Art Library
Art History

1993–2003

ウェブサイトやブラウザそのものが作品になる

インターネット・アートの登場

1990年代半ば、コンピューターの画面で開いたウェブページが、そのまま美術作品になるという試みが現れました。見慣れない記号が並ぶサイト、クリックするたびに分割されていく物語、入力欄やボタンだけで構成された画面。作家たちは新しい技術を使って、画像を見せる方法だけでなく、鑑賞するという行為そのものを探り始めました。

1993年4月30日、欧州原子核研究機構(CERN)はワールド・ワイド・ウェブの主要ソフトウェアを自由に利用できる条件で公開しました。画像を扱いやすいブラウザが広がり、ウェブは研究者の情報共有の仕組みから、多くの人が発信と閲覧を行う文化的な場へ変化していきます。インターネットへ接続できるコンピューターがあれば、遠く離れた国の作品をURLから開けるようになりました。

初期ネット・アートの作家たちが注目したのは、ウェブの仕組み自体でした。JODIはブラウザが正常に動くという期待を崩し、オリア・リアリナはフレームとリンクを使って物語を作りました。アレクセイ・シュルギンは入力フォームを造形表現へ変え、ヒース・バンティングはリンクが作る移動そのものを作品にしました。制作の素材がコードや通信へ広がった時代です。

同時期のインターネットには、作品を発表することと議論することが隣り合う文化がありました。1991年に始まった電子掲示板《The Thing》や、1996年設立のRhizomeでは、作家や批評家が互いの活動へ直接応答しました。ネット上に公開されたものをコピーし、引用し、変化させる行為が新たな美術の問題を生み出していきます。

インターネット・アートの関心は、画面の見た目や操作の実験にとどまりません。ムンターダスは検閲の記録を参加者と共有し、シュー・リー・チェンは《Brandon》を通じてジェンダーと社会的な表象をめぐる問いを開きました。ウェブを使うことによって、多数の人が情報を追加したり、離れた場所から作品へ参加したりする方法も試されました。

1997年の第10回ドクメンタ、1999年のZKM《net_condition》、2000年のホイットニー・ビエンナーレなどを通して、ネット作品は国際的な展覧会へ入っていきます。美術館も作品をオンラインで委嘱し、収集し、保存する仕組みを作り始めました。その過程では、作品を収蔵するとき何を所有するのか、古いブラウザが動かなくなったとき何を残すのかという問いが生まれます。

本記事では1993年から2003年を中心に、主要作家の具体的な作品と、それを取り巻くネット文化、美術制度の歴史を追います。日本についてはエキソニモ《DISCODER》などの制作と展示記録を紹介し、国際的な展開の一端として位置づけます。作品を発表する新しい場所が生まれたことと、作品の形が変化したこと。その二つを重ねながら、初期インターネット・アートが美術史に残したものを考えます。

ウェブが美術の新しい場所になる

ウェブが一般の人々にも届き始めると、作品を展示する場所と作品そのものの形が変化しました。その技術的な出発点を、当時の閲覧経験からたどります。

1993年、誰もがウェブを使える基盤が生まれる

1989年、欧州原子核研究機構(CERN)のティム・バーナーズ=リーは、研究者同士が文書を結びつけて共有する仕組みとしてワールド・ワイド・ウェブを提案しました。1990年末には最初のサーバーとブラウザが動作し、翌年から外部の利用者にも公開されます。インターネットにはそれ以前から電子メールや電子掲示板がありましたが、文書をリンクで移動できるウェブは、表現の新しい入口を開きました。

1993年4月30日、CERNはウェブの主要ソフトウェアを自由に利用・複製できる条件で公開しました。この決定によって、研究機関ごとに許諾を得ることなくウェブサーバーや閲覧ソフトを導入できるようになります。同年末には既知のウェブサーバーが500を超え、翌1994年にはさらに急速な成長が続きました。美術家たちは、作品の発表と鑑賞が同じ通信基盤の上で行われる環境に出会うことになります。

ウェブのソフトウェアが自由に使えるようになったという事実は、後の作家が商業的な制作設備を買わなくても実験を始められる条件を作りました。技術の普及と、そこで何を美術とみなすかという判断が重なった時代です。(参照:欧州原子核研究機構(CERN)|ウェブ誕生の歴史)

画像を見るブラウザが一般に広がる

1993年、イリノイ大学の国立スーパーコンピューティング応用研究所(NCSA)がブラウザ「Mosaic」を公開しました。文字と画像を扱える操作画面によって、専門的な知識を持たない利用者にもウェブの可能性が伝わり始めます。通信速度は遅く、画面の解像度や色数も現在とは異なりました。読み込みの待ち時間や画像の粗さまでが、当時の閲覧経験を形作っていました。

この時期のインターネット・アートにとって、ブラウザは作品を表示する透明な窓というだけの存在ではありません。背景色、文字の配列、リンクの色、フレーム、スクロールバーなど、操作画面を成り立たせる要素が直接の表現素材になりました。作家が扱うのは完成画像だけでなく、見る人が画像へたどり着くまでの手順や画面の変化でもありました。

ブラウザの普及に伴い、同じ情報が多くの人の画面へ届くようになります。作家は大きな展示設備を借りなくても、画面上のわずかな文字や配置から鑑賞者の経験を設計できるようになりました。(参照:欧州原子核研究機構(CERN)|ウェブ誕生の歴史)

作品の住所が展示室からURLへ広がる

作品をウェブに公開すると、鑑賞者は展覧会場へ赴かずにURLを入力してアクセスできます。ウェブページが動作すれば、自宅や学校から別の国の作品を開くことができます。美術館やギャラリーの所在と、作品を閲覧する場所が一致する必要はなくなりました。作家が独自のサーバーやウェブサイトから発表する機会も増えていきます。

その新しさは、単に作品の画像を遠くへ配ることにとどまりません。観客がリンクを選び、入力欄に文字を書き込み、別のページを開くたびに作品の状態が変わる場合があります。サーバーの応答や他人の書き込みに左右される作品も生まれました。1990年代後半の作家たちは、この仕組みの全体を美術の素材として検討しました。

通信の途中で接続が切れたり、指定したページが見つからなかったりする経験も日常的でした。のちに作品の保存を考える際には、そうした不安定な環境をどこまで再現するのかという問題が生まれます。(参照:ホイットニー美術館|デジタル美術の歴史)

ネット・アート以前から続く実験

新しい技術は過去の実験から生まれます。コンピューターと通信を使う美術の蓄積を確かめると、1990年代の変化がより明確になります。

コンピューターと通信を用いた先行作品

コンピューターを使う美術の歴史は、ウェブの普及より数十年前にさかのぼります。1960年代には演算処理を利用した描画やコンピューター・グラフィックスの展覧会が行われ、映像・音声・通信を使う美術も発展していました。作家が機械の演算や偶然性を取り入れるという発想には、すでに蓄積がありました。

1990年代のインターネット・アートでは、通信ネットワークと誰でも使える閲覧画面が結びつきます。コンピューターの内部で計算を行う作品、展示会場の装置で体験する作品に加え、観客の手元のブラウザが作品の実行場所になるという変化が起きました。美術家の使う技術が一般の通信環境と重なったことが、この時代の特徴です。

ネットワークを使うことは、作品の対象や観客の範囲を変えるだけでなく、表現が成立する時間も変えました。データが届くまでの時間や、通信相手から返事が来るまでの時間が経験の一部になります。(参照:NCSA|コンピューター技術とMosaicの歴史)

電子掲示板《The Thing》が作った交流の場

1991年、ヴォルフガング・シュテーレはニューヨークで電子掲示板《The Thing》を立ち上げました。初期の利用者には作家、批評家、研究者らがおり、投稿や議論を通じて作品の情報や考え方を交換しました。やがて複数のヨーロッパの都市にも接点が広がります。利用者は、すでに完成した作品を受け取るだけの観客ではありませんでした。

《The Thing》では文章を発表すること、他者へ返信すること、オンラインの場に自分の存在を示すことが文化活動の一部になりました。後のRhizomeによる調査では、消失しかけた掲示板の記録そのものが重要な保存対象になっています。この事例を知ると、1993年のウェブ公開が突然すべてを変えたという単純な物語を避けられます。

The Thingの参加者が生み出した議論は、どこまでが作品でどこからが批評なのかを簡単には分けられません。ひとつの投稿が次の制作へつながるような場では、作品が生まれる過程そのものが共有されます。(参照:ニューミュージアム|《The Thing BBS》の記録)

インターネット美術とnet.artの範囲

インターネット・アートは、ウェブサイト、電子メール、通信回線、オンライン上の参加を作品の成立条件として用いる幅広い実践を指します。1990年代半ばから広まった「net.art」は、特に当時のウェブ文化に接続して活動した作家やその人的ネットワークと結びついた名称です。両者は重なりますが、歴史的には使われる場面が異なります。

作品の保存では「コンピューターで制作した画像」と「通信やブラウザの動作によって成立する作品」を区別する必要もあります。前者は画像ファイルだけでも主要な形を残せる場合があります。後者では操作、リンク、外部の人とのやり取りまで考慮しなければ、作品の経験を伝えられません。この違いを出発点として作家たちの実践を見ていきます。

また、ウェブが普及したからといって、古い通信環境がただちに使われなくなったわけではありません。電子メールとウェブ、電子掲示板と展示室が並行して使われたことに、1990年代の多層的なメディア環境が現れています。(参照:Rhizome|組織の沿革とネット・アート)

net.artという名前と作家のネットワーク

初期の作家たちは、作品を通して交流するネットワークと、そこで使う言葉を自ら形作っていました。その国際的なつながりを見ていきます。

ネット上に生まれた名称をめぐる逸話

「net.art」という表記には、1990年代のネット文化らしい逸話が伝わっています。文字化けした電子メールの中に偶然現れた言葉だったという話です。後には、初期の作家たちがこの由来を意図的に作り上げたことが語られ、名称そのものが一種のいたずらや批評的な身振りとして流通していたことが知られています。

この呼び名は、誰かが美術館で宣言した確定的な芸術運動名として始まったものではありません。ピット・シュルツらの使用と、ヴク・チョシッチをはじめとする作家間での流通を通して定着しました。名称の履歴に複数の証言や物語が残ること自体が、初期のネット上で制作と情報発信が密接に結びついていた様子を示しています。

この名称をめぐるやりとりには、作家が美術史に記録される自分たちの姿を、少し距離を置いて見ていた様子もうかがえます。ネットの言葉が引用と再配布を繰り返すこと自体を表現にしたのです。(参照:Rhizome|組織の沿革とネット・アート)

1996年《Net.art per se》と実際の交流

1996年、ヴク・チョシッチが関わった《Net.Art Per Se》は、初期のネット作家たちが交流する機会になりました。開催地はイタリアのトリエステです。ネット上だけで作品を見せていた人々が、実際の都市で顔を合わせ、展示や議論を行うことにも意味がありました。オンラインとオフラインは、互いに切り離された二つの世界として存在していたわけではありません。

当時の作家たちには、JODI、オリア・リアリナ、アレクセイ・シュルギン、ヒース・バンティングなど、活動地も方法も異なる人々がいました。共通するのは、ウェブをすでに出来上がった情報サービスとして受け入れるよりも、その技術を変則的に使い、別の可能性を探った姿勢でした。互いの作品への反応や引用が新しい制作へつながっていきます。

実際の展示では、オンラインで知り合った人たちが場所や時間を共有し、協働の仕方を探りました。このようにネット上の実験と小規模な展覧会が相互に支え合ったことは、活動の歴史を理解するうえで重要です。(参照:批評家ジョセフィーヌ・ボスマ|チョシッチへの1997年インタビュー)

東欧と西欧を横断する独自の回路

初期のnet.artをシリコンバレーやニューヨークだけの歴史として描くと、重要な部分が見えにくくなります。リュブリャナ、モスクワ、アムステルダム、ハンブルク、ロンドンなど、異なる都市の作家や研究者が電子メールやオンラインの交流を通してつながりました。冷戦終結後に変化したヨーロッパの文化環境も、その活動を取り巻いていました。

ウェブは、既存の商業ギャラリーに所属していない作家が作品を広く見せるための手段となりました。同時に、英語の理解、通信費、コンピューターの所有、技術知識などの条件によって参加機会には差がありました。初期ネット文化の実験性を評価するとともに、誰がそこへ接続できたのかを考える必要があります。

都市ごとに通信の速度や設備、行政や文化制度の条件は異なります。共通する技術が使われていても、それぞれの作家が何を問題にしたかは、生活していた場所と切り離せません。(参照:ドクメンタ|1997年第10回展のウェブサイトとCD-ROM)

JODIが壊したウェブページの常識

ブラウザが何をどのように見せるのか。JODIは、ウェブページを正常に読むという期待を揺さぶることで、その問いを可視化しました。

《jodi.org》で遭遇する不可解な画面

ヨアン・ヘームスケルクとディルク・パースマンスによるJODIは、1990年代半ばからブラウザを使った作品を制作しました。彼らのウェブサイトを開くと、記号や数字、予測しにくい配置が現れ、ときにはコンピューターが故障したような印象を受けます。作品の意図がすぐには読めないことも、鑑賞者の経験を作る要素でした。

当時、企業や研究機関のウェブサイトは情報を効率よく伝えるための形式を整えつつありました。JODIはそうした慣習をずらし、利用者が情報を読み取ろうとするときの期待を揺さぶりました。見た目の混乱は、ブラウザがどのように画面を組み立てているかを気づかせる入口にもなりました。

閲覧者が戸惑う時間は、作品にとって意味のない待ち時間ではありません。通常のサイトなら正しく理解できるはずだという思い込みが、操作の失敗を通して浮かび上がってきます。(参照:ニューヨーク近代美術館|JODIの作家資料)

表示画面とHTMLソースの二重構造

ウェブページは、HTMLの記述をブラウザが読み取り、文字や画像として表示します。初期のブラウザにはソースコードを閲覧する機能があり、同じページを画面の裏側から見ることができました。JODIの作品では、見えている画面とその元になるコードの関係が強く意識されます。ページの一部を裏返すように見ることで、別の構造が現れることもありました。

作家が操作するのは画面上の絵柄だけではありません。記号の並びやプログラムの解釈そのものが、鑑賞者へ届く形を決めます。ページを表示する道具だと考えられていたブラウザが、作品の仕組みを積極的に作る装置として見えてきます。

ソースコードは当時の利用者が容易に読める場合もありました。画面の背後を覗く行為によって、作家と利用者の境界が少し近づき、ソフトウェアへの批評的な理解も生まれます。(参照:ニューヨーク近代美術館|JODIの作家資料)

エラーや混乱が美術の表現になる

通常のソフトウェアでは、操作ミスや表示の崩れは修正の対象です。JODIは、予測不能な動作や壊れたような画面を利用して、技術が正しく動くことへの期待を試しました。利用者は、画面から意味を読み取るより先に、自分がどう操作すべきかを迷うことになります。

ここには、機械を滑らかに操作させようとする商業的な設計への批評性も見いだせます。1995年の《Automatic Rain》や、その後の一連の実験からは、技術の失敗に見える表面を別の表現へ変える態度がうかがえます。制作に利用される機械の仕組みが、そのまま考察の対象になりました。

JODIの作品は、デジタル技術の進歩を未来的な画像の滑らかさで競う作品とは違った方向を示しました。ありふれた機能の不安定さから、独自の視覚経験を作り出したのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|JODIの作家資料)

