Art Library
World History

1965–1980

アメリカ|移民国家の再編

Immigration Act、アジア・中南米からの移住、Chicano Movement

1965年から1980年までのアメリカ合衆国では、誰がこの国へ移住できるのか、誰が「アメリカ人」として公共社会へ参加できるのかをめぐる制度が大きく変わりました。最も重要な転換点の一つが1965年のImmigration and Nationality Act、いわゆるHart–Celler Actです。この法律は1920年代以来のnational-origins quota systemを廃止し、移民選抜の中心を出身国の民族構成から家族関係と職業技能へ移しました。

ただし1965年法を「移民を自由化して国境を開いた法律」と説明するのは正確ではありません。移民総数には依然として上限があり、Eastern Hemisphereには年間170,000人、各国には原則20,000人という数的制限が設けられました。Western Hemisphereには当初国別quotaがありませんでしたが、1968年から年間120,000人の総枠が適用され、1976年改正では20,000人の国別上限も西半球へ拡張されました。

1965年法が長期的に大きな意味を持ったのは、家族呼寄せを重視する制度と、アジア諸国を民族的に排除してきた移民制度の残余を取り除いたことでした。U.S. Citizenship and Immigration Servicesの政策史は、1965年改正がnational-origins systemを家族再統合と技能移民を中心とするpreference systemへ置き換えたと説明しています。

この制度転換は、結果としてアメリカの移民の出身地域を大きく変えていきます。U.S. Census Bureauによると、外国生まれ人口のうちEurope出身者は1960年の約730万人から1980年には約510万人へ減少しました。一方、Latin America出身者は約50万人から約440万人へ、Asia出身者は約90万人から約250万人へ増加しました。1965年法だけがこの変化を生んだわけではありませんが、出身地域ごとの制度的な差を縮小したことは大きな条件となりました。

一方で、同じ1960年代にMexican AmericanやPuerto Rican communitiesで展開した社会運動を「新しく来た移民の運動」として理解するのも誤りです。SouthwestのMexican American communitiesにはU.S.–Mexico War以前からこの地域に住んできた家族も多く、Chicano Movementは移民法だけでなく、学校差別、警察、土地、労働、選挙、Vietnam Warなどをめぐるアメリカ市民社会内部の政治運動でした。

Puerto Ricansについてはさらに明確です。Puerto Ricoの住民は1917年以来U.S. citizensであり、本土への移動は法律上のimmigrationではなく国内移動です。Library of CongressもPuerto Rican migrationを、文化的には移民に似た経験を含みながら、法的にはinternal migrationであると説明しています。Young LordsがNew YorkやChicagoで組織した運動も、移民受入制度ではなくU.S. citizenship、植民地的関係、住宅、医療、教育、警察、Puerto Rican self-determinationをめぐる運動でした。

1965年のもう一つの重要な背景は、Bracero Programが前年の1964年に終了したことです。1942年以来、アメリカとMexicoの協定のもとで大量のMexican contract workersが農業労働へ導入されてきました。制度終了後、Californiaの農業労働市場では賃金、労働条件、union organizingをめぐる力関係が変化しました。

1965年9月、California州DelanoでFilipino farmworkersを中心とするAgricultural Workers Organizing Committee、AWOCが葡萄農園のstrikeを開始しました。Larry Itliong、Philip Vera Cruzらのorganizersは賃上げと労働条件改善を要求し、Mexican American workersを中心とするNational Farm Workers Association、NFWAへ協力を求めました。César Chávez、Dolores HuertaらのNFWAは9月16日にstrikeへ参加します。

この連帯は重要でした。California agricultureでは長年、growersが異なるethnic groupsをstrikebreakersとして互いに使うことでunionizationを崩してきました。1965年DelanoではFilipinoとMexican American workersが共同戦線を作り、local strikeを全国規模のgrape boycottへ広げました。1966年には両組織が統合し、後のUnited Farm Workers、UFWへつながります。

農業労働運動とChicano Movementは重なりますが、同一ではありません。UFWはFilipino、Mexican、Mexican Americanその他のworkersを組織する労働運動であり、Chicano Movementは若者、学生、地域organizers、政治家、文化活動家を含むより広いmovementでした。「Chicano」という言葉自体が1960年代末に、Mexican descentを恥じるのではなく、歴史と文化を自ら定義する政治的identityとして若い世代に再評価されました。

1968年3月、East Los Angelesの高校生たちは学校から一斉にwalk outし、劣悪な教育環境へ抗議しました。Library of CongressとNational Park Serviceの資料によれば、学生たちはcollege guidanceの改善、Mexican American teachers、Mexican American history、少人数class、必要な生徒へのbilingual education、parent advisory boardsなどを要求しました。数千人規模の「blowouts」は、都市Chicano Movementの象徴的な出来事となりました。

Chicano Movementでは教育改革だけでなく、self-determination、土地、警察暴力、選挙政治、Vietnam Warなどが争点になりました。1969年DenverのNational Chicano Youth Liberation ConferenceではPlan Espiritual de Aztlánが公に示され、「Chicano」という政治的identityと民族的誇り、自己決定が強く打ち出されます。大学ではMEChAなどのstudent organizationsが形成されました。

同じ1968–1969年、San Francisco State CollegeではBlack、Asian American、Latino、Native American studentsがThird World Liberation Frontを形成し、Ethnic Studiesの設置を求めて長期strikeを行いました。National Park Serviceはこの運動を、Asian American Political Alliance、Intercollegiate Chinese for Social Action、Pilipino American Collegiate EndeavorなどがBlack Student UnionやLatino studentsと連携した多民族coalitionとして記録しています。

この時期、「Asian American」という言葉自体も新しい政治的意味を持って広がりました。1968年、Berkeleyのactivists Yuji IchiokaとEmma GeeらがAsian American Political Allianceを組織し、Chinese、Japanese、Filipinoなど別々に扱われてきたcommunityを、racism、Vietnam War、housing、labor、educationをめぐる共通のpolitical identityとして結びつけました。

つまり1965年以後の「Asian America」の形成は、移民数の増加だけでは説明できません。古くから存在するChinese、Japanese、Filipino communitiesと、新しく増えていくAsian immigrantsが同じ時代に存在し、Black Powerやantiwar movementの影響を受けながらpan-Asian political identityが作られました。

Latin Americaからの人口移動も一つの形ではありません。Mexicoからは家族・労働・国境地域の長い往来が続き、1965年以後は数的制限の制度変更が新しいvisa backlogを生みました。CubaからはCold WarとCuban Revolutionを背景に大量のrefugeesが受け入れられました。1965年12月からのFreedom FlightsではMiamiへのairliftが続き、1966年Cuban Adjustment Actは一定条件を満たすCuban entrantsがpermanent residenceへstatus adjustmentできる特別制度を作りました。

Puerto Rican movementはさらに異なります。本土のPuerto Rican populationは戦後急増しましたが、彼らはU.S. citizensとして移動しました。1960年代末にはChicagoのYoung Lords OrganizationとNew YorkのYoung Lords Partyが、貧困、police brutality、医療、housing、sanitationをめぐって直接行動を行いました。New Yorkでは1969年末にFirst Spanish United Methodist Churchを占拠し、free breakfast、health clinic、政治教育を行う「People’s Church」として利用しました。

1970年8月29日にはLos AngelesでNational Chicano Moratorium Against the Vietnam Warが行われ、20,000から30,000人規模が参加したとLibrary of Congressは記録しています。参加者はMexican American soldiersがVietnamで大きな犠牲を負っていることと、国内の学校、住宅、雇用、医療の格差を結びつけて戦争へ反対しました。

demonstrationは平和的なmarchとrallyとして始まりましたが、Los Angeles County Sheriff’s Departmentの介入後に大きな混乱と暴力へ発展し、Los Angeles Times journalistのRubén Salazarを含む三人が死亡しました。Salazarの死はChicano communitiesで警察とmedia、政治権力への不信を象徴する出来事となりました。

1970年代に入ると、移民制度の変化はさらに広い人口移動と結びつきます。Vietnam War終結後、South Vietnam、Cambodia、Laosから大量のrefugeesが発生しました。1975年のIndochina Migration and Refugee Assistance Actなどを通じ、United Statesは多数のSoutheast Asian refugeesを受け入れました。

National Archivesによれば、1975年から1979年の間におよそ300,000人のVietnamese and Cambodian refugeesが大統領権限などによってUnited Statesへ受け入れられました。こうしたad hoc制度の積み重ねが、「refugeeとは誰か」「毎年どのように受け入れるか」を恒常的な法律で定める必要性を強めました。

移民法の側でも1965年の制度は固定されたままではありませんでした。Western Hemisphereには1968年から年間120,000人の総枠が設けられていましたが、1976年Immigration and Nationality Act AmendmentsはEastern Hemisphereで使われていた20,000人の国別上限とpreference systemをWestern Hemisphereにも適用しました。特にMexicoでは合法移民需要が20,000人を大きく超えていたため、waiting listが拡大する要因となりました。

この変化は、legal immigrationの数的制限と、United Statesの農業・service economyがMexican laborを求め続ける現実の間に矛盾を生みました。Bracero Program終了後も労働需要そのものが消えたわけではなく、家族・地域・雇用を通じた越境移動は続きました。1970年代のundocumented migrationを理解するには、個人の「違法行為」だけでなく、visa制度、労働市場、国境の歴史、既存community networkを同時に見る必要があります。

1970年代後半にはAmerican immigration policyそのものが世界規模の制度へ組み替えられていきます。従来はEastern HemisphereとWestern Hemisphereで別々だった数的管理は次第に統一され、家族、技能、refugee protectionという現在につながる主要なcategoryが制度の中心となりました。

そして1980年3月、Jimmy Carter大統領がRefugee Act of 1980へ署名しました。National Archivesによれば、この法律は「迫害を受ける十分に根拠のある恐れ」を持つ人という国際基準に沿ったrefugee definitionを採用し、通常の年間受入枠、緊急時の調整手続き、CongressとPresidentの定期協議、Office of Refugee Resettlementを制度化しました。

1965–1980年を一つの移民史として見ると、アメリカは「Europeからの移民を中心とする国家」という20世紀前半の制度から離れ、Asia、Latin America、Caribbean、Southeast Asiaを含むより多地域型の移民国家へ移行したことが分かります。ただし、それは単純な多文化化の成功物語ではありません。新しい移民制度は同時に新しいquota、waiting list、国境管理、法的statusの格差も作りました。

また同じ時期に生まれたChicano、Asian American、Puerto Ricanなどのpolitical identitiesは、人口移動だけの結果ではありませんでした。すでに国内にいたcommunitiesが、自らの歴史を学校・media・政治制度の中へ組み込み、誰をAmerican historyの主体として扱うのかを問い直した結果でもあります。

1965年法の最も深い意味は、ただ「移民が増えた」ことではありません。出身国による制度的な優先順位を作ってきた仕組みを廃止したことで、家族network、技能、refugee movement、世界各地の政治変動がアメリカ社会の人口構成へより直接反映されるようになりました。その変化は都市、学校、労働市場、文化、選挙政治を長期的に作り替えていきます。

1965年以前の移民制度

1920年代のアメリカ移民法は、誰を受け入れるかをnational originによって大きく差別化していました。1924年Immigration Actはnational-origins quotaを制度化し、北西Europeに有利な配分を作りました。

1952年Immigration and Nationality Actはそれまで分散していたimmigration and naturalization lawsを統合し、racial restrictionsの一部を撤廃しましたが、national-origins quota system自体は維持しました。

Cold WarとCivil Rights Movementの時代になると、raceやnational originを制度的に優先するimmigration lawは、国外でdemocracyを掲げるUnited Statesの外交imageとも矛盾すると批判されるようになりました。

National Origins Quota System

national-origins systemでは各国からのimmigration quotasが1920年時点のU.S. population compositionを基礎に配分されました。

その結果、Britain、Ireland、GermanyなどNorthern and Western Europeに大きなquotaが与えられ、Southern and Eastern Europeには小さいquotaしかなく、Asiaには長く強いexclusionが残りました。

制度は人口管理のtechnical systemに見えましたが、実際には「望ましい移民」をethnic hierarchyによって選ぶ20世紀前半の思想を法制度化したものでした。

1965年 Immigration and Nationality Act

1965年10月3日、Lyndon B. Johnson大統領はImmigration and Nationality Act amendments、通称Hart–Celler Actへ署名しました。

LBJ Presidential Libraryは、この法律が40年以上続いたquota systemを廃止し、家族関係と技能を中心にimmigrant visasを配分する制度へ変えたと説明しています。

lawはCivil Rights ActやVoting Rights Actと同じ時期に成立しており、domestic civil-rights reformとnational-origin discriminationの見直しが同じpolitical momentに存在しました。

Liberty Islandでの署名

JohnsonはStatue of LibertyのあるLiberty Islandで法案へ署名しました。

場所の選択自体がsymbolicでした。Ellis IslandとStatue of Libertyを背景に、旧quota systemからより出身国中立的な制度へ移行することをpublicly演出しました。

ただし演説で「このlawはAmerican livesを革命的に変えるものではない」という趣旨も語られ、当時の政策担当者が後の人口構成変化を十分予測していなかったこともよく指摘されます。

家族呼寄せを中心とするpreference system

1965年法の核心は、national originではなくfamily relationshipとoccupational skillをvisa preferenceの中心にしたことです。

U.S. citizensのimmediate relativesはnumerical ceilingから除外され、その他のfamily categoriesにも大きなpriorityが置かれました。

一度新しい地域からimmigrant communityが形成されると、その人々が配偶者、子、親、兄弟姉妹を呼び寄せることができるため、家族networkが長期的なmigration patternを形づくる制度となりました。

技能移民

family preferencesと並び、特定のprofessional skillsやlabor needsを持つ移民にもpreferenceが設けられました。

医師、engineer、scientistなど高度教育を受けたprofessionalsがAsiaを含む各地から移住する経路が広がりました。

その結果、1965年以後のAsian immigrationには家族migrationだけでなく、professional and technical migrationという特徴も強く現れました。

「自由化」ではなかった1965年法

1965年法はnational-origins quotasを廃止しましたが、移民総数を無制限にしたわけではありません。

U.S. Codeの改正記録ではEastern Hemisphereのannual ceilingは170,000、各foreign stateには原則20,000のlimitが設定されました。

そのためlawは「quotaの廃止」というより、national-origin hierarchyをやめて別のnumerical allocation systemへ置き換えた改革でした。

Western Hemisphereと1968年の上限

Mexico、Canada、Caribbean、Central and South Americaを含むWestern Hemisphereは、1965年法以前にEurope型のnational-origins quotaとは異なる扱いを受けていました。

1965 reformでは西半球にも新たにannual ceilingを導入することが決まり、1968年7月から120,000人の総枠が実施されました。

この制度変更はLatin American migrationにとって重要でした。Europe・Asiaの差別的quotaをなくした改革が、同時にWestern Hemisphereにはそれまでなかった包括的numerical restrictionを導入したからです。

移民出身地域の変化

U.S. Census Bureauのhistorical analysisでは、1960年のforeign-born populationはEurope出身が約730万人、Asiaが約90万人、Latin Americaが約50万人でした。

1980年にはEuropeが約510万人へ減る一方、Asiaは約250万人、Latin Americaは約440万人へ増えています。

この15–20年間でforeign-born populationのgeographic compositionは大きく変わり、その傾向は1980年代以後さらに加速しました。

Europe中心から多地域型へ

20世紀前半までのimmigration narrativeではEuropeが圧倒的中心でしたが、戦後Europeでは生活水準が上昇し、United Statesへの大量移民圧力自体が以前より小さくなりました。

一方、Asia、Latin America、Caribbeanでは人口増加、政治変動、family networks、education・professional opportunitiesなど多様な要因がmigrationを促しました。

1965年法はその世界的な移動をU.S. immigration systemへ反映しやすくする制度条件となりました。

アジアからの移住増加

1965年以前、Chinese Exclusion、Asiatic barred-zone policies、national-origin quotasなどによってAsian immigrationは長く厳しく制限されてきました。

1965年reform後、India、Korea、Philippines、China・Taiwan、Japanなどからfamily and professional migrationが増えました。

ただし「Asian immigrants」は一つの社会集団ではありません。nationality、class、language、war experience、colonial historyによってmigration routesとcommunity formationは大きく異なりました。

「Asian American」という政治的identity

移民制度が変化した同時期に、国内では「Asian American」という新しいpolitical identityが形成されました。

1968年BerkeleyでYuji Ichioka、Emma GeeらがAsian American Political Allianceを結成し、Chinese、Japanese、Filipinoなどを別々の「Oriental groups」として扱うlanguageを拒否しました。

SmithsonianとNPSの資料は、このtermがBlack Powerとantiwar movementから影響を受け、racismとanti-imperialismへ共同で対抗するself-definitionとして生まれたことを示しています。

1968–1969年 Third World Liberation Front

San Francisco State Collegeでは1968年、Asian American、Black、Latino、Native American studentsがThird World Liberation Frontを形成しました。

Asian American Political Alliance、Intercollegiate Chinese for Social Action、Pilipino American Collegiate EndeavorなどはBlack Student UnionやLatino groupsとcoalitionを組み、長期student strikeを実施しました。

要求はEthnic Studiesの設置、minority studentsのadmissions拡大、community-relevant curriculumなどであり、「大学が誰の歴史をknowledgeとして認めるのか」を問う運動でした。

Ethnic Studiesの制度化

San Francisco Stateのstrikeは1968年11月から1969年春まで続き、最終的にCollege of Ethnic Studiesへつながる制度が形成されました。

NPSはこのstrikeをAsian American campus activismの大きな転換点とし、その後UC Berkeleyなど他大学へ類似運動が広がったと説明しています。

新しい移民人口だけでなく、すでに数世代にわたりU.S.に暮らすcommunitiesが自分たちのhistoryをpublic educationへ入れることが、1960年代後半の人口・文化再編の重要な部分でした。

1964年 Bracero Program終了

1942年にMexicoとUnited Statesが開始したBracero Programは、Mexican contract laborersを主に農業へ導入する制度でした。

Library of Congressは、低賃金と劣悪なlabor conditionsへの批判が続き、programが1964年に終了したと説明しています。

program終了はMexican labor migrationそのものを終わらせたわけではありませんが、California agricultureでfarmworkersがunion organizingを行う条件を大きく変えました。

1965年 Delano grape strike

1965年9月8日、California州DelanoでAgricultural Workers Organizing Committeeに所属するFilipino farmworkersがgrape growersに対するstrikeを開始しました。

NPSは800人以上、別のNPS資料では約1,500人規模のFilipino workersが関わったと記録しており、資料によって集計範囲が異なります。

中心的要求は賃上げと労働条件の改善で、strikeはその後五年近い長期闘争へ発展しました。

Larry ItliongとFilipino farmworkers

Larry Itliong、Philip Vera Cruz、Ben GinesらFilipino organizersはDelano strike開始で中心的役割を果たしました。

農業労働史がCésar Chávez一人の物語として語られると、このFilipino leadershipが見えなくなります。

ItliongはMexican American workersを中心とするNFWAへ共同行動を求め、異なるethnic groupsをstrikebreakersとして対立させてきたgrower strategyを崩すことを目指しました。

César ChávezとDolores Huerta

César ChávezとDolores Huertaは1962年にNational Farm Workers Association創設へ参加し、農場労働者を労働組合だけでなくcommunity movementとして組織しました。

1965年9月16日、NFWA membersはFilipino-led strikeへの参加を決定しました。

Dolores Huertaはorganizing、contract negotiation、legislative lobbyingで中心的役割を担い、後に「Sí, se puede」を広く知られるmovement sloganへしました。

United Farm Workers

AWOCとNFWAは1966年にUnited Farm Workers Organizing Committeeとして統合し、その後United Farm Workers of Americaへ発展しました。

Chávezがpresident、Itliongがassistant director/vice presidentとして働き、Filipino and Mexican workersのcooperationがunionの基盤となりました。

UFWは農業労働者にcollective bargaining、medical services、community servicesを提供し、農場労働をnational civil-rights issueとして可視化しました。

全国grape boycott

Delano strikeが長期化すると、unionは消費者boycottを全国へ拡大しました。

organizersはsupermarketsやstoresの前でpicketを行い、消費者へnon-union grapesを買わないよう求めました。

1970年には主要Delano growersがUFW contractsへ署名し、賃金、労働条件、union recognitionに関する重要な成果を得ました。

Chicanoという政治的identity

1960年代末、若いMexican Americansの一部は「Chicano」という語を積極的なpolitical identityとして再定義しました。

それまで侮蔑的に使われることもあった語を、自分たちのindigenous and Mexican heritage、Southwestの歴史、racial inequalityへの抵抗を示す言葉として用いました。

Chicano Movementはimmigration statusにかかわらず、教育、土地、police、labor、political representation、cultureをめぐるmovementでした。

1968年 East Los Angeles Walkouts

1968年3月、East Los Angelesの高校生たちは授業を離れ、学校制度へ集団抗議しました。

Library of Congressは、数千人のChicano studentsが「Mexican schools」と呼ばれる差別的・低水準な教育環境へ反対した出来事として記録しています。

teacher Sal Castroやstudent organizersが支援し、walkoutsはLos Angelesのurban Chicano Movementを全国的に可視化しました。

教育格差とbilingual education

studentsはcollege guidance counselorの増員、Mexican American teachers、Mexican American history courses、smaller classes、必要な生徒へのbilingual classes、parent advisory boardsなどを要求しました。

問題は単に校舎設備ではなく、Mexican American studentsがcollege-bound curriculumから外され、低い期待を向けられているというinstitutional discriminationでした。

この運動は後のbilingual education、ethnic studies、Latino teacher recruitmentをめぐる政策議論へつながりました。

1969年 Plan Espiritual de Aztlán

1969年DenverでRodolfo “Corky” GonzalesのCrusade for JusticeがNational Chicano Youth Liberation Conferenceを開催しました。

National Park Serviceによれば、ここでPlan Espiritual de Aztlánが初めてpublicに提示され、Chicano self-determinationとethnic prideを明確に打ち出しました。

Aztlánは古代Nahuatl traditionとSouthwestをsymbolically結びつけるconceptとして使われ、Chicano nationalismの重要なlanguageとなりました。

MEChAと大学運動

1969年前後、複数のMexican American student organizationsがMovimiento Estudiantil Chicano de Aztlán、MEChAへ統合されていきました。

MEChAはcollege recruitment、ethnic studies、community engagement、political educationを重視しました。

大学へ入った第一世代のMexican American studentsが、自分たちの存在を例外として扱うのではなくinstitutionそのものを変えることを要求した点が重要です。

Brown Berets

East Los AngelesではBrown Beretsがyouth-led Chicano organizationとして活動しました。

警察暴力、教育、Vietnam War、health careなどを問題にし、free clinicなどcommunity servicesも行いました。

Black Panther Partyから組織styleの影響を受けながらも、Mexican American historyとChicano self-determinationを独自の中心に置きました。

MALDEFと法廷戦略

1968年、Mexican American Legal Defense and Educational Fund、MALDEFが設立されました。

NPSのCivil Rights frameworkは、MALDEFをMexican Americansのvoting rightsとcivil rights litigationを担う主要organizationとして位置づけています。

street protestと並行して、学校、選挙区、employmentなどの差別をfederal courtsで争うlegal strategyがChicano politicsのもう一つの柱となりました。

1970年 Chicano Moratorium

Vietnam WarはChicano Movementの主要争点の一つになりました。

1970年8月29日、National Chicano Moratorium Against the Vietnam WarがEast Los Angelesで行われ、Library of Congressは20,000–30,000人が参加したとしています。

organizersはMexican American servicemenの犠牲だけでなく、国内のeducation、unemployment、housing、health careに資源を振り向けるべきだと主張しました。

Rubén Salazarの死

moratorium marchは平和的に始まりましたが、Laguna Park周辺でLos Angeles County Sheriff’s Departmentが介入し、混乱と暴力へ発展しました。

三人が死亡し、その一人がLos Angeles Times columnistでKMEX news directorのRubén Salazarでした。

Salazarはtear-gas projectileを受けて死亡し、その死はChicano communityにおけるlaw enforcementへの不信を強めました。

La Razaとcommunity media

Chicano Movementは自前のmediaを重要視しました。East Los Angelesの『La Raza』は1967年にcommunity newspaperとして始まり、police brutality、education、political representationを報じました。

NPSは『La Raza』が1968年walkoutsを積極的に支持し、mainstream mediaが十分扱わないcommunity issuesを可視化したと記録しています。

community newspaper、murals、poster、poetry、theaterはpolitical messageだけでなくChicano cultural identityを作るmediaでもありました。

Puerto Rican migrationはimmigrationではない

Puerto Ricansの本土移動はimmigration lawとは異なる制度で起こりました。1917年Jones-Shafroth Act以来、Puerto RicansはU.S. statutory citizensです。

Library of Congressは、Puerto RicoからNew York、Chicagoなどへの移動は法的にはinternal migrationであり、visaやimmigration quotaの対象ではないと説明しています。

それでもlanguage、race、labor market、housing discriminationなどの経験はimmigrant communitiesと重なる部分がありました。

Young Lords

1960年代末、ChicagoのPuerto Rican youth organization Young Lords Organizationはstreet gangからcommunity-based political groupへ変化しました。

New Yorkでは1969年にYoung Lords Partyが形成され、East Harlemを中心にgarbage collection、housing、health care、police brutalityを問題にしました。

彼らはBlack Panther Partyから影響を受け、free breakfast、health clinics、political educationなどcommunity survival programsを実施しました。

People’s Churchとcommunity programs

1969年12月、New York Young LordsはEast HarlemのFirst Spanish United Methodist Churchを11日間占拠し、「People’s Church」としました。

NPSによれば、occupiersはfree breakfast、community health clinics、Afro-Latino historyを含むpolitical educationを提供しました。

このactionはPuerto Rican rightsをabstract representationだけでなく、sanitation、health、food、educationという都市生活のservice inequalityとして示しました。

Cuban refugeesとFreedom Flights

Cuban Revolution後、United Statesには大規模なCuban exile and refugee populationが形成されました。

1965年にCubaが出国希望者の一部を認めると、United StatesとCubaはairliftを調整し、同年12月からいわゆるFreedom FlightsがMiamiとの間で運航されました。

Department of Stateの記録によれば、airliftは1973年まで続き、合計260,000人を超えるCuban refugeesがUnited Statesへ入国しました。

1966年 Cuban Adjustment Act

1966年11月2日、Cuban Adjustment Actが成立しました。

USCIS資料によれば、このlawはUnited Statesにparoleなどで入国した多数のCubansが一定条件を満たした場合、lawful permanent residenceへstatus adjustmentできる仕組みを作りました。

Cuban migrationは一般的immigration quotaだけでなくCold War refugee policyと特別法によって形成された点で、MexicoやAsiaからの移住とは異なる経路を持ちました。

Latin Americaからの移動は一つではない

「Latin American immigration」という一つのcategoryの中にも非常に異なるmigration regimesがありました。

Mexicoでは長いland border、labor demand、family networks、visa ceilingsが作用し、CubaではCold War refugee policyとspecial legislationが大きな役割を持ちました。Puerto Ricoからの移動はU.S. citizensによるinternal migrationでした。

Central and South Americaからのmigrationもcountryごとの政治危機、labor markets、family tiesによって異なり、1970年代末以後さらに多様化します。

1975年以後のIndochina refugees

1975年のSaigon陥落とIndochina war終結は、United Statesへ新たな大規模refugee migrationをもたらしました。

Vietnamese、Cambodian、Laotian refugeesがmilitary evacuation、parole authority、special legislationを通じて受け入れられました。

これは1965年immigration systemとは別のhumanitarian admission routeであり、Cold Warのmilitary interventionとdomestic population changeが直接結びつく例でした。

Vietnam・Cambodia・Laosからの移住

National Archivesによれば1975年から1979年までに約300,000人のVietnamese and Cambodian refugeesがPresidential actionなどでUnited Statesへ受け入れられました。

Laotian and Hmong refugeesも同時期以後に増加し、California、Texas、Minnesota、Wisconsinなど各地へresettleされました。

resettlementはvoluntary agencies、churches、local communitiesとfederal fundingを組み合わせて行われ、既存Asian American populationとは異なるwar-refugee communitiesが形成されました。

1976年移民法改正

1965年法はEastern and Western Hemispheresを異なる数的systemで管理していました。

1976年Immigration and Nationality Act AmendmentsはWestern HemisphereにもEastern Hemisphereと同様のpreference systemと20,000-per-country ceilingを拡張しました。

Public Law 94-571はWestern Hemisphere全体に年間120,000のlimitを置きつつ、各国の扱いをよりuniformにしました。

Mexicoと20,000人国別上限

1976年改正の影響が特に大きかったのがMexicoでした。

Congressional research materialによれば、Western Hemisphere ceilingが1968年に導入されてからMexicoからの合法immigration需要は毎年20,000人を大きく超えていました。

1977年から20,000-per-country limitが適用されると、family and employment petitionsのwaiting listsが拡大し、合法的な入国経路の不足がより明確になりました。

legal limitsとundocumented migration

1970年代のundocumented migrationは、移民を希望する個人の行動だけでは説明できません。

Bracero Program終了後もU.S. employersはagricultural and low-wage laborを求め続け、Mexico側にも越境就労の長い地域networkがありました。一方、legal visa numbersには新たなlimitsが設けられました。

労働市場が人を引きつける力と、legal admission systemが許可する人数の差が大きくなると、authorized statusを持たないmigrationが増える構造的条件が生まれます。

1980年 Refugee Act

1970年代のCuban、Vietnamese、Cambodianなどのrefugee admissionsはcountry-specific or emergency measuresへ大きく依存していました。

1980年Refugee Actはこのad hoc approachを整理し、United Nations standardsに沿ったgeneral refugee definitionとannual admissions processを作りました。

National Archivesによればlawは通常のannual ceilingを50,000とし、emergency adjustment、Congress–President consultation、Office of Refugee Resettlementを制度化しました。

移民国家の構造転換

1965–1980年にはimmigration law、refugee policy、labor migration、domestic racial politicsが同時に変化しました。

結果としてUnited Statesのforeign-born populationはEurope-centered structureからAsia and Latin Americaの比重が急速に高まるstructureへ移りました。

この人口変化はLos Angeles、New York、San Francisco、Miami、Houstonなど大都市だけでなく、suburbs、agricultural regions、Midwestern resettlement citiesにも長期的影響を与えます。

移民・市民・植民地的移動を区別する

この時代を理解するには「Latino」「Asian」「immigrant」を同義語として扱わないことが重要です。

Mexican Americansには何世代もU.S. citizensとしてSouthwestに暮らす人々が多く、Puerto Ricansは1917年以来U.S. citizensです。Japanese AmericansやChinese Americansにも複数世代のcitizensがいました。

一方、1965年以後新たに移住したIndian、Korean、Filipino、Chinese、Mexican、Cuban、Vietnameseなどには、それぞれfamily immigration、professional migration、refugee admissionなど異なるlegal routesがありました。

1965–1980年に何が変わったのか

第一に、national originによってEurope内の民族を序列化していたquota systemが廃止され、family tiesとskillsを中心とする制度へ変わりました。

第二に、Asian immigrationを長く抑えてきた制度的barriersが大きく後退し、Asia出身のforeign-born populationが急増しました。

第三に、Western Hemisphereにもnumerical ceilingsが導入され、1976年には20,000-per-country ruleがMexicoを含む各国へ適用されました。差別的quotaの廃止と新しい数的制限は同じ改革時代に存在しました。

第四に、farmworker movementがFilipino and Mexican labor solidarityによって全国的なcivil-rights and labor movementへ成長しました。Delano strikeをChávez一人の物語ではなくItliong、Vera Cruz、Huertaらの共同organizingとして見る必要があります。

第五に、Chicano Movementが教育、文化、選挙、警察、Vietnam WarをめぐってMexican American politicsを大きく変えました。これは新規移民のmovementではなく、U.S. domestic civil and political struggleでもありました。

第六に、「Asian American」というpan-ethnic political identityが1968年前後に形成され、Third World Liberation Frontなどを通じEthnic Studiesの制度化へつながりました。

第七に、Puerto Rican politicsはimmigration lawとは異なるcitizenship and colonial relationshipの問題として展開し、Young Lordsはurban servicesとself-determinationを結びつけました。

第八に、Cuban and Southeast Asian refugeesの受入れによってrefugee policyの重要性が拡大し、1980年Refugee Actで恒常的制度へ整理されました。

1965–1980年は「Americaが突然多文化国家になった」時代ではありません。すでに存在していた多様なcommunitiesの歴史と、新しいmigration flowsが重なり、法律・教育・労働・都市政治のすべてが再編され始めた時代でした。

1965–1980年の主な出来事

  • 1964年 — Bracero Program終了。
  • 1965年9月8日 — Filipino farmworkersを中心とするAWOCがDelano grape strikeを開始。
  • 1965年9月16日 — NFWAがDelano strikeへ参加。
  • 1965年10月3日 — JohnsonがImmigration and Nationality Act amendmentsへ署名。
  • 1965年12月 — Cuba–United States間のFreedom Flights開始。
  • 1966年 — AWOCとNFWAが統合しUnited Farm Workers Organizing Committeeを形成。
  • 1966年11月2日 — Cuban Adjustment Act成立。
  • 1968年3月 — East Los Angeles high school walkouts。
  • 1968年 — MALDEF設立。
  • 1968年 — Asian American Political Alliance形成。「Asian American」が政治的identityとして広がる。
  • 1968年7月1日 — Western Hemisphereに年間120,000のimmigration ceilingが発効。
  • 1968年11月–1969年 — San Francisco State Third World Liberation Front strike。
  • 1969年 — DenverのNational Chicano Youth Liberation ConferenceでPlan Espiritual de Aztlánが提示。
  • 1969年 — Young LordsのNew York chapter形成。
  • 1969年12月–1970年1月 — Young LordsがEast HarlemのFirst Spanish United Methodist ChurchをPeople’s Churchとして占拠。
  • 1970年7月29日 — Delano-area grape growersが主要UFW contractsへ署名。
  • 1970年8月29日 — National Chicano Moratorium。Los Angelesで20,000–30,000人規模のantiwar march。
  • 1970年 — Puerto Rican populationがU.S. mainlandの都市政治で重要な存在となりYoung Lordsの活動が拡大。
  • 1971年 — Larry ItliongがUFW leadershipから離れる。
  • 1972年 — La Raza Unida PartyがEl Pasoでnational conventionを開催。
  • 1973年 — CubaからのFreedom Flights終了。
  • 1975年 — Vietnam War終結後、Vietnam・Cambodia・Laosから大規模refugee migration。
  • 1975年 — Indochina Migration and Refugee Assistance Act成立。
  • 1976年10月20日 — Immigration and Nationality Act Amendments of 1976成立。
  • 1977年1月 — Western Hemisphere諸国にも20,000-per-country immigration limitが適用。
  • 1978年 — hemispheric ceilingsの統合が進み、worldwide immigration frameworkへ再編。
  • 1979年 — Indochina refugee crisisへのU.S. resettlement commitmentが大幅に拡大。
  • 1980年3月17日 — Refugee Act of 1980成立。refugee admissionとresettlementの恒常制度を構築。

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1960年代の社会運動とVietnam Warが終盤へ向かう一方、1970年代のアメリカでは経済構造そのものが変わり始めました。1973年oil crisis、stagflation、industrial decline、New York fiscal crisis、Sun Belt growthなどによって、戦後の「大量生産・高賃金・郊外化」を支えた経済modelが揺らぎます。

この変化は単なる景気後退ではありません。Detroitなど旧工業都市の雇用減少、South and Westへの企業・人口移動、energy price shock、union powerの変化、financializationの前段階が重なり、1980年代の政策転換を準備しました。

次の記事は、1973–1980|アメリカ|石油危機と経済転換 — Oil Shock、Stagflation、Deindustrialization、Sun Beltとすると、1960年代社会運動史から1970年代後半の経済・政治構造変化へ自然に進めます。

参考資料・出典

本ページは、Lyndon B. Johnson Presidential Library、U.S. Citizenship and Immigration Services、U.S. Census Bureau、U.S. National Park Service、Library of Congress、Smithsonian Institution、U.S. Department of State Office of the Historian、U.S. National Archives、GovInfoなどの公的・研究機関資料を中心に参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。1965年法を単純な「国境開放」とせず数的上限を明記し、Mexican American・Puerto Rican・Asian Americanの社会運動を新規移民運動と同一視しないよう区別しています。またDelano grape strikeではFilipino farmworkersの先行strikeとLarry Itliongらの役割を明示しています。

資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY