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紀元前1050–700

初期鉄器時代のギリシア

幾何学文様と墓標陶器

紀元前11世紀、エーゲ海を囲むギリシア本土と島々では、青銅器時代の宮殿に集まっていた権力や物資が、いくつもの集落へ分かれていました。人々は畑で穀物を育て、羊や山羊を飼い、入り江と島の間を小舟で行き来しました。各地で鉄の刃物や武器が使われ始める一方、器を焼く工房と金属を加工する職人は活動を続けていました。

かつての大宮殿に代わって、地域の有力な家々や共同体が、埋葬や神への奉納に財や技術を投じました。エウボイア島のレフカンディでは、広い木造建物の内部に人と馬の埋葬が残り、アッティカの墓地では小さな飲用杯から人の背丈ほどの大型容器まで、焼き物が多様な役割を担いました。キプロスや東地中海の品が一部の墓に納められていることから、海上のつながりも途絶えていなかったことが分かります。

紀元前10世紀頃の陶器では、明るい地肌に重ねた同心円や半円が器形に沿って配されました。やがて折れ曲がる帯模様や連続する三角形が増え、紀元前8世紀には、死者を囲む人々、馬車、船、戦士までが土器の表面に描かれます。青銅の小像や身につける装身具にも、人間と動物の姿が現れました。模様と図像が変わる過程を、出土場所と制作年代の分かる品からたどることができます。

宮殿の後のギリシア|集落・墓地・鉄器

紀元前1050年頃から|宮殿都市の外で続いた暮らし

ミケーネ文明の宮殿が紀元前13〜12世紀に相次いで機能を失うと、ギリシア本土の集落は地域ごとに異なる歩みをたどりました。宮殿時代の線文字Bで記録された物資管理は見られなくなり、鉄の剣や短剣、衣服を留める青銅の針、手製の装身具が墓から見つかります。作り手の名前を記した資料は少なく、器の形や墓の副葬品の組み合わせが年代を推定する基準になっています。

エウボイア島のレフカンディでは、海に面したクセロポリスの居住地と複数の墓地が調査されました。墓地の利用はおおむね紀元前1050〜825年頃に及び、そこに納められた鉄製武器、土器、金製品には年代の異なる品が含まれます。宮殿の消滅から数世紀を、遺物がほとんどない一続きの空白として捉えることはできません。(参照:レフカンディ発掘調査/オックスフォード大学|調査史と墓地/レフカンディ発掘調査/オックスフォード大学|レフカンディの各墓地)

墓地に集まった品|土器と金属

人の骨を焼いて壺へ納める埋葬と、遺体をそのまま墓坑に置く埋葬が並行して行われました。アテナイでもエウボイア島でも、土器は骨壺として使われるほか、墓の中へ飲用杯や注口のある容器が供えられます。小さな留め金やピンは衣服の存在を伝え、青銅器と鉄器が同じ墓に入ることもありました。

富裕な墓では金や輸入品が目立ちますが、一般的な埋葬はもっと簡素です。大きな器や金属製品の多さを、その土地全体の生活水準へ直結させることはできません。墓に何を選んで納めたかは、死者の扱い方や遺族による儀礼とも関わっていました。(参照:レフカンディ発掘調査/オックスフォード大学|レフカンディの各墓地/メトロポリタン美術館|古代ギリシアの幾何学様式美術(2004年))

鉄の剣と青銅の釜|材料が分かれた理由

紀元前9〜8世紀には、刀剣、槍先、工具に鉄が広く使われます。鉄の刃を鍛える工程と、銅と錫の合金を鋳たり薄く打ち伸ばしたりする工程は異なり、青銅は容器、兜、盾、衣服の留め金などに残りました。アテネ国立考古学博物館は、この時期の青銅器を神域に納めた奉納品と墓の副葬品の双方から紹介しています。

大型の青銅製三脚釜では、槌で整えた器体と鋳造した把手や小像を組み合わせる例がありました。鉄の普及が、金属工芸をひとつの材料へ置き換えたわけではありません。人々は切る道具、食物を加熱する器、見せるための高価な奉納品に、それぞれの材料を使い分けていました。(参照:アテネ国立考古学博物館|幾何学様式期の金属工芸/A・ソウダー/メトロポリタン美術館(2008年)|古代ギリシアの青銅容器の製作)

プロト幾何学様式の土器|同心円と器形

大きな黒い面と細い帯|紀元前10世紀の絵付け

初期のプロト幾何学様式では、壺の胴や首の大部分を暗い色で塗り、肩や把手の間だけに明るい粘土の地肌を残すものが見られます。明るい帯には同心円、半円、山形、細い平行線が並び、黒い面との境界が器のふくらみを強調します。プロト幾何学様式の始まりは地域と研究者によって区切り方が異なり、アッティカではおおむね紀元前11世紀後半から9世紀初めまでの作例が知られています。

キクラデス美術館所蔵のスキュフォスは、縁が外側へ傾き、胴が半球形にふくらむ飲用杯です。内面、縁、胴の下部は赤みのある塗料で覆われ、縁の下に同心半円が二組、左右から接するように描かれています。線の間隔や向きをそろえる作業は、器の曲面に合わせた設計を必要としました。(参照:キクラデス美術館|幾何学様式美術・土器・金工の解説/キクラデス美術館|同心半円で装飾したプロト幾何学様式のスキュフォス)

アクロポリス南麓のスキュフォス|墓から出た13点の器

アクロポリス博物館のスキュフォス(収蔵番号ΝΑ 1957 ΝΑΚ 462)は、紀元前960〜900年頃のアッティカ製です。高さ12.4センチ、口径13.5センチ。円錐形の脚、深い半球形の胴、やや外に反った縁、横に張り出す把手を持ちます。胴の同心円のほか、斜線を詰めた帯と縦横の細線が残り、底に近い部分は黒く塗られています。

1957年、アクロポリスの南斜面にあった墓地の第28墓から、多数の破片となって出土しました。同じ墓にはほかに13点の土器、鉄製ピン2点、首飾りに使われた可能性のある土製ビーズが納められています。器の一部は火に触れて変色しており、博物館は葬儀の際の火によるものと説明しています。現存の姿は破片を接合し、欠けた部分を補って復元したものです。(参照:アクロポリス博物館|紀元前960〜900年のスキュフォスと出土墓)

ゼウスの聖域の注口壺|墓以外に置かれた土器

アテナイ近郊のヒュメットス山にあるゼウスの聖域から、紀元前10世紀末〜9世紀初めのオイノコエ(液体を注ぐ器)が出土しました。メトロポリタン美術館所蔵の収蔵番号30.118.1で、高さは20センチ。土器の帯模様を器の外形に沿わせるアッティカの工房の技術が見られます。

この品は、紀元前10世紀末から8世紀末まで約2世紀の奉納品がまとまって見つかった場所の一つです。小型の器が多数含まれるため、すべての土器が生活で使い古された後に廃棄されたわけではなく、神に何かを願って置いた品として調べられています。1930年にギリシア政府からメトロポリタン美術館へ贈られました。(参照:メトロポリタン美術館|ヒュメットス山の神域出土オイノコエ(30.118.1))

円を描く道具は何だったか|複数の筆と研究上の異論

同心円の幅がほぼ一定であることから、コンパスに複数の筆を取り付け、一度に幾本もの弧を描いたという説明が広く用いられています。キクラデス美術館はこの道具を用いた描画例を紹介しています。土器を回転させながら首や胴の水平線を引く工程も、均一な帯をつくる際に使われたと考えられます。

考古学者ハリソン・アイテルヨルク2世は1980年、当時の土器の曲面では複数筆のコンパスを想定どおりに働かせにくいと論じました。高速のろくろの導入を様式成立の原因とする見方にも疑問を示し、アテナイ一都市を新様式の唯一の発祥地とみなす必要はないと結論づけています。器に残る円の形は観察できても、工房の道具一式が残っているわけではないため、筆の固定方法と制作工程は研究対象です。(参照:キクラデス美術館|同心半円で装飾したプロト幾何学様式のスキュフォス/H・アイテルヨルク2世(1980年)|高速ろくろ・多筆コンパス説の検討)

レフカンディのトゥンバ|巨大な建物と埋葬

紀元前10世紀中頃の建物|長さ約50メートルの平面

エウボイア島のレフカンディで1981年から調査されたトゥンバの建物は、長さ約50メートル、幅約13.8メートルに及びます。東に入口を設け、西端が半円形にふくらむ細長い平面で、内部には大きな中央室と、さらに奥へ続く通路や小部屋がありました。壁の下部には石が積まれ、その上に日干し煉瓦が使われ、地面に立てた木柱の穴も残っています。

オックスフォード大学の発掘報告では、屋根を葦などで葺き、中央の柱と建物の外側を巡る木柱で支えた姿に復元しています。古代の建物がそのまま地上に立っているのではなく、床、壁の基礎、柱穴から組み立てた復元図です。建物はやがて埋葬とともに土を盛られ、低い塚に覆われました。(参照:レフカンディ発掘調査/オックスフォード大学|トゥンバの建物と墓地/アテネ英国考古学研究所|1981〜86年のトゥンバ発掘記録)

中央室の二つの墓坑|人の骨と4頭の馬

中央室の床下には二つの深い墓坑がありました。一方には火葬された男性の骨と鉄製武器、宝飾品を付けたままの若い女性の遺体が納められ、もう一方には4頭の馬の骨がありました。馬を伴う葬送は豊かな家の力を見せる行為だったと考えられますが、同じ地域のすべての墓がこの方式をとったわけではありません。

建物が土塚となったのち、東側の入口付近には新しい墓地が広がりました。そこにある墓の副葬品には、地元の土器に加え、アッティカや北ギリシア、東地中海から来た器や装身具が含まれます。建物の埋葬と周辺墓地の利用は、同じ場所で起きた時間の違う出来事です。(参照:レフカンディ発掘調査/オックスフォード大学|トゥンバの建物と墓地/レフカンディ発掘調査/オックスフォード大学|レフカンディの各墓地)

キプロスで作られた青銅の骨壺|2025年の修復

男性の火葬骨を納めていたのは、もともと大きな青銅製の混酒器として作られた容器でした。アテネ国立考古学博物館は、この器が紀元前1100年頃にキプロスで製作され、レフカンディでの埋葬より少なくとも1世紀早い品だったと説明しています。埋葬した時点の年代を、そのまま釜の鋳造年代とみなすことはできません。

器は1981年に押しつぶされた状態で発見され、数百片になっていました。複数世代の保存修復家が作業を続け、2022〜25年に再修復が進められました。博物館は2025年に再構成した器を一時公開し、その後ハルキダの博物館へ移す方針を公表しました。壺として再利用された青銅器の長い履歴が、材質と発見状況の両方から追えます。(参照:アテネ国立考古学博物館|レフカンディの青銅製骨壺の再修復(2025年))

火葬骨と一緒に残った亜麻の布|織り目と縁の房

青銅の骨壺の内部には、大きな亜麻布が折り畳まれて入っていました。布は縦糸と横糸を一本ずつ交差させる平織りで、縁には長く余った縦糸で房を作り、幾何学的な帯模様も織り込まれています。青銅容器の内側という特殊な環境で布が保存され、衣服を織る技術まで具体的に調べられるようになりました。

1981年に国立考古学博物館へ運ばれた布は、保存のため現代の支持布に貼り付けられ、袖なしの長衣の形として復元されました。現在進められている繊維や色彩の調査は、当初の形、使われた染料、埋葬された男性との関係を検証するものです。博物館自身がその点を未解決の研究課題として挙げています。(参照:アテネ国立考古学博物館|レフカンディ出土亜麻織物の調査)

別々の墓に分けられた土製ケンタウロス|高さ36センチの像

レフカンディのトゥンバ墓地では、紀元前900年頃の土製ケンタウロスも見つかっています。高さは36センチで、人間の頭と胸を馬の胴体につなげた姿をとり、円筒形の脚で立っています。現存する初期ギリシアの神話的な混成動物像の中でも年代の古い作例で、現在はエレトリア考古学博物館が展示しています。

頭部は第1墓、胴体は第3墓から出土し、元の一体を分けて副葬していました。デズボロー、ニコルズ、ポファムが1970年に公表した出土報告は、像が墓に入る以前にも使われていた可能性を指摘しました。二つの墓へ分けた理由は分かっていません。死者同士の関係を表したのか、壊れた品を別々に置いたのかは、その出土位置だけでは定められません。(参照:V・デズボロー、R・ニコルズ、M・ポファム(1970年)|レフカンディの土製ケンタウロス出土報告/ギリシア文化遺産機構|エレトリア考古学博物館とレフカンディのケンタウロス像)

『英雄の墓』か住居か|建物の使い方をめぐる研究

調査者は、特別な埋葬と馬の墓が建物内にあることから、トゥンバの建物をしばしば『ヘローオン(英雄の祭祀施設)』と呼びました。後の神殿にも見られるような周囲の柱の列は、その先駆けと説明されてきました。しかし、建物が埋葬の前には有力者の住居だったのか、葬儀のために建てられたのか、長期の祭祀が行われたのかについては資料の読み方が分かれます。

ヤリ・パッカネンとペトラ・パッカネンは2000年、寸法比だけから設計単位を確定する方法に疑問を示し、集団儀礼を通じて建物の意味が変わった可能性を論じました。ゲオルク・ヘルトは2015年、柱穴と建材の強度を再評価し、周囲の柱列を後の神殿の原型とする復元に反論しました。アレクサンドラ・ククゼリらは2024年、石壁より木の骨組みが屋根を支えたという別の構造案を示しています。柱穴と墓坑は確認された事実であり、屋根のかけ方や儀礼の性格は複数の復元が競合しています。(参照:J・パッカネン、P・パッカネン(2000年)|トゥンバの建物の機能と寸法解釈/G・ヘルト(2015年)|レフカンディ建物の構造と列柱復元への批判/A・ククゼリほか(2024年)|レフカンディ木造架構の再検討)

紀元前9〜8世紀の陶器|直線文様と器の用途

同心円から折れ曲がる帯へ|初期・中期幾何学様式

紀元前900〜850年頃の初期幾何学様式では、器の首や肩に、直角に折れ曲がるメアンダー文様、三角形、山形の帯が増えました。模様の内側に細い線を詰め、面の残りを黒く塗ることで、赤褐色の地肌と暗い部分を明確に分けています。器全体に文字のような記号をばらまくのではなく、首、把手、胴の形に合わせて装飾を配置しました。

紀元前850〜760年頃の中期幾何学様式では、帯の幅が広がり、菱形や水鳥、動物も決まった枠の中へ入ります。模様の反復には一定の規則がありますが、工房によって線の太さ、塗りつぶす場所、器の背の高さに差があります。これらの様式名は後世の研究者が陶器群の形と文様から付けた区分です。(参照:キクラデス美術館|幾何学様式美術・土器・金工の解説/アテネ国立考古学博物館|幾何学様式期の陶器)

蓋付きの化粧箱|紀元前800〜760年のピュクシス

メトロポリタン美術館のピュクシス(48.11.5a,b)は紀元前800〜760年頃のアッティカ製です。器本体は高さ10.5センチ、幅28.5センチで、ふっくら横に張る胴を低い脚が支え、全体の高さは蓋を含めて25.2センチになります。蓋のつまみには、さらに小さなピュクシスを載せたような造形が施されています。

この形式は紀元前850年頃にアテナイで現れたとされ、木箱や以前の土器の形から影響を受けています。墓や神域へ納められた例が多く、古い補修の跡がある品は、生前にも使われていたことを示します。エレウシスの裕福な女性の墓から見つかった小型の類品には白い物質の痕跡があり、化粧品の可能性が指摘されています。(参照:メトロポリタン美術館|紀元前800〜760年頃の蓋付きピュクシス)

蓋の穴は何を留めたか|別のピュクシスの観察

紀元前750年頃の別のピュクシス(67.45a,b)は、器の口縁と蓋に小孔を2組ずつあけています。紐を通して蓋を固定した可能性があり、蓋を除いた器の高さは8.4センチ、直径は23センチです。小箱が単なる置物ではなく、中身を納めて持ち運ぶことのできる道具だったことを示す構造です。

この品では蓋と器の孔が縦にそろっていません。美術館は、現存する蓋と本体が元から一組だったのではないと指摘しています。古い器に後から合わせた部品が残る場合、現在の外見から当初の使い方や装飾の組み合わせをそのまま推測できません。(参照:メトロポリタン美術館|紀元前750年頃の蓋付きピュクシス)

注ぐ器の肩に描いた蛇|紀元前800〜750年のオイノコエ

酒や水を注ぐオイノコエにも、小さな新しい文様が加わりました。メトロポリタン美術館の高さ13.2センチの品(06.1021.4)は、肩の帯に点を添えた蛇が波打つように描かれています。底へ向かう黒い面は以前のプロト幾何学様式より狭くなり、明るい胴に置く模様の種類が増えました。

細長い蛇の身体は、メアンダー文様のように規則的な折線とは異なります。幾何学の帯を保ちながら生き物の姿を細部に差し込む描き方が、紀元前8世紀の土器で試みられていました。手に持って液体を注ぐ形の小さな容器は、後に作られる高さ1メートルを超える墓標容器とは大きさも構造も異なります。(参照:メトロポリタン美術館|蛇行文を描いたオイノコエ)

大型の墓標陶器|ディピュロンの人物表現

ディピュロン画家のアンフォラ|立った姿を描く巨大な壺

アテナイのケラメイコス墓地、ディピュロン門の近くでは、紀元前760〜750年頃の大型アンフォラが発見されました。アテネ国立考古学博物館の収蔵番号804は、高さ約155センチに達する女性の墓標用の壺として知られます。細く絞った首、肩から広がる胴、細い脚を持ち、縦に長い器体を何段もの文様帯が覆います。

胴の把手の間に設けた大きな四角い画面には、寝台に横たえた死者が描かれ、周囲の人物は両腕を頭へ上げて嘆きます。線で区切られた人物の胴や脚の間にも、小さな三角形や山形が詰め込まれています。このアンフォラの描き手は、発見された場所にちなんで『ディピュロン画家』と呼ばれます。国立考古学博物館の文化財記録には、同じ画家に帰属する別の大型アンフォラもピレウス通りの区画から出土したと記され、描かれた葬送の構図が工房で繰り返されたことが分かります。(参照:アテネ国立考古学博物館|幾何学様式期の陶器/アテネ国立考古学博物館・ギリシア国家文化資料|ディピュロンのアンフォラ)

寝台の上の死者|プロテシスをどこに描いたか

死者を家の中で寝台に安置し、親族が悼む場面を『プロテシス』と呼びます。ディピュロンのアンフォラでは、その場面を横長の枠に収め、寝台、死者、周囲の人物の腕と頭を限られた線で描き分けました。死者を覆う布に格子のような模様が見え、布の内側に横たわる人物と、立って悲しむ人物が別々の姿勢で表されます。

後のギリシア陶器の人体は輪郭や筋肉を細かく描きますが、この時期の人物は胸が三角形、腰が細い線、脚が長い棒状になることが多くあります。弔問者の腕は頭の左右に同じ角度で上げられ、規則的な模様と同じように反復しています。各人物の名前を示す文字はなく、どの人物が近親者かまで断定することは難しい状態です。(参照:アテネ国立考古学博物館|幾何学様式期の陶器/アテネ国立考古学博物館・ギリシア国家文化資料|ディピュロンのアンフォラ)

紀元前775年頃のクラテル|海戦と葬儀の二種類の場面

メトロポリタン美術館所蔵の大型クラテル(34.11.2)は、高さ99.1センチ、直径94センチのアッティカ製で、紀元前775年頃に作られました。両面の中央に設けた四角い画面には、死者を寝台に置いた葬儀の情景があります。その下には軍装した人々の行列と二隻の軍船の戦闘が連続して描かれています。

一方の船では、帆の下に縛られた女性と解釈される人物が見え、もう一隻では船首の衝角に上った戦士が弓を持つ相手へ槍を突き出します。船尾では剣を使う戦士同士が向き合っています。盾には青銅器時代に用いられた砂時計のような輪郭があり、美術館は個人の戦歴を描いた可能性と、祖先の伝承的な戦いを描いた可能性の両方を挙げています。(参照:メトロポリタン美術館|紀元前775年頃の葬送・海戦図クラテル)

ヒルシュフェルト工房のクラテル|死者の下を進む馬車と歩兵

紀元前750〜735年頃にヒルシュフェルト工房が作った大型クラテル(14.130.14)は、高さ108.3センチです。器の上の広い帯には寝台上の死者と腕を上げた弔問者が並び、下段では馬車と歩兵が列を作って進みます。黒い輪郭を褐色の素地に置き、余白を細い幾何学文様で埋める構成です。

混酒器のクラテルは飲み物を混ぜる器形ですが、このような巨大な作例は墓の上に置かれる標識として働きました。馬車や歩兵の行列は葬列を表したとも、亡くなった人や祖先の武功を伝えたとも考えられます。武具の図柄には当時すでに古い型も含まれるため、描かれた戦士を制作時の実際の兵士の服装として一律に読み取ることはできません。(参照:メトロポリタン美術館|ヒルシュフェルト工房の大型墓標クラテル)

アンフォラとクラテル|形によって異なる墓標

アンフォラは細い首を持ち、穀物や液体を運ぶ器の形から発達しました。クラテルは口が大きく開き、酒と水を混ぜる器の形をとります。アテナイの富裕な墓では両方の器種が大きな墓標として使われ、アンフォラが女性、クラテルが男性の埋葬と結び付けられる例が知られます。火葬骨を納めるアンフォラについては、把手が胴や肩にある形式を女性の骨壺、首に把手がある形式を男性の骨壺として使い分けた例も報告されています。

何段にも分かれた大型容器の胴は、上から一場面、次に別の場面へと目を運ばせる構造です。図像だけを見ると『戦争の絵』と捉えられる作品でも、墓地に据えられた器であることから、遺族が死者をどのように記念しようとしたかという問題が生まれます。(参照:メトロポリタン美術館|古代ギリシアの幾何学様式美術(2004年)/メトロポリタン美術館|墓の火葬骨壺に用いたアンフォラの器形と性差)

エウボイアと島々の器|海上交流と地域差

キプロスで見つかったエウボイア製クラテル|樹を挟む動物

メトロポリタン美術館のチェスノラ画家作とされる蓋付きクラテル(74.51.965)は、紀元前750〜740年頃の品で、高さ115.6センチ、幅57.2センチあります。キプロスのクーリオン出土と伝わり、四つの把手と、小型の水甕を頂に載せた蓋を持ちます。アッティカの巨大なクラテルより把手が多く、明るい化粧土の上に文様を敷き詰めている点も異なります。

把手の間には、後脚で立って樹の葉に口を伸ばすシカまたはヤギが左右に配され、馬の上には双斧の記号が描かれます。樹を挟む動物という構図は西アジアの美術にもあり、双斧はミノア文明の品を思わせます。美術館は19世紀以来続いた制作地の議論を紹介し、現在はナクソス島よりもエウボイア島の工房に帰属させる見解を採っています。(参照:メトロポリタン美術館|エウボイア系チェスノラ画家の蓋付きクラテル)

ボイオティアの小箱|水鳥を四角い枠に置く

ギリシア本土中部のボイオティアでは、紀元前740年頃のピュクシス(キクラデス美術館所蔵、ΝΓ1100)のように、水鳥を小さな四角い枠へ配した作例があります。鳥のくちばし、長い首、脚を単純な線で表し、横の区画には幾何学模様を繰り返します。アテナイの墓標容器と同じ年代でも、作る器の大きさや描く動物、帯の幅は一致しません。

幾何学様式という名は形や文様の共通点を指しますが、同じ一つの工房から全ギリシアへ完成品が供給されたという意味ではありません。ボイオティアの土器とキプロスで見つかったエウボイア系の器は、地域の陶土、器形の好み、交易による図像の移動を別々に考えられる例です。(参照:キクラデス美術館|幾何学様式美術・土器・金工の解説/メトロポリタン美術館|エウボイア系チェスノラ画家の蓋付きクラテル)

クレタ島の金属工房|青銅器時代からの技術の継承

クレタ島の金属工芸には、青銅器時代からの作り方が継承された部分があります。アテネ国立考古学博物館は、ギリシア本土に鉄器が広がった後も、クレタで青銅の加工が連続し、東地中海との接触が強く保たれたことを指摘しています。紀元前8世紀には、裸の戦士像や大釜の把手へ付ける小像に、本土とは異なる姿勢や身体の比率が認められます。

メトロポリタン美術館の青銅製戦士像(36.11.8)は、身体が細長く、強い肩と胸、長い脚が目立つ高さ17.5センチの品です。槍を持っていたと考えられる腕を上げ、別の腕には盾があった可能性があります。制作地は確実な出土情報で決まったものではなく、彫り方などからクレタの職人に帰属させる見解です。(参照:アテネ国立考古学博物館|幾何学様式期の金属工芸/メトロポリタン美術館|クレタ系とされる青銅製戦士像)

三脚釜と青銅小像|神域に捧げられた形

三本脚の大釜|食事の器から奉納品へ

青銅の三脚釜は、大きな深い容器を三本の長い脚で支える構造です。器体を槌で薄く打ち出し、鋳造した把手や脚を鋲などで組み合わせる作り方が用いられました。もとは大量の食物を加熱する器として使われ、紀元前9〜8世紀にはオリンピアなどの神域へ捧げる高価な品となりました。小型の三脚釜も、実用品を縮めた奉納品として残っています。

ギリシア文化省が紹介するオリンピア出土の青銅製小型三脚釜は、脚と容器が一体になった形を保ちます。大きな三脚釜の縁では、輪形の把手や動物の小像が目立つ位置に取り付けられました。神域から見つかった例では、食事に使われていたかどうかよりも、奉納された時点の役割を出土場所に即して考えます。(参照:ギリシア文化省|オリンピア出土の小型奉納三脚釜/A・ソウダー/メトロポリタン美術館(2008年)|古代ギリシアの青銅容器の製作)

プライソスの環状把手|大釜から離れた部品

クレタ島東部のプライソスで見つかった青銅製の環状把手(メトロポリタン美術館53.5.3a)は、直径24.1センチ、全体の高さ19.7センチ。紀元前8世紀後半の三脚釜に付いていた部分です。大きな円い取っ手は、釜の縁や胴の金具と組み合わされ、持ち上げる構造を作っていました。

薄い器体は土の中で腐食しやすく、厚く鋳造した把手だけが残る場合があります。取っ手だけが見つかったときも、製作時の厚さや取り付け方から元の金属容器の一部だったと判断できます。プライソスの品は、そのような部分的な残存例です。(参照:メトロポリタン美術館|クレタ島プライソス出土の三脚釜環状把手/A・ソウダー/メトロポリタン美術館(2008年)|古代ギリシアの青銅容器の製作)

馬の脚と尾|小さな台座に立つ像

メトロポリタン美術館の青銅製馬像(69.61.2)は、紀元前750〜725年頃の高さ10センチ、幅6.2センチの小像です。後脚は力強く太く、鼻先、弓なりのたてがみ、立った耳が強調され、目は小さな突起で作られています。長い尾を長方形の台まで下ろすことで、細い脚と一緒に像を支える形になっています。

底面に透かしや浮彫を入れる種類の台座は、紀元前8世紀後半の馬像によく見られます。台座を独立した置物として使ったのか、刻印など別の機能も持ったのかは議論があります。馬を飼い、競走へ参加することが貴族層の財力と関わった時代に、馬の小像が神域へ数多く奉納されました。

アクロポリス博物館所蔵の別の馬像(ΕΑΜ Χ 6537)は紀元前8世紀中頃の高さ7.5センチ。細く長い首、円錐形の頭、膝を強調した円柱状の脚が特徴で、口は横一文字に彫り込まれています。所蔵館は、この種の馬像がしばしば青銅容器の大きな輪形の把手や縁に置かれたと説明しています。馬という同じ主題でも、台の有無と口や脚の細部に工房の違いが表れます。(参照:メトロポリタン美術館|青銅製馬像(69.61.2)/アクロポリス博物館|紀元前8世紀中頃の青銅製馬像)

大釜から外れた馬像|蹄の穴と眼の象嵌

別の馬像(1972.118.48)は紀元前8世紀後半の高さ11センチの青銅製です。目をはめ込むためにくぼませた跡があり、蹄には取り付け用の穴が残っています。メトロポリタン美術館は、元は大型三脚釜の縁や把手に固定されていた可能性を挙げます。現在は単体の馬の形をしていますが、足の小孔から取り付ける場所を推定できます。

馬の形は円柱のような脚と長い首、平らな胴を組み合わせて表され、厚い青銅の塊が釜の上で立つ姿を作っていたと考えられます。もともとの容器が失われたため、どちら側の把手に付いたか、対になる小像があったかまでは確かめられていません。(参照:メトロポリタン美術館|釜への取付穴が残る青銅製馬像)

戦士とケンタウロス|二体が組み合う11.1センチの像

紀元前750年頃の青銅群像(17.190.2072)は高さ11.1センチで、人間の戦士と、人の上半身に馬の胴と後脚を付けたケンタウロスが向かい合います。ケンタウロスの左脇には刃先が突き出し、相手より背を低く表したことで、戦いの状況が伝わります。ラコニアの工房に帰属させられ、オリンピアから来た可能性も指摘されています。

メトロポリタン美術館の近年の調査では、人間の目には銀、ケンタウロスの目には赤みのある鉄の象嵌が施されていたことが確かめられました。底の二重のジグザグ模様を川と捉え、ヘラクレスとケンタウロスのネッソスの戦いに結び付ける説があります。像には人物の名が刻まれておらず、神話のどの場面かは確定していません。(参照:メトロポリタン美術館|人物とケンタウロスの青銅群像・象嵌の調査)

装身具と小さな図像|身につける品と副葬品

衣服を留めるピンと留め金|鉄と青銅の小さな部品

肩の布を留めるピンや、安全ピンに似た構造のフィブラ(留め金)は、当時の衣服の着け方を伝えます。小型のフィブラは後期ミケーネの頃から知られ、紀元前9世紀半ば以降には、金属板を大きく広げて模様を刻む形式がアッティカからボイオティアへ広がりました。衣服の留め具そのものを、長い舟や馬などの図像を見せる面として利用した品もあります。

墓のフィブラやピンが多数見つかる場合でも、金属の点数だけから衣服の形を完全に復元することはできません。レフカンディの布のように織物そのものが残った例は貴重で、ピンの位置と布の素材を照合する研究が続いています。(参照:キクラデス美術館|幾何学様式美術・土器・金工の解説/アテネ国立考古学博物館|レフカンディ出土亜麻織物の調査)

スキュロス島の大型留め金|船、魚、馬を彫る

キクラデス美術館のボイオティア式フィブラ(ΝΓ0561)は、長さ20センチ、幅11.5センチの銅製品で、スキュロス島の墓から出たと記録されています。制作年代は紀元前8世紀末〜7世紀初めとされ、身につける品としてはひときわ大きい作例です。表裏に細い溝を刻み、一方の面には4匹の魚、もう一方には帆と櫂を備えた船を描いています。

船の近くには水鳥や馬の後半身も置かれ、斜めの線や菱形が空白を埋めます。美術館は、海の向こうの死者の世界を象徴した可能性と、当時の航海や植民活動の記憶を表した可能性を紹介しています。どちらも図像の解釈であり、船と魚が実際に線刻されていることとは証拠の性質が違います。(参照:キクラデス美術館|スキュロス島出土・船と魚を線刻した大型留め金)

金の薄板と帯|墓に納められた装飾品

紀元前9〜8世紀の墓には、薄く延ばした金の帯や額飾り、指輪、耳飾りなども納められました。金板の表面には、線を彫る技法のほか、裏から押し上げて表に図柄を浮かせる打出し技法が使われています。初めは幾何学文様が中心で、後には馬や動物の列を並べたものが増えました。

金線を細かく付ける技法や金粒を並べる技法にも、エーゲ海の青銅器時代からのつながりと西アジアからの影響が指摘されています。どの工房が一つの技術を伝えたかを示す直接の記録は乏しく、出土地域、装飾の構成、金属の加工方法を照合しながら研究されています。(参照:キクラデス美術館|幾何学様式美術・土器・金工の解説/アテネ国立考古学博物館|幾何学様式期の金属工芸)

子どもの墓の護符|輸入品は富を見せるためだけか

レフカンディの墓地では、小さな印章、スカラベ形の品、穴のあいた飾りが、死者の頭や胸の近くから見つかります。第36墓の頭飾りや第45墓の耳飾りの周辺には小さな輸入品が置かれ、首へ通したと考えられる品もあります。高価な青銅器ばかりでなく、材質としては比較的安価な護符状の品が東地中海から運ばれていたのです。

ネイサン・アリントンは2015年に公開した研究で、こうした小品が子どもの墓に集中することに注目しました。海外との取引を示す財産や権威の印としてだけ説明すると、身体に近づけて置いた理由が説明しにくくなります。アリントンは、病や災厄を避け、死者を守る護符として身につけた可能性を論じました。文字の意味を正確に理解していたか、埋葬時にどの願いを託したかまでは確認できず、解釈は品の位置と同時代の比較資料に基づいています。(参照:N・アリントン(2015年公開・2016年刊行)|レフカンディの子ども墓と輸入護符の研究)

略年表

  • 紀元前1050年頃|レフカンディの墓地が利用され、ギリシア各地で青銅器時代末とは異なる土器と埋葬形式が広まる
  • 紀元前1025〜900年頃|アッティカなどで同心円・半円を配したプロト幾何学様式の土器が作られる
  • 紀元前1000〜950年頃|細い帯に円を描いたプロト幾何学様式の壺が作られ、墓や聖域へ納められる
  • 紀元前960〜900年頃|アクロポリス南麓の第28墓に同心円文のスキュフォスなどが副葬される
  • 紀元前950年頃|レフカンディのトゥンバに長さ約50メートルの建物が建ち、特異な人と馬の埋葬が行われる
  • 紀元前900年頃|レフカンディのトゥンバ墓地に初期のケンタウロス土製像が納められる
  • 紀元前900〜850年頃|アッティカで初期幾何学様式の折線やメアンダー文が広がる
  • 紀元前850〜760年頃|中期幾何学様式の陶器に広い帯模様、鳥、動物の図像が増える
  • 紀元前800〜760年頃|アッティカで蓋付きピュクシスなどの身近な容器が作られる
  • 紀元前775年頃|アッティカの大型クラテルに死者の安置と軍船上の戦いが描かれる
  • 紀元前760〜750年頃|ディピュロン画家の大型アンフォラに死者と弔問者が描かれ、墓標に用いられる
  • 紀元前750〜735年頃|ヒルシュフェルト工房の大型クラテルに葬儀と馬車・戦士の行列が描かれる
  • 紀元前750〜740年頃|エウボイア系工房の蓋付きクラテルが作られ、キプロスへ運ばれる
  • 紀元前750年頃|青銅製の戦士とケンタウロスの群像が作られる
  • 紀元前750〜725年頃|台座に立つ馬の青銅小像が作られ、神域への奉納が広がる
  • 紀元前725〜700年頃|アッティカや周辺地域で人物・動物の物語的な図像が土器の広い帯を占める
  • 紀元前700年頃|幾何学様式末期から、より自由な人物表現と東地中海の図像を採り入れる次の様式へ移り始める

まとめ

アッティカのプロト幾何学様式の器には、黒く塗った胴と同心円の帯があり、紀元前9〜8世紀の土器ではメアンダー文、菱形、動物、人物が増えていきました。アクロポリス南麓のスキュフォスは墓の中で他の容器や鉄製ピンと一緒に見つかり、ディピュロンの大型陶器は墓の上で死者を記念するために使われました。器の形と設置場所が違えば、そこに描かれる場面の役割も変わります。

レフカンディの建物には木柱の痕跡と人・馬の墓坑が残り、キプロス製の青銅器と亜麻織物が埋葬に使われました。オリンピアなどの神域では三脚釜や馬の青銅小像が奉納され、鋳造した部品を槌で打ち出した器体へ付ける技術が使われています。東地中海との行き来は、キプロスで発見されたエウボイア製とされる陶器の図像にも表れます。

レフカンディの建物を住居とみるか、葬儀と祭祀の施設とみるかは、柱穴と壁の復元によって説明が分かれています。大型墓標陶器の船や戦士も、実際の戦いを描いたのか、先祖の物語を表したのかを一意に決める文字がありません。1980年の陶器の描画道具の再検討、2000〜24年の建築構造の議論、2025年の青銅骨壺の修復は、それぞれ作り方や使用履歴を詳しくする一方、作品の意味について新しい問いを残しています。(参照:H・アイテルヨルク2世(1980年)|高速ろくろ・多筆コンパス説の検討/J・パッカネン、P・パッカネン(2000年)|トゥンバの建物の機能と寸法解釈/A・ククゼリほか(2024年)|レフカンディ木造架構の再検討/アテネ国立考古学博物館|レフカンディの青銅製骨壺の再修復(2025年))

参考資料・出典

  1. アテネ国立考古学博物館|幾何学様式期の陶器
  2. アテネ国立考古学博物館|幾何学様式期の金属工芸
  3. メトロポリタン美術館|古代ギリシアの幾何学様式美術(2004年)
  4. キクラデス美術館|幾何学様式美術・土器・金工の解説
  5. レフカンディ発掘調査/オックスフォード大学|調査史と墓地
  6. レフカンディ発掘調査/オックスフォード大学|トゥンバの建物と墓地
  7. レフカンディ発掘調査/オックスフォード大学|レフカンディの各墓地
  8. アテネ英国考古学研究所|1981〜86年のトゥンバ発掘記録
  9. アテネ国立考古学博物館|レフカンディの青銅製骨壺の再修復(2025年)
  10. アテネ国立考古学博物館|レフカンディ出土亜麻織物の調査
  11. G・ヘルト(2015年)|レフカンディ建物の構造と列柱復元への批判
  12. J・パッカネン、P・パッカネン(2000年)|トゥンバの建物の機能と寸法解釈
  13. A・ククゼリほか(2024年)|レフカンディ木造架構の再検討
  14. ギリシア文化遺産機構|エレトリア考古学博物館とレフカンディのケンタウロス像
  15. V・デズボロー、R・ニコルズ、M・ポファム(1970年)|レフカンディの土製ケンタウロス出土報告
  16. N・アリントン(2015年公開・2016年刊行)|レフカンディの子ども墓と輸入護符の研究
  17. アクロポリス博物館|紀元前960〜900年のスキュフォスと出土墓
  18. キクラデス美術館|同心半円で装飾したプロト幾何学様式のスキュフォス
  19. メトロポリタン美術館|ヒュメットス山の神域出土オイノコエ(30.118.1)
  20. H・アイテルヨルク2世(1980年)|高速ろくろ・多筆コンパス説の検討
  21. メトロポリタン美術館|紀元前800〜760年頃の蓋付きピュクシス
  22. メトロポリタン美術館|紀元前750年頃の蓋付きピュクシス
  23. メトロポリタン美術館|蛇行文を描いたオイノコエ
  24. アテネ国立考古学博物館・ギリシア国家文化資料|ディピュロンのアンフォラ
  25. メトロポリタン美術館|墓の火葬骨壺に用いたアンフォラの器形と性差
  26. メトロポリタン美術館|紀元前775年頃の葬送・海戦図クラテル
  27. メトロポリタン美術館|ヒルシュフェルト工房の大型墓標クラテル
  28. メトロポリタン美術館|エウボイア系チェスノラ画家の蓋付きクラテル
  29. アクロポリス博物館|紀元前8世紀中頃の青銅製馬像
  30. メトロポリタン美術館|青銅製馬像(69.61.2)
  31. メトロポリタン美術館|釜への取付穴が残る青銅製馬像
  32. メトロポリタン美術館|クレタ系とされる青銅製戦士像
  33. メトロポリタン美術館|人物とケンタウロスの青銅群像・象嵌の調査
  34. メトロポリタン美術館|クレタ島プライソス出土の三脚釜環状把手
  35. A・ソウダー/メトロポリタン美術館(2008年)|古代ギリシアの青銅容器の製作
  36. ギリシア文化省|オリンピア出土の小型奉納三脚釜
  37. キクラデス美術館|スキュロス島出土・船と魚を線刻した大型留め金