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1912–1917

ロシア・アヴァンギャルド

キュビスム・未来派との融合から抽象へ

1915年のペトログラードで開かれた展覧会には、白い背景に黒い正方形を描いた絵と、木や金属を組み合わせて部屋の角に張り出す立体作品が並びました。前者はカジミール・マレーヴィチの《黒の正方形》、後者はウラジーミル・タトリンのレリーフです。従来の絵画や彫刻の形式を大きく変える二つの試みが、同じ時期、同じ都市で現れていました。

この変化は1917年のロシア革命に先立って進んでいました。ナタリア・ゴンチャロワとミハイル・ラリオーノフは光線を主題とする絵画を考え、リュボーフィ・ポポーワはキュビスムと未来派を独自に組み立て直しました。詩人と画家が本を共同制作し、舞台では幾何学的な衣装を着た人物が登場しました。絵画の中で起きた変化と、言葉や素材、舞台空間での実験が互いに刺激し合っていたのです。

背景には、パリの新しい美術を収集したモスクワの実業家、独自の表現を持つロシアの民衆版画とイコン、画家が集まる共同アトリエ、挑発的な展覧会がありました。マレーヴィチの作品だけに注目すると見逃してしまう、多数の芸術家の交流と競争がこの時代を形づくっています。ゴンチャロワ、ポポーワ、エクステル、ロザノワら女性作家も、その中心で新しい造形を生み出しました。

この記事では1912年頃から1917年までを対象に、ネオ・プリミティヴィズム、光線主義、キューボ・フューチュリズム、シュプレマティスムへの展開を、代表作品の見方と歴史的な出来事から読み解きます。1915年の「トラムウェイV」展と「0.10」展を中心に、絵画の何が変わったのかを確かめ、次のロシア構成主義へつながる問題まで見ていきます。

1912年、ロシアの前衛美術で何が始まったのか

数年間で絵画の規則が変わる

1912年頃のモスクワで制作された絵を見てから、1915年のペトログラードで発表された作品を見ると、わずか数年の間に画面の姿が大きく変わったことに驚かされます。農民や街路の姿を描いた絵画から、斜線と色面が交錯する画面へ、さらに白地に黒い四角形を置く絵画へと、表現は急速に広がりました。

この変化を一人の画家の発明として説明することはできません。画家、詩人、舞台美術家、彫刻家は同じ展覧会や出版物を共有しながら、互いに異なる答えを出しました。ロシア・アヴァンギャルドという言葉は、その多様な実践を後からまとめて呼ぶ名称です。作品と展覧会の実際の順序を追うことで、抽象の成立に至る複数の道筋が見えてきます。 (参照:ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会、ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会図録)

モスクワとペトログラードという二つの舞台

この時期の活動は、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクと商業・文化都市モスクワを中心に展開しました。サンクトペテルブルクは第一次世界大戦中の1914年にペトログラードと改称されます。都市名が変わる時期を意識すると、当時の展覧会記録を読む際の混乱を避けられます。

モスクワでは新しい絵画を集める収集家の邸宅や画家の共同アトリエが交流の場となり、ペトログラードでは未来派の展覧会や舞台公演が強い刺激を与えました。1915年の「トラムウェイV」展と「0.10」展がペトログラードで開かれたことも重要です。各都市の展示活動と作家の移動が、新しい表現の広がりを支えました。 (参照:ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会、ニューヨーク近代美術館研究誌|ポポーワの1914年作品)

1917年の革命より前に始まっていた変革

「ロシア・アヴァンギャルド」と聞くと、1917年のロシア革命の後に始まった芸術運動という印象を持つかもしれません。実際には、光線主義の作品も、マレーヴィチの《黒の正方形》も、タトリンのレリーフも、革命に先立って生まれています。革命は既に進行していた表現に、新たな制度と社会的な役割を与える出来事でした。

本記事が扱う1912〜1917年は、芸術がまず自らの形や素材、言語の規則を問い直し、その成果が革命後の社会へ接続していく時期です。社会制度との結びつきがさらに強まる構成主義については、続く独立記事で詳しく扱います。ここでは、作品が生まれた制作環境と、革命をまたぐ変化の入口を確かめます。 (参照:ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会、ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会図録)

パリの新しい絵画はどのようにロシアへ届いたのか

収集家シチューキンの邸宅が美術学校のようになる

20世紀初頭のロシアでは、若い画家がパリへ行かなくてもセザンヌ、マティス、ピカソの作品を見る機会がありました。モスクワの実業家セルゲイ・シチューキンはフランス近代絵画を熱心に収集し、自宅に並べています。マティスの《ダンス》《音楽》のような大作まで注文し、ピカソのキュビスム作品も多数購入しました。

シチューキンは自邸を学生や芸術家に開放し、自ら収集品を案内しました。メトロポリタン美術館の研究によれば、1914年までに彼はピカソの絵画51点を集めていました。幾何学的な形や激しい色彩がすでに実物として身近にあったことは、モスクワの若い作家たちが西欧の新しい表現を迅速に吸収できた理由の一つです。 (参照:メトロポリタン美術館|収集家シチューキン、メトロポリタン美術館|シチューキンの収集と公開)

モロゾフの収集と画家たちの視覚経験

実業家イワン・モロゾフも、モスクワでフランス近代美術の充実したコレクションを形成しました。印象派からポスト印象派、フォーヴィスム、キュビスムまで幅広く収集し、1913年にはピカソの作品も入手しています。作品がどの画商を通り、誰の家に飾られたのかという流通経路が、ロシアの制作環境へ直接作用しました。

当時のモスクワの美術家は、伝統的な美術教育やロシア固有の造形に親しみながら、同時に最新のフランス絵画と向き合っていました。収集家の邸宅や展覧会は、二つの文化が具体的な画面の上で比較される場所でした。前衛芸術が遠くから輸入されたという単純な関係より、複数の都市の作品が並んで見られた環境を考える必要があります。 (参照:メトロポリタン美術館|収集家モロゾフ、メトロポリタン美術館|収集家シチューキン)

パリへ向かった画家たちが持ち帰ったもの

リュボーフィ・ポポーワは1912年末から翌年にかけてパリに滞在し、アカデミー・ド・ラ・パレットでキュビスムの画家ジャン・メッツァンジェらに学びました。その後イタリアも旅行して未来派の造形に触れています。アレクサンドラ・エクステルらも欧州各地を行き来し、作品だけでなく雑誌、批評家、画家の人脈をつなぎました。

こうした移動は、作品を見たまま再現するための旅ではありませんでした。新しく知った形態の分解、動きの表現、色彩の組み立てを、ロシアで身につけた素材感覚や民衆文化と突き合わせる過程です。ポポーワの1914年の静物には、その異なる経験が一枚の画面へ濃密に重なっています。 (参照:ニューヨーク近代美術館研究誌|ポポーワの1914年作品、ニューヨーク近代美術館|ポポーワ《染物屋の品々》)

民衆芸術と古いイコンが、新しい造形を支えた

ルボーク、看板、イコンという身近な図像

ロシアの前衛芸術家たちは、村の暮らしを描いた民衆版画「ルボーク」、商店の看板、宗教的なイコンなど、身近にある視覚文化へ目を向けました。平面的な色、太い輪郭、遠近法に従わない空間、文字と画像の共存といった特徴は、アカデミーで学ぶ写実絵画とは別の造形の規則を示していました。

ナタリア・ゴンチャロワとミハイル・ラリオーノフらのネオ・プリミティヴィズムは、こうした図像を取り込みながら近代絵画を更新する試みでした。過去の形式をそのまま保存するという態度とも異なり、既存の色や輪郭を強く変形して使うことで、現代生活を表す方法へ転換しています。近代性と土着性が同じ絵の中でせめぎ合いました。 (参照:ニューヨーク近代美術館|光線主義、ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会)

ゴンチャロワが描いた農民と宗教的な世界

ゴンチャロワは農作業、素朴な生活、宗教的な主題を繰り返し取り上げました。平らな色面と力強い輪郭は、農村を懐かしむ装飾にとどまりません。都市の画壇で高く評価される西欧的な写実技術とは別の絵画の価値を主張し、日常の身体や信仰のイメージを前衛絵画の問題へ引き上げました。

第一次世界大戦期にも、彼女はイコンや宗教版画を連想させる表現を使っています。数年前まで追求した光線主義とは見た目が大きく異なる作品です。同じ作家が複数の様式を使い分けていたことから、ロシア前衛を必ず具象から抽象へと進む一本道として描くことの限界も理解できます。 (参照:ニューヨーク近代美術館|ゴンチャロワ《青緑の森》、メトロポリタン美術館|第一次世界大戦とゴンチャロワ)

西欧とロシアの文化を重ねて考える

ゴンチャロワとラリオーノフは、フランスやイタリアの新しい芸術を知りながら、ロシア固有の視覚文化を同時に重視しました。キュビスムの分解された形に強い色彩を重ね、イコンの平面性と未来派の動的な線を接続する。こうした実験によって、一つの国の様式には収まらない画面が生まれました。

作品の理解では、どの国の影響が先にあったかを競うより、それぞれの要素が画面の何を変えているかを見る方が有効です。人物の輪郭が強くなるのか、背景の奥行きが浅くなるのか、文字が絵に加わるのか。異なる表現の組み合わせを具体的に見ることで、ロシア前衛の独自性を確認できます。 (参照:ニューヨーク近代美術館|光線主義、ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会)

ゴンチャロワとラリオーノフ、前衛を社会へ見せる

1913年、ゴンチャロワの大規模個展

1913年のモスクワで、ゴンチャロワは800点を超える作品を集めた大規模個展を開きました。絵画、素描、版画に加え、舞台、織物、衣装やファッションに関わる図案まで、仕事の幅広さを提示しています。この規模と多様さは、女性作家が当時の前衛美術の中心で大きな役割を担っていたことを伝えています。

作品を年代順にたどると、農民や宗教的な人物像、キュビスム的な分割、未来派を思わせる運動、光線主義による線の重なりが短い期間に共存します。本人は展覧会の目録で新しい芸術上の発見を取り入れ続ける姿勢を示しました。一つの決まった画風にとどまるより、表現を更新し続ける行動こそが彼女の制作の特徴でした。 (参照:ニューヨーク近代美術館|ゴンチャロワ《青緑の森》)

ラリオーノフと前衛グループの展示活動

ラリオーノフは画家として制作するとともに、グループ展を組織し、ロシアの新しい美術を観客に紹介する役割も担いました。1912年の「ロバの尻尾」展や1913年の「標的」展は、芸術家たちが既存のサロン制度と距離を取り、自分たちで新しい表現を公に示すための場でした。挑発的な展覧会名は観客の注意を集める手段にもなりました。

この時代には、作品の実験と展覧会の運営が密接に結びついています。未来派の宣言が新聞を利用したように、ロシアの作家たちも集団名、ポスター、出版、展覧会そのものを通して新しい表現を広げました。1915年の二つの重要展覧会へ至る道は、こうした自発的な展示活動によって準備されています。 (参照:ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会、ニューヨーク近代美術館|光線主義)

舞台と衣装へ広がる制作

ゴンチャロワは絵画以外の分野にも積極的に取り組み、1914年にはバレエ・リュスの《金鶏》の舞台・衣装デザインで知られるようになりました。舞台では、色面や図案が実際の人物の身体と結びつき、音楽や動作に合わせて観客の前へ現れます。絵画の中で試してきた構成が、動く空間へ移されました。

彼女の舞台仕事を、画家としての活動から離れた余技と考えると、その革新が見えにくくなります。1910年代のロシアでは、絵画、出版、音楽、舞台、織物を横断して新しい視覚環境を作ることが前衛の重要な課題でした。1913年の未来派オペラ《太陽の征服》も、こうした横断的な環境から生まれました。 (参照:ニューヨーク近代美術館|ゴンチャロワ《青緑の森》、ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会)

詩と絵画が一冊の本の中で混ざり合う

1912年の前衛書籍『世界逆さま』

1912年の『世界逆さま』は、ロシア前衛が何を変えようとしていたかをよく伝える小さな本です。詩人ヴェリミール・フレーブニコフとアレクセイ・クルチョーヌィフの文章に、ゴンチャロワ、ラリオーノフ、タトリンらの図像が組み合わされています。整った活字の行に従う通常の書籍とは異なり、手書きの文字と絵が同じページで互いに入り込みます。

ニューヨーク近代美術館所蔵の版には、石版による手書き文字、挿絵、ゴム印、貼り込まれた表紙などが使われています。ページを読むことと、紙面の構成を見ることが同じ体験になります。限られた部数で制作された実験的な書籍は、ギャラリーの絵画とは別の場所で前衛表現を流通させる媒体にもなりました。 (参照:ニューヨーク近代美術館|『世界逆さま』)

意味の通じる言葉を越えようとした詩人たち

クルチョーヌィフやフレーブニコフは、音の響きや文字の組み合わせを重視した「ザーウミ」と呼ばれる言語実験を進めました。通常の文章は、言葉が何を意味するかによって読む人に伝わります。彼らは語を分解し、音やリズム、奇妙な文字の形によって、意味がはっきりしないまま働きかける表現を試しました。

