紀元前4500–1600
新石器時代から青銅器時代へ
西ヨーロッパの巨石建造物
紀元前5千年紀の西ヨーロッパでは、海沿いの平野や河川の流域に農耕と牧畜を営む集落が広がっていました。森を切り開いて畑を作り、牛や羊を飼い、陶器や磨製石斧を用いる暮らしが地域ごとに定着していきます。大西洋岸には花崗岩や砂岩の岩盤が露出する土地が多く、海を隔てた島々へ渡る航海も行われていました。人々は身近な岩から大きな石を切り離し、立て、積み、土や細かな石で覆うようになります。
最初期の大型墳丘や立石が現れたフランス西部から、イベリア半島、アイルランド、ブリテン島北部へと目を向けると、使われた石材も建物の形も異なります。墓室へ通路を設ける建造物があり、長い列や円形に石を並べる場所がありました。紀元前3千年紀には石の組立てが大規模になり、後から石の位置を移したり、新しい墳丘を築いたりした例も残ります。土の中の炭や動物の骨、石を据えた穴、積み直しの跡を調べることで、数百年に及ぶ建造の順序が少しずつ復元されてきました。
目次
石と土を使う新石器時代の建築
岩盤・湿地の土・石斧|建築材を集める
ブルターニュの大きな墳丘には、近くの岩盤から取り出した石材と、湿地から運んだ土を組み合わせた例があります。ロクマリアケールのエル=グラ墳丘では、土を塊のまま運び重ねた層からコケが確認され、土の中には土器や火打石の破片も混じっていました。湿地にあった古い地表を切り取り、建造物の内側へ運んだことが、土塊に残る植物の重なりから調べられています。
周辺の石積みには、海岸に転がっていた丸い石や、岩盤の自然な割れ目に沿って外した石が使われました。石を切り離す作業には鹿角で作ったつるはしのような道具も使われています。ブルターニュ中部のプリュスリエンでは、硬いドレライトを割り、磨製石斧を作るための岩盤の加工も確認されています。巨大な板石を持ち上げる木製の道具はほとんど残りませんが、石を据えた穴や周囲を固めた砕石が、建設の順序を伝えています。(参照:フランス文化省考古学資料|ブルターニュの石材・石器・加工技術)
メンヒル・ドルメン・ケルン|形の違う石造施設
一本の大きな立石は「メンヒル」、複数の立石を長く並べたものは「列石」と呼ばれます。柱石に天井の板石を載せた墓室が「ドルメン」で、そこへ細長い入口を設けた形式は「通路墓」です。小石を積んで墓室の周りを覆うものは「ケルン」、土で盛った墳丘もあります。石の輪に土手と溝が加わるブリテン島の「ヘンジ」は、墓室と違い開いた空間を囲む施設です。
現在、柱と天井板だけが露出しているドルメンも、築造当初は石や土の覆いに包まれていた例が多くあります。墓が壊れて大きな板石だけが残ると、外から見える形は建造時と変わります。石造物の用途を考える際には、石の配置に加え、覆いの痕跡と人骨・土器が実際に見つかった位置が確かめられています。(参照:フランス国立記念物センター|巨石建造物の種類とカルナックの年代、ユネスコ世界遺産センター|カルナックとモルビアン沿岸の巨石群)
年代を決める資料|石の下と上を区別する
石そのものを放射性炭素で測って築造年を割り出すことはできません。考古学者は石を支える穴の中で使われた木や骨、墓室の床に残された焼けたもの、墳丘に埋め込まれた古い地表の炭を調べます。石を立てる前から土にあった炭なら、得られた年代は築造より古い活動を示します。墓室に後から納めた遺骨なら、最初の建設より新しい埋葬になる可能性があります。
測定値は、土の層が重なった順序や土器の形による前後関係と照合されます。一本の木の古い中心部を燃やした場合、炭の年代は燃やした時期より古く出ることもあります。また、墓を覆う土に混じった石器が、その場で作られた物とは限りません。発掘位置を記録し、複数の試料を比較してから、建築の始まりと増築・閉鎖の時期に幅を設けて示すのが現在の年代研究の基本です。(参照:ベッティーナ・シュルツ=パウルソン(2019年)|巨石墓の年代と海上交流モデル、ドイツ考古学研究所・ノートロフ(2019年)|巨石墓の伝播説と対象の限定)
カルナック|地形に沿って続く列石
ル・メネック、ケルマリオ、ケルレスカン
フランスのブルターニュ南部、カルナックの立石群は、ル・メネック、ケルマリオ、ケルレスカンなど複数の区画に分かれ、東西方向に約4キロメートルにわたって続きます。一本ずつ石の大きさを揃えた直線ではなく、何列もの石が土地の起伏に沿い、ところどころで円弧状の囲いと結び付きます。ケルマリオには背の高い立石が集中し、ケルレスカンには列石の端に馬蹄形の囲いがあります。
長い軸線に沿って立ち並ぶ石の周囲には、古い墓と小さな墳丘も存在します。高い場所に大きな石を据え、下り斜面へ向けて背丈の違う石を並べる部分が見られます。こうした地形への対応を、フランス国立記念物センターは設計の特徴として説明しています。列石に関係する周辺遺構では、紀元前4800〜3500年頃に収まる年代資料が多く報告され、現在は紀元前4500〜3500年頃を中心とする複数段階の建造が考えられています。(参照:フランス国立記念物センター|カルナックの列石群と地形、フランス国立記念物センター|カルナック列石群の歴史、フランス国立記念物センター|巨石建造物の種類とカルナックの年代)
立てられた石と後世に起こされた石
カルナックで見える多くの立石は、長い時間に倒れたり、農地を区切る石垣に取り込まれたりしました。19世紀後半から測量・保存活動が始まり、1880〜1890年代には倒れた石を多数起こし直しています。1920〜1930年代、ザカリー・ル・ルジックは修復に関わった石の一部へ赤褐色のモルタル印を付けました。現在の整った列には古代の配置を残す箇所と、調査に基づいて復元された箇所が共存します。
石の列が完成するまでの期間にも複数の可能性があります。多くの人が短期間に立てたのか、小さな集団が節目ごとに石を追加したのかを、列石だけから決める資料は揃っていません。周辺の古い墳丘に新しい列が重なる部分もあり、地面に見える一直線を一回の建設工事として扱うと、古い遺構との関係が失われます。(参照:フランス国立記念物センター|カルナック列石群の歴史)
