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Art History

1975–1990

現代写真の転換

ニュー・トポグラフィックスと風景・都市の新しい見方

新しく建てられた住宅が同じ形で並ぶ郊外の街路。窓の少ない工場の壁。道路沿いに立つモーテルの看板。こうした風景を撮影した写真が、1975年にアメリカの美術館でまとめて紹介されました。美しい山や森、劇的な夕焼けを想像して写真展に来た人には、驚くほど地味に見えたかもしれません。展覧会の名前は《ニュー・トポグラフィックス──人間が変えた風景の写真》。その後の風景写真を考えるうえで、重要な節目となった展覧会です。

それまで、風景写真の代表的なイメージの一つは、広大な自然を壮麗に写した作品でした。アメリカ西部の山々や谷を、光の美しさとともに捉える写真は多くの人に親しまれてきました。1970年代の若い写真家たちは、住宅地や工業団地、造成途中の土地にも目を向けます。そこには私たちが日々暮らす場所の現実があり、自然と人間の営みが長い時間をかけて交わってきた痕跡がありました。

ロバート・アダムスは、コロラド州で広がる住宅地とその周辺を撮影しました。ルイス・バルツは、カリフォルニア州の工業団地にある無機質な建物の壁を繰り返し写します。スティーヴン・ショアは道路の交差点や商店、食事をした店などをカラー写真に残しました。立派な建築や名所として知られていない場所でも、撮影する位置や画面の構成によって、そこに暮らす社会の姿を読み取れるようになります。

1975年の展覧会には、アメリカの写真家8人と、ドイツのベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻が参加しました。ベッヒャー夫妻は、給水塔や溶鉱炉などの工業建築を同じ方法で撮り続け、複数の写真を並べて形の違いを示します。一枚の写真の迫力だけで鑑賞者を引きつける方法とは異なる、反復と比較による新しい見方が現れていました。

この変化は、写真が美術の中でどのように扱われるかという問題にも関係しています。日常の光景を連作として提示する方法、写真集を一つの作品として構成する方法、都市の構造を調べるように撮影する方法が広がりました。1976年にはニューヨーク近代美術館でウィリアム・エグルストンのカラー写真展が開かれ、写真の色彩と身近な主題にも新しい注目が集まります。

1980年代には、その流れが大西洋を越え、ドイツのデュッセルドルフで写真を学んだ作家たちへとつながります。トーマス・シュトルートは都市の街路を、トーマス・ルフは人物や建物を、ほぼ一定の方法で撮影しました。写真が目の前の風景を記録する手段であると同時に、比較し、分類し、社会の構造を考えるための作品になっていったことが分かります。

本記事では、1975年の《ニュー・トポグラフィックス》展を起点に、1990年頃までの風景写真と都市写真の変化を18章でたどります。参加した写真家それぞれの作品、カラー写真の広がり、ドイツへの影響、写真集と美術館の役割まで、具体例を通して紹介します。普段は見過ごしている街並みが、写真によってどのような姿を見せるようになったのかを考えていきます。

風景写真は何を美しいと考えてきたのか

山や渓谷を写したアメリカの風景写真

20世紀のアメリカで風景写真の代表として語られてきたのが、山や谷、岩肌を精緻に写した写真です。アンセル・アダムスの作品では、雲の明暗や光を受ける山肌の質感が際立ち、自然を前にする人の驚きや敬意が写真の構成と結びついています。そうした写真は国立公園や自然保護への関心とも深く関わり、壮大な風景を芸術の主題として定着させました。

1970年代の若い写真家たちも、この伝統を知りながら制作していました。彼らの目の前に広がっていたのは、開発によって住宅と道路が増える西部の土地でした。山が遠くに見える場所でも、手前には電線や駐車場がある。新しい写真は、そのような現実の風景を画面から取り除かずに捉えます。風景を見る姿勢そのものが変化していく過程を、具体的な作品から確認することができます。(参照:サンフランシスコ近代美術館|展覧会解説)

戦後の郊外化と工業化が風景を変えた

第二次世界大戦後のアメリカでは、自動車を前提にした郊外の開発が急速に広がりました。都市の周辺には幹線道路、ガソリンスタンド、大型駐車場、物流施設がつくられ、同じような住宅が広い土地に建ち並びます。道路や建物が自然の地形に重ねられていく状況は、住まい方や働き方の変化を視覚的に示していました。

たとえば新興住宅地の写真は、単なる建物の記録として見れば不動産案内にも使えそうです。そこに周囲の空き地、遠方の山、道路の幅、家々の間隔が写ると、街がどのように成長してきたかという問いが生まれます。写真家たちは歴史的な名所に向かう代わりに、完成途中の社会を撮影しました。土地を人間が変えるという事実が、新しい風景写真の中心に入ってきたのです。(参照:ナショナル・ギャラリー|ロバート・アダムス回顧展)

ウォーカー・エヴァンズから日常を写す写真へ

1930年代のウォーカー・エヴァンズは、家屋の正面、店先、看板、街路など、日々の生活を形づくるものを慎重に撮影しました。新聞や広告のような情報を写し込む写真は、著名な人物や雄大な自然に目を向けるだけでは見えてこない社会の姿を伝えました。1970年代の写真家たちが注目した平凡な建築や街角には、この先行する写真史との連続も見られます。

ニュー・トポグラフィックスは、1975年に突然すべてが始まった出来事として説明できるものではありません。既に存在していた記録写真の方法や近代的な都市の撮影を、同時代の社会状況のもとで再び組み合わせた転換点といえます。表現を抑えた画面を通じて、私たちが見慣れた場所の形をよく観察する。その基本姿勢が、後の写真家たちの制作にも受け継がれていきました。

この変化を理解するには、風景の中に人間が作った物が写るだけで新しいと考えるのを避けたいところです。古い都市写真や記録写真にも建築物は登場します。1970年代に特徴的だったのは、郊外の平凡な建物が長期的な制作の中心となり、写真集や展覧会を通して一つの地域の構造として提示されたことです。地味な写真が複数並ぶことで、写真を読む時間そのものが変わったのです。(参照:ロサンゼルス郡立美術館|ニュー・トポグラフィックスの再検証)

1975年、《ニュー・トポグラフィックス》展が開かれる

ジョージ・イーストマン・ハウスでの開催

1975年10月14日、ニューヨーク州ロチェスターのジョージ・イーストマン・ハウスにある国際写真博物館で、《New Topographics: Photographs of a Man-Altered Landscape》が始まりました。会期は1976年2月2日まで。題名は「人間によって変えられた風景」を明確に掲げていました。日常の建築物や郊外の土地が、まとまった写真展の主題として提示されたのです。

展覧会を企画したウィリアム・ジェンキンズは、異なる写真家の作品に通じる視覚的な傾向を見いだしました。1975年の会場に展示された写真は、後年「ニュー・トポグラフィックス」という名称で広く語られます。現在の研究では、作品が撮影された年と展覧会の開催年を分けて考えます。1973年や1974年に撮られた写真が、1975年の展示によって新たなまとまりの中で読まれ始めたことが重要です。

ニュー・トポグラフィックスの写真には、建物や道路を正面からとらえ、強い身振りを感じさせない作品が多くあります。住宅の壁や空き地を写す場合、写真家の感情を説明するような文章は画面に添えられていません。鑑賞者はまず、窓の数、屋根の形、道路と建物との間隔など、写された事実に目を向けることになります。

1975年展のジェンキンズが関心を示したのは、このように記録写真の性格を改めて考えさせる表現でした。撮影者の存在感が弱く見えても、撮影場所と画面の端を決め、特定の一瞬を選んでいるのは写真家です。客観的に見える写真にも選択があると知ると、穏やかな画面が持つ複雑さが見えてきます。抑制された表現は、風景を読むための余地を生み出しました。(参照:ジョージ・イーストマン博物館|1975年《ニュー・トポグラフィックス》展)

8人のアメリカ人写真家とベッヒャー夫妻

展覧会に参加したアメリカの写真家は、ロバート・アダムス、ルイス・バルツ、ジョー・ディール、フランク・ゴールキー、ニコラス・ニクソン、ジョン・ショット、スティーヴン・ショア、ヘンリー・ウェッセルの8人です。そこにドイツのベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻が加わりました。参加人数は10人で、9組の作家として数えることもできます。

この顔ぶれを見ると、共通する作風の中にも大きな違いがあったことが分かります。都市を高い位置から撮る人、建物の表面を反復する人、道中の風景をカラーで記録する人。ベッヒャー夫妻は同じ種類の工業施設を比較していました。一つの美術運動の宣言に全員が従った展覧会というより、異なる活動の間に新しい風景の見方を見いだした企画として理解できます。

建築物を撮影する場合、絵になる建物を一つ選ぶ方法があります。ニュー・トポグラフィックス周辺の写真家には、特別な存在を探すより、似た住宅や施設を複数撮る人々がいました。反復によって、はじめは単調に見えていた場所にも規則と違いが現れます。これは一枚だけを見る経験とは異なる鑑賞方法です。

たとえば工場の壁を並べると、開口部の位置、素材の継ぎ目、看板の有無などが比較できるようになります。一軒の建物から受けた印象が、地域に共通する建築の構造や経済活動への関心へ広がります。写真の枚数を増やすことは、単純に対象をたくさん集める作業で終わりません。複数の画像によって世界を比較しながら見るための方法でした。(参照:サンフランシスコ近代美術館|ニュー・トポグラフィックス)

「トポグラフィックス」という名前の意味

「トポグラフィー」は土地の地形や配置を記述することと関わる言葉です。1975年の展覧会名には、建物や道路を含む土地のあり方を、できるだけ明瞭に記録する写真への関心が込められていました。写真には劇的な照明や個性的な演出を控えたものが多く、被写体の形や周辺環境が静かに示されます。

この名称が指すのは、あらゆる写真が同じ撮影技法でつくられたということではありません。写真家ごとにカメラの形式、画面の構成、土地に対する感情は異なります。地味な景色を連続して見ることで、鑑賞者は画面の中の微妙な違いを意識するようになります。分類と観察の方法を写真によって深めたことに、この展覧会の歴史的な意味があります。

写真家たちの画面は「冷静」「中立」と表現されますが、作品の内容を感情の欠如だけで説明すると重要な点を見落とします。ロバート・アダムスが撮った住宅地には、開発によって土地が変わっていくことへの複雑な思いが読み取れます。バルツの整然とした工業施設にも、何も特徴がないように見える建築に注意を向ける意志があります。

鑑賞者の感情をあらかじめ決める表現を控えることと、社会への関心が薄いことは別の問題です。風景の変化を自分の目で見つめ、画面の中から意味を考える時間を与える点に、これらの写真の特徴があります。すべての参加者の目的を「客観性」という一語でまとめず、個別の作品が何を撮り、どこに注意を向けているのかを確かめる必要があります。

1975年展の開催日や参加者は公式記録で確認できます。展覧会は、その後に広く語られるようになる名称を作りましたが、写真家たちの制作の始まりが1975年だったことを意味しません。写真に記録された場所の撮影年、作品が発表された機会、後年の回顧展での紹介を分けると、歴史の層が見えてきます。特に元の展示で誰が参加したのかを正しく記すことが、この動向を理解する最初の条件になります。(参照:Smarthistory|ニュー・トポグラフィックスの歴史)

ロバート・アダムスが見つめた新しい西部

1974年の写真集《ザ・ニュー・ウェスト》

ロバート・アダムスはコロラド州に住み、ロッキー山脈東側の都市と郊外の変化を撮影していました。1974年に刊行した《The New West: Landscapes along the Colorado Front Range》では、新興住宅地、商業施設、広い道路、その向こうに残る自然の地形が一つの地域の光景として並べられています。伝統的な西部の風景写真とは異なる、開発が進む時代の西部像です。

写真には、新しい暮らしの便利さを象徴する住宅や車が写ります。同時に、自然の地形を分断する道路や、隣家との距離が近い住宅地の静けさも感じられます。撮影者は建築物を非難する看板を画面へ加えるようなことはしません。よく見知った郊外の姿を写真集として積み重ねることで、住まいが増えることと風景が変わることの関係が、鑑賞者自身に伝わってきます。(参照:ナショナル・ギャラリー|ロバート・アダムス回顧展)

《ノースグレン、コロラド州》を読む

1973年の《Northglenn, Colorado》には、道路沿いの平屋とその前に停まった自動車が写っています。国立美術館の作品情報によれば、家の前面と車が横方向に並び、曇った空が画面の上部を占めています。特別に著名な建築でも、観光名所でもありません。多くの人が生活の中で通り過ぎる住宅地が、慎重な構図によって鑑賞の対象になります。

この写真を長く見ると、家と道路のあいだの距離、車の位置、空の広さがそれぞれ意味を持ち始めます。画面には人が写っていなくても、暮らしのためにつくられた家や移動のための車が、人間の存在を強く示しています。アダムスの写真は、自然の風景と人間の生活を切り離すことなく、その重なり合う場所を記録しました。(参照:ナショナル・ギャラリー|《ノースグレン、コロラド州》)

美しさと喪失を同じ風景の中に見る

ロバート・アダムスの写真は、郊外の造成を記録する資料としても読めます。作品が特別なのは、開発された土地の中に残る光や地平線の美しさまで丁寧に写している点です。住宅や道路の存在が気になる写真にも、静かな空や遠くの山並みが入り込みます。自然への愛着と、変化する環境への関心が一枚の画面で重なっているのです。

国立美術館の回顧展では、1974年の《ザ・ニュー・ウェスト》から1977年のデンバー周辺の調査、さらに1980年の《From the Missouri West》までが重要な制作として位置づけられています。撮影対象を広げながらも、アダムスは西部の土地と人間の営みを見つめ続けました。ニュー・トポグラフィックスの中でも、風景に対する倫理的な問いが長く続いた例です。

アダムスの写真に写る新興住宅地は、開発される以前には別の風景だったはずです。道路と住宅がある現在の姿を、変化の結果として見ることも、そこで暮らす人々の日常として見ることもできます。写真家は撮影する地点を決めますが、その場所をどう受け取るかは鑑賞者の経験によっても異なります。この多義性が、抑制された写真の中に残されていることを忘れたくありません。(参照:ナショナル・ギャラリー|ロバート・アダムス回顧展)

ルイス・バルツは工場の壁をなぜ撮ったのか

《アーヴァイン近郊の新しい工業団地》

ルイス・バルツは1974年、カリフォルニア州アーヴァイン周辺の新しい工業施設を撮った連作《The New Industrial Parks near Irvine, California》をまとめました。倉庫や事務所の外壁、駐車場、道路、建設現場が、白黒写真に小さく整然と収められています。壁面の単調な幾何学模様と、人工的な土地の広がりが繰り返し現れます。

これらの建物は、建築史の名作として設計されたものではありません。産業活動や物流を効率よく進めるためにつくられた、目立たない施設です。建物の正面を一定の距離から写すと、外壁の継ぎ目やガラスの反射が画面を構成する要素になります。バルツは、現代社会を支える建築の姿を、鑑賞者がよく観察できる形へと変えました。(参照:サンフランシスコ近代美術館|ルイス・バルツの作品群)

《空の倉庫、サンタアナ》の静かな違和感

同じ1974年の《Unoccupied Warehouse, Santa Ana》は、空の倉庫を題材とした写真です。サンフランシスコ近代美術館の所蔵情報には、ゼラチン・シルバー・プリントによる作品として記録されています。大きな事件も人物の劇的な身振りも写っていない建物の外観が、画面全体を占めます。写真の題名には建物が使用されていないことが示されています。

撮影された壁の表面を見続けると、窓や扉の配置、建材の質感など、普段は関心を向けにくい部分が目立ってきます。何のためにつくられた建物なのか、そこにどのような仕事があるのか。写真は答えを直接説明せず、建築物の存在から想像させます。機能的な建物の匿名性が、社会の姿を考える入り口になっているのです。(参照:サンフランシスコ近代美術館|バルツ《空の倉庫》)

工場の外壁が抽象画にも見えてくる

《South Wall, Unoccupied Industrial Structure, 16812 Milliken, Irvine》(1974年)などの作品では、工業施設の壁が画面の大きな面積を占めています。水平線と垂直線、窓の暗い四角形、外壁の明暗が、幾何学的な構成を生み出します。見る角度によっては抽象絵画のような秩序が感じられますが、その形は実在する建物の表面から得られたものです。

この連作の意義は、目立たない工場や倉庫を美しく飾り立てたことにとどまりません。均質な建築がどこにでも生まれていく時代の風景を、写真によって比較できるようにしたことにあります。複数の写真を続けて見ると、違う会社の建物が似た構造を持つ様子が分かります。撮影と編集を通して、土地の変化が視覚的なまとまりとして示されました。

バルツの写真の中にある直線や四角形は、抽象絵画の形式を思わせます。実際の被写体は企業の倉庫や壁です。工業的な建築物の造形美を発見したという読みと、どこにでも似た建物が現れていることへの関心は、同じ画面から生まれます。写真家が強く感情を表さないために、鑑賞者はその両方を考えることができます。写真の構図がもたらす美しさと社会的な内容が重なっているのです。(参照:サンフランシスコ近代美術館|バルツ《工業施設の南壁》)

ジョー・ディールが見下ろした都市の成長

道路と住宅地を高い位置から捉える

ジョー・ディールは都市の外縁や乾燥した土地を、やや高い場所から撮影する方法で知られています。ニュー・トポグラフィックス展では、1974年の《Untitled View (Boulder City)》などが紹介されました。地上の歩行者の視線とは異なる高さから見ると、道の曲がり方や住宅地の区画、周囲の地形が一つの画面の中で関係づけられます。

上から撮った写真は地図にも似ていますが、そこには実際の土の表面、建物の影、遠くの斜面の起伏が写っています。抽象的な線の集合として土地を見ることと、その土地を生活の場として見ることが重なるのです。家や道路の集合を遠くから捉える方法は、都市の成長を一人の生活者の視点とは違う尺度で考える手がかりになりました。(参照:サンフランシスコ近代美術館|展覧会解説)

《アルバカーキの灌漑用水路》と土地の線

サンフランシスコ近代美術館の展覧会記録では、ディールの《Irrigation Canal, Albuquerque, New Mexico》(1974年)が紹介されています。乾いた土地に人の手で水路を設ける行為は、地表に明瞭な線を引くことでもあります。農業や生活のためにつくられた水路を写真に収めると、土地が人間の技術によって調整されてきた事実が見えてきます。

水路の線だけを見れば、幾何学的な構図として楽しむこともできるでしょう。周囲の地形や建築と合わせて見ると、なぜここに水を引く必要があるのかという問題が立ち上がります。風景を撮影することは、土地の形と社会の使い方を同時に観察する行為になります。ディールの写真は、人工的な線が自然の地形の中に刻まれている様子を示しました。(参照:サンフランシスコ近代美術館|展覧会解説)

写真の中で地形と都市計画を結びつける

ディールが撮る新しい街の景色には、同じ規格の住宅や道路が繰り返し現れます。そうした風景は、実際の生活の便利さや開発の経済的な理由によって形づくられています。写真の画面では、斜面に沿う道、造成された土地の輪郭、家々の位置が互いに関係づけられます。都市計画を説明する図面とは異なり、完成しつつある現実の姿を知ることができます。

ランド・アートでは地形自体を掘り進めたり、自然の中に形をつくったりする作品が生まれていました。ディールの写真は、その時代に人間が日常の生活や経済活動のために土地を変えている様子を観察しています。両者を並べて考えると、芸術家の大規模な行為と、社会全体による土地の改変が同じ時代の問題として浮かび上がります。

ディールが見渡した郊外は、完成した都市の姿ばかりではありません。道路の線がまだ少なく、住宅が部分的に建てられた土地も、変化の途中にある景色として重要です。都市の成長を結果だけで説明すると、新しい道路や建物が生まれる時間の感覚が失われます。写真は、一年後には違う姿になっているかもしれない場所を、その時点の空間として示します。街の歴史を記録する写真の働きが、ここにあります。(参照:Smarthistory|ニュー・トポグラフィックスの歴史)

フランク・ゴールキーが写した産業と自然

地方都市の穀物倉庫とその形

フランク・ゴールキーは中西部の農業地域などで、穀物倉庫や周辺の道路、土地の広がりを撮影しました。広大な平野に立つ高い貯蔵施設は、遠くから見ると地方の目印のように見えます。その建築は食料の生産と輸送のために必要とされたもので、人々の暮らしと地域の産業を支えています。

こうした建物を風景として撮影すると、建築だけを切り出した記録とは異なる意味が生まれます。倉庫の高さと周囲の低い建物との対比、道路からの見え方、広い空との関係が同時に写るからです。農業のための建築も、その土地の風景をつくる大きな要素でした。ゴールキーは身近な場所にある人工物を通じて、地域の歴史を静かに示しています。(参照:サンフランシスコ近代美術館|ニュー・トポグラフィックス)

自然災害の後に残る風景を撮影する

ゴールキーの仕事は、建築のある風景から自然災害が残した痕跡へも広がりました。1980年5月18日にアメリカ北西部でセント・ヘレンズ山が噴火すると、森林や地形は大きく変化します。ゴールキーはその後、被災した土地の様子を継続して撮影しました。1981年に撮った倒木の広がりを示す航空写真も、ニューヨーク近代美術館の資料に記録されています。

倒れた木々が密集する土地は、山の美しい姿を見せる風景写真とは異なる印象を与えます。自然の変化が持つ大きな力と、その周辺で人間が暮らしてきた歴史を、同じ土地の中で考えさせるからです。ゴールキーが関心を向けたのは、災害の瞬間を劇的に捉えることだけではありません。出来事が過ぎた後に土地に残る状態を観察し、時間をかけて記録することでした。(参照:ニューヨーク近代美術館|ゴールキー《セント・ヘレンズ山》)

時間が変えていく場所を記録する

都市開発も自然災害も、短い時間で風景を大きく変える出来事です。ゴールキーの制作では、その結果として残された建物や地表を写真にすることで、変化の後の時間が視覚化されます。場所が以前どのような姿だったかを知る資料と新しい写真を比べると、同じ土地に異なる時期の歴史が重なっていることが分かります。

ニュー・トポグラフィックスの視点は、1975年の写真展で完結するものではありませんでした。人間がつくった施設と自然の変化を観察する方法は、長期間にわたって地域を記録する仕事にも展開していきます。ゴールキーの作品は、景観を静止した絵として見ることから、時間の中で変わり続ける場所として理解することへの重要な移行を示しています。

セント・ヘレンズ山の写真を考えると、自然を撮影することにも複数の方法があると分かります。美しい山容を見せるために撮ることも、噴火による地形の変化を継続的に記録することもできます。ゴールキーの関心は、後者のような時間の中の土地へ広がっていきました。人間が変えた場所と自然が変えた場所の双方を観察することで、風景という言葉が指す範囲が豊かになります。(参照:ニューヨーク近代美術館|ゴールキー《セント・ヘレンズ山》)

スティーヴン・ショアは街をカラーで写した

《アメリカン・サーフェシズ》という旅の記録

スティーヴン・ショアは1972年、車でアメリカ各地を移動しながら、食事、寝泊まりした部屋、テレビ画面、街角、出会った人々をカラーで撮影しました。《American Surfaces》と呼ばれるこの連作は、記念すべき出来事だけを残す旅行写真とは異なります。何気なく目にしたものを次々に写すことで、日常を経験する視線そのものが作品の中へ入ってきます。

ショアは後年の美術館の解説で、話すように自然な写真を撮りたかったと振り返っています。1972年の発表では、小さなカラープリントが額装されず、複数の列に並べて展示されました。その扱い方も、完成された一枚を鑑賞する従来の方法とは違っていました。身近な光景を連続して見ることが、時代の生活文化を知る方法へとつながります。(参照:ニューヨーク近代美術館|ショア《アメリカン・サーフェシズ》)

《アンコモン・プレイシズ》の交差点と商店

ショアは1973年頃から大判カメラを使った《Uncommon Places》の制作を進めました。広い交差点、街路沿いの店舗、モーテル、建物の正面などを、画面の細部まで鮮明に捉えています。1975年の展覧会に参加したときには、このような日常風景を写す写真の新しい可能性を示す作家として紹介されました。

大判カメラの写真は、道路の向こうに見える文字や建物の窓など、細部を長く観察できることが特徴です。画面には主役となる人物がいなくても、商店の看板、車線、建築、空が複雑な関係をつくっています。ショアが捉えた街は、写真家が訪れる以前からそこに存在していたように見えます。どこにカメラを置くかという判断によって、見慣れた街の秩序が表れます。(参照:ニューヨーク近代美術館|スティーヴン・ショア作品解説)

カラー写真が日常の色彩を見せる

ショアが撮影したアメリカの道路や商店には、看板の色、空の青、建物の塗装、自動車の色が自然に含まれています。こうした色彩を白黒へ置き換えれば、形や陰影の関係が強くなります。カラーで記録すると、当時の街に特有の視覚的な環境がより具体的に残ります。色は飾り付けのためだけに使われているわけではありません。

1970年代には、カラー写真が主として広告や日常の記念写真と結びつけられる傾向が残っていました。ショアは色を、芸術写真が扱える当然の要素として用い、身近な風景を正面から撮影しました。《アンコモン・プレイシズ》が写真集として刊行されたのは1982年です。撮影から出版までの時間の違いも、作品の歴史を理解するときに重要です。

ショアの作品では、食べ物やホテルの室内と街角が同じ旅の経験として現れます。その写真を順番に見ると、移動する身体の視線を追っているようにも感じられます。大判カメラで撮るようになった後には、同じ町の風景も、より時間をかけて眺められる写真へ変化しました。一人の写真家が使う機材と表現を変える過程を追うことで、1970年代のカラー写真の多様性を具体的に理解できます。(参照:ニューヨーク近代美術館|《アンコモン・プレイシズ》の出版史)

道沿いの建物を撮ったウェッセルとショット

ヘンリー・ウェッセルの《B & W モーテル》

ヘンリー・ウェッセルはカリフォルニアやアメリカ西部の住宅、道路、モーテルなどを撮影しました。1973年の《B & W Motel》は、後年のニュー・トポグラフィックス再検証展で確認できる作品です。名所を写した旅行写真では見過ごされがちな道沿いの施設が、静かな白黒写真に収められています。

モーテルは移動する人々のための施設であり、街の中心から離れた道路沿いにも数多く存在します。旅先の風景として見れば単なる宿泊場所ですが、写真の中では建築の形や周囲の空間が目立ってきます。ウェッセルの視線は、旅人が通り過ぎる小さな場面を独立した風景として見つめています。荒涼とした印象だけにまとめられない、土地の明るさや偶然の構図も作品の魅力です。(参照:ジョージ・イーストマン博物館|ヘンリー・ウェッセルの作品)

ジョン・ショット《ルート66のモーテル》

ジョン・ショットの連作《Route 66 Motels》には、かつて長距離移動の道として親しまれたルート66沿いの宿泊施設が登場します。ジョージ・イーストマン博物館の所蔵作品には、1973年撮影のガレージを備えたモーテルの写真があります。大きな看板や建物の正面を撮る行為は、車による移動を中心に成長したアメリカの歴史を読み取る手がかりになります。

この道沿いの建築は、交通の仕組みが変われば利用者も減り、用途や見え方が変化します。ショットが撮ったモーテルは、旅行者を迎える商業施設であると同時に、ある時代の生活を残す建築物でもあります。写真家が特別な演出を加えなくても、建物の形と敷地の様子から、その場所に積み重なった時間を感じ取れます。(参照:ジョージ・イーストマン博物館|ジョン・ショット《ルート66のモーテル》)

似た題材から生まれる異なる写真

ウェッセルとショットは、どちらも西部の道路や建物に目を向けました。写真に写るものが似ているため、同じ作風として一括りにされることもあります。ウェッセルの写真では光と瞬間の出会いが印象を左右し、ショットのルート66の写真では、特定の道路沿いに並ぶ建築を連続して捉える方法が際立ちます。

風景写真の新しさは、どのような題材を選んだかという点だけに現れるものではありません。撮影者がどの場所に立ち、複数の写真をどう結びつけ、何を観察する時間を鑑賞者に与えるかにも表れます。1975年の展覧会に異なる写真家が集められたことによって、近い主題を扱っていても写真の組み立て方にはさまざまな可能性があると分かります。

道路の施設は、利用する人々にとって機能的な意味を持っています。モーテルの外観や看板には、その店を見つけてもらうための工夫があります。ウェッセルとショットの写真は、そうした商業的な風景を、広告の視点から切り離して見せます。宿泊したくなるかどうかという判断を離れると、建築そのものの形や時間の痕跡が目に入ります。写真が対象の意味を変える働きも、ここに見られます。(参照:サンフランシスコ近代美術館|展覧会解説)

ニコラス・ニクソンが捉えたボストンの建築

都市を上から見るという方法

ニコラス・ニクソンは1970年代半ば、ボストンの建物や街路を大判カメラで撮影しました。1975年のニュー・トポグラフィックス展には、都市の構造を見渡す作品群で参加しています。高い位置から眺めると、道路、広場、屋根、港湾施設が一つの複雑な形をつくり、歩いているときには気づかない街のつながりが現れます。

ニクソンの写真では、都市の中を移動する一人ひとりの姿より、建物と道路の配置が大きな役割を持っています。遠くから俯瞰しても、画面の隅まで解像された建築物の表面が確認できます。都市そのものが、一つの巨大な構造物のように見えてきます。人物を中心に撮る写真とは異なる形で、そこで暮らす社会の姿を示した作品です。(参照:ジョージ・イーストマン博物館|ニコラス・ニクソンのボストン写真)

ボストンの広場と高速道路を比較する

ジョージ・イーストマン博物館の資料には、1974年の《View of Copley Square, Boston》や、1975年の《View of the State Street Bank and Southeast Expressway, Boston》などの出品作品が記録されています。広場と高層建築、銀行と高速道路という組み合わせから、都市の発展が歴史的な街路と新しい交通施設の重なりであることが分かります。

一つの場所の写真に大きな意味を託す方法に加えて、違う場所を撮った写真を並べることで都市の特徴を知る方法もあります。広場を中心にした都市の姿と、高速道路が横切る都市の姿では、人が移動し集まる仕組みが違います。ニクソンの連作は、街の空間がどのように構成されているのかを観察するための資料であり、写真作品でもあります。(参照:ジョージ・イーストマン博物館|ニコラス・ニクソンのボストン写真)

風景から人物へ向かった後年の制作

ニクソンは後年、人間の身体や家族を中心とした写真で広く知られるようになります。1970年代半ばの都市風景と、その後の人物写真は主題が大きく異なります。1975年の展覧会だけで写真家の仕事全体を説明することはできません。そこで発表された作品は、その時点での関心を示す一つの段階でした。

ニュー・トポグラフィックスを独立した運動の名前として覚えると、参加者全員がその後も同じ方法で撮り続けたように感じるかもしれません。実際には写真家たちは別々の方向へ制作を広げています。展覧会を一つの歴史的な接点として捉え、そこで生まれた新しい写真の見方が後の多様な表現へどう受け継がれたかを考えると、動向の広がりが理解しやすくなります。

ニクソンが写した都市の眺めは、後年の都市計画を検証する資料としても興味深いものです。写真に写る広場や高速道路は、当時の都市が何を重視して整備されてきたのかを物語ります。高い位置から街を見渡す方法は、部分的な道の景色では分からない関係を示します。建物を一つずつ説明する代わりに、複数の建築が一緒につくる都市の形へ注意を向けられるからです。(参照:ニューヨーク近代美術館|ロバート・アダムス展覧会記録)

ベッヒャー夫妻が発見した「無名の彫刻」

給水塔や溶鉱炉を撮り続ける

ベルント&ヒラ・ベッヒャー夫妻は1950年代末から、欧米の工業建築を継続的に撮影していました。被写体には給水塔、溶鉱炉、炭鉱の採掘櫓、ガスタンクなどがあります。写真では、構造物の全体が分かる距離を取り、背景に余計な要素が入りにくい条件を選びます。建築の独特な形が画面の中心に現れ、同じ用途の施設でも設計が違うことを観察できます。

夫妻は、それらを「無名の彫刻」と捉える視点を提示しました。産業のためにつくられた構造物には、著名な彫刻家の名が刻まれているわけではありません。けれども、その形には技術、用途、地域の条件が反映されています。写真を通じて建物の存在を独立した造形物のように見せる方法は、記録写真と現代彫刻の関係を新しく考えさせました。(参照:サンフランシスコ近代美術館|ベッヒャー夫妻回顧展)

《給水塔》を並べて生まれる違い

メトロポリタン美術館が所蔵する《Water Towers》(1963〜1980年)は、16点の写真からなる作品です。写真には異なる場所に建つ給水塔が同じような形式で写され、四列四段に並べて比較できるようになっています。一つずつ見れば機能的な建築物の記録でも、全体として見ると塔の高さ、屋根の形、支える脚の違いが目立ってきます。

このように同じ種類のものを複数集めて比較する方法は「類型学的な配列」と呼ばれます。夫妻の写真では、人物や劇的な背景を省いた統一した方法が比較を可能にします。写真の意味は撮影された対象だけで決まるのでしょうか。異なる給水塔が並ぶことで生まれる造形的な面白さを見ると、写真の編集と配置そのものも、制作の重要な要素であることが分かります。(参照:メトロポリタン美術館|ベッヒャー夫妻《給水塔》)

消えゆく産業建築を記録する意味

工業施設は用途を失うと解体される場合があります。ベッヒャー夫妻が撮影していた建築物も、産業構造の変化とともに姿を消していきました。写真は、取り壊される前の施設の構造を後世に残す資料になります。夫妻の記録は、美術と産業史の両方から重要なものと考えられるようになりました。

夫妻が行ったのは、古い建物を懐かしむための撮影だけではありません。建築を同じ規則で写す方法は、どの時代の施設にも共通する問題を浮かび上がらせます。なぜ同じ役割の給水塔に多様な形が生まれるのか。その違いから地域の歴史や技術的な条件を読み取れます。写真による分類が、土地と社会の変化を考える方法へつながりました。

ベッヒャー夫妻の写真は、今では整然とした配列によって知られています。その形式が生み出す印象の背後には、現地へ繰り返し出向き、撮影条件を合わせ、対象を選び続ける長い作業があります。似たものを撮ることは、簡単な反復作業にはとどまりません。どの建築を同じ種類とみなすか、どの向きから撮るか、どの写真を隣に置くかという判断の積み重ねが、完成作品の形を決めています。(参照:メトロポリタン美術館|ベッヒャー夫妻図録)

1970年代、カラー写真の評価が変わる

1976年のウィリアム・エグルストン展

1976年、ニューヨーク近代美術館ではウィリアム・エグルストンのカラー写真展が開催されました。写真部門のジョン・シャーカフスキーが企画したこの展覧会は、身近な生活環境を色彩豊かに撮影した作品を広く紹介しました。道路や家庭の室内、商店の周辺など、芸術写真の典型的な主題としては扱われにくかった光景が、鑑賞の対象となりました。

エグルストンは1975年のニュー・トポグラフィックス展の参加者ではありません。それでも、普通の生活の風景をカラー写真として本格的に扱う動向を考えるうえでは欠かせない存在です。同じ時代に、何を写すかという問題と、どのような色彩でそれを見せるかという問題が進んでいました。二つの流れを並べると、1970年代の写真が多方向に変化したことが分かります。(参照:ニューヨーク近代美術館|1976年エグルストン展)

カラーが持つ現実の質感

白黒写真では、赤い看板と青い空が灰色の明暗へ変換されます。カラー写真では、看板の色や建物の塗装がその時代の生活環境を伝える要素になります。エグルストンやショアは、広告のために派手な色をつくるのとは異なる方法で、目の前に存在する色彩を作品へ取り込みました。

ショアの《アメリカン・サーフェシズ》では、旅先の食事や部屋の色が、撮影者の生活の記憶とともに残されます。エグルストンの作品では、街角や身近な場所が、独特な色の組み合わせによって強い印象を持つことがあります。カラー写真の新しさは、きれいな色を使ったという点だけで説明できません。日常の光景を写真としてどう感じ取るかという問題が、色彩を通して広がったのです。(参照:ニューヨーク近代美術館|ウィリアム・エグルストン)

写真展と出版物が評価を変えていく

エグルストンの1976年展は、写真集《William Eggleston’s Guide》とともに発表されました。1975年のニュー・トポグラフィックスにも展覧会図録がありました。撮影した写真を一つずつ売るだけでなく、まとめて見せる展覧会と、順序を決めて収める写真集が、作品の意味を伝える重要な媒体になっていきます。

写真集を開くと、読者は作家が選んだ順序で風景を見ます。展示室では複数の写真を行き来し、形や色を比較できます。このような鑑賞の方法が定着することで、街角や住宅地を撮った写真も、より長い時間をかけて読まれるようになりました。1970年代は、写真の題材とともに、その発表方法も大きく変わっていった時代です。

エグルストンとショアを同じ「カラー写真の先駆者」という説明だけで終えると、作品の違いを見失います。ショアには旅の経験を連続させる方法と、街の構造を精密に見せる方法がありました。エグルストンは身近な出来事を独特な色彩の関係として捉えることで注目されました。どちらも日常を撮りながら、色彩と被写体の結びつけ方は異なります。写真の変化は、一つの技法が広まった歴史として単純化できません。(参照:ニューヨーク近代美術館|エグルストン《エレクション・イヴ》)

写真と概念芸術、都市をめぐる視点

エド・ルシェの写真集という先例

1960年代のエド・ルシェは、ガソリンスタンドやロサンゼルスの建物などを写真集にまとめました。特定の対象を繰り返し撮り、一定の形式で並べる方法は、後にニュー・トポグラフィックスとして語られる写真家たちの仕事と比較できます。写真の一枚ごとの美しさから離れて、何を記録し、どのように配列するのかへ関心が向けられました。

ルシェの作品を紹介したロサンゼルス郡立美術館の展示資料は、ニュー・トポグラフィックスの歴史を前後の美術動向と結びつけています。写真集の形式が重要なのは、撮影したものをどの順番で、何枚見せるかによって、場所の意味が変わるためです。ガソリンスタンドを一つの建築として見ることから、道路や移動の文化を読み取ることへ、鑑賞の焦点が広がります。(参照:ロサンゼルス郡立美術館|ニュー・トポグラフィックスの再検証)

ミニマリズムや概念芸術との接点

ニュー・トポグラフィックスの写真は、同時代のミニマリズムや概念芸術とも共通する問題を持っています。規則に沿って写真を繰り返すこと、特定の対象を分類すること、撮影者の感情表現を抑えることなどが、その例です。ベッヒャー夫妻の工業施設の写真は、幾何学的な作品を反復して見せる美術の形式とも比較されてきました。

美術館がこれらの写真を紹介したとき、単独の写真家の個性を鑑賞することに加え、方法や仕組みを作品として捉える見方が生まれました。たとえば給水塔の写真が整列する展示を見れば、何を同じと考え、どの違いを見せるかという判断に気づきます。写真の技術と現代美術の思考が接近したことも、1970年代の転換の一つでした。(参照:メトロポリタン美術館|デュッセルドルフの写真)

ラスベガスの街並みを研究する視点

建築家ロバート・ヴェンチューリ、デニス・スコット・ブラウンらが1972年に刊行した『ラスベガスから学ぶ』は、看板や商業建築を含む都市のあり方を真剣な研究の対象にしました。都市の雑多な景色には、人々の移動や買い物、地域の経済が反映されています。建築の名作だけを選ばず、平凡な建物から社会の姿を考える点で、ニュー・トポグラフィックスとの接点があります。

1975年展を再検証したロサンゼルス郡立美術館は、この本を写真史の背景となる重要な資料の一つとして紹介しました。写真家も建築家も、日常の街角から学ぶ方法を探っていたのです。看板やモーテルを画面から取り除かず、実際の土地を理解するための資料として捉えることが、この時代の視覚文化の特徴となりました。

概念芸術と写真の関係を見ると、記録をする行為自体が作品の構造になることが分かります。給水塔を反復して撮影することも、道路沿いのモーテルをまとめて撮ることも、何を対象にするのかという決まりを含みます。写真はシャッターを押す一瞬に成立しても、連作の構想には長い調査と編集の時間が必要です。そのため、写真の歴史をカメラの性能だけから説明することには限界があります。(参照:ロサンゼルス郡立美術館|ニュー・トポグラフィックスの再検証)

1980年代、写真家は都市をどう捉えたか

トーマス・シュトルートのニューヨークの街路

ドイツの写真家トーマス・シュトルートは1978年、ニューヨークで街路の写真を撮りました。メトロポリタン美術館が所蔵する《Crosby Street, Soho, New York》(1978年)では、通りと建物が画面の奥へ続いています。道の両側に並ぶ建築の形や建材の違いが、都市の歴史を感じさせます。

シュトルートは、人物を主役として街路の出来事を劇的に写す方法とは異なる表現を選びました。正面を意識した構図で、都市そのものを観察するのです。一つの通りには、古い建物や新しい施設、商業活動の痕跡が同時に存在します。写真は、それらが混ざり合ってできた街の秩序と複雑さを、長い時間をかけて読むことを促します。(参照:メトロポリタン美術館|シュトルート《クロスビー・ストリート》)

《クロスビー・ストリート》の視点と奥行き

《クロスビー・ストリート》を眺めると、道路が奥へ伸び、その両側に建物の立面が立ち上がります。写真に映る建物は個々に異なる用途と歴史を持っていますが、画面の中では一つの都市空間を形づくっています。鑑賞者は通りの中央に立ったような位置から、建築と路面の関係を同時に観察できます。

メトロポリタン美術館は、シュトルートの仕事をベッヒャー夫妻の教育、19世紀から続く都市写真、ミニマリズムや概念芸術の関心が交わる場所に位置づけています。一定の方法で撮影することは、あらゆる都市の違いを消すためではありません。画面の条件を揃えることで、通りごとの構造や歴史的な特徴が比較しやすくなります。(参照:メトロポリタン美術館|シュトルート《クロスビー・ストリート》)

都市を写真で記録することの歴史的意味

都市は日々変化します。新しい店が入り、古い建物が取り壊され、通りの使われ方も変わります。シュトルートは1977年末から翌年にかけてニューヨークに滞在し、変化の途上にある街を写真に残しました。シカゴ美術館の研究では、ロウアー・マンハッタンの荒れた街路から新しい高層建築まで、都市の多様な姿が記録されていると説明されています。

写真が時間の流れを止める媒体であることは、都市の変化を考える際に重要になります。同じ場所に再び立って見比べれば、建物の変化を知ることができます。シュトルートの都市写真は、その時点での街の姿を資料として残しながら、撮影位置と画面の構成によって都市をどう理解するかという問題も示しています。

シュトルートの写真を何枚か並べると、都市によって道路の幅や建物の高さ、窓の形が違うことに気づきます。写真を通して街を比較するという方法は、旅行先の珍しさを集めるものとは異なります。同じような視線で撮るからこそ、そこに現れる違いが歴史的な情報になるのです。建築に刻まれた時間を読み取るための視覚的な条件を、写真家が作っていると考えられます。(参照:シカゴ美術館|都市の写真とトーマス・シュトルート)

トーマス・ルフが広げた写真の客観性

《ポートレート》に見る均一な撮影方法

トーマス・ルフは1980年代、知人や学生たちの顔を、ほぼ同じ条件で撮る肖像写真を制作しました。メトロポリタン美術館が所蔵する《Portrait (A. Siekmann)》(1987年)もその一作です。表情を大きく誇張せず、人物を正面に近い視線で捉える画面は、身分証明書の写真を思い起こさせます。

肖像写真は通常、その人の性格や個性を表そうとするものと考えられがちです。ルフの作品では、同じような背景と照明の条件で人物が写され、見る側は顔の細部や表情のわずかな違いに注意を向けます。ベッヒャー夫妻が工業建築を比較した方法が、人物写真にも応用できることを示す作品です。(参照:メトロポリタン美術館|ルフ《A・ジークマンの肖像》)

大きなプリントが鑑賞者との関係を変える

ルフの肖像は、比較的大きなプリントとして展示されることで、証明写真に似た形式が異なる印象を生み出します。個人的な情報を確認するための小さな顔写真が、美術館では鑑賞者と向き合う大きな像になるからです。細部まで見える顔は、人物を知っているような感覚を与えることがあります。

そこに写る人物について、私たちが本当に分かることは限られています。光や表情を一定にしても、写真が人間の内面まで説明できるわけではありません。ルフの仕事は、記録の明瞭さと人物理解との間に距離があることを示します。客観的な撮影方法への関心が、都市や建物から肖像という主題へ広がった重要な例です。(参照:メトロポリタン美術館|ルフ《A・ジークマンの肖像》)

建築物から人物へ、分類の方法が移る

ベッヒャー夫妻の写真には、同じ用途を持つ建物の形の違いを比較する方法がありました。ルフはその態度を受け継ぎながら、人物や建築物を扱う写真で独自の表現を展開しました。撮影条件を整え、被写体を分かりやすく捉えることで、写真が持つ記録の能力が前面に出ます。

類型的な撮影方法が人物に向けられると、鑑賞者は対象を分類すること自体の意味に気づきます。建物を比較するときと、人間の顔を並べるときでは、見る側が感じる問題も変わるからです。ニュー・トポグラフィックスからデュッセルドルフ派へのつながりには、方法の継承とともに、その方法を別の対象へ向け直すことで生まれた新しい問いがありました。

ルフの肖像を見ていると、撮影された人が画面の前に立っていたという事実が強く感じられます。ところが、その写真から人物の性格や人生まで簡単に読み取ることはできません。写真は多くの情報を見せると同時に、写っていない情報について想像させます。客観的な撮影方法が持つ意味を、このような距離感から考えることができます。風景写真とは異なる対象によって、写真の記録性が改めて問われました。(参照:メトロポリタン美術館|デュッセルドルフの写真)

デュッセルドルフ派が写真を変えていく

ベッヒャー夫妻による写真教育の影響

1976年、ベルント・ベッヒャーはデュッセルドルフ美術アカデミーで写真教育を担当するようになりました。ヒラ・ベッヒャーも共同制作と教育を通して重要な役割を果たしました。学生たちには、トーマス・シュトルート、トーマス・ルフ、アンドレアス・グルスキー、カンディダ・ヘーファーらがいます。

彼らの写真は後に「デュッセルドルフ派」と呼ばれるようになります。授業や共同研究で共有されたのは、きれいな風景を撮るための統一した技術だけではありません。対象を一定の方法で観察し、写真同士を比較し、作品を複数の画像として構成する考え方でした。各作家はそこから別々の主題へ向かい、1980年代の写真を多様にしていきました。(参照:メトロポリタン美術館|デュッセルドルフの写真)

カンディダ・ヘーファーの公共的な室内空間

カンディダ・ヘーファーは図書館や美術館、公共施設など、人々が利用する建築空間に関心を向けました。彼女の仕事を考えると、ニュー・トポグラフィックスの視線が屋外の道路や建物から、室内にある社会的な空間へと広がったことが分かります。家具の配置、窓から入る光、床や壁の形が、施設の使われ方を示します。

人が直接写っていない室内にも、その建物を設計し、整え、利用してきた人々の存在が残ります。図書館の机の列や劇場の座席は、建築が何のためにつくられたのかを語っています。ヘーファーのような写真家の仕事を考えると、都市や建築の記録写真が、共同生活や公共空間のあり方を問いかける美術へと発展したことが見えてきます。(参照:メトロポリタン美術館|デュッセルドルフ派とベッヒャー夫妻)

アンドレアス・グルスキーと風景のスケール

アンドレアス・グルスキーもデュッセルドルフで写真を学び、1980年代後半から風景や建築を大きな画面で捉える作品を展開しました。高い位置から対象を見ることや、空間全体の秩序を観察する方法は、1970年代のニュー・トポグラフィックスとの接点を持っています。

その後のグルスキーは、巨大な展示用プリントと精密な構成によって国際的に知られるようになります。1990年頃までの作品を考える際には、その出発点として撮影場所の選び方と空間の整理に注目したいところです。ベッヒャー夫妻の反復的な調査から、都市や世界の空間を新しい尺度で見せる写真へと、表現の幅が広がっていきました。

デュッセルドルフ派という名称も、学生たちが皆同じ題材を撮ったことを意味しません。教育上の共通点がありながら、街路、人物、公共施設、広い風景へと関心が分かれていきました。方法を学ぶことと、同じ作品を作ることは別です。ベッヒャー夫妻から受け継いだ反復や観察の姿勢が、それぞれの写真家の関心に応じて変わっていく過程に、1980年代の写真の豊かさがあります。(参照:メトロポリタン美術館|デュッセルドルフの写真)

写真集と美術館が生んだ新しい鑑賞の方法

連作を一つの作品として見る

ニュー・トポグラフィックスに参加した写真家たちの仕事は、単独の傑作写真だけを見ていても全体像が分かりません。バルツの工場の写真やベッヒャー夫妻の給水塔の写真は、複数を並べて見ることによって、はじめて強い意味が現れます。一枚に写された形と、ほかの写真に見つかる似た形が比較できるからです。

美術館の壁に写真を並べる順序や、写真集のページをめくる順番も作品を理解する条件となります。どの写真を最初に見せ、どれを最後に置くか。似た写真を続けるか、違う場所を交互に配置するか。写真家や編集者の判断は、撮影したときと同じくらい鑑賞の経験を左右します。1970年代には、こうした連作の構成が写真表現の中心的な方法の一つになっていきました。(参照:スミソニアン図書館|2009年展図録)

《アンコモン・プレイシズ》の出版と広がり

ショアの《アンコモン・プレイシズ》は、1970年代に撮影された写真が1982年に写真集として発表され、後の写真家たちにも影響を与えた作品です。カラー写真でありながら、劇的な場面より日常の街並みを大判カメラで精密に写した方法が、写真集全体から伝わってきます。

一枚の作品を美術館で見る体験と、同じ作家の写真を数十枚続けて見る体験は異なります。写真集では、場所が変わっても似たような交差点や商店が現れ、当時のアメリカの広がりを感じられます。出版によって写真は展示室を離れ、別の地域の読者へ届きます。日常風景を鑑賞の対象へ変えた大きな要因として、写真集の存在を忘れることはできません。(参照:ニューヨーク近代美術館|《アンコモン・プレイシズ》の出版史)

1978年《鏡と窓》展が示した写真の多様性

ニューヨーク近代美術館では1978年7月から10月にかけて、《Mirrors and Windows: American Photography since 1960》展が開催されました。企画したジョン・シャーカフスキーは、写真を作家の内面が映る「鏡」と、外の世界を観察する「窓」という比喩から考察しました。この展覧会は、1970年代の写真が一つの方向だけへ進んでいたわけではないことを示しています。

ニュー・トポグラフィックスの写真も、単に外界の事実を集めたものとして理解し尽くせるわけではありません。同じ建物を撮っても、その場所を選んだ理由や構図には写真家の判断が表れます。美術館で写真を体系的に見せる企画が増えたことで、技術や題材の違いに加えて、写真家が世界とどのような関係を結んでいるのかが議論されるようになりました。

写真が美術館へ収蔵されると、プリントの保存や展示方法にも目が向けられます。白黒写真とカラー写真では、制作に用いる材料や保存上の課題が異なります。また、写真集として発表された作品を一枚だけ切り出して展示した場合、連作の中での意味とは違う印象になることがあります。写真の価値を考えるには、撮影対象だけでなく、どのような形で鑑賞者に届いてきたのかも重要です。(参照:ニューヨーク近代美術館|《鏡と窓》展(1978年))

土地の開発と環境への問い

造成地や工場は誰の暮らしを支えていたのか

住宅地、倉庫、ガソリンスタンド、道路は、社会の活動を支えるためにつくられています。ニュー・トポグラフィックスの写真には、それらがつくられた結果としての風景が写っています。住むための家が増えること、車で移動しやすくなること、物を運ぶための施設ができることは、生活を便利にする営みでもあります。

同じ風景には、開発前にあった植物や地形が失われることも写し込まれています。写真家たちは、こうした変化を一つの結論へまとめる代わりに、実際に存在する土地の姿として示しました。鑑賞者は、家が並ぶ街とその周囲の環境を見ながら、どのような暮らしを選び、どのように土地を使っているのかを考えることができます。(参照:ナショナル・ギャラリー|ロバート・アダムス回顧展)

風景写真と環境保護運動を区別する

1970年代は環境問題への社会的関心が高まった時代でもありました。自然の景色を保護する活動と、開発された土地を写真に撮る実践には、互いに交わる問題があります。ニュー・トポグラフィックスの参加者全員が、同じ環境政策や政治的な主張を掲げていたわけではありません。作品には、開発の進む社会を批判的に見る視線も、日常の建築を観察する方法への関心もありました。

一枚の住宅地の写真から、写真家の考えをすべて読み取ることは難しいものです。作品の背景にある撮影活動、写真集の編集、作家の文章を合わせて読むと、より具体的な意図が見えてきます。環境問題への関心を持つ読者にとっても、目の前の風景をまずよく観察することが、議論の出発点になるでしょう。(参照:Smarthistory|ニュー・トポグラフィックスの歴史)

自然と人工物が分かれない風景

山と住宅、草地と道路、湖と工業施設を別々の風景として考えると、開発された場所にある複雑な関係が見えにくくなります。アダムスのコロラドやディールの乾燥地帯の写真では、人工物と自然の地形が同じ画面に収まります。街が周囲の土地から独立して存在しているかのような錯覚は、こうした写真を見ることで揺らぎます。

写真家が撮影した街には、自然の光、気候、地形が必ず関わっています。建物の形も道路の敷かれ方も、土地の条件を受けています。風景の中に人間の仕事の痕跡を読み取ることは、その土地の歴史を考えることへつながります。ニュー・トポグラフィックスが後の景観研究や写真表現へ影響を与えた理由の一つは、日常の土地を総合的に観察できるようにした点にあります。

環境について考えるとき、写真を見せることによって直接政策が変わると期待しすぎる必要はありません。写真ができるのは、見慣れた土地の姿を改めて観察できるようにすることです。道路と住宅が重なった風景を何度も見ると、土地の使い方について具体的な問いが生まれます。作品の美しさと社会的な問題が共存している点も、ニュー・トポグラフィックスの持続的な重要性につながっています。(参照:サンフランシスコ近代美術館|ニュー・トポグラフィックス)

1990年頃までに何が広がったのか

1975年展の名前が写真の歴史となる

1975年の《ニュー・トポグラフィックス》展は、その場に集まった写真家の作品を紹介する企画でした。その後、展覧会名は風景写真を説明する重要な言葉として使われるようになります。郊外や工業地帯を撮ること、写真の反復や分類によって対象を見せることなどに、共通する歴史的な意味が見いだされるようになったのです。

名称が広く使われることで、1975年の参加者以外の作家の仕事も関連づけられるようになりました。歴史的なまとまりとして便利であると同時に、各作家の違いを見落とさない配慮も求められます。ニュー・トポグラフィックスの重要性を理解するには、当時の展覧会の顔ぶれと、後にその名前で語られた写真表現の広がりを分けて考えることが役立ちます。

1975年の写真家たちが写したのは、誰もが日々目にしているような場所でした。住宅の外壁、駐車場、モーテル、工場、道路沿いの看板は、生活に必要な施設であっても、鑑賞する対象としては意識されにくいものです。ニュー・トポグラフィックスは、そうした場所を写真によって繰り返し観察し、その形に目を向ける方法を示しました。

写真を見慣れた後に街を歩くと、同じような建物の細部の違いや、建物と道路のあいだに生まれる空間が気になり始めるかもしれません。写真作品は、そこに写った場所についての知識を増やすだけでなく、見ている人の観察の仕方にも影響します。平凡な風景の中に読み取れるものが増えることは、芸術の経験として重要な変化でした。(参照:ジョージ・イーストマン博物館|展覧会の再検証)

ドイツの写真家たちが開いた新しい方向

ベッヒャー夫妻が1975年の展覧会に参加していたことは、アメリカの風景写真とドイツの写真教育をつなぐ重要な接点でした。1980年代のデュッセルドルフでは、街路、肖像、建築空間など、異なる被写体を同じ方法で継続的に撮影する作家が現れました。写真を記録のために使うことと、比較や分類の方法を作品の中心に置くことが結びつきます。

シュトルートやルフらの作品は、やがてより大きなプリントや展示空間へ展開します。ニュー・トポグラフィックスに見られた抑制された画面の姿勢は、都市や人物を新しい尺度で眺めるための方法にもなりました。1975年の展覧会を起点に1990年頃までを見渡すと、都市を撮る写真が国際的な現代美術の重要な一分野へ発展していく流れが見えてきます。

同じ風景を撮影しても、カメラを置く位置や撮影する時間、画面に含める範囲によって写真の印象は変わります。ニュー・トポグラフィックスの作家たちは、被写体を明瞭に示す方法を重視する中で、写真家の選択が持つ力も表しました。記録として役立つ写真であることと、鑑賞のために構成された作品であることが、同じ画面の中で成立しています。

ベッヒャー夫妻の給水塔は産業史の資料でもあり、類型的に並んだ造形作品でもあります。アダムスの住宅地は郊外化の記録であり、土地を見つめる繊細な写真でもあります。このように複数の意味を持つ写真が、1970年代以降の美術館や写真集で高く評価されるようになりました。記録と芸術の関係を考える際にも重要な事例です。(参照:メトロポリタン美術館|デュッセルドルフの写真)

その後の再評価と、写真を学ぶ意味

2009年にはニュー・トポグラフィックスの歴史的な展覧会が再構成され、ジョージ・イーストマン・ハウスやサンフランシスコ近代美術館などで紹介されました。かつて普通の建物や道路を撮影した写真が、後の時代に美術史の重要な作品として扱われるようになったのです。この再評価は、作品が生まれた1970年代の価値観も改めて読み直す機会となりました。

美術館の所蔵品となった写真を見ると、制作年、プリントが作られた年、収蔵された年が異なる場合があります。たとえば1970年代に撮影した像を後にプリントした作品もあります。資料を読む際には、この時間の違いを確かめることが重要です。現代写真の歴史は、作品を撮影した瞬間だけでなく、それがどう展示され、出版され、再評価されてきたかという過程によって形づくられています。

1970年代後半には、街や建築を撮影する仕事と並行して、広告や映画、雑誌にすでに載っているイメージを使う芸術家たちも現れました。1977年の《Pictures》展をきっかけとして知られるようになった動向です。ニュー・トポグラフィックスの中心が、実際に存在する土地と建築をどう観察するかという問題にあったのに対し、ピクチャーズ世代は流通するイメージの意味や作者性に注目しました。

両者は同じ時代の写真文化を共有しながら、異なる方向から美術を広げていきます。本記事では、土地と都市の観察、連作、カラー写真、写真教育の変化を中心にたどりました。次の記事では、映画や広告の画像を引用したり、演出したりする表現を通して、写真が現実とどう関わるかという別の問いを取り上げます。

1975年から1990年頃までの変化を一つの直線として捉える必要はありません。アメリカでは郊外を撮り続ける写真家が活動し、カラー写真が定着していきました。ドイツでは分類と観察の方法を学んだ作家が独自の写真表現を広げました。個別の作品を比べると、題材の選択、撮影方法、展示の仕方が互いに影響し合っている様子が分かります。重要なのは、共通する方法と個々の違いを同時に見ることです。(参照:ジョージ・イーストマン博物館|展覧会の再検証)

略年表

風景写真をめぐる主な出来事を、先行する実験から1980年代の展開まで年代順にまとめました。作品の撮影年と写真集の刊行年を区別しています。

  • 1962年 エド・ルシェがガソリンスタンドを撮影し、翌年に写真集《Twentysix Gasoline Stations》を刊行する。
  • 1969年頃 スティーヴン・ショアが写真の連続性や撮影の方法を考える初期の試みを進める。
  • 1970年 ベッヒャー夫妻の《無名の彫刻》が刊行される。
  • 1972年 建築家ヴェンチューリらが『ラスベガスから学ぶ』を刊行する。
  • 1972年 ショアが《アメリカン・サーフェシズ》の撮影を始め、ニューヨークで発表する。
  • 1973年 ジョン・ショットがルート66沿いのモーテルを撮影する。
  • 1973年 ロバート・アダムスが《ノースグレン、コロラド州》を撮影する。
  • 1974年 アダムスが写真集《ザ・ニュー・ウェスト》を刊行する。
  • 1974年 バルツが《アーヴァイン近郊の新しい工業団地》をまとめる。
  • 1974年 ジョー・ディールが《アルバカーキの灌漑用水路》などを撮影する。
  • 1975年10月14日 ロチェスターのジョージ・イーストマン・ハウスで《ニュー・トポグラフィックス》展が開幕する。
  • 1976年2月2日 《ニュー・トポグラフィックス》展が閉幕する。
  • 1976年 ベルント・ベッヒャーがデュッセルドルフ美術アカデミーで写真教育を担当し始める。
  • 1976年 ニューヨーク近代美術館でウィリアム・エグルストンのカラー写真展が開催される。
  • 1977年 アダムスがデンバー周辺の写真集《denver》を刊行する。
  • 1978年 トーマス・シュトルートがニューヨークの街路を撮影する。
  • 1978年 ニューヨーク近代美術館で《鏡と窓》展が開催される。
  • 1979年 バルツが《パーク・シティ》の風景を撮影する。
  • 1980年5月18日 セント・ヘレンズ山が噴火し、ゴールキーはその後の風景を記録する。
  • 1981年 ゴールキーが噴火後の森林を撮影する。
  • 1982年 ショアの写真集《アンコモン・プレイシズ》が刊行される。
  • 1987年 トーマス・ルフが《A・ジークマンの肖像》を制作する。
  • 1990年頃 デュッセルドルフ派の写真家たちが国際的な現代美術の中で認知を広げていく。

まとめ — 風景を見る目はどう変わったのか

1975年の《ニュー・トポグラフィックス》展は、私たちが風景として何を見ようとしているのかを問い直す機会となりました。住宅地や工場、道路、モーテルを写した写真家たちは、社会の中で日々目にしている建築と土地に注意を向けました。美しい自然を写す写真の歴史に、別の視線が加わったのです。

アダムスの住宅地、バルツの工業団地、ディールの地形、ゴールキーの産業と自然、ショアのカラー写真は、それぞれ異なる問題意識を持っています。ベッヒャー夫妻は、工業施設を分類して並べることで、記録の方法を美術作品の構造へと変えました。共通するのは、私たちが普段は通り過ぎる場所を、時間をかけて観察できる形へとしたことです。

1980年代には、こうした姿勢がシュトルートやルフ、ヘーファー、グルスキーらの制作へもつながっていきました。都市を撮影することが、街の形を知ることから、建築の使われ方や写真の見せ方を考える仕事へと広がったのです。ニュー・トポグラフィックスの歴史は、写真が現実を記録する力と、その現実を私たちがどのように見るかを変える力の双方を伝えています。

参考資料・出典

本記事は、展覧会の公式記録、美術館の所蔵作品解説、写真家の発言、美術館の回顧展図録に基づいてART LIBRARYが独自に執筆しました。1975年展の出品作家と、その後の影響を受けた作家を区別し、作品の制作年・写真集の刊行年・再評価の時期を分けて記しています。

資料確認日:2026年10月15日 / ART LIBRARY