絵画が人物や静物の形を必要としなくなる動きと、詩が分かりやすい物語や文法から離れる動きは、同じ時代に進んでいます。詩人と画家は互いの作品を見ながら、既存の意味や約束事がどこまで変えられるかを試しました。《太陽の征服》の舞台でも、こうした言語実験が主要な要素となっていきます。 (参照:ニューヨーク近代美術館|『世界逆さま』、ニューヨーク近代美術館|《太陽の征服》の出版物)

印刷と手書きの痕跡を作品にする

前衛書籍には、仕上がりを均一にする大量印刷の考え方と、手書きの文字や貼り込んだ素材の一回性が共存しています。字体の大きさ、線のかすれ、余白、ページをめくる順序までが表現の要素になります。こうした本は、絵と文章を別々に作ってあとから組み合わせた挿絵本とも異なる制作を示しています。

絵画で扱われていた画面の分割や、文字を造形として使う方法が、印刷物の小さな紙面で試されました。絵を描く人、詩を書く人、印刷する人の仕事が重なることで、作品の作者性も複数になります。後にロシア前衛が印刷、宣伝、グラフィックデザインへ進む背景には、こうした革命以前の共同制作の経験がありました。 (参照:ニューヨーク近代美術館|『世界逆さま』、ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会)

光線主義は何を絵にしようとしたのか

1912〜13年、光と交差する線の実験

ラリオーノフとゴンチャロワが展開した光線主義は、描く対象を物体の外形から、その周囲へ広がる光やエネルギーへ移した絵画です。光が物体に当たり、反射し、別の光線と交差するという考えを出発点に、斜めに伸びる線と鮮やかな色面が画面を覆います。既知の物体を幾何学的に分解するキュビスムとは、別の角度から描写の目的を問い直しました。

ニューヨーク近代美術館は光線主義の成立を1912年に位置づけ、キュビスム、未来派、オルフィスム、ルボークなどとのつながりを説明しています。こうした実験は、科学的な光の測定を厳密に図示したものとは区別できます。光線という発想を足場に、物体の輪郭から解放された独自の画面構成を生み出そうとしていたのです。 (参照:ニューヨーク近代美術館|光線主義)

ラリオーノフ《光線主義的構成:赤の支配》を見る

ラリオーノフの《光線主義的構成:赤の支配》では、赤を中心に黄、青、緑などの線と細長い面が鋭く交わります。どの線も人物や建物の輪郭として安定せず、色が交差する地点へ視線を導いていきます。構図全体には方向の異なる力が働き、手前と奥を明確に分ける従来の風景画とは異なる空間が生まれています。

この絵には「1911年」という記載がありますが、ニューヨーク近代美術館は制作年を1912〜13年としています。作品に記された年と、所蔵館の研究による制作年を混同しないことが大切です。1910年代初頭の抽象絵画では「誰が最初か」という議論が起こりやすいため、年代は所蔵館の採用する表示を明示しながら扱います。 (参照:ニューヨーク近代美術館|ラリオーノフ《赤の支配》、ニューヨーク近代美術館|光線主義)

ゴンチャロワ《青緑の森》では森がどう見えるか

1913年の《光線主義、青緑の森》では、青と緑の線に白や黒の鋭い形が重なり、画面全体が密生した森のように見えます。題名がなければ、葉や樹木の位置を正確に読み取るのは難しいでしょう。画家は木を一本ずつ描く代わりに、森の中で交差する光や、視覚に生じる複雑な印象を線の集合へ変えています。

ニューヨーク近代美術館は制作年を1913年とし、画面裏には1911年の記載があることを明記しています。自然の景色が出発点であっても、表現の中心は色と線の作用へ移っています。光線主義は、具体的な題名を残しながら、見る人が対象の形を探すことから離れる初期抽象の一つの方法でした。 (参照:ニューヨーク近代美術館|ゴンチャロワ《青緑の森》、ニューヨーク近代美術館|光線主義)

キューボ・フューチュリズムが生んだ新しい形

キュビスムと未来派がロシアで出会う

1912年頃からロシアの画家たちは、キュビスムの面の分解と、未来派の運動や速度の表現を組み合わせるようになりました。こうした作品は一般にキューボ・フューチュリズムと呼ばれます。人物、機械、日用品、文字を同じ画面に置き、強い色と斜線で画面を組み立てることで、静止した物体さえ動き始めるような視覚を作り出しました。

名前に二つの西欧運動が含まれていますが、ロシアでは民衆版画やイコン、新聞なども重要な材料になります。国境を越えて伝わった形式が、新しい社会生活と結びついたことによって独自の表現へ展開したのです。とりわけポポーワ、マレーヴィチ、エクステルらの作品を比較すると、共通した分割の方法がそれぞれ異なる意味を帯びたことが分かります。 (参照:ニューヨーク近代美術館研究誌|ポポーワの1914年作品、ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会)

マレーヴィチ《バケツを持つ女》の身体の変化

マレーヴィチは農民や労働を主題とする絵画から出発し、やがて人物を円筒、円錐、平面の集合へ変えました。1912〜13年の《バケツを持つ女:動的配置》では、人体の部分が硬い量塊となり、農作業の身振りを感じさせながら画面が斜めに分割されています。後の《黒の正方形》だけを見ていると、この具象的な実験の積み重ねを見落とします。

農民の姿は当時のロシアにとって身近な社会的な存在でした。マレーヴィチは人物を残しながら、それを自然な光と影で表す規則を変えていきます。何が描かれているかはまだ分かる段階で、画面の構成は人物の姿から徐々に独立しています。対象を壊しながら絵画を作り直した経験が、後の非具象へつながりました。 (参照:ニューヨーク近代美術館|マレーヴィチと1915年の抽象絵画、ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会図録)

《サモワール》に見る機械と日用品

1913年の《サモワール》では、ロシアの日常生活に親しい湯沸かし器が、金属的な面や円筒状の形へ分解されています。画面から元の道具を探すことはできますが、部品のような形が周囲の面とぶつかり合い、一つの安定した視点に収まりません。題名は親しみやすく、見えている構造は複雑です。

この作品を読むとき、マレーヴィチが最初から自然を全く描かない抽象を目指していたと決める必要はありません。身近な物を新しい絵画の構造へ変えることが、1913年には十分に大きな課題でした。日常品を選び、形を解体し、色と面の関係として置き直す。その操作が続いた先に、対象の必要性そのものを問い直す局面が訪れます。 (参照:ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会、ニューヨーク近代美術館|マレーヴィチと1915年の抽象絵画)

ポポーワは、形の分解から画面の構築へ進んだ

1912〜14年の渡欧と共同アトリエ

ポポーワは1912〜13年にパリでキュビスムの新しい方法を学び、1914年にはイタリアの古典作品と未来派の表現に触れました。同時に、ロシアのイコンや古い美術にも強い関心を持ち続けています。モスクワへ戻ると、タトリンをはじめとする作家たちの共同アトリエで制作し、素材の扱い方や色彩の可能性を互いに研究しました。

ニューヨーク近代美術館の詳細な研究は、ポポーワが新しい様式を次々に学びながら、その成果を独自の画面へ統合した経緯をたどっています。彼女の制作史は「西欧から吸収したもの」と「ロシアで発明したもの」を単純に分離できるものではありません。経験を積み重ね、目の前の作品に必要な形を選び直す過程でした。 (参照:ニューヨーク近代美術館研究誌|ポポーワの1914年作品、ニューヨーク近代美術館|リュボーフィ・ポポーワ)

《染物屋の品々》に描かれた文字と色

1914年の《染物屋の品々》には、布地、糸、手袋、新聞などが描き込まれています。紙面にはロシア語の文字が混ざり、青、桃色、橙、黄色などの色面が密集します。机上の静物を順番に探すと、形は重なって境界が分かりにくくなり、斜線が画面全体へ流れを生み出していることに気づきます。

絵の材料を一つひとつ見ると、キュビスムの新聞や文字、未来派の斜めの動き、そして染色された布にふさわしい鮮やかな色彩が組み合わされています。ニューヨーク近代美術館は作品を1914年とし、1915年の「トラムウェイV」展に出品されたことも記録しています。前衛様式を受け継ぎつつ、表現を一つの画面に構築する仕事へ踏み込んだ作品です。 (参照:ニューヨーク近代美術館|ポポーワ《染物屋の品々》、ニューヨーク近代美術館研究誌|ポポーワの1914年作品)

表面の質感から、絵画を作る行為へ

ポポーワの《染物屋の品々》では、描かれた物の輪郭だけでなく、布や紙、糸を思わせる表面の違いにも目が向かいます。隣接する素材の感覚を描き分けながら、同じ画面内の平面と量塊が互いに影響し合うように構成されています。素材がどのように扱われているかという問題は、タトリンとの交流を考えるうえでも重要です。

この時代のロシア前衛では、作品が何を表すかに加え、絵具、紙、木、金属などをどのように扱って作品にしたかが問われました。後に「ファクトゥーラ」と呼ばれる素材と加工の問題も、その文脈にあります。ポポーワは画面の中でその問いを深め、1916年以降の《絵画的建築》へ進んでいきます。 (参照:ニューヨーク近代美術館研究誌|ポポーワの1914年作品、ニューヨーク近代美術館|《絵画的建築》)

エクステルと女性作家たちの国際的な実験

アレクサンドラ・エクステルがつないだ都市

アレクサンドラ・エクステルは、ロシア帝国とパリ、イタリアの前衛美術を結ぶ重要な存在でした。彼女はヨーロッパ各地の作品や知人を紹介し、ロシアの若い画家がキュビスムや未来派の新しい議論に触れる機会を広げました。単に特定の様式を学んだ画家という以上に、情報や人々の移動を支える役割を担っています。

画面に分割された形や強い色を使いながら、舞台や衣装に関心を広げていく点でも、この時代の特徴をよく示しています。美術史の説明では代表的な作品を制作した作家に注目が集まりますが、新しい運動が国を越えて伝わるには、こうした媒介者の働きが不可欠でした。ポポーワの旅行と交流にもエクステルは深く関わっています。 (参照:ニューヨーク近代美術館研究誌|ポポーワの1914年作品、ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会)

ウダリツォワと共同制作の環境

ナジェージダ・ウダリツォワも、当時のロシアでキュビスムを熱心に研究した画家の一人です。画家たちは個人のアトリエで孤立して制作していたわけではなく、共用の場所で互いの絵を見せ、海外から届いた雑誌や作品図版について議論していました。ポポーワ、タトリンらの活動には、こうした継続的な交流が重なっています。

ロシア前衛の美術史は、マレーヴィチとタトリンの対立を中心に語られがちです。制作の現場には女性作家の実験、教える活動、人脈の維持、出版への参加が豊かに存在しました。それぞれが独立した画家として異なる答えを出していたことを確認すると、一つの流派の発展図より幅広い風景が見えてきます。 (参照:ニューヨーク近代美術館研究誌|ポポーワの1914年作品、ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会)

一つの様式に収まらないことの意味

ゴンチャロワ、エクステル、ポポーワ、ロザノワらは、絵画から出版、舞台、織物、抽象的構成まで幅広い領域を往復しました。作家が一つの形式を完成させたら、その形式を繰り返すことを求められていた時代とは異なります。新しい実験をすること自体が強い価値を持ち、絵画の外で得た発見が次の画面へ戻っていきました。

1910年代のロシア前衛は、「優れた男性画家たちの周辺で女性も活動した」という構図で理解すると、その規模を捉え損ないます。彼女たちが独自の視覚言語を作り、展示や共同制作を進めていたことを、作品ごとに見ていく必要があります。この活躍は革命後のデザインや生産の分野にも引き継がれます。 (参照:ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会、ニューヨーク近代美術館|リュボーフィ・ポポーワ)

1913年の《太陽の征服》が、絵画の外で試したこと

詩・音楽・舞台美術の共同制作

1913年12月、サンクトペテルブルクで未来派オペラ《太陽の征服》が上演されました。アレクセイ・クルチョーヌィフが台本を、ミハイル・マチューシンが音楽を担当し、マレーヴィチは舞台装置と衣装を制作しました。フレーブニコフも作品の企画に関係しています。言葉の意味、音楽の調和、舞台の空間を同時に作り直そうとした共同実験でした。

ニューヨーク近代美術館には、マレーヴィチの図案を含む当時の出版物が残っています。舞台の出来事を現在そのまま再現することはできませんが、版画や図面、関連資料によって、観客が見た幾何学的な衣装や場面の構成をたどれます。美術の革新が、美術館に掛ける絵画の中だけで起きたわけではないことを示す重要な事例です。 (参照:ニューヨーク近代美術館|《太陽の征服》の出版物、ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会)

幾何学的な衣装が身体の輪郭を変える

マレーヴィチの舞台図案では、人物の頭や胴体、腕が硬い幾何学的な形に置き換わります。衣装の輪郭が身体の自然な動きを隠し、俳優は人間と機械の中間のような存在になります。絵画の中で進めていた形の分解が、ここでは実際に動く人間の身体へ持ち込まれたのです。

舞台では、見る人の視点や光の条件が絵画と異なります。背景と衣装の形が重なり、人物が動くと模様の関係が変化します。こうした試みは、抽象的な形を身体と空間の関係で考える訓練にもなりました。《太陽の征服》の記録を《黒の正方形》と並べて見ると、画家が幾何学的な形に意味を託していく過程を考える手がかりになります。 (参照:ニューヨーク近代美術館|《太陽の征服》の出版物、ロシア美術館|《黒の正方形》の初出と再制作)

黒い四角形の舞台図案と1915年の作品

《太陽の征服》には、後の《黒の正方形》を連想させる四角形の図案が含まれます。このためマレーヴィチ自身も後年、1913年をシュプレマティスムの起点と語りました。舞台の図案と1915年の絵画との関係は重要ですが、両者を同じ現物と考えると年代を取り違えます。

美術館の説明では、シュプレマティスムの新作群がまとまって公開されたのは1915年の「0.10」展です。1913年の舞台実験が視覚的な前史となり、1915年に絵画としての発表が行われたという順序で捉えると、制作の試みと美術運動としての公開を適切に区別できます。 (参照:ニューヨーク近代美術館|《太陽の征服》の出版物、ニューヨーク近代美術館|マレーヴィチと1915年の抽象絵画)

絵の中の意味を揺さぶったマレーヴィチの実験

キューボ・フューチュリズムから非論理的な絵へ

1913〜15年頃のマレーヴィチは、人物や物を分割するだけでなく、画面に置かれた物同士の意味のつながりも揺さぶりました。魚、道具、文字、人物の断片などが、本来は一緒に現れそうにない関係で並びます。こうした制作はしばしば「アロジズム(非論理)」と呼ばれます。

従来の物語画では、同じ画面にあるものには出来事の上での関係が想定されます。マレーヴィチはその期待を利用し、見る人が意味を探しても簡単に結びつかない絵を作りました。形の分解と意味の解体が並行することによって、画面が何を表しているかより、画面の要素がどのような働きをするかが問われます。 (参照:ニューヨーク近代美術館研究誌|ポポーワの1914年作品、ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会図録)

1915年の展覧会で「意味不明」を掲げる

1915年3月の「トラムウェイV」展で、マレーヴィチは非論理的な作品を展示しました。ニューヨーク近代美術館の研究は、本人が作品の内容は作者にも分からないという趣旨の掲示を添えたことを伝えています。この挑発には、絵画に明確な意味や説明を求める習慣を揺さぶる意図が読み取れます。

とはいえ、絵の構成は偶然に任せられたものばかりではありません。画家は形を選び、色を配置し、作品がどう見えるかを練っています。説明可能な物語を外すことで、画面の構成自体を強く見せる方法でした。同じ展覧会でタトリンが実物の素材を使ったレリーフを発表していたことと、興味深く響き合います。 (参照:ニューヨーク近代美術館研究誌|ポポーワの1914年作品)

1915年へ向かう視覚と言語の実験

《太陽の征服》とアロジカルな作品を並べると、マレーヴィチが絵画の主題を次々に変えていったことが分かります。舞台では意味の通じる言語や自然な身体を崩し、絵画では物同士の関係を解きほぐす。形だけでなく、意味を生み出す約束事も制作の対象となっていました。

1915年のシュプレマティスムは、その積み重ねを経て生まれます。幾何学的な形を「何の絵か」と尋ねるより、線や色、角度の組み合わせがどのような視覚を作るかを見るための絵画です。抽象は無造作な単純化の結果というより、数年間にわたる表現上の問題の蓄積として理解できます。 (参照:ニューヨーク近代美術館|《太陽の征服》の出版物、ニューヨーク近代美術館|マレーヴィチと1915年の抽象絵画)

第一次世界大戦と、前衛芸術が直面した現実

1914年、ロシア帝国が戦争へ参加する

1914年に第一次世界大戦が始まると、ロシア帝国も参戦しました。海外との往来は難しくなり、芸術家の生活と展覧会の状況も変化します。マレーヴィチやタトリンらの制作が続くなかで、彼らが利用してきたパリやイタリアの交流経路は戦前のままでは維持できなくなりました。

前衛芸術が「新しい時代」を語っていた頃、社会は大規模な戦争へ巻き込まれていました。未来派に見られた機械や運動への熱狂は、戦争によって別の意味を帯びます。戦場へ向かう人々、動員される社会、遠くの前線で起きる出来事が、芸術家の生活と表現へ入り込んでいきました。 (参照:ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会、メトロポリタン美術館|第一次世界大戦とゴンチャロワ)

ゴンチャロワが伝統的な図像へ向かった時期

ゴンチャロワは1914年頃、戦争を主題とする版画などでも強い表現を示しました。そこにはイコンや民衆版画を連想させる平面的な図像が現れ、数年前の光線主義のような抽象的な線の重なりとは違った雰囲気があります。同じ画家が社会状況に応じて造形の方法を選び直していたことが分かります。

メトロポリタン美術館は、戦争を扱ったゴンチャロワの作品について、ロシアの宗教図像に由来する表現を指摘しています。抽象が「新しい」からといって、作家が常に具象から遠ざかり続けるわけではありません。前衛の実践には、古い表現を新しい状況で再び使う柔軟さもありました。 (参照:メトロポリタン美術館|第一次世界大戦とゴンチャロワ、ニューヨーク近代美術館|ゴンチャロワ《青緑の森》)

ロザノワとクルチョーヌィフの『戦争』

オリガ・ロザノワと詩人クルチョーヌィフは1916年、版画と文章を組み合わせたアルバム『戦争』を制作しました。硬い輪郭、鋭い図像、抽象的な形と文字の組み合わせを使い、戦争の恐怖や不安へ反応しています。ニューヨーク近代美術館の研究は、この本の制作を、遠く離れた前線の出来事が日常の心情へ入り込む経験と結びつけています。

『世界逆さま』で試されていた手書き文字と絵の共同制作は、ここで戦争という歴史的な現実を扱う方法にもなりました。ロザノワの仕事を、純粋な色彩や抽象の発明だけで説明すると、この政治的な経験が見えなくなります。1910年代の前衛の表現は、実験的な形式と切迫した社会状況を同時に抱えていました。 (参照:ニューヨーク近代美術館研究誌|ロザノワと詩集『戦争』、ニューヨーク近代美術館|『世界逆さま』)

1915年春、「トラムウェイV」展で新しい表現がぶつかった

ペトログラードの「第一回未来派絵画展」

1915年3月、ペトログラードで「トラムウェイV:第一回未来派絵画展」が開かれました。ポポーワ、マレーヴィチ、タトリンらが参加し、それぞれ前衛絵画の新しい方法を示します。短い期間にさまざまな方向が同じ場へ集まったこの展覧会は、年末の「0.10」展と合わせてロシア前衛の大きな節目となりました。

実際の展示では、同じ「未来派」という看板の下に、日用品を分解して描いた絵、意味をずらした画面、実際の素材を組み合わせたレリーフが並びました。「未来派」という語の範囲が、すでに一つの画風では捉えられないほど広がっていたことが分かります。 (参照:ニューヨーク近代美術館研究誌|ポポーワの1914年作品、ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会)

ポポーワ《染物屋の品々》が示した絵画の可能性

ポポーワは「トラムウェイV」に《染物屋の品々》を出品しました。画面には色と形、文字が密集し、対象がほどけるように重なっています。1914年に制作したこの絵が1915年の展覧会へ出品されたという経過は、作品が完成した年と公開された年を区別するうえでも分かりやすい例です。

彼女の仕事は西欧で学んだキュビスムと未来派を統合する段階にありました。同じ会場のタトリンは実物の材料で空間を作ろうとし、マレーヴィチは画面内の意味のつながりを外そうとしていました。この三者の違いを並べると、1915年のロシア前衛がいくつもの問題を同時に扱っていたことが見えてきます。 (参照:ニューヨーク近代美術館研究誌|ポポーワの1914年作品、ニューヨーク近代美術館|ポポーワ《染物屋の品々》)

タトリンのレリーフが壁の外へ出ていく

タトリンは1914年頃から、木、金属、ガラスなどを使い、絵画の平面から立体へ広がる作品を制作しました。「トラムウェイV」展で発表されたレリーフは、塗り分けられた絵画の面とは異なり、素材そのものの硬さ、反射、厚みを示します。見る人は絵に描かれた空間を想像するだけでなく、実際の物体が占める空間を見ることになりました。

タトリンの試みは《0.10》展でさらに展開します。伝統的な彫刻のように一つの塊を彫り出す方法でも、キュビスムのように立体感を絵具で表す方法でもありません。素材を選び、その組み合わせによって空間を作るという考えが明確になっていきます。 (参照:ニューヨーク近代美術館研究誌|ポポーワの1914年作品、ロシア美術館|タトリン《コーナー・カウンター・レリーフ》)

1915年末「0.10」展で何が発表されたのか

「最後の未来派絵画展」という挑発的な名前

1915年12月、ペトログラードで「最後の未来派絵画展 0.10」が開かれました。「最後」という言葉は、新しい前衛表現へ向けた区切りを強く示しています。展覧会には複数の作家が参加し、未来派、抽象、物質を使ったレリーフなどが一緒に展示されました。会場は一つの統一様式で埋め尽くされていたわけではありません。

残された当時の展示写真と印刷資料からは、マレーヴィチの幾何学的な絵画とタトリンのレリーフが、互いに異なる方法で空間を変えようとしていたことが分かります。ニューヨーク近代美術館はタトリンの出品レリーフを紹介する当時の小冊子も所蔵しています。この展覧会は、作品だけでなく展示の配置も含めて検討する価値があります。 (参照:ニューヨーク近代美術館|1915年《0.10》展の印刷資料、ロシア・アヴァンギャルド・アーカイブ|《0.10》展の歴史)

マレーヴィチが初めて示したシュプレマティスム

マレーヴィチは白い地の上へ黒や赤、青、黄色などの幾何学形を置き、対象を描かない新しい絵画群を発表しました。従来の絵画なら、その四角形が何かの窓や建物、物体を表すと考えるかもしれません。彼はそこからさらに進み、形と色がそれ自体で絵画を作るという発想を前面へ押し出しました。

ニューヨーク近代美術館の《シュプレマティスム構成:飛行機の飛行》の解説は、この1915年の公開とシュプレマティスムという名称の意味を詳しく伝えています。題名に「飛行機」が含まれていても、画面に飛行機の輪郭は描かれていません。色面の配置と方向によって、空間や動きが組み立てられるのです。 (参照:ニューヨーク近代美術館|マレーヴィチと1915年の抽象絵画)

マレーヴィチとタトリンの二つの出発点

《0.10》展では、マレーヴィチとタトリンの作品が同時に注目されました。マレーヴィチは絵画の平面で対象を取り除き、色と形の関係を純化します。タトリンは木や金属といった材料を使い、作品を実際の空間へ出していきます。二人の仕事は、ともに伝統的な描写を越えようとしていながら、向かう場所が異なっていました。

どちらが正しい抽象だったかという競争より、それぞれが何を作品の中心に据えたかを見ることが大切です。マレーヴィチの画面では白地と色面の関係が働き、タトリンのレリーフでは壁や角、張られた素材の張力が働きます。同じ展覧会に、この二つの新しい考え方が並んだことが美術史上の大きな意味を持ちます。 (参照:ニューヨーク近代美術館|マレーヴィチと1915年の抽象絵画、ロシア美術館|タトリン《コーナー・カウンター・レリーフ》)

《黒の正方形》は、なぜ強い衝撃を与えたのか

白地の上に黒い四角形だけを置く

1915年の《黒の正方形》を初めて見ると、画面が極端に単純なことに驚かされます。白い地の上に大きな黒い四角形が描かれ、人間も風景も、物語を示す手掛かりもありません。描かれているものを見つける習慣が働かず、見る人の注意は黒い面の形、白い余白、絵具の表面や輪郭の状態へ向かいます。

マレーヴィチにとって重要だったのは、何も描くことがないという状態ではありません。自然の姿を手本にして絵画の価値を判断する方法から離れ、色と形による新しい絵画の体系を始めることでした。四角形はきわめて少ない要素で成立しているからこそ、何が絵画を支えているかという問題を鮮明に示しました。 (参照:ロシア美術館|《黒の正方形》の初出と再制作、ニューヨーク近代美術館|マレーヴィチと1915年の抽象絵画)

壁の高い角に掲げられた理由

当時の《0.10》展の写真では、《黒の正方形》が二つの壁の接する高い角へ掛けられています。ロシア正教の家庭では、部屋の角にイコンを掲げる習慣がありました。その場所へ宗教的人物の姿を描かない黒い形を置く行為は、見る人にとって強い意味を持っていたと考えられます。

ロシア美術館の解説も、1915年の展示位置とイコンの習慣を関連づけています。ここで近代絵画は伝統的な信仰の形式と向き合いながら、そこへ全く異なる視覚を導入しました。抽象を、ロシア固有の文化から切り離された西欧的な幾何学として捉えるだけでは、この展示の意味を十分に理解できません。 (参照:ロシア美術館|《黒の正方形》の初出と再制作、ロシア・アヴァンギャルド・アーカイブ|《0.10》展の歴史)

1915年の原作と、後年の《黒の正方形》

《黒の正方形》には、1915年の初出作に加えて後年に制作された版が存在します。例えばロシア美術館に所蔵される約1923年の《黒の正方形》は、同館の記録でも後年の制作と明記されています。展示写真で1915年の出来事を語り、別の年代の作品を図版として掲げる場合には、その違いを説明する必要があります。

初期の前衛絵画は、作品の制作年、画面に書き込まれた年、展覧会で発表された年が一致しないことがあります。先に扱った光線主義の作品と同様、所蔵館の採用する制作年代と当時の公開の経緯を分けて伝えることが、歴史を正確に読むための基本になります。 (参照:ロシア美術館|《黒の正方形》の初出と再制作、ロシア・アヴァンギャルド・アーカイブ|《0.10》展の歴史)

シュプレマティスムで、色と空間はどう変わったのか

白い背景に浮かぶ色面の関係

シュプレマティスムを《黒の正方形》だけで理解すると、色数の少ない絵画だと誤解しやすくなります。1915年に発表されたマレーヴィチの作品には、赤、青、黄、黒などさまざまな色面があり、正方形や帯状の形が斜めに置かれています。白い背景を空虚な余白として残しながら、形同士の距離や重なりが独特の運動感覚を生みます。

画面に水平線や地面が描かれないため、色面はどこか具体的な場所に置かれているようには見えません。四角形が画面の上方へ上がって見えたり、長い帯が別の面を横切ったりすることで、形の間に関係が生まれます。対象の姿を借りずに空間と動きを作り出すという、抽象絵画の新しい可能性が開かれました。 (参照:ニューヨーク近代美術館|マレーヴィチと1915年の抽象絵画)

《飛行機の飛行》が描いているもの

《シュプレマティスム構成:飛行機の飛行》の題名を読むと、空に飛行機がある風景を想像するかもしれません。実際の画面には、細長い色面と幾何学形が白地の上に浮かんでいます。翼や機体に対応する輪郭を探すより、形がどの向きに配置され、どの面が手前に感じられるかを観察すると、絵画の構造が見えてきます。

ニューヨーク近代美術館はこの作品を1915年の制作とし、裏面に1914年の記載があることも紹介しています。同館は1915年の「0.10」展に出品された作品群とのつながりを明示しています。題名は鑑賞者の想像を誘いますが、形そのものの関係が主役になるという点で、具象的な飛行機の絵とは異なります。 (参照:ニューヨーク近代美術館|マレーヴィチと1915年の抽象絵画)

「絵画的リアリズム」という逆説的な言葉

マレーヴィチは、対象の形を捨てる新しい絵画を、自ら「新しい絵画的リアリズム」と呼ぶことがありました。通常「写実」と訳される言葉と、完全に抽象的な形とが結びつくため、奇妙に感じる表現です。彼は描かれた物の外観を再現する代わりに、絵画そのものの現実である色、面、筆触を重視しました。

この言葉を知ると、シュプレマティスムを単に自然から離れた空想として理解する必要がないことが分かります。目の前に実在するのは、色を置いた画面そのものです。絵画を何かの代理物として見る習慣から離れ、形と色の関係を一つの現実として受け取る。その考えが、1915年の実験を支えていました。 (参照:ニューヨーク近代美術館|マレーヴィチと1915年の抽象絵画、ロシア美術館|《黒の正方形》の初出と再制作)

タトリン、ポポーワ、ロザノワが示した別の方向

タトリンの《コーナー・カウンター・レリーフ》

タトリンの《コーナー・カウンター・レリーフ》では、板や金属、張られた素材が、壁と壁の間の空間を利用して組み合わされています。作品の存在は、絵画を描くための平らな支持体に収まりません。二つの壁の角へ固定され、材料の硬さ、曲がりやすさ、張力が実際の形として現れます。

ロシア美術館は、この作品の新しさを、従来の絵画平面から出て実空間に抽象的な構成を作ったことに見いだしています。《黒の正方形》も壁の角へ置かれましたが、タトリンの作品では角そのものが造形を成立させる条件です。両者の違いを具体的に見ることで、1915年の前衛美術が開いた方向の幅広さが理解できます。 (参照:ロシア美術館|タトリン《コーナー・カウンター・レリーフ》、ニューヨーク近代美術館|1915年《0.10》展の印刷資料)

ポポーワ《絵画的建築》の重なりと緊張

ポポーワは1916年以降、《絵画的建築》と呼ばれる抽象作品の連作を展開しました。赤や黒などの平面が斜めに重なり、互いに押し合うような関係を生みます。マレーヴィチの幾何学形と視覚上の共通点はありますが、ポポーワの面には量感と構築の感覚が強く残っています。

ニューヨーク近代美術館所蔵の1917年の《絵画的建築》を、1914年の《染物屋の品々》と並べると、描かれる日用品が消えても、形を組み合わせる密度の高い仕事が続いていることに気づきます。ポポーワの表現は一つの流派に完全に収まるものではなく、平面、色彩、素材、構造を自分自身の制作課題として統合していきました。 (参照:ニューヨーク近代美術館|《絵画的建築》、ニューヨーク近代美術館研究誌|ポポーワの1914年作品)

ロザノワが深めた色彩と印刷の実験

オリガ・ロザノワはキューボ・フューチュリズム、非具象の絵画、書籍の出版を横断し、色彩や形の関係を独自に研究しました。1916年の『戦争』では、強い黒の図像と文字を組み合わせ、画面を鋭く構成しています。彼女の制作は、美術館の絵画作品だけに限定しては捉えられません。

ロザノワやポポーワの作品を見ると、ロシアの非具象表現はマレーヴィチ一人が完成させ、他の作家が後から従ったという関係だけでは説明できないことが分かります。同じ展覧会や出版の場に参加しながら、色、素材、造形の組み立て方について、それぞれ異なる発見を重ねていました。 (参照:ニューヨーク近代美術館研究誌|ロザノワと詩集『戦争』、ニューヨーク近代美術館研究誌|ポポーワの1914年作品)

1917年の革命と、その後の美術へ

二度の革命が変えた制作の条件

1917年、ロシアでは二月革命と十月革命が起こり、帝政の崩壊から新しい政治体制への移行が進みました。芸術家たちは、これまでの展覧会や画商、個人収集家を中心とする活動に加え、教育、公共の印刷物、社会生活のためのデザインなどにも新しい役割を見いだしていきます。

革命後の文化政策には変化や対立があり、美術家全員が同じ政治的立場を持ったわけではありません。重要なのは、革命以前に生まれていた抽象や素材の実験が、革命後に新しい制度と結びつく可能性を持ったことです。1912〜17年の仕事が、その後の美術の方向を考える際の具体的な前提となりました。 (参照:ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会、ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会図録)

絵画から教育、舞台、印刷、生産へ

ポポーワは革命後、教育や舞台、織物のデザインに活動を広げていきます。タトリンも材料と構造の問題を発展させ、作品が実際の社会や生産とどう結びつくかを考えるようになります。マレーヴィチは抽象絵画を深めながら、教育や建築的な構想にも取り組みました。彼らの行き先は同じではありません。

ロシア前衛の制作環境では、出版、舞台、絵画の共同作業が革命以前から盛んでした。その経験が、革命後に建築、ポスター、衣服、展示設計などへ向かう際の基盤になりました。抽象という新しい視覚言語を作ったことと、日常の物を設計することとの間には、多くの作家にとって連続した問題がありました。 (参照:ニューヨーク近代美術館|リュボーフィ・ポポーワ、ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会)

次の記事「ロシア構成主義」へつながるもの

1912〜17年のロシアで大きく変わったのは、絵画の対象、素材、作品の作り方、そして作品を世に出す方法でした。光線主義は対象から光と色へ関心を移し、キューボ・フューチュリズムは形を解体し、シュプレマティスムは色と幾何学形による非具象を公に示しました。タトリンは現実の材料を使い、作品を壁の外へ広げます。

こうした成果が革命後の社会で何に使われるのかという問いが、1920年代に向けて強まっていきます。次の独立記事「1915–1922|ロシア構成主義の成立 — タトリン、革命、物質と生産」では、作品と生産、芸術と社会制度の関係がどのように変わったのかを詳しく扱います。本記事の終点は、その出発点でもあります。 (参照:ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会、ニューヨーク近代美術館|ロシア前衛美術の展覧会図録)

年表:1912〜1917年の主要な出来事

記事の中心となる1912〜1917年に加え、成立の前提と後の展開を理解するために必要な出来事を記しています。作品に記された年と所蔵館が採用する制作年が異なる場合は、本文でその違いを説明しています。

  • 1908年頃 — モスクワの収集家シチューキンがマティスとピカソの重要作品を集め、若い画家が実物を見る機会を広げる
  • 1910年 — モスクワで「ダイヤのジャック」展が開かれ、新しい絵画をめぐる交流が活発になる
  • 1912年 — ラリオーノフやゴンチャロワらが新しい展示活動を展開し、光線主義の試みを深める
  • 1912年 — 詩人と画家による『世界逆さま』が刊行され、手書き文字と図像の実験が行われる
  • 1912年末〜1913年 — ポポーワがパリに滞在し、キュビスムの画家らに学ぶ
  • 1913年 — ラリオーノフとゴンチャロワが光線主義を展覧会や作品によって公開する
  • 1913年 — ゴンチャロワがモスクワで800点を超える大規模個展を開く
  • 1913年 — 《光線主義、青緑の森》が制作される(裏面には1911年の記載)
  • 1913年12月 — 未来派オペラ《太陽の征服》がサンクトペテルブルクで上演される
  • 1914年 — ポポーワが《染物屋の品々》を制作する
  • 1914年 — タトリンが実物の素材を使ったレリーフの実験を展開する
  • 1914年 — 第一次世界大戦が始まり、海外交流と制作環境が変わる
  • 1914年 — ゴンチャロワがバレエ・リュス《金鶏》の舞台美術と衣装を手がける
  • 1915年3月 — ペトログラードで「トラムウェイV」展が開かれる
  • 1915年3月 — ポポーワ《染物屋の品々》とタトリンのレリーフが出品される
  • 1915年12月 — ペトログラードで「最後の未来派絵画展 0.10」が開幕する
  • 1915年12月 — マレーヴィチが《黒の正方形》を含むシュプレマティスム作品群を公開する
  • 1915年12月 — タトリンがカウンター・レリーフを展示し、実空間の構成を提示する
  • 1916年 — ロザノワとクルチョーヌィフによるアルバム『戦争』が刊行される
  • 1916年頃 — ポポーワが《絵画的建築》の連作へ進む
  • 1917年 — ポポーワ《絵画的建築》が制作され、平面の構築が深化する
  • 1917年2月/10月 — ロシアで二つの革命が起き、芸術家と社会制度の関係が変わり始める
  • 1918年以後 — 抽象・構成の実験が教育、印刷、舞台、生産との関係を深める

まとめ:ロシア前衛の五年間が変えたもの

1912〜1917年のロシア前衛美術を理解するには、作品の外見と、それを可能にした人々の交流を一緒に見ることが重要です。シチューキンやモロゾフの収集はパリの絵画をモスクワの若い芸術家へ紹介し、同時にルボークやイコンなどロシアで親しまれた視覚文化が新しい造形の材料になりました。ゴンチャロワとラリオーノフは光線を描く方法を考え、ポポーワは異なる造形言語を一枚の画面へ構築しました。詩人たちとの出版や舞台の共同制作も、文字と形の実験を進めました。

1915年の「トラムウェイV」展と「0.10」展では、絵画の中の意味を外していくマレーヴィチ、実際の素材と空間を組み立てるタトリン、両者の問題を自分の制作へ引き寄せるポポーワらの違いが明確になります。《黒の正方形》が投げかけた問いは、いったい何が描かれていれば絵画が成立するのかという問題でした。タトリンのレリーフは、何を材料に、どのような空間で作品を成立させるのかという問題へ進みました。

こうした試みは1917年のロシア革命以前に始まり、革命後には教育、デザイン、印刷、生産などへ新しい関わり方を探す基盤となります。ロシア・アヴァンギャルドは一人の天才の発明でも、単独の抽象様式でもありません。絵画、文字、舞台、物質、展覧会を横断する多数の実験が、短い年月の中で相互に影響し合った歴史です。

参考資料・出典

本記事は作品の所蔵館・研究機関による解説、展覧会記録、研究論考を参照してART LIBRARYが独自に執筆しました。1913年と1915年の作品・上演の違い、光線主義作品の記載年と推定制作年、《黒の正方形》初出作と後年の再制作については、所蔵館の表示を区別しています。本文の出典リンクは、各小節の末尾に配置しています。

資料確認日:2026年10月13日 / ART LIBRARY