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紀元前7000–4500

新石器時代のエーゲ海

農耕集落と彩文土器、海を渡る黒曜石

紀元前7000〜4500年頃のエーゲ海では、現在のギリシア本土の平野、クレタ島、キクラデス諸島で、農耕と牧畜を営む集落が発達していました。温暖な気候のもとで麦や豆を育て、ヒツジやヤギを飼い、海に近い地域では魚や貝も食料にしていました。海面はその後も上昇を続け、当時の島々の海岸線は現在とは異なっていました。

人々は石や日干し煉瓦で家を築き、土をこねて鉢や壺を作り、器の表面に赤や白の模様を描きました。テッサリアのセスクロでは彩色した土器や母子像が残り、ディミニでは何重にも巡る石囲いの中に家が並びました。クレタ島のクノッソスでも、のちに巨大な宮殿が建つ丘の下から、初期の農耕集落が発見されています。

島の暮らしを知るうえでは、パロス島近くのサリアゴスが重要です。黒い器面に白い幾何学文様を描いた土器や大理石の人物像に加え、ミロス島から運ばれた黒曜石の道具が多数見つかりました。家の造りや土器の形、海を渡った石材を調べることで、地域ごとに異なる制作技術と、島々を結んだ人や物の移動が少しずつ明らかになっています。

海と平野に広がった新石器時代の暮らし

氷期が終わった後のエーゲ海

紀元前7000年頃のエーゲ海周辺は、氷期の寒さが去り、現在に近い温暖な気候へ移りつつありました。ギリシア本土のテッサリア地方には川が流れる肥沃な平野が広がり、南のクレタ島では山地のあいだに耕作に適した土地がありました。海沿いには浅い入り江や島が点在し、その形はその後も海面の上昇によって変わっていきました。

人々は麦類や豆類を栽培し、ヒツジやヤギ、ウシなどを飼いながら村を営みました。島では漁労や貝類の採集も重要で、生活の中心は場所によって異なりました。日干し煉瓦の建物、手で成形した土器、人や動物の小像、海を渡って運ばれた石器が、当時の集落の暮らしを伝えています。(参照:Efstratiou・Karetsou・Ntinou編(2013)|クノッソスの新石器時代集落/ギリシア文化省(2025)|セスクロ遺跡の建築と年代/ギリシア文化省・キクラデス諸島考古局|サリアゴス遺跡と遺物)

村の年代を何によって知るのか

新石器時代の集落には、家を建て直した跡や炉、床、土器の破片、炭化した種子などが層をなして残されています。考古学者は地層の重なりと土器の形や文様を調べ、炭化した植物などの年代測定も利用して集落の変遷を考えます。ひとつの丘に何世紀も暮らした場合、その上に古い家と新しい家の跡が重なります。

「セスクロ文化」「ディミニ文化」という呼び名は、最初期の研究者が土器と遺構の違いを分類するために広めたものです。現在は各集落の地層や製作技術を詳しく調べ、同じ名称で呼ばれる土器にも地域差や製作方法の違いがあることが分かってきました。年代は以下、個々の資料の幅を尊重して紀元前で示します。(参照:ギリシア世界財団|ディミニ新石器時代集落/Kozatsasほか(2018)|セスクロ土器のX線断層撮影分析)

クレタ島クノッソス|後の宮殿の下にあった農耕集落

紀元前7000年頃に始まる居住

クレタ島のクノッソスといえば青銅器時代の宮殿が有名ですが、その壮大な建物の下には新石器時代の集落の跡が埋まっています。ケファラ丘は、何度も建物を造り、壊して積み重ねた土によって形づくられました。最も古い居住は紀元前7000年頃にさかのぼり、宮殿が現れるより数千年も早い時期に農耕を営む人々が暮らしていました。

ジョン・エヴァンズが1957〜1960年などに行った発掘では、宮殿の中庭の下から新石器時代の住居跡や生活資料が確認されました。1997年の追加調査をまとめたエフストラティウらの2013年の研究では、地層、建物、土器、動植物の遺存体が再検討されています。現在見える宮殿の壁を、そのまま紀元前7000年頃の建築と結びつけることはできません。(参照:Efstratiou・Karetsou・Ntinou編(2013)|クノッソスの新石器時代集落/J. D. Evans|クノッソス新石器時代集落の発掘)

土器と家の作り方が変わる長い時間

クノッソスで最初期の生活が始まった時点には、焼成した土器がほとんど、あるいはまだ用いられていなかったと考えられる段階があります。その後、粘土を手で形作った器が使われるようになり、容器の口の形、器壁の厚さ、表面処理なども変化しました。器の作り方を追うと、数千年続いた同じ集落にも一様でない生活の歴史が見えてきます。

ピーター・トムキンズとシモーナ・トダーロは、出土層と土器、建物の対応を見直し、新石器時代の居住を十五の段階に分ける研究を進めています。1997年に得られた土器片の観察からは、粘土の塊やひも状の部材を組み立てる方法のほか、すでにある容器を型のように使って別の器を形作った可能性も指摘されました。初期の農耕生活と土器作りが最初から一組で完成していたとは限りません。(参照:Tomkins・Todaro|新石器時代のクノッソスと発掘研究/Tomkins・Day(2001)|クノッソス最初期の土器製作と交流)

海を渡ってクレタ島に住み始めた人々

クレタ島は海によってギリシア本土やアナトリアと隔てられています。農作物や飼育動物が新石器時代のクノッソスに現れることから、海を越えて人々や生物が移動していたと考えられています。住居や土器の資料は、移り住んだ人々が島の環境に合わせて生活を続けたことを示します。

しかし、どの海岸から、どのような船で、何度に分けて渡ったかは詳しく分かっていません。後のミノア文明の宮殿文化から初期集落の社会までを直接さかのぼって説明することもできません。クノッソスの長い地層を調べる研究は、島で農耕が始まった過程そのものを問い直しています。(参照:Efstratiou・Karetsou・Ntinou編(2013)|クノッソスの新石器時代集落/Tomkins・Todaro|新石器時代のクノッソスと発掘研究)

テッサリア平野のセスクロ|家と彩文土器

丘の集落と日干し煉瓦の住居

ギリシア本土のテッサリア平野では、紀元前6500年頃から農耕集落が増えていきました。セスクロはその代表的な遺跡で、カストラキの丘にあるセスクロAと、周囲の斜面に広がるセスクロBなどから構成されています。家は石の基礎の上に日干し煉瓦を積み、木材と植物質の材料を屋根に使ったと考えられています。

セスクロの住居跡には、建物の区画や入口、炉など、日常の生活にかかわる構造が残っています。丘の上と斜面では建物の集まり方が異なり、後の時期には丘上に大きな建物が築かれました。ギリシア文化省が2025年に公表した遺跡の保全資料では、発掘された基礎や壁だけでなく、後代の修復石材が混じる問題にも触れています。現在見える石積みを、すべて同じ時代のものとは判断できません。(参照:ギリシア文化省(2025)|セスクロ遺跡の建築と年代)

赤い線を描いた鉢と磨かれた器面

セスクロの土器には、淡い色の地の上に赤い線や帯を描いた器が知られています。鉢や壺の胴に直線、三角形、曲線を組み合わせ、器の丸みを利用して文様を巡らせました。赤く磨いた無文の器や、黒く仕上げた器もあり、すべてが同じ模様を持つわけではありません。色の違いは顔料だけでなく、粘土の成分、焼き方、表面を磨く工程にも関係します。

土器の表面を整え、乾燥させ、焼いて仕上げるためには、器が割れない厚みや粘土の扱い方を知る必要があります。セスクロの土器片を調べたペンテデカとコツァキスの2007年の研究では、赤い単色土器の材料と仕上げ方に複数の組み合わせが見られました。見た目のよく似た器でも、材料の選択や製作工程は一種類ではなかったのです。(参照:Pentedeka・Kotsakis(2007)|セスクロの赤色土器の材料と製法/ギリシア国立博士論文アーカイブ|テッサリア土器の技術と分布/Imvrou Pigadi発掘研究(2023)|テッサリアの赤地・白地に施した彩文土器)

土器の内部を調べて分かった成形の違い

土器は焼く前に粘土を積み重ねて形を作ります。器の表面をよく磨くと、その継ぎ目は見えにくくなります。コザツァス、コツァキスら(2018年)は、セスクロの中期新石器時代の土器をX線で立体的に撮影し、内部に残された粘土の継ぎ目や細かな空隙の向きを観察しました。

その結果、同じ遺跡の土器にも複数の成形技術が用いられていたことが確認されました。外側に見える文様だけを手がかりに制作技術を判断するのではなく、器の内側に残った構造から製作者の手順を調べられるようになっています。誰が作ったかまでは分からなくても、作り方に幅があったことは具体的に示せます。(参照:Kozatsasほか(2018)|セスクロ土器のX線断層撮影分析)

小さな人物像と住居模型|粘土で表した暮らし

高さ16.5センチのセスクロの母子像

セスクロから出土した高さ16.5センチの土製の母子像は、紀元前4800〜4500年頃の作とされ、アテネ国立考古学博物館に収蔵されています。腰掛けた人物が幼児を胸に抱き寄せ、乳を与える姿です。幼児の片手は母親の胸に置かれ、もう一方の手は背へ伸びています。母親の頭部は失われていますが、両腕が幼児を囲む形は残っています。

母子の身体と腰掛けには茶色の帯状文様が描かれ、腹部や尻の部分には渦巻きが見えます。指先は細い線で刻まれています。博物館の解説では、帯状文様を衣服や織物の表現とみる可能性が論じられていますが、帯は腰掛けの脚にも続くため、衣服の模様と断定できません。母子という具体的な場面が分かることと、この像を作った目的が分かることは別です。(参照:アテネ国立考古学博物館|セスクロの母子像(4800〜4500年頃))

人間と四足動物を組み合わせた小像

同じセスクロには、上半身が人、下半身が四足動物のように見える高さ6.5センチの土製小像もあります。発掘者クリストス・ツンダスは1901年の発掘日誌に、その奇妙な姿を「ケンタウロス」に似たものとして記しました。実際の像は、上半身が垂直に立ち、下半身が横へ伸び、四本の湾曲した脚を備えています。腕の一部は欠けています。

2025年にカティア・マンテリが発表したアテネ国立考古学博物館の解説では、後のギリシア神話に出てくる人馬像と同一視できないことが強調されています。腰掛けた人物像を特殊な形に作った可能性も検討されており、動物と人間を意図的に組み合わせたものかどうか、用途も確定していません。人間の姿を単純に写した小像だけが作られていたわけではなかったことが分かります。(参照:アテネ国立考古学博物館(2025)|セスクロの人物・動物混成小像)

八人の人物が入った小さな家の模型

テッサリア地方のプラティア・マグーラ・ザルコウからは、屋根のない住居の内部に小さな人物を配した土製模型が見つかりました。紀元前5300〜4800年頃のものとされ、壁には入口、内部には台やかまどのような設備が表されています。人物は大きな二組の男女と、それより小さな人物を合わせて八人で構成され、部屋の使い方を想像できる作りになっています。

1984年の発掘報告では、この模型は家の床の下から発見され、建物を造る際に納められた可能性が指摘されました。内部の人物を実在した家族の肖像とみる説明がありますが、年齢や血縁関係を直接確かめることはできません。人間の像に家の模型と生活設備を組み合わせた点で、出土した住居跡とは異なる種類の資料です。(参照:ギリシア世界財団|ザルコウ出土の人物入り住居模型/アテネ・フランス考古学校|プラティア・マグーラ・ザルコウの出土状況(1984)/アテネ・フランス考古学校|ザルコウの住居模型と内部の人物(1983年調査))

ディミニ|曲線を描く石囲いと幾何学文様

六つの曲線状の石囲い

セスクロの近く、パガシティコス湾に面するディミニの丘では、紀元前4800〜4500年頃の集落遺構がよく知られています。平面図を見ると、六つの曲線状の石囲いが何重にも巡り、その間に家や通路が設けられています。石囲いには地元の片岩が使われ、幅はおおむね60センチから1メートル40センチほどです。

最初期の発掘では、外側から内側へ向かう配置を、村を守るための防御施設や特別な中心施設の証拠として解釈しました。近年は斜面の土を支える役割や、居住区画を分ける役割も検討されています。六つの壁が同時に一度で築かれたとは限らず、居住段階に応じて配置を見直す必要があります。(参照:ギリシア世界財団|ディミニの建築と石囲い/ギリシア政府観光局|セスクロとディミニの考古遺跡)

家の区画と集落の中心

ディミニでは石囲いの間に家が配置され、丘の中心部には広い部屋を持つ建物の跡があります。住居には石の基礎と日干し煉瓦が使われ、調理用の炉や貯蔵場所が設けられた例もあります。石囲いが屈曲することで通路は直線ではなく、集落内の移動の仕方も建物の配置によって決まりました。

こうした平面構成は、人口や仕事の分担を考える研究にも利用されています。しかし、壁の内側に住んだ人々が特定の支配階層だったか、集落に首長がいたかまでは明らかでありません。初期の研究で用いられた「砦」や「アクロポリス」という言葉を、そのまま政治制度の証拠として扱うことはできません。(参照:ギリシア世界財団|ディミニ新石器時代集落/ギリシア世界財団|ディミニの建築と石囲い)

土器をめぐる渦巻きと直線

ディミニでは鉢や壺などの土器が多数出土し、幾何学文様を持つものが知られています。器の縁の近くに線を繰り返したり、胴部の広い面を装飾したりする方法は、粘土の容器を実用品として使いながら、その表面を造形の場としていたことを伝えます。初期の考古学者は、土器の様式と集落の建築をまとめて「ディミニ文化」と呼びました。

この名称を用いるときは、年代の違いにも注意が必要です。例えばメトロポリタン美術館が所蔵する、濃い色の渦巻きを描いた「ディミニ文化」の土器片は紀元前3800〜3300年頃とされ、この記事で中心に扱う紀元前4800〜4500年頃の集落遺構より新しいものです。テッサリアの土器を材料分析した研究では、見た目が似た器にも産地や製法の違いがあることが分かりました。様式名だけで個々の土器の年代を決めることはできません。(参照:メトロポリタン美術館|ディミニ文化の渦巻き文土器片(紀元前3800〜3300年頃)/ギリシア国立博士論文アーカイブ|テッサリア新石器時代の土器生産と流通)

キクラデス諸島サリアゴス|島の土器と石製小像

海面が低かった頃の島の集落

パロス島とアンティパロス島の間にあるサリアゴスは、現在は小さな無人島ですが、新石器時代には海面が今より低く、両島をつなぐ陸地の一部に近い場所にありました。紀元前5300〜4500年頃にかけての居住が知られ、1964〜1965年にコリン・レンフルーとジョン・エヴァンズが発掘しました。

遺跡では石の基礎の上に築かれた四角い住居、土器、小像、石器、魚骨、貝殻が見つかっています。住民は農耕や家畜飼育だけでなく、魚や海産物を多く利用していました。現在の海岸線だけから当時の島の広さを想像すると、遺跡の立地を誤解してしまいます。海底地形の調査は、かつてより広い陸地があったことを示しています。(参照:ギリシア文化省・キクラデス諸島考古局|サリアゴス遺跡と遺物/ギリシア文化省・キクラデス諸島考古局|パロス博物館資料)

黒い器面に白い線を描いた土器

サリアゴスの土器は、黒っぽい器面に白い線で模様を描いたものが特徴的です。底が平らな鉢や、高い脚を付けた浅い器が多く、広い帯、ジグザグ、三角形、ひし形、四角形などの文様が見られます。線は器面の輪郭に沿って連続する場合もあり、単純な線だけで器全体の表情を変えています。

この白い装飾の一部は器を焼いた後に施されたため、長い埋没のあいだに薄れ、今ではほとんど見えなくなっているものもあります。テッサリアの赤い彩文土器と比べると、地と線の明暗関係が異なります。装飾技法や器形の近さは、エーゲ海東部やほかの島との関係を考える資料になりますが、同じ文様があることだけで直接の交易を証明できるわけではありません。(参照:ギリシア文化省・キクラデス諸島考古局|サリアゴス遺跡と遺物)

大理石の「座る女性像」

サリアゴスからは、大理石を彫った小さな人物像も発見されました。ひざを曲げて座る、丸みを帯びた身体を持つ像で、「サリアゴスのふくよかな女性像」などと呼ばれています。身体の量感がはっきりしたこの像のほか、薄い板のように人体を簡略化した小像、土製の人物像の断片、骨製の人形状の飾りも出土しました。

新石器時代のこの女性像は、数千年後の青銅器時代にキクラデス諸島で作られる大理石人物像より古いものです。大理石という共通の材料が使われた事実は重要ですが、形も制作時期も異なるため、直接の祖先と決めつけることはできません。像が誰を表しているのか、どこに置かれていたのかについては、集落全体の発掘資料との検討が続いています。(参照:ギリシア文化省・キクラデス諸島考古局|サリアゴス遺跡と遺物/ギリシア文化省・キクラデス諸島考古局|パロス博物館資料)

石で作った容器と漁労の痕跡

サリアゴスには、土器とは別に大理石の容器もあります。比較的まっすぐな側面を持ち、底に輪状の台を備えた鉢などが確認されています。固い石の表面を削り、内部をくりぬき、縁と底を整えるには、粘土を成形するのとは異なる長い加工工程が必要でした。

発掘では約3000点の魚骨が採集され、大型のマグロに属する骨も含まれています。磨製石器や黒曜石の刃だけでなく、釣りや漁網の利用を考える資料も残されています。石製容器や白い彩文土器が日常の食事で使われたのか、それ以外の場面で特別な役割を持っていたのかは、器そのものの痕跡や出土場所から検討されています。(参照:ギリシア世界財団|新石器時代の石製容器/ギリシア文化省・キクラデス諸島考古局|サリアゴス遺跡と遺物)

ミロス島の黒曜石|海を越えて運ばれた石器材料

刃の鋭い火山ガラス

黒曜石は火山の溶岩が急速に冷えてできたガラス質の石です。打ち割ると薄く鋭い刃が得られるため、穀物や動物を切る刃物、小さな刃片、尖頭器などの材料になりました。エーゲ海ではミロス島が主要な産地の一つで、紀元前7000〜4500年頃にも本土や島々の集落へ運ばれていました。

石の塊を打ち欠いて石核を作り、そこから規則的に細長い刃片を剥がす加工が行われました。完成した道具だけでなく、削りかすや使い残した石核が見つかると、遺跡の内部で材料を加工していたことが分かります。黒曜石の色や見た目だけでは詳しい産地を確定しにくいため、含まれる元素を測って比較する方法が用いられます。(参照:Tsampiri(2018)|先史エーゲ海の黒曜石と道具/Perlès・Takaoğlu・Gratuze(2011)|北西アナトリア出土のミロス島産黒曜石)

海を渡る行為は農耕が始まる以前から

ミロス島産の黒曜石は、ペロポネソス半島のフランクティ洞窟などで、新石器時代より古い層からも見つかっています。黒曜石の表面が水分を取り込む性質を利用して年代を調べたラスカリスら(2011年)は、ミロス島の利用が氷期末から初期の温暖期にまでさかのぼる可能性を示しました。海を越えた石材の入手は、農耕の開始によって突然生まれた習慣ではありません。

レンフルー(2012年)は、新石器時代になると島々と周辺地域の交流が頻繁になったと整理しています。一方、古い黒曜石を見つけたことだけで、その時代のミロス島に恒久的な集落があったと判断できません。岩石を採るための一時的な訪問と、家を建てて暮らす居住は、別の証拠によって確かめる必要があります。(参照:Laskarisほか(2011)|新石器時代以前の黒曜石搬出年代/Renfrew(2012)|先史キクラデス諸島の黒曜石と交流)

石の元素から追跡できる移動の範囲

ペルレス、タカオール、グラチューズ(2011年)は、現在のトルコ北西部コシュクンテペで見つかった黒曜石のうち、分析した試料がミロス島産であることを確認しました。出土した黒曜石片は110点にのぼりますが、元素分析で産地を確認したのはそのうちの三つです。紀元前7千年紀後半の沿岸集落にも、遠方から石材が届いていたと考えられます。

さらにジェミジら(2022年)は、アナトリア南西部ボズブルン半島の黒曜石649点を分析し、ミロス島、ギアリ島、アナトリア内陸の複数の産地を区別しました。出土品の産地が分かっても、それを一人の航海者が運んだのか、いくつもの集落を経由したのかは特定できません。海上の移動経路と石材の受け渡し方について、研究が続いています。(参照:Perlès・Takaoğlu・Gratuze(2011)|北西アナトリア出土のミロス島産黒曜石/Gemiciほか(2022)|アナトリア沿岸の黒曜石産地分析)

略年表

  • 紀元前7000年頃|クレタ島クノッソスで初期の農耕集落が営まれ始める。
  • 紀元前6500年頃|テッサリア地方のセスクロなどで初期の農耕集落が広がる。
  • 紀元前5800〜5300年頃|セスクロを含むテッサリアの集落で彩文土器や磨いた器が作られる。
  • 紀元前5300〜4800年頃|プラティア・マグーラ・ザルコウで人物入りの土製住居模型が作られる。
  • 紀元前5300〜4500年頃|キクラデス諸島サリアゴスで土器や大理石の小像が作られ、ミロス島産黒曜石が利用される。
  • 紀元前4800〜4500年頃|ディミニの曲線状の石囲いを備えた集落が発達する。
  • 紀元前4800〜4500年頃|セスクロで母子を表した高さ16.5センチの土製小像が作られる。

まとめ

エーゲ海周辺の新石器時代には、平野の農耕集落と島の漁労をともなう集落が並び立ち、家や器の作り方にも地域差がありました。セスクロの赤い彩文土器とサリアゴスの白い線文様は、使う色も仕上げる工程も異なります。母子を抱く土製小像、屋根のない家と人物を一緒に作った模型、丸い身体を持つ大理石の像からは、粘土と石で人間の姿を表すさまざまな方法が確かめられます。

黒曜石の産地分析によって、ミロス島から遠くの集落まで石材が運ばれたことも分かってきました。その一方で、人々がどのような船を使い、どんな経路で島を行き来していたのかは十分には分かっていません。小像を作った目的や、ディミニの石囲いが果たした役割にも異なる解釈があります。発掘された家の跡、器の材料、石の産地を調べる研究が、新石器時代の暮らしと制作活動を少しずつ明らかにしています。

参考資料・出典