オリア・リアリナとブラウザの物語

ネットワークの機能を利用して物語を語ることも、初期の美術家にとって重要な実験でした。リアリナはブラウザを物語の編集装置へ変えました。

1996年《My Boyfriend Came Back from the War》

オリア・リアリナは1996年、《My Boyfriend Came Back from the War》を公開しました。戦争から戻った男性と恋人が再会する場面を、白黒の画像と短い会話によって構成した作品です。登場人物たちの間には距離があり、やり取りからは裏切りへの疑い、記憶の食い違い、将来をめぐる不安が浮かび上がります。

鑑賞者は一続きの映像を再生する代わりに、画面上の言葉や画像を自分でクリックして読み進めます。会話には定まった一本道がなく、異なる断片が同時に画面へ残ることがあります。見る人自身の選択が、物語の時間と順序を形作っていきます。

この作品で戦争は背景の単なる装飾ではありません。再会した二人の会話がかみ合わないことや、断片をつなぎ合わせても全体が見えにくいことが、物語の経験と画面の構造を結びつけます。(参照:Rhizome|リアリナと初期ウェブの物語)

フレームの分割が映画の編集に代わる

この作品では、HTMLのフレーム機能が物語の構造を支えています。リンクを開くたびに画面の一部分がさらに細かく分かれ、異なる画像と文章が並んでいきます。映画で一つの場面から次の場面へ切り替える編集が、ブラウザ内の複数の領域として表現されました。

ひとつの画像を消して次の画像を見せる代わりに、過去の断片と新しい断片を同じ画面に残すことができます。画面のどこを読むか、何を見落とすかは鑑賞者によって異なります。ネットの標準的な機能から物語固有の時間を作った点に、この作品の独創性があります。

分割されて小さくなった画面は、どの断片から読み進めるかによって違う意味を帯びます。作品が提供するのはひとつの結末へ至る道順以上に、読む行為そのものに注意を向ける時間です。(参照:Rhizome|リアリナと初期ウェブの物語)

「ネットの言語」を探す制作姿勢

リアリナは1997年のインタビューで、インターネット上の表現はその媒体固有の言語を持つべきだという考えを示しました。映画や小説を単に掲載する方法から、リンク、画面分割、クリック、読み込みといったウェブ固有の仕組みを生かした形式へ進もうとしたのです。

この作品には後年、別の作家による再制作や翻案も生まれました。ネット作品の形は一つの完成画像だけから把握できず、操作の方法やブラウザの条件と深く結びついています。映像表現の歴史とのつながりを持ちながら、作品はウェブでなければ成り立たない構造を獲得しました。

リアリナの実践は、後のウェブデザインが操作の容易さを目指すなかでも、媒体が持つ固有の表現力を考え直す手がかりを残しました。使いやすさだけでは説明しきれない、美術としてのブラウザの可能性がここにあります。(参照:Rhizome|リアリナと初期ウェブの物語)

アレクセイ・シュルギンと操作部品の造形

シュルギンの作品では、ウェブを操作するための当たり前の部品が造形表現になります。小さな操作画面から新しい美術が生まれました。

1997年《Form Art》の奇妙な美しさ

モスクワを拠点としたアレクセイ・シュルギンは、1997年に《Form Art》を制作しました。画面に現れるのは、ラジオボタン、チェックボックス、入力欄、送信ボタンといったHTMLの基本的な部品です。アンケートや注文フォームを作るための要素が、意味を伝える実用的な文章から離れ、規則的あるいは奇妙な形で並びます。

鑑賞者は何かの手続きを進めようとする感覚から、ボタンや入力欄の形そのものへ注意を向けることになります。技術的にはごくありふれた部品が、作品の色や線、リズムを生み出しています。高度な画像処理を見せることより、普段意識しないウェブの設計を発見させる実践でした。

フォームの部品は、通常なら目立たず機能することが望まれます。シュルギンはそれらを画面の主役へ移し、情報処理の道具が人間の視覚へどのような印象を与えるかを示しました。(参照:Rhizome《Net Art Anthology》|シュルギン《Form Art》)

フォームは何のためにあるのか

フォームの部品には、何かを選び、入力し、送信するという役割があります。《Form Art》では、その目的がずらされます。ボタンを押す行為が情報処理よりも画面上の出来事として受け取られ、利用者は部品が何を指示しているのか考え始めます。

このような制作は、絵画における画材への関心とも比較できます。絵具の質感や筆触を意識するように、シュルギンはウェブを成立させる最小単位の手触りを扱いました。新しい素材を探すというより、誰もが使っている仕組みの見方を変えることに作品の力があります。

入力する、選択する、決定するという一連の行為は、コンピューターの操作を成り立たせる基本動作です。この作品では、その一つひとつが作家の用意した画面のリズムへ変わっていきます。(参照:Rhizome《Net Art Anthology》|シュルギン《Form Art》)

ブラウザが違えば作品の外観も変わる

HTMLのフォーム部品は、利用するブラウザや基本ソフトによって形が変化します。作家が記述したコードが同じでも、ボタンの大きさ、影、余白、文字の配置などは閲覧環境に影響されます。したがって《Form Art》には、一枚の画像へ完全に固定しにくい特徴があります。

この問題は制作当初から作品に含まれていました。現在のブラウザで開いた画面と、1997年のブラウザで現れた画面は同じようには見えません。古い操作環境を再現する保存方法が、作品の理解に重要になる理由もここにあります。

現在の画面と当時の画面の差は、技術が改善されたという一方向の変化だけで説明できません。旧式の部品の外観や動作が作品の素材だった場合、その変化は造形的な意味にも直接関わります。(参照:Rhizome《Net Art Anthology》|シュルギン《Form Art》)

リンク、コピー、ネットの批評

リンクと複製は、ネットワークを成り立たせる基本的な仕組みです。作家たちはその性質を利用し、作品の範囲や所有の問題を問い直しました。

ヒース・バンティング《_readme》(1998年)

ヒース・バンティングの《_readme》(1998年)は、文章の中のほぼすべての単語を別のウェブサイトへのリンクに変えた作品です。普通なら文章を読むためのページが、そこから別の場所へ出ていくための入口の集まりになります。どの単語を選ぶかによって、鑑賞者が通る道筋は異なります。

リンク先には作者が管理していないサイトも含まれます。時間がたつと、その内容が変わったり、消えたりする可能性があります。作品が一つのページに閉じず、ウェブ全体の変化と関係を結ぶことが、この簡潔な構造から伝わります。

ほぼすべての単語がリンクである文章では、文章を読み続けることと、文章の外へ移動することが常にせめぎ合います。鑑賞者は読む速度だけでなく、移動するかどうかという判断にも関わります。(参照:Rhizome ArtBase|バンティング《_readme》)

ヴク・チョシッチ《Documenta Done》(1997年)

1997年の第10回ドクメンタは専用ウェブサイトを設け、その中でネット作品も紹介しました。展覧会終了後、ヴク・チョシッチはサイトのデータを複製して公開する《Documenta Done》を行いました。主催者が管理する公式サイトの寿命を、別のサーバーへコピーすることで延ばしたのです。

その行為は、単純な保存と批評的な盗用の境界に位置します。展覧会の情報が誰のものであるか、公開されたウェブページを複製してよいのか、公式の展覧会が終わったあとに何を残すのか。ネット作品が登場した初期から、所有と記録をめぐる議論が生じていました。

サイトの複製は、インターネット上で行われる批評そのものでもありました。作品を選んで収めた制度が、何を公開し続けるかについて独占的に決められるのかという疑問がそこにあります。(参照:Rhizome《Net Art Anthology》|チョシッチ《Documenta Done》)

ASCII映像からウェブの複製文化まで

チョシッチは、画像や映像をASCII文字の濃淡へ変換する作品にも取り組みました。映像を滑らかに再現する方向より、文字によって視覚像を作り直す方法を探ったのです。コンピューターの基本的な符号を視覚の素材へ変える姿勢には、JODIやシュルギンとの共通点も見られます。

また、デジタルファイルは複写を重ねても元のデータを必ずしも消費しません。作品の唯一性や版の管理を重んじてきた美術制度に対し、複製の容易さそのものが別の問いを生み出しました。誰がオリジナルを認めるのかという問題が、作品の物質的な状態から公開や管理の制度へ広がります。

ASCIIへの変換は、情報量を減らすことで画像の構造を際立たせる方法でもあります。高精細な映像を目指す技術の流れとは異なる、美術ならではの画像の使い方が現れました。(参照:Rhizome《Net Art Anthology》|チョシッチ《Documenta Done》)

作者の名前を揺さぶるコルネリア・ゾルフランク

デジタル環境では、作者名や作品の数を容易に作り出すことができます。ゾルフランクはその特性を使い、美術館の審査制度そのものへ介入しました。

1997年《Female Extension》の仕掛け

1997年、ハンブルク美術館のネット・アート公募に対し、コルネリア・ゾルフランクは《Female Extension》という企画で介入しました。自動生成したウェブ作品を、多数の架空の女性作家名義で応募したのです。応募数は127件にのぼり、主催側はそれらを実在する応募者の作品として扱いました。

この介入は、公募そのものを作品の舞台にしました。審査員が見るのはウェブページの内容だけなのか、それとも作者の名前や属性によって判断が変わるのか。インターネット上では応募者が実在するかどうかをどう確かめるのか。美術館の制度に対する問いが作品の仕組みとして組み込まれました。

応募者の名簿が実在の作家の数を表しているとは限らないという事実は、ネット上の本人確認の難しさを示しています。主催者が作品と作者をどのような書類で結びつけていたのかも問われました。(参照:Rhizome《Net Art Anthology》|ゾルフランク《Female Extension》)

ネット上の匿名性とジェンダーの問題

《Female Extension》は、技術によって性別が見えなくなるという期待を、そのまま受け入れる作品ではありません。応募者が女性だという情報が大量に現れたとき、美術館や報道がどのように反応するのかを試しました。ジェンダーをめぐる不均衡は、デジタルの場でも審査や評価の仕組みと関わっています。

架空の応募者は本人の肉体を持たない存在ですが、名簿上では一人の作家として扱われます。作者名が作品の価値や流通に与える力を、ネット上の変装を通して可視化しました。美術館の中に作品を置く前から、その制度の運用そのものを美術として問えることが示されます。

この作品が照らし出したのは、ネットに参加する女性作家が少ないという単純な数の問題だけではありません。技術と美術を扱う制度が、どのような属性の作家を想定していたかという認識の問題も含まれます。(参照:Rhizome《Net Art Anthology》|ゾルフランク《Female Extension》)

自動生成するシステムが制作主体になる

ゾルフランクは後に、オンラインの素材を組み合わせる「net.art generator」を発展させました。ここでは作家が画面の細部を一つずつ作る方法に加え、何を集め、どのように組み合わせるかという条件を設定する方法が重要になります。作品の出力は、その仕組みを動かすたびに変化します。

自動生成において作者の役割は消えるわけではありません。作家は生成の規則を選び、どの場面でそれを発表し、何を問題にするのかを決めます。1990年代のネット・アートは、プログラムによって画像やページが生まれることを、作者性や制度批評の問題へ結びつけました。

プログラムに制作を任せる方法は、1960年代のコンピューター・アートともつながります。ネット・アートでは、その生成結果を配布し、評価する制度までが作品の射程へ取り込まれたことに特徴があります。(参照:Rhizome《Net Art Anthology》|ゾルフランク《Female Extension》)

ムンターダスと参加者が作る検閲記録

ウェブは画像を公開するための画面であるとともに、資料を収集し共有する場にもなります。ムンターダスは検閲の記録を蓄積する仕組みを作品にしました。

1994年《The File Room》という公開アーカイブ

アントニ・ムンターダスは1994年、世界各地の検閲事例を集める《The File Room》をシカゴで発表しました。展示会場ではファイルを収める家具が並び、情報へアクセスするためのコンピューターが置かれました。来場者は過去の検閲事例を閲覧し、ネットワークを通じて新しい記録を追加できます。展示室の構造とオンライン上の記録が一つの作品を形作っていました。

最初の展示はランドルフ・ストリート・ギャラリーなどの協力で行われ、1994年5月から9月までの会期に約8万人が訪れたと作品の公式サイトに記録されています。完成画像を掲示するだけのウェブサイトとは異なり、社会の情報が集積し続ける仕組みが作品の中心でした。インターネットが検閲の記憶を共有する場になることを、早い段階で具体化した事例です。

データベースへ集まる情報は、異なる時代や場所の事件を同じ検索画面へ並べます。個別の事件が遠くにある出来事として消えてしまわないよう、アクセスと記録を継続する仕組みが大切でした。(参照:《The File Room》公式アーカイブ|作品の成立と運営)

記録が増えることで変化する作品

《The File Room》では、書物、美術、映画、報道などさまざまな領域の検閲事件が記録されます。どの事例を収録するのかという判断には、作家の視点に加え、協力した人々や参加者の働きが関わります。単一の作者が最終的な内容をすべて決める代わりに、公開された仕組みの中で記録が増えていくのです。

この形式には、美術作品と公共的な資料室が重なる性質があります。作品は展示の終了とともに完結せず、別の場所からアクセスされ、新しい情報が付け加えられていきます。通信とデータベースが制作方法に組み込まれたことで、時間とともに変化する資料の全体を作品として考える可能性が広がりました。

この作品では、作品の成長を支えるのが匿名の参加者である場合もあります。観客が作品の内容へ実際に働きかける点は、同時期の参加型美術にも通じています。(参照:《The File Room》公式アーカイブ|作品の成立と運営)

誰の記憶を集め、誰が維持するのか

検閲の事例を広く集めるという仕組みには、情報の信頼性や分類方法をどう定めるかという課題もあります。公開された記録は、言語、資料の所在、参加できる人々の範囲によって偏りが生じます。アーカイブという形式が中立的に見えても、その設計は何を記録し、何を見落とすかに影響します。

《The File Room》は2001年以降、全米反検閲連盟がサイトの維持を担いました。作家の企画が外部の団体による継続的な管理へ引き継がれることで、作品は美術館の展示期間を超えて活動を続けます。ネット作品では、誰が作品を保存し、運営を支えるかという制度的な関係も作品の寿命を左右します。

検閲を扱う作品が、長く公開されるためには運営費や管理者の仕事が必要です。技術的な仕組みと文化的な使命をどう結びつけるかという問題が、作品の保存と一体になっていました。(参照:《The File Room》公式アーカイブ|作品の成立と運営)

シュー・リー・チェンとネット上の身体

《Brandon》は、ネットワークの技術と社会的な問題が強く結びついた作品です。オンラインの参加が身体とジェンダーの表象へどう関わるかを考えます。

1998–99年《Brandon》の制作

シュー・リー・チェンの《Brandon》(1998–99)は、グッゲンハイム美術館が委嘱した初期のインターネット作品です。1993年に殺害されたトランスジェンダー男性ブランドン・ティーナをめぐる事件から出発し、身体、性別、犯罪、社会の制度を複数の画面と物語によって扱いました。芸術家一人の視点を示す以上に、他者の声や記録が交差する仕組みが重視されています。

作品はHTMLやJavaScript、当時のJava技術、サーバー側のデータベースなどを使い、閲覧者がさまざまな経路から進めるように構成されました。オンラインの投稿や対話に加え、実際の場所で行われた討論や催しもネット上のプロジェクトと結びつきます。インターネットが、鑑賞、社会的な議論、共同制作の場を同時に支えることを示しました。

《Brandon》は、ネットが匿名性を可能にするという期待を無条件に肯定するために作られたわけではありません。社会の中で身体や性別がどのように扱われるかを、技術の構造を通して探る作品でした。(参照:グッゲンハイム美術館|シュー・リー・チェン《Brandon》)

オンラインと実際の会場を横断する

《Brandon》では、アムステルダムなどで行われた催しがウェブ上で記録され、オンラインでの交流と会場での活動が相互に接続されました。ウェブサイトに置かれたページだけを見ても、作品の全体像を把握しきれません。作家が企画したのは、一定期間に人々が参加するための複数の場所と仕組みでした。

この点は、同時期の関係性の美学とも比較できます。食事や会話によって人を集める作品があったのと同時に、ネットワークの向こう側の参加者と討論や資料を共有する作品も生まれていました。制作の場が物理的な建物に限定されなくなることで、表現に関わる人と場所が広がりました。

オンラインの書き込みと対面の催しが結びつくことで、同じ問題を異なる立場から考える機会が生まれます。ウェブは展示室の代用品というより、新しい参加の経路として機能しました。(参照:グッゲンハイム美術館|シュー・リー・チェン《Brandon》)

ジェンダーの表象とデジタルの可変性

《Brandon》の画面には、入れ替わる身体の画像、重層的な文字、移動する入口などが現れます。性別やアイデンティティが一つの固定した分類に収まるとは限らないことを、ウェブの可変的な構造と重ねています。グッゲンハイム美術館は、この作品を技術とジェンダーに対する社会的な前提を問う実践として位置づけています。

同じ事件を扱っても、作品は一方向の説明文にまとめられません。鑑賞者がどのページを開き、どの記録に触れるかによって、事件とその周辺にある社会的な問題が異なる形で現れます。1990年代のネット・アートが視覚的な実験と同時に、他者の表象や尊厳をめぐる問題へ踏み込んでいたことが分かります。

作品が扱う事件の社会的な重みは、画面の実験性と切り離せません。どのような視点から他者の身体や記憶を語るかが、リンクや画像の配置に反映されています。(参照:グッゲンハイム美術館|シュー・リー・チェン《Brandon》)

別のブラウザを作るという抵抗

通常のブラウザとは異なる閲覧道具を作ることで、作家たちはインターネットの見え方そのものを変えました。その実験を具体的な作品から検討します。

I/O/D《The Web Stalker》(1997年)

1997年、I/O/Dは《The Web Stalker》を発表しました。通常のブラウザが文字と画像を読みやすいページへ整えるのに対し、このソフトウェアはウェブのリンク構造やHTMLの関係を異なる形で表示しました。利用者が目にするのは、一般的なホームページとは違うネットワークの姿です。

使い慣れたブラウザを別のものに置き換えると、同じネットワークであっても見え方が変わります。文字や画像が決められた位置に並ぶことを自然な状態と感じていた利用者は、その見た目が特定のソフトウェアの設計によるものだと気づきます。ブラウザそのものの制作が、鑑賞方法を問う行為になりました。

代替ブラウザは、完成した作品を閲覧するための道具であると同時に、道具自体が作品にもなります。この二重の性質が、インターネット・アートの領域をいっそう広げました。(参照:ICC|2002年《アート.ビット コレクション展》作品記録)

マーク・ネイピア《The Shredder》(1998年)

マーク・ネイピアの《The Shredder》(1998年)は、指定されたウェブページを通常のレイアウトから切り離し、文字や画像を断片化した別の画面へ組み替える作品です。鑑賞者は自分でURLを指定し、既存のウェブページが変形する様子を体験できます。普段は情報を理解するための構成が、抽象的な視覚表現へ変化します。

そこでは、ページが本来持っている「正しい表示」が唯一のものだという認識が揺さぶられます。ウェブに保存されたデータと、その表示結果の間にはブラウザの解釈があります。既成のサイトを素材にすることで、作者が一つの完成画面を作る方法とは異なる制作も可能になりました。

ウェブサイトの画像が断片化すると、普段は内容に集中して見落とす文字と画像の物質的な側面に注意が向きます。ページの表示は常に何らかの解釈を経ていることが明らかになります。(参照:ホイットニー美術館|マーク・ネイピアの作品)

インターフェースが人の行動を方向づける

ブラウザは、利用者にどの情報を見せ、どのように移動させるかを設計しています。メニュー、検索欄、スクロール、戻るボタンは便利な機能ですが、それぞれが閲覧の順序や姿勢を決めています。ウェブサイトの構成要素だけでなく、閲覧道具の仕組みまで作品にできることが、初期ネット・アートによって示されました。

代替ブラウザは、技術的な実験であると同時に、日常的な操作の前提を問い直す試みです。企業が提供する標準的なソフトウェアを利用するだけでは見えにくい選択や制約が、別の道具に触れることで可視化されます。この問題は、現在の大規模なオンラインサービスを考える際にもつながっています。

この時代の批評は、インターネットを自由な空間と呼ぶだけでは終わりません。閲覧ソフトを作る企業や、技術の基準を決める人々の影響まで、表現の条件として考える方向へ進みます。(参照:ICC|2002年《アート.ビット コレクション展》作品記録)

ネットワーク上の抗議と政治的行動

ネットワークを使う美術は、現実の政治的な行動とも接続しました。通信の仕組みが集団的な抗議に用いられた歴史をたどります。

1998年《FloodNet》とオンラインの抗議

1998年、電子的な抗議活動に取り組んだエレクトロニック・ディスターバンス・シアターは、《FloodNet》を用いてサパティスタ運動を支援するオンライン行動を企画しました。参加者が同時に特定のウェブサイトへアクセスする仕組みを使い、ネット上での座り込みに似た行動を試みました。通信が社会的な抗議の場にもなり得ることを示した事例です。

この取り組みには、ネットワークに負荷をかけるという方法の是非も含めて論争があります。作品を鑑賞するという経験と、現実の政治的な対象に向けて通信を用いる行為が近づきました。美術史として扱う際には、その政治的な目的と技術的な方法、周囲からの批判を区別して理解する必要があります。

一つの抗議の方法がどのような公共的な意味を持つかは、受け取る側の立場によっても異なります。支持者と批判者の双方が存在した歴史を、作品が置かれた環境とともに説明する必要があります。(参照:Rhizome《Net Art Anthology》|《FloodNet》)

美術と活動を分けて考えられるのか

初期のネット・アートには、絵画や映像のような完成物として示される作品と、ネットワーク上で行われる集団的な活動が共存していました。《FloodNet》のような事例では、抗議の目的を実現するために実際の参加が求められます。その一方で、活動の設計や発表の方法を美術の文脈から検討する人々もいました。

1980年代のエイズ危機ではポスターや公共交通が抗議の場となりました。1990年代末には、電子メールやウェブサイトも政治的な行動に利用されます。表現のための技術と社会的な行動のための技術が交差することで、制作、告知、参加の境界が変化していきました。

街頭へ出ていた政治的な表現がネットへ移ることで、参加の方法も変化しました。人々が離れた場所から行動へ加わることが、作品の規模や意味を変えていきます。(参照:Rhizome《Net Art Anthology》|《FloodNet》)

参加者や通信環境に依存する作品

ネットワーク上の集団的な行動は、参加者が実際に接続する時間や、対象となるサーバーの状態に左右されます。作品を記録した文章や画面が残っていても、当時起きた出来事そのものを後から同じ条件で繰り返すことは難しい場合があります。技術だけでなく社会的な状況まで作品の一部になるためです。

こうした実践は、参加型美術の歴史にも接続できます。鑑賞者が何かを操作するだけで完結する仕組みと、参加者が同時に一つの行動へ関わる仕組みには違いがあります。ネット・アートの多様性を考えるには、その作品が誰に何を求め、何に影響しようとしていたかを具体的に見る必要があります。

