施し、租税や祭司の待遇に関わる措置、神々への供物を取り上げ、王の像を神殿内に置いて祭礼を行うことも求めました。王が一方的に神殿へ命令した文面というより、王と祭司団の双方の関係を公の形にした記録です。
決議は同じ内容を刻んだ碑を各地の神殿へ置くよう定めています。つまり、ロゼッタ近郊で見つかった一枚だけが特別な全文の原本だったわけではありません。紀元前238年にも別の王をたたえるカノプス決議が複数の文字で刻まれており、この形式はプトレマイオス朝の宗教政策の中で繰り返されました。碑文が教えるのは文字の読み方だけでなく、エジプトの祭司が王権を承認する具体的な条件です。(参照:古代史資料集成|紀元前196年のメンフィス勅令・ギリシア語文/大英博物館|古代エジプト文字解読展解説資料)
1799年の発見と19世紀の解読|古代制作と研究史を分ける
ロゼッタ・ストーンが近代に知られたのは1799年です。フランス軍の兵士たちがナイル川デルタのロゼッタ、現在のラシード近くで築城作業中に、建材として再利用された石を発見しました。古代の石碑はもとの設置場所から動かされており、発見地点が制作された神殿だとは言えません。フランス軍のエジプト遠征後に石はイギリス側へ移り、現在は大英博物館にあります。
三種の文字がほぼ同じ内容を記していることは、エジプト文字の解読に役立ちました。トマス・ヤングが王名などの音価の検討を進め、ジャン=フランソワ・シャンポリオンは1822年、象形文字が音を表す仕組みを含むことを説明しました。石を刻んだ紀元前196年と解読された19世紀を分けて考えると、この碑には古代の王と祭司の関係、近代の文字研究、戦争による移動という異なる歴史が重なっています。(参照:大英博物館|ロゼッタ・ストーンの発見と解読/大英博物館|古代エジプト文字解読展解説資料)
神殿に寄進された小さな像|民間の信仰
人面の獅子神トゥトゥ|姿を組み合わせた守護神
メトロポリタン美術館のトゥトゥ像(収蔵番号30.8.71)は、紀元前300〜150年頃と考えられる石灰岩製の像で、横の長さ35.6センチ、高さ21.1センチです。獅子の胴体に人間の顔を組み合わせ、王のように前方へ進む姿勢を取っています。表面に顔料を埋め込んで色を付けた部分もあり、現在はその一部が失われています。動物と人物を組み合わせる形は古くからありましたが、この神はプトレマイオス朝期に広く信仰されるようになりました。
トゥトゥは女神ネイトの息子とされ、悪しきものを退け、人々の暮らしを守る神として知られました。石像はサイスのネイト神殿などへの奉納品だった可能性が検討されていますが、正確な設置場所は特定されていません。巨大な王の像だけが神殿を飾ったのではなく、個人が神に捧げる小型の動物像や、日常の願いと結び付いた神々の像も制作されました。(参照:メトロポリタン美術館|人面の獅子神トゥトゥ像)
シストルム奏者ウェジャシュの碑|女性の名と職務
紀元前3〜2世紀の石灰岩の石碑(メトロポリタン美術館68.17、高さ59センチ)には、シストルムを鳴らす女性ウェジャシュの名が残ります。上部の図には彼女がオシリス、アヌビス、イシス、ネフティスなどの神々を礼拝する姿があり、その下に供物を求める文章が刻まれました。ウェジャシュは王の書記ホルの娘で、母アンケスの名も記されています。
シストルムは振ると金属部分が鳴る儀礼用の楽器で、ハトホルやイシスの信仰とも結び付きます。碑文には故人の職務と家族が書かれ、図像は神に向き合う人物の姿を定めた型で表します。出土地は上エジプトのアフミーム周辺と考えられますが、確実に発掘された墓を特定できる資料ではありません。個人の石碑を読むと、王家の歴史とは別に神殿で活動した人々の名前が残っています。(参照:メトロポリタン美術館|シストルム奏者ウェジャシュの石碑)
葬送の造形|パピルスと彩色された棺
神官イムホテプの『死者の書』|21.9メートルの巻物
メトロポリタン美術館には、紀元前332〜200年頃に作られたホルス神官イムホテプの『死者の書』(収蔵番号35.9.20a–w)が残っています。パピルスを継いだ巻物は現状で長さ約21.9メートル、高さ約35センチ。細い黒文字の列の上に小さな人物や神の図像が続き、要所には紙面の高さを使って大きな場面を描いています。赤いインクは祈りの区切り、神獣の一部、供物などに使われました。
心臓の重さを量る審判の場面には冥界の王オシリスが座り、死者イムホテプは神々の前に現れます。研究者ジャニス・カムリンは2016年の解説で、行頭が欠けた呪文や、赤い下描きの上へ黒で描き直したワニの図柄、文字と絵を描く筆の太さの違いを指摘しました。絵と文字をどちらから先に仕上げたかは箇所によって判断が難しく、一人の書記がすべてを描いたとも決められていません。伝統的な『死者の書』も、個々の巻物ごとに制作上の特徴があります。(参照:メトロポリタン美術館|ホルス神官イムホテプの『死者の書』/ジャニス・カムリン(2016年)|イムホテプの『死者の書』の線描と制作)
ネスミンのミイラ|金彩マスクと内部の護符
紀元前200〜30年頃のネスミンのミイラ(メトロポリタン美術館86.1.51)は、上エジプトのアフミームから1885〜1886年の発掘で出土したものです。全長は約174センチ。亜麻布に包まれた遺体には、塗装し金を施したマスクや、神々を描いた覆いが付けられています。こうした硬い覆いは、布などを重ねて塗料で固め、表面に人物や文様を描くカルトナージュと呼ばれます。
棺の銘文によれば、ネスミンはミン神の神官で、父ジェドホルも神官、母タディアセトはミン神の音楽に関わる女性でした。2011年のCT撮影では、布を外さずに内部の護符31点を確認できました。額には守護の眼を表す護符、手首や胴にも別の護符が置かれています。遺体を保護する彩色された外側と、肉眼では見えない護符の配置は、一人の埋葬のために組み合わせられた異なる制作物です。(参照:メトロポリタン美術館|ネスミンのミイラと彩色棺/イザベル・シュテュンケル(2016年)|ネスミンのミイラのCT調査)
クレオパトラ7世の肖像|確認できる顔と推定の像
キプロスの銅貨|女王と幼い息子を重ねた図柄
大英博物館の銅貨(収蔵番号1844,0425.99)は、紀元前51〜30年の間にキプロスで鋳造されたクレオパトラ7世の貨幣です。直径約3センチ、重さ約17.7グラム。表には冠を着け、髪を頭の後ろでまとめた女王の横顔があり、その前方に幼い子どもの顔が重なります。裏側には二つの豊穣の角が刻まれ、アルシノエ2世の貨幣にも見られる王家の図柄を受け継いでいます。
大英博物館は前面の子どもをカエサリオンとみる解釈を紹介し、母子をギリシア神話のアフロディテとエロス、またはエジプトのイシスと幼いホルスに重ねる見方も示しています。発行の詳しい目的は分かっておらず、紀元前47年の息子の誕生との関連も仮説です。この貨幣は女王の名と発行権者が確かな資料ですが、横顔の鼻や顎の線をそのまま実際の容貌と同一視することはできません。(参照:大英博物館|キプロス鋳造のクレオパトラ7世の銅貨)
『クレオパトラ像』の同定|銘文さえ検討が必要
メトロポリタン美術館の石灰岩製王妃像(収蔵番号89.2.660、高さ62.5センチ)は、紀元前2〜1世紀の作品とされ、豊穣の角を持つ女性の姿を表しています。髪形がクレオパトラ7世の肖像と似ることから彼女と結び付ける研究があります。腕には『クレオパトラ』と読める王名枠もありますが、刻まれた向きが通常と異なり、博物館は近代に加えられた可能性が高いと説明しています。
彫像に名前が見えるからといって、碑文そのものが古代の作だと確認できなければ、個人名の証明には使えません。クレオパトラ7世に関わる貨幣、デンデラの浮彫、顔の似た大理石像などは、それぞれ資料としての確かさが異なります。様式、出土地、刻字の加工痕、他の王妃像との比較を重ねても、『最後の女王の素顔』という単一の姿にすべてをまとめることは難しい状況です。(参照:メトロポリタン美術館|クレオパトラ7世の可能性がある王妃像/大英博物館|クレオパトラ7世との同定に議論のある頭部)
略年表
- 紀元前332年|アレクサンドロス大王がエジプトを征服する
- 紀元前331年頃|アレクサンドリアの建設が始まる
- 紀元前323年|アレクサンドロスが死去し、プトレマイオスがエジプトの統治を担当する
- 紀元前305年|プトレマイオス1世が王を名乗り、王朝支配が始まる
- 紀元前297〜281年頃|アレクサンドリアのファロス灯台が造営されると伝えられる
- 紀元前284〜246年頃|ヘリオポリスの王頭など初期プトレマイオス朝の彫刻が作られる
- 紀元前278〜270年頃|アルシノエ2世の肖像を付けた彩釉陶器の水差しが作られる
- 紀元前270年|アルシノエ2世が死去し、死後の女神崇拝が確立する
- 紀元前246〜222年頃|ベレニケ2世の姿を表す青い水差しなどが作られる
- 紀元前238年|カノプスで王家をたたえる祭司団の決議が作られる
- 紀元前237年|プトレマイオス3世のもとでエドフ神殿の現存建築の工事が始まる
- 紀元前210〜204年|コモンが王のためにイシス、セラピス、アポロンへ大理石の奉納板を捧げる
- 紀元前196年|プトレマイオス5世に関する祭司団の決議が三種類の文字で石碑に刻まれる
- 紀元前180〜116年頃|アルシノエ2世の横顔を表した金貨が鋳造される
- 紀元前180〜145年頃|コム・オンボ神殿でプトレマイオス6世の王名が確認される
- 紀元前150〜100年頃|アルシノエ2世を女神として表す小さな石灰岩像が作られる
- 紀元前142年|エドフ神殿がプトレマイオス8世によって一度奉献される
- 紀元前80〜51年頃|プトレマイオス12世の時代にエドフ神殿の塔門などが整えられる
- 紀元前57年|エドフ神殿の正面門に扉が設置され、長い造営が完了する
- 紀元前51〜30年|クレオパトラ7世が統治し、王妃・母子像の貨幣や奉納浮彫が作られる
- 紀元前31年|アクティウム沖の海戦でクレオパトラ7世とアントニウスの側が敗れる
- 紀元前30年|ローマがエジプトを支配下に置き、プトレマイオス朝が終わる
まとめ
プトレマイオス朝の王は、地中海側では横顔を刻んだ貨幣やギリシア風の王妃像を用い、ナイル流域の神殿では古いファラオの冠や奉納の姿を使いました。エドフ神殿の塔門には伝統的な勝利の場面が刻まれ、内部の碑文は神々の祭礼と儀礼の進め方を記録しています。王朝が交代しても神殿の造営は途切れず、フィラエやデンデラでは後のローマ時代に加えられた部分も残りました。
石灰岩のアルシノエ2世像に残る金箔、青いファイアンスの水差し、横顔を打ち出した金貨は、女王が死後も礼拝の対象になったことをそれぞれ異なる形で伝えます。ロゼッタ・ストーンは三種類の文字で王と祭司団の取り決めを記し、個人の石碑や『死者の書』、ネスミンのミイラは、王家以外の人々の宗教生活と制作技術を伝えています。2024年のエドフ神殿の彩色調査では、かつて石の浮彫の上に色や金箔が重ねられていたことも確認されました。
一方、石像の顔だけから王を特定することは難しく、クレオパトラ7世に帰属する彫像には後世の刻字の可能性も指摘されています。王妃像付きの水差しが具体的にどの祭礼で用いられたか、灯台の上部がどのような構造だったかについても検討が続いています。碑文に残る名前や儀礼、石材の加工痕、顔料の残存箇所、発掘時の記録を比べることで、作品の制作年代と用途を一つずつ確かめていくことができます。(参照:ヴュルツブルク大学(2024年)|エドフ神殿の彩色と金箔の調査/メトロポリタン美術館|クレオパトラ7世の可能性がある王妃像/アレクサンドリア研究センター・イザベル・エリー|ファロス灯台の建築研究)
参考資料・出典
- エジプト観光・考古省|プトレマイオス朝時代
- メトロポリタン美術館|プトレマイオス朝時代のエジプト
- マーシャ・ヒル(2016年)|エジプトのプトレマイオス朝美術
- アレクサンドリア研究センター|古代アレクサンドリアの街路と発掘地図
- メトロポリタン美術館|セラピス神の頭部を彫った紅玉髄の印章
- メトロポリタン美術館|イシス・セラピス・アポロン神へのギリシア語奉納板
- メトロポリタン美術館|アピス牛を飾った金・柘榴石の耳飾り
- アレクサンドリア研究センター・イザベル・エリー|ファロス灯台の建築研究
- アレクサンドリア研究センターほか|ファロス灯台の海中石材調査
- エジプト観光・考古省|エドフのホルス神殿
- イェール大学エジプト学|エドフ神殿の建築と祭礼
- ゲッティンゲン大学|プトレマイオス朝期エドフ神殿の碑文
- ヴュルツブルク大学(2024年)|エドフ神殿の彩色と金箔の調査
- エジプト観光・考古省|フィラエ島の神殿群
- エジプト観光・考古省|コム・オンボ神殿
- エジプト観光・考古省|デンデラのハトホル神殿
- メンフィス大学エジプト美術考古学研究所|デンデラのクレオパトラ浮彫
- メトロポリタン美術館|プトレマイオス2世または同時代人とされる顔部
- メトロポリタン美術館|ネメス頭巾を着けた王の頭部
- メトロポリタン美術館|エジプトの冠とギリシア風の髪を持つ王頭
- メトロポリタン美術館|プトレマイオス朝王妃の大理石頭部
- メトロポリタン美術館|アルシノエ2世に帰属する石灰岩の頭部
- メトロポリタン美術館|アルシノエ2世の死後崇拝像
- メトロポリタン美術館|アルシノエ2世を表す彩釉陶器の水差し片
- メトロポリタン美術館|ベレニケ2世を表す彩釉陶器の水差し片
- メトロポリタン美術館|アルシノエ2世像の金貨
- 大英博物館|ロゼッタ・ストーン(収蔵番号EA24)
- 大英博物館|ロゼッタ・ストーンの発見と解読
- 古代史資料集成|紀元前196年のメンフィス勅令・ギリシア語文
- 大英博物館|古代エジプト文字解読展解説資料
- メトロポリタン美術館|人面の獅子神トゥトゥ像
- メトロポリタン美術館|シストルム奏者ウェジャシュの石碑
- メトロポリタン美術館|ホルス神官イムホテプの『死者の書』
- ジャニス・カムリン(2016年)|イムホテプの『死者の書』の線描と制作
- メトロポリタン美術館|ネスミンのミイラと彩色棺
- イザベル・シュテュンケル(2016年)|ネスミンのミイラのCT調査
- 大英博物館|キプロス鋳造のクレオパトラ7世の銅貨
- メトロポリタン美術館|クレオパトラ7世の可能性がある王妃像
- 大英博物館|クレオパトラ7世との同定に議論のある頭部