紀元前4000–3100
古代メソポタミアの都市の成立
神殿建築と円筒印章
紀元前4000年頃、現在のイラク南部を流れるティグリス川とユーフラテス川の下流には、川の流れが変わるたびに湿地や新しい土地が生まれていました。人々は大麦を育て、羊や山羊を飼い、粘土から器や日干し煉瓦を作って暮らしていました。こうした農耕集落の一部では、人が集まり、建物が大きくなり、物資や仕事を管理するための新しい仕組みが発達していきます。
紀元前4千年紀の後半、メソポタミア南部のウルクは、広い居住地と巨大な建築群を持つ都市へ成長しました。高い基壇の上に建つ白い神殿、粘土や石の円錐を並べて飾った壁、広間や中庭を組み合わせた建物など、それまでの小さな集落とは規模の異なる造形が現れます。
同じ頃、石の円筒に動物や人物の絵を彫り、粘土に転がして図柄を残す円筒印章が使われるようになりました。印章の絵には動物の列や神殿へ向かう人物が現れ、粘土板には穀物や食料の配給を記す初期の文字が刻まれています。建物の用途や図像が表す儀礼には分からないことも残っていますが、発掘された壁や印章、粘土板から、都市の暮らしと造形の変化を具体的に知ることができます。
CONTENTS
川と湿地に広がる都市ウルク
南部メソポタミアの自然と農耕
紀元前4000年頃、ティグリス川とユーフラテス川の下流には、河道、湿地、乾いた平野が入り組んでいました。周辺の農村では大麦などの穀物を育て、羊や山羊を飼い、川では魚を捕っていました。建物の壁に使う日干し煉瓦や記録用の粘土は身近に得られましたが、大きな建築物に用いる良質の石材や木材は遠方から運ぶ必要がありました。こうした条件のもと、集落が集中し、住居のほかに大規模な建物を備える都市が現れました。(参照:メトロポリタン美術館|ウルク―最初期の都市)
ウルクの拡大と都市の規模
現在のイラク南部にあるウルク遺跡は、紀元前3500〜3100年頃に急速に規模を増しました。紀元前3200年頃には市街地が約250ヘクタールに広がったと推定され、近隣の小集落とは比較にならない規模になりました。大小の居住地が周辺に分布し、建築工事、物資の保管、交易、専門職の仕事を支える人々が集まっていました。住民の正確な数や都市の成長を促した要因は、なお議論されています。(参照:メトロポリタン美術館|文字の起源)
都市の中心部には、後世にエアンナ地区、アヌ地区と呼ばれるようになった二つの建築群があります。宗教に関わった可能性が高い建物とともに、集会や行政に関わると考えられる建物が建てられました。当時の政治と宗教をどのような人々が担っていたのかは、後の王国の仕組みをそのまま当てはめても分かりません。(参照:ドイツ考古学研究所|ウルク遺跡の発掘成果)
エアンナ地区の大型建築
広間を中心にした建物の平面
エアンナ地区では、日干し煉瓦の壁で広い長方形の広間を囲み、その両側に細長い部屋を並べた建物が造られました。部屋の入口や通路をどこに設けるかによって、人が集まる場所と奥に入る場所が分かれます。建物Cや建物Dなどは発掘時に「神殿」と名付けられましたが、規模と平面だけで祭祀専用の施設と判断できるわけではありません。(参照:ドイツ考古学研究所|ウルク遺跡の発掘成果)
柱の並ぶ広間や中庭を持つ建物もあり、地区全体は一棟の神殿というより、異なる平面の建物を組み合わせた区域でした。紀元前4千年紀後半に、広い床面を作り、壁や柱を装飾する工事が繰り返されています。周辺の小規模な住居とは異なる建築の規模から、多くの労働力と資材を動員できる組織の存在が推測されます。(参照:ドイツ考古学研究所|ウルク遺跡の発掘成果)
石灰岩を使った建物と粘土の壁
ウルク周辺では粘土から日干し煉瓦を作り、厚い壁を積み上げる方法が発達しました。その一方、エアンナの初期大型建築には石灰岩を使った例もあります。石灰岩は南部の平野で容易に大量採取できる材料ではなく、運搬にも労力がかかります。建材の選択自体が、建物の用途や建設に関わった人々の組織を考える材料になっています。(参照:ドイツ考古学研究所|ウルク遺跡の発掘成果)
