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Max Ernst

マックス・エルンスト

ドイツ/フランス/アメリカ / 1891–1976 / ダダ/シュルレアリスム

マックス・エルンスト | MoMAキュレーター、アン・ウムランドと語るアーティストの見方 (The Museum of Modern Art)
シュルレアリスム運動の重要人物マックス・エルンスト (Art in 5)

マックス・エルンスト(1891–1976)は、第一次世界大戦後のケルン・ダダから1920年代のパリ・シュルレアリスムへ移り、コラージュ、フロッタージュ、グラッタージュ、デカルコマニー、絵画、彫刻、版画、書物を横断しながら、イメージが「自分の意図だけではないところから生まれる」方法を生涯試し続けた作家です。新聞、商品カタログ、科学図版、木目、葉、網、ひも、絵具の偶発的な模様など、すでに存在する形を出発点にし、そこから鳥、人間、機械、森、廃墟、怪物が混ざり合う世界を作りました。エルンストの重要性は、奇妙な夢の絵を描いたことだけではありません。作家が最初から完成像を決めるのではなく、偶然に現れた形を発見し、選び、加工するという制作方法そのものを20世紀美術の中心的な問題へ押し出した点にあります。

生涯と制作の変遷

ブリュールに生まれ、美術を独学する

エルンストは1891年4月2日、ドイツ西部のブリュールに生まれました。父フィリップは聴覚障害者学校の教師で、アマチュア画家でもありました。The Metropolitan Museum of Artによれば、エルンスト自身は本格的な美術学校教育を受けず、若い頃から独学で絵を描きました。1910年頃からボン大学で哲学、美術史、心理学などを学び、精神医学やフロイトの思想にも関心を持ちます。

1910年代前半にはアウグスト・マッケ、ハンス・アルプらと交流し、ライン地方の前衛美術へ接近しました。まだ後年のシュルレアリスム的作品とは異なりますが、表現主義、キュビスム、未来派など当時の新しい絵画を吸収していきます。

第一次世界大戦

1914年に第一次世界大戦が始まるとドイツ軍へ入り、1914年から1917年にかけて西部・東部戦線で従軍しました。MoMAは、四年間に及ぶ戦争経験から戻った1918年のエルンストを「traumatized」と表現し、その後のコラージュに戦後世界の断片化が反映されたと説明しています。

エルンスト自身も後に、戦争前の自分が死に、1918年に別の人間として蘇ったかのような表現でこの時期を振り返りました。戦争の経験を一枚の作品へ直接記録するというより、合理的秩序への不信、断片化した身体や機械、崩壊した風景という形で制作へ入り込んでいきます。

1919年、ケルン・ダダ

戦後の1919年、エルンストはハンス・アルプ、ヨハネス・バーゲルトらとケルンでダダ運動を展開します。同じ年、雑誌に掲載されたジョルジョ・デ・キリコの作品を見たことも大きな転換でした。Metは、デ・キリコの空虚な都市、不可解な物体の組み合わせ、静かな不安感が、エルンストの後の作品へ決定的な刺激を与えたとしています。

ケルン・ダダ期には、科学機器の図版、商品カタログ、新聞写真などを切り取り、本来まったく関係のないものを一枚に接続するコラージュを制作しました。機械部品が人体になり、植物図版が風景になり、商品広告が奇妙な生命体へ変わります。

1921–1922年、パリとの接続

1921年、アンドレ・ブルトンがパリでエルンストのコラージュ展を企画しました。本人は当時フランスへ入国できませんでしたが、詩人ポール・エリュアールが作品に強く惹かれ、ケルンを訪れて《Celebes》などを購入します。1922年、エルンストはパリへ移住し、エリュアール、ブルトン、ルイ・アラゴンらのサークルへ入ります。

1924年、ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表すると、エルンストはグループの中心的な美術家の一人となりました。ただし、彼のコラージュや1921–23年の絵画は宣言以前からすでに、後にシュルレアリスムと呼ばれる異質なイメージの結合、夢、無意識、偶然性を実践していました。