保存のためには、当時の通信環境だけでなく、活動が向けられた政治的な状況を説明する資料も重要です。画面の外にある出来事が作品の成立条件だったためです。(参照:Rhizome《Net Art Anthology》|《FloodNet》)

Rhizomeと作品を広めるネットワーク

作品を公開する場所に加えて、作品を広め、議論し、保存する組織も必要になります。Rhizomeはその重要な役割を担いました。

1996年、メーリングリストから始まった組織

1996年、作家のマーク・トライブはRhizomeを設立しました。出発点は、インターネットを使う作家や批評家が交流するメーリングリストでした。美術館の展示室を新設する代わりに、電子メールを通して情報を共有し、作品のURLや展覧会の案内、批評を直接送り合う仕組みが生まれました。

ネット上で作品が公開されると、その作品を見た人が同じネットワーク上で反応を返せます。制作、紹介、批評が近い距離で行われる状況は、既存の雑誌や展覧会とは異なる速度を持っていました。Rhizomeは、そうした作家同士の接続を長期的な文化活動へ育てていきました。

初期のRhizomeの活動を見れば、ネット作品を広める仕組みは大規模な企業だけが作ったものではなかったことが分かります。作家同士の持続的な交流が文化的な基盤になりました。(参照:Rhizome|組織の沿革とネット・アート)

メーリングリストは展示の代わりになったか

メールを通じた交流では、作品そのもののURLと、それをめぐる批評が同じ経路を流れます。利用者が発言を重ねると、話題や評価の基準もそこで形成されていきます。美術館の壁に掛けられた作品を後から批評するだけの構造とは異なる、制作と受容が同時進行する環境でした。

その自由さには条件もあります。参加するためにはメールを使えること、議論の言語を理解すること、技術的な情報へアクセスできることが必要でした。ネットワークは新たな表現の場になると同時に、誰がその場に入れるのかという問題も抱えています。

一人の作品について多くの人がすぐ意見を交わすようになれば、作家が他者の見方を知る速度も変わります。批評の成立する場所と時期が、従来の展覧会中心の制度から広がりました。(参照:Rhizome|組織の沿革とネット・アート)

1999年、ArtBaseが保存を始める

Rhizomeは1999年にArtBaseを立ち上げ、ネット上に生まれた作品を保存する取り組みを進めました。作品をRhizomeの管理する場所へ複製する方法と、作家の公開する作品へリンクする方法などが使われました。ネット作品は更新や公開停止が起こりやすく、通常の収蔵台帳と同じ形式で管理し続けることが難しかったためです。

ArtBaseの意義は、作品名や作家名の一覧を作ることに加え、その時点のURL、利用環境、データの状態を記録してきた点にあります。長期保存の取り組みが始まることで、短命に見えたオンラインの実験が、美術史の資料として受け継がれる可能性も広がりました。

アーカイブの仕事は、作品が話題になった時点の評価だけに左右されず、後の研究者がたどれる記録を確保することです。短期間で消えてしまう可能性を持つウェブ作品には、特に重要な仕事でした。(参照:Rhizome ArtBase|アーカイブの概要)

ドクメンタとZKMがネット作品を展示する

大規模な現代美術展がネット作品を取り入れると、オンラインの制作と美術館の制度が出会います。その接点から展示の意味も変化しました。

1997年、第10回ドクメンタのウェブサイト

1997年、カトリーヌ・ダヴィッドが芸術監督を務めた第10回ドクメンタは、展覧会のための公式ウェブサイトを開設しました。ドクメンタの記録によれば、専用サイトを設けた最初の回であり、シモン・ラムニエールが企画したウェブサイトにはJODI、ヒース・バンティング、アントニ・ムンターダスらのプロジェクトも含まれました。

サイトの内容はCD-ROMとしても発行されました。ウェブ上の作品を物理的な媒体に記録することで、オンライン展示と保存の関係が早くから問題になっていたことが分かります。美術展の公式サイトは、開催情報を知らせる広報手段から作品を発表する場所へと広がっていきました。

CD-ROMに収められた情報は、ウェブへ直接接続しない状態でも閲覧できました。オンラインで発生した作品を別の媒体へ移すという行為は、公開と保存の両方に新しい課題を生みました。(参照:ドクメンタ|1997年第10回展のウェブサイトとCD-ROM)

1999年、ZKM《net_condition》が問うたこと

ドイツのカールスルーエにあるZKMでは、1999年9月23日から2000年2月27日まで《net_condition》が開催されました。ネットワークが人々の生活や情報のやり取りを変えつつある状況を、美術の問題として扱う企画でした。インターネットそのものの通信や社会的な影響を、美術館が継続的に研究し紹介する場が形成されます。

ウェブ作品を館内に展示すると、観客は美術館に設置されたコンピューターから作品へアクセスすることになります。自宅のブラウザで自由に見る行為が、公共の展示室で順番を待って操作する経験へ変わります。どのような環境でウェブ作品を見せるのかが、作品の意味にも影響するようになりました。

大規模美術館でネット作品を紹介する場合、会場の開館時間や利用規則が、普段の自由なウェブ閲覧とは異なる条件を作ります。その差をどう扱うかという問いが、展覧会の構成そのものに現れました。(参照:ZKM|《net_condition》1999–2000年)

ジェフリー・ショー《The Net.Art Browser》

ジェフリー・ショーが1999年に制作した《The Net.Art Browser》では、モニターが美術館の壁に沿ったレール上を移動します。壁面には作家名とURLが示され、観客が選ぶ位置にモニターが移動すると、対応するウェブサイトが表示されます。普段は個人のコンピューターで行うウェブ閲覧が、ほかの人にも見える展示室の出来事になりました。

この仕組みは、ネット上に存在する作品を美術館のどこへ置くのかという問いを、装置の動きとして見せています。物体として運び込めないウェブ作品を、壁面の特定の場所へ結びつけたのです。作品はオンラインに存在しながら、鑑賞方法によって別の空間的な経験を得ています。

モニターが壁沿いに移動する装置は、オンラインで生まれた美術を従来の展示室の中へ移すことの難しさを可視化しています。技術的な実験であり、同時に展示についての批評にもなりました。(参照:ZKM|ジェフリー・ショー《The Net.Art Browser》)

ホイットニー美術館と共同制作の収蔵

アメリカの美術館では、共同制作するウェブ作品の収蔵とオンライン展示が進みました。作品を誰が所有し、どこで見せるかという問題が浮上します。

1994年《世界初の共同制作による文章》

ダグラス・デイヴィスの《The World’s First Collaborative Sentence》は、1994年に公開されたオンラインの共同制作です。訪問者は、終わりのない一つの文章に自分の言葉や画像を付け加えることができました。文章を作った作者が一人だけいるのではなく、インターネットを通して多数の参加者が作品を成長させます。

ホイットニー美術館は1995年にこの作品の寄贈を受けました。作品はレーマン・カレッジのウェブサイトで維持されながら、美術館が収蔵するという複雑な状態にありました。2000年代に動作上の問題が生じ、後年には美術館が保存と修復に取り組みました。公開され続ける作品を所有し保存するとはどういうことかを考えさせる事例です。

作品に参加した人々の言葉が次々に加わると、作者の望んだ方向とは異なる内容も現れます。その予測しにくさを受け入れることが、公開された共同制作の一つの条件でした。(参照:ホイットニー美術館|デイヴィス《The World’s First Collaborative Sentence》)

2000年ホイットニー・ビエンナーレとネット作品

2000年のホイットニー・ビエンナーレには、ネット・アートの部門が設けられました。マーク・アメリカ、ケン・ゴールドバーグ、RTMark、ジョン・F・サイモン・ジュニアら、インターネットを使う作家たちの作品が紹介されています。従来の絵画や彫刻の並ぶ大規模展に、ウェブ上の制作が明確な形で位置づけられた出来事でした。

それまで作家自身のサイトや小規模なオンラインのつながりで紹介されていた作品が、アメリカ美術の動向を示す美術館の企画に入るようになります。選定された作品は国際的に知られる機会を得ますが、同時に誰がネット・アートの代表として選ばれるのかという制度の問題も生まれます。

ビエンナーレで選ばれた作品は一般の美術愛好家にも知られる機会を得ます。作品の選定は、ネット文化を美術史として整理していく役割を持つと同時に、見落とされる実践を生み出す可能性もあります。(参照:ホイットニー美術館|2000年・2002年のネット作品展)

2001年artportが美術館サイトを展示場所にする

ホイットニー美術館は2001年にオンライン展示のためのartportを開始しました。美術館の公式ウェブサイトが開館案内や収蔵作品の情報を示す場に加えて、作家の作品を委嘱し公開する場所になります。2001年からは作家が入口ページを制作する「Gate Pages」も展開しました。

入口ページが作家の作品や外部サイトへの経路になることで、リンクの設定そのものが展示の構成に関わります。ウェブ上に作品を収めようとする美術館と、館外のネットワークへ観客を送り出す仕組みが同じ場所に生まれました。従来の建物に加え、ウェブサイトも美術館活動の一部になっていきます。

美術館のウェブサイトそのものを展示空間として使う発想は、後のオンライン展示にもつながりました。作品を通して外部サイトへ移動する経験を受け入れることが、展示と広報の境界を変えます。(参照:ホイットニー美術館|artportの歴史)

2001年前後、作品はデータやソフトウェアへ広がる

2001年前後には、ウェブページの外観だけでなく、変化するデータやネットワーク全体を扱う作品が増えました。大規模展の事例から見ていきます。

SFMOMA《010101》が美術館とウェブをつなぐ

2001年、サンフランシスコ近代美術館は《010101: Art in Technological Times》を開催しました。オンラインでは1月1日からウェブ作品を公開し、館内の展示は3月3日から7月8日まで行われました。約35組の作家やデザイナーを通じて、デジタル技術が美術、建築、デザインに及ぼす変化を幅広く扱った展覧会です。

この企画では、オンラインの作品が館内展示の宣伝材料として付け加えられたのではありません。ウェブ上に公開された作品と、美術館の展示室に置かれたインスタレーションや映像が、一つの展覧会を構成しました。作品が存在する場所が複数になり、観客のアクセス経路も広がっていきます。

物理会場とオンラインの公開日が異なることにも、この時代の特徴が表れています。展覧会は、建物が開く日より前にネット上で始まることができるようになりました。(参照:サンフランシスコ近代美術館|《010101》)

《Data Dynamics》と変化し続ける情報

同じ2001年、ホイットニー美術館は《Data Dynamics》を開催しました。マレク・ヴァルチャクとマーティン・ワッテンバーグ、マーク・ネイピアらのネット作品を通して、絶えず変化するデータや情報を視覚化し、移動する方法が紹介されました。インターネットの作品がHTMLの画面構成から、情報の流れを扱う方法へ広がっていった時期です。

作家が用意した固定したページを順に表示する代わりに、外部から取得する情報や利用者の選択によって画面が変わる作品が増えていきます。作品は表示される一場面よりも、その場面を作り出す仕組みの中に存在します。美術館での展示と保存にとっても、データの更新や外部との接続が重要な条件になりました。

データは社会の現実をそのまま映す透明な材料ではありません。何を集め、どう分類し、どのような図像へ変換するかという判断が、作品の内容そのものを決めていきます。(参照:ホイットニー美術館|《Data Dynamics》展)

リサ・イェヴブラット《1:1》とウェブの地図

リサ・イェヴブラットの《1:1》(1999年)は、ウェブのIPアドレスを調査し、膨大なネットワークの空間を視覚化した作品です。私たちが通常見ているのは、検索結果や分かりやすいドメイン名から構成されたウェブの表面です。この作品では、ネットワークを別の単位からたどることで、その見え方が変化します。

《1:1》は2002年のホイットニー・ビエンナーレでも紹介されました。ネット空間の地図を描くという行為は、どこまでを一つの場所とみなすか、何を可視化するかを同時に問います。インターネットの情報構造そのものを観察し、その仕組みを美術として考える方向が鮮明になります。

日本でも1999年にはエキソニモが《DISCODER》を制作し、HTMLの表示構造そのものに介入しました。2002年のICC《アート.ビット コレクション展》では、この作品に加えてJODI《OSS》やI/O/D《The Web Stalker》が紹介されています。これは日本で同時代の作品がどのように検討されたかを知る具体的な記録です。国際美術界全体の中心的機関としてICCを位置づけるより、こうした一次的な展示履歴を手がかりに日本の動向を確認することが適切でしょう。

ウェブのIPアドレスを扱う作品は、普段のウェブ利用では見えない技術的な地理を示します。場所を表示するという一見客観的な操作にも、見せる側の選択が含まれることが分かります。(参照:ホイットニー美術館|イェヴブラット《1:1》)

壊れていくウェブ作品をどう保存するか

ネット作品のデータは残っていても、作られた当時と同じようには動かないことがあります。保存の歴史を通して、作品を残す意味を考えます。

リンク切れと古いソフトウェアの問題

ウェブ作品は公開から年月がたつにつれ、当初の状態で動かなくなる場合があります。使われていたブラウザの機能が廃止され、外部サイトが閉鎖され、プラグインやサーバーのプログラムも変化します。作品のHTMLファイルが残っていても、リンク先や操作画面が失われれば、かつての鑑賞経験を再現しにくくなります。

美術館が絵画を保存するときには、絵具や支持体の状態を調べます。ネット作品では、それに相当する範囲が作品のデータだけに収まりません。通信環境、利用したソフトウェア、作家が前提にした閲覧方法、観客の参加する仕組みまで記録する必要が生まれました。

リンクが切れたときに過去のページへ差し替えることは、鑑賞者の利便性を高めます。作品によっては切れた状態も歴史的な証拠になるため、保存には一律の修復方法を当てはめにくい問題があります。(参照:Rhizome ArtBase|アーカイブの概要)

エミュレーションと複数の状態を残す方法

デジタル作品の保存では、古い基本ソフトやブラウザに近い環境を再現して動かす方法が利用されます。《Form Art》のように標準的な入力部品の見た目が重要な作品では、新しいブラウザで表示するだけでは制作当時の感覚が伝わりにくいためです。ソフトウェア環境を再現することは、作品の技術的な条件を研究することでもあります。

また、作品には作家自身による更新版、アーカイブ用の複製、修復後の動作版など、複数の状態が存在することがあります。RhizomeのArtBaseはこうした異なる状態を記録する方法も模索してきました。どの状態が唯一の正解かを急いで決めるより、作品がどのように変化してきたかをたどれることが重要になります。

作品の異なる版が並んで残されれば、技術と鑑賞方法が変わった歴史も追えます。保存は最初の画面を再現するだけの作業から、制作の変化を記録する仕事へと広がります。(参照:Rhizome ArtBase|アーカイブの概要)

《Brandon》の修復が示した保存の難しさ

《Brandon》はその後、古いJavaの機能や画面の動きが正常に働かなくなり、一部のページへアクセスできなくなりました。グッゲンハイム美術館は2016年から2017年にかけて修復に取り組み、表示や操作を再び可能にしました。旧来の技術を現在の仕組みへ置き換える際には、変更点を記録し、以前の状態を保存する措置も取られました。

この修復は、デジタル作品が物理的な形を持たないから保存が容易だという考えを改めさせます。画面の見た目、利用者の操作、コードの構造、外部との通信には、それぞれ守るべき要素があります。何を残し、何を更新するかという判断そのものが、美術館による解釈と研究の仕事になります。

修復後の作品が機能しても、それが制作当時の全経験と同じであるとは限りません。変更した箇所を記録し、なぜその方法を選んだかを後から検証できるようにすることが重要です。(参照:グッゲンハイム美術館|《Brandon》の2017年修復記録)

2003年、その後へ続く作品と制度

ネット・アートは2003年までに美術館の研究と保存の対象として位置づけられるようになりました。その成果が次の時代へ残した問題を整理します。

誰が作り、誰が所有する作品なのか

初期ネット・アートでは、作家自身がHTMLを書く場合もあれば、プログラムがページを生成し、鑑賞者が文章を追加する場合もありました。《The World’s First Collaborative Sentence》のように、作品が多数の参加者によって増え続ける例もあります。作者の名は残っていても、最終的な内容は作家だけの手で完結しません。

所有の問題も複雑です。誰もがアクセスできる公開ページであっても、作品に関する権利や保存責任を美術館が引き受けることがあります。ウェブの自由な複製と、美術館による収蔵は互いに影響し合いながら、作品を受け継ぐ新しい方法を生み出していきました。

美術館が所蔵する対象は、ソースコード、サーバーの記録、実行環境、契約や指示書など、複数の要素へ広がります。新しい所有形態は作品の公開と保存を続ける責任とも結びついています。(参照:ホイットニー美術館|デイヴィス《The World’s First Collaborative Sentence》)

2003年、Rhizomeとニューミュージアム

2003年、Rhizomeはニューヨークのニューミュージアムと提携し、同館の関連組織となりました。1996年に電子メールの交流から始まった活動が、現代美術館と継続的な関係を持つ段階へ入ったのです。作品の保存、研究、展覧会、委嘱制作を続けるための制度的な基盤が整えられていきました。

この動きは、ネット作品が美術制度に受け入れられたことを示すとともに、制度の側にも新しい役割を要求しました。美術館はウェブ作品の技術的な維持や、変化するオンライン環境を調査しなければなりません。作品の存在場所が広がったことで、文化を保存する仕事の内容も変わったのです。

ネットの外から収蔵品を展示してきた美術館が、ネットの技術を内部で扱い、保守する組織へと変わっていきます。Rhizomeとニューミュージアムの接続は、そうした長期的な変化を示す節目です。(参照:ニューミュージアム|2003年Rhizomeの提携記録)

初期ネット・アートが残した問い

2000年代半ば以降、ウェブの利用はブログや動画共有サービス、大規模な企業プラットフォームを中心とする方向へ変化していきます。作家が独自のHTMLページを作ることに加え、既存のサービスや利用規則、ネット上に流通する画像を素材とする新しい実践も広がりました。1990年代の作品は、その後の変化を理解するための歴史的な手がかりとなります。

JODIが示したブラウザの不安定さ、リアリナが作ったリンクによる物語、ムンターダスの共同アーカイブ、シュー・リー・チェンの参加型ウェブ作品、Rhizomeの保存活動は、現在にも続く問題をそれぞれ異なる形で提起しました。作品はどこにあり、誰が操作し、誰が所有し、どう残すのか。インターネット・アートの登場は、その問いを現代美術の中心へ持ち込んだのです。

初期の作家たちの問いは、技術が古くなっても消えていません。インターネットに流通する画像や情報をどのように見せ、誰がその環境を管理するのかという問題が、次の時代へ引き継がれました。(参照:Rhizome|組織の沿革とネット・アート)

略年表|1993–2003年を中心に

技術の一般普及と、作家の制作、展覧会、美術館による収蔵は、互いに重なりながら進みました。ここでは前史の1989年から、Rhizomeがニューミュージアムと提携する2003年までの主要な節目を整理します。

  • 1989年|CERNでティム・バーナーズ=リーがワールド・ワイド・ウェブを提案
  • 1991年|ニューヨークでヴォルフガング・シュテーレが電子掲示板《The Thing》を開始
  • 1993年|4月30日、CERNがウェブの主要ソフトウェアを自由利用可能にする
  • 1993年|NCSAがグラフィカルなブラウザMosaicを公開
  • 1994年|ムンターダス《The File Room》がシカゴで公開される
  • 1994年|ダグラス・デイヴィス《The World’s First Collaborative Sentence》開始
  • 1995年|JODIがウェブのコードと画面を用いた実験を展開
  • 1995年|ホイットニー美術館がデイヴィスの共同制作作品の寄贈を受ける
  • 1996年|オリア・リアリナ《My Boyfriend Came Back from the War》公開
  • 1996年|トリエステで《Net.art per se》が開催される
  • 1996年|マーク・トライブがRhizomeを設立
  • 1997年|シュルギン《Form Art》、I/O/D《The Web Stalker》が登場
  • 1997年|ゾルフランク《Female Extension》がハンブルクのネット美術公募へ介入
  • 1997年|第10回ドクメンタが専用ウェブサイトでネット作品を紹介
  • 1997年|ヴク・チョシッチ《Documenta Done》
  • 1998年|バンティング《_readme》、ネイピア《The Shredder》
  • 1998年|エレクトロニック・ディスターバンス・シアター《FloodNet》
  • 1998–99年|グッゲンハイム美術館が委嘱したシュー・リー・チェン《Brandon》公開
  • 1999年|Rhizome ArtBaseが始まる
  • 1999年|ZKM《net_condition》、ショー《The Net.Art Browser》
  • 1999年|リサ・イェヴブラット《1:1》、エキソニモ《DISCODER》
  • 2000年|ホイットニー・ビエンナーレにネット・アート部門が設けられる
  • 2001年|SFMOMA《010101》、ホイットニー《Data Dynamics》、artportの開始
  • 2002年|ホイットニー・ビエンナーレとICC《アート.ビット コレクション展》
  • 2003年|Rhizomeがニューミュージアムの関連組織となる

まとめ|ウェブは作品の形をどう変えたか

1993年、ウェブの主要技術が広く利用できるようになったことで、ネットワークは美術家にとって新しい制作環境となりました。JODIは画面とコードの関係を揺さぶり、リアリナはリンクとフレームで物語を作り、シュルギンは入力フォームを造形素材に変えました。初期ネット・アートの作品は、何を見せるかという問題と、どう表示され、操作されるかという問題を一緒に考えさせます。

同じ技術は、共同制作や社会的な活動にも使われました。ムンターダス《The File Room》は検閲の記録を蓄積する仕組みを作り、シュー・リー・チェン《Brandon》はウェブを使ってジェンダーの表象と複数の人々の参加を結びつけました。Rhizomeや《The Thing》の活動は、作品の発表と議論が同じネットワークで行われる文化を育てました。

ドクメンタ、ZKM、ホイットニー美術館、グッゲンハイム美術館などがネット作品を展示・委嘱・収蔵するにつれて、新しい課題も明らかになります。作品はサーバーやブラウザの変化に影響され、参加者の行動によって内容が増え、リンク先が消えれば異なる姿になります。2003年にRhizomeがニューミュージアムと提携したことは、初期の自由な実験を研究し保存する制度が育っていった一つの節目でした。

インターネット・アートがもたらした変化は、コンピューターの画面に作品を表示できるようになったことにとどまりません。リンク、コード、通信、時間、観客、他者の書き込み、作品を維持する人々の仕事までが、制作と鑑賞の条件として見えるようになりました。その問いは、ネット上の画像と情報がさらに広く流通する2000年代以降の美術へ受け継がれていきます。

参考資料・出典

本記事は、CERN、ニューヨーク近代美術館、ホイットニー美術館、グッゲンハイム美術館、ZKM、ドクメンタ、Rhizome、ニューミュージアム、作家自身の公式アーカイブ等に基づき、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。1990年代に制作された作品の年代と、後年に行われた修復や歴史的研究の年代は区別しています。

資料確認日:2026年10月15日 / ART LIBRARY