ロクマリアケール|長さ20メートルの巨大立石
モルビアン湾に面するロクマリアケールには「割れた大立石」と呼ばれる巨石が四つの破片になって横たわっています。もとは長さ20メートルを超え、推定重量は約280トンに及びました。材質は縞状の組織を持つオーソグナイスという変成岩で、近くの地質分布から採石場所は少なくとも十キロメートルほど離れた場所と考えられています。表面には小さな打撃を重ねた整形痕があり、中央の破片には柄付きの斧とも鋤とも読まれる大きな輪郭が刻まれています。
大立石の根元から北へ約55メートルの範囲には、別の石を据えたとみられる18基の穴が並びます。穴の大きさは次第に小さくなり、複数の立石が列を作っていたことを示します。遺構は新石器時代のうちに解体された可能性が高く、巨石が雷・地震・人の手のどれで倒れたかは決着していません。石を運んだ方法にも陸上での木材利用と水路の利用が提案されています。(参照:フランス文化省考古学資料|ロクマリアケールの巨大立石と基礎穴、フランス文化省考古学資料|ブルターニュの石材・石器・加工技術)
サン=ミシェル墳丘|磨いた石斧と緑色の珠
カルナックのサン=ミシェル墳丘の中心には、内側が約2.4×1.4メートル、高さ約0.9メートルの小さな墓室がありました。粗い石を積んだ壁の上に巨大な板石を載せた構造です。墓からは大きく磨かれた石斧の刃が11点、小型を含む繊維状鉱物製の石斧25点、緑色のバリサイトで作った円板形の珠97点、洋梨形の垂飾10点などが報告されました。斧の中には長さ37センチに及ぶものがあります。
緑色石の珠と磨製斧がまとまって納められた状態は、当時の材料の選別と研磨の精度を物語ります。シュルツ=パウルソン(2019年)は墳丘の初期段階を紀元前4800〜4600年頃に位置付けました。古い試料の測定結果には散らばりがあり、墳丘の増築段階と各墓室の順序には検討の余地が残ります。副葬品の集中から被葬者の特別な立場を考える研究はありますが、誰が埋葬されたかを示す文字資料はありません。(参照:フランス文化省考古学資料|サン=ミシェル墳丘の石斧と装身具、ベッティーナ・シュルツ=パウルソン(2019年)|巨石墓の年代と海上交流モデル)
バルヌネズ|通路墓を包む大きな石積み
十一の小さな墓室を持つ長いケルン
ブルターニュ北部、モルレー湾を望む岬にはバルヌネズの巨大な石積み墳丘があります。全長はおよそ72〜75メートル、幅は場所によって13〜28メートル、現存する高さは約6メートルです。内部には十一の墓室があり、それぞれへ外側から細い通路が伸びています。最も古い部分は紀元前4500年頃までさかのぼるとされ、複数の墓を長期間かけて一つの大きな外形へ包み込んでいきました。
通路の壁には縦に据えた大きな板石を使う例があり、別の墓室には小石を少しずつ内側へ張り出して天井を閉じる「持ち送り」の石積みがあります。花崗岩と暗色のドレライトが使い分けられ、墳丘の正面には石材の色の切り替わりが生まれました。大きさの違う石を無数に積みながら、墓室の空洞を保つように造った建築です。(参照:フランス国立記念物センター|バルヌネズの寸法・11基の通路墓、フランス国立記念物センター|バルヌネズの発掘と建造段階)
増築が変えた正面の色と通路の長さ
ピエール=ロラン・ジオは1960年代の発掘から、東側のケルンに西側のケルンを付け加えた二段階の構造を考えました。フランス国立記念物センターが示す近年の建築調査では、小規模な円形墳丘が散在した段階、二つの長い墳丘へまとめた段階、全体を接続した段階という三つの大きな変化が復元されています。増築の際に入口を外側へ延ばした墓室もあり、墓の使われ方と墳丘の外観が連動して変化しました。
二つの長い墳丘の正面は初め、東側で明るい花崗岩、西側で暗色のドレライトが目立っていました。最後に外側の石積みを整えたとき、色の配置は入れ替わっています。内部の墓室が増えるだけでなく、人が海から見上げる正面の色や輪郭まで改められたという調査結果です。(参照:フランス国立記念物センター|バルヌネズの発掘と建造段階)
採石による破損と発掘で見えた構造
バルヌネズは20世紀半ば、石材の採掘で墳丘の一部が削られ、墓室の背後が露出したことから大規模な保存・発掘が進みました。外側の石積みが破れた場所では、重い覆いの内側に通路と墓室を独立させた造りが直接確認できます。日常の家屋が木材や土を主材とした時代、死者のための建物には大量の石を運び、長期に維持できるように組み合わせていました。
保護後の調査は、外側から一つの巨石墓に見える建物の中に異なる時期の小さな墓が取り込まれていることを示しました。墓を追加した段階の特定は、積石の接し方、入口の延長部分、石材の違いを検討して行います。覆いを取り払って部屋の形だけを見ると失われやすい、建物全体の歴史です。(参照:フランス国立記念物センター|バルヌネズの発掘と建造段階、フランス国立記念物センター|バルヌネズの寸法・11基の通路墓)
ガヴリニス|石板を埋め尽くす線刻
十三メートルの通路と小さな墓室
モルビアン湾の島にあるガヴリニスでは、紀元前4千年紀の石積みの中に細い通路が通っています。通路は長さ13メートルを超え、幅は約0.8メートル、高さはおおむね1.5メートルです。両壁には片側12枚、反対側11枚の柱石が並び、九枚の天井板を受けています。奥の墓室は長さ2.55メートル、幅2.1〜2.45メートル、高さ約1.7メートルで、床には大きな一枚石が敷かれました。
細い入口から奥の小部屋へ至る空間は、四角い積石の覆いの中に造られ、その外側にさらに石と砂が盛り足されています。柱石の上端を削って高さを調整し、天井板が安定して載るようにした部分が確認されています。墓室が全体の巨大な石積みに比べて小さいことから、室内での埋葬に加え、長い通路を使った出入りにも関心が向けられています。(参照:フランス文化省考古学資料|ガヴリニス墓室と通路の内部構造)
第8石板|斧、渦巻く線、蛇状の記号
ガヴリニスの通路右壁、第8・第9石板には、細い輪郭を幾重にも重ねた線刻が密集しています。第8石板では横線が画面を上下に分け、下側に二つの盾形の輪郭、その下に斧の刃を二つ寄せた形、頭の膨らむ蛇状の三つの記号、小さな柄付き斧が続きます。中央部に重ねた線は岩面の起伏を包み込むように広がり、形の内側と外側を視覚的に切り替えます。
フランス文化省の解説では、盾形を人物や権威の記号に、蛇状の形を地中の力に結び付ける読みも紹介されています。石板にどの線が刻まれているかは観察できますが、線が神名や特定の物語を表すかどうかは研究者の解釈に属します。岩の表面を細かく打って溝を作る技術と、線の意味をめぐる議論は分けて考えられています。(参照:フランス文化省考古学資料|ガヴリニス第8石板の線刻)
裏側の彫刻が伝える石柱の再利用
ガヴリニスの墓室天井板の上面には、墓の内側からは見えない動物と巨大な斧状の形が刻まれています。近隣ロクマリアケールの「商人のテーブル」と呼ばれる通路墓の天井板に残る曲線とつながり、角を大きく曲げた牛の姿を復元できる部分があります。二つの板石は、もとは長さ約14メートルに及んだと推定される一本の装飾石柱から切り出されたという研究が示されています。
ガヴリニスへ運ばれた破片は、商人のテーブルから直線で4キロメートル以上離れています。墓の天井になってから見えなくなった線があるため、少なくとも一部の彫刻は墓室の建造より先に作られました。柱石の後面や床下に隠れた古い文様も見つかり、古い立石を割って建築材とし、必要に応じて再加工した工程が明らかになっています。どの事件や儀礼によって古い石柱が壊されたかは不明です。(参照:フランス文化省考古学資料|ガヴリニスと商人のテーブルの破断した石柱、フランス文化省考古学資料|墓室に隠された古い彫刻)
覆いを足して入口を閉ざした時期
ガヴリニスでは、最初に造られた角の丸い方形の石積みの外側に、のちに大量の石と砂が追加されました。後から足した層は入口の前にも厚く積まれ、通路をふさいでいます。入口前の古い地表では木柱の根元と焼けた石・灰が見つかり、その焼失活動に関わる炭の分析から、紀元前3400〜2900年頃という広い時期が報告されています。これは燃えたものの年代であり、最初に墓室の石を据えた年を直接測った結果ではありません。
石積みの下部からは、紀元前4200年頃以降に利用された種類の石器の破片も見つかりました。建設に使われた石材の多くは島周辺の花崗岩で、覆いの上部には海砂が混じっています。入口を開いていた時期、前で火を使った時期、最後に閉鎖した時期を別々に整理することで、現在の丸い墳丘が一度に出来上がったものではないと分かります。(参照:フランス文化省考古学資料|ガヴリニスの増築・閉鎖・出土炭)
アンテケラ|巨石の屋根を支える石室
メンガ|三本の柱を持つ大きな内部空間
イベリア半島南部のアンダルシア地方には、地中に埋もれた通路墓とは違い、巨大な板石で広い部屋を組み立てたメンガの巨石墓があります。入口から奥までの内部空間は長さ約24.9メートル、最大幅約5.7メートル。天井高は入口付近で約2.5メートル、奥では約3.45メートルになります。両側の壁石が奥へ向かって少しずつ広がり、部屋の中央には三本の柱石が並んで屋根を受けています。
側壁と奥壁、屋根、柱には大きさの異なる計32個の石材が使われたと報告されています。全体は土と石でできた墳丘に覆われ、内部の床には深い井戸状の穴もあります。井戸を最初の建造時に掘ったかどうかには議論があり、墓室そのものの造営と区別して調査されています。狭い入口から奥へ行くほど広く高くなる部屋の形は、同じ地域のヴィエラやエル・ロメラルとも異なります。(参照:ユネスコ世界遺産センター|アンテケラのドルメン遺跡、ガルシア=サンフアンほか(2022年)|メンガ巨石墓の複数年代測定)
重さ百トン級の屋根石はどこから来たのか
メンガの屋根に使われた最大の板石は、重量約150トンと推定されています。地質分析により、建築用の石には遺跡から約850メートル西のセロ・デ・ラ・クルス周辺に分布する砂岩が用いられたと報告されました。遠隔地から運ぶ必要のない岩石を選んだとしても、採石場で板状に切り離し、斜面を越えて運び、割らずに据える作業は大規模でした。石を引くための木製のそりや土の斜路などが再現案として示されていますが、使った装置の実物が残っているわけではありません。
2024年にロサノ=ロドリゲスらが発表した建築工学的な分析では、側壁の石がわずかに内側へ傾き、地中に埋めた基部が重量を受け止めている点が検討されました。建築途中に地盤を掘り下げながら石を据え、最後に大きな屋根石を載せたと考えると、部屋全体にかかる荷重を説明できます。石の傾きと設置穴は現地で観察できる事実で、具体的な運搬装置や作業人数は復元上の推定です。(参照:ロサノ=ロドリゲスほか(2023年)|メンガの石材産地と地質分析、ロサノ=ロドリゲスほか(2024年)|メンガの巨石据付と建築設計)
年代測定で絞られた建設時期
メンガの年代について、ガルシア=サンフアンらが2022年に公表した研究は、石室周囲の考古学的な層と石材を対象に、放射性炭素測定、光を浴びてからの経過時間を調べる方法、岩石の堆積物の分析などを組み合わせました。結果を突き合わせ、主要な建設の時期を紀元前3800〜3600年頃と提案しています。出土した炭だけを一件測って、建物が完成した年としたのではありません。
メンガの内部は長期にわたって人が入り、後世の活動で土が動かされた部分もあります。そこで研究者たちは、壁の下に挟まれた層、工事に関連する地表、後から入った物を区別して測定結果を評価しました。建物が使われていた時期と最初に屋根石を据えた時期が一致するとは限らず、測定対象の違いが年代の見積もりに影響します。(参照:ガルシア=サンフアンほか(2022年)|メンガ巨石墓の複数年代測定)
ヴィエラとエル・ロメラル|向きも構造も違う二基
メンガの近くには、狭い通路の先に四角い部屋を設けたヴィエラと、石を少しずつ内側へ張り出して天井を閉じるエル・ロメラルがあります。ヴィエラは長い通路と小さな終端の墓室を持ち、入口の向きは春分・秋分頃の日の出の方向とおおむね対応します。エル・ロメラルは紀元前3千年紀に築かれたと考えられ、通路の先に二つの円形の部屋が続きます。後者の壁は薄い石を水平に積み上げた構造で、大きな一枚岩を天井にしたメンガとは造り方が異なります。
メンガの入口は東に昇る太陽へ厳密に向くのではなく、北東側のペーニャ・デ・ロス・エナモラドスという特徴的な岩山の方を向いています。エル・ロメラルからの眺めにはエル・トルカルの石灰岩山地が関わります。三基の向きをすべて同じ天文儀礼にまとめることはできません。近くの山の形を意識した配置と太陽の方角に合う配置が、同じ地域に共存していました。(参照:ユネスコ世界遺産センター|アンテケラのドルメン遺跡、ガルシア=サンフアンほか(2022年)|メンガ巨石墓の複数年代測定)
ニューグレンジとノウス|アイルランドの通路墓
ボイン川流域に築かれた大きな墳丘
アイルランド東部、ボイン川が大きく曲がる土地には、ニューグレンジ、ノウス、ダウスという大型の墳丘が集まっています。川沿いには小さな通路墓や墓に関連する石の囲いも分布し、個々の墳丘は広い建築群の一部です。ニューグレンジは紀元前3200年頃に築かれたと考えられ、直径約85メートルの墳丘の周りを大きな縁石が取り囲みます。現在見える明るい石英の正面は、20世紀の発掘で見つかった石材を用いて再構成された姿です。
入口には渦巻きを三つ寄せた彫刻のある大きな縁石が横たわり、その奥へ長さ約19メートルの通路が続きます。通路の終点は三方向に小部屋を張り出させた空間で、石を段ごとに内へせり出させて高い天井を作っています。床からは遺骨や装身具などが見つかりました。発掘によって得られた埋葬の資料と、入口や石材に施された文様を合わせて、建造後にどのような行為が続いたか調べられています。(参照:アイルランド文化財局|ニューグレンジ・ノウス・ダウス、アイルランド国立博物館|ニューグレンジの発掘・冬至・出土品)
冬至の朝日が墓室へ届く仕組み
ニューグレンジの入口上部には、通路の開口部とは別に光を取り入れる細長い窓があります。冬至前後の晴れた朝、低い位置から昇る太陽の光がこの開口部を通り、石室の奥の床近くまで達します。普通の日の高い太陽では同じ方向の光が入りません。1960年代から70年代に発掘を指揮したマイケル・J・オケリーは、1967年の冬至に光が奥へ入る様子を観測し、記録しました。
窓の形と通路の傾きが組み合わされていることから、冬至の採光は設計に関係していたと解釈されています。2024年にはアイルランドの国家記念物局が、この現象を写真測量などで詳しく検証した調査報告を公開しました。光が届く日付は太陽の位置、天候、入口周辺の復元状態によって左右されます。古代の人々がその光を葬送、暦、集会のどの行為に結び付けたかは、建物の仕組みだけから確定できません。(参照:アイルランド国立博物館|ニューグレンジの発掘・冬至・出土品、アイルランド国家記念物局(2024年)|ニューグレンジ冬至採光の調査報告)
ノウス|向かい合う二本の通路と縁石の彫刻
近くのノウスの主墳丘には、東側と西側からそれぞれ内部へ向かう二つの通路が造られています。主墳丘の周囲にはさらに十数基の小さな墓が点在し、複数の建築時期が重なっています。外周の大きな縁石には、同心円、蛇行する線、三角形、波を重ねたような彫刻が刻まれました。文様は正面から見える面だけでなく、建築後に隠れる位置にある場合もあります。
通路の向きが東西に近いことから、春分・秋分頃の太陽との関係が提案されてきました。入口や内部の形が後世に変わり、地平線の様子も変化しているため、現在の光の入り方から建設当初の現象を単純に復元することはできません。ノウスとニューグレンジでは同じ渦巻きや円形文様を共有しながら、入口の数も室内構成も違います。石の彫刻を一つの決まった宗教的記号に対応させる資料は見つかっていません。(参照:アイルランド世界遺産機関|ブルー・ナ・ボーニャの記念物群、アイルランド文化財局|ブルー・ナ・ボーニャの文化財と線刻石)
通路墓が使われた後の時代
ボイン川流域の大きな墓は、新石器時代に建造された後も地表から消えず、青銅器時代以降に周囲でさまざまな活動が行われました。ニューグレンジでは近くに大きな木造の環状施設が設けられ、後の時代の遺物も見つかっています。ノウスにはさらに後世の住居や墓、要塞的な施設の痕跡も重なります。現在の墳丘に見える状態をそのまま紀元前3200年頃の姿として扱うと、長期の利用が見えなくなります。
多くの墓から人骨が見つかることは、埋葬の機能を確かめる直接の資料です。繰り返して人が入った部屋もあり、死者を納める行為が短い一度の儀式で終わったとは限りません。骨の保存状態、土器や装身具の位置、入口をふさいだ石の順序などを比較し、利用の時間幅を推定する研究が続いています。(参照:アイルランド世界遺産機関|ブルー・ナ・ボーニャの記念物群、アイルランド文化財局|ニューグレンジ・ノウス・ダウス)
オークニーとヘブリディーズ|北の島々の石造施設
ステネス|石の輪の内側に残る炉
スコットランド北方のオークニー諸島では、スカラ・ブレイの石造住居、墓室、立石群が近い範囲に分布しています。ステネスの立石群は、直径約30メートルの楕円形に並べられた薄い板状の石からなります。現存する石は少数ですが、かつてはさらに多くの石が環を作り、周囲に溝が巡っていました。石は砂岩の薄い層を利用した形で、厚みのある丸い巨岩を用いたカルナックとは姿が違います。
環の内部からは炉の跡、土器、動物骨が発見され、人が集まり火を使っていたことが分かります。溝に関係する骨の測定から、建設が紀元前3100〜2900年頃に始まった可能性が示されています。骨の年代はそこに動物があった時期を示すもので、現在残る各立石を建てた年ではありません。炉の周囲で料理をしたのか、祭りの一部として食べたのかは出土物の配置から検討されています。(参照:スコットランド歴史環境庁|ステネス立石群の年代と出土物、ユネスコ世界遺産センター|オークニーの新石器時代遺跡群)
メイズハウ|通路の奥へ入る冬の夕日
ステネスから近いメイズハウは、土に覆われた通路墓です。長さ約10メートルの細い通路が中央の大きな四角い部屋へ続き、その周囲に三つの小部屋があります。中央の壁には、長い砂岩板を交互に組み入れるように積み、上へ向かって内側へ迫り出す石積みが使われました。建造は紀元前3千年紀と考えられ、石の輪とは別の、内部へ入る建物です。
一年で日が短くなる頃、低く沈む夕日の光が通路を通って中央の部屋へ届きます。ニューグレンジが朝日を取り入れるのに対し、メイズハウは夕方の方角に開いています。季節と方角が対応している点は観測できますが、光が届く日のどの行為が重視されたかは分かりません。中世に人が侵入してルーン文字を刻み、現在もその落書きが残るため、石室内部には新石器時代からかなり後の痕跡も混じります。(参照:スコットランド歴史環境庁|メイズハウの墓室と冬至の光、ユネスコ世界遺産センター|オークニーの新石器時代遺跡群)
ブロッガーの環状列石|広い溝で囲む場所
ブロッガーの環状列石は、直径約104メートルに及ぶ大きな輪です。もとは約60本の立石が巡っていたと推定され、現在はその一部が立っています。環の外側には岩盤を切り開いた深い溝と土手があり、石をただ円形に並べた施設ではありません。地表ではそれぞれの石の背丈と厚さが異なり、板状の砂岩を立てた場所と欠けた場所の間から周囲の丘が見えます。
建設は紀元前2600〜2400年頃と考えられますが、石を据えた穴からすべての年代が直接得られているわけではありません。環の外の周辺地域でも、新石器時代の建物や廃棄された大量の動物骨が調べられ、島の集落と立石群を合わせて考える研究が進みました。周辺の人々が共同で集まる場だった可能性があり、そこで何を行ったかは炉・骨・土器などの出土状況で検討されます。(参照:スコットランド歴史環境庁|ブロッガーの環状列石と年代、ユネスコ世界遺産センター|オークニーの新石器時代遺跡群)
カラニッシュ|十字状に伸びる石列
オークニーより西、ルイス島のカラニッシュでは、環状の立石から南・東・西へ短い列が伸び、北へは二列の石からなる長い道が続きます。北側の列は約80メートルに及び、中央に立つ最も背の高い石は約4.8メートルあります。石は近くで採れる変成岩を用い、細長い面を持つ不規則な形です。中央の環の内側には小さな石室墓もあり、列石と同じ時期に造られたかどうかが調べられています。
立石群の造営は紀元前2900〜2600年頃と見積もられています。周辺では泥炭が成長して石の根元を覆い、後に掘り取られて現在の石列が再び姿を現しました。月が特定の周期で低く昇る方向との関係を考える研究もあります。天体との対応だけで個別の石を据えた目的を決められるわけではなく、どの石が同時に立っていたかという建設順序の検討も必要です。(参照:スコットランド歴史環境庁|カラニッシュ立石群の構成)
ウェセックス|長墳から環状列石へ
ウェスト・ケネット長墳|何世代も使われた墓室
イングランド南部のウェスト・ケネット長墳は、紀元前3650年頃に築き始められた長さ約100メートルの土と白亜の墳丘です。東端の入口を大きな石板で囲み、約13メートルの通路に左右四つと奥一つの墓室を設けています。部屋は粗い石と大きな石板を組み合わせて作られ、壁に沿って骨を納める空間があります。細長い外観から、ひとつの墓というより丘の形に作られた長い施設に見えます。
発掘では少なくとも46人分の人骨が確認されました。骨は一体ずつ完全な姿で残るものばかりでなく、移し替えや整理が行われた可能性があります。墓が長期に使用された後、入口には大きな石が詰め込まれました。1950年代の発掘と修復では石材を立て直した部分があり、入口前に今日見える大きな立石の配置にも保存工事の経緯が関係しています。(参照:イングリッシュ・ヘリテージ|ウェスト・ケネット長墳と埋葬)
エーヴベリー|巨大な土塁の内側の石の輪
ウェスト・ケネットから北へ進むと、エーヴベリーの環状列石が集落を包むように残っています。直径約330メートルの範囲を土塁と深い溝が囲い、その内側に大きな外周の石の輪、さらに二つの小さな輪が造られました。外周の輪は、もとは約100本の立石からなっていたと推定されます。石は近くの丘に分布する珪質砂岩で、四角い塊のような石と菱形に見える石が混じります。
施設は紀元前2850〜2200年頃、複数の時期にわたって手を加えられました。溝を掘る時期と立石を据える時期が一度ではなかったことは、発掘された地層の前後関係から分かります。中世以降、石が倒されたり建築材として割られたりし、20世紀にはアレクサンダー・ケイラーらが穴と古い記録を手掛かりに一部を立て直しました。整った外周は古代の石がすべて当時の位置に立ち続けた姿ではありません。(参照:イングリッシュ・ヘリテージ|エーヴベリーの建造史、イングリッシュ・ヘリテージ|エーヴベリーの三重環状列石)
シルベリー・ヒル|石室を持たない人工の丘
エーヴベリーの南には、高さ約30メートル、底面の直径約160メートルというシルベリー・ヒルがそびえています。立石でもドルメンでもなく、白亜と土を幾層にも盛り、形を整えた人工の丘です。工事は紀元前2470〜2350年頃に始まったと推定され、最初は比較的小さな盛土でした。途中で拡大を繰り返した痕跡があり、外形は一度の作業では出来上がっていません。
18世紀以来、内部に王墓があるのではないかと考えて掘削されましたが、中央から期待された埋葬施設は見つかりませんでした。近年の保全調査では古い調査坑の崩落も問題になり、地下の状態を確かめながら埋め戻しています。周囲の古い遺構と近い時期に作られたことは確かめられていますが、この大きさの丘を何のために築いたかには決定的な説明がありません。(参照:イングリッシュ・ヘリテージ|シルベリー・ヒルの段階的築造、ユネスコ世界遺産センター|ストーンヘンジとエーヴベリー)