発掘者たちは、建築の下に別の時期の壁や床が重なることから、同じ区域に何度も建物が造られた経過を調べてきました。紀元前3100年頃を境に、巨大な建物群は大きく姿を変えます。建物の用途を考える際には、後世の神殿名だけでなく、どの層のどの平面なのかを区別する必要があります。(参照:岡田明子(1981)|エアンナ地区の建築の再編)
「神殿」と「行政施設」の間で続く議論
ウルクを発掘した研究者たちは、広い中庭や整った左右対称の部屋を持つ建物を「神殿」として記録してきました。現在もそうした名称が使われていますが、ドイツ考古学研究所は、紀元前4千年紀後半のエアンナ地区の建物について、宗教儀礼の場だったのか、政治や行政の活動に重きを置いた施設だったのかという問題が未解決であると説明しています。(参照:ドイツ考古学研究所|ウルク遺跡の発掘成果)
岡田明子は1981年に、紀元前3100年以降の地区再編で大型建物が失われ、別の平面の建物が現れる過程を検討しました。後に造られた大規模な複合建築を王の居所とみる可能性も論じていますが、その性格は確定していません。都市の中心部にあった建物を、現代の「役所」「宮殿」「神殿」のどれか一つに簡単に分類することは難しいのです。(参照:岡田明子(1981)|エアンナ地区の建築の再編)
高い基壇に建てられた白い神殿
アヌ地区の高壇と白い壁
エアンナ地区から離れたアヌ地区には、日干し煉瓦を積んだ大きな高壇が築かれ、その上に「白い神殿」と呼ばれる建物が残されています。建物は紀元前4千年紀後半に造られ、外壁には白い漆喰が塗られていました。平らな沖積平野にそびえる高壇は、周囲から見える高さを持ち、上に置かれた建物を遠方から認識できるようにしていました。(参照:ドイツ考古学研究所|ウルク遺跡の発掘成果)
「アヌ」という神名は、この場所で後の時代に天空神アヌが崇拝されたことと結びついています。白い神殿が造られた当初、どの神格が祀られ、どのような儀礼が行われたかを直接記した同時代の文書は残っていません。現存する遺構と後世の宗教史を区別しながら、用途が研究されています。(参照:Smarthistory|ウルクの白い神殿と高壇)
中央の広間、側室、祭壇状の設備
白い神殿の平面は、細長い中央の広間と、その両側に配された部屋を基本としています。外側には壁の出入りによる陰影が生まれ、白く塗られた壁面には陽光が当たっていました。内部には祭壇と解釈される造作があり、建築の構成から儀礼の場とみる考え方が支持されています。現在見ることのできるのは主に土台や壁の下部であり、屋根の高さや装飾の細部は復元に依存します。(参照:Smarthistory|ウルクの白い神殿と高壇)
この高壇は何度も増築され、古い建物の上に新しい建築が重なりました。ドイツ考古学研究所の発掘成果によれば、深い部分には紀元前5千年紀末の層も確認されています。現在残る高壇が一度の工事で完成したと考えるより、長期間にわたって場所が使われた結果として理解する方が発掘記録と一致します。(参照:ドイツ考古学研究所|ウルク遺跡の発掘成果)
土の壁を飾った円錐形のモザイク
粘土の円錐を並べてつくる幾何学模様
ウルクの大型建築を特徴づける装飾に、先端の細い円錐形の部材を並べる壁面モザイクがあります。円錐の長い部分を湿った壁に差し込み、平らな頭の部分だけを外に見せて、赤、黒、白などの点を密に並べました。多数の円が直線、山形、菱形などの規則的な模様となり、煉瓦壁の広い面を覆いました。焼成した粘土の円錐に加え、石製の円錐が使われた建物も確認されています。(参照:ドイツ考古学研究所|ウルク遺跡の発掘成果)
アロトーらが2022年に報告した収蔵部材の材料分析では、白色にはドロマイト、赤色には赤鉄鉱を含む顔料、黒色には瀝青が使われたとされます。これらの顔料は、粘土を焼いた後に円錐の頭部へ塗られたと考えられています。ベルリンのペルガモン博物館では、この装飾を再構成した壁面が長く展示されてきました。(参照:ベルリン国立博物館|ウルク展)
長さ8〜11センチの石製円錐
メトロポリタン美術館には、ウルク後期の石灰岩製モザイク部材が収蔵されています。収蔵番号62.154.4の円錐は長さ8.1センチ、最大径3.8センチ、62.154.2は長さ11センチ、最大径3.8センチです。細長い胴を差し込み用とし、幅のある端面を図柄の一部分として見せる形をしています。建物全体を飾るためには、この部材を大量にそろえる必要がありました。(参照:メトロポリタン美術館|モザイク用の石製円錐/メトロポリタン美術館|石製円錐の実物)
石灰岩は遠方から調達し、形をそろえて加工する必要がありました。陶土や石材を形にし、配置を考え、下地となる壁を準備する仕事が組み合わさっていました。制作に携わった人々の人数や組織については直接の記録がなく、出土した部材と建築遺構から考えるほかありません。(参照:ドイツ考古学研究所|ウルク遺跡の発掘成果)
小さな円筒に彫られた人と動物
円筒印章を転がして連続した図柄を残す
紀元前4千年紀後半には、石の小さな円筒の外側に図柄を彫り、湿った粘土の上を転がす円筒印章が広まりました。図柄は彫り込んだくぼみに作られているため、粘土には盛り上がった線や形として現れます。ひと押しで一つの図柄を残すスタンプ形の印章と異なり、円筒を転がす長さに応じて、行列や動物の列を繰り返し写せました。(参照:メトロポリタン美術館|建物に向かう行列の円筒印章)
粘土をかぶせた壺の口、籠、扉などの封印に図柄を押し付ければ、封をした人や組織を識別する印になります。円筒印章は装飾品としても優れた細密彫刻ですが、実際には物資の保管や移動と結びつく道具でした。石材を選び、小さな面に反転した図像を刻む技術が必要でした。(参照:メトロポリタン美術館|建物に向かう行列の円筒印章)
神殿のような建物に近づく三人の人物
メトロポリタン美術館所蔵の印章(1983.314.1)は、紀元前3500〜3100年頃の黒色の瀝青質石灰岩製で、高さ4センチ、直径3.4センチあります。粘土に転がして広げた図像では、三人の裸の人物が建物の正面へ向かっています。先頭の人物は容器の中へ液体を注ぎ、最後の人物は両手で器のような物を掲げます。建物は正面の形を簡略化して描かれ、周囲には四足動物や器が配置されています。(参照:メトロポリタン美術館|建物に向かう行列の円筒印章)
この場面は神殿の前の儀礼と解釈されています。人物が何を運び、どのような行為を表したのかまでは確定していません。円筒という細い面に建物、人物、動物を配置するため、個々の形は簡略化されながらも、行動の順序が読み取れる構成になっています。(参照:メトロポリタン美術館|建物に向かう行列の円筒印章)
羊と植物を描いた大きな印章
大英博物館には、ウルクで見つかった高さ7.2センチ、直径4.2センチの方解石製円筒印章があります。額に帯を巻き、網目模様の衣服を着た人物が、向かい合う二頭の雌羊に植物を差し出す姿が彫られています。場面を区切る葦束の標章は、女神イナンナと結びつけて解釈されています。人物には「祭司王」という名称が使われますが、正式な職名が判明しているわけではありません。(参照:大英博物館|イナンナの標章と羊を刻んだ印章)
大英博物館の収蔵年代は紀元前3300〜3000年と幅があり、紀元前3100年より後の制作である可能性も含みます。同じ図像が複数の印章に現れることから、当時の人々が権威や儀礼を表すために、特定の服装と植物の標章を繰り返し用いたことが分かります。(参照:大英博物館|イナンナの標章と羊を刻んだ印章)
図像に現れる祭礼と権威
イナンナを示す葦束と「祭司王」
ウルク後期の円筒印章には、先端を曲げた葦束のような標章が繰り返し表されます。これは後の文字資料や図像との比較から、女神イナンナを示す印と考えられています。標章そのものは具体的に確認できますが、描かれたすべての場面の意味を古代の人々がどう理解していたかは分かりません。(参照:ペンシルベニア大学|イナンナの図像)
網目模様の衣服を着た大柄な人物も、印章に繰り返し登場します。宗教的行為に関わる支配層の姿とみられ、「祭司王」と呼ばれています。王と祭司の役割がどのように分かれていたのか、特定の実在人物を描いたのかを明示する同時代の文章はありません。後の王像に見られるような権威の表現が、すでに図像として作られていたことが分かります。(参照:モルガン図書館・博物館|舟上の人物を表す円筒印章)
青いラピスラズリに刻まれた舟上の場面
ベルリン所蔵の印章(VA 11040)は、ラピスラズリの円筒に銀製のつまみを備え、舟上で儀礼を行う場面を表しています。ひげを生やした大柄な人物と舟を進める二人の従者、背中に祭壇を載せた雄牛が刻まれ、祭壇の上には女神イナンナに結びつく葦束の印が置かれています。1933〜34年にウルクのエアンナ地区で発掘されたもので、制作年代は紀元前3300〜2900年頃という幅があります。(参照:モルガン図書館・博物館|舟上の人物を表す円筒印章)
ラピスラズリは南部メソポタミアで採れる石ではなく、遠方から運ばれた材料です。銀の取っ手には伏せた子牛の形が使われ、金属を鋳造する技術も組み合わされています。図像が実際の祭礼をどの程度忠実に写したものかには解釈の余地がありますが、小さな印章に遠方の石材と高度な金属加工が用いられている点は具体的に確認できます。(参照:モルガン図書館・博物館|舟上の人物を表す円筒印章)
植物、羊、人間の行列を刻んだウルクの大杯
ウルクのエアンナ地区から出土した《ウルクの大杯》は、高さ約105センチ、直径約36センチの石製容器です。器面には複数の帯状の浮彫が巡らされ、下部には水や植物、続いて羊の列と供物を運ぶ人物たちが刻まれています。上部では、葦束の標章とともに人物が対面する場面が描かれています。一つの器の下から上へ、植物、家畜、人間の行為を並べる構成が特徴です。(参照:楔形文字デジタル図書館|ウルクの大杯)
所蔵館と研究機関による制作年代は紀元前3300〜2900年頃、または紀元前3200〜3000年頃とされ、この記事の末期から次の時期にまたがります。上部の女性像をイナンナとみる解釈が広く知られていますが、図像を当時の儀礼の正確な記録とみなせるかは別の問題です。この器は、ウルク後期に現れた図像の配列が、紀元前3千年紀の初めにも続いていたことを伝えます。(参照:モルガン図書館・博物館|ウルクの大杯と祭礼図)
粘土板と日常の器に残る都市の仕事
商品の数量を記した粘土板
都市では、食料や労働に関わる情報が粘土板に記されるようになりました。ルーヴル美術館所蔵の行政粘土板AO 29560は、ウルク出土の紀元前3500〜3100年頃の作例で、高さ4.5センチ、幅7.2センチ、厚さ1.5センチあります。食料の配給に関わる記号が粘土面に刻まれ、都市や地域を示す記号も記されています。(参照:ルーヴル美術館|初期文字による行政粘土板 AO 29560)
最初期の文字は、物や数量を表す簡単な形を粘土に刻む方式から発達しました。図柄のすべてを現在の文字と同じように読めるわけではありません。人間の頭と器を組み合わせたような記号が食料の支給に関係する例が知られ、物品の種類、人数、数量を扱う記録が、少しずつ定型化していきました。(参照:ゲティ美術館|文字はいかに生まれたか)
円筒印章と記録のつながり
容器を閉じた粘土の封泥には、物品を出し入れするとき封印を破った痕跡が残ります。そこに円筒印章の図柄が押されていれば、封をした人物や担当組織を識別する材料になります。粘土板の文字は数量や品目を伝え、印章の図像は管理上の識別に使われました。図像と初期文字は別の技術ですが、いずれも都市の物資を記録し、動かす仕事の中で利用されています。(参照:メトロポリタン美術館|文字の起源)
印章の絵には祭礼の場面も描かれるため、実務と宗教的図像が同じ道具の中に共存しています。描かれた場面が所有者の信仰を表したのか、特定の役職を示したのかは作品ごとに考える必要があります。(参照:メトロポリタン美術館|建物に向かう行列の円筒印章)
面取りされた口縁を持つ粗製の鉢
日常の器にも都市の変化が表れます。ウルク後期に広く使われた鉢は、外側へ広がる胴、平らに近い底、斜めに削ったような厚い口縁を持ちます。メトロポリタン美術館のニップル出土例(62.70.25)は高さ8.2センチ、口径19センチほどです。粗い粘土を手早く成形した器で、文様を描いた装飾土器とは異なる作り方をしています。(参照:メトロポリタン美術館|口縁を面取りした鉢)
これらの鉢は労働者に穀物を配るための容器だった、あるいはパンを焼く型だったと説明されてきました。しかし、大英博物館は寸法に相当のばらつきがあり、型抜きによる規格品と断定できる証拠もないと指摘しています。イラク北東部シャヒ・コラの鉢を対象にしたペルッキーニらが2023年に公表した残留物研究では、肉や乳製品に関係する成分が見つかりました。鉢の用途は一つではなかった可能性があります。(参照:Journal of Archaeological Science: Reports|シャヒ・コラの鉢の残留物分析(2023)/大英博物館|ウルク期の鉢と用途をめぐる問題)
ウルク文化の広がりと各地の都市形成
ユーフラテス川沿いの新しい町
紀元前4千年紀後半には、ウルクに似た土器、封印、建築形式がシリア北部からアナトリア南東部、イラン方面まで見つかります。ユーフラテス川沿いのハブーバ・カビーラには、城壁や区画された住居を持つ町が造られました。ウルクと共通する建築・生活用具がそろっていることから、南部の人々が移住した可能性が論じられています。(参照:Journal of Archaeological Research|北部メソポタミアの都市形成(2019))
当時の南部メソポタミアでは木材、金属鉱石、良質の石材を周辺地域から入手する必要がありました。遠方の町との関係は、建材や石材の移動だけでなく、建築の平面や封印の方式にも現れています。交流が行われた範囲は広いものの、すべての町がウルクの支配下にあったことを意味しません。(参照:Steinほか(1996)|ハジネビの発掘とウルク文化の接触)
ハジネビの発掘が示す二つの生活文化
トルコ南東部のハジネビでは、地元の土器や生活用具とともに、ウルク式の土器や封印が見つかりました。スタインらの1996年の発掘報告は、地区によって使われた器や食事の習慣が異なることから、外部から来た集団と地元住民が同じ集落で生活していた可能性を論じています。発掘された封印には、地元の形式とウルク式の形式がありました。(参照:Steinほか(1996)|ハジネビの発掘とウルク文化の接触)
スタインは1999年にも、遺物の違いをそのまま政治的支配の証拠とみなすことに慎重な姿勢を示しました。ハジネビでは、南部の都市が北部の住民を軍事的に支配していたことを示す明瞭な痕跡は確認されておらず、物資交換を通じて異なる集団が接触した可能性が重視されています。(参照:Stein(1999)|ハジネビにおける物質文化と集団の違い)
都市と国家の始まりをめぐる研究
ギジェルモ・アルガゼは1993年に、南部メソポタミアの都市が資源を得るため遠方に拠点を設けたという広域的な経済活動のモデルを提示しました。一方、スタインのハジネビ研究では、地元社会の主体性と南部から来た人々との関係が詳しく論じられています。二つの立場の違いは、共通した土器や印章が遠方に見つかる理由を、都市国家の進出として説明するか、地域ごとの交流から考えるかという点にあります。(参照:Algaze(1993)|初期都市国家の対外進出/Stein(1999)|ハジネビにおける物質文化と集団の違い)
北部メソポタミアのテル・ブラクでは、ウルク後期の南部からの影響より早い段階から、大型の建物や都市的な活動の痕跡が発見されています。グラッツらが2024年に公表したシャヒ・コラ研究も、地方の制度や生活の変化を南部都市からの一方的な影響だけでは説明できないことを論じました。都市がどこで、何をきっかけに生まれたかという問題には、現在も複数の研究が並んでいます。(参照:Journal of Archaeological Research|北部メソポタミアの都市形成(2019)/Antiquity(2024)|シャヒ・コラの制度と地域社会)
略年表
- 紀元前4000年頃|南部メソポタミアの農耕集落が拡大し、後のウルク期に続く都市形成が進む。
- 紀元前3700〜3400年頃|ウルクで大型建築が増え、建物の広間や外壁に新しい構成と材料が用いられる。
- 紀元前3500〜3100年頃|エアンナ地区の大建築、壁面の円錐モザイクが作られ、円筒印章が広く使われる。
- 紀元前3500〜3200年頃|アヌ地区の高壇上に白く塗った建物が造られ、増改築が重ねられる。
- 紀元前3400〜3100年頃|物資の数量や配給を記す初期の粘土板が作られ、印章による封印も広がる。
- 紀元前3300〜3100年頃|動物や人物の儀礼を刻んだ印章、面取り口縁の鉢などが各地で使われる。
- 紀元前3200年頃|ウルクは南部メソポタミア最大級の都市となり、周辺地域とも広く交流する。
- 紀元前3100年頃|エアンナ地区の大型建築群が大きく建て替えられ、建物の配置が変わる。
まとめ
ウルクの発掘では、広い中庭や長い広間を持つ大型建物、白く塗られた高壇上の建築、壁を覆った円錐モザイクが見つかっています。小さな農耕集落には見られなかった規模の工事が行われ、石材を運び、大量の煉瓦を積み、同じ形の装飾部材を何千も並べる作業が必要でした。都市には建設を計画し、多くの人々の仕事を調整する仕組みがあったと考えられます。
円筒印章には建物に向かう人物や羊を世話する人の姿が彫られ、粘土板には食料や物資の数量が記されました。小さな石の図柄が保管や取引を示す印として使われたことは分かっています。一方、印章に表された儀礼や人物の身分、大型建物が実際にどのように使われたかについては、まだ確定していない点が多くあります。
ウルク式の土器や印章は、遠くシリアやアナトリアの集落からも出土しています。そうした広がりが移住、交易、政治的な影響のどれによって生まれたのかは地域によって異なり、研究が続いています。遺構と遺物が示す都市の姿を、各地の発掘成果から検討する段階にあります。
参考資料・出典
- メトロポリタン美術館|ウルク―最初期の都市
- メトロポリタン美術館|文字の起源
- ドイツ考古学研究所|ウルク遺跡の発掘成果
- Smarthistory|ウルクの白い神殿と高壇
- ベルリン国立博物館|ウルク展
- メトロポリタン美術館|モザイク用の石製円錐
- メトロポリタン美術館|石製円錐の実物
- 岡田明子(1981)|エアンナ地区の建築の再編
- メトロポリタン美術館|建物に向かう行列の円筒印章
- 大英博物館|イナンナの標章と羊を刻んだ印章
- モルガン図書館・博物館|舟上の人物を表す円筒印章
- ペンシルベニア大学|イナンナの図像
- 楔形文字デジタル図書館|ウルクの大杯
- ルーヴル美術館|初期文字による行政粘土板 AO 29560
- ゲティ美術館|文字はいかに生まれたか
- メトロポリタン美術館|口縁を面取りした鉢
- 大英博物館|ウルク期の鉢と用途をめぐる問題
- Journal of Archaeological Science: Reports|シャヒ・コラの鉢の残留物分析(2023)
- Steinほか(1996)|ハジネビの発掘とウルク文化の接触
- Stein(1999)|ハジネビにおける物質文化と集団の違い
- Algaze(1993)|初期都市国家の対外進出
- Antiquity(2024)|シャヒ・コラの制度と地域社会
- Journal of Archaeological Research|北部メソポタミアの都市形成(2019)
- モルガン図書館・博物館|ウルクの大杯と祭礼図