1924年:《二人の子供がナイチンゲールに脅かされている》

《Two Children Are Threatened by a Nightingale》では、絵画の中に木製の門、玩具の家、突き出したノブなど実物の立体要素を付けています。MoMAは、エルンスト自身が幼少期の発熱時に見た幻覚とこの作品を関連づけたことを紹介しています。

重要なのは、夢のような内容だけではありません。遠近法を使った伝統的な風景画と、実際の木片やノブが同じ作品に存在し、「絵の中」と現実空間の境界そのものが壊れています。エルンストがダダのコラージュからシュルレアリスムへ進む際に、コラージュの論理を絵画と物体へ拡張した重要作です。

1925年、フロッタージュを発展させる

1925年夏、エルンストは床板の木目を見つめているうちに、そこからさまざまな像が立ち上がって見える経験をもとにフロッタージュを発展させました。紙を木目、葉、網、ひも、しわ紙などの上へ置き、鉛筆やクレヨンで擦ることで、作者が描いていない複雑な模様が紙面へ現れます。

翌1926年、34点のフロッタージュをもとにした版画集《Histoire naturelle(博物誌)》を刊行しました。MoMAは、この方法を「無意識が手を導く」シュルレアリスム的オートマティスムの一形態としてエルンスト自身が捉えていたと説明しています。

フロッタージュからグラッタージュへ

紙上の擦り出しを絵画へ応用したのがグラッタージュです。塗料を塗ったカンヴァスの下に凹凸のある物体を置き、表面を削ったりこすったりすることで、木、岩、植物、羽毛のような模様を発生させます。

1927年の《Forest and Dove》や1929年の《Birds above the Forest》では、こうして生まれた表面をさらに絵筆で加工し、森や鳥を思わせる形へ発展させました。最初の模様は偶然的でも、そこから何を見るか、どこを残すかは作家が決めています。

1930年代:コラージュ小説と不穏な世界

1929年の《La Femme 100 têtes》以降、エルンストは「コラージュ小説」と呼ばれる書物を制作しました。特に1934年刊行の《Une Semaine de bonté》では、19世紀の大衆小説、科学雑誌、自然史図版などの挿絵を切断・再結合し、182点のイメージを五冊の連続した書物として発表しました。

同時に絵画には鳥、森、怪物、人間と動物の混成体、荒廃した風景が増えていきます。1937年の《The Barbarians》についてMetは、ヨーロッパに迫る戦争の不安と関連づけてきた研究を紹介しています。

主要作品

ケルン・ダダ期のコラージュ的絵画から、シュルレアリスム、フロッタージュ、グラッタージュ、コラージュ小説、デカルコマニー、アメリカ亡命期、彫刻まで、エルンストが一つの媒体や技法へ固定されなかったことを追える8作品を選びました。作品は2026年現在も著作権保護下にあるため、ART LIBRARYでは画像なしで掲載します。

セレベス

Celebes / 1921 / 油彩・カンヴァス / 125.4 × 107.9 cm

Tate, London

ケルン時代を代表する初期の大型絵画。巨大な機械動物のような形、頭部のない裸体、空中の魚など、本来無関係な要素を一つのもっともらしい空間へ統合しています。Metはこの時期の作品を、コラージュの論理を油彩へ移したプロト・シュルレアリスムの代表例と位置づけています。中央の巨体にはスーダンの穀物容器の写真が着想源として使われました。

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二人の子供がナイチンゲールに脅かされている

Two Children Are Threatened by a Nightingale / 1924 / 油彩、彩色木材、印刷紙のコラージュ・木板、木製フレーム / 69.8 × 57.1 × 11.4 cm

The Museum of Modern Art, New York

絵画の表面から木製の門、玩具の家、ノブが実空間へ突き出す作品。MoMAは、エルンストが幼少期に麻疹で発熱した際、木目から鳥の頭などが現れて見えた『熱の幻視』との関係を本人が語っていたことを紹介しています。絵画、コラージュ、立体物を一枚に統合し、現実と夢、作品内部と外部の境界を崩しました。

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博物誌

Histoire naturelle (Natural History) / c. 1925, published 1926 / フロッタージュ原画によるコロタイプ34点のポートフォリオ / 各図像 約26 × 42.5 cm または 42.5 × 26 cm

The Museum of Modern Art, New York

木の床、ひも、葉、金網、しわ紙、パンの皮などの上に紙を置いて擦り、偶然生まれた模様から風景、物体、動物を発見して描き足した34点組。MoMAは、エルンストがこの方法を『無意識に手を導かせる』シュルレアリスム的オートマティスムとして捉えていたと説明しています。

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森の上の鳥たち

Birds above the Forest / 1929 / 油彩・カンヴァス / 92.1 × 73 cm

The Museum of Modern Art, New York

歯の付いた左官用の櫛で絵具をこすり、縞状の表面を作ってから緑、青、赤などを加え、さらに絵具を足したり削ったりして鳥、蝶、樹木のような形を出現させた作品。MoMAは、グラッタージュと複数の処理を組み合わせた、エルンストの実験的な絵画方法の代表例としています。

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慈善週間、あるいは七つの大罪

Une Semaine de bonté ou les sept éléments capitaux / 1933–1934, published 1934 / 19世紀印刷物等のコラージュをもとにした線刻印刷182点、5冊組 / 各ページ 27 × 20.5 cm

The Museum of Modern Art, New York

19世紀の大衆小説、科学雑誌、自然史などの挿絵を切り取り再構成した、エルンスト最大規模のコラージュ小説。182点のコラージュを写真製版によって継ぎ目のない古い版画のように印刷しています。MoMAは、ブルジョワ的な日常の内部へ抑圧された性、暴力、反軍国主義、反教権主義、ブラックユーモアを侵入させた作品として説明しています。

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花嫁の衣装

Attirement of the Bride (La Toilette de la mariée) / 1940 / 油彩・カンヴァス / 130.1 × 96.5 cm

Peggy Guggenheim Collection, Venice

赤い羽毛をまとった鳥人の花嫁、怪物的な人物、槍を持つ小さな像が舞台状の空間に並ぶ代表作。左上の『絵の中の絵』にはデカルコマニーが使われています。Peggy Guggenheim Collectionは、鳥人をエルンストの分身ロプロプ、花嫁を当時のパートナーだったレオノーラ・キャリントンと関連づける可能性を示しています。

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荒野のナポレオン

Napoleon in the Wilderness / 1941 / 油彩・カンヴァス / 46.3 × 38.1 cm

The Museum of Modern Art, New York

フランスで制作を始め、戦火を逃れてアメリカへ到着した後、サンタモニカで完成した作品。基層にデカルコマニーを使い、画面を反転させながら荒廃した地形と奇妙な生命体を作りました。MoMAは、エルンスト本人が中央像を『勝利したナポレオンではなく、流刑と敗北のナポレオン』と述べ、自身の亡命時の感情と結びつけたことを紹介しています。

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カプリコーン

Capricorn / model 1947, cast 1975 / ブロンズ / 242.5 × 206.9 × 151 cm

National Gallery of Art, Washington

アリゾナ州セドナの自宅前に1947年、セメントや鉄くず、卵箱、牛乳容器などを組み合わせて制作した巨大彫刻を原型とする作品。NGAによれば、山羊と魚からなる星座カプリコーンの属性を、王と女王のような男女二体へ分けています。印刷物の断片を組み合わせたコラージュの方法が、日用品や廃材を組み合わせる立体制作へ展開した例です。

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コラージュ――異なる世界を一枚に接続する

「切って貼る」ことより、意味の接続を変える

エルンストのコラージュで重要なのは、紙片を貼る技術そのものではありません。化学装置、機械部品、人体、植物、家具といった本来異なる分類に属する画像を同じ空間へ置くことで、それぞれの意味を失わせ、新しい関係を作ります。

MoMAは、エルンストの方法を「cut-and-paste logic」と表現しています。後年、表面が完全な油彩で描かれていても、このコラージュ的な論理は残ります。《Celebes》は実際の切り貼りではありませんが、機械、動物、人体、風景が異なる画像源から持ち込まれたように接続されています。

元画像を消して、もっともらしい虚構を作る

《Une Semaine de bonté》では、切断した挿絵をそのまま見せず、写真製版によって一枚の古い版画のように印刷しました。MoMAは、この処理によってコラージュの継ぎ目を消し、あり得ない光景を「最初から存在した印刷物」のように見せたと説明しています。

不条理な内容なのに、画面だけは説得力を持って見える。この「見た目のリアリティ」と「内容の不可能性」のずれがエルンストの作品の基本構造です。

フロッタージュ、グラッタージュ、デカルコマニー

フロッタージュ:描く前に模様を発生させる

フロッタージュでは、紙の下に木、葉、網などを置くため、作家が一本ずつ形を描きません。まず物質の表面が模様を作り、その後にエルンストがそこから風景、動物、怪物などを「発見」します。

つまり制作の順序が通常と逆です。「鳥を描こう」と決めて線を引くのではなく、最初に意味のない模様を作り、その中から鳥に見えるものを見つけるのです。

グラッタージュ:カンヴァスの下側から絵を作る

グラッタージュでは、カンヴァスの下に置いた物体の凹凸が上の絵具へ影響します。Tateは《Forest and Dove》について、魚の骨格のようなものをカンヴァスの下へ置き、絵具をこすることで木々の質感が生まれた可能性を説明しています。

筆が画面へ意味を与えるだけでなく、支持体の裏側にある物体が表面を決めます。「絵は画家の手だけから生まれる」という考えを崩す方法です。

デカルコマニー:押して剥がす

デカルコマニーは、オスカル・ドミンゲスがシュルレアリスムの技法として発展させた方法で、絵具を塗った表面に紙やガラスを押しつけ、剥がすことで予測しにくい模様を作ります。エルンストは1930年代後半からこの技法を大規模な絵画へ積極的に取り入れました。

《Attirement of the Bride》《Napoleon in the Wilderness》《Day and Night》では、珊瑚、苔、岩、腐食した建築のような複雑な表面が生まれています。エルンストは模様をそのまま残さず、そこへ描き足し、削り、回転させながら像を組み立てました。

技法は目的ではない

エルンストの制作を「フロッタージュを発明した人」と技法一覧だけで覚えると、本質を失います。すべての技法に共通するのは、作家が最初から像を完全に支配しないことです。

外部の物質や偶然を制作へ入れ、その結果を自分で観察し、そこから次の判断を行う。技法は、予測できないイメージを発生させるための装置でした。

マックス・エルンストの作品をどう見るか

まず「何と何が組み合わされているか」を見る

エルンストの画面には、人間と鳥、動物と機械、森と人体、室内と屋外など、本来一緒に存在しない要素が頻繁に組み合わされます。最初に個々の部品を分解して見ると、コラージュ的な構造が分かります。

表面の模様が何に変換されたかを見る

グラッタージュやデカルコマニー作品では、絵具の偶発的な模様と、そこから作家が描き起こした部分の境界を探します。岩に見える部分が実は偶然の染みで、目や嘴だけが後から加えられている場合があります。

「すべてを描いた」のではなく、「偶然の模様の中で何を見つけたか」を追うと、制作過程が見えてきます。

夢占いのように一つの意味へ決めない

鳥、森、目、機械、裸体などには、エルンスト自身の記憶や心理との関連があります。しかし「鳥=父」「森=恐怖」と固定すると作品は単純になりすぎます。

MoMAやMetの解説でも、エルンストの作品には個人的記憶、フロイト的連想、戦争、神話など複数の層が同時にあるとされています。像が一つの意味へ落ち着かないこと自体が重要です。

ユーモアを見る

エルンストの画面は不気味ですが、同時に笑いがあります。機械と人体の接合、長すぎる題名、偉そうな王と滑稽な怪物、鳥の自画像などには明確なユーモアがあります。

シュルレアリスムを「暗い無意識の表現」だけとして見るのではなく、既存の秩序や権威を滑稽に組み替えるダダ的な態度が生涯残っていることを見る必要があります。

鳥、森、ロプロプ――私的神話を作る

鳥は繰り返し現れる

エルンスト作品には非常に早い時期から鳥が登場します。《Two Children Are Threatened by a Nightingale》《Forest and Dove》《Birds above the Forest》《The Barbarians》など、鳥は穏やかな存在にも怪物にもなります。

鳥を一つの象徴として固定するのではなく、飛行、自由、脅威、変身、人間と動物の境界を横断する存在として繰り返し再利用しました。

ロプロプ

1929年頃から、エルンストは「Loplop, Superior of the Birds(鳥たちの王ロプロプ)」という架空の鳥人を、自分自身の分身のように作品へ登場させます。Peggy Guggenheim Collectionも、《Attirement of the Bride》の鳥人をロプロプ=作家自身として解釈できる可能性を示しています。

エルンストは自画像を写実的な顔として描く代わりに、自分自身を架空の鳥へ変換しました。作品を作る作者自身も、コラージュや変身の対象になります。

森

森も重要な反復モチーフです。幼少期のブリュール周辺の森について、エルンストは魅惑と恐怖が同時にあったという趣旨の記憶を残しています。

《Forest and Dove》や《Birds above the Forest》では、木は自然を写生したものではなく、グラッタージュによって機械や岩のような壁になります。自然は安心できる場所でも、完全に異質な世界でもあります。

コラージュ小説――既存印刷物から物語を作る

文章の少ない「小説」

エルンストは《La Femme 100 têtes》(1929)、《Rêve d’une petite fille qui voulut entrer au Carmel》(1930)、《Une Semaine de bonté》(1934)という三つの代表的なコラージュ小説を制作しました。

通常の小説のような連続した文章はほとんどありません。19世紀の挿絵を組み替えた画像と短いキャプションを続けることで、読者自身が場面の前後関係を想像します。

《Une Semaine de bonté》

MoMA所蔵版は、182点の画像を持つ五冊組です。最初は曜日ごと七冊を構想していましたが、最後の三日分を一冊へまとめました。ライオン頭の男性、翼を持つ人物、水に満たされた室内、蛇、人間と動物の混成体などが、古い新聞挿絵のような精密さで連続します。

MoMAは、この作品に抑圧された性、暴力、反軍国主義、反教権主義、ブラックユーモアが入り混じると説明しています。「物語を理解する」というより、既存社会のイメージが別の順番に組み替えられたとき、どれほど不安定になるかを体験する書物です。

二つの世界大戦と亡命

ナチスによる「退廃芸術」

ナチ体制下のドイツでは、エルンストの作品は「退廃芸術」とされました。本人は1922年以降ドイツを制作拠点にしていませんでしたが、1930年代後半にはヨーロッパ全体が再び戦争へ向かいます。

1937年の《The Barbarians》では、巨大な鳥人のような二体が荒涼とした場所を歩きます。Metは、この作品を第二次世界大戦前のヨーロッパに対する恐怖と結びつけてきた解釈を紹介しています。

フランスでの収容

第二次世界大戦が始まると、ドイツ生まれだったエルンストはフランスで「敵性外国人」として複数回収容されました。一方ではナチスに追われ、他方では居住国フランスから敵国人として扱われるという不安定な立場に置かれます。

1940–41年頃に制作されたデカルコマニー作品には、崩壊する地形、石化した生命、廃墟のような風景が増えます。戦争を写実的に報道する作品ではありませんが、世界が一度溶解し、別の異様な形へ固まったように見えます。

1941年、アメリカへ亡命

1941年、エルンストはヨーロッパを脱出し、ペギー・グッゲンハイムとともにアメリカへ渡りました。《Napoleon in the Wilderness》はフランスで制作を始め、カリフォルニア到着後に完成しています。MoMAによれば、本人は中央のナポレオン像を「勝利者ではなく、流刑と敗北のナポレオン」として、自分の当時の感情の無意識的表現だった可能性を語りました。

アメリカ時代――自動技法から彫刻へ

ニューヨークでシュルレアリスムを伝える

1940年代初頭、エルンストを含むヨーロッパのシュルレアリストたちがニューヨークへ集まったことは、若いアメリカ人作家にとって重要でした。自動技法、偶然、無意識を制作へ入れる考えが、ニューヨークの画家たちへ直接伝わります。

エルンストは1942年頃、穴を開けた容器を紐で吊り、振り子のように動かして絵具を落とす方法も試しました。後にポロックのドリップ技法との関係が論じられてきましたが、MoMAの研究は、ポロックの技法にはエルンストだけでなく、シケイロス、ミロ、マッソン、パーレン、ジャネット・ソーベルなど複数の先例と経験があったことも指摘しています。単純な「エルンストがポロックへ発明を教えた」という一本線では捉えられません。

彫刻

アメリカ時代、エルンストは彫刻へも力を入れます。1944年の《The King Playing with the Queen》では、チェス盤のような場に巨大な王、女王、兵士を配置しました。MoMAは、第二次世界大戦期の権力や階層を暗示する可能性を紹介しつつ、ドロテア・タニングの「解釈は尽きない」という言葉も提示しています。

セドナと《Capricorn》

1946年、エルンストは画家・作家ドロテア・タニングと結婚し、アリゾナ州セドナに生活拠点を作ります。1947年にはセメント、鉄くず、牛乳容器、卵箱など身近な材料を使い、家の前に巨大彫刻《Capricorn》を制作しました。

National Gallery of Artによれば、山羊と魚の属性を男女二体へ分割し、王と女王のような像へ変換しています。コラージュで既存画像を組み合わせていた方法が、三次元では廃材や日用品の型を組み合わせる方法へ変わっています。

ヨーロッパへの帰還

1953年、エルンストはヨーロッパへ戻り、フランスを主要な生活拠点としました。1954年のヴェネツィア・ビエンナーレでは絵画部門の大賞を受賞し、国際的な評価が確立します。晩年も絵画、彫刻、版画、書物を制作し続け、1976年4月1日、パリで死去しました。

偶然に任せることと、作品を作ること

「自動制作」は作者を消すことではない

フロッタージュやデカルコマニーでは、作者がすべてを事前に決めません。しかし偶然にできた模様がそのまま完成作になるわけでもありません。エルンストは模様を見つめ、回転させ、切り取り、塗り加え、削り、題名を付けます。

偶然は「完成作を作ってくれる力」ではなく、作者が自分だけでは思いつかなかった形へ出会うための最初の条件です。

作者は「作る人」から「発見する人」へ

MoMAが紹介するエルンストの言葉に、自分は作品の誕生を「観客として見守る」ようになった、という趣旨の表現があります。これは完全な受動性ではありません。

自分で形を描く代わりに、物質が作った形を観察し、選択する。作家の役割を「ゼロから創造する天才」から「偶然の中に像を見つける編集者」へずらしたことが重要です。

20世紀美術への影響

エルンストが開発・展開した制作方法は、シュルレアリスム内部だけでなく、その後の自動制作、抽象表現主義、偶然性を取り入れる絵画や版画、コラージュ、プロセス重視の制作へ広い影響を与えました。

しかし、技法の発明だけが評価の理由ではありません。既存のイメージ、偶然、物質、作者の判断を組み合わせ、「作品はどこから来るのか」という問いそのものを制作方法へ変えた点が、エルンストを20世紀美術の重要人物にしています。

非西洋文化の参照を現在どう見るか

Metは、エルンストがアフリカ、アジア、北米先住民、オセアニアなどの彫刻や織物を収集し、西欧ブルジョワ文化とは異なる造形として関心を持っていたことを記録しています。当時の前衛美術家に広く見られた関心ですが、現在では、それらの文化的・宗教的文脈を切り離し「原始的」「無意識的」なものとして西欧美術へ利用した近代主義の視点そのものも批判的に検討されています。

エルンストの造形的な引用を理解する際も、単に「異文化から自由に着想した」とするのではなく、20世紀前半のヨーロッパ美術が非西洋文化をどのように見ていたのかという歴史を併せて見る必要があります。

画像利用について

エルンストは1976年に死去しており、2026年現在も作品は多くの地域で著作権保護下にあります。MoMAはエルンスト作品にArtists Rights Society(ARS)/ADAGPの著作権表示を掲載し、The Metも《The Barbarians》を権利制限対象として表示しています。Max Ernst Museumのプレス資料も作品画像の利用を報道目的などに限定しています。ART LIBRARYでは主要作品画像を無断転載せず、現段階では作品情報と公式所蔵館へのリンクで構成します。

略年譜

1891
4月2日、ドイツのブリュールに生まれる。
1910頃–1914
ボン大学で哲学、美術史、心理学などを学びながら独学で制作。ハンス・アルプ、アウグスト・マッケらと交流。
1914–1917
第一次世界大戦でドイツ軍に従軍し、西部・東部戦線を経験。
1918
戦争から帰還。美術史家ルイーゼ・シュトラウスと結婚。
1919
ハンス・アルプ、ヨハネス・バーゲルトらとケルン・ダダを展開。デ・キリコ作品との出会いが大きな刺激となる。
1921
アンドレ・ブルトンがパリでエルンストのコラージュ展を企画。《Celebes》を制作。ポール・エリュアールと知り合う。
1922
パリへ移住。エリュアール、ブルトン、アラゴンらと活動。
1924
シュルレアリスムの形成に中心的に参加。《Two Children Are Threatened by a Nightingale》を制作。
1925
フロッタージュを体系的に発展させる。
1926
34点のフロッタージュをもとにした《Histoire naturelle》を刊行。
1927–1929
グラッタージュによる森・鳥の絵画を展開。1929年頃からロプロプが作品へ現れる。
1929
最初のコラージュ小説《La Femme 100 têtes》を刊行。
1930
《Rêve d’une petite fille qui voulut entrer au Carmel》を刊行。
1933–1934
コラージュ小説《Une Semaine de bonté》を制作・刊行。
1937
《The Barbarians》などを制作。ナチス政権下で作品が「退廃芸術」として扱われる。
1938
ブルトンらとの関係が悪化し、シュルレアリスト・グループから距離を置く。レオノーラ・キャリントンと南フランスへ移る。
1939–1940
第二次世界大戦開戦後、フランスで敵性外国人として複数回収容される。
1940
《Attirement of the Bride》を制作。デカルコマニーを大型絵画へ展開。
1941
ヨーロッパを脱出しアメリカへ亡命。ペギー・グッゲンハイムと結婚。《Napoleon in the Wilderness》を完成。
1942
ニューヨークでシュルレアリストの活動に関与。振り子状の容器から絵具を落とす実験も行う。ドロテア・タニングと出会う。
1944
《The King Playing with the Queen》など彫刻を制作。
1946
ドロテア・タニングと結婚。アリゾナ州セドナへ生活拠点を築く。
1947
セドナの自宅前に《Capricorn》の原型を制作。
1953
ヨーロッパへ戻り、以後フランスを主要拠点とする。
1954
ヴェネツィア・ビエンナーレで絵画部門の大賞を受賞。
1958
フランス国籍を取得。
1961
MoMAで大規模な個展が開催される。
1975
Solomon R. Guggenheim Museumなどで大規模回顧展。
1976
4月1日、パリで死去。84歳。

参考資料・出典

本ページはThe Museum of Modern Art、The Metropolitan Museum of Art、Tate、National Gallery of Art、Peggy Guggenheim Collection、The Menil Collection、Max Ernst Museum Brühl des LVRなどの美術館・研究機関資料を参照してART LIBRARYが独自に執筆しました。原文の全文翻訳ではありません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY