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World History

2008–2016

世界金融危機後の再編

ユーロ危機、アラブの春、東日本大震災、中国台頭、クリミア

2008年秋の世界金融危機は、単なる景気後退ではありませんでした。アメリカ住宅市場の損失が証券化商品と国際銀行取引を通じて世界へ広がり、金融機関同士が互いの支払い能力を疑う状態へ進みました。IMFは2009年4月、世界経済が「大規模な金融危機と急激な信頼喪失」による深刻な不況に入り、2009年の世界経済全体が縮小すると予測しました。戦後の世界経済で、先進国を中心にこれほど広範な金融・貿易縮小が同時進行した例は異例でした。

危機への対応も、それ以前の市場重視政策から一見逆方向へ動きました。各国政府は銀行への公的資本注入、預金保証、財政刺激、産業支援を実施し、中央銀行は政策金利をほぼゼロまで下げ、国債や住宅関連資産を大量に購入する量的緩和へ進みました。市場の自己調整を重視してきた国々でも、金融システム崩壊を防ぐため国家が巨大な損失リスクを引き受けました。

一方、金融危機は別の問題を生みました。銀行を救済し景気を支えるため政府債務が増加し、景気後退によって税収も落ち込みました。とくにユーロ圏では、一つの通貨を共有しながら財政政策・銀行監督・国債発行は各国に分かれている制度的弱点が表面化しました。2010年にギリシャが市場から資金調達できなくなると、危機はポルトガル、アイルランド、スペイン、キプロスなどへ波及し、「ユーロそのものが存続できるのか」という疑念まで生まれました。

2010年代初頭の世界を揺らしたもう一つの巨大な変化が「アラブの春」でした。2010年12月、チュニジア中部シディ・ブジドで露天商モハメド・ブアジジが抗議の焼身を図った出来事をきっかけに、失業、腐敗、警察権力、政治的自由の欠如への不満が全国的抗議へ広がりました。2011年1月14日、長期政権を率いたザイン・アル=アービディーン・ベン・アリー大統領は国外へ退去しました。抗議はエジプト、リビア、バーレーン、イエメン、シリアなどへ波及しました。

しかし「アラブの春」は一つの民主化革命ではありませんでした。チュニジアでは制憲議会選挙と新憲法制定へ進みましたが、エジプトではムバラク辞任後に軍による移行統治、選挙、ムルシ政権、2013年の軍による政変へ進みました。リビアでは反政府蜂起が内戦となり、国連安保理決議1973に基づく民間人保護措置とNATO軍事作戦の中でカダフィ政権が崩壊しましたが、その後国家統合は崩れました。シリアでは平和的な抗議への弾圧が武装紛争へ発展し、地域・国際勢力を巻き込む長期内戦となりました。

日本では2011年3月11日、東北地方太平洋沖地震が発生しました。マグニチュード9.0は日本の観測史上最大で、巨大津波が東北・関東太平洋岸へ襲来しました。復興庁の集計では死者1万9千人を超え、行方不明者も数千人に及びました。地震と津波に加え、福島第一原子力発電所で全交流電源喪失と冷却機能喪失が起こり、複数炉で炉心損傷と水素爆発が発生しました。自然災害、エネルギー政策、原子力安全、避難、地域復興が同時に問われる複合災害となりました。

金融危機後の世界経済では中国の存在感がさらに高まりました。2008年末、中国政府は大規模な景気刺激策を発表し、銀行融資とインフラ投資を急増させました。2010年には名目GDPで日本を上回り、アメリカに次ぐ世界第2位の経済規模となりました。世界金融危機後の需要不足を補う役割を果たす一方、中国国内では地方政府債務、不動産、過剰設備、投資偏重への懸念も拡大しました。

2012年に中国共産党総書記となった習近平は、国内で党統治と腐敗摘発を強化する一方、対外的にはより積極的な経済・外交構想を打ち出しました。2013年には後に「一帯一路」と呼ばれる構想を提起し、2015年にはアジアインフラ投資銀行AIIBが設立されました。南シナ海では人工島造成と海洋権益をめぐる対立が強まり、2016年7月にはフィリピンが提起した仲裁手続で、国連海洋法条約上の海洋権益に関する判断が示されました。中国政府は仲裁判断を受け入れない立場を示しました。

冷戦後ヨーロッパの秩序も大きく揺らぎました。2013年末、ウクライナでヤヌコーヴィチ政権がEUとの連合協定署名準備を停止すると、キーウの独立広場を中心に大規模な抗議運動が始まりました。2014年2月にヤヌコーヴィチが首都を離れ政権が崩壊すると、ロシア軍部隊がクリミアの重要拠点を掌握しました。3月16日に実施された住民投票を経てロシアはクリミアを自国へ編入しました。

国連総会は2014年3月27日の決議68/262で、ウクライナの国際的に承認された国境内での主権・政治的独立・統一・領土保全を確認し、3月16日のクリミア住民投票には効力がなく、クリミアの地位変更の根拠にならないとしました。ロシアは、クリミア住民の自己決定と2014年2月のキーウでの政権交代を根拠に併合を正当化しましたが、国連総会決議や多数の国々はこれを認めませんでした。

同時にウクライナ東部のドネツク・ルハンシク地域では、ウクライナ政府とロシア支援の分離派武装勢力の戦闘が始まりました。2014年7月にはマレーシア航空MH17便が紛争地域上空で撃墜され、乗員乗客298人全員が死亡しました。2014年9月と2015年2月にはミンスク合意が結ばれましたが、停戦違反と政治合意の不履行が続きました。

中東ではシリア内戦とイラク政治危機の中から「イスラム国」、ISIL/ISISが急速に勢力を拡大しました。2014年6月、ISILはイラク第2の都市モスルを制圧し、イラク・シリアの広大な地域を支配しました。8月には国連安保理が決議2170でISILとアル=ヌスラ戦線を非難し、外国人戦闘員、資金、武器の流入を抑える措置を強化しました。アメリカを中心とする国際連合は同年からイラク・シリアでISILへの航空作戦を開始しました。

シリア戦争の長期化は巨大な難民危機を生みました。国連によれば2015年までに400万人以上が国外へ逃れ、国内避難民も数百万人に達しました。2015年には地中海・バルカン経路を通って欧州へ到着した難民・移民が100万人規模となり、その約半数がシリア人でした。ドイツなどが多数を受け入れる一方、EU加盟国間では国境管理、難民分担、シェンゲン制度をめぐる政治対立が激化しました。

2014年には西アフリカでエボラ出血熱が大流行し、ギニア、リベリア、シエラレオネを中心に医療体制を圧迫しました。国連安全保障理事会は9月、決議2177でエボラ流行を「国際の平和と安全に対する脅威」と位置づけ、加盟国へ大規模な国際対応を求めました。感染症が公衆衛生だけでなく国家機能、経済、国際安全保障に関わる問題として扱われた重要な事例でした。

気候変動については、2009年コペンハーゲン会議の不完全な合意を経て、2015年12月のCOP21でパリ協定が採択されました。協定は先進国だけに数値義務を課した京都議定書とは異なり、すべての参加国が自国で決定する削減目標を提出・更新する仕組みを中心にしました。世界平均気温上昇を産業革命前から2度を十分下回る水準に保ち、1.5度に抑える努力を追求する目標が盛り込まれました。協定は2016年11月4日に発効しました。

2015年にはイラン核問題でも大きな外交合意が成立しました。イランとアメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国、ドイツ、EUは7月に包括的共同行動計画JCPOAへ合意しました。イランのウラン濃縮・遠心分離機・核物質在庫などに制限を設け、IAEA検証と引き換えに核関連制裁を解除する枠組みでした。国連安保理は決議2231で合意を承認しました。

一方、欧州統合そのものへの不信も強まりました。ユーロ危機での緊縮政策、移民・難民問題、EUの規制と主権をめぐる議論を背景に、2016年6月23日、イギリスでEU残留・離脱を問う国民投票が実施されました。離脱票が多数となり、EUは初めて加盟国が離脱する過程へ入ります。実際の離脱は2020年ですが、2016年の投票結果は1990年代以来の欧州統合拡大に明確な逆流が生じた象徴でした。

2008年から2016年までを通して見えるのは、金融危機によって壊れたものが単に「回復」したのではなく、世界秩序そのものが再編されたということです。金融市場への国家介入は拡大し、欧州統合は債務危機で試され、アラブの春は民主化・内戦・国家崩壊という異なる結果を生み、中国の経済力は外交的影響力へつながり始めました。ロシアと西側の対立は再び安全保障の中心へ戻り、難民・気候変動・感染症・デジタル監視など、国家境界を越える問題も政治の中心となりました。

CONTENTS

  1. 2008年金融危機から世界同時不況へ
  2. G20と国際協調
  3. ゼロ金利と量的緩和
  4. 財政刺激から財政緊縮へ
  5. ユーロ危機はなぜ起きたのか
  6. 2010年 ギリシャ支援
  7. アイルランド、ポルトガルへ波及
  8. 2012年 ギリシャ第2次支援と債務再編
  9. 「Whatever it takes」
  10. ESMと銀行同盟
  11. 2015年 ギリシャ危機
  12. チュニジア革命
  13. 2011年 エジプト革命
  14. 「アラブの春」を一つの物語にしない
  15. リビア内戦と国連安保理決議1973
  16. カダフィ政権崩壊後
  17. シリア — 平和的抗議から内戦へ
  18. 国際化するシリア戦争
  19. ISILの拡大
  20. 外国人戦闘員と国際対策
  21. 2015年 欧州難民危機
  22. 日本 — 政権交代と金融危機後
  23. 2011年 東日本大震災
  24. 福島第一原発事故
  25. 原子力とエネルギー政策の再検討
  26. 2012年 安倍政権復帰
  27. アベノミクスと「三本の矢」
  28. 2013年 量的・質的金融緩和
  29. 2015年 安全保障法制
  30. 2016年 マイナス金利
  31. 中国 — 金融危機後の大型刺激策
  32. 世界第2位の経済規模へ
  33. 習近平体制
  34. 一帯一路
  35. AIIB設立
  36. 南シナ海
  37. 2016年 南シナ海仲裁判断
  38. ウクライナ・ユーロマイダン
  39. 2014年 クリミア
  40. 国連総会決議68/262
  41. ドンバス戦争
  42. MH17撃墜
  43. ミンスク合意
  44. 2014年 西アフリカ・エボラ危機
  45. 2013年 スノーデン文書と監視
  46. ソーシャルメディアと政治動員
  47. 2015年 イラン核合意
  48. 2015年 パリ協定
  49. 2016年 英国EU離脱国民投票
  50. 2008–2016年に何が変わったのか
  51. 2008–2016年の主な出来事
  52. 次の時代へ — ポピュリズム、パンデミック、ウクライナ戦争
  53. 参考資料・出典

2008年金融危機から世界同時不況へ

リーマン・ブラザーズ破綻後、信用市場の混乱は銀行部門から実体経済へ急速に広がりました。企業は投資・在庫・雇用を削減し、家計は消費を抑えました。世界貿易は2008年末から2009年前半に急落しました。

IMFは2009年4月、世界経済が深刻な不況にあり、2009年の世界全体の実質成長率をマイナス1.3%と見込んでいました。当時としては第二次世界大戦後に例のない世界規模の縮小でした。

金融危機が示したのは、金融市場のグローバル化によって利益だけでなく損失も国境を越えて瞬時に伝わることでした。

G20と国際協調

危機対応では、従来のG7だけでなく中国、インド、ブラジル、韓国、インドネシアなどを含むG20が主要な国際経済協議の場となりました。

2008年11月のワシントン、2009年4月のロンドン、同年9月のピッツバーグ首脳会議では、財政刺激、金融規制、IMF資金増強、保護主義回避などが議論されました。

2009年ピッツバーグ会議ではG20を国際経済協力の「主要なフォーラム」とする方向が確認されました。世界経済に占める新興国、とりわけ中国の比重上昇が制度にも反映された変化でした。

ゼロ金利と量的緩和

アメリカ連邦準備制度、イングランド銀行、日本銀行などは政策金利を極めて低い水準へ下げました。しかし金利をほぼゼロまで下げても需要不足が続いたため、中央銀行は国債などを大量購入する非伝統的政策へ進みました。

アメリカFRBは住宅ローン担保証券MBSや長期国債を購入し、金融市場の安定と長期金利低下を目指しました。イングランド銀行も2009年から資産買い入れを開始しました。

中央銀行のバランスシートが急拡大し、「中央銀行が金融市場のどこまでを支えるべきか」という問題が長期化しました。

財政刺激から財政緊縮へ

危機直後、多くの国は財政支出拡大や減税で需要を支えました。しかし銀行救済と景気後退によって政府債務が増えると、2010年頃から欧州を中心に財政赤字削減が主要課題となりました。

公共支出削減、増税、年金・労働市場改革を組み合わせた政策は一般に「緊縮財政」と呼ばれました。

支持側は政府債務の信頼回復と市場アクセス維持に必要だと主張し、批判側は深い不況時の支出削減が失業と需要不足を悪化させると指摘しました。ユーロ危機は経済政策の優先順位をめぐる大きな政治対立となりました。

ユーロ危機はなぜ起きたのか

ユーロ加盟国は同じ通貨と中央銀行を共有していましたが、政府予算、国債、銀行監督、税制は国家ごとに分かれていました。

ユーロ導入後、一部の国では低金利を背景に民間信用・住宅投資が拡大しました。ギリシャでは政府財政赤字と債務が高く、アイルランドやスペインでは銀行・不動産部門の問題が国家財政へ波及しました。

したがってユーロ危機を「南欧諸国の放漫財政」だけで説明することも、「銀行危機だけ」と説明することも不十分です。国ごとに原因は異なりながら、共通通貨制度の不完全性によって危機が相互に伝播しました。

2010年 ギリシャ支援

2009年、ギリシャ政府は過去の財政統計が実態より良く示されていたことを明らかにしました。財政赤字の大きさが再評価されると国債利回りが上昇し、市場で通常の資金調達を続けることが困難になりました。

2010年5月、ユーロ圏諸国とIMFはギリシャに対する最初の金融支援プログラムを承認しました。欧州安定メカニズムESMによれば、ユーロ圏諸国の二国間融資52.9十億ユーロとIMF融資20.1十億ユーロが実行されました。

支援には財政削減と構造改革が条件として付けられました。ギリシャでは失業と景気後退が深刻化し、緊縮政策への大規模な抗議が続きました。

アイルランド、ポルトガルへ波及

危機はギリシャにとどまりませんでした。アイルランドでは住宅バブル崩壊後、銀行救済の負担が政府財政へ移りました。ポルトガルでは低成長、競争力、政府債務への懸念が強まりました。

ユーロ圏は2010年に一時的救済基金EFSFを設立し、アイルランド、ポルトガル、ギリシャへ融資しました。

金融市場では国債価格下落が銀行損失を増やし、銀行への懸念が政府による救済コストを増やす「銀行と国家の悪循環」が問題となりました。

2012年 ギリシャ第2次支援と債務再編

最初の支援だけではギリシャの市場復帰は実現せず、2012年に第2次支援プログラムが決まりました。

同年3月には民間投資家が保有するギリシャ国債の大規模な債務交換が行われました。ESMによれば、約1970億ユーロの対象債券の約97%が参加し、額面で53.5%の削減、債務残高で約1070億ユーロの減少となりました。

これは先進国の政府債務再編として極めて大規模でした。しかしギリシャ経済の深い不況と高失業は続きました。

「Whatever it takes」

2012年夏にはスペインやイタリアの国債利回りも上昇し、ユーロ圏分裂への懸念が強まりました。

7月26日、ECB総裁マリオ・ドラギはロンドンで、ECBはその権限の範囲内でユーロを守るため「必要なことは何でもする」と表明しました。

9月、ECBは一定の条件下で加盟国の短期国債を流通市場から購入するOMTの枠組みを決定しました。実際にOMTによる購入は実施されませんでしたが、ECBが最後の防波堤になるという市場の期待を強め、国債市場の緊張低下に大きな役割を果たしました。

ESMと銀行同盟

2012年10月、恒久的な危機対応基金として欧州安定メカニズムESMが始動しました。

ユーロ危機はまた、銀行の監督・破綻処理を各国だけに任せる制度の限界を明確にしました。EUはECBによる主要銀行の共通監督や、銀行破綻処理制度を整備する「銀行同盟」へ進みました。

危機を通じて欧州統合は後退しただけではなく、金融・財政の一部ではむしろ新しい共同制度が作られました。

2015年 ギリシャ危機

2015年1月、緊縮政策の見直しを掲げたSYRIZAが総選挙で第1党となりました。ギリシャ政府とユーロ圏・IMFとの交渉は激しく対立しました。

6月末に既存支援プログラムが失効し、銀行からの預金流出を抑えるため資本規制が導入されました。7月5日の国民投票では債権者側が示していた条件案への反対票が多数となりました。

しかしギリシャ政府は最終的に新たな支援条件を受け入れ、8月にESMによる第3次プログラムが承認されました。ユーロ圏離脱の可能性が現実的に議論された危機でした。

チュニジア革命

2010年12月、チュニジアのシディ・ブジドで露天商モハメド・ブアジジが当局への抗議として焼身を図りました。若年失業、地域格差、腐敗、警察による抑圧への不満が結びつき、抗議は全国へ拡大しました。

治安部隊による弾圧にもかかわらず抗議は続き、2011年1月14日、23年以上政権を維持してきたベン・アリー大統領は国外へ退去しました。

その後チュニジアでは制憲議会選挙が行われ、2014年には新憲法が成立しました。アラブの春の中では比較的制度的民主化が進んだ例となりました。

2011年 エジプト革命

2011年1月25日、エジプト各地で大規模な反政府デモが始まりました。警察暴力、腐敗、失業、政治的自由の制約などが抗議の背景でした。

カイロのタハリール広場は運動の象徴となりました。治安部隊との衝突と通信遮断が行われましたが、抗議は拡大しました。

2月11日、約30年間大統領を務めたホスニー・ムバラクが辞任し、軍最高評議会へ権力が移りました。国連事務総長は市民の権利行使を評価し、自由で公正な選挙と民政移管を求めました。

「アラブの春」を一つの物語にしない

チュニジアとエジプトで長期政権が短期間に崩壊したことで、2011年には「アラブの春」という表現が広まりました。

しかし各国の制度、軍の役割、宗派構成、石油収入、王制・共和制、外国介入の程度は大きく異なっていました。バーレーンでは湾岸協力会議加盟国の軍事支援を受けた政府が抗議を抑え、モロッコやヨルダンでは限定的改革が行われました。イエメンでは大統領交代後も政治崩壊が続きました。

「SNSによって独裁が倒れた」と説明することも単純すぎます。デジタル通信は情報共有と動員に重要でしたが、労働組合、地域組織、モスク、既存反体制派、軍の判断などオフラインの制度・組織も決定的でした。

リビア内戦と国連安保理決議1973

2011年2月、リビアでカダフィ政権への抗議が始まり、政府軍と反政府勢力の武力衝突へ発展しました。

国連安保理は2月26日の決議1970で制裁と国際刑事裁判所への付託を決定し、3月17日の決議1973では民間人保護のための飛行禁止区域と「必要なすべての措置」を認めました。ただし外国占領軍の展開は除外されました。

NATO主導部隊はリビア政府軍への航空攻撃を実施しました。反政府勢力は領土を拡大し、8月にトリポリを制圧しました。

カダフィ政権崩壊後

2011年10月、ムアンマル・カダフィはシルト付近で拘束後に殺害され、長期政権は終わりました。

しかし中央政府は革命時に形成された多数の民兵を統制できず、武器が国内外へ拡散しました。政治機関も地域・思想・武装勢力間で分裂しました。

2014年以後には対立する政府と武装連合が並立する内戦状態となりました。軍事介入による体制崩壊と、戦後国家建設の困難を示す事例となりました。

シリア — 平和的抗議から内戦へ

2011年3月、シリア南部ダルアーで子どもたちの拘束を契機に抗議が広がりました。国連は当時、政治改革と自由を求める反政府デモが3月中旬から始まり、治安部隊による弾圧が拡大したと記録しています。

国連独立調査委員会は2011年11月、政府軍・治安機関が平和的な民間抗議への弾圧の中で人道に対する罪に相当する行為を行ったとの結論を示しました。

抗議者側でも武装化が進み、離反兵などによる反政府武装組織が形成されました。2012年には戦闘が全国的内戦へ拡大しました。

国際化するシリア戦争

シリア戦争には周辺国と大国が次第に深く介入しました。イランとヒズボラはアサド政権を支援し、トルコ、湾岸諸国、西側諸国は時期と対象を変えながら反政府側の一部を支援しました。

2013年8月にはダマスカス近郊グータで化学兵器攻撃が起き、多数の市民が死亡しました。米軍介入の可能性が高まりましたが、米露合意を経てシリアは化学兵器禁止条約へ参加し、申告された化学兵器の廃棄作業が進められました。

ただし化学兵器問題の処理によって内戦そのものが止まったわけではありませんでした。

ISILの拡大

イラクのアルカイダ系組織を起源の一つとするISILは、シリア内戦の混乱を利用して勢力を拡大しました。

2014年6月、ISILはイラク北部モスルを占領し、イラク軍の装備・資金も獲得しました。イラクとシリアにまたがる広大な領域を支配し、「カリフ国」の樹立を宣言しました。

少数宗教集団ヤズィディへの殺害・拉致・性暴力、捕虜処刑、文化遺産破壊など重大犯罪が行われました。国連はISILを国際平和と安全に対する重大な脅威と位置づけました。

外国人戦闘員と国際対策

ISILやアル=ヌスラ戦線には欧州、北アフリカ、中東、アジアなど多数地域から外国人戦闘員が参加しました。

国連安保理決議2178は2014年9月、テロ目的で外国へ渡航する「外国人テロ戦闘員」の募集、組織、輸送、資金提供を防止・処罰する措置を加盟国へ求めました。

インターネットとSNSが宣伝、勧誘、資金調達、暴力映像の拡散に利用され、2001年型の組織化された国際テロとは異なる分散型ネットワークへの対応が求められました。

2015年 欧州難民危機

シリア戦争、アフガニスタン、イラクなどから逃れる人々はトルコ、レバノン、ヨルダンなど近隣国へ大量に避難しました。

2015年には地中海とバルカン経路を通って欧州へ向かう人数が急増しました。UNHCRとIOMによれば同年末までに100万人を超える難民・移民が欧州へ到着し、地中海経由だけで約97万人に達しました。

約半数はシリア人でした。ドイツなどは多数を受け入れましたが、EU内では受け入れ分担、国境閉鎖、庇護制度をめぐって深刻な対立が起きました。

日本 — 政権交代と金融危機後

日本では2009年の衆議院総選挙で民主党が勝利し、自民党中心の政権から本格的な政権交代が起きました。鳩山由紀夫内閣、菅直人内閣、野田佳彦内閣が続きました。

政権交代は二大政党制への期待を高めましたが、世界金融危機後の景気、普天間基地移設、社会保障、財政、東日本大震災への対応など難しい課題が集中しました。

2012年12月の総選挙では自民党が大勝し、安倍晋三が再び首相となりました。

2011年 東日本大震災

2011年3月11日14時46分、三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の巨大地震が発生しました。

大津波が東北・関東地方の太平洋沿岸へ到達し、広い地域で市街地、港湾、農地、道路、鉄道が破壊されました。復興庁の集計では死者は1万9千人を超え、行方不明者も2千人を超えました。

最大47万人を超える人々が避難し、被災地域では人口流出、高齢化、産業復興、住宅再建など長期的な課題が残りました。

福島第一原発事故

地震発生時、福島第一原発で運転中だった原子炉は自動停止しました。しかし津波によって非常用電源と配電設備が広範に失われ、原子炉の冷却能力が低下しました。

1、2、3号機で炉心損傷が進み、1、3、4号機建屋で水素爆発が発生しました。周辺住民には段階的避難指示が出されました。

IAEAの後年の包括報告は、極端な外部自然災害に対する設計・防護、防災計画、規制制度、安全文化など複数レベルで教訓を整理しています。

原子力とエネルギー政策の再検討

事故後、日本各地の原子力発電所は定期検査後の再稼働が進まず、2012年には一時すべての商業原発が停止しました。

火力発電用化石燃料輸入が増加し、電力料金、貿易収支、温室効果ガス排出、エネルギー安全保障の関係が改めて問題となりました。

原子力規制制度も再編され、2012年に原子力規制委員会が発足しました。その後、新規制基準の下で一部原発が再稼働します。

2012年 安倍政権復帰

2012年12月、自由民主党が衆議院選挙で大勝し、安倍晋三が首相へ再登板しました。

日本経済は長期デフレ、円高、低成長からの脱却が大きな政策課題でした。

新政権は金融政策、財政政策、成長戦略を組み合わせる政策パッケージを打ち出し、後に「アベノミクス」と総称されました。

アベノミクスと「三本の矢」

「三本の矢」は、大胆な金融緩和、機動的な財政政策、民間投資を喚起する成長戦略を組み合わせる考え方でした。

政府と日本銀行は2013年1月、消費者物価上昇率2%を「物価安定の目標」とする共同声明を発表しました。

円相場と株価は政策期待を背景に大きく動き、企業収益や雇用環境には改善が見られました。一方、実質賃金、潜在成長率、財政持続性、格差などをめぐる評価は分かれました。

2013年 量的・質的金融緩和

2013年4月、日本銀行は黒田東彦総裁の下で「量的・質的金融緩和」QQEを導入しました。

金融市場調節の主目標を短期金利からマネタリーベースへ変更し、長期国債やETFなどの買い入れを大幅に拡大しました。日本銀行は約2年を念頭に2%の物価安定目標を実現することを目指しました。

世界金融危機後の非伝統的金融政策が、日本では長期デフレ脱却策としてさらに大規模な形で採用されました。

2015年 安全保障法制

2015年、日本の国会では平和安全法制が成立しました。政府は、日本を取り巻く安全保障環境の変化に対応し、一定条件の下で日本と密接な関係にある国への武力攻撃に対して限定的に集団的自衛権を行使できる法制度を整備すると説明しました。

反対側からは、憲法第9条と従来の政府解釈との整合性、国会審議、海外での武力行使拡大への懸念が示され、大規模な抗議運動も起きました。

法制の評価は政治的に大きく分かれましたが、戦後日本の安全保障法制の適用範囲を変更した重要な制度転換でした。

2016年 マイナス金利

2016年1月、日本銀行は「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」を導入し、金融機関が日本銀行に持つ当座預金の一部へマイナス0.1%の金利を適用することを決めました。

目的は金利全般をさらに押し下げ、投資・消費・物価へ働きかけることでした。

しかし長期金利低下による金融機関収益への影響や、2%物価目標の達成時期が後ずれしたことから、金融緩和の効果と副作用をめぐる議論が強まりました。

中国 — 金融危機後の大型刺激策

2008年世界金融危機で欧米需要が落ち込むと、中国はインフラ投資や銀行融資を中心とする大規模な景気刺激を進めました。

鉄道、高速道路、都市開発、不動産などへの投資が急増し、中国経済は比較的早く高成長へ戻りました。世界的な資源需要回復にも大きく寄与しました。

一方、地方政府系融資平台、不動産価格、鉄鋼・セメントなどの過剰能力が拡大し、投資依存型成長の副作用も蓄積しました。

世界第2位の経済規模へ

世界銀行の名目GDPデータでは、中国経済は2000年には約1.2兆ドルでしたが、2010年には約6.2兆ドルへ拡大し、日本を上回りました。

中国の急成長は世界貿易、資源価格、製造業立地、海外投資の流れを変えました。

世界金融危機後には、欧米需要だけでなく中国国内需要が世界景気を左右する比重が高まりました。

習近平体制

2012年11月、習近平が中国共産党総書記となり、2013年3月に国家主席へ就任しました。

政権は大規模な反腐敗運動を進め、多数の党・政府・軍幹部を処分しました。同時に党指導部への権力集中も進みました。

経済では市場改革を掲げながら国有企業と党の役割も重視され、対外政策では海洋、安全保障、インフラ投資を含め中国の国際的存在感を高める方向が明確になりました。

一帯一路

2013年、習近平は中央アジアで「シルクロード経済ベルト」、東南アジアで「21世紀海上シルクロード」を提唱しました。後に両者は「一帯一路」と総称されました。

鉄道、港湾、道路、エネルギー、通信などのインフラ投資を通じ、中国とアジア、欧州、アフリカなどの経済接続を拡大する構想です。

参加国側にはインフラ資金確保の機会となる一方、債務、契約透明性、環境、戦略的影響力をめぐる議論も生まれました。

AIIB設立

2015年、アジアインフラ投資銀行AIIBの設立協定が署名されました。中国が主要出資国となり、イギリス、ドイツ、フランス、韓国、オーストラリアなど多くの国が参加しました。

AIIBはアジアの巨大なインフラ資金需要に対応することを目的としました。

世界銀行やアジア開発銀行とは競合するだけでなく共同融資も行うようになりました。中国が既存国際制度へ参加するだけでなく、新しい多国間制度の形成を主導する段階へ入ったことを象徴しました。

南シナ海

南シナ海では中国、フィリピン、ベトナム、マレーシア、ブルネイ、台湾などの領有権・海洋権益主張が重なっています。

2010年代、中国は南沙諸島の複数の地形で埋め立てを拡大し、滑走路、港湾、施設を建設しました。周辺国とアメリカは航行の自由と海洋法秩序への影響を懸念しました。

対立は「誰が島を所有するか」だけでなく、各地形が排他的経済水域や大陸棚を生み出せるのか、中国が主張する歴史的権利が国連海洋法条約とどのように整合するのかという法的問題でもありました。

2016年 南シナ海仲裁判断

フィリピンは2013年、国連海洋法条約に基づき中国との紛争を仲裁手続へ付託しました。中国は手続に参加せず、仲裁裁判所には管轄権がないとの立場を取りました。

2016年7月12日、仲裁廷は判断を公表しました。中国が主張する「九段線」内の歴史的権利について、UNCLOSが定める海洋権益を超える法的根拠はないとしました。また南沙諸島の対象となった地形はいずれも、条約上200海里の排他的経済水域を単独で生み出す「島」には当たらないと判断しました。

判断は領土主権そのものを決定したものではありません。中国政府は判断を「無効」として受け入れない立場を表明しました。

ウクライナ・ユーロマイダン

2013年11月、ウクライナのヤヌコーヴィチ政権はEUとの連合協定署名準備を停止しました。キーウの独立広場では学生・市民による抗議が始まり、政府の警察対応を契機に運動が大規模化しました。

要求はEU統合だけでなく、腐敗、権力集中、警察暴力への反対へ広がりました。2014年2月には治安部隊と抗議者の衝突で多数が死亡しました。

2月22日、ヤヌコーヴィチはキーウを離れ、議会は大統領職の事実上の不在を前提に新しい政治日程へ進みました。ロシアはこの政権交代を違憲なクーデタと表現し、西側諸国は議会決定とその後の選挙を新政府の正統性の根拠としました。

2014年 クリミア

2014年2月末、所属章を外したロシア軍部隊がクリミアの議会、空港、軍事施設などを掌握しました。ロシアは後に自国軍の関与を認めました。

3月16日、クリミア自治共和国とセヴァストポリでロシア編入を支持するかを問う住民投票が行われ、現地当局は圧倒的多数が編入を支持したと発表しました。

3月18日、ロシア政府はクリミアをロシア連邦へ編入する条約に署名しました。ウクライナ政府と多数の国々はこれを国際法違反の併合と位置づけました。

国連総会決議68/262

2014年3月27日、国連総会は「ウクライナの領土保全」決議68/262を100カ国賛成、11カ国反対、58カ国棄権で採択しました。

決議はウクライナの国際的に承認された国境内での主権、政治的独立、統一、領土保全を確認しました。

また3月16日の住民投票はウクライナ政府の承認を得ておらず、クリミアおよびセヴァストポリの地位変更の根拠にはならないとしました。

ドンバス戦争

2014年春、ウクライナ東部のドネツク・ルハンシクで政府庁舎占拠が広がり、親ロシア派武装勢力が自称「人民共和国」を宣言しました。

ウクライナ政府は軍・治安部隊による「反テロ作戦」を開始しました。戦闘は国境を越える武器・戦闘員の流入とロシアの軍事支援によって拡大しました。ロシア政府は当時、正規軍による直接参戦を否定する一方、政治・人的支援を公然と行いました。

2014年夏にはウクライナ軍が分離派支配地域を縮小しましたが、その後戦況が逆転し、紛争は長期化しました。

MH17撃墜

2014年7月17日、アムステルダム発クアラルンプール行きのマレーシア航空MH17便がウクライナ東部上空で撃墜されました。乗員乗客298人全員が死亡しました。

国連安保理は決議2166で事件を非難し、独立した国際調査と現場への安全なアクセスを要求しました。

その後のオランダ主導調査では、航空機はロシア製Buk地対空ミサイルによって撃墜されたと結論づけられました。刑事責任をめぐる国際捜査はその後も続きました。

ミンスク合意

2014年9月、ウクライナ、ロシア、OSCEの枠組みと紛争当事者代表によって最初のミンスク合意がまとめられ、停戦、捕虜交換、地方自治などが取り決められました。

しかし戦闘は続き、2015年2月にドイツ・フランス仲介の下でミンスクIIが合意されました。

合意は停戦、重火器撤去、地方選挙、憲法改革、国境管理回復などを段階的に定めましたが、安全保障措置と政治措置の実施順序をめぐる対立が解消されず、完全実施には至りませんでした。

2014年 西アフリカ・エボラ危機

2014年、ギニア、リベリア、シエラレオネを中心にエボラ出血熱が大流行しました。医療従事者不足、診療施設の脆弱性、住民の不信、国境を越える人の移動などが感染拡大を困難にしました。

国連安保理は9月18日、決議2177を全会一致で採択し、流行の「前例のない規模」を国際の平和と安全に対する脅威と位置づけました。

国連は公衆衛生危機に特化した緊急ミッションUNMEERを設置しました。感染症への対応が保健省やWHOだけではなく国家機能・国際安全保障の問題として扱われました。

2013年 スノーデン文書と監視

2013年、元NSA契約職員エドワード・スノーデンが、アメリカ国家安全保障局などによる大量の通信・メタデータ収集に関する機密資料を報道機関へ提供しました。

9・11後に拡張された監視権限が、テロ容疑者だけでなく大規模な通信情報収集へどの程度広がっていたのかが国際的議論となりました。

政府側は外国情報・テロ対策に必要な仕組みだと説明し、批判側はプライバシー、司法監督、同盟国首脳への情報収集などを問題視しました。デジタル通信インフラが国家安全保障と個人の権利の両方を再定義しました。

ソーシャルメディアと政治動員

Facebook、Twitter、YouTube、スマートフォンの普及は、政治運動の情報伝達速度を大きく変えました。

アラブの春では抗議者が映像、集合場所、警察行動を共有する手段として利用しました。一方、政府側もインターネット遮断、監視、偽情報、活動家特定にデジタル技術を利用しました。

2014年以降はISILがSNSを国際的宣伝・勧誘へ高度に利用しました。デジタルネットワークは「民主化を促す技術」でも「権威主義や過激派の道具」でもあり得ることが明確になりました。

2015年 イラン核合意

イラン核計画をめぐる長期交渉の結果、2015年7月14日、イランとP5+1、EUは包括的共同行動計画JCPOAへ合意しました。

合意は遠心分離機数、ウラン濃縮度、濃縮ウラン在庫、アラク重水炉などに制限を設定し、IAEAによる検証を強化しました。その履行に応じて核問題に関連する国連、アメリカ、EUの制裁を解除・停止する仕組みでした。

7月20日、国連安保理は決議2231を全会一致で採択しJCPOAを承認しました。核兵器開発を防ぐため軍事攻撃ではなく検証可能な制限と制裁解除を組み合わせた外交的枠組みでした。

2015年 パリ協定

2015年12月12日、パリで開催されたCOP21で195の締約国がパリ協定を採択しました。

協定の長期目標は、世界平均気温上昇を産業革命以前から「2度を十分下回る」水準に保ち、1.5度に抑える努力を追求することです。

京都議定書と異なり、すべての締約国が国別削減目標NDCを提出し、5年ごとに更新する仕組みを採用しました。各国目標そのものの達成量を国際機関が一律に命令する制度ではなく、自国決定と透明性・定期更新を組み合わせる方式です。

2016年 英国EU離脱国民投票

2016年6月23日、イギリスでEU加盟継続の是非を問う国民投票が行われました。

離脱票が約52%、残留票が約48%となり、政府はEU離脱手続へ進むことになりました。投票結果には地域、年齢、教育、所得などで大きな差がありました。

EU側は翌24日、英国民が離脱を望む意思を示したことを尊重すると表明しました。1990年代から続いたEU拡大・統合が不可逆的ではないことを示す歴史的転換でした。

2008–2016年に何が変わったのか

2008年金融危機は、1990年代から2000年代半ばまで支配的だった「市場統合が成長と安定をもたらす」という楽観を大きく傷つけました。金融市場を救うため政府と中央銀行は巨大な介入を行い、その後は政府債務と緊縮財政が政治問題となりました。

ユーロ危機は、共通通貨を持つことと完全な政治・財政統合は同じではないことを示しました。ギリシャ危機は加盟国の国内民主政治とユーロ圏全体のルールが衝突する場にもなりました。一方、危機を通じてESMや銀行同盟など新制度も作られました。

アラブの春は権威主義体制が固定されたものではないことを示しましたが、その後の結果は国ごとに大きく異なりました。チュニジアは制度的移行を進め、エジプトは再び強い軍・国家統制へ向かい、リビアとシリアは内戦へ入りました。民主化要求の存在と民主国家の安定的成立は別の問題でした。

シリア内戦からISIL、欧州難民危機へつながる連鎖は、国家崩壊が周辺地域だけでなく欧州政治と国際テロ問題へ直接影響することを示しました。冷戦後の「地域紛争」はグローバルな難民・安全保障問題となりました。

日本では東日本大震災と福島原発事故が、災害対策、原子力、安全規制、エネルギー政策を根本から見直す契機となりました。その後はアベノミクスと大規模金融緩和、安全保障法制などを通じ、経済政策と外交・安全保障政策の双方で大きな転換が進みました。

中国は金融危機後の世界経済を支える大きな需要源となり、GDP規模、貿易、海外投資、インフラ金融で存在感を拡大しました。一帯一路、AIIB、南シナ海をめぐる動きは、中国の台頭が経済現象だけでなく国際制度と安全保障の問題になったことを示します。

2014年のクリミア併合とドンバス戦争は、1991年以後の欧州国境秩序が軍事力によって再び揺さぶられた重大な転換でした。国連総会はクリミアの地位変更を認めませんでしたが、紛争は解決せず、2014年以降ロシアと西側諸国の関係は制裁と軍事的警戒を伴う長期対立へ入りました。

気候変動と感染症も国家安全保障の外側にある問題ではなくなりました。エボラ危機では国連安保理が感染症を国際平和と安全への脅威と認定し、パリ協定ではほぼすべての国が共通の気候枠組みに参加しました。

2016年の英国EU離脱投票は、この時代のもう一つの帰結でした。金融危機、移民、主権、地域格差、政治的不信を背景に、1990年代以来のグローバル化・欧州統合へ明確な反発が現れました。

2008–2016年は、冷戦後世界の「修正期」でした。世界金融危機後に国家が市場へ戻り、中国が台頭し、ロシアと西側の安全保障対立が再燃し、アラブ世界では体制変動と内戦が広がりました。次の時代には、この不満と対立がポピュリズム、貿易摩擦、パンデミック、そして大規模な国家間戦争へさらに展開します。

2008–2016年の主な出来事

  • 2008年秋 — 世界金融危機が実体経済へ波及。
  • 2008年11月 — G20首脳がワシントンで金融危機対応を協議。
  • 2009年 — 世界経済・世界貿易が大幅に縮小。各国が財政刺激と非伝統的金融政策を拡大。
  • 2009年8月 — 日本の衆議院選挙で民主党が勝利し政権交代。
  • 2010年5月 — ギリシャ第1次金融支援プログラム。
  • 2010年 — 中国の名目GDPが日本を上回り世界第2位へ。
  • 2010年12月 — チュニジアで抗議運動が始まる。
  • 2011年1月14日 — チュニジアのベン・アリー大統領が国外退去。
  • 2011年1月25日 — エジプトで大規模抗議開始。
  • 2011年2月11日 — ムバラク大統領辞任。
  • 2011年3月11日 — 東日本大震災、福島第一原発事故。
  • 2011年3月17日 — 国連安保理がリビアに関する決議1973を採択。
  • 2011年 — シリアで抗議運動が始まり、武力紛争へ拡大。
  • 2012年3月 — ギリシャ民間債務の大規模再編。
  • 2012年7月26日 — ECB総裁ドラギがユーロ防衛のため「必要なことは何でもする」と表明。
  • 2012年10月 — 欧州安定メカニズムESM始動。
  • 2012年11月 — 習近平が中国共産党総書記へ。
  • 2012年12月 — 日本で安倍晋三政権が発足。
  • 2013年4月 — 日本銀行が量的・質的金融緩和QQEを導入。
  • 2013年 — 中国が「シルクロード経済ベルト」「21世紀海上シルクロード」を提唱。
  • 2013年11月 — ウクライナでユーロマイダン抗議開始。
  • 2013年 — スノーデン文書により米NSAなどの通信監視が国際的議論に。
  • 2014年2月 — ウクライナのヤヌコーヴィチ政権崩壊。
  • 2014年3月 — ロシアがクリミアを編入。国連総会が決議68/262を採択。
  • 2014年春 — ウクライナ東部ドンバスで武力紛争が本格化。
  • 2014年6月 — ISILがモスルを制圧し、イラク・シリアで支配地域を拡大。
  • 2014年7月17日 — マレーシア航空MH17便撃墜。
  • 2014年9月 — ミンスク合意。国連安保理がエボラ危機を国際平和と安全への脅威と位置づける。
  • 2015年2月 — ミンスクII合意。
  • 2015年 — AIIB設立協定。欧州へ難民・移民100万人規模が到着。
  • 2015年7月14日 — イラン核合意JCPOA成立。
  • 2015年7月20日 — 国連安保理決議2231がJCPOAを承認。
  • 2015年9月 — 日本で平和安全法制成立。
  • 2015年12月12日 — COP21でパリ協定採択。
  • 2016年1月 — 日本銀行がマイナス金利導入を決定。
  • 2016年6月23日 — 英国EU離脱国民投票で離脱票が多数。
  • 2016年7月12日 — 南シナ海仲裁判断。
  • 2016年11月4日 — パリ協定発効。

次の時代へ — ポピュリズム、パンデミック、ウクライナ戦争

2016年以後、2008年金融危機後に蓄積した政治的不信がさらに表面化します。アメリカではドナルド・トランプが大統領に選出され、自由貿易、移民、同盟、国際機関に対する従来の政策を再検討します。イギリスはEU離脱交渉へ入り、欧州各国でも既存政党への反発が強まります。

中国とアメリカの関係も、経済相互依存を前提とする協調から、関税、技術、通信、半導体、安全保障を含む競争へ移っていきます。

2019年末から発生した新型コロナウイルス感染症は、2020年に世界的パンデミックとなります。国境閉鎖、都市封鎖、サプライチェーン寸断、ワクチン開発、大規模財政・金融政策によって、社会・経済・国家の役割が再び急変します。

ヨーロッパでは2014年から続いたウクライナ紛争が解決しないまま、2022年2月にロシアがウクライナへ全面的な軍事侵攻を開始します。第二次世界大戦後の欧州安全保障秩序はさらに根本的な危機へ入ります。

次の記事では、2016–2022|ポピュリズムとパンデミック — Brexit、米中対立、COVID-19、ウクライナ侵攻として、2008年後の政治的不信が国家間競争と世界的感染症危機へどのように展開したのかを扱います。

参考資料・出典

本ページは、International Monetary Fund、European Stability Mechanism、European Central Bank、United Nations、UNHCR、IAEA、復興庁、日本銀行、World Bank、Permanent Court of Arbitration、UNFCCC、国連安全保障理事会などの公的・一次資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。ユーロ危機はギリシャの財政問題だけに還元せず、銀行危機と共通通貨制度の構造問題を含めました。「アラブの春」は各国で異なる政治結果を生んだため、一つの民主化運動として単純化していません。ウクライナ・クリミアについては、ロシア政府が示した主張と国連総会が採択した国際的な法的・政治的立場を区別して記述しています。

資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY