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紀元前5000–3100

古代エジプトのはじまり

先王朝時代の土器と人物像

紀元前5000年頃のナイル川流域には、川の氾濫がもたらす湿った土地と、その外側に広がる乾いた台地が隣り合っていました。川沿いでは魚を捕り、周辺の草地では家畜を飼い、地域によっては小麦や大麦を育てました。人々は季節や水の位置に合わせて暮らす場所を選び、土を焼いて器を作り、石や骨、貝から刃物や装身具を加工しました。後にエジプト王国が成立する以前、下流のデルタ地帯から南方の上エジプトまで、住まい方や葬送習慣は一様ではありませんでした。

紀元前4千年紀になると、ナイル中・上流域の墓から赤く磨いた土器、川を進む舟を描いた壺、石灰岩や象牙の人物像が多く見つかるようになります。地元で採れる粘土と石材だけでなく、砂漠や紅海、南方から運ばれたものも墓に納められました。とりわけナカダ文化と呼ばれる地域の造形では、器の口縁を黒く焼き分ける技術、人物や動物を簡略に表す彫刻、祭祀や権力を思わせる図像が発達します。こうした作品は集落、墓地、工房から異なる状態で見つかっており、その制作年代と使われ方を区別して考えられています。

ナイルの水辺に広がった地域ごとの集落

ファイユームの湖岸|穀物を蓄える穴と漁労

ナイル川から西へ離れたファイユーム地方には、カールーン湖の岸に新石器時代の居住地が点在します。紀元前5200〜4000年頃に位置付けられる遺跡では、漁獲物や動物の骨、石器、土器の破片に加えて、穀物を入れたと考えられる貯蔵穴が見つかりました。コムKでは多数の穴がまとまり、食料を一定期間保管する仕組みがあったことが分かります。湖に近い場所での漁や狩猟と、周辺での穀物栽培が生活の中で組み合わされていました。

コムWでは炉跡とみられる穴が多数確認された一方、確実に復元できる家屋の痕跡は多くありません。湖の水位や収穫期によって、同じ居住地の使い方が変わった可能性も考えられています。日常に用いた容器や石刃は、後のナカダ文化の墓から出る豪華な品とは出土環境が異なり、初期の生活技術を直接伝えています。(参照:ロンドン大学UCL|ファイユーム新石器時代の遺跡、アリス・スティーヴンソン(2016年)|先王朝時代の社会形成・研究史)

メリムデ・ベニ・サラーマ|編んだ壁を持つ住居

デルタ地帯西部のメリムデ・ベニ・サラーマでは、紀元前4750〜4250年頃の住居と埋葬が調査されています。家屋は枝を編んだ壁に葦などの植物を組み合わせ、平面は円形ないし楕円形でした。石造の神殿を持つ後世の都市とは違い、当時の住居の構造は柱穴や床の広がりから復元しています。

墓地を居住域と明確に分けず、生活空間の内側に屈葬の遺体を葬った例があり、墓の副葬品は少数でした。バダリやナカダの墓で土器や装身具が集中する様子とは大きく異なります。低地の集落にも独自の技術と葬送の選択があり、後の国家の成立を説明する際に上エジプトの大型墓だけを見ていては捉えられません。(参照:ロンドン大学UCL|メリムデ・ベニ・サラーマ遺跡、アリス・スティーヴンソン(2016年)|先王朝時代の社会形成・研究史)

マアディ文化|手づくねの土器と北方との往来

現在のカイロ近郊のマアディでは、紀元前4000〜3500年頃に手で形を整えた暗色の土器が使われていました。集落からは大きな貯蔵壺、黒い玄武岩の石製容器、銅の手斧状工具が見つかっています。土器には上エジプトで知られる口縁を黒く焼いた赤色容器も少数あり、北方のレヴァントから運ばれた土器も含まれます。材質と器形の異なる器が一つの集落に集まっていたことが、地域間の接触を示します。

マアディの墓地は集落から離れた場所にあり、成人は体を曲げて楕円形の穴に葬られました。副葬品は比較的少なく、土器と石の容器が中心です。上エジプトのナカダ文化と同じ時代に、下流域には異なる葬送と製作の伝統が続いていました。(参照:ロンドン大学UCL|下エジプト・マアディ文化)

バダリ文化|赤い土器と墓の装身具

磨かれた赤色の器と黒い口縁

上エジプトのバダリ周辺では、紀元前4400〜3800年頃の埋葬地から薄い器壁を持つ赤褐色の土器が見つかります。精製したナイル川の粘土を手で成形し、表面に赤い化粧土を施して石などで磨くと光沢が生まれました。口縁から内側だけが黒い器も多く、赤と黒の境目が器の曲線に沿って明瞭に現れます。器面を細かく波打たせた例では、細い筋が光を受けて質感を変えます。

こうした容器は日常に使われただけでなく、遺体のそばにも置かれました。発掘地の名前を取った『バダリ文化』は、単一の作り手や民族名を意味しません。後のナカダI期にも似た技法が継続し、同じ赤黒の外観を持つ土器でも時期と形状を確認して年代を判断します。(参照:アリス・スティーヴンソン(2016年)|先王朝時代の社会形成・研究史、ロンドン大学UCL|バダリの墓地と発掘記録)

無傷で残った5762号墓|革衣と骨・貝の装飾

バダリ5762号墓は撹乱を受けていない男性の埋葬として、1928年のブルントンとケイトン=トンプソンによる発掘記録から再構成できます。墓穴は約109×119センチ、深さ約104センチで、遺体は細かい黒毛の残る革で包まれていました。頭の後ろには黒い小型土器、腕には象牙の輪と七つの巻貝による腕飾りが置かれ、骨の指輪と骨製の尖った道具も伴っていました。

ここでは材料を一種類に揃えていません。革は身体を覆い、貝と象牙は身に着けるものになり、土器は頭の後方に配置されています。これらが生前の服装をそのまま示すのか、埋葬時に改めて整えたのかは、墓内の位置だけでは決められません。物の配置を記録した発掘報告があるため、単品の所蔵品よりも使用状況を細かく考えられます。(参照:ロンドン大学UCL|バダリ墓5762号の出土品)

ナカダ文化の成立と土器の作り方

土器で順序を測る|ペトリーから放射性炭素分析へ

ナカダの墓地群を調べたフリンダーズ・ペトリーは1899年以降、副葬土器の組み合わせから墓を相対的に並べる方法を整えました。丸い胴の容器、把手の付く壺、白線を描く器、泥灰質の明るい土器などの増減によって、文字の記録がない時期の前後関係を推定します。1957年にはヴェルナー・カイザーがこれを細分し、ナカダI・II・IIIという区分が広く使われるようになりました。

マイケル・ディーらは2013年に放射性炭素測定値と墓の編年を統計的に組み合わせ、2014年には土器による相対編年をあらためて検証しました。大きな段階の順序は概ね確かめられましたが、細分した各段階が厳密な時計のように並ぶわけではないと指摘しています。研究によって境目の数字が変わるため、個々の壺に付けた『紀元前3450〜3300年頃』のような年代は、制作された年を直接測った数値とは区別して読みます。(参照:ロンドン大学UCL|ペトリーの土器配列編年、ディーほか(2014年)|放射性炭素測定とナカダ相対編年、ディーほか(2013年)|放射性炭素測定とエジプト初期の絶対年代)

赤く磨いた器の黒い口|焼き分ける実験

メトロポリタン美術館の小壺07.228.108は高さ11.4センチ、紀元前3700〜3500年頃の作品です。胴部は赤く、口縁は黒く焼かれ、側面にはよじ登る動物の小さな造形が付きます。赤い部分と黒い部分の輪郭は塗り分けた模様ではなく、表面の鉄分と焼成時の空気の条件によって生じる色の差として説明されます。

黒い口縁をどのように作ったかについては、器を逆さにして灰に差し込んだまま焼く方法と、赤色に焼いた後、口の部分だけを熱い灰に入れる二段階の方法が再現実験で試されました。ヒエラコンポリス発掘隊は工房跡から出る焼損品を調べ、後者の方法が当地では使われた可能性が高いと報告しています。赤い土器を最初に焼く段階で失敗した器には、黒い口縁を作る次の工程が施されなかったと考えられるためです。(参照:メトロポリタン美術館|黒い口縁と動物を持つ赤色土器07.228.108、ヒエラコンポリス発掘隊|土器工房・焼成跡と黒頂土器の復元実験)

土器を焼いた場所|割れた失敗作の堆積

ヒエラコンポリスの谷沿いでは、岩陰や斜面に、変形・膨張・過熱した土器片がまとまって残っています。発掘隊がHK67などと呼ぶ地点には、光沢のある赤い鉢や薄手の壺、白い幾何学文様を持つ器の焼損品がありました。日常生活で割れた破片とは違い、焼成中の失敗を示す表面の変化が多数含まれるため、近くで製作した器が捨てられたと推定されています。

同じ遺跡の別の施設は、以前は土器窯とされたものの、近年の発掘でビール作りの設備と判明しました。マサヒロ・ババによる2009年の実験研究では、藁を混ぜた実用土器を穴窯に重ね、土と破片で覆って焼く工程も検討されています。細い器壁の赤色土器と大量生産の粗い容器では、求められる焼成条件や工房の配置も異なりました。(参照:ヒエラコンポリス発掘隊|土器工房・焼成跡と黒頂土器の復元実験)

ナカダI期の白線彩文|川の動物を器に描く

白い絵の鉢35.10|舟・カバ・ワニ

紀元前3900〜3650年頃の浅鉢35.10は、長さ27.2センチ、幅19.9センチ、高さ6.3センチの楕円形に近い器です。赤茶色の器面に白い線で小舟に乗る人間、カバ、ワニを描いています。舟の人は細い線で表され、カバは胴を大きく取り、ワニは長い体を伸ばすように配置されています。いずれも上エジプトの川と湿地に関わるモチーフです。

赤色土器の表面に白色の顔料で文様を描いた種類は、研究では白線彩文土器と呼ばれます。格子線や斜線を器全体にめぐらせた例もあり、動物の絵は必須の模様ではありません。舟に人が乗り、二種類の野生動物が同じ面に現れることは確かですが、描いた人の身分や特定の狩猟儀礼を示すと即断できる記号はありません。(参照:メトロポリタン美術館|カバとワニを描いた白線彩文鉢35.10、アリス・スティーヴンソン(2016年)|先王朝時代の社会形成・研究史)

白い線と鉢の曲面|器の中に収まる文様

白線彩文土器では、鉢の内面がよく描画面として使われます。大英博物館の鉢片EA62381は、赤い化粧土を塗って磨いた内面に、中央の円から葉のような白い細線を放射状に伸ばしています。中心に近い部分と縁では線の間隔が変わり、植物文様が器の湾曲に合わせて広がります。破片から復元された器は底が平らで、側面は外へ開きます。

この時期の壺や鉢は手で成形したもので、皿の内側に絵を収めるには、器を回しながら線を置く工夫が必要でした。鉢の底に中央の円を据える例と、器の外面に舟などを横長に並べる後の土器では、絵を読む視点も異なります。(参照:大英博物館|白線による植物文様の土器片EA62381、ロンドン大学UCL|ナカダ文化の編年)

ナカダII期の彩文土器|明るい粘土と舟の図像

赤地から淡色の器へ|泥灰質粘土の導入

紀元前4千年紀の後半になると、ナイルの沖積土とは性質の違う、砂漠側で採取する石灰分の多い粘土が新たな器に用いられました。焼くと淡い黄褐色や灰白色になるため、その表面に酸化鉄を含む赤い顔料で模様を描けます。研究者はこの種類を『彩文土器』として区別します。船形の線、動物、植物、波線などが器面をめぐり、初期の白線彩文土器とは明暗が反転した姿になりました。

アリス・スティーヴンソン(2016年)は、石灰分の多い粘土の産地が限られ、採土・運搬・高温での焼成に新しい作業のまとまりが生まれたと論じています。規格の近い器形が広い範囲に分布する一方、通常の調理や醸造に使う粗い土器も作られました。彩文壺は墓の中で目立ちますが、集落では用途の異なる無文の器も大量に使われています。(参照:アリス・スティーヴンソン(2016年)|泥灰質粘土の彩文土器と社会的交流、ヒエラコンポリス発掘隊|土器工房・焼成跡と黒頂土器の復元実験)

舟と人物を描いた壺15.2.34|高さ25.5センチの画面

メトロポリタン美術館の壺15.2.34は、紀元前3450〜3300年頃の彩文土器です。高さも幅も25.5センチほどの丸みを帯びた胴体に、赤褐色の顔料で長い舟と人間の姿が描かれています。口縁の径は13.2センチで、肩の部分にはハヤブサを思わせる形の把手が付きます。舟の線と小さな人間像は胴の湾曲を利用して配置され、持ち手自体も動物を表す立体的な部分になっています。

舟は同時期の彩文土器に繰り返し現れ、舳先や船上の構造物を省略した図もあります。水上を進む舟の姿を直接描いたのか、行列や葬送を表す記号なのかは作品によって論じられてきました。器に描かれた人物を後世の神々や王の名前に対応させる根拠はありません。(参照:メトロポリタン美術館|舟と人物を描いた彩文壺15.2.34、アリス・スティーヴンソン(2016年)|泥灰質粘土の彩文土器と社会的交流)

深鉢12.182.41|動物・人間・植物の組み合わせ

同館の深鉢12.182.41は、高さ24.3センチ、口の直径23.2センチで、紀元前3650〜3300年頃のナカダII期に置かれます。器の表面に人、動物、植物が描かれ、複数の種類のモチーフを一つの大きな容器へ配する点が特徴です。曲がった表面にはひと続きの紙のような平面がないため、人物と動物の大きさを変えて互いの間に収めています。

こうした彩文土器は、特定の場面を時間順に読める物語絵とは限りません。グウェノラ・グラフ(2003年)は舟や植物を葬送や来世に結び付ける解釈を示しました。一方、スティーヴンソン(2016年)は彩文壺の図像を一括して説明する試みには推測が多いと指摘しています。墓に置かれた器が多いという事実と、絵柄そのものが死後の世界を表すという解釈は分けて考えられています。(参照:メトロポリタン美術館|人・動物・植物を描いた深鉢12.182.41、アリス・スティーヴンソン(2016年)|泥灰質粘土の彩文土器と社会的交流)

人物像|石灰岩・象牙・粘土で作った身体

座る女性像07.228.71|色を重ねた石灰岩

メトロポリタン美術館の座る女性像07.228.71は、高さ19.8センチ、幅9.4センチ、奥行き22.8センチの石灰岩製です。紀元前3450〜3300年頃に置かれ、上エジプト北部のナカダ周辺から来た可能性が示されています。座った胴体には細い腰と張り出す腰部が強調され、長く突き出た鼻と簡略に処理した腕を持ちます。彫り残された滑らかな石の面に色が塗られ、首や足首の装飾が加えられています。

緑色の孔雀石で目元を彩り、赤と緑の首飾りや足飾りを表しました。髪は植物質と油脂を混ぜた素材で別に成形したと美術館は説明しています。身体に描かれた装飾には動物像と読まれるものがあり、館は儀礼活動との関連を考えています。一方、出土した正確な墓や建物が確定していないため、この人が誰だったのか、どんな場で用いた像かは決まっていません。(参照:メトロポリタン美術館|石灰岩の座る女性像07.228.71)

別の座像07.228.53|ナイル粘土で作る小さな身体

同じ美術館の女性座像07.228.53は、粘土を焼いた高さ11.5センチの像で、紀元前3450〜3200年頃とされます。石灰岩像と同じく、座った姿勢を大まかにまとめ、身体の細部をすべて彫り出すのではなく、表面の線や色で特徴を加える系列に属します。先王朝時代の人物像には、焼かない粘土、骨、象牙なども使われました。

衣服、体毛、身体に施した模様を刻線や彩色で表したと考えられる作品もあります。後世の石造神像を基準に『未完成な人体』と呼ぶより、素材ごとに何を盛り上げ、どこを省略したかを見る方が、当時の作り方に近づけます。こうした像は数が少なく、詳細な出土位置が伝わらないものもあるため、用途を一つに絞るのは難しい状況です。(参照:メトロポリタン美術館|ナイル粘土の座る女性像07.228.53)

ひげの男性像54.28.2|6.5センチの象牙細工

紀元前3650〜3450年頃の男性小像54.28.2は、高さ6.5センチ、幅2.2センチ、厚み0.9センチという小さな象牙製品です。頭部にはひげを持つ男性の顔が彫られ、身体や衣服の細部は細い刻線で表されました。溝に黒い物質を埋め込んで線を目立たせる仕上げが確認されています。直立する人物像と器に描いた棒状の人影とでは、顔や衣服に割く加工の量が大きく異なります。

所蔵館はこの像をナカダII期初頭の作としていますが、詳しい発掘地点は記録されていません。小さな人体に身分や職業を示す要素を探したくなりますが、ひげや衣服を備える事実から、王や特定の役人だと決めることはできません。(参照:メトロポリタン美術館|象牙の男性小像54.28.2)

葦を芯にした女性像|木・布・粘土を組み合わせる

女性像10.130.2583は、高さ18.7センチ、幅2.9センチという細長い姿です。メトロポリタン美術館は紀元前3650〜3300年頃のナカダII期に位置付け、材質に木、葦、亜麻布、顔料、有機物、砂を含む泥や粘土の可能性を挙げています。石の塊から全身を削り出す方法とは異なり、細い芯の周りに別の材料を組み合わせて像を作っています。

湿地に育つ植物と布が造形の材料となった例で、身体の輪郭だけでなく、芯と表層を分ける構造も読み取れます。材料の一部には疑問符が付く所蔵記録があるため、粘土の配合や接着法を断定できません。単一の『先王朝の彫刻技法』というより、石・骨・植物による複数の加工法が並んでいました。(参照:メトロポリタン美術館|葦を芯とした女性像10.130.2583)

動物と人体を組み合わせた器・小像

人の足で立つ鉢|口と脚の意外な配置

赤く磨いた鉢10.176.113には、底面の下に人間の足を思わせる二本の支えが付いています。紀元前3700〜3450年頃の作品で、器そのものは簡素な円い鉢ですが、やや前方に傾けて置くように足が作られています。直径は約13.2センチで、表面は滑らかに整えた後に化粧土を塗り、磨いて光沢を出しました。容器に小さな身体の部分を付け、立ち方まで調整した作例です。

メトロポリタン美術館は、鉢が前へ差し出される姿を後世の『運ぶ』を意味する文字の形と比べ、墓への供物や神への献納に使った可能性を挙げています。既知の同型品に十分な出土状況がないため、これは用途をめぐる仮説です。後世の文字と形が似ることだけで、紀元前4千年紀の制作者が同じ文字の意味を込めたと証明することはできません。(参照:メトロポリタン美術館|人間の足を付けた鉢10.176.113)

亀形の鉢と妊娠したカバの護符

同館には、紀元前3900〜3500年頃の亀をかたどる土製鉢10.176.114があります。高さ6.8センチ、幅16.8センチで、器の縁を囲む丸い姿に動物の胴体が重ねられています。動物の形が器の外形そのものを決める点で、器面に動物の線を描く白線彩文とは作り方が違います。

ピンク色の石灰岩を彫ったカバの護符23.2.30は、紀元前3700〜3450年頃、長さ7.4センチ、高さ4.4センチです。背に穴があり、紐を通して吊るしたと考えられます。膨らんだ腹が地面に近く、所蔵館は妊娠した雌カバの表現と解釈しています。同種の石像が対で作られた例も指摘されていますが、吊り下げて何を願ったのかという個別の意味までは分かっていません。(参照:メトロポリタン美術館|亀の形の鉢10.176.114、メトロポリタン美術館|妊娠したカバの石製護符23.2.30)

化粧板|顔料をすりつぶす平たい石から大型浮彫へ

魚形の石板35.7.2|発掘位置が残る日常の道具

ナイル流域の墓には、灰緑色の細かな石を薄い板にした化粧板が副葬されました。粉にした鉱物や色材を練るための平らな面を備え、外周を魚や亀の形に削ることがあります。メトロポリタン美術館の魚形化粧板35.7.2は、高さ10.5センチ、幅16.5センチのグレーワッケ製で、紀元前3500年頃の作とされます。

この石板はヒエラコンポリスの『砦の墓地』と呼ばれる区画の6号墓から、1934〜35年の同館の調査で出土しました。用途だけでなく墓の位置が伝わるため、被葬者とともに置かれた道具として扱えます。一方、別の魚形板10.130.1182は長さ12.4センチ、厚み0.7センチですが、細かな出土地は明記されていません。外見の似た二点でも、使用場面を調べられる範囲が違います。(参照:メトロポリタン美術館|魚形の化粧板35.7.2と出土墓、メトロポリタン美術館|魚形化粧板10.130.1182の寸法と材質)

『二頭の犬の化粧板』|幅22センチの幻想動物

アシュモレアン博物館の『二頭の犬の化粧板』は、紀元前3300〜3100年頃のグレーワッケ製で、高さ42.5センチ、幅22センチ。1898年にヒエラコンポリスで出土しました。頂部を二頭の犬が挟み、長い首を絡ませた大型の空想動物が中央の円い磨り面を囲みます。裏面にはライオン、豹、ハイエナ、翼を持つ獣などが並び、下の方には笛を吹くような姿勢の尾の長い動物も彫られます。

犬の頭の一方は欠け、首の付け根には古代に補修したとみられる二つの穴が開いています。顔料をすりつぶす板の形式はそのままに、両面に密な浮彫を刻むことで用途と見た目が変わりました。博物館は空想動物に西アジアの図像との類似を認めますが、特定の器物を直接写したものか、広い交流を通じて似た表現が生まれたかは分けて考えられています。(参照:アシュモレアン博物館|二頭の犬の化粧板、アリス・スティーヴンソン(2016年)|先王朝時代の社会形成・研究史)

石刃と象牙の柄|形を整える細かな加工

魚尾形の石刀|植物の鞘と木の柄が伝える装着法

紀元前3900〜3650年頃の石刀20.5には、火打石の刃だけでなく、植物質の鞘と木製の柄が残っています。全長12センチ、幅5センチで、二叉に分かれた端の形から魚尾形と呼ばれる種類です。石の刃だけを収蔵する例が多い中、異なる材料が組み合わさった状態で伝わるため、手で握る部分と刃先をどのように保護したかを考えられます。

同型の石刀は数が多く、切るための道具として作られたものと、墓や儀礼に置かれた可能性を持つものがあります。器用に対称形へ整えられたからといって、すべてを実用品または祭具のどちらか一方に分類できるわけではありません。刃の摩耗、付着物、出土した場所ごとに検討します。(参照:メトロポリタン美術館|柄と鞘が残る魚尾形石刀20.5)

波状に剥がす刃|29センチの薄い石製刀

メトロポリタン美術館の火打石製刀07.228.105は、長さ29センチ、幅6.8センチ、厚さ0.8センチ。紀元前3650〜3100年頃のナカダII〜III期に置かれ、刃の表面には細かい剥離痕が繰り返し連なります。石を一度大きく割るだけでは生まれない、波のような小さな面が広い範囲に均等に残る仕上げです。

こうした薄い刃は、形を作る大きな剥離に続き、縁と表面を細かく修正して成形されました。薄く長い形状を維持しながら剥離を重ねるには、破損の危険を抑えて打撃や圧力を加える高度な手作業が求められます。青銅器が普及する前後にも火打石の加工は続き、材質が石であることと技術の単純さは同じではありません。(参照:メトロポリタン美術館|波状剥離の火打石製刀07.228.105、メトロポリタン美術館|象牙柄と火打石片の儀礼用刀26.241.1)

ゲベル・エル=アラクの短刀|舟・戦闘・獅子の浮彫

ルーヴル美術館の短刀E11517は、全長25.5センチ、幅4.5センチ。火打石の刃にカバの牙の象牙製柄を付け、柄の両面に浅浮彫を刻みます。一方の面には争う人物と五隻の舟、もう一方には二頭の立つ獅子を左右に従える男性、犬や野生動物が描かれています。男性の衣装、動物の体の向き、舟の輪郭を小さな面積に詰め込んだ造形です。ルーヴルはナカダII期後半の紀元前3600〜3200年頃を制作時期として示しています。

この短刀は発掘によって出土層が記録された品ではありません。1914年に美術館が購入した際、売り手がゲベル・エル=アラクの出土品と説明しましたが、所蔵記録にも発見場所には疑問符が付いています。浮彫の獅子を従える人物像は西アジアの図像と比較されます。交流の存在を考える材料ではあるものの、刃の所有者の国籍や具体的な戦争を読み取る根拠にはなりません。(参照:ルーヴル美術館|ゲベル・エル=アラクの短刀E11517、アリス・スティーヴンソン(2016年)|先王朝時代の社会形成・研究史)

布に描いた絵と副葬品|土器以外の造形

ゲベレインの彩色亜麻布|舟と人物を布に描く

トリノのエジプト博物館にある『ゲベレインの彩色亜麻布』は、紀元前3600〜3350年頃のナカダII期に属します。1930年にジュリオ・ファリーナがゲベレインで発掘した品で、亜麻の布に舟の行列、踊るか嘆くように見える人物の集団、カバの狩猟を描いた場面が残っています。焼成した器の表面だけでなく、繊維でできた柔らかな素材も絵の支持体になっていました。

布には糸が交差する細かな目があり、色はその表面に載ります。博物館の作品名にも、並ぶ人物が『踊る』のか『嘆く』のかという二つの読みが併記されています。舟の行列とカバ狩りが同じ布に描かれたことは確かですが、何を包んだ布か、どのような祭礼で見られたのか、図像が一つの出来事を表すかについては確定していません。(参照:トリノ・エジプト博物館|ゲベレイン出土の彩色亜麻布)

マハスナH85号墓|子供の墓に置かれた棍棒頭

紀元前3850〜3500年頃のマハスナH85号墓からは、直径8センチ、厚さ2.6センチの角閃石閃緑岩製の円盤形棍棒頭が出土しました。1908〜09年の発掘で見つかったこの墓は古代に乱されていましたが、子供の骨格と、容器、籠、粘土と紅玉髄のビーズ、象牙の垂飾、三つの小型銅工具、土偶の破片などが記録されています。棍棒頭は本来、木の柄に装着する重い石の部品です。

棍棒の頭には円盤形のほか、後に梨のように膨らむ形が現れます。子供の墓に武器の部品が置かれたことは、生前に戦士として活躍した証拠ではありません。メトロポリタン美術館は副葬品の種類と数から、この子供が裕福な家に属した可能性を示しています。成人の能力ではなく家族や集団の位置が埋葬の差に表れた例と考えられます。(参照:メトロポリタン美術館|マハスナ墓H85出土の石製棍棒頭)

ヒエラコンポリスとナカダの墓地|建物と彫像

ナカダT墓地|大きさと品数の違い

ナカダのT墓地には、周辺の他の墓地より大きく、多くの品物を納めた墓が集中しています。平面図には墓穴の長さや位置の違いが記録され、複数の容器を並べる空間が確保されています。一方、通常の小墓は穴を掘って体を曲げた遺体を納める構造が中心でした。家族や集団ごとに用意できる品の量が異なったことは、墓の規模と副葬品の種類の両方から確かめられます。

土器や装身具を多く持つ墓を直ちに『王墓』と呼ぶと、当時の社会の幅を狭めます。T墓地は相対的に裕福な人々の墓地と考えられていますが、墓の持ち主の名前や役職が記された資料はありません。埋葬の差が地域の首長制、家族の富、儀礼の選択のどれに強く結び付くかは、時期ごとに検討されています。(参照:ロンドン大学UCL|ナカダT墓地の大型墳墓、アリス・スティーヴンソン(2016年)|先王朝時代の社会形成・研究史)

HK6の木柱建築|墓23号の周囲に囲いを作る

ヒエラコンポリスのHK6墓地では、紀元前4千年紀の大型墓の周囲に木柱を立てた施設が発掘されています。23号墓は長さ約5.5メートル、幅約3メートル。周囲に柱を立てた囲いがあり、墓上の建築に加えて東側には供物を置く場所と考えられる小さな柱廊がありました。石の壁が立ち上がった後世の神殿と違い、木の柱穴の位置や地面に残る品物の集まりから平面を復元しています。

柱廊周辺からは火打石を細かく打ち欠いた野生ヤギの像とバーバリーシープの頭部、象牙の円筒形品、人体の石像片が出土しています。人体像は鼻と耳が比較的大きく残る一方、全体は600点を超える破片となり、誰を表したかも直立像だったかも定まりません。破片の表面には意図的に打ち壊したとみられる痕跡があり、建物の利用と像の破壊が同じ一時点の出来事だったかは調査が続いています。(参照:ヒエラコンポリス発掘隊|上層墓地HK6の墓・木造施設・出土彫像)

柱のある広間と動物像|埋葬を囲む活動

HK6には墓の真上ではなく、その周辺に置かれた木造の柱列施設もあります。遺構07は長さ約15メートル、幅10.5メートルで、内部に24本の木柱があったと推定されています。柱穴や隅の堆積から、紅海産の貝、象牙、牛角、孔雀石を包んだ布、ダチョウの卵殻などが見つかりました。東南の隅にはカバを行列のように彫った象牙の棒、滑石製のカバ小像、孔雀石を彫ったハヤブサ像がありました。

石製の小像とともに空洞のある矢尻も集められ、狩猟や動物の支配をめぐる象徴的な活動が考えられています。発掘隊は柱のある建物を葬祭に関わる施設と解釈していますが、柱の間にどのような壁や屋根があったかは残存資料だけでは復元しきれません。カバやハヤブサの意味を後の神名と一対一で結び付けることにも慎重さが必要です。(参照:ヒエラコンポリス発掘隊|上層墓地HK6の墓・木造施設・出土彫像)

墓100号の壁画|舟と争う人々の描写

ヒエラコンポリスの『彩色墓100号』は、1899年にフレデリック・グリーンが調査した特異な墓です。壁を塗り固めた室内に赤・黒・白などで舟、人物、動物が描かれ、長い舟列の近くに争う人々や動物を扱う場面が置かれていました。一般にナカダII期後半、紀元前3400〜3250年頃を中心に考えられています。壁画を直接測定して得た年代というより、墓の土器や同時代の絵柄との比較に基づく年代です。

壁画は発見時に一部が採取されましたが、墓の位置は後に分からなくなり、原位置の壁全体を再調査できません。ディルク・ホイヘは2014年、墓の図像が他地域の岩絵と重なる点に注目し、もとのナカダII期の絵へナカダIII期に図像が加わった可能性を検討しました。この『描き足し』は有力な研究上の提案の一つであり、どの線がいつ加わったかを層ごとに実測できたわけではありません。(参照:ディルク・ホイヘ(2014年)|彩色墓100号の図像と再制作の仮説、アリス・スティーヴンソン(2016年)|先王朝時代の社会形成・研究史)

王権が形を取る直前|墓の品物と広域の図像

アビドスのU-j号墓|部屋を分けて並べた器

紀元前3300〜3100年頃のアビドスでは、ウンム・エル=カアブの墓地に日干し煉瓦の壁で小部屋を分けた墓が造られました。U-j号墓は12室から成り、盗掘を受けても約2000点の土器が報告されています。外来の産物を入れたと考えられる壺、黒曜石製の容器、木の箱などが、墓に集積した品物として知られています。単独の土器と違い、器を部屋に分けて大量に納める空間そのものが、新たな富の扱い方を示します。

出土土器の一部はレヴァントからの輸入品なのか、エジプトで模倣された器なのか議論になりました。胎土を調べた分析や内部に残る物質の研究から、ワインやその香味付けに用いられた物質を運んだ例が報告されています。小さな象牙札の図像や初期文字についても、ラベルとして何を示したかの読みは一様ではありません。墓の数と品物の配置は確認できても、被葬者の名や一つの政治制度をすべて復元できるわけではありません。(参照:アリス・スティーヴンソン(2016年)|先王朝時代の社会形成・研究史)

ナグ・エル=ハムドゥラブ|船列と白冠をかぶる人物

アスワンの北西にあるナグ・エル=ハムドゥラブの岩壁には、舟、随行する人間、動物、捕らえられた人物が線刻されています。ステイン・ヘンドリックス、ジョン・ダーネル、マリア・カルメラ・ガットによる2012年の研究は、白い冠をかぶる中心人物を複数の画面に認め、紀元前3200〜3100年頃の王権表現と解釈しました。岩の端から始める配置や、画面どうしをつなぐ船列の方向が分析されています。

ここには後世の王の長い碑文とは違う、短い標識的な記号も見られます。ダーネルは2015年に初期の文字との関係をあらためて検討しました。岩の傷の新旧や画面どうしの関係を読み解く作業は続いており、これが誰という王の一度の行幸を描いた『実録』であるとは確定していません。人と舟を組み合わせる図像が、土器・墓壁画・岩壁で異なる形式を取っていたことは確かめられます。(参照:ヘンドリックスほか(2012年)|ナグ・エル=ハムドゥラブの王権表現、ジョン・コールマン・ダーネル(2015年)|ナグ・エル=ハムドゥラブの初期文字研究)

北と南の技術が交わる|統一を一度の征服で語らない

ナカダII期後半以降、上エジプトに由来する器や葬送の形式がデルタ地帯にも見られるようになります。以前は南の文化が北を一方的に置き換えたと説明することがありました。スティーヴンソン(2016年)は、デルタの遺跡から出る土器の作り方や日干し煉瓦の技術を検討し、移住、模倣、地域間交流が遺跡ごとに異なる形で関与したと整理しています。

バジョらの2024年の研究では、南のナグ・エル=カルミラで出た土器を薄片観察と製作痕の分析にかけ、ナカダ系、ヌビア系、砂漠の土器文化と関係する異なる作り方が一つの村と墓地に存在したと示しました。紀元前4千年紀には、同じ流域の中で器を作る知識が複数の集団をまたいで交わっていました。末期に王の権力が強まる過程は、こうした暮らしの多様性の上に進んだものです。(参照:アリス・スティーヴンソン(2016年)|先王朝時代の社会形成・研究史、バジョほか(2024年)|ナグ・エル=カルミラの土器製作と文化交流)

略年表

  • 紀元前5200年頃|ファイユームの湖岸で漁労・穀物貯蔵を伴う居住が広がる(地域・遺跡によって時期に幅がある)。
  • 紀元前4750年頃|デルタ地帯西部のメリムデで枝と葦を用いる住居が営まれる。
  • 紀元前4400年頃|上エジプトのバダリ文化の土器と墓の慣行が広がり始める。
  • 紀元前4000年頃|下エジプトのマアディ周辺で手づくね土器・石製容器・銅工具が使われる。
  • 紀元前3900年頃|赤い器に白線で舟やカバを描いたナカダI期の土器が作られる。
  • 紀元前3800年頃|ナカダ文化の土器が上エジプトで広がる。年代区分は編年法により幅がある。
  • 紀元前3700年頃|赤黒に焼き分けた土器や象牙・骨の人物小像が作られる。
  • 紀元前3650年頃|細い石刃の加工と、ナカダII期に分類される彩文土器の制作が進む。
  • 紀元前3500年頃|化粧用顔料をすりつぶす魚形の石板が墓に納められる。
  • 紀元前3450年頃|淡色の器に舟と人物を赤く描いた彩文壺が広く用いられる。
  • 紀元前3400年頃|ヒエラコンポリス彩色墓100号の壁に舟と人物の場面が描かれたと推定される。
  • 紀元前3350年頃|ゲベレインの亜麻布に舟やカバ狩りの絵が描かれた時期の終わり頃。
  • 紀元前3300年頃|ヒエラコンポリスで大型の浮彫付き化粧板が作られ、ナカダIII期に移る。
  • 紀元前3200年頃|象牙の柄に戦闘や舟を彫る短刀が作られ、ナグ・エル=ハムドゥラブの岩絵に初期王権の図像が現れる。
  • 紀元前3150年頃|アビドスの墓地で多数の土器と小さな札を納める大型墓が造られる時期。
  • 紀元前3100年頃|王権の表現がさらに定型化し、初期王朝時代へつながる。

まとめ

先王朝時代の土器は、形と色を変えながら制作されました。ナイルの粘土を赤く磨き、口を黒く焼き分ける容器があり、白線でカバや舟を描いた鉢があり、さらに砂漠側から採った明るい粘土に赤い図像を描く壺が現れます。ヒエラコンポリスの工房跡には焼き損じの土器が残り、黒い口縁を作る工程についても実験で複数の方法が確かめられました。土器の様式による編年は大まかな順序を示しますが、細かな年号は放射性炭素測定との照合によって修正されています。

石灰岩、象牙、植物、亜麻布から作られた人物像や絵は、土器とは異なる造形の選択を示します。魚形の化粧板は顔料を扱う実用的な平面を持ち、後には大きな石板の両面に幻想動物と支配を連想させる場面が刻まれました。墓の出土状況が残る品では、道具をどこへ置いたかまで調べられます。発掘場所が分からない像や短刀では、用途や所有者の推定に限界があります。舟や動物、腕を上げる人の姿が何を意味したか、壁画が一度に描かれたか、各地域がどのような交流を経て王国へまとまったかについては、土器の分析と発掘の研究が続いています。

参考資料・出典