紀元前2650–2150
古代エジプト古王国時代
ピラミッドと王の彫像
紀元前27世紀頃から22世紀頃のエジプトでは、ナイル川が運ぶ水と土に支えられた農耕が広がり、王を中心とする統治の仕組みが長い川沿いの地域を結んでいました。耕地の外側には乾燥した台地が続き、その崖や砂漠の縁に、王や高官の墓地が築かれました。川は食料を運ぶ道であると同時に、遠くの採石場から巨大な石材を運ぶ道でもありました。
この時代は、エジプト史で「古王国時代」と呼ばれます。初期の長方形の墓から階段ピラミッドが生まれ、続いて四面が滑らかな巨大ピラミッドが建てられました。墓の周囲には祭殿と参道がつくられ、硬い石から彫り出した王の坐像、壁に刻まれた供物の場面、色鮮やかな工芸品が、それぞれの場所に納められています。
サッカラのジェセル王の階段ピラミッド、ギザのクフ王の大ピラミッド、カフラー王の坐像、メンカウラー王と女性の並立像は、造形と建築の関係がよく分かる作品です。石材輸送の記録や労働者集落の発掘も進み、巨大な建物を支えた人々の仕事が具体的に見えるようになりました。その一方で、石を高所へ運んだ方法や、すべての神殿彫像が当初どのように並べられていたのかなど、今も研究が続く問題があります。
CONTENTS
ナイル川沿いの王国と石造建築のはじまり
氾濫原、首都メンフィス、王の墓
古王国時代のエジプトは、ナイル川沿いの耕地と、その両側に広がる乾燥した台地を使い分けて暮らす社会でした。毎年の氾濫によって肥沃な土が運ばれ、川では穀物や石材が船で運ばれました。政治の中心であったメンフィス周辺には、耕地を見下ろす砂漠の縁に王や高官の墓地が築かれています。
紀元前27世紀から22世紀頃にかけての古王国時代には、第3王朝から第6王朝までの王たちが、サッカラ、ダハシュール、ギザ、アブシールなどに葬祭施設を建てました。王の大きな墓だけでなく、高官や家族の墓に彫刻・彩色・文字を刻む習慣も広がります。こうした資料の多くが墓から出ているため、当時の日常生活には、墓に描かれた姿からは直接分からない部分も残っています。(参照:メトロポリタン美術館|T・プラカーシュ「古王国時代のエジプト」(2019))
長方形のマスタバ墓から階段状の石造建築へ
初期の王や有力者の墓には、地下の埋葬室の上を、平らな屋根と傾いた側面を持つ長方形の建物で覆う形式がありました。現在は「マスタバ墓」と呼ばれ、日干し煉瓦が多く使われました。墓の外側には死者への供物を置く場所が設けられ、後の時代にはその場所が石の壁と浮彫を持つ小さな礼拝室へ変わっていきます。
ジェセル王の墓で採用された石の構築物は、この長方形の墓を重ねる発想から発達したものです。建築の材料を日干し煉瓦や葦から石灰岩へ置き換えたことで、大きな建物を永続的な王の葬祭施設として残そうとする試みが、遺構に具体的な形で現れています。(参照:エジプト観光考古省|ジェセル王の階段ピラミッド複合体/メトロポリタン美術館|T・プラカーシュ「古王国時代のエジプト」(2019))
サッカラのジェセル王と階段ピラミッド
六段の塔と巨大な囲壁
第3王朝のジェセル王がサッカラに築いた階段ピラミッドは、六段の石造構築物が積み上がった姿をしています。高さはもともと約60メートルに達し、中心には地下の埋葬施設につながる深い竪坑があります。ピラミッドの周囲には南北に長い大きな区域が取られ、約544メートル×277メートルの敷地を高い石壁が囲んでいました。
長い囲壁には、実際には通れない扉をかたどった部分がいくつも設けられています。内部にも、儀礼のための中庭や建物の形だけを示した構造物が並びました。墓の外形だけを巨大化したのではなく、王が死後も儀式を行うための建築のまとまりとして計画されたと考えられています。(参照:グローバル・エジプト博物館|ジェセル王の階段ピラミッド/エジプト観光考古省|ジェセル王の階段ピラミッド複合体)
石で再現された葦の柱と、王を置く小室
入口の列柱廊では、細長い石の柱が壁から突き出すように並び、その表面は葦を束ねた姿を模しています。葦や木材の建築で使われた形を石で作り直したもので、後世の石造神殿に連なる柱の表現がここに見られます。南の中庭には、王が統治の力を新たにするとされた祭りに関わる施設も配置されました。
ピラミッド北側の小室には、王の坐像を安置した場所が残っています。このような像の部屋は「セルダブ」と呼ばれ、壁に開けられた小さな穴を通じて外部と関係づけられていました。墓の内部に像を置くことには、亡き王の存在を建物の中に保つという宗教的な意味があったと考えられています。(参照:グローバル・エジプト博物館|ジェセル王の階段ピラミッド/メトロポリタン美術館|T・プラカーシュ「古王国時代のエジプト」(2019))
青色タイルで飾られた地下通路
ジェセル王の地下施設には、白い石灰岩の壁に青緑色の小さなタイルを多数はめ込んだ空間が残っています。タイルは「ファイアンス」と呼ばれる、石英質の材料に光沢のある釉薬を施して作る工芸品です。メトロポリタン美術館が所蔵する壁面の一部は、高さ113センチ、幅73.7センチ。青色の小片が整然と並ぶ様子から、葦を編んだ宮殿の壁掛けを再現した装飾だったと説明されています。
南墓と呼ばれる地下施設にも同様の装飾があり、偽扉の上には、王が冠をつけて祭礼に参加する姿が浅い浮彫で刻まれました。南墓が何のために造られたのかについては、王の内臓を納めたという説など複数の考え方があります。発掘された装飾は詳しく分かっていても、施設の役割にはなお不明な点があります。(参照:メトロポリタン美術館|ジェセル王葬祭施設の青色ファイアンス壁面/エジプト観光考古省|ジェセル王の南墓)
階段状から滑らかな四角錐へ
スネフェル王のメイドゥムとダハシュール
第4王朝のスネフェル王の時代には、階段状の外観から、四面が滑らかなピラミッドへ変化していきました。メイドゥムのピラミッドでは、階段状の核の外側に石を積み足す方法が試みられました。ダハシュールの「屈折ピラミッド」は、途中で斜面の角度が変わるため、頂上に向かう線が折れたように見えます。
屈折ピラミッドは下部の傾斜が約55度、上部が約43度です。角度の変更は荷重や安定性と関係すると説明されますが、建設時にどの問題がどの順序で生じたのかを、今日まで残る石積みだけから完全に復元することは難しい問題です。内部には北側と西側の別々の入口があり、石を少しずつ持ち出すように積んだ高い天井の空間も造られました。(参照:エジプト観光考古省|屈折ピラミッド/メトロポリタン美術館|T・プラカーシュ「古王国時代のエジプト」(2019))
赤いピラミッドの直線的な外形
スネフェル王のもう一つの大きな建物、ダハシュールの「赤いピラミッド」は、傾斜がほぼ一定の四角錐として築かれました。現在見える石材が赤みを帯びることからその名が付きましたが、完成時の表面は、白い良質の石灰岩で覆われていました。下から見上げると、かつては四つの平滑な斜面が空へ収束する輪郭をつくっていたことになります。北側の入口から下る通路の先には、石を持ち出すように積み上げた高い天井を持つ部屋が三つあります。建物の外形を整える技術と、内部に埋葬に関わる空間を確保する技術とが、同じ建設の中で組み合わされていました。(参照:エジプト観光考古省|赤いピラミッド)
ギザの三大ピラミッドと大スフィンクス
クフ王の大ピラミッドと内部の通路
ギザ台地のクフ王の大ピラミッドは、建設当初の高さが約146.5メートルに達しました。中心部には地元の石灰岩を大量に用い、外側にはトゥーラ産の白い石灰岩を貼って、滑らかな斜面を仕上げていました。現在は外装石の大部分が失われ、内側の段状の石積みが露出しています。
内部には地下の部屋のほか、石積みの中にある二つの部屋があり、最も高い位置の「王の間」へは、急な角度で上昇する大回廊を通って進みます。大回廊の両側は石が段階的に内側へ迫り、上方に細長い空間を残す構造です。王の間には花崗岩製の石棺が残っていますが、葬送の儀式がどのように行われたかを詳しく記した同時代の記録はありません。(参照:エジプト観光考古省|クフ王の大ピラミッド)
王の墓、祭殿、参道、河岸の神殿
ギザのピラミッド群を遠くから見ると三つの巨大な墓が主役ですが、当初はそれぞれの東側に王を祀る祭殿が付き、そこから長い参道が低地の神殿へ続いていました。川沿いから上がってくる人々にとって、石造の参道と建物はピラミッドへ向かう一続きの施設だったことになります。
クフ王の施設の近くには小さな王妃のピラミッドや、大きな石の船を納めた船坑も造られました。カフラー王とメンカウラー王もそれぞれにピラミッド・神殿・参道を設け、神殿には王の石像が複数配置されました。像と建築は別々の作品として作られたのではなく、葬祭儀礼が行われる場所で一緒に機能していました。(参照:メトロポリタン美術館|T・プラカーシュ「古王国時代のエジプト」(2019)/エジプト観光考古省|クフ王の大ピラミッド)
岩盤を彫り残した大スフィンクス
カフラー王の参道と谷の神殿に隣接する大スフィンクスは、ライオンの胴体と王の頭を組み合わせた巨大な石像です。周辺の岩盤を削り取り、必要な部分を彫り残して形をつくった点で、別々の石を積むピラミッドとは異なります。顔には頭巾と王の象徴を表す形が残り、前脚を伸ばした身体が東を向いています。
エジプト観光考古省は建造物の配置関係や彫刻の特徴から、カフラー王の時代に造られたと考えています。スフィンクスがどのような祭儀で用いられたのか、建造当初にどの程度の彩色や補修が施されていたのかについては、後世の修復や信仰の変化も考慮して検討が続いています。(参照:エジプト観光考古省|ギザの大スフィンクス)
石材の輸送とピラミッドを築いた人々
「メレルの日誌」に記された石材運搬
2013年、紅海沿岸のワディ・アル=ジャルフで、クフ王の治世末期に書かれたパピルス文書がまとまって発見されました。その一部は監督官メレルの作業記録で、船員たちがトゥーラの採石場から石灰岩を運び、ギザの建設現場に向かう日々の行程を記しています。ピエール・タレが2017年に刊行した記録には、作業隊の移動と物資の受け渡しが具体的に残っています。
建物の外壁に使う上質な石材を水路で運んだことは、この文書から直接分かります。一方、ピラミッドの高い位置まで石を引き上げた方法は、日誌だけでは判明しません。採石場から現場までの輸送と、建設現場内部の作業を区別して考える必要があります。(参照:フランス東方考古学研究所|P・タレ「メレルの日誌」(2017)/フランス東方考古学研究所|ワディ・アル=ジャルフ発掘調査)
労働者の住居、製パン所、家畜の骨
マーク・レーナーらの発掘調査隊AERAは、ギザのスフィンクスから南へ約400メートルの場所で、ピラミッド建設に関わった人々の大きな集落を調査しています。「ヘイト・エル=グラブ」と呼ばれる遺跡には、細長い建物群、道路、倉庫、製パン施設、家畜を扱う場所、管理のための建物がありました。
焼けた炉の跡や土器、動物の骨から、現場に人と食料が集められた様子が分かります。
レーナーの2019年の研究は、組織された作業隊が地域社会のつながりを利用して動員された可能性を論じています。現存する大きな集落の主要な時期はカフラー王・メンカウラー王期に関わり、クフ王期の集落全体が同じ形で発掘されたわけではありません。働いた人々の身分や労働の負担も一様だったとは言えず、ピラミッドの建設を単一の労働形態で説明することには無理があります。(参照:M・レーナー(2019)|ギザの集落と全国的な労働動員の研究/エジプト観光考古省|ピラミッド建設者の集落と墓地)
石を上げる方法と内部空間の新しい調査
巨大な石材を積み上げるため、斜路を使ったという考え方は古くからあり、外側に土の坂を設ける案や内部の通路を使う案など、複数の建設方法が提案されてきました。残る通路や採石跡は検討材料になりますが、工事の全工程を説明できる一つの模型が実証されたわけではありません。
2017年には、森島邦博らが宇宙線から生じる粒子を利用してクフ王のピラミッドを調査し、大回廊の上方に長さ30メートル以上の未知の空間があると報告しました。2023年の研究では北面の入口付近でも通路状の空間を検出し、2025年には複数の非破壊調査を組み合わせてその存在を検証しています。これらは建物の内部構造についての発見であり、空間の本来の用途や建築方法をそれだけで決定するものではありません。(参照:森島邦博ほか(2017)|クフ王ピラミッドの内部空間を確認したNature論文/シューマッハーほか(2025)|北面の通路状空間の非破壊調査)
王の彫像に表された顔と身体
カフラー王の坐像とホルスのハヤブサ
カイロ・エジプト博物館の《カフラー王坐像》は、高さ168センチの硬い閃緑岩で作られ、1860年にギザの谷の神殿で発見されました。王は頭巾と付けひげを身につけ、両膝の上に手を置いて、まっすぐ前を向いています。肘から脚へ続く輪郭と、大きな石の玉座の形が一体となって、像を安定した姿に見せています。
王の後頭部には、翼を広げたハヤブサが寄り添っています。これは王権に結びつくホルス神の姿です。玉座の側面には、上エジプトと下エジプトの統合を表す植物を結び合わせた図柄が彫られました。神殿に置かれた王像には、身体の姿だけでなく、神々の加護と統治者の地位を同時に示す役割がありました。(参照:カイロ・エジプト博物館|カフラー王座像/メトロポリタン美術館|カフラー王の顔の断片)
メンカウラー王と女性の並立像
ボストン美術館の《メンカウラー王と女性の並立像》は、高さ142.2センチの灰色の硬い石で彫られています。二人は共通の背板と台座に立ち、王は左足を前へ出し、女性は片腕を王の腰に回しています。王の上半身には胸筋と腹部の筋肉が整えられ、女性の細長い衣服は身体に沿う線として示されました。王の顔や女性のかつらには、彩色の痕跡も残っています。
1910年の発掘で、メンカウラー王の谷の神殿から見つかりました。王の名は出土状況とほかの像との比較から判断されますが、女性の名前を示す碑文は未完成の台座に刻まれていません。
発掘者ジョージ・ライスナーは王妃カメレルネブティ2世と考え、ハトホル女神や王の母とする説も出されました。ボストン美術館は王妃の可能性を有力としながら、人物の同定は未解決としています。(参照:ボストン美術館|メンカウラー王と女性の並立像)
女神と地域の象徴を伴うメンカウラー王
同じ神殿から出土した三者像では、メンカウラー王が二人の女性像の間に立ち、一方はハトホル女神、もう一方は地方を擬人化した存在として表されています。ボストン美術館の一例は高さ84.5センチ、灰色の硬い石から彫られました。三人の身体が一枚の背板につながり、服の裾と脚の位置に変化をつけながら、正面を向くまとまりを作っています。
これらの像は、神殿に祀られた王が神々や地方との結びつきを持つ姿として理解されています。地名や神の標章を備えた像からは、その組み合わせを確認できますが、発見されていない像が何体あったか、もともとどの順序に並んでいたかまでは確定していません。(参照:ボストン美術館|メンカウラー王・ハトホル女神・ノモスの三者像)
制作途中の坐像から分かる彫刻の工程
メトロポリタン美術館が所蔵する高さ20センチのメンカウラー王坐像は、ギザの谷の神殿に関連する彫刻工房で見つかりました。石灰岩の表面には、塊から頭や胴体を削り出していく途中の形が残ります。身体の筋肉や顔の輪郭は示されていますが、磨き上げる前の粗い部分もあり、足や台座も欠けています。
同じ作業場からは、仕上がりの段階が異なる王像が十数体見つかりました。完成された神殿彫刻と未完成像を合わせて見ると、職人が石の大きな塊を整え、身体の形を刻み、表面を磨いていく順序の一端を知ることができます。未完成の理由まで直接記録した文書は残っていません。(参照:メトロポリタン美術館|制作途中のメンカウラー王坐像)
高官や書記の像に見える別の人物表現
書記坐像の目と手
ルーヴル美術館の《書記坐像》は、高さ53.7センチの石灰岩製です。男性は脚を組んで座り、膝の上にパピルスの巻物を広げています。目には水晶などをはめ込み、周囲を銅で縁取って、光を受けると視線が強く感じられるように作られました。王像の硬く正面を向いた姿勢とは違い、手と肩の形には仕事をする途中の自然な動きが見られます。
サッカラ北部で出土したこの像の人物名は分かっていません。ルーヴル美術館は第4王朝頃としていますが、官僚の個人像全体が特定の一人の職人によって作られたわけではありません。書記という仕事を示す姿勢と、生身の人物らしさが一つの像に組み合わされています。(参照:ルーヴル美術館|《書記坐像》E 3023)
ニカレの書記像と家族像
メトロポリタン美術館には、第5王朝の穀物管理に関わったニカレを、二つの異なる姿で表した像が残ります。書記としての像は高さ30.1センチで、座ってパピルスを広げ、少し頭を下げています。台座には本人の名前と職名が刻まれ、穀倉に関わる役人だったことが分かります。
高さ57センチの家族像では、ニカレの傍らに妻クエンヌブと娘クエンネブティが配されました。一人の人物が仕事の姿と家族の姿の両方で表されていることから、古王国の墓に置かれる像が、現実の一瞬を写すだけでなく、死後も保ちたい身分や家族関係を形にするものだったことがうかがえます。(参照:メトロポリタン美術館|書記姿のニカレ像/メトロポリタン美術館|ニカレと妻・娘の家族像)
木製のカアペル像と、地方の長官像
カイロ・エジプト博物館の《カアペル像》は、高さ約112センチの木彫です。ふくよかな腹部とゆったりした胸を持つ男性が、左足を前に出して立ちます。もとは彩色された漆喰をまとっており、目には水晶・方解石・黒い石などをはめ込んでいました。長く保存されにくい木材の彫像が残った貴重な例です。
古王国末期の地方長官イドゥ2世の坐像は、これとは別の特徴を見せます。高さ60.5センチの石灰岩像には、椅子やかつらの黒、皮膚の赤、腰布の白が残り、大きな目と独特の身体の比率で表されています。人物の見せ方には王の肖像とは異なる幅があり、時代や地域、依頼主によって変化していました。(参照:カイロ・エジプト博物館|古王国の彫像・工芸品/メトロポリタン美術館|地方長官イドゥ2世の坐像)
墓の壁に刻まれた生活と祭礼
メイドゥムのガチョウと彩色の技術
第4王朝のメイドゥムに築かれたネフェルマアトとイテトの墓には、水辺の鳥を描いた有名な壁画がありました。横に並んだガチョウの首の角度、羽毛の黒と茶色の縞、緑色の草を細かく描き分けています。現在、原画はカイロのエジプト博物館にあり、メトロポリタン美術館では20世紀に制作された模写によって画面を確認できます。
ガチョウの図は単独の自然画ではなく、鳥を網で捕らえ、死者に供える場面の一部でした。羽の細部を描く観察と、墓に食物がもたらされるようにという願いが、一つの壁面に組み合わされていました。墓の絵にどこまで当時の日常風景が忠実に描かれていたかは、図像が葬祭のために選ばれたことも踏まえて読む必要があります。(参照:メトロポリタン美術館|メイドゥムのガチョウ図・模写)
偽扉を挟んだ供物、演奏、遊戯の場面
サッカラのニカウホルと妻セケムハトホルの墓の礼拝堂には、二人の偽扉と、その間を埋める多段の浮彫が残っています。壁の下部には牛を解体する人々、その上には壺や食物を運ぶ人々が並び、さらに上には笛や竪琴の演奏者、盤上遊戯を楽しむ人々が刻まれました。石灰岩を浅く彫り、顔料で彩った画面です。
偽扉は本当に開けるための扉ではなく、死者への供物を捧げる場所として造られました。美術館の調査では、壁の一部に以前の大きな坐像を削り直した白い痕跡があり、絵の配置が途中で変更されたことも確認できます。整った画面の下に、実際の制作と改修の跡が残されています。(参照:メトロポリタン美術館|ニカウホルとセケムハトホルの墓室礼拝堂の壁)
メチェチの偽扉と墓の人物像
メチェチの墓から出た偽扉は、高さ109センチ、幅66.5センチの石灰岩製です。上部の供物の場面では墓の主が供物台の前に座り、扉の周囲にも本人が繰り返し彫られています。浅い線を刻んだ人物像と、名前や肩書きを表す文字とが同じ石面に配置され、供え物の器も細かく表現されました。同一人物が一つの建築部材に何度も登場することから、墓の浮彫が「ある日の出来事」を描く絵とは異なる役割を担っていたことが分かります。死後の供養に必要と考えられた名前、姿、食物を、一か所にまとめた造形でした。(参照:メトロポリタン美術館|メチェチの偽扉)
第5・第6王朝の神殿装飾とピラミッドの内部
アブシールのサフラー王のヤシ形柱
第5王朝の王サフラーは、ギザの南にあるアブシールにピラミッドと葬祭殿を築きました。メトロポリタン美術館に残る石柱は、もとの高さが約6.65メートル、花崗岩の一材から作られています。上部はヤシの葉を束ねた形になっており、幹と葉の境目には縄を巻いたような輪の彫刻が施されています。
この柱は王の葬祭殿の中庭を取り囲んだ柱の一つでした。ナイル川上流のアスワンで採れた花崗岩を長距離輸送し、葦やヤシを用いた建築の形を、硬い石で大きく表したことが分かります。石柱の自然物に似た姿は、後のエジプト建築でも繰り返し使われました。(参照:メトロポリタン美術館|サフラー王のヤシ形柱)
神殿の船の浮彫と王・神の並立像
第5王朝頃の船を描いた浮彫断片には、風を受けて大きく膨らむ帆の下で、人々が帆を上げ、水深を測りながら船を進める姿が刻まれています。高さ80センチ、幅70センチの断片には文字もあり、船の作業を具体的に表した構図が残っています。サフラー王の神殿にも船の場面が描かれ、葬祭殿に川や航海の光景が組み込まれたことが知られています。
サフラー王と地方神を並べた高さ64センチの石像では、王より小さく作られた神が、生命を表す記号を王に差し出しています。この像がアブシールの葬祭施設に置かれたのか、ほかの神殿への奉納品だったのかについては見解が分かれます。彫像の図柄から神と王の関係を読むことはできますが、当初の設置場所を決めるには別の証拠が必要です。(参照:メトロポリタン美術館|帆船を刻んだ浮彫断片/メトロポリタン美術館|サフラー王と地方神の像)
ウナス王のピラミッドに刻まれた葬祭文書
第5王朝末のウナス王がサッカラに築いたピラミッドは、ギザの大ピラミッドより小規模ですが、内部の部屋に密集して彫られた文字が大きな特徴です。石壁に刻まれた「ピラミッド・テキスト」と呼ばれる文言には、亡き王が死後の世界で生き続けるための祈りや言葉が含まれています。
それ以前にも墓には供物の図像や王の名が刻まれていましたが、ウナス王のピラミッドは、王のための宗教的な文書を埋葬室の壁一面に配置した最初期の例です。装飾の中心が彫刻や浮彫だけでなく、文字の連続にも広がっていったことが、建築内部の空間から分かります。(参照:エジプト観光考古省|ウナス王のピラミッド)
略年表
- 紀元前2650年頃|第3王朝初期、ジェセル王の時代にサッカラで階段ピラミッドの建設が進む。
- 紀元前2630年頃|ジェセル王の葬祭施設で、石造列柱廊と青色ファイアンスの壁面装飾が造られる。
- 紀元前2575年頃|スネフェル王の時代。メイドゥムとダハシュールでピラミッドの外形が変化する。
- 紀元前2550年頃|クフ王の大ピラミッドがギザに築かれ、石材輸送が行われる。
- 紀元前2510年頃|カフラー王のピラミッドと神殿群、大スフィンクスが建造される頃。
- 紀元前2490年頃|メンカウラー王の谷の神殿に、王と女性の並立像や三者像が置かれる。
- 紀元前2460年頃|第5王朝が始まり、アブシールの王墓に石柱や多彩な浮彫が用いられる。
- 紀元前2400年頃|サッカラの高官の墓で、供物・演奏・家族を表す浮彫と彫像が作られる。
- 紀元前2350年頃|ウナス王のピラミッド内部に、葬祭に関わる文言が刻まれる。
- 紀元前2200年頃|第6王朝末にかけ、地方の高官の墓にも独自の彫像・壁面装飾が残される。
まとめ
古王国のピラミッドは、巨大な石の墓として建てられました。ジェセル王の六段の建築、スネフェル王の屈折ピラミッド、クフ王の滑らかな四角錐を比べると、石の積み方と外形が王ごとの建設で変わっていったことが分かります。王の墓には祭殿や参道が付属し、像や浮彫は死後の王に関わる儀礼の場に置かれました。
カフラー王像の背後に彫られたハヤブサ、メンカウラー王と女性の並立像、墓の供物場面には、王権や家族、死後の生活についての当時の考え方が形として残っています。近年は石材運搬の日誌や労働者集落の調査により、建設に関わった人々の組織や生活も少しずつ明らかになっています。一方、大ピラミッドの石を高所へ運んだ具体的な工程や、個々の彫像の配置と祭儀の細部については、資料が十分ではありません。建築の内部調査や発掘、文字資料の研究が続いています。
参考資料・出典
主な作品・建築は所蔵館や現地の文化財機関の資料で確認し、石材輸送、労働者集落、ピラミッド内部の調査については発掘報告と研究論文を参照しました。王の在位年と王朝の境界には資料ごとの差があるため、本文と年表はおおよその紀元前の年代で表記しています。
- メトロポリタン美術館|T・プラカーシュ「古王国時代のエジプト」(2019)
- エジプト観光考古省|ジェセル王の階段ピラミッド複合体
- グローバル・エジプト博物館|ジェセル王の階段ピラミッド
- メトロポリタン美術館|ジェセル王葬祭施設の青色ファイアンス壁面
- エジプト観光考古省|ジェセル王の南墓
- エジプト観光考古省|屈折ピラミッド
- エジプト観光考古省|赤いピラミッド
- エジプト観光考古省|クフ王の大ピラミッド
- エジプト観光考古省|ギザの大スフィンクス
- フランス東方考古学研究所|P・タレ「メレルの日誌」(2017)
- フランス東方考古学研究所|ワディ・アル=ジャルフ発掘調査
- M・レーナー(2019)|ギザの集落と全国的な労働動員の研究
- エジプト観光考古省|ピラミッド建設者の集落と墓地
- 森島邦博ほか(2017)|クフ王ピラミッドの内部空間を確認したNature論文
- シューマッハーほか(2025)|北面の通路状空間の非破壊調査
- カイロ・エジプト博物館|カフラー王座像
- メトロポリタン美術館|カフラー王の顔の断片
- ボストン美術館|メンカウラー王と女性の並立像
- ボストン美術館|メンカウラー王・ハトホル女神・ノモスの三者像
- メトロポリタン美術館|制作途中のメンカウラー王坐像
- ルーヴル美術館|《書記坐像》E 3023
- メトロポリタン美術館|書記姿のニカレ像
- メトロポリタン美術館|ニカレと妻・娘の家族像
- カイロ・エジプト博物館|古王国の彫像・工芸品
- メトロポリタン美術館|地方長官イドゥ2世の坐像
- メトロポリタン美術館|メイドゥムのガチョウ図・模写
- メトロポリタン美術館|ニカウホルとセケムハトホルの墓室礼拝堂の壁
- メトロポリタン美術館|メチェチの偽扉
- メトロポリタン美術館|サフラー王のヤシ形柱
- メトロポリタン美術館|帆船を刻んだ浮彫断片
- メトロポリタン美術館|サフラー王と地方神の像
- エジプト観光考古省|ウナス王のピラミッド