ストーンヘンジ|石材の産地と組立ての技術
最初の土塁と火葬墓から巨石環へ
ストーンヘンジの建設は、今日よく知られる石の輪が現れるより前、紀元前3000年頃の円形の溝と土塁から始まりました。内側には56か所の穴が掘られ、周辺から火葬された人骨も見つかっています。穴のすべてに当初どのような石や木柱が立っていたかは確定していません。死者を葬る場所として利用された時期が、後の巨大な石組みに先立っていました。
紀元前2500年頃になると、高い砂岩の石柱を円形に立て、その上を横長の石でつなぐ構造と、中央の大きな門形の石組みが造られました。のちにも青みを帯びた小型の石の配置が改められ、入口へ続く道も整備されます。2012年にパーカー=ピアソンらが建造段階を検討した研究では、石を据えた穴、埋め戻しの順序、鹿角製道具の測定を組み合わせています。道路の溝に残された鹿角は道路を掘った時期を推定する資料で、円形の石柱すべての年代を直接示すわけではありません。(参照:パーカー=ピアソンほか(2012年)|ストーンヘンジ建造段階の再検討、イングリッシュ・ヘリテージ|ストーンヘンジとアヴェニューの建設年代、イングリッシュ・ヘリテージ|ストーンヘンジの歴史と出土物)
差し込みとほぞ|石に応用された木工の仕組み
外周には高さ約4メートルに加工された大きな石柱を約30本並べ、その上に横石を載せて環状につなぎました。横石と柱石の接点には、柱石の上端に突起を残し、横石の裏に穴を開けてはめ込む「ほぞ」の仕組みがあります。横石同士の継ぎ目にも、舌状の出っ張りと溝をかみ合わせる加工が施されました。木の梁を組む技術に似た方法で、重い石同士がずれないように工夫されています。
中央では二本の石柱に一本の横石を載せた門形の石組みを五組、馬蹄形に配しました。最も大きな組み合わせは高さ約7メートルに達します。石の側面には打撃を繰り返して平らにした痕跡が残り、立石の穴には傾斜した面を設けて石を起こし、根元へ砕石を詰めたと考えられています。縄、木の枠、てこなどをどのように使ったかは再現実験をもとに検討され、古代の作業図面は残っていません。(参照:イングリッシュ・ヘリテージ|ストーンヘンジの石材加工と組立て)
サーセン石の産地|ウェスト・ウッズの岩
環状の柱と横石の主材は「サーセン石」と呼ばれる硬い珪質砂岩です。2020年、デイヴィッド・ナッシュらの研究チームは、かつて修復で採取された石柱の芯材と各巨石の化学組成を比較しました。測定できた52点のうち50点が近い組成を示し、その特徴が北へ約25キロメートルのウェスト・ウッズで見つかる岩石とよく一致することを報告しています。残り二点は別の産地の可能性があります。
これは長く推測されていた産地を化学的に絞り込んだ成果です。石の移動距離は岩石の分布から見積もれますが、どの谷を通ったか、川を使ったかは実際の輸送路が見つかったわけではありません。石材の組成が分かったことと、一本ずつの運搬工程を再現できたことは別の問題です。(参照:ナッシュほか(2020年)|ストーンヘンジの珪質砂岩50点と産地)
ウェールズの青石と採石の痕跡
ストーンヘンジでは、大きなサーセン石の間に、それより小さく暗灰色から青みがかった岩石が置かれています。「青石」と総称されますが、一種類の石ではなく、火成岩など複数の種類が含まれます。産地を調べる研究では、ウェールズ西部プレセリ丘陵にある岩石と一致するものが確認されました。現在のストーンヘンジから直線で200キロメートル以上離れた地域です。
2019年にマイク・パーカー=ピアソンらが公表した採石場の調査では、カーン・ゲドッグやクレイグ・ロス=ア=フェリンに、石を抜き出した痕跡、作業用と考えられる石の台、炭などが見つかりました。測定された炭には紀元前4千年紀末に相当するものがあり、石の取り出しと移動が巨大なサーセン石の設置より早く始まった可能性が示されています。採石場の炭の年代を、そのままストーンヘンジで石を立てた年とすることはできません。(参照:パーカー=ピアソンほか(2019年)|ウェールズの青石採石場発掘、イングリッシュ・ヘリテージ|ストーンヘンジの石材加工と組立て)
祭壇石の産地|スコットランド北東部への絞り込み
中央近くに横たわる重さ約6トンの「祭壇石」は、青石とも大きなサーセン石とも異なる砂岩です。かつてはほかの青石と同じウェールズから運ばれたと説明されることがありました。2024年にアンソニー・クラークらが発表した研究では、祭壇石の砂粒に含まれるジルコンなどの鉱物の年代と化学的特徴を測定し、ウェールズの候補地ではなく、スコットランド北東部のオーカディアン盆地の岩石によく対応すると報告しました。
産地が北東スコットランドなら、ストーンヘンジまでの距離はおよそ750キロメートルに及びます。2026年、クラークらは砂岩の鉱物をさらに比較し、スコットランド本土北部のケイスネス地方にある候補地との一致度が高いと報告しました。氷河が石を北海の一部まで運んだ可能性も計算しましたが、氷河だけでストーンヘンジまで到達する経路は示されていません。どの露頭から石を取り出し、海上や陸上をどう運んだかは、引き続き調査の対象です。(参照:クラークほか(2024年)|祭壇石のスコットランド産地分析、クラークほか(2026年)|祭壇石の産地絞り込みと氷河輸送モデル)
夏至・冬至の軸線と埋葬の痕跡
ストーンヘンジの中央から北東の入口へ伸びる軸線は、夏至の朝日が昇る方角と、反対側の冬至の夕日が沈む方角におおむね重なります。入口へ続く道もこの方向と関係して設けられました。正面から見た石柱と横石の間を光が通る配置は、太陽の季節的な動きを意識した設計として広く研究されています。建築の向きは測量によって確かめられますが、見た光をどう解釈していたかは記録されていません。
