紀元前200–200
ユーラシア帝国と交易圏
ローマ、漢、パルティア、クシャーナ、広域交易
紀元前2世紀から西暦2世紀にかけて、ユーラシア大陸の広い地域では、大規模な帝国と長距離交易網が並行して発展した。地中海ではローマ共和国が内戦を経て帝政へ移行し、アウグストゥス以後、地中海沿岸の広大な領域を支配した。東アジアでは漢が中国を統治し、北方の匈奴との抗争や外交を通じて中央アジアへの関与を深めた。西アジアではパルティアがローマと中央アジアの間に位置する大国として存続し、南アジア北西部から中央アジアではクシャーナ朝が成長した。
これらの帝国は直接一つの政治秩序を共有していたわけではない。しかし、中央アジアのオアシス路、草原路、紅海、アラビア海、インド洋、南シナ海などを介して、絹、香料、ガラス、金銀、宝石、織物、馬、象牙、穀物などが広域に移動した。人と物の移動は宗教や造形、言語、貨幣、技術にも影響を与えた。後世「シルクロード」と呼ばれる陸上交易網だけでなく、海上交易も同じくらい重要だった。
一方、この時代を「世界が初めて一つにつながった」と表現するのは正確ではない。ローマと漢の間に現代的な外交関係や定期的な直接交易が存在したわけではなく、多くの商品は複数の仲介者を経て移動した。パルティア、中央アジアの諸集団、インドの港湾都市、アラビア商人、東南アジアの地域社会など、多数の中継地が交易を支えていた。広域交流は帝国の力だけで作られたのではなく、商人、船乗り、遊牧民、地方都市、港、宗教共同体の活動によって成立していた。
また、この約400年間には宗教史上の大きな変化も重なった。南アジアから中央アジアへ仏教が広がり、ガンダーラやマトゥラーでは仏像表現が発展した。ユダヤ教世界では第二神殿時代の多様な宗教運動が展開し、西暦70年のエルサレム神殿破壊後に大きな再編が進んだ。1世紀にはユダヤ社会の中からイエスを中心とする運動が生まれ、後にキリスト教として地中海世界各地へ広がっていった。こうした宗教の拡大も、帝国道路、港湾、都市、交易網と無関係ではなかった。
ただし、この時代の世界全体をユーラシアだけで代表することはできない。メソアメリカではテオティワカンが巨大都市へ成長し、マヤ地域では後期先古典期の都市と王権が発展した。アンデスではナスカやモチェにつながる地域文化が形成され、東アフリカではメロエとアクスムが紅海・ナイル交易に関わった。東南アジアではドンソン文化やサーフィン文化などが広域交流網に参加し、朝鮮半島と日本列島でも政治的統合の前段階が進んだ。この時代を見る上で重要なのは、一つの「世界帝国」が存在したことではなく、複数の政治圏と交易圏が重なり始めたことである。
時代背景 — 紀元前から西暦へ
本記事は紀元前と西暦をまたぐが、一般的な西暦紀年法には「西暦0年」は存在しない。紀元前1年の次が西暦1年である。この区切りは後世にキリスト教世界で成立した紀年法によるものであり、紀元前1年から西暦1年に世界史的な制度変化が突然起きたわけではない。当時のローマ人、漢の人々、パルティア人、インドの諸社会、マヤの人々は、それぞれ異なる暦と年代認識を用いていた。
紀元前200年頃、ローマは第二次ポエニ戦争を終え、西地中海の覇権をカルタゴから奪いつつあった。中国では前漢が成立しており、武帝の時代に向けて中央集権と領域拡張を進めていた。西アジアではセレウコス朝の支配が弱まり、パルティアが勢力を拡大していた。南アジアではマウリヤ朝の崩壊後、シュンガ朝、サータヴァーハナ朝、インド・ギリシア系諸王国など複数の勢力が並立した。
その後、紀元前1世紀から西暦1世紀にかけて、ローマは共和政から帝政へ移り、前漢は一度新王朝によって中断された後、後漢として再建された。クシャーナ朝が中央アジアから南アジア北西部へ勢力を広げ、パルティアはローマと長期にわたって対峙した。これらの政治変化と同時に、陸路・海路の交易が拡大し、ユーラシア各地の社会が互いの存在をより強く意識するようになった。
CONTENTS
- ローマ共和国から帝政へ
- アウグストゥスと帝政の成立
- ローマ帝国の地方支配 — 市民、属州、奴隷
- 前漢と武帝 — 帝国の拡大
- 新王朝と後漢 — 断絶と継承
- パルティア — ローマと中央アジアの間で
- クシャーナ朝 — 中央アジアと南アジアを結ぶ帝国
- 仏教の広がりとガンダーラ・マトゥラー
- 「シルクロード」は一本の道ではない
- 紅海・インド洋交易 — 海上ネットワーク
- 東南アジア — 交易圏の結節点へ
- 朝鮮半島と日本列島 — 政治的統合の前段階
- 第二神殿時代のユダヤ教とローマ支配
- イエス運動から初期キリスト教へ
- アフリカ — メロエとアクスム、紅海世界
- アメリカ大陸 — テオティワカン、マヤ、ナスカ、モチェ
- 単純化しやすい論点への注意
- この時代に何が変わったのか
- 主な出来事
ローマ共和国から帝政へ
紀元前2世紀のローマは、すでにイタリア半島を越えて地中海の広い地域に軍事的影響力を持っていた。紀元前202年のザマの戦いでカルタゴを破った後、ローマはマケドニア、ギリシア、小アジア方面にも介入を強め、紀元前146年にはカルタゴとコリントスを破壊した。しかし、この海外拡張は共和国内部の安定を保証しなかった。
征服戦争によって大量の戦利品、奴隷、属州収入がローマへ流入する一方、軍務に長期間従事した市民農民の生活や土地所有をめぐる問題が政治争点となった。紀元前133年のティベリウス・グラックス、紀元前123年以後のガイウス・グラックスによる改革は、土地分配、穀物、属州統治、市民権などに関わる問題を扱ったが、両者とも政治暴力の中で死亡した。これ以後、ローマ政治では暴力的対立が常態化していく。
紀元前1世紀には、マリウスとスッラ、ポンペイウスとカエサルなど、長期に軍を率いた将軍が大きな政治力を持つようになった。スッラはローマ市へ軍を進めて独裁官となり、政敵の追放と処刑を行った。後にカエサルも内戦に勝利し、終身独裁官となったが、紀元前44年に元老院議員らによって暗殺された。
カエサル暗殺後も共和政は安定せず、オクタウィアヌス、マルクス・アントニウス、レピドゥスによる第二回三頭政治が成立した。紀元前31年のアクティウムの海戦でオクタウィアヌスがアントニウスとクレオパトラ7世の勢力を破り、翌年エジプトを支配下に置いたことで、ローマ内戦は大きな区切りを迎える。
アウグストゥスと帝政の成立
紀元前27年、元老院はオクタウィアヌスに「アウグストゥス」の称号を与えた。ローマでは共和政の役職や元老院が形式上存続したため、本人は「王」を名乗らなかった。しかし実際には、軍事指揮権、属州統治権、護民官的権限などが一人に集中し、後世「元首政」と呼ばれる新しい政治体制が成立した。
アウグストゥスは内戦後の軍を再編し、常備軍と退役兵制度を整え、属州統治と徴税の仕組みを安定させた。ローマ市では建築事業が進み、皇帝一家は貨幣、彫像、祭壇、神殿を通じて新しい秩序を可視化した。皇帝を中心とする政治体制は、単なる個人独裁だけではなく、元老院、都市共同体、地方エリート、軍、宗教儀礼を組み合わせることで支えられていた。
アウグストゥス以後の1〜2世紀は、しばしば「ローマの平和」と呼ばれる。たしかに帝国内部では大規模な内戦が長期間抑えられ、道路、港湾、貨幣流通、都市建設、交易が発展した。しかし「平和」はローマ支配地域すべての住民に同じ経験を意味しなかった。国境では戦争が続き、属州では反乱が起こり、軍事征服、奴隷化、徴税も帝国秩序を支えていた。
9年にはゲルマン地域のトイトブルク森でローマ軍三個軍団が壊滅し、ライン川以東への恒久的な領域拡張は限定された。43年にはクラウディウス帝の下でブリテン征服が始まり、トラヤヌス帝の時代にはダキア征服と一時的なメソポタミア進出によって領域が最大規模に達した。ハドリアヌス帝はその一部を放棄し、国境防衛を重視する方向へ転じた。
ローマ帝国の地方支配 — 市民、属州、奴隷
ローマ帝国は、ローマ市から同じ法律と文化を一方的に押し広げた均質な国家ではなかった。属州ごとに既存の都市、王国、宗教、言語、地方エリートを利用し、異なる統治方法を組み合わせた。ギリシア語は東地中海で広く使われ続け、ラテン語は西方の軍事・行政で重要性を増した。エジプトではギリシア語とエジプト語が併存し、地方神殿も存続した。
帝国都市ではフォルム、浴場、円形劇場、水道、神殿などローマ的建築が広がったが、それらは地域ごとの伝統と組み合わされた。地方エリートにローマ市民権を与え、自治都市の名誉職を通して帝国制度へ取り込むことは、軍事力だけでなく支配を安定させる重要な方法だった。ローマ市民権は徐々に拡大したが、2世紀末の時点でも帝国住民すべてが市民だったわけではない。
ローマ社会は奴隷制にも大きく依存していた。戦争捕虜、奴隷市場、出生などを通じて多数の人が奴隷身分となり、農業、鉱山、家庭、工房、教育、行政補助など幅広い分野で労働した。解放奴隷となって経済的成功を収める者もいたが、奴隷身分そのものは所有者の強い支配下に置かれる制度だった。帝国の繁栄を道路や都市だけで語ると、こうした強制労働や社会的不平等を見落とす。
属州の負担にも地域差があった。エジプトはローマ市への穀物供給で重要であり、鉱山や採石場では厳しい労働が行われた。地方住民は租税を納め、場合によっては軍や公共事業へ資源を提供した。一方で、帝国統治が治安、貨幣、港湾、交通路を一定程度安定させたことで、地域交易や都市経済が成長した例もある。帝国支配の影響は、利益か搾取かの一語で統一することはできない。
前漢と武帝 — 帝国の拡大
前漢は紀元前206年に成立し、劉邦が紀元前202年に支配を確立した。初期の漢は秦の中央集権制度を利用しつつ、一部地域では皇族や功臣を王として配置した。時間の経過とともに中央政府は地方王国の力を削減し、郡県制を通じた行政支配を強めていった。
紀元前141年に即位した武帝は、漢帝国の拡大を象徴する皇帝である。北方の匈奴に対する大規模な軍事作戦を行い、河西回廊を確保し、西方のオアシス地域への関与を進めた。南方では現在の中国南部やベトナム北部へ支配を広げ、朝鮮半島北部にも郡を設置した。こうした拡大は軍事的成功だけでなく、長距離補給、馬の確保、租税、官僚組織を必要とした。
武帝期には張騫が中央アジアへ派遣され、月氏、大宛、バクトリアなど西方地域についての情報が漢朝廷へもたらされた。張騫の遠征は「シルクロードを開いた」と説明されることが多いが、彼以前にも中央アジアには交易路が存在した。重要なのは、漢政府がそれらの地域を外交・軍事・交易の対象として体系的に認識するようになったことである。
前漢では儒家的古典が官僚教育と政治倫理で重要性を増したが、制度運営は秦以来の法・行政技術を多く受け継いでいた。司馬遷が『史記』を著し、皇帝、諸侯、人物、周辺諸民族、経済などを大規模な歴史叙述の中に位置づけたのもこの時期である。帝国が拡大するにつれ、自国と周辺世界を分類し記録する知的枠組みも発達した。
新王朝と後漢 — 断絶と継承
前漢末期には宮廷政治と外戚の力が強まり、9年、王莽が漢から帝位を奪って新王朝を建てた。王莽は古代制度を理想とする名目で土地、貨幣、官制などの改革を試みたが、政策の混乱、洪水、飢饉、反乱などが重なり、23年に殺害された。
25年、漢王室の一族である劉秀が光武帝として漢を再興した。後漢は都を洛陽に置き、220年まで続く。前漢と後漢の間には政治的断絶があったが、漢という王朝名、官僚制、皇帝制度、地方行政は再構築され、長期的な帝国秩序が続いた。
後漢期には班超が中央アジアで活動し、1世紀後半にタリム盆地方面への漢の影響力を回復した。中央アジアからの使節や商人が洛陽へ来訪し、東西交易は活発化した。166年には「大秦」の王「安敦」からの使者とされる一行が漢の宮廷に到着したという記録がある。「安敦」をローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスと結びつける解釈があるが、その一行がローマ政府の正式使節だったかどうかは不確かであり、商人が皇帝名を用いた可能性も論じられている。
後漢では紙の改良が蔡倫と結びつけて105年頃と伝えられ、張衡は132年に地震の方向を検知する装置を作ったとされる。これらは当時の技術・官僚文化の高度さを示すが、「紙を蔡倫が一人で発明した」とする単純な説明にも注意が必要である。彼以前の紙状素材も考古学的に確認されており、蔡倫は製法の改良と宮廷への報告で重要な人物と考えられている。
パルティア — ローマと中央アジアの間で
パルティア、すなわちアルサケス朝は紀元前3世紀半ばにイラン北東部で成立し、紀元前2世紀のミトラダテス1世以後、イラン高原とメソポタミアを支配する大国となった。ティグリス川沿いのクテシフォンは重要な王都となり、対岸のセレウキアなど古いヘレニズム都市も経済活動を続けた。
パルティアの政治構造はローマや漢の中央集権体制とは異なり、王家と有力貴族、地方王国の関係によって成り立っていた。広い領域を支配したものの、地方の自治性が比較的強く、アルメニア、メソポタミア、イラン高原の諸地域ではそれぞれ異なる政治関係が存在した。ギリシア語貨幣、イラン系王権、メソポタミア都市文化が同じ政治圏に共存した。
紀元前53年、カルラエの戦いでパルティア軍はローマのクラッスス軍を壊滅させた。この敗北はローマにとって大きな衝撃となった。その後、ローマとパルティアはアルメニアの王位やメソポタミアをめぐって何度も対立するが、どちらか一方が相手を恒久的に征服することはできなかった。アウグストゥスは紀元前20年、外交交渉によってカルラエで失われた軍旗を返還させ、この成果を軍事勝利に近い形で政治宣伝に利用した。
2世紀にはトラヤヌスがパルティア領へ大規模侵攻を行い、クテシフォンを占領したが、広大な領域を維持できず、後継のハドリアヌスは多くを放棄した。ローマとパルティアの関係は、単なる敵対だけではない。国境地帯には交易、外交、婚姻、地方勢力の駆け引きがあり、パルティア領は地中海と中央アジアを結ぶ重要な中継地域でもあった。
クシャーナ朝 — 中央アジアと南アジアを結ぶ帝国
クシャーナ朝の起源は、中国史料で月氏と呼ばれる集団の一部にある。月氏は紀元前2世紀に匈奴の圧力を受けて西方へ移動し、バクトリア地域に定着した。後にその一派である貴霜が勢力を拡大し、1世紀頃にクジュラ・カドフィセスらの下で統合を進めた。クシャーナ朝は現在のアフガニスタン、パキスタン、北インド、中央アジアの一部を結ぶ政治圏を形成した。
クシャーナの重要性は、その地理的位置にある。ヒンドゥークシュ山脈を越える陸路、タリム盆地へ向かう中央アジア路、インダス川流域、アラビア海沿岸を結び、陸上と海上の交易双方へ接続できた。貨幣にはギリシア文字を利用した銘文、イラン系・インド系・ギリシア系の神々が現れ、多宗教・多言語的な社会を反映している。
カニシカ王は1世紀末から2世紀前半頃の重要な君主とされるが、正確な即位年代には学説上の幅がある。彼の時代、プルシャプラ、現在のペシャワール周辺とマトゥラーなどが重要な政治・文化拠点となった。クシャーナ朝は仏教を強く支援した王朝として知られるが、貨幣には仏教だけでなく多様な神格が表されており、王朝を単一宗教国家として理解することはできない。
クシャーナ貨幣にはローマ金貨との関係を思わせる重量体系もみられ、南アジアとローマ世界を結ぶ交易の広がりが反映されている。一方、それを「ローマ貨幣を模倣しただけ」とみなすのも一面的である。クシャーナ王権は複数の貨幣・言語・図像伝統を組み合わせ、自らの広域支配に適した独自の王権表象を形成した。
仏教の広がりとガンダーラ・マトゥラー
仏教はマウリヤ朝のアショーカ以後、南アジア各地へ拡大し、紀元前後には中央アジア方面にも広がり始めた。商人や僧侶が都市・交易路を移動し、仏教僧院は巡礼、寄進、教育、宿泊など複数の機能を持つ場所となった。スリランカでもアヌラーダプラを中心に仏教王国の伝統が形成されていった。
ガンダーラでは、クシャーナ時代に仏陀を人間の姿で表す像が広く制作されるようになった。波打つ衣、写実的な身体表現、コリント式を思わせる建築装飾など、ヘレニズム・ローマ的要素と仏教主題が組み合わされている。一方、北インドのマトゥラーでも同時期に独自の仏像表現が発展した。
かつて「仏像はギリシア美術の影響によって初めて生まれた」と単純に説明されることがあった。しかし現在では、ガンダーラとマトゥラーの複数の造形伝統、宗教的需要、寄進文化、地域間交流を考慮する必要がある。仏像成立には外来様式の影響だけでなく、南アジア内部の長い人物表現と宗教図像の伝統も関わっていた。
仏教の拡大は政治権力だけで説明できない。王や有力者の支援は重要だったが、碑文や寄進記録には商人、職人、女性、僧侶、地方住民など多様な寄進者が現れる。交易路に沿う都市と僧院のネットワークが、仏教を国境を越えて広げる基盤の一つとなった。
「シルクロード」は一本の道ではない
「シルクロード」という名称は便利だが、古代の人々がその名称で一本の国際道路を認識していたわけではない。用語そのものは19世紀に作られた。紀元前後のユーラシアでは、タリム盆地のオアシス路、中央アジアの山岳路、ユーラシア草原、イラン高原、メソポタミアへ至る道路など複数の経路が存在した。
中国産の絹は西方で高価な商品となったが、絹だけが移動したわけではない。漢は中央アジアから馬、ブドウ、ザクロ、胡麻などを得たとされ、西方へは絹、漆器などが運ばれた。ローマ世界のガラス製品、金属器、貨幣なども東方で発見される。商品の多くは商人から商人へ渡り、複数の市場を経由した。
パルティアやクシャーナ朝は、この交易を「独占」したというより、交易路の重要な地域を支配し、その安全、課税、都市経済から利益を得た。ソグディアナなど中央アジアの商人社会が後世さらに大きな役割を持つようになるが、その前提となる広域ネットワークはこの時代すでに形成されていた。
交易網は病原体や軍事技術の移動経路にもなり得た。2世紀後半、ローマ帝国ではいわゆるアントニヌス疫病が広がり、人口と軍に大きな打撃を与えた。病原体の正体や正確な伝播経路は確定していないため、「シルクロードを通じて中国から直接伝わった」と断定することはできない。しかし、人の移動と長距離接続が感染症拡大の条件を変えた可能性は重要である。
紅海・インド洋交易 — 海上ネットワーク
古代の広域交易を陸路だけで考えると、世界像は大きく歪む。1世紀頃には紅海からアラビア海、インド西岸へ向かう海上交易が活発化していた。ローマ支配下のエジプトではベレニケやミオス・ホルモスなどの紅海港が重要で、ナイル流域から砂漠道路を越えて商品が運ばれた。アレクサンドリアは地中海側の巨大な集散地だった。
南アラビアでは乳香・没薬だけでなく、アフリカやインドから届く香料、象牙、宝石、織物などが交易された。ナバテア人のペトラも、アラビア内陸の隊商路と地中海を結ぶ結節点として繁栄した。106年にナバテア王国はローマに併合されるが、地域の交易活動そのものが直ちに消滅したわけではない。
インド西岸ではバリガザ、現在のバルーチ付近、南西岸ではムジリスとされる港などが地中海世界の文献に登場する。金銀貨、ワイン、ガラスなどがインドへ入り、香辛料、宝石、真珠、象牙、綿織物などが西方へ運ばれた。ローマ貨幣が南インドで多数発見されることも、こうした交易の存在を示している。
ただし、「ローマがインドを貿易支配していた」と考えるべきではない。インド洋交易はインド系、アラビア系、東アフリカ系、エジプト系など多様な商人によって担われた。季節風を利用した航海は古くから地域社会に知られており、地中海側の商人がそれを「発見した」のではない。ローマ世界は既存のインド洋交易網へ大規模な買い手として加わったのである。
東南アジア — 交易圏の結節点へ
紀元前後の東南アジアでは、北部ベトナムを中心とするドンソン文化が青銅製の大型鼓で知られ、その製品は中国南部から島嶼部まで広い範囲で発見されている。南ベトナムのサーフィン文化では甕棺墓、ガラス・カーネリアンなどの装身具が見つかり、島嶼東南アジアやインド方面との接触が確認される。
紀元前111年、漢は南越を征服し、現在のベトナム北部を帝国の行政圏へ組み込んだ。40年には徴姉妹、徴側と徴弐が漢支配に対して反乱を起こし、一時的に独立勢力を形成したが、43年に漢軍によって鎮圧された。後世のベトナム史では二人は抵抗の象徴として記憶される。
一方、東南アジア全体が漢やインドの「影響を受けるだけ」の地域だったわけではない。地域社会は海峡・河川・沿岸航路を掌握し、インド洋と南シナ海を結ぶ中継者として重要な役割を持った。インド製ガラス玉、陶器、文字要素、中国鏡、東南アジア産の香料や森林資源などが各地を移動した。
カンボジア南部・ベトナム南部では、後に中国史料で扶南と呼ばれる政治圏が1〜2世紀頃から形成されたと考えられる。ただし扶南の年代、領域、国家構造については中国史料と考古学をどう対応させるかに議論があり、一つの中央集権国家として固定的に描くことは避けるべきである。
朝鮮半島と日本列島 — 政治的統合の前段階
朝鮮半島では、後世に高句麗、百済、新羅、伽耶へつながる政治集団が紀元前後から発展した。伝統的史書には各王国の建国年が紀元前1世紀に置かれているが、考古学的に明確な国家体制が整う時期は地域によって異なる。北部では漢の楽浪郡が紀元前108年に設置され、中国系文物・文字・行政文化が朝鮮半島北部の社会に影響を与えた。
南部では複数の小国・首長制が並立し、鉄生産と交易が重要だった。鉄は日本列島にも輸出され、朝鮮海峡を越える人・物・技術の移動が続いた。後の三国時代の王国は、この時期の地域社会と対外交流を基盤に形成されていく。
日本列島では弥生時代が進行し、水田稲作、青銅器・鉄器、環濠集落などが各地に広がった。1世紀の中国史料には「倭」の複数の政治集団が記録され、57年には倭の奴国の王が後漢へ使者を送り、印を与えられたという記事がある。福岡県志賀島で発見された金印は、この記録と関連づけられてきた。
ただし「日本国家」がこの時点ですでに成立していたとみなすことはできない。列島には多数の政治集団が存在し、地域差も大きかった。後のヤマト王権につながる大型古墳の時代は主として3世紀以後であり、本記事の時代は政治的統合が徐々に進む前段階として理解するのが適切である。
第二神殿時代のユダヤ教とローマ支配
紀元前2世紀から西暦1世紀のユダヤ教は、一枚岩の宗教ではなかった。紀元前167年頃、セレウコス朝アンティオコス4世の宗教政策に対してマカバイ反乱が始まり、ハスモン朝が自立した政治勢力となった。その後、紀元前63年にポンペイウスがエルサレムへ進軍し、ユダヤ地方はローマの強い影響下に入る。
紀元前37年から統治したヘロデ大王はローマの支持を受けた王で、エルサレム神殿の大規模改築、カイサリア港建設などを進めた。彼の死後、領土は分割され、一部は後にローマ属州ユダヤとなった。ローマ支配と地方王権、神殿祭司、宗教集団、民衆の関係は複雑で、政治的緊張が続いた。
当時のユダヤ教には、パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派とされる集団のほか、多様な宗教・政治運動が存在した。死海文書は紀元前3世紀から西暦1世紀にかけてのユダヤ教世界が、聖書解釈、共同体規則、終末思想、儀礼をめぐって多様だったことを示している。死海文書と初期キリスト教に共通点が指摘されることはあるが、両者を直接同一の共同体とみなす根拠はない。
66年にユダヤ人の大規模反乱が始まり、70年にローマ軍がエルサレムを占領して第二神殿を破壊した。神殿を中心とする祭祀の継続が不可能になったことは、ユダヤ教に大きな変化をもたらした。各地の会堂、律法研究、ラビ的伝統がより重要になり、後のラビ・ユダヤ教へつながる再編が進んだ。
132〜135年にはバル・コクバ反乱が起こり、ローマ軍によって鎮圧された。ユダヤ教社会はその後もパレスチナとディアスポラ双方に存続するが、エルサレムとの政治的関係は大きく変化した。ユダヤ人の離散を「70年に全員が追放された」と説明するのは誤りで、ディアスポラ共同体はそれ以前から地中海・西アジア各地に存在していた。
イエス運動から初期キリスト教へ
1世紀前半、ローマ支配下のユダヤ社会でナザレのイエスを中心とする宗教運動が生まれた。イエスはユダヤ人として活動し、その教えも第二神殿時代ユダヤ教の文脈の中で理解する必要がある。彼の生涯と教えについての主要資料は後に成立したキリスト教文書であり、具体的な年代や出来事の細部には歴史研究上の議論がある。
イエスの死後、弟子たちは彼をメシア、キリストとして信じる共同体を形成した。当初の運動はユダヤ社会の内部にあったが、パウロらの活動を通じて非ユダヤ人にも急速に広がった。アンティオキア、エフェソス、コリントス、ローマなど地中海の都市は、初期キリスト教共同体の重要な拠点となった。
キリスト教が広がった背景には、ローマ帝国の道路、港湾、共通語としてのギリシア語、都市間の人の移動があった。ただし「ローマ帝国がキリスト教普及のために道路を作った」わけではない。軍事・行政・交易のために整備された交通環境を、宣教者や信徒も利用したという関係である。
1〜2世紀のキリスト教はまだ制度や教義が完全に統一された宗教ではなかった。イエスの位置づけ、ユダヤ律法との関係、共同体の指導体制、典礼、正典文書などをめぐって多様な立場が存在した。ローマ政府による対応も時期と地域で異なり、帝国全体で継続的な一斉迫害が行われていたわけではない。ネロ帝期のローマでの処罰や、2世紀の地方総督による対応など、局地的・断続的な迫害が確認される。
2世紀になると、司教を中心とする地域共同体、書簡、福音書、護教文書などを通じて教会制度と教義の枠組みが徐々に形成される。キリスト教がローマ帝国の公認宗教となるのははるか後の4世紀であり、この時代の信徒は帝国内の小規模な宗教共同体の一つだった。
アフリカ — メロエとアクスム、紅海世界
ナイル上流ではクシュ王国のメロエが、この時代も重要な政治・交易中心だった。メロエはナイル川と内陸の隊商路が交わる位置にあり、金、象牙、家畜、工芸品などの交易に関わった。メロエ文字による碑文が使われ、エジプト的伝統を取り込みながら独自の王権・宗教文化を発展させた。
紀元前1世紀末、ローマがエジプトを支配すると、ローマ軍とメロエ王国の間で戦闘が起きた。紀元前24年頃にはメロエ側が南エジプトへ進攻し、ローマの総督ペトロニウスが反撃した。最終的には講和が成立し、国境と交易関係が安定した。メロエはローマの属国になったわけではなく、独立王国として存続した。
紅海のさらに南、現在のエチオピア・エリトリア高地では、1世紀頃からアクスムが交易国家として成長した。港アドゥリスを通じて紅海航路に接続し、象牙などアフリカ内陸の物資を輸出した。2世紀の地理学者プトレマイオスもアクスムに言及しており、この頃には地域の有力政治中心として知られていた。
アクスムが巨大な石碑と金貨、キリスト教王国として最盛期を迎えるのは主に3〜4世紀以後であるため、本記事の時期には形成期として扱うべきである。しかし紅海交易における東アフリカの重要性はすでに高まり、アラビア半島、エジプト、インド洋世界との接触が後のアクスム帝国発展の基盤となった。
アメリカ大陸 — テオティワカン、マヤ、ナスカ、モチェ
紀元前200年から西暦200年のメソアメリカでは、旧世界とは独立した形で大規模都市と政治中心が形成されていた。メキシコ中央高原のテオティワカンは紀元前後から急速に成長し、1〜2世紀には太陽のピラミッドや月のピラミッド周辺の都市計画が進んだ。黒曜石資源、農業生産、宗教中心地としての役割が人口集中を支えたと考えられる。
オアハカ盆地のモンテ・アルバンも有力な都市国家として拡大し、周辺地域との政治・交易関係を強めた。メキシコ西部では竪穴墓文化が続き、湾岸地域では後オルメカ系文化が文字・暦の発展に関わった。メソアメリカは一つの帝国に統一されていたわけではなく、複数の都市・地域文化が競合しながら交流していた。
マヤ地域では、紀元前300年頃から西暦250年頃までを後期先古典期とする区分が一般的で、この時期にエル・ミラドールなど巨大な儀礼中心地が形成された。1世紀頃には王墓や記念碑、文字体系の使用が確認され、後の古典期王朝国家につながる制度が整いつつあった。したがって「マヤ文明は西暦250年に突然始まった」のではない。
アンデスではパラカス文化が紀元前後まで続き、その後ナスカ文化が南海岸で発展した。ナスカは彩色土器、織物、大規模な地上絵で知られる。北海岸では1〜2世紀頃からモチェ文化が形成され、灌漑農業、大型神殿建築、精緻な土器・金属工芸を発展させた。ティティカカ湖周辺ではプカラや初期ティワナクが地域交流に関わっていた。
これらの社会をローマや漢と比較するとき、「帝国の規模」を基準に優劣をつけるべきではない。都市、農業、宗教儀礼、文字、暦、工芸、地域交易は、それぞれ異なる環境条件と政治制度の中で発達した。旧世界との接触がなくても、大規模で複雑な社会が独自に形成されていたことが重要である。
単純化しやすい論点への注意
第一に、「ローマの平和」を文字通り戦争のない時代と考えない。 帝国内部の内戦が減り、都市・交易が安定した時期はあったが、国境戦争、征服、属州反乱、奴隷制は続いた。ローマ支配がもたらした安定と暴力は同時に存在した。
第二に、ローマと漢が「二大超大国として直接向き合っていた」と考えない。 両帝国は互いの存在を断片的に知っていた可能性があるが、定期的な国家外交や直接交易の証拠は限定的である。商品と情報の多くはパルティア、中央アジア、南アジア、東南アジアの複数の仲介者を通じて移動した。
第三に、「シルクロード=中国からローマへ続く一本の道」ではない。 実際には複数の陸路と海路が組み合わされ、商品は段階的に移動した。さらに交易の中心商品は絹だけではなく、馬、香料、ガラス、宝石、織物、金属、食物、奴隷など多岐にわたった。
第四に、クシャーナ朝やガンダーラを「東西文化融合」の美しい成功例だけとして語らない。 文化的混交は重要だが、それは征服、移住、政治再編、交易競争の中で生じた。異文化接触は常に平和的だったわけではない。
第五に、ユダヤ教からキリスト教が単純に「分離して完成した」と考えない。 1〜2世紀には両者の境界は地域や共同体によって異なり、ユダヤ人キリスト者も存在した。ラビ・ユダヤ教とキリスト教の制度的形成は、神殿破壊後の数世紀にわたる長い過程だった。
第六に、西暦1年を世界史上の決定的な転換年として扱わない。 西暦紀年は後世に作られた制度で、当時の世界に共通する年号ではなかった。紀元前と西暦をまたぐこの記事では、政治・社会・交易の連続性を見ることが重要である。
この時代に何が変わったのか
第一に、ユーラシアの複数地域で長期的に存続する帝国制度が形成・成熟した。ローマ帝国、漢帝国、パルティア、クシャーナ朝は制度も文化も異なるが、いずれも広い領域と多様な住民を統治する必要に直面した。地方エリートの取り込み、道路・軍事・徴税、貨幣、行政文書、宗教的正統性などが支配を支えた。
第二に、広域交易網の接続が強まった。中央アジアのオアシス路、イラン高原、メソポタミア、地中海、紅海、インド洋、東南アジア、南シナ海は完全に一つの市場ではなかったが、複数の地域交易が重なり合うことで、以前より遠くまで商品が移動するようになった。
第三に、宗教が広域移動する条件が整った。仏教は南アジアから中央アジアへ進み、後には中国へ伝わる。キリスト教は地中海の都市ネットワークを利用してユダヤ地方から各地へ広がった。宗教の拡大は王や宣教者だけではなく、商人、旅人、移住者、都市共同体によって支えられた。
第四に、帝国と都市の拡大が社会的不平等を同時に深めた。ローマの奴隷制、漢の徴税・兵役、国境地域の戦争、鉱山・農地の労働など、広域国家の繁栄は多数の人々の強制的な負担にも依存した。巨大建築や交易品の豊かさだけを見て「繁栄の時代」と呼ぶことは不十分である。
第五に、世界各地で大都市が重要性を増した。ローマ、アレクサンドリア、アンティオキア、洛陽、長安、クテシフォン、プルシャプラ、マトゥラーなどは、政治だけでなく交易・宗教・知識の結節点だった。旧世界とは独立して、テオティワカンやマヤ地域の大規模中心地も発展した。都市化は世界の複数地域で別々の歴史を持ちながら進んでいた。
そして西暦200年頃までに、次の時代を準備する条件が揃っていた。ローマ帝国は広大な領域を維持していたが、2世紀後半から疫病、軍事費、皇位継承の問題が目立ち始める。後漢も宦官・外戚・地方豪族の対立や黄巾の乱へ向かい、220年には滅亡する。パルティアも3世紀初頭にササン朝へ交代する。次の数世紀は、これらの古代帝国が分裂・再編され、キリスト教、仏教、ゾロアスター教など宗教制度の社会的役割がさらに拡大する時代となる。
主な出来事
- 紀元前202年 — ザマの戦いでローマがカルタゴを破り、第二次ポエニ戦争が終結する。
- 紀元前168年頃 — マカバイ反乱が進み、ユダヤ地方でハスモン朝につながる自立勢力が形成される。
- 紀元前141年 — 前漢の武帝が即位する。
- 紀元前138年頃 — 張騫が西方へ派遣され、漢の中央アジア認識が拡大する。
- 紀元前133年 — ティベリウス・グラックスが土地改革を進め、政治暴力の中で殺害される。
- 紀元前108年 — 前漢が朝鮮半島北部に楽浪郡などを設置する。
- 紀元前63年 — ポンペイウスがエルサレムへ進軍し、ユダヤ地方がローマの強い影響下に入る。
- 紀元前53年 — カルラエの戦いでパルティア軍がローマ軍を破る。
- 紀元前44年 — ユリウス・カエサルが暗殺される。
- 紀元前31年 — アクティウムの海戦でオクタウィアヌスが勝利する。
- 紀元前27年 — オクタウィアヌスがアウグストゥスの称号を受け、ローマ帝政の開始とされる。
- 紀元前24年頃 — ローマとメロエ王国の軍事衝突が起こり、のちに講和が成立する。
- 紀元前20年 — アウグストゥスがパルティアとの外交によってローマ軍旗を返還させる。
- 9年 — トイトブルク森の戦いでローマ軍が大敗する。同年、王莽が新王朝を建てる。
- 25年 — 光武帝が後漢を再建する。
- 40–43年 — ベトナム北部で徴姉妹の反乱が起こる。
- 43年 — ローマによるブリテン征服が始まる。
- 57年 — 中国史料に倭の奴国王の使節と印授与の記事が記録される。
- 66–73年 — 第一次ユダヤ戦争。70年にエルサレム第二神殿が破壊される。
- 73–94年頃 — 班超が中央アジアで後漢の影響力を回復する。
- 1世紀後半–2世紀前半頃 — クシャーナ朝が北西インド・中央アジアで勢力を拡大する。
- 105年頃 — 後漢の蔡倫が紙の製法改良を宮廷へ報告したと伝えられる。
- 106年 — ローマがナバテア王国を併合する。
- 117年 — トラヤヌス帝死去。ローマ帝国は最大級の領域に達した後、ハドリアヌスが一部を放棄する。
- 132年 — 張衡が地震方向を検知する装置を作ったと伝えられる。
- 132–135年 — バル・コクバ反乱が起こり、ローマが鎮圧する。
- 166年 — 後漢史料に「大秦」の使者とされる一行の到着が記録される。
- 165年頃以後 — ローマ帝国でアントニヌス疫病が広がる。
- 184年 — 後漢で黄巾の乱が起こり、王朝秩序が大きく揺らぐ。
- 2世紀 — テオティワカンがメソアメリカ最大級の都市へ成長し、ナスカ・モチェなどアンデスの地域文化も発展する。
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西暦200年頃、ローマ、後漢、パルティアという長期帝国はそれぞれ転換点へ近づいていた。後漢は220年に滅亡して三国時代へ入り、パルティアは224年頃にササン朝へ交代する。ローマ帝国も3世紀には軍人皇帝時代と呼ばれる深刻な政治・軍事危機を経験する。一方、南アジアではクシャーナ朝後の再編を経てグプタ朝が成立し、キリスト教はローマ帝国内でさらに拡大する。次の記事では、200–500|古代帝国の変容 — ローマ、ササン朝、三国・晋、グプタ朝、キリスト教化として、古代後期へ向かう世界を扱う。
参考資料・出典
- The Metropolitan Museum of Art, “The Roman Empire (27 B.C.–393 A.D.)”
- The Metropolitan Museum of Art, “Roman Egypt”
- The Metropolitan Museum of Art, “Han Dynasty (206 B.C.–220 A.D.)”
- The Metropolitan Museum of Art, “The Parthian Empire (247 B.C.–224 A.D.)”
- The Metropolitan Museum of Art, “Kushan Empire (ca. Second Century B.C.–Third Century A.D.)”
- The Metropolitan Museum of Art, “Trade between the Romans and the Empires of Asia”
- The Metropolitan Museum of Art, “Trade between Arabia and the Empires of Rome and Asia”
- The Metropolitan Museum of Art, “South Asia, 1–500 A.D.”
- The Metropolitan Museum of Art, “Southeast Asia, 1–500 A.D.”
- The Metropolitan Museum of Art, “Korea, 1–500 A.D.”
- The Metropolitan Museum of Art, “Japan, 1–500 A.D.”
- Library of Congress, “The Qumran Community — The Late Second Temple Period”
- Library of Congress, “Judaism and Christianity and the Dead Sea Scrolls”
- The Metropolitan Museum of Art, “Life of Jesus of Nazareth”
- The Metropolitan Museum of Art, “Sudan, 1–500 A.D.”
- The Metropolitan Museum of Art, “Monumental Architecture of the Aksumite Empire”
- The Metropolitan Museum of Art, “Mexico, 1–500 A.D.”
- The Metropolitan Museum of Art, “Maya Area, 1–500 A.D.”
- The Metropolitan Museum of Art, “Central and Southern Andes, 1–500 A.D.”
資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY