Art Library

World History

政治、宗教、社会、文化の出来事を、年代順にたどる世界史アーカイブ。

紀元前約29万8000年|ホモ・サピエンスの出現 — 現生人類の起源

現在の私たちと同じ種であるホモ・サピエンスは、約30万年前までにアフリカで現れたと考えられています。モロッコのジェベル・イルード遺跡からは、初期ホモ・サピエンスの頭骨や顎の化石、石器が発見されました。ユブランら(2017年)は、現代人に近い顔の特徴と古い形態が同居する化石を報告し、リヒターら(2017年)は、加熱された石器の熱ルミネッセンス年代測定などから約31万5000年前(誤差約3万4000年)という年代を示しました。ホモ・サピエンスは長い進化の過程で形成され、その起源や広がりについて研究が続いています。(参照:Nature|初期ホモ・サピエンスの化石(Hublinら、2017年)・Nature|ジェベル・イルード遺跡の年代測定(Richterら、2017年))

298,000 BCE

旧石器時代|狩猟採集と造形

人々は狩りや採集をしながら暮らしていました。文字や都市はまだなく、身近な動物や人間の身体が、形をつくる重要な題材になりました。

人類はアフリカで生まれ、世界へ広がった

現在の人類であるホモ・サピエンスは、約30万年前にアフリカで進化したと考えられています。現在のモロッコなどで見つかった化石も、その長い歴史を示しています。人々は何度にもわたってアフリカの外へ移動し、アジア、ヨーロッパ、オセアニアなどへ広がりました。移住は一度きりの出来事ではなく、気候や資源、ほかの人々との出会いに左右される長い過程でした。世界史の最初に知っておきたいのは、現在の人類が共通の起源をもち、各地の環境に適応しながら多様な文化を育んできたということです。(参照:スミソニアン自然史博物館|ホモ・サピエンス)

40,000 BCE

約3万6500年前|ショーヴェ洞窟 — ヨーロッパ最古級の洞窟壁画

フランスのショーヴェ洞窟に描かれた動物壁画の複製展示
ショーヴェ洞窟の動物壁画。馬、ライオン、サイなど多様な動物が描かれている(複製展示)。

フランス南部のショーヴェ洞窟では、約3万6500年前から壁面に馬、ライオン、サイ、マンモス、クマなど多くの動物が描かれました。ヨーロッパ最古級の洞窟壁画として知られ、動物の輪郭を重ねたり陰影を加えたりすることで、身体の量感や動きまで表しています。旧石器時代の人々による、緻密な観察と描写の技術を伝える作品群です。(参照:フランス文化省)

36,500 BCE

氷期のヨーロッパ|移動生活と小さな像

氷期のヨーロッパでは、人々は小さな集団で移動しながら生活していました。持ち運べる道具や小さな像は、移動する暮らしの中でも作ることができました。

30,000 BCE

紀元前約2万4500〜1万7000年|最終氷期最盛期 — 巨大な氷床と低い海面

紀元前約2万4500〜1万7000年(約2万6500〜1万9000年前)は、最終氷期のなかで大陸を覆う氷床がとくに大きく発達した「最終氷期最盛期」にあたります。北アメリカ北部や北ヨーロッパでは広い陸地が厚い氷に覆われ、世界の気温は現在より低い状態にありました。大量の水が陸上の氷として蓄えられたことで、世界の平均海面は現在より約120メートル低かったと推定されています。現在の浅い海の一部は陸地となり、シベリアとアラスカの間にはベーリンジアが広がり、東南アジアでも現在は海に隔てられた地域の一部が陸続きになっていました。

人類はこの時期にも世界各地で狩猟や採集を続け、環境に合わせて生活していました。ヨーロッパでは氷床の拡大や植生の変化に伴って居住に適した地域が変わり、現在のフランス南部やイベリア半島などが重要な生活域となりました。人口や人々の移動範囲がどのように変化したかは、遺跡の分布や気候復元を通じて研究されています。最盛期の終わり頃から北半球の氷床は後退に向かい、海面の上昇とともに世界各地の海岸線も長い時間をかけて変化していきました。(参照:USGS|最終氷期最盛期の年代と氷床・Quaternary Science Reviews|最終氷期最盛期の氷床と海面・PNAS|最終氷期最盛期のヨーロッパの人口動態)

24,500 BCE

—

17,000 BCE

最終氷期末|人々は南北アメリカへどのように広がったのか

最終氷期には海面が現在より低く、アジア北東部と北アメリカ北西部の間には「ベーリンジア」と呼ばれる陸地が広がっていました。人々はこの地域や太平洋沿岸などを経由し、長い時間をかけてアメリカ大陸へ移動したと考えられています。いつ、どの経路を通ったのかは現在も研究が進んでいます。遅くとも最終氷期末には南北アメリカに人々が暮らし、その後、それぞれの環境に根ざした社会を築きました。後に発展するメソアメリカやアンデスの諸文明にも、非常に長い人々の歴史があります。(参照:スミソニアン研究成果|最終氷期の人類移動)

14,000 BCE

紀元前約1万900〜9700年|ヤンガードリアス期 — 温暖化の途中に起きた寒冷化

ヤンガードリアス期の世界各地で、人類が居住・活動していた可能性のある地域を示す模式的な世界地図

最終氷期が終わりに向かい、温暖化が進んでいた紀元前約1万900年頃、北大西洋周辺では気候が急激に寒冷化しました。約1,200年間続いたこの時期を「ヤンガードリアス期」と呼びます。グリーンランドの氷床から採取された氷の記録などには、この寒冷化と、その終わりに起きた急速な温暖化の痕跡が残っています。原因については、氷床が解けた水の流入によって北大西洋の海洋循環が弱まり、北へ運ばれる熱が減ったことなどが研究されています。

西アジアのレヴァント地方でも、気候や植生の変化は狩猟採集民の暮らしに影響しました。人々は野生の植物や動物を食料として利用し、環境の変化に応じて集落や移動の仕方を変えながら生活していました。約1万1,700年前(紀元前約9700年)に寒冷期が終わり、現在まで続く完新世が始まります。その後、定住や植物の栽培が発展し、農耕社会への移行が長い時間をかけて進んでいきました。(参照:Nature Geoscience|ヤンガードリアス期の寒冷化・PNAS|気候変動と西アジアの狩猟採集民・USGS|ヤンガードリアス期の年代)

10,900 BCE

西アジアなど|定住と農耕の広がり

気候が暖かくなり、一部の地域では定住や農耕が広がります。人が一か所に集まって暮らすことで、共同体や儀礼の場も大きく変わっていきました。

紀元前約9700年|完新世の始まり — 氷期の終わりと環境の変化

紀元前約9700年(約1万1700年前)、ヤンガードリアス期の寒冷化が終わり、地質学で「完新世」と呼ばれる時代が始まりました。グリーンランドの氷床から取り出された氷の記録には、北大西洋周辺の急速な温暖化を示す変化が残っています。この変化は、完新世の始まりを定める国際的な基準となっています。完新世は現在まで続いている地質時代です。

気候が温暖になるにつれて北半球の大きな氷床は後退を続け、海面が上昇し、世界各地の海岸線や森林、草原の分布が長い時間をかけて変わっていきました。変化の現れ方は地域ごとに異なり、人々は狩猟採集や漁労を続けながら、それぞれの環境に適応して暮らしていました。西アジアでは、完新世以前から始まっていた定住や野生植物の利用が発展し、栽培や農耕を中心とする社会へと徐々に移行していきます。こうした生活の変化は、世界の地域ごとに異なる時期と経路をたどりました。(参照:国際層序委員会|完新世の始まり・Quaternary Science Reviews|完新世初期の海面上昇・Quaternary Science Reviews|西アジアの初期農耕と環境)

9,700 BCE

紀元前9600年頃|農耕以前の人々が築いた巨大な祭祀施設

現在のトルコ南東部にあるギョベクリ・テペでは、紀元前9600〜8200年頃、狩猟採集を営む人々が大型の石柱を用いた建造物を築きました。T字形の石柱には動物などの姿が刻まれ、集団的な儀礼や人々の結びつきに関わる場所だったと考えられています。食料を自ら栽培する生活へ移行する時期に、すでに大きな労力を集めて共同の施設を造る社会があったことを示す遺跡です。農耕、定住、宗教的な活動は、長い時間の中で相互に関わりながら変化していきました。(参照:ユネスコ世界遺産センター|ギョベクリ・テペ)

9,500 BCE

農耕は一か所から広がったのか?|世界各地の食料生産

農耕は一か所から広がったのか?|世界各地の食料生産の地理的な位置を示した独自制作の概略地図
主な地域を示した概略図。位置は概略で、各文化の成立年代や存続期間は異なります。

西アジアでは小麦や大麦、ヒツジやヤギなどの栽培・家畜化が進み、中国では黄河流域のアワ・キビ、長江流域のイネを中心とする農耕文化が発展しました。アメリカ大陸でもトウモロコシやカボチャなどの栽培が独自に進み、アフリカやニューギニアでも地域の植物を利用する食料生産が育まれました。これらの変化が起きた年代は地域ごとに異なり、狩猟採集と農耕を組み合わせる暮らしも長く続きました。食料を育て、保存し、分配する方法が変わったことは、人口や集落、仕事の分担にも影響しました。(参照:スミソニアン研究成果|新大陸の栽培・家畜化の起源・メトロポリタン美術館|中国の新石器時代・スミソニアン研究所|世界の植物栽培の起源)

6,000 BCE

紀元前5000年頃|中国の黄河・長江流域に育つ農耕文化

中国では黄河と長江という二つの大きな河川流域を中心に、多様な新石器文化が発展しました。黄河流域では雑穀の栽培が、長江流域では稲作が重要な役割を果たします。仰韶文化の彩文土器や長江下流域の集落遺跡からは、暮らしの道具、儀礼、地域による文化の違いを読み取れます。現在の中国につながる地域には、統一国家が成立するずっと前から複数の社会が存在し、互いに交流しながら発展していました。後の王朝の歴史を理解するためにも、こうした長い地域文化の積み重ねを知ることが大切です。(参照:メトロポリタン美術館|中国の新石器時代)

5,000 BCE

メソポタミア・エジプト|都市・文字・王権

メソポタミアやエジプトで都市と文字が発達し、王や神殿を中心とする大きな社会が生まれました。造形は宗教だけでなく、権力を目に見える形で示す役割も持つようになります。

紀元前3300年頃|文字の誕生 — 都市の記録から生まれた文字

紀元前3300年頃、メソポタミア南部の都市ウルクでは、穀物の数量や物資の配分を記録するため、粘土板に数字や品物を表す記号が刻まれるようになりました。初期の絵文字は次第に形を変え、楔形文字へと発展していきます。同じ頃、エジプトでも王墓に納める品物に付けた札などに、初期のヒエログリフが現れました。都市と国家の発展に伴って広まった記録の技術は、やがて宗教、政治、法律、文学など、さまざまな言葉を後世に伝える手段となっていきます。(参照:メトロポリタン美術館|文字の起源・メトロポリタン美術館|古代エジプト・先王朝時代)

紀元前3300〜3000年頃|なぜ文字が必要になったのか

メソポタミア南部のウルクでは人口が集中し、神殿や大規模な建物を中心に物資が管理されるようになりました。穀物の分配や仕事に関わる数量を記録するため、粘土板に数字や絵のような記号が刻まれます。こうした初期の記録は、のちの楔形文字へと発展しました。初期の文字は、複雑になった社会を運営するための実務上の必要と深く結びついていました。記録が残されるようになると、後の人々が当時の経済や権力のあり方を知る手がかりも増えていきます。(参照:メトロポリタン美術館|文字の起源)

3,300 BCE

紀元前4〜2千年紀|古代文明は世界のどこで生まれたのか

紀元前4〜2千年紀|古代文明は世界のどこで生まれたのかの地理的な位置を示した独自制作の概略地図
主な地域を示した概略図。位置は概略で、各文化の成立年代や存続期間は異なります。

メソポタミアではウルクなどの都市が発展し、ナイル川流域ではエジプトの王国が形づくられました。その後、インダス川流域にも計画的な都市が現れ、黄河流域では青銅器や王権を持つ社会が発展します。アメリカ大陸でも、時代を経てメソアメリカやアンデスに独自の複雑な社会が生まれました。これらを同じ地図で見ると、古代の都市や国家が地球上の離れた場所で、それぞれ異なる歩みをたどったことが分かります。「四大文明」という言葉は代表的な地域を覚える入り口として便利ですが、実際の古代世界には多様な社会が存在しました。(参照:メトロポリタン美術館|最初の都市の美術・ユネスコ|インダス文明の都市遺跡・メトロポリタン美術館|オルメカ文化)

3,200 BCE

紀元前3100年頃|ナイル川流域に古代エジプト王国が成立

ナイル川は毎年の氾濫によって肥沃な土地を生み、川沿いに集落や地域ごとの支配者が現れました。紀元前4千年紀の終わりから3千年紀の初めにかけて、上エジプトと下エジプトの政治的統合が進み、初期王朝時代が始まります。王はファラオと呼ばれ、行政や宗教、灌漑、資源の動員を通じて広い地域を支配しました。エジプトの国家形成は、交易、文化の共通化、地域間の争いなどが重なった長い過程として理解されています。(参照:メトロポリタン美術館|古代エジプト史の概説)

3,100 BCE

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3,000 BCE

紀元前26世紀頃|ピラミッドは何のために造られたのか

エジプト古王国時代には王の墓と宗教施設を組み合わせた巨大なピラミッド複合体が建設されました。ギザのクフ王の大ピラミッドは、紀元前26世紀頃の王権を象徴する建造物です。建設には石材の採掘と運搬、食料の供給、熟練した職人や労働者の組織化が必要でした。ピラミッドは王の死後の再生に関わる宗教的な施設であるとともに、国家が人や資源を集めて大規模な事業を進める力を示しています。巨大な建築を見ることで、当時の社会がどのように運営されていたかを考えることができます。(参照:メトロポリタン美術館|エジプト古王国)

2,600 BCE

紀元前2600〜1900年頃|インダス文明の整然とした都市

現在のパキスタンやインド北西部に広がったインダス文明では、モヘンジョダロやハラッパなどの都市が発展しました。街路が整えられ、排水設備や焼成レンガを用いた建物が造られ、都市の計画と維持に多くの人が関わっていたことが分かります。印章に刻まれた文字のような記号は、現在も十分には解読されていません。都市の政治制度や支配者の姿には不明な点が多く、エジプトやメソポタミアと異なる都市社会の姿を考えるうえで重要です。(参照:ユネスコ世界遺産センター|モヘンジョダロ)

モヘンジョダロの遺跡(UNESCO/NHK)

2,500 BCE

紀元前24世紀頃|都市国家から帝国へ — アッカド王朝

メソポタミア南部には、ウルやウルクなど、それぞれに王や守護神を持つ都市国家が並び立っていました。紀元前24世紀頃、サルゴンは各地の都市を征服し、アッカド王朝のもとで広い地域を統合しました。後継者たちも遠征を重ね、メソポタミアの外まで影響力を広げます。都市の富や軍事力を支配者がまとめ、異なる地域を一つの政治権力のもとに置く「帝国」という仕組みが、この時代に大きく発展しました。遠くの土地を支配するには、兵力だけでなく、交易、物資の調達、地方の統治も必要になります。(参照:メトロポリタン美術館|アッカド時代)

2,300 BCE

紀元前1750年頃|ハンムラビ法典は何を伝えているのか

古代バビロニア王国のハンムラビ王は、家族、財産、商取引、労働などに関する多くの裁定を石碑に刻ませました。現在「ハンムラビ法典」と呼ばれるこの史料には、約280の法的判断が記されています。石碑の上部には、王が太陽神シャマシュの前に立つ姿も彫られました。王が正義を守る存在であることを示す政治的な意味を持つ記念碑でもあります。そこに記された処罰や賠償の内容は身分などによって異なり、古代の社会にあった秩序や格差を考えるための重要な資料です。(参照:ルーヴル美術館|ハンムラビ法典)

1,750 BCE

紀元前1600年頃|中国の殷(商)と青銅器の王権

中国の黄河流域では、紀元前2千年紀に青銅器を用いる政治社会が発展し、殷(商)王朝が広い地域に影響力を持ちました。王や有力者は祭祀のための青銅器を造らせ、祖先への儀礼を通じて政治的な権威を示しました。殷の後期には亀の甲羅や動物の骨に占いの結果を刻んだ甲骨文字が現れ、王の関心や当時の出来事を伝えています。中国の文字と王朝史をたどるうえで、殷は考古資料と文字資料の双方から具体的に知ることのできる重要な時代です。(参照:メトロポリタン美術館|中国・紀元前2000〜1000年)

1,600 BCE

紀元前1200年頃|東地中海の王国が揺らいだ理由

紀元前13〜12世紀頃、東地中海ではヒッタイト帝国が崩壊し、ミケーネ世界の宮殿も相次いで破壊・放棄されました。エジプトなどの史料には各地から移動してきた集団との衝突が記され、地中海の交易網も変化します。原因については戦争や人々の移動、政治的対立、自然環境の変動など複数の要因が研究されています。こうした変化を経て、東地中海では地域ごとに新たな政治社会が育ち、鉄器の利用や文字の普及も徐々に進みました。歴史の転換には、こうした複数の変化が長い時間をかけて作用することがあります。(参照:メトロポリタン美術館|東地中海・紀元前2000〜1000年)

紀元前1200〜400年頃|アメリカ大陸のオルメカ文化

現在のメキシコ湾岸地域では、紀元前1200年頃からオルメカ文化が発展しました。サン・ロレンソなどの中心地では、大きな玄武岩を用いた人頭像や精巧な石製品が造られ、その意匠は離れた地域にも広がりました。石材などの原料を遠くから運び、専門的な技術を持つ人々が制作を担ったことは、地域間の交流と社会の組織力を示しています。メソアメリカには、ヨーロッパや西アジアの国家とは別の歴史を歩む複雑な社会が存在しました。後のマヤなどへつながる文化を理解するうえでも重要な時代です。(参照:メトロポリタン美術館|オルメカ美術)

古代イスラエル|ユダヤ教につながる信仰の形成

古代イスラエルの人々は、周辺の地域と交流しながら、ヤハウェへの信仰を育んでいきました。唯一神を中心とするユダヤ教の伝統や聖典は、長い年月をかけて形成されます。この歴史と聖典は、後に成立するキリスト教の重要な基盤にもなりました。

紀元前1千年紀|アンデスの神殿とチャビン文化

南アメリカのアンデス地域では、紀元前1千年紀に神殿や儀礼の中心地を持つ社会が発展しました。現在のペルーにあるチャビン・デ・ワンタルは、その代表的な遺跡の一つです。ジャガーや猛禽類、ヘビなどを組み合わせた図像が、石彫や土器などに表され、遠く離れた地域にも共通する表現が見られます。山地と海岸を結ぶ人や物の移動が、儀礼や文化の広がりに関わっていたと考えられています。アンデスの歴史は、インカ帝国が成立するはるか以前から続いていました。(参照:メトロポリタン美術館|アンデス・紀元前1000年〜紀元1年)

1,000 BCE

紀元前1千年紀前半|フェニキア人の海上交易とアルファベット

東地中海沿岸のティルスやシドンなどの都市では、海上交易が重要な産業になりました。今日フェニキア人と呼ばれる人々は、地中海の島々や沿岸に交易拠点を広げ、金属、染料、工芸品などを運びました。彼らが用いた文字は、少数の記号で言葉の音を表すアルファベット系の文字でした。ギリシア人はその文字を取り入れて改変し、さらに別の地域へと伝わっていきます。交易路を通じて広がったのは商品だけでなく、技術や文字、宗教的な考え方でもありました。(参照:メトロポリタン美術館|フェニキア人と地中海交易)

900 BCE

古代ギリシア|都市国家と人間の身体

古代ギリシャ入門 | ナショナルジオグラフィック(National Geographic)

地中海世界では都市国家が発達し、市民が政治や社会をつくる文化が広がりました。神々も人間に近い姿で考えられ、人間の身体そのものへの関心が高まります。

紀元前8〜7世紀|アフリカのクシュ王国がエジプトを統治

ナイル川上流のヌビア地方、現在のスーダンにあたる地域では、クシュ王国が発展しました。紀元前8世紀後半にはクシュの王ピイ(ピアンキ)がエジプトへ進出し、後継者たちがエジプト第25王朝として支配します。クシュの王たちはファラオとしてエジプトの伝統を継承しながら、自分たちの出身地域の文化も表現しました。エジプトの歴史を知るには、その南側で長く発展したヌビアの社会と、両地域を結ぶ交易や政治的な関係も欠かせません。(参照:メトロポリタン美術館|エジプト第3中間期とクシュ)

750 BCE

紀元前9〜7世紀|アッシリア帝国の拡大と広域支配

メソポタミア北部を中心としたアッシリアは、紀元前9世紀以降、軍事力と行政組織を用いて周辺地域へ勢力を広げました。征服した土地から貢納を集め、住民を別の地域へ移住させる政策も行いました。王宮には遠征や貢納の場面を描いた浮彫が制作され、支配者の力を示しています。帝国の領域では異なる言語や宗教を持つ人々が暮らし、道路や交易路を通じて物資と情報が行き来しました。アッシリアの歴史は、大きな帝国が人々をどのように支配し、結びつけたのかを考える手がかりになります。(参照:メトロポリタン美術館|アッシリアからイベリアへ)

700 BCE

紀元前586年頃|ユダ王国の滅亡とユダヤ人のバビロン捕囚

ユダ王国とバビロニアを示す古代近東地図
紀元前586年頃の古代近東。ユダ王国、エルサレム、バビロニアの位置関係。

新バビロニア王国がエルサレムを攻略し、第一神殿を破壊しました。ユダ王国の住民の一部はバビロニアへ強制移住させられます。紀元前538年頃以降、ペルシアの支配下で帰還が認められ、帰還した人々はエルサレムの神殿を再建しました。紀元前516〜515年頃に完成したこの神殿が、後に「第二神殿」と呼ばれます。帰還した人々とともに、バビロニアに住み続ける人々もいました。こうして故郷の外にもユダヤ人共同体が存続し、その後のディアスポラの歴史につながっていきます。(参照:Cambridge)

580 BCE

紀元前6世紀|ペルシア帝国は広い地域をどう統治したのか

紀元前550年頃、キュロス2世のもとでアケメネス朝ペルシアの勢力が拡大しました。メソポタミアやエジプト、小アジアなどを取り込み、中央アジアからインド北西部にも影響を及ぼします。ダレイオス1世の時代には地方総督による統治や道路網の整備が進み、広大な領域から税や物資を集める体制が築かれました。宮殿の浮彫にはさまざまな地域の人々が描かれています。異なる文化や言語を持つ土地を一つの政治的秩序に組み込む仕組みは、後の大帝国を考えるうえでも重要です。(参照:メトロポリタン美術館|アケメネス朝ペルシア帝国)

紀元前6〜5世紀|孔子と中国の思想の形成

中国の周王朝の権威が弱まり、諸国が争う時代には、政治や人間関係をどう整えるかについて多くの思想が生まれました。紀元前551〜479年頃に生きた孔子は、仁や礼、学ぶことの大切さを説き、人が徳を身につけることを重視しました。弟子たちへ受け継がれた教えは、後の儒家思想の基盤となります。諸国の競争の中から生まれた思想は、やがて中国の国家制度や教育、東アジア各地の文化にも長く影響しました。戦争や王朝の交代とともに、社会の秩序を考える思想の歴史も見ていきたい時代です。(参照:メトロポリタン美術館|古代中国の思想と文化)

紀元前508〜507年頃|アテネの民主政はどのように始まったのか

古代ギリシアの都市国家アテネでは、クレイステネスの改革によって、市民が政治に参加する仕組みが整えられました。民会での議論や投票、評議会を通じて、政治に関わる人々の範囲が拡大します。民主政を担う市民は主に成人男性で、女性や奴隷、外国出身の居住者は政治的な権利から除かれていました。それでも、特定の王だけに権力を集中させず、市民が公共の問題を議論するという制度は、古代世界の政治史に大きな特徴をもたらします。民主政の成立と限界の両方を知ることが重要です。(参照:メトロポリタン美術館|古代ギリシア美術・教育資料)

紀元前5世紀頃|インドで仏教とジャイナ教が生まれる

古代インドでは祭祀を担うバラモンの伝統と並行して、輪廻や苦しみ、人がどう生きるべきかをめぐる思索が発展しました。紀元前5世紀頃には、ゴータマ・ブッダの教えから仏教が生まれ、マハーヴィーラに結びつくジャイナ教も広がります。仏教では苦しみの原因を考え、修行や倫理的な生活を通じて解脱を目指しました。こうした教えは、修行者の活動や人々の交流を通じて受け継がれ、後には王権の支援も得て広い地域に伝わっていきます。(参照:メトロポリタン美術館|南アジア・紀元前1000年〜紀元1年)

500 BCE

紀元前334〜323年|アレクサンドロス大王の遠征とヘレニズム

マケドニアの王アレクサンドロス3世は、紀元前334年にアジアへ遠征を始め、アケメネス朝ペルシアを征服しました。軍はエジプトから中央アジア、インダス川流域まで進み、広い地域を結びつけます。323年に王が亡くなると領土は後継者たちの王国へ分かれましたが、ギリシア語や都市文化、美術の表現が各地へ伝わり、地域ごとの文化との交流が進みました。この時代をヘレニズム時代と呼びます。征服と支配の歴史を追うことに加え、遠く離れた社会が接触することで文化が変化していく過程にも注目したい時代です。(参照:メトロポリタン美術館|アレクサンドロス大王の遠征)

330 BCE

紀元前4〜3世紀|マウリヤ朝がインドの広い地域を統合

紀元前4〜3世紀|マウリヤ朝がインドの広い地域を統合の地理的な位置を示した独自制作の概略地図
主な地域を示した概略図。位置は概略で、各文化の成立年代や存続期間は異なります。

インド北東部のマガダ地方を基盤として、紀元前4世紀末にチャンドラグプタがマウリヤ朝を築きました。王朝はガンジス川流域からインド亜大陸の広い地域へ勢力を伸ばし、首都パータリプトラを中心に統治を進めます。各地には多様な言語、信仰、生活を持つ人々が暮らし、交易や道路が地域を結んでいました。インドの歴史にも、王国と都市の競争から広い領域を統合する帝国へ進む過程がありました。次の時代に現れるアショーカ王の宗教政策や碑文を理解するための背景になります。(参照:メトロポリタン美術館|マウリヤ朝)

紀元前4–1世紀|ユダヤ人共同体が地中海各地へ広がる

紀元前4〜1世紀のユダヤ地方と地中海各地のユダヤ人共同体を示す地図。赤い範囲がユダヤ地方、赤い点が主な共同体の位置
紀元前4〜1世紀のユダヤ地方と各地のユダヤ人共同体(概略図)。赤い範囲はユダヤ地方、赤い点は各地の主な共同体の位置を示す。

「ユダヤ地方」は、地中海東岸のエルサレムを中心とする地域です。ユダヤ人の暮らしは古くからその外にも広がっていました。紀元前6世紀のバビロン捕囚を経て、故郷に戻らずバビロニアに住み続けた人々がいました。さらにアレクサンドロス大王以後のヘレニズム時代には、エジプトのアレクサンドリア、シリア、小アジア、ギリシアなどにもユダヤ人共同体が広がりました。共同体が広がった背景には、戦争による強制移住のほか、軍務、交易、仕事や生活のための移住もありました。このように、ユダヤ地方の外で暮らすユダヤ人やその共同体の広がりを「ディアスポラ」と呼びます。地図ではユダヤ地方を赤い範囲で、各地の主な共同体を赤い点で示しています。(参照:Cambridge)

300 BCE

紀元前3世紀|アショーカ王と仏教の広がり

マウリヤ朝のアショーカ王は、紀元前3世紀にインド亜大陸の広い範囲を統治しました。カリンガ地方への遠征を経て、王は殺戮への反省を表し、道徳的な統治を重視する考えを石碑や石柱に刻ませました。仏教を支援した王としても知られ、教えを広める活動や宗教施設の建設が進みます。王の言葉が各地に文字で残されたことは、国家が人々へ何を伝えようとしたのかを知る貴重な手がかりです。仏教の歴史では、教えそのものと、それを広く伝える政治的な条件の両方が重要になります。(参照:メトロポリタン美術館|マウリヤ朝とアショーカ王)

260 BCE

紀元前221年|秦の統一と中国の国家制度の基盤

長く続いた戦国時代の末、秦王政は紀元前221年に各国を征服して統一を達成し、始皇帝を名乗りました。統治する地域を郡県に分けて官僚を置き、文字、貨幣、度量衡などの標準化を進めます。道路や防御施設の整備も行われました。秦王朝は短期間で崩壊しましたが、その後の漢王朝は広域国家の統治制度を引き継ぎ、発展させました。ここで成立した中央集権的な政治の仕組みは、後の中国王朝の歴史を理解するための大切な出発点です。(参照:メトロポリタン美術館|秦・漢帝国の美術)

220 BCE

—

紀元前2世紀|漢王朝とユーラシアの交易路

紀元前206年に始まった漢王朝は中国の広い地域を統治し、紀元前2世紀には中央アジアとの外交や交易を活発にしました。使節や商人が移動する陸上の道筋を通じて、絹や馬などの品物、技術や情報が地域を越えて行き来します。後世「シルクロード」と呼ばれるこれらの道は、一本の道路ではなく、都市と草原、砂漠のオアシスなどを結ぶ複数の交易網でした。地中海世界と中国の間に直接往来した人ばかりがいたわけではなく、多くの仲介者が関わる交流として発展しました。(参照:メトロポリタン美術館|秦・漢時代の交易と文化)

130 BCE

紀元前1世紀|ローマ共和政はなぜ帝政へ変わったのか

ローマは都市国家から共和政を経て、地中海の広い地域を支配する強国となりました。海外領土と富が増えるにつれ、有力者の政治的な競争や軍隊をめぐる対立が激しくなります。紀元前1世紀には内戦が続き、ユリウス・カエサルの台頭と暗殺、その後の権力争いへと発展しました。最終的にオクタウィアヌスが勝利し、紀元前27年にアウグストゥスの称号を受けて元首政が始まります。共和政の伝統を残しながら皇帝を中心とする政治が形成された経緯を知ると、ローマ帝国がどのように生まれたかを理解できます。(参照:メトロポリタン美術館|古代イタリア・紀元前1000年〜紀元1年)

100 BCE

紀元前63年|ローマがエルサレムを攻略し、ユダヤ地方へ進出

当時のユダヤ地方では、支配していたハスモン朝の内部で王位をめぐる争いが起きていました。紀元前63年、ローマの将軍ポンペイウスがこの争いに介入し、エルサレムを攻略します。以後、この地域は独立性を大きく失い、ローマの強い影響下で現地の指導者が統治するようになりました。当時は現地の指導者による統治が続き、後の属州化へ向かう段階でした。この遠征で捕虜としてローマに連行され、後に解放されて定住したユダヤ人もおり、ローマ市内の共同体がさらに広がりました。

60 BCE

紀元前37〜4年|ヘロデ大王の統治と第二神殿の拡張

ローマの後ろ盾を得たヘロデ大王は、紀元前37年にエルサレムを掌握し、ユダヤ地方を王として治めました。紀元前20年頃からは、以前に再建されていたエルサレムの第二神殿を大規模に改築・拡張します。神殿は当時のユダヤ教の信仰と祭儀の中心でした。また、地中海沿岸には港湾都市カイサリアを建設し、ローマ世界との結びつきを強めます。紀元前4年にヘロデが亡くなると、領土は息子たちに分けられ、ユダヤ・サマリア・イドマヤはアルケラオスが引き継ぎました。(参照:The Met)

30 BCE

ローマ帝国|都市・公共建築・皇帝権力

紀元前後のローマ帝国の支配地域を示した地図

ローマは広大な地域を一つの帝国として支配しました。道路や都市、公共建築が各地につくられ、皇帝の権力やローマの秩序を視覚的に示す必要が高まりました。

20 BCE

6年|ユダヤ属州がローマの直接統治下に入る

紀元6年のユダヤ属州(ローマの直接統治)を示した地図
紀元6年のユダヤ属州。ユダヤ・サマリア・イドマヤがローマの直接統治下に入る。

「ユダヤ属州」とは、地中海東岸のユダヤ・サマリア・イドマヤを合わせたローマの行政区画で、エルサレムを含みます。現在のイスラエルとパレスチナ自治区のヨルダン川西岸地区の一部に重なる地域です。ヘロデ大王の死後、この三地域は息子アルケラオスが治めていましたが、紀元6年に解任されると、ローマの行政官が直接統治する「属州」となりました。地図の北側にあるガリラヤ地方では、別の息子ヘロデ・アンティパスによる統治が続きました。ローマの勢力下には、行政官が直接治める属州と、現地の支配者を通じて統治する地域が並んで存在していました。(参照:World History Encyclopedia)

1s

1世紀|イエスはユダヤ人だった — キリスト教の誕生

キリスト教の起源にはユダヤ教の信仰と文化があります。イエス自身もユダヤ人であり、ユダヤ教の伝統の中で育ちました。育った場所は地図の北側、ガリラヤ地方のナザレです。紀元20年代後半頃からガリラヤを中心に教えを説き、やがて南のユダヤ属州にあるエルサレムへ赴き、紀元30年頃にローマ当局によって十字架刑に処されました。その死後、弟子たちはイエスを救世主(キリスト)と信じ、復活したと伝えて、ユダヤ人以外の人々にも教えを広めていきました。この動きからキリスト教が発展し、イエスの生涯や受難、復活は西洋美術の主要な主題となります。

66年|第一次ユダヤ戦争 — ローマ支配への反乱

紀元6年にユダヤ地方がローマの属州となって以降、徴税やローマの行政官による統治、宗教的な慣習の扱いなどをめぐり、不満が蓄積していました。66年、港湾都市カイサリアでの住民間の衝突や、ローマ総督による強引な対応などをきっかけに、エルサレムを中心として大規模な反乱が広がります。これが「第一次ユダヤ戦争」の始まりです。ユダヤ人社会では、反乱に加わる人々と、戦争を避けようとする人々とで対応が分かれました。67年からローマの将軍ウェスパシアヌスがガリラヤ地方などで反乱軍を制圧しますが、68年に皇帝ネロが死去すると、ローマ国内の政変によって軍事作戦は一時停滞します。69年にウェスパシアヌスが皇帝となり、その後、息子ティトゥスがエルサレムへの攻撃を指揮することになります。(参照:Posen Library)

70年|ローマ軍がエルサレムを攻略し、第二神殿(ヘロデ神殿)を破壊

イスラエル博物館にあるヘロデ神殿(第二神殿)の復元模型
イスラエル博物館にあるヘロデ神殿の模型

70年、ティトゥス率いるローマ軍は数か月に及ぶ包囲戦の末にエルサレムを攻略し、第二神殿を破壊しました。この神殿はバビロン捕囚後に再建されたもので、紀元前1世紀にヘロデ大王が大規模に改築・拡張したため、「ヘロデ神殿」とも呼ばれます。当時のユダヤ人にとって、神殿は神の臨在と結びつく最も神聖な場所であり、祭司が犠牲をささげる祭儀の中心でした。過越祭などの重要な祭りには各地から巡礼者が集まり、ユダヤ地方の外に暮らす人々にとっても、信仰と共同体を結ぶ象徴でした。神殿の破壊は、そのような宗教生活の中心を失い、そこでの祭儀を続けられなくなる重大な出来事だったのです。

戦闘や包囲によって多くの人が命を落とし、生き残った人々の一部は捕虜となり、奴隷として連行されました。故郷に残った人々もおり、ユダヤ地方やガリラヤではその後も生活が続きました。また、エジプトや小アジア、ローマなどには戦争以前からユダヤ人共同体が存在していました。祈りや聖典の学び、会堂(シナゴーグ)は神殿破壊以前から存在しており、その後、神殿を持たない信仰生活の中でいっそう重要な役割を担うようになります。ローマではこの戦争の勝利を記念してティトゥスの凱旋門が建てられ、神殿から運ばれた七枝の燭台(メノラー)が浮彫に表されました。(参照:The Met)

73〜74年頃|第一次ユダヤ戦争の終結 — マサダ要塞の陥落

70年にエルサレムと第二神殿を失った後、反乱勢力はユダヤ地方の要塞などで抵抗を続けました。ローマ軍は残る拠点を次々と制圧します。最後まで抵抗を続けた拠点の一つが、死海西岸の高台に築かれたマサダ要塞です。かつてヘロデ大王が整備したこの要塞には、反乱勢力の一派であるシカリ派が立てこもっていました。ローマ軍は要塞を包囲し、周囲に陣地や包囲壁を設け、攻撃のための大きな土塁を築きました。73〜74年頃にマサダが陥落し、第一次ユダヤ戦争は終結したとされています。戦争の主要な経緯は当時の歴史家ヨセフスの記録によって知られていますが、マサダ陥落の正確な年や細部には研究上の議論もあります。(参照:Posen Library)

70s

1–3世紀|広大なローマ帝国は多宗教社会だった

ローマ帝国は征服によって、ギリシア、エジプト、シリア、小アジア、北アフリカなど、それぞれ異なる神々や宗教を持つ地域を支配しました。ローマは多くの場合、各地の信仰をすぐに禁止せず、ローマの国家祭祀や皇帝崇拝と共存させます。さらに兵士、商人、奴隷、役人が帝国内を移動したことで、宗教も地域を越えて広がりました。キリスト教も、こうした多宗教社会の中で少しずつ広がった宗教の一つでした。(参照:Cambridge)

100s

132–135年|ユダヤ人の反乱をローマ軍が鎮圧

132年にユダヤ地方でバル・コクバ反乱が始まり、135年頃にローマ軍によって鎮圧されました。その後、ユダヤ人のエルサレムへの立ち入りは大きく制限され、ユダヤ地方を中心とした社会はさらに弱まります。すでに各地に存在していたディアスポラ共同体は、ユダヤ社会の中で一層重要になっていきました。(参照:Cambridge)

130s

—

3世紀頃|偶像崇拝を禁じながら、キリスト教徒はなぜ絵を描いたのか

キリスト教はユダヤ教から生まれ、唯一の神を信じ、神以外のものを神として拝んではならないという教えを受け継ぎました。旧約聖書には、偶像を造ってそれを拝むことを禁じる戒めがあります。では、なぜ教会にはキリストや聖母マリア、聖人の絵画や彫刻があるのでしょうか。宗教的な画像を描くことと、画像そのものを神として礼拝することは同じなのか。この問いは、キリスト教の歴史を通じて繰り返し議論されてきました。

実際には、3世紀頃のローマの地下墓所(カタコンベ)に聖書の物語を描いた壁画が残り、現在のシリアにあったドゥラ・エウロポスのキリスト教集会所にも、洗礼のための部屋にキリストや救済に関する場面が描かれていました。こうした壁画は、初期キリスト教徒が宗教的な物語をすでに画像で表していたことを示しています。描かれた人物への敬意と偶像崇拝の境界は、その後も長く議論されました。(参照:Yale University Art Gallery)

240s

3世紀後半|キリスト教が無視できない共同体へ

キリスト教は1世紀からローマ帝国内の都市を中心に広がり、3世紀後半には各地に教会と司教のネットワークを持つ大きな共同体へ成長しました。帝国全体では少数派にとどまりながらも、都市のさまざまな社会層に信者が広がっていきます。ローマ社会では神々への祭祀が都市や国家の安全を守る公共的な行為と考えられていたため、唯一神を信じ、他の神々や皇帝への犠牲を拒むキリスト教徒との摩擦も強まりました。(参照:Cambridge)

250s

303–311年|キリスト教への大迫害と寛容政策への転換

ディオクレティアヌス帝らは教会の破壊、聖書の没収、伝統的な神々への犠牲の強制など、大規模なキリスト教迫害を行いました。キリスト教共同体は各地で存続し、311年には迫害を進めていたガレリウス帝が方針を転換します。キリスト教徒が集まって礼拝することを認める寛容令が出され、帝国の宗教政策は弾圧から共存へと動き始めました。(参照:Fordham)

300s

313年|キリスト教を公認、皇帝が支援する宗教へ

312年に政敵との戦いに勝利したコンスタンティヌス帝は、翌313年、キリスト教を含む宗教の礼拝を認め、没収されていた教会財産を返還しました。この宗教政策の転換により、各地に広がっていたキリスト教共同体は公然と活動できるようになり、皇帝自身も教会を積極的に支援しました。

ローマやエルサレムなどに巨大な教会が建てられ、それまで比較的小規模だったキリスト教美術が、皇帝の資金を使った建築、モザイク、壁画へ発展する条件が生まれました。教会で宗教画像を使用することや、画像を通して聖なる存在を敬うことの正当性については、その後も議論が続きました。(参照:The Met)

310s

380–392年|国家の宗教的中心がキリスト教へ移る

380年、テオドシウス1世はニカイア派キリスト教を帝国の正統な信仰として位置づけました。さらに391–392年には、伝統的な多神教の公的な祭祀への制限が強まります。従来の多神教信仰も各地に残るなか、国家が支援する宗教と美術の中心は次第にキリスト教へ移っていきました。古代ローマで皇帝や神々の権威を表してきた建築形式や図像も、キリスト、聖人、聖書物語を表すために転用・再構成されていきます。(参照:The Met)

380s

395年|東西ローマ帝国の分治とビザンツ帝国

395年頃の西ローマ帝国と東ローマ帝国の支配領域を色分けした地図
395年頃の東西ローマ帝国の支配地域。

ビザンツ帝国(東ローマ帝国)は、古代ローマ帝国の東側を受け継いだ国家です。実は、当時の人々は自分たちを「ローマ人」と認識していました。「ビザンツ帝国」という名前は、後世の歴史家によって広まった呼び名です。

ローマ帝国はブリタンニアから中東、北アフリカまで広がる巨大な国家でした。これほど広い地域を一人の皇帝が統治するのは難しく、3世紀末にはディオクレティアヌス帝が複数の皇帝で統治を分担する仕組みを整えました。293年には2人の正帝と2人の副帝による「四帝共治制」が導入されます。四帝共治制はやがて崩れ、324年にコンスタンティヌス1世が帝国を再統一します。330年にはコンスタンティノープルを新たな帝都としました。

395年、皇帝テオドシウス1世が亡くなると、帝国の東側は息子のアルカディウス、西側はホノリウスが治めることになります。東西を別々の皇帝が統治する体制が定着し、それぞれの地域は次第に異なる歴史を歩みました。476年に西側の皇帝が廃位された後も、東側の帝国は続き、1453年にオスマン帝国がコンスタンティノープルを征服するまで存続しました。(参照:The Met)

ビザンツ帝国の簡単な歴史(Brief History of the Byzantine Empire | 5 MINUTES)

390s

476年|西ローマ帝国の滅亡とゲルマン系諸王国の形成

500年頃の西ヨーロッパ諸王国と東ローマ帝国を示した地図
500年頃の西ヨーロッパ諸王国と東ローマ帝国。フランク王国、西ゴート王国、東ゴート王国、ヴァンダル王国などが並び立っていた。

5世紀の西ローマ帝国では、皇帝の支配力が弱まり、各地でゲルマン系の人々が王国を築き始めていました。476年、軍事指導者オドアケルが西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを退位させ、イタリアの支配権を握ります。これが一般に「西ローマ帝国の滅亡」と呼ばれる出来事です。

地図を見ると、500年頃の西ヨーロッパでは、ガリアでフランク王国が勢力を広げ、ヒスパニアには西ゴート王国、イタリアには東ゴート王国、北アフリカにはヴァンダル王国が成立していたことがわかります。かつて一つの帝国が治めていた西ヨーロッパには、複数の王国が並び立つようになりました。

新たな支配者たちは、ローマ時代の法律や行政制度、都市文化、キリスト教の伝統をさまざまな形で受け継ぎました。ローマ系住民とゲルマン系の人々が共に暮らすなかで社会は徐々に変化し、古代ローマの文化を継承しながら、西ヨーロッパの中世社会が形づくられていったのです。(参照:The Met)

470s

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600s

610〜632年頃|アラビア半島|イスラム教の成立とムハンマド

7世紀初め、アラビア半島のメッカでムハンマドが唯一神アッラーへの信仰を説き始めました。イスラム教の伝承では、610年頃に神から最初の啓示を受けたとされています。その教えは後に聖典『クルアーン(コーラン)』としてまとめられました。622年、ムハンマドと信徒たちはメッカからメディナへ移住します。この出来事は「ヒジュラ(聖遷)」と呼ばれ、イスラム暦の起点となりました。メディナでは礼拝と共同体の活動が結びつき、初期のモスクの原型も生まれます。

632年にムハンマドが亡くなると、後継者であるカリフたちのもとでイスラム勢力はアラビア半島の外へ広がり、シリア、エジプト、ペルシアなどにも進出しました。各地の建築や工芸には、ビザンティン帝国やササン朝ペルシアから受け継いだ技術と意匠が生かされます。聖典を美しく記すアラビア文字の書、モスクの建築、植物文様や幾何学文様などが発展し、長い時間をかけて豊かなイスラム美術が形づくられていきました。(参照:The Met|イスラム教の成立)

691〜692年|エルサレム|岩のドームと初期イスラム美術

エルサレム — 三つの宗教が共有する聖地(National Geographic)

7世紀、イスラム勢力の支配下に入ったエルサレムでは、ウマイヤ朝のカリフ、アブドゥルマリクのもとで691〜692年に「岩のドーム」が完成しました。この建物はモスクとは異なる聖所で、かつてユダヤ教の神殿があったとされる場所に建っています。八角形の建物と大きなドームにはビザンティン建築の影響が見られ、内部のモザイクには植物文様や宝飾品の意匠が広がり、アラビア文字による宗教的な銘文も刻まれています。初期イスラム美術が、周辺地域に蓄積されてきた建築技術や装飾文化を受け継ぎながら独自の表現を発展させたことを伝える重要な建築です。

エルサレムは、ユダヤ教にとって古代神殿の記憶が残る都市であり、キリスト教にとってイエスの受難と復活に関わる聖地でもあります。イスラム教でも、ムハンマドの天への昇りに結びつく場所として重視されてきました。三つの宗教の歴史が重なる都市を見渡すことで、地中海と西アジアの美術や建築が相互に影響し合ってきた背景が見えてきます。(参照:The Met|岩のドーム)

690s

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8〜9世紀|聖像破壊運動 — 神や聖人を描いてよいのか

ビザンティン帝国では、キリストや聖母マリア、聖人を表す宗教画像「聖像(イコン)」を敬うことが、偶像崇拝に当たるのかをめぐって対立が起こりました。聖像を否定する人々は、目に見えない神を物の形で表すことや、画像の前で祈る行為を問題にしました。聖像を擁護する人々は、キリストが人間として世に現れたことを、その姿を描く根拠としました。

754年には聖像を否定する会議が開かれますが、787年の第2ニカイア公会議では、画像そのものを神として礼拝することと、画像を通じて聖なる存在を敬うことを区別して、聖像の崇敬が認められました。その後も画像を否定する政策が再燃しましたが、843年に聖像崇敬が再確立されます。これは絵画の様式だけでなく、宗教画像が存在する意味そのものを問う、長い論争でした。

780s

西ヨーロッパ|修道院と写本文化

西ヨーロッパでは修道院や教会が、宗教だけでなく学問や文字文化を守る場所にもなりました。本を一冊ずつ手で写し、知識や物語を次の世代へ伝えていました。

800s

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1096年|十字軍と中世のユダヤ人共同体

聖地を目指す第1回十字軍の出発時には、ラインラントなどでユダヤ人共同体への襲撃も起こりました。中世のユダヤ人共同体は交易や学問、写本などの文化を育み、キリスト教社会との交流も重ねていました。こうした共存の歴史には、宗教的偏見や迫害が深刻な影を落とす時期もありました。

1090s

1200年頃|教皇は国王より偉かったのか? — 中世の教皇権

中世の西ヨーロッパでは、ローマ教皇はカトリック教会の最高指導者であるとともに、イタリア中部の教皇領を治める政治的な支配者でもありました。司教の任命をめぐって教皇と皇帝が争うなど、教会と君主の権限は長く対立していました。教皇には人を教会の共同体から排除する「破門」や、地域での宗教儀礼を制限する「聖務停止」という手段があり、国王の政治にも強い影響を与えることがありました。

1198年に即位したインノケンティウス3世の時代、教皇権は中世の最盛期を迎えます。教皇は各国の政治的な争いにも介入し、1215年には第4ラテラノ公会議を招集して教会の信仰と規律を整えました。教皇自身も教会や宗教施設の建設・装飾を支援しました。各地の大聖堂や宗教美術の背後には、信仰に加え、教皇、司教、修道院、君主、都市の有力者らが関わる権力と資金の仕組みがありました。(参照:Treccani|教皇インノケンティウス3世と美術支援・Encyclopedia.com|インノケンティウス3世の教皇権)

13世紀後半以降|メメント・モリ — 「死を忘れるな」という教え

メメント・モリは、ラテン語で「死を忘れるな」という意味です。人はいずれ死ぬのだから、富や美しさ、権力が永遠に続くと思わず、自分の生き方を見つめ直すよう促す言葉です。死を意識する考え方は古代から存在し、中世キリスト教では、死後の審判、天国や地獄、罪の悔い改め、魂の救済とも結びつきました。

西ヨーロッパでは13世紀後半頃から、そうした考えを視覚的に伝える図像が見られるようになります。たとえば、生きた人々が朽ちた死者と出会う「三人の生者と三人の死者」という主題は、身分や富に関係なく誰もが死ぬことを示します。この主題は1347年以降のペスト大流行よりも前から描かれていました。死を意識する中世の図像は、長く続く宗教的な伝統の中で育まれていたのです。(参照:English Heritage)

1309〜1417年|ローマを離れた教皇庁と教会大分裂

1309年、教皇庁はローマを離れ、現在のフランス南部にあるアヴィニョンに置かれました。フランス王権との関係やイタリアの政情が、その背景にありました。教皇たちはここで政治や教会の運営を続け、巨大な教皇宮殿を建設します。宮殿の内部はシモーネ・マルティーニやマッテオ・ジョヴァネッティらの絵画で飾られ、アヴィニョンも重要な美術の拠点となりました。

1377年に教皇庁がローマへ戻った後、1378年にはローマとアヴィニョンで別々の人物が正統な教皇を名乗る「教会大分裂」が始まります。フランスやイングランドなどの王国も支持する教皇が分かれ、1409年からは一時、3人の教皇位請求者が並立しました。1417年、コンスタンツ公会議でマルティヌス5世が選出され、分裂は収束に向かいます。人々の信仰生活を支えていた教会の権威が、戦争や疫病の続く時代に大きく揺らいだ出来事でした。(参照:UNESCO世界遺産センター|アヴィニョンの教皇宮殿・オックスフォード世界宗教辞典ほか|教会大分裂の経緯)

1315〜1317年|大飢饉 — 長雨と農作物の不作

14世紀初めのヨーロッパでは、気候が不安定になり、農業が大きな影響を受けました。とりわけ1315〜1317年には、北西ヨーロッパを中心に深刻な飢饉が起きます。何年も続く長雨や洪水で畑の作物が育たず、食料価格が上がり、多くの人々が飢えに苦しみました。長期間の多雨と、当時の農業や社会の脆弱さが重なって被害を深めました。年輪による気候復元の研究からも、この時期に極端に湿った天候が続いたことが確認されています。(参照:Communications Earth & Environment)

1310s

1337年|百年戦争が始まる — イングランドとフランスの長い対立

1337年、イングランド王とフランス王の間で、フランス王位の継承や大陸領土をめぐる対立が大きな戦争へ発展しました。のちに「百年戦争」と呼ばれる戦いは、長い休戦期間や戦況の変化を挟みながら1453年まで続きました。とくにフランスの各地では、戦闘や略奪、課税などが人々の生活を圧迫しました。飢饉やペストとともに、戦争も14世紀のヨーロッパ社会を大きく揺るがしました。(参照:World History Encyclopedia)

1330s

1347〜1352年|黒死病(ペスト)の大流行 — 社会を揺るがす大量の死

1347年頃から、ペスト菌による感染症が交易や人の移動とともにヨーロッパ各地へ広がり、数年のうちに膨大な数の死者を出しました。この流行は後に「黒死病」と呼ばれます。被害の程度は地域によって異なり、当時の人口や死者数を正確に数えることはできませんが、ヨーロッパの人口の相当な割合が失われたと考えられています。病気の原因が分からなかった人々の中には、神罰と解釈する人もいました。ユダヤ人が感染を広げたという根拠のない噂が流され、各地で迫害が起きました。

人口の急減は農業や都市の仕事、賃金、教会の活動にも影響しました。美術では死後の審判、救済への祈り、死者の追悼が引き続き重要な主題となりました。骸骨や腐敗した遺体を用いる図像にはペスト以前からの伝統もあり、美術表現の変化には宗教的伝統や注文主、社会の変化も関わっていました。(参照:The Met)

1340s

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イタリア都市|商業・銀行と美術注文

イタリアの都市では商業や銀行業によって大きな富が生まれました。教会や王侯だけでなく、豊かな商人や都市も美術を注文するようになります。

15世紀前半|「死の舞踏」 — 誰もが死から逃れられない

後期中世には、王、教皇、商人、農民など、身分の異なる人々が死に連れ去られる「死の舞踏(ダンス・マカブル)」という図像が広がりました。1424〜1425年頃には、パリの聖イノサン墓地に大きな壁画が描かれ、後世の版画や写本にも影響を与えます。人は身分や財産に関係なく死を迎えるという教えを、見る人に直接伝える表現でした。死を思い起こさせる図像にはペスト以前からの伝統があり、「死の舞踏」にも死後の救済を願うキリスト教信仰が深く関わっていました。(参照:Cambridge)

1420s

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1450s

1492年|スペインからのユダヤ人追放

カトリック両王の治世のスペインでは、1492年にユダヤ人へ改宗か国外退去かを求める命令が出されました。中世ヨーロッパのユダヤ人社会には地域ごとに異なる暮らしがありましたが、宗教的な統一を目指す権力のもとで排除が進んだ地域もあります。宗教は、美術の注文や制作を支えるだけでなく、人々の生活や地位にも大きく関わっていました。

15〜16世紀|ルネサンス美術を支えた教皇庁と宗教改革への道

15世紀に教皇庁がローマでの活動を再び本格化させると、教皇たちは教会や宮殿の建設・装飾を通じて宗教的な権威を示そうとしました。16世紀初頭の教皇ユリウス2世は、サン・ピエトロ大聖堂の再建を進め、ミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井画を、ラファエロにヴァチカン宮殿の壁画を注文しました。教皇庁の財力と美術への注文は、盛期ルネサンスを支える大きな力となりました。

同じ時代、教皇たちは教皇領の支配や戦争にも関わり、親族の優遇や教会の資金の使い方が批判を集めていました。大聖堂の再建費用と結びついた贖宥状(しょくゆうじょう)の頒布は、1517年にマルティン・ルターが教会のあり方を批判するきっかけの一つとなります。贖宥状とは、罪の赦しを受けた人に残る償いに関する教会の制度でした。宗教改革が広がると、宗派や地域によって聖人像や祭壇画の扱いも変化していきます。美術の発展と教会の権威をめぐる対立は、同じ歴史の中で進んでいました。(参照:The Met|ルネサンス期の教皇庁・The Met|ヴァチカン宮殿と盛期ルネサンス)

西ヨーロッパ|宗教改革と宗教画

1517年にルターが教会改革を訴えたことをきっかけに、西ヨーロッパのキリスト教世界は再編されていきます。プロテスタントの一部では宗教画像への批判が高まり、宗派や地域によって教会の装飾や画像の扱いが変わりました。カトリック教会では、宗教画像が引き続き信仰や教育の手段として重視されました。この違いは、各地の絵画や教会装飾にも影響しました。

16世紀|イタリア|美と欲望

ルネサンスの女性裸体画には、神話や教養を示す役割に加え、女性の身体を官能的に描き、その美しさを鑑賞する楽しみもありました。こうした作品は男性の有力なパトロンや収集家のために制作されることも多く、古典的な主題と性的な魅力が同じ画面の中で結びついていました。(参照:The Met)

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17世紀|ヨーロッパ|王権とカトリック教会

王権が強まり、カトリック教会も信仰を人々へ強く伝えようとしました。宮殿や教会では、見る人を驚かせ、感情を動かす視覚表現が求められました。

1619年|ヴァージニア|アフリカ人の到着と奴隷制の形成

1619年頃の英領北米とヴァージニア植民地の位置を示す地図
1619年頃の英領北米とヴァージニア植民地の位置(概略図)。

1619年、イギリス領ヴァージニアに、アフリカから強制的に連行された人々が到着しました。当時の法的な身分には不明な点があり、その後17世紀を通じて、奴隷身分を子どもへ引き継がせる制度が成立していきます。南部植民地ではタバコ、米、インディゴなどの輸出作物が栽培され、奴隷とされたアフリカ系の人々の労働が農園の経営と植民地経済を支えるようになりました。(参照:米国国立公園局|1619年のアフリカ人到着と植民地の奴隷制)

1610s

1648年|パリ|フランス王立絵画彫刻アカデミーの設立

1648年、フランスで王立絵画彫刻アカデミーが設立されました。画家や彫刻家たちは、職人の同業組合とは異なる立場を求め、絵画と彫刻を理論や学問にもとづく芸術として位置づけようとしました。アカデミーでは、やがて素描や人体研究などを重視する教育が整えられ、作品を評価する基準や公式展覧会のあり方にも大きな影響を及ぼします。国家と結びついたこうした美術制度は、後に新しい表現を求める芸術家たちが向き合う存在にもなりました。

1640s

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1711年|ニューヨーク|ウォール街の奴隷市場

現在のニューヨークにも、植民地時代には奴隷制が存在しました。1711年、市当局はウォール街の東端付近を、奴隷とされた人々の労働力を貸し出す場所に指定し、売買も行われました。彼らは建設や家事などに従事し、都市の発展を支えていました。ニューヨーク州で奴隷制が廃止されたのは1827年です。その後も港湾貿易や綿花の流通を通じ、ニューヨークの経済は南部の奴隷労働と結びついていました。(参照:ニューヨーク市公文書館|奴隷制と解放の記録)

18世紀|フランス|発注者と美術市場の変化

1715年にルイ14世が亡くなると、摂政期には上流社会の重心の一部がヴェルサイユからパリへ戻り、貴族や富裕な金融家などが暮らす私邸の文化が発達しました。美術を注文する層も、王室や教会に加えて、こうした富裕な個人へ広がります。居間、寝室、浴室などの私的な空間にも美術が飾られるようになり、会話、音楽、恋愛、遊び、性愛など、注文主が日々の暮らしの中で楽しむ主題にも市場が生まれました。ルイ15世は1722年にヴェルサイユへ戻り、その後も王室の美術注文は続きました。公的な発注と私的な美術市場が並行して発達した時代です。(参照:The Met)

1710s

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1776年|アメリカ独立宣言 — イギリスからの独立と人間の権利

北アメリカのイギリス領13植民地では、本国による課税や政治への不満が強まり、1775年に独立戦争が始まりました。翌1776年7月4日、植民地の代表者たちは独立宣言を採択し、イギリスからの独立を表明します。宣言は、人間には生まれながらに生命・自由・幸福を追求する権利があり、政府の権力は人々の同意に基づくという考えを示しました。独立宣言を出した後も戦争は続き、イギリスからの独立が確定するまでにはさらに年月を要しました。独立宣言が掲げた平等の理念は、奴隷制と共存していました。南部植民地では奴隷とされた人々の労働がタバコや米の生産を支え、女性や先住民の政治的権利も制限されていました。この理念と現実の隔たりは、その後のアメリカ社会で繰り返し問われることになります。(参照:米国国立公文書館)

1770s

1787年|アメリカ|合衆国憲法と奴隷制

1787年、独立後の新しい国家の仕組みを定める合衆国憲法が起草されました。州ごとの利害を調整する過程で、奴隷制の存続を前提とする規定も盛り込まれます。下院議席の配分に用いる人口には、奴隷とされた人々の数の5分の3を算入し、連邦議会が海外からの奴隷輸入を禁止できるのは1808年以降とされました。奴隷制は建国当初の政治制度にも深く関わっていました。(参照:米国国立公文書館|合衆国憲法の制定過程)

1789年|フランス革命 — 王の権力と身分社会が揺らぐ

18世紀末のフランスでは、国家財政の危機や食料価格の上昇、聖職者・貴族の特権に対する不満が高まっていました。1789年、国王ルイ16世が全国三部会を招集すると、第三身分の代表者たちは国民議会を結成し、政治のあり方を変えようとします。7月14日にはパリの民衆がバスティーユ牢獄を襲撃し、8月には封建的な特権を廃止する方向が示され、「人間と市民の権利の宣言」が採択されました。自由や法の下の平等、国民主権を掲げた革命は、王や貴族を中心としていた社会の秩序を大きく変えていきます。王政は1789年の時点では存続しており、廃止されたのは1792年です。革命は美術にも影響し、王室の所蔵品や美術を誰が見ることができるのかという問題にも変化をもたらしました。(参照:フランス国民議会)

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19世紀前半|欧米|産業化と写真の登場

産業革命によって鉄道、工場、新聞、新しい商品が広がり、人々の生活の速度が変わりました。写真の登場など、新しい技術も「見ること」そのものを変えていきます。

1830s

1848年|1848年革命 — ヨーロッパ各地で自由と政治参加を求める

1840年代のヨーロッパでは、不作や物価の上昇、失業などによって生活への不安が強まりました。政治の権限は王や一部の有力者に集中し、多くの人々は選挙への参加も制限されていました。1848年、フランスでは選挙制度の改革を求める運動が二月革命へ発展し、国王ルイ・フィリップが退位して第二共和政が成立します。財産による制限のない成人男性の選挙権が導入されましたが、女性には選挙権がありませんでした。

同じ年、ウィーンやベルリン、イタリアの諸地域などでも革命や蜂起が相次ぎ、憲法の制定、言論の自由、政治参加、民族の自治や統一が求められました。運動の目標や対立する相手は地域によって異なり、多くの運動は1849年頃までに軍事力で抑えられました。フランスでも労働者の生活改善を求める六月蜂起が鎮圧され、共和政が成立しても社会の対立は解消しませんでした。こうした動揺のなかで、絵画でも王侯や神話上の英雄だけでなく、同じ時代に生きる普通の人々や労働の現実へ目が向けられます。クールベらのレアリスムも、1848年革命後の社会を背景として発展していきました。(参照:Oxford University Press)

19世紀半ば|ヨーロッパ|都市化・鉄道・万国博覧会

1851年ロンドン万国博覧会のクリスタル・パレス
1851年のロンドン万国博覧会。開催中のクリスタル・パレスを北東側から見た様子。

都市が急速に拡大し、鉄道で郊外へ出かける人も増えました。万国博覧会では世界各地の商品や技術、美術が一か所に集められ、近代社会の新しさが大規模に展示されました。

1851年、産業革命を経たイギリスは、自国の工業力と国際貿易の発展を示すため、ロンドンで世界初の万国博覧会を開きました。アルバート公らが主導し、鉄とガラスで造られたクリスタル・パレスに機械や織物、工芸品などが並びます。博覧会国際事務局の記録では25か国が参加。ヨーロッパ諸国やアメリカなどのほか、当時イギリスが支配していたインドをはじめ、植民地からの出品もありました。展示は国際的な技術交流の場であると同時に、イギリスの産業力と帝国の広がりを示す場でもありました。

1855年には、皇帝ナポレオン3世のもと、フランスが第1回パリ万国博覧会を開催しました。先行したロンドン万博に対抗し、フランスの産業と文化の力を示す狙いがありました。参加は28か国で、イギリスやアメリカに加え、オスマン帝国、エジプト、ペルシア、中国などからも出品されました。パリでは産業製品に加えて美術の専用会場が設けられ、アングルやドラクロワらの作品も展示されました。こうした万国博覧会は、各国が技術や美術を披露し、国際的な競争を繰り広げる場となっていきます。(参照:博覧会国際事務局(BIE)|1851年ロンドン万博・博覧会国際事務局(BIE)|1855年パリ万博・ヴィクトリア&アルバート博物館|1851年万博とデザイン)

1860年|アメリカ|綿花産業と約400万人の奴隷労働

1860年頃のアメリカ合衆国の奴隷州、自由州、準州を示す地図
1860年頃のアメリカ合衆国。奴隷州・自由州・準州の分布を示す概略図。

19世紀前半、南部の綿花栽培はアメリカの主要な輸出産業へ成長しました。1860年には奴隷とされた人々が約400万人に達し、綿花はアメリカの輸出を支える重要な商品になっていました。プランテーションで生産された綿花は、北部やイギリスの織物工場へ運ばれ、商人や投資家にも利益をもたらしました。アメリカの経済的な発展には、奴隷として働かされた人々の労働が深く組み込まれていたのです。翌1861年には南北戦争が始まります。(参照:スミソニアン国立アメリカ歴史博物館|アメリカの奴隷制と経済)

1862年|ロンドン万博 — 幕府使節団の視察と日本工芸の展示

1862年、ロンドンで開かれた第2回万国博覧会を、江戸幕府の竹内遣欧使節団が視察しました。使節団はヨーロッパ諸国との開港・開市延期の交渉を目的に派遣され、福沢諭吉らを含む総勢38人が渡欧しました。一行は5月1日の開会式に招かれ、会場では機械の展示に強い関心を示します。電信局や造船所、兵器工場なども見学し、産業革命を経たイギリスの技術に触れました。

この万博に日本からの正式な出品はありませんでした。会場に展示された漆器、刀剣、提灯、草履などの日本製品は、初代駐日英国公使ラザフォード・オールコック(Rutherford Alcock)が収集したものです。イギリスでは日本の工芸品や日用品が注目されましたが、使節団のなかには、こうした品々が日本を代表する展示として並ぶことに戸惑う人もいました。万国博覧会は、ヨーロッパが日本の造形文化を知ると同時に、日本の使節団がヨーロッパの産業や社会を観察する場にもなりました。(参照:国立国会図書館|1862年ロンドン万博と日本使節団・外務省外交史料館|万国博覧会との出会い)

1865〜1870年|アメリカ|奴隷制廃止と黒人の市民権

アメリカでは植民地時代から黒人を奴隷として働かせる制度が続き、とくに南部の綿花栽培などを支えていました。南北戦争が終結した1865年、憲法修正第13条の批准によって奴隷制が廃止されます。1868年の第14条は市民権と法の平等な保護を、1870年の第15条は人種を理由に投票権を制限することを禁じ、黒人男性の投票権を保障しました。再建期には黒人の政治参加が広がりましたが、南部では人種差別的な暴力や権利の制限も続きました。(参照:米国国立公文書館|奴隷制廃止と憲法修正第13条)

1867年|パリ万博 — 日本の初の公式出品とジャポニスム

1867年、ナポレオン3世のもとで開かれたパリ万国博覧会に、日本は初めて公式に出品しました。徳川幕府は将軍徳川慶喜の弟・徳川昭武を代表として派遣し、後の実業家・渋沢栄一も随行します。幕府に加えて薩摩藩と佐賀藩も参加しました。薩摩藩は独自の政治的立場を現地で示そうとし、万博には幕末の日本国内の対立も映し出されました。

会場には浮世絵、陶磁器、漆器などの日本の美術工芸品が展示され、ヨーロッパの人々の関心を集めました。日本の版画や工芸品は万博以前からヨーロッパに伝わっており、1867年の展示はその認知をさらに広げる契機となります。日本の版画の構図や色彩、工芸の意匠に刺激を受けた画家や工芸家たちの活動は、後に「ジャポニスム」と呼ばれる大きな流れへつながりました。パリ万博は、産業や外交の催しであると同時に、日本美術がヨーロッパの視覚文化に影響を与えていく重要な接点でもありました。(参照:外務省外交史料館|1867年パリ万博への公式出品・佐賀城本丸歴史館|1867年パリ万博と佐賀藩・メトロポリタン美術館|ジャポニスム)

1870年代|パリ|都市改造と新しい日常

パリでは街路や公園が整備され、カフェ、劇場、鉄道、郊外の行楽など新しい都市生活が広がりました。画家にとって、現代の日常そのものが重要な題材になります。

19世紀|フランス|女性の美術教育が広がる

1870年代になると、女性も私塾や私立アカデミーで裸体モデルから人体を学べる機会が少しずつ増えます。女性クラスを設けたシャルル・シャプランのアトリエやアカデミー・ジュリアンは重要な受け皿になりました。国立のエコール・デ・ボザールが女性の正式入学を認めるのは、1897年になってからです。(参照:The Met)

1886年|ニューヨーク港で自由の女神像が除幕

90秒でわかる自由の女神の歴史(TIME)

1886年10月28日、フランスから贈られた自由の女神像がニューヨーク港で除幕されました。アメリカ独立100周年を記念して構想されたこの像は、自由の象徴として知られ、やがて大西洋を渡って到着する移民たちを迎えるニューヨークの象徴にもなりました。(参照:米国国立公園局|自由の女神像の歴史)

1896年|アメリカ|人種隔離制度と「分離すれども平等」

ジム・クロウ法と人種隔離が行われていた南部(Daily Dose Documentary)

19世紀末、アメリカ南部では学校、鉄道、公共施設などで白人と黒人を分けるジム・クロウ法が広がりました。1896年、連邦最高裁判所はプレッシー対ファーガソン判決で「分離すれども平等」という考え方を認め、人種隔離を支える法的根拠を与えます。識字試験や人頭税、脅迫や暴力によって黒人の投票も妨げられました。南部での差別や暴力と、北部の工業都市での雇用機会は、20世紀初頭に多くの黒人が北部へ移住した「大移動」の背景となりました。(参照:米国国立公園局|プレッシー対ファーガソン判決)

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1919年|ヴァイマル|バウハウス設立 — 美術・工芸・建築の教育改革

第一次世界大戦後の1919年、ヴァルター・グロピウスはドイツのヴァイマルで国立バウハウスを設立しました。美術学校と工芸学校を統合し、造形の基礎教育、素材研究、工房での制作を組み合わせる新しい教育を構想します。バウハウスは1925年にデッサウへ移転し、近代建築や家具、印刷、デザインの分野にも影響を広げました。(参照:バウハウス・デッサウ財団|年表)

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1933年以降|ナチ政権の迫害、文化統制と亡命

1933年に成立したナチ政権は反ユダヤ政策と文化統制を進め、戦時下にはユダヤ人の組織的な大量虐殺(ホロコースト)に至りました。ユダヤ人を含む多くの芸術家や知識人が迫害や活動の制限を受けます。ジョージ・グロスは1933年にアメリカへ移り、バウハウス閉鎖後にはアルバース夫妻も渡米しました。画家マックス・ベックマンは1933年に教職を追われ、1937年にオランダへ逃れた後、1947年にアメリカへ渡っています。こうした人々の移動は、ヨーロッパの前衛美術がアメリカへ伝わる要因の一つになりました。(参照:メトロポリタン美術館「ヒンデミットとベックマン」)

1944年|アウシュヴィッツ=ビルケナウとホロコースト

BBCニュース「アウシュヴィッツで何があったのか? 解放から75年」(2020年)

ナチス・ドイツは1933年以降、ドイツ国内や占領地域に強制収容所、強制労働施設、ゲットーなどを広げました。アウシュヴィッツは、強制収容や強制労働に加えて大規模な殺害が行われた複合施設です。1944年にはハンガリーから多くのユダヤ人が移送され、到着後の「選別」によって多数が殺害されました。ホロコーストは、ナチス政権とその協力者がヨーロッパ各地で進めた組織的な迫害と大量殺害であり、アウシュヴィッツはその中心的な現場の一つでした。(参照:アウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館)

第二次世界大戦前後|ヨーロッパからニューヨークへ

第二次世界大戦前後には、ピエト・モンドリアンが1940年、マルク・シャガールとマックス・エルンストが1941年にアメリカへ渡りました。アンドレ・ブルトン、アンドレ・マッソン、フェルナン・レジェらもニューヨークへ移り、ヨーロッパの抽象美術やシュルレアリスムがアメリカへ直接持ち込まれました。

1945年|ヒトラーの自決とドイツの敗戦 — 分割占領へ

1945年春のヨーロッパ戦況を示す概略図。西側連合軍とソ連軍のドイツへの進攻方向が描かれている。
1945年春のヨーロッパ戦況。西側連合軍とソ連軍の進攻方向を示した概略図。
(正確な地図は専門書を確認して下さい。)

1945年春、東からソ連軍、西からアメリカやイギリスなどの連合国軍がドイツに進攻し、首都ベルリンは包囲されました。4月30日、アドルフ・ヒトラーはベルリンの地下壕で自決。ドイツ軍は5月に無条件降伏し、5月8日にヨーロッパでの第二次世界大戦が終結しました。その時点でも、アジア・太平洋での戦争は続いていました。

戦後のドイツでは、空襲や戦闘で多くの都市が破壊され、住居や食料が不足しました。東方からの避難民や追放された人々も流入するなか、ドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連による四つの区域に分けて占領されます。1945年11月にはナチス指導者らの戦争犯罪を裁くニュルンベルク裁判が始まりました。やがて占領国間の対立が深まり、1949年には西ドイツと東ドイツが成立しました。(参照:ドイツ歴史博物館)

1949年|東西ドイツの成立 — 復興と冷戦の分断

敗戦後のドイツでは暮らしと経済の再建が進められ、同時にナチス政権の犯罪と向き合うことが社会の大きな課題になりました。占領した連合国の間で対立が深まり、1949年には西側の占領地域に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)、ソ連の占領地域に東ドイツ(ドイツ民主共和国)が成立します。西側では民主主義と市場経済、東側では社会主義体制のもとで、社会や文化の仕組みが異なる道を歩み始めました。この分断は美術教育や作品発表の環境にも影響を与えていきます。(参照:ドイツ連邦政治教育センター)

1954年|アメリカ|学校の人種隔離に違憲判決 — 公民権運動の広がり

1954年、連邦最高裁判所はブラウン対教育委員会判決で、公立学校を人種によって分ける制度は憲法に違反すると判断しました。黒人の保護者と全米黒人地位向上協会(NAACP)が長年続けてきた法廷での取り組みが実を結んだ出来事です。南部の各地では学校統合への抵抗も起こりました。1955年のモンゴメリー・バス・ボイコットをはじめ、各地で差別の撤廃を求める市民運動が広がっていきます。(参照:米国国立公園局|ブラウン対教育委員会判決)

1960年代|欧米|消費社会と社会運動

テレビ、広告、スーパーマーケット、大量生産の商品が日常生活にあふれるようになりました。同時に、公民権運動や反戦運動など、社会の価値観を問い直す動きも広がります。

1961年|ベルリンの壁建設 — 分断されたドイツと美術家たち

1975年11月、ポツダム広場付近のベルリンの壁を東側に向かって撮影した写真
1975年11月、ポツダム広場付近のベルリンの壁。東側を望む。
(WIKIMEDIA COMMONS)
1961年以降のドイツ分断を示す概略図。西ドイツと東ドイツ、東西ベルリンの位置関係と米英仏・ソ連の影響圏を色分けした地図。
冷戦下の東西ドイツとベルリンの分断(概略図)。クリックすると地図を拡大表示します。

第二次世界大戦後、ドイツは西側のアメリカ・イギリス・フランスと東側のソ連が占領する地域に分かれ、1949年には西ドイツと東ドイツが成立しました。東ドイツの領域内にあるベルリンも東西に分かれ、西ベルリンは米英仏の管理区域に由来する特別な地域でした。1961年、東ドイツ政府は西側への人口流出を止めるため、東西ベルリンの境界などに壁を築きます。東西の往来は厳しく制限され、ベルリンの壁は冷戦とドイツ分断の象徴になりました。東ドイツで美術を学んだゲルハルト・リヒターは、壁が築かれる直前に西側へ移りました。

1960年代以降のドイツでは、ジグマー・ポルケが西側の消費社会を皮肉り、ヨーゼフ・ボイスは芸術と社会との関係を問い、アンゼルム・キーファーはナチス時代の歴史と記憶に向き合います。作家ごとに表現は異なりますが、敗戦と分断を経験した社会の背景を知ることは、彼らの作品を理解する手がかりになります。(参照:ドイツ連邦政治教育センター)

1963年|ニューヨーク|黒人芸術家集団スパイラル — 公民権運動と美術

「ヒストリー・スペシャルズ」:キング牧師がワシントン行進を率いる (HISTORY)

1963年8月28日、首都ワシントンで「仕事と自由のためのワシントン大行進」が開かれ、約25万人が人種差別の撤廃や雇用の平等、公民権の保障を求めて集まりました。リンカーン記念堂ではキング牧師が「私には夢がある」と演説し、公民権運動の歴史に残る出来事となりました。同じ年、ニューヨークではロメール・ベアデン、ノーマン・ルイス、チャールズ・アルストンら黒人芸術家が「スパイラル」を結成しました。芸術家として公民権運動にどう関わるかを議論しながら、絵画やコラージュなど各自の制作を続けます。1965年にはグループ展「Black and White」を開催しました。参加作家の表現は抽象から具象まで幅広く、社会的な問題と造形上の探究をそれぞれの立場から考えました。(参照:ハーレムのスタジオ・ミュージアム)

1964〜1965年|アメリカ|公民権法と投票権法 — 法的平等への大きな転換

1963年のワシントン大行進など、公民権運動が全国へ広がるなか、1964年に公民権法が成立し、公共施設や雇用などでの人種差別が法律で禁止されました。1965年には投票権法が成立し、識字試験などを利用した投票の妨害を規制します。黒人芸術家たちもスパイラルなどの集団を結成し、作品を発表する機会や美術館での扱われ方について議論を深めていきました。(参照:米国国立公文書館|1964年公民権法)

1965〜1970年代|アメリカ|ブラック・パワーとブラック・アーツ・ムーブメント

1964年の公民権法と1965年の投票権法の成立を経て、黒人コミュニティでは政治や経済、文化のあり方を自ら決めようとするブラック・パワー運動が広がりました。文化の分野では1965年、詩人アミリ・バラカがニューヨークのハーレムに劇団を設立し、詩や演劇などを通じて黒人の歴史や経験を表現するブラック・アーツ・ムーブメントを推進します。1968年にはシカゴで黒人芸術家集団AfriCOBRAの前身となるCOBRAが結成され、鮮やかな色彩や力強い図像を用いて黒人社会の連帯や誇りを表しました。作品を誰に届け、地域の文化とどう結びつけるかという問いは、芸術家たちの活動を支える重要なテーマになりました。(参照:米国国立公文書館|ブラック・アーツ・ムーブメント)

1965〜1975年|ベトナム戦争と揺れるアメリカ社会

ベトナム戦争、1970年:小隊が銃撃を受ける様子をCBSのカメラが捉える(CBS Evening News)

冷戦下、アメリカは共産主義の拡大阻止を掲げて南ベトナムを支援し、1965年から大規模な地上軍を投入しました。ベトナムでは多くの兵士や民間人が犠牲となり、戦争が長期化するにつれてアメリカ国内でも徴兵や軍事介入への批判が広がります。テレビで伝えられる戦況、若者による反戦デモ、公民権運動の高まりが重なり、人種差別や貧困を抱える社会が海外で戦争を続けることへの疑問も強まりました。学生や芸術家たちは、デモだけでなくポスターや写真、音楽などを通じても抗議の意思を表しました。(参照:National Archives)

1968年|アメリカ|キング牧師暗殺と公正住宅法の成立

マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの最後の演説(HISTORY)

1968年4月4日、公民権運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師がテネシー州メンフィスで暗殺されました。全米各地で追悼と抗議の動きが広がり、一部の都市では暴動も発生します。同月11日、ジョンソン大統領は公正住宅法を含む1968年公民権法に署名しました。公正住宅法は、住宅の売買や賃貸における人種などを理由とした差別を禁じるもので、住まいを選ぶ権利の平等を進める重要な一歩となりました。居住地域の分離や住宅を通じて生じる経済格差は、その後も社会の大きな課題として残りました。(参照:スミソニアン国立アメリカ歴史博物館|1968年公正住宅法)

1968年|パリ|五月革命と芸術家たち — 街に広がったポスター

1968年5月、パリで学生の抗議運動が広がり、大規模な労働者ストライキへ発展しました。美術学校の学生や芸術家たちは、占拠された美術学校の「アトリエ・ポピュレール」で、シルクスクリーンなどを用いたポスターを共同制作します。短い言葉と簡潔な図像で政治的な主張を伝えるポスターは街に貼られ、抗議活動と視覚表現が直接結びつきました。美術をどこで、誰に届けるかという問題が公共空間の中で新たな形を取りました。(参照:ポンピドゥー・センター|1968年のアトリエ・ポピュレール)

1975年|ニューヨーク|財政危機 — 工場の流出、税収減少、都市の変貌

第二次世界大戦後のアメリカは世界有数の経済大国となり、ニューヨーク市も金融・貿易・製造業の中心として繁栄しました。1950年代以降、工場や雇用が郊外・他州へ移り、中間層の郊外移住も進みます。人口と税収が減るなか、教育、医療、福祉などの公共サービスを維持する支出がかさみ、市は資金不足を短期の借入れで補い続けました。1970年代の不況と物価上昇が財政をさらに圧迫し、1975年には新たな資金調達が難しくなって、財政破綻の瀬戸際に立たされました。

財政再建に伴う公共サービスの縮小は、市民の暮らしにも影響しました。サウス・ブロンクスなどでは、それ以前から失業や住宅の放棄が進み、生活環境が厳しくなっていました。同じ時代、ニューヨークの若者たちは地下鉄や街の壁に独自の文字を描くグラフィティを発展させ、ブロンクスではヒップホップ文化も育っていきます。1960年代末から1970年代初頭に始まったこれらの活動を、都市の変化とともにたどることで、後のストリート・アートの背景が見えてきます。(参照:ニューヨーク連邦準備銀行)

1980年代|欧米中心の美術観を問い直す国際展

現代美術の国際化は、冷戦が終わる前から進んでいました。1984年にキューバで始まったハバナ・ビエンナーレは、当初は中南米・カリブ海地域の作家を紹介し、1986年にはアフリカやアジア、中東へと対象を広げました。1989年にはパリで《大地の魔術師たち》が開かれ、欧米と非欧米の作家を同じ現代美術の展覧会で紹介しました。こうした試みを通じて、欧米を中心に組み立てられてきた美術の評価や展示のあり方が問い直されていきます。(参照:Centre Pompidou)

1981〜1987年|アメリカ|エイズ危機と美術 — 喪失から抗議へ

1981年、アメリカで後にエイズと呼ばれる疾患の初期症例が報告され、感染の拡大は人々の生活と文化活動に深刻な影響を与えました。偏見や医療へのアクセス、政府の対応をめぐって議論が広がり、1987年3月にはニューヨークでACT UPが結成されます。ポスター、グラフィック、街頭での抗議活動は、病気についての情報と当事者の声を広く届ける手段となりました。芸術家たちはそれぞれの制作を通じて、喪失の経験や生きる人々の尊厳を表現していきます。(参照:ニューヨーク公共図書館|ACT UPアーカイブ)

1990年代|冷戦終結と美術の国際交流の拡大

1989年のベルリンの壁崩壊と1991年のソ連解体を経て、東西冷戦の対立構造が終わり、旧東欧・旧ソ連圏では社会や美術を取り巻く環境が大きく変化しました。国際展では1980年代から欧米中心の美術観を見直す動きが進んでおり、冷戦終結後には各地域の文化的な交流がさらに広がっていきます。1993年にはオーストラリアで第1回アジア・パシフィック・トリエンナーレが開催されるなど、国際展の舞台も広がります。異なる地域の歴史や文化を踏まえ、現代美術を捉え直す視点がいっそう重視されるようになりました。(参照:QAGOMA)

1992年|ロサンゼルス|警察暴力と人種差別への抗議

1991年3月、黒人男性ロドニー・キングがロサンゼルス市警察の警察官から暴行を受け、その様子を撮影した映像がテレビで広く報道されました。翌1992年4月29日、警察官4人に大部分の訴因で無罪評決が下されると、ロサンゼルスでは抗議が広がり、暴動、略奪、放火が数日間続きました。この出来事は、警察による暴力や人種差別に加え、都市の貧困や地域社会の緊張を改めて浮き彫りにします。黒人芸術家ソーントン・ダイアルは事件を受けて《Top of the Line (Steel)》を制作し、複雑に重なる人物像や素材を通じて街の混乱と人種間の緊張を表現しました。(参照:スミソニアン・アメリカ美術館|ソーントン・ダイアル作品解説)

2000年代|インターネットとデジタル化

インターネットとデジタル機器が日常化し、画像を作る・複製する・世界へ送ることが簡単になりました。作品をつくる場所と発表する場所の境界も変わっていきます。

2020年|アメリカ|黒人差別への抗議と美術 — Black Lives Matter

2020年、ジョージ・フロイドが警察官に殺害された事件をきっかけに、2013年に始まったBlack Lives Matterを掲げる抗議活動が全米各地へ広がりました。芸術家たちは壁画、写真、ポスター、肖像画を通じて犠牲者の記憶や社会の現実を表し、美術館でも黒人の歴史と表現をどう伝えるかが改めて議論されます。2021年にはスミソニアンの国立アフリカ系アメリカ人歴史文化博物館が展覧会「Reckoning」を開催し、美術と社会的な抗議の歴史を紹介しました。(参照:スミソニアン|Reckoning展と黒人芸術家の表現)

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