火葬骨の分析からは、人々が広い地域を移動していた可能性も読み取れます。2018年にクリストフ・スネックらは火葬骨のストロンチウム同位体を調べ、ストーンヘンジ近隣で育ったとは限らず、ウェールズ西部などの地質に対応する人が含まれると報告しました。同位体値は地質や食物の特徴を反映するため、個人の出身地や移動経路を一か所に特定する資料にはなりません。遠方の石材と人の移動を関連付ける研究はありますが、石を運んだ人と埋葬された人が同じ集団だと証明されたわけではありません。(参照:イングリッシュ・ヘリテージ|ストーンヘンジとアヴェニューの建設年代、スネックほか(2018年)|ストーンヘンジ火葬骨の同位体分析)
紀元前2千年紀の斧と短剣の刻画
巨大な石組みが完成した後も、ストーンヘンジでは人が石の表面に新しい印を加えました。中央の門形の石組みに使われた第53石柱の面には、柄の付いていない斧の刃や短剣の輪郭が浅く刻まれています。実物の青銅製品の形と比べると、紀元前1750〜1500年頃の型に近く、石組みが立てられた紀元前2500年頃よりかなり新しい表現と考えられます。
1953年に短剣と斧の刻画が報告され、のちに石面のレーザー測量によって肉眼では見落としやすい浅い線が多数検出されました。2012年の報告書では、先史時代の斧の刻画の確認数が44から115へ増えたと説明されています。斧や短剣が儀礼の象徴だったのか、持ち主や集団を示したのかという意味は確定していません。紀元前2千年紀には周囲にも円い盛土墓が数多く築かれ、石の輪とその周辺は青銅器時代の景観の中でも利用されていました。(参照:イングリッシュ・ヘリテージ|ストーンヘンジ第53石柱の短剣と斧の線刻、ヒストリック・イングランド(2012年)|ストーンヘンジ石面のレーザー測量と斧の線刻、イングリッシュ・ヘリテージ|ストーンヘンジの歴史と出土物)
巨石建造物の広がりと、その意味をめぐる研究
同じ形の墓は海を越えて伝わったのか
西ヨーロッパの通路墓には、細い通路、奥の石室、土や石の覆いという共通点があります。20世紀前半には近東の古い文明から技術が西へ伝わったという考えもありましたが、放射性炭素測定によって大西洋岸の早い造営時期が知られるようになり、説明は見直されました。地域ごとに独自に造り始めた可能性と、海辺を航行する集団が形を伝えた可能性の両方が検討されています。
ベッティーナ・シュルツ=パウルソンは2019年、ヨーロッパ各地の巨石墓に関係する2410件の年代資料を統計的に整理し、紀元前5千年紀後半のフランス北西部を初期の中心地とみなして、海上交流を通じて墓の形式が広がったというモデルを示しました。新しい考えを支えるのは年代の地域差ですが、船がたどった具体的な航路や建築者の出自を直接示した研究ではありません。ドイツ考古学研究所のイェンス・ノートロフも、墓の形式の比較を、世界各地のすべての巨石造営が一つの起源から始まったという説明へ広げることを戒めています。(参照:ベッティーナ・シュルツ=パウルソン(2019年)|巨石墓の年代と海上交流モデル、ドイツ考古学研究所・ノートロフ(2019年)|巨石墓の伝播説と対象の限定)
埋葬・集会・天体観測をどう見分けるか
墓室から人骨が繰り返し見つかるバルヌネズ、ニューグレンジ、ウェスト・ケネットでは、埋葬が建物の用途に含まれたと考えられます。同じ石造物でも、カルナックの長い列石やブロッガーの環状列石では、内部に一人の遺体を納める仕組みが中心ではありません。炉の跡や動物骨が残る場所は、人が集まって火を使い、食事を分け合った活動を示しています。墓、集会、季節の節目の行為が別々の施設に割り当てられていたとも限りません。
ニューグレンジの冬至の朝日、メイズハウの冬の夕日、ストーンヘンジの夏至・冬至の軸線は、建築の向きと太陽が観測できる事例です。各施設を一律に古代の天文台と呼んでも、当時の日付の数え方や儀礼の内容は説明できません。入口が閉ざされる前後の順序、人骨の扱い、石の彫刻が見える位置を合わせ、場所ごとの利用を調べる必要があります。(参照:アイルランド国家記念物局(2024年)|ニューグレンジ冬至採光の調査報告、スコットランド歴史環境庁|メイズハウの墓室と冬至の光、イングリッシュ・ヘリテージ|ストーンヘンジとアヴェニューの建設年代)
元の姿と現在見える姿の間
カルナックでは倒れた石が19世紀に立て直され、エーヴベリーでも20世紀の発掘後に石が起こされました。ニューグレンジの白い石英の正面も、出土資料をもとに再構成された部分です。大きな石が残っているからといって、今日歩ける道、外から見える線、入口の高さがすべて築造当初と同じとは限りません。初期の発掘図と修復記録は、現地の景観を見るときの資料になります。
一方、壁の下から出土した炭を測定する方法、石材の微量元素を比較する方法、地中の層を三次元的に記録する方法などが加わり、建物に手を加えた順序は以前より細かく調べられています。復元に支えられた外観と、石の継ぎ目や土の層から確かめられる建造工程を区別することで、見学できる遺構から何が言えるのかを具体的に判断できます。(参照:フランス国立記念物センター|カルナック列石群の歴史、イングリッシュ・ヘリテージ|エーヴベリーの建造史、アイルランド文化財局|ニューグレンジ・ノウス・ダウス)
略年表
- 紀元前4500年頃|ブルターニュのバルヌネズで石積みの墓が築かれ始め、カルナック周辺でも立石と墳丘を伴う造営が進む。
- 紀元前4300年頃|ブルターニュ南部で大きな石斧を副葬する墓や、巨大な石柱を立てる活動がみられる。
- 紀元前3800年頃|イベリア半島南部アンテケラのメンガ巨石墓が築かれる時期に入る(紀元前3800〜3600年頃)。
- 紀元前3650年頃|イングランド南部でウェスト・ケネット長墳の利用が始まる。
- 紀元前3400年頃|ガヴリニスの入口付近に火を使った活動があった可能性のある時期(関連する炭の年代幅は紀元前3400〜2900年頃)。
- 紀元前3200年頃|アイルランドのニューグレンジに、長い通路と石をせり出した天井を持つ大型墳丘が築かれる。
- 紀元前3100年頃|オークニー諸島のステネス立石群が築かれ始めた可能性がある(関連する骨の年代は紀元前3100〜2900年頃)。
- 紀元前3000年頃|ストーンヘンジに円形の溝と土塁が設けられ、火葬墓が営まれる。
- 紀元前2900年頃|ルイス島のカラニッシュで環状列石と列石群が築かれる時期に入る。
- 紀元前2850年頃|エーヴベリーの土塁と立石群が形づくられ始める。
- 紀元前2600年頃|オークニー諸島のブロッガーで大きな環状列石が整備される時期に入る。
- 紀元前2500年頃|ストーンヘンジで巨大なサーセン石の柱と横石、中央の門形の石組みが組み立てられる。
- 紀元前2470年頃|シルベリー・ヒルの築造が始まり、盛土を重ねて拡大されていく。
- 紀元前2200年頃|エーヴベリーの造営が終わりに近づき、周辺では青銅器時代の埋葬施設も増える。
- 紀元前1750年頃|ストーンヘンジの石柱に青銅製の斧や短剣をかたどる線刻が加えられる時期に入る(紀元前1750〜1500年頃)。
まとめ
ブルターニュでは、岩盤から切り離した大きな石を列に並べ、花崗岩やドレライトを積んで墓室を覆いました。ガヴリニスの通路には岩面を細かく打って作った線刻が残り、墓の天井に転用した石柱には、内部から見えなくなった古い動物の図像があります。アンテケラのメンガでは、地元の砂岩を巨大な屋根石として使い、三本の柱と内側へ傾けた壁石で重さを受け止めています。場所ごとに石材の選択、表面の加工、石を運んで組み立てる仕組みが異なり、一つの技術だけで西ヨーロッパの巨石建造物を説明することはできません。
アイルランドのニューグレンジとスコットランドのメイズハウでは、通路の方向と季節の太陽の位置が対応します。ストーンヘンジでは、巨石を立てた後の紀元前2千年紀にも斧や短剣の姿が刻まれました。こうした例から、建造物の利用が何世代も続き、入口を閉じたり石の配置を変えたりする時期があったことが分かります。発掘された人骨は埋葬の行為を、炉や食べ物の残りは集まりの活動を示しますが、図像の意味や季節の光に結び付けた具体的な儀礼は確定していません。年代測定を石の設置や後の利用のどの段階に対応させるか、海を越えた技術の伝わり方をどう説明するかについても、発掘と石材分析による研究が続いています。
参考資料・出典
- フランス文化省考古学資料|ブルターニュの石材・石器・加工技術
- フランス国立記念物センター|巨石建造物の種類とカルナックの年代
- ユネスコ世界遺産センター|カルナックとモルビアン沿岸の巨石群
- ベッティーナ・シュルツ=パウルソン(2019年)|巨石墓の年代と海上交流モデル
- ドイツ考古学研究所・ノートロフ(2019年)|巨石墓の伝播説と対象の限定
- フランス国立記念物センター|カルナックの列石群と地形
- フランス国立記念物センター|カルナック列石群の歴史
- フランス文化省考古学資料|ロクマリアケールの巨大立石と基礎穴
- フランス文化省考古学資料|サン=ミシェル墳丘の石斧と装身具
- フランス国立記念物センター|バルヌネズの寸法・11基の通路墓
- フランス国立記念物センター|バルヌネズの発掘と建造段階
- フランス文化省考古学資料|ガヴリニス墓室と通路の内部構造
- フランス文化省考古学資料|ガヴリニス第8石板の線刻
- フランス文化省考古学資料|ガヴリニスと商人のテーブルの破断した石柱
- フランス文化省考古学資料|墓室に隠された古い彫刻
- フランス文化省考古学資料|ガヴリニスの増築・閉鎖・出土炭
- ユネスコ世界遺産センター|アンテケラのドルメン遺跡
- ガルシア=サンフアンほか(2022年)|メンガ巨石墓の複数年代測定
- ロサノ=ロドリゲスほか(2023年)|メンガの石材産地と地質分析
- ロサノ=ロドリゲスほか(2024年)|メンガの巨石据付と建築設計
- アイルランド文化財局|ニューグレンジ・ノウス・ダウス
- アイルランド国立博物館|ニューグレンジの発掘・冬至・出土品
- アイルランド国家記念物局(2024年)|ニューグレンジ冬至採光の調査報告
- アイルランド世界遺産機関|ブルー・ナ・ボーニャの記念物群
- アイルランド文化財局|ブルー・ナ・ボーニャの文化財と線刻石
- スコットランド歴史環境庁|ステネス立石群の年代と出土物
- ユネスコ世界遺産センター|オークニーの新石器時代遺跡群
- スコットランド歴史環境庁|メイズハウの墓室と冬至の光
- スコットランド歴史環境庁|ブロッガーの環状列石と年代
- スコットランド歴史環境庁|カラニッシュ立石群の構成
- イングリッシュ・ヘリテージ|ウェスト・ケネット長墳と埋葬
- イングリッシュ・ヘリテージ|エーヴベリーの建造史
- イングリッシュ・ヘリテージ|エーヴベリーの三重環状列石
- イングリッシュ・ヘリテージ|シルベリー・ヒルの段階的築造
- ユネスコ世界遺産センター|ストーンヘンジとエーヴベリー
- パーカー=ピアソンほか(2012年)|ストーンヘンジ建造段階の再検討
- イングリッシュ・ヘリテージ|ストーンヘンジとアヴェニューの建設年代
- イングリッシュ・ヘリテージ|ストーンヘンジの歴史と出土物
- イングリッシュ・ヘリテージ|ストーンヘンジの石材加工と組立て
- ナッシュほか(2020年)|ストーンヘンジの珪質砂岩50点と産地
- パーカー=ピアソンほか(2019年)|ウェールズの青石採石場発掘
- クラークほか(2024年)|祭壇石のスコットランド産地分析
- クラークほか(2026年)|祭壇石の産地絞り込みと氷河輸送モデル
- スネックほか(2018年)|ストーンヘンジ火葬骨の同位体分析
- イングリッシュ・ヘリテージ|ストーンヘンジ第53石柱の短剣と斧の線刻
- ヒストリック・イングランド(2012年)|ストーンヘンジ石面のレーザー測量と斧の線刻