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World History

1962–1973

ベトナム戦争と「1968年」

公民権運動、文化大革命、プラハの春、反戦運動

1962年10月のキューバ危機で、アメリカとソ連は核戦争の寸前まで近づきました。危機後の両国には、対立を続けながらも偶発的な全面戦争を避ける必要があるという認識が強まりました。1963年には部分的核実験禁止条約が成立し、1968年には核拡散防止条約が署名され、1969年からは戦略兵器制限交渉SALTが始まります。冷戦は終わるのではなく、核兵器を管理しながら競争する段階へ入りました。

しかし、同じ時期に東南アジアでは戦争が急速に拡大しました。アメリカは南ベトナム政府への軍事顧問派遣から、1964年のトンキン湾決議、1965年の北ベトナム爆撃と地上戦闘部隊投入へ進みました。1968年初頭のテト攻勢では北ベトナム軍・南ベトナム解放民族戦線側が軍事的に大きな損害を受けましたが、アメリカ国内では「勝利が近い」という政府説明への疑念が強まりました。ベトナム戦争は軍事戦争であると同時に、徴兵、テレビ報道、大学、音楽、若者文化、黒人公民権運動を巻き込む社会的・政治的争点になりました。

アメリカ社会では、1963年のワシントン大行進、1964年公民権法、1965年投票権法によって法的な人種隔離・選挙差別を解体する大きな制度改革が進みました。しかし法律成立によって人種的不平等が消えたわけではありません。都市部の住宅、雇用、警察暴力、貧困をめぐる問題が残り、「ブラック・パワー」を掲げる運動も拡大しました。1968年4月にはマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが暗殺され、各地で激しい抗議と騒乱が起きました。

1968年はアメリカだけの「若者反乱」の年ではありません。チェコスロヴァキアでは「プラハの春」と呼ばれる改革運動が進みましたが、8月にソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍が侵攻して改革を停止させました。フランスでは大学占拠から始まった五月危機が労働者の大規模ストライキへ拡大し、メキシコではオリンピック直前に学生運動が治安部隊によって弾圧されました。日本でも東大・日大をはじめ大学紛争が拡大し、1969年1月には東大安田講堂で機動隊と占拠学生の大規模衝突が起きました。

一方、中国では1966年から文化大革命が始まっていました。毛沢東は若者を紅衛兵として動員し、党組織・学校・知識人・文化財・既存権威を攻撃する政治運動を進めました。派閥抗争と暴力が全国へ広がると、人民解放軍が秩序回復に深く関与し、多数の若者が農村へ送られました。文化大革命は「若者による自由化運動」ではなく、最高指導部の権力闘争、革命イデオロギー、大衆動員、国家権力が結びついた別種の政治運動でした。

1960年代後半は脱植民地化後の国家が直面する暴力の時代でもありました。インドネシアでは1965年9月末のクーデタ未遂事件を契機に、軍と反共勢力による共産党員・支持者とみなされた人々への大量殺害が広がり、スカルノからスハルトへ権力が移りました。ナイジェリアでは1967年に東部地域がビアフラ共和国として分離を宣言し、内戦と封鎖による深刻な飢餓が生じました。1971年には東パキスタンの政治危機と軍事弾圧、インド・パキスタン戦争を経てバングラデシュが独立しました。

中東でも新しい長期問題が形成されました。1967年6月、イスラエルはエジプト、ヨルダン、シリアとの六日間の戦争で、シナイ半島、ガザ地区、ヨルダン川西岸、東エルサレム、ゴラン高原を占領しました。同年11月の国連安保理決議242は、占領地からのイスラエル軍撤退と、地域の全国家が安全で承認された境界内で平和に生きる権利という原則を組み合わせました。領土と和平をどう結びつけるかという問題は、その後の中東外交の中心となります。

日本では高度経済成長が社会と国際的位置を変えました。1964年東京オリンピックは戦後日本の国際復帰と都市インフラ整備を象徴し、1965年には日韓基本条約によって日本と大韓民国の外交関係が正常化しました。一方、ベトナム戦争への米軍基地利用、大学制度への不満、日米安全保障体制をめぐる対立などを背景に反戦・学生運動が広がりました。1972年には沖縄の施政権がアメリカから日本へ返還され、同年9月には日本と中華人民共和国が国交を正常化しました。

1969年に就任したアメリカ大統領リチャード・ニクソンは、南ベトナム軍へ戦争遂行の比重を移しながら米軍を撤退させる「ベトナム化」を進めました。しかしカンボジアへの秘密爆撃と1970年の越境作戦は反戦運動をさらに刺激し、ケント州立大学では州兵の発砲で学生4人が死亡しました。戦争を縮小する政策と、戦域を周辺国へ拡大する政策が同時に進みました。

それでも1970年代初めには冷戦外交に大きな変化が起きます。中ソ対立を背景に、ニクソンは1972年2月に中国を訪問して上海コミュニケを発表しました。同年5月にはモスクワで米ソ首脳がABM条約とSALT I暫定協定へ署名しました。米ソ・米中関係を同時に調整する「デタント」の時代が始まったのです。

1973年1月27日、アメリカ、北ベトナム、南ベトナム、南ベトナム共和国臨時革命政府はパリ和平協定へ署名しました。協定は米軍撤退を定め、アメリカの直接的な大規模戦闘参加は終結へ向かいました。しかし南北ベトナム間の戦争そのものは終わらず、1975年のサイゴン陥落まで続きます。

1962–1973年を一つの言葉で表すなら、「冷戦秩序の安定」と「社会秩序の動揺」が同時に進んだ時代です。超大国は核戦争を管理する制度を作り始めましたが、その一方でベトナム、中国、中東、東欧、アメリカ、フランス、日本、メキシコなどで、国家・大学・帝国・人種・世代・ジェンダー・文化をめぐる既存秩序への異議申し立てが広がりました。「1968年」はその集中点でしたが、変化は1968年だけに始まり、1968年だけで終わったわけではありません。

CONTENTS

  1. キューバ危機後 — 核戦争をどう管理するか
  2. 1963年 部分的核実験禁止条約
  3. 1963年 ワシントン大行進
  4. ケネディ暗殺とジョンソン政権
  5. 1964年 公民権法
  6. 1965年 投票権法
  7. 法改正だけでは終わらない人種問題
  8. ベトナム — 顧問派遣から戦争拡大へ
  9. 1964年 トンキン湾事件
  10. トンキン湾決議
  11. 1965年 米軍地上戦闘部隊投入
  12. 北爆とローリング・サンダー作戦
  13. ベトナム戦争を「米ソ代理戦争」だけで見ない
  14. 反戦運動の拡大
  15. 日本 — 1964年東京オリンピック
  16. 1965年 日韓基本条約
  17. 1965–1966年 インドネシアの大量殺害
  18. スカルノからスハルトへ
  19. 1966年 中国文化大革命
  20. 紅衛兵と「四旧」攻撃
  21. 派閥抗争と軍の介入
  22. 上山下郷運動
  23. 1967年 第三次中東戦争
  24. 占領地という長期問題
  25. 国連安保理決議242
  26. 1967–1970年 ナイジェリア内戦
  27. なぜ「1968年」なのか
  28. 1968年 テト攻勢
  29. 軍事的結果と政治的結果
  30. キング暗殺
  31. ブラック・パワーと都市問題
  32. フランス五月危機
  33. プラハの春
  34. ワルシャワ条約機構軍の侵攻
  35. 「制限主権」という論理
  36. メキシコ学生運動とトラテロルコ
  37. 日本の大学闘争
  38. 1969年 安田講堂攻防戦
  39. 1968年 核拡散防止条約
  40. 1969年 — 変革と反動が交差する
  41. アポロ11号
  42. ストーンウォール蜂起
  43. ニクソンと「ベトナム化」
  44. カンボジア爆撃と越境作戦
  45. 1970年 ケント州立大学
  46. 日本 — 1970年と高度成長社会
  47. 1971年 バングラデシュ独立
  48. インド・パキスタン戦争
  49. 1971年 ニクソン・ショック
  50. ブレトンウッズ体制の終わり
  51. 1972年 米中接近
  52. 上海コミュニケ
  53. SALT IとABM条約
  54. デタントとは何だったのか
  55. 1972年 沖縄返還
  56. 1972年 日中国交正常化
  57. 1973年 パリ和平協定
  58. それでもベトナム戦争は終わらなかった
  59. 1962–1973年に何が変わったのか
  60. 1962–1973年の主な出来事
  61. 次の時代へ — 石油危機、スタグフレーション、権威主義と革命
  62. 参考資料・出典

キューバ危機後 — 核戦争をどう管理するか

1962年10月のキューバ危機は、アメリカとソ連に核戦争が意図的な開戦だけでなく、誤解、通信遅延、局地的軍事衝突からも起こりうることを示しました。危機後、両国は対立を続けながら、危機管理と軍備管理の仕組みを作り始めました。

ワシントンとモスクワを直接結ぶ緊急通信回線、いわゆるホットラインの設置が合意され、核実験を制限する交渉も進みました。

これは「冷戦の終わり」ではありません。むしろ相互に大量の核兵器を保有したまま、競争が破滅へ至らないよう制度を作る冷戦の新しい段階でした。

1963年 部分的核実験禁止条約

1963年8月5日、アメリカ、ソ連、イギリスはモスクワで部分的核実験禁止条約へ署名しました。条約は大気圏内、宇宙空間、水中での核実験を禁止しましたが、地下核実験は対象外でした。

アメリカ国務省歴史局は、この条約を冷戦期最初の主要な軍備管理合意として位置づけています。地下核実験を禁止対象から外すことで、検証方法をめぐる米ソ対立を回避しました。

条約は核軍拡そのものを停止させませんでした。しかし大気圏内核実験による放射性降下物を減らし、1968年の核拡散防止条約や1972年のSALT Iへつながる軍備管理外交の先例となりました。

1963年 ワシントン大行進

1963年8月28日、約25万人が「仕事と自由のためのワシントン大行進」に参加しました。A・フィリップ・ランドルフ、ベイヤード・ラスティンらが中心となり、公民権法制定、雇用差別撤廃、経済的平等などを求めました。

マーティン・ルーサー・キング・ジュニアがリンカーン記念堂前で行った演説は、この行進を象徴する出来事となりました。しかし運動の要求は人種的融和だけではなく、「Jobs and Freedom」という名称が示すように仕事、賃金、経済的正義を含んでいました。

国立公文書館は、この行進を当時のアメリカ史上最大規模の人権デモとして記録しています。

ケネディ暗殺とジョンソン政権

1963年11月22日、ジョン・F・ケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺され、副大統領リンドン・B・ジョンソンが大統領へ昇格しました。

ケネディ政権末期には公民権法案が議会へ提出されていました。ジョンソンは就任後、その成立を優先課題としました。

同時にベトナム政策もケネディ期から引き継がれました。当時すでにアメリカは多数の軍事顧問を南ベトナムへ派遣していましたが、ジョンソン政権下でその関与は大規模な直接戦争へ変化します。

1964年 公民権法

1964年7月2日、ジョンソン大統領が公民権法へ署名しました。法律は公共施設での人種隔離を禁止し、雇用差別を禁止し、学校統合や連邦資金を受ける機関での差別に対する連邦政府の執行権限を強化しました。

人種だけでなく、肌の色、宗教、性、出身国を理由とする雇用差別も禁止対象となりました。

この法律は南北戦争後の再建期以来、アメリカの公民権法制で最大級の転換でした。

1965年 投票権法

南部では公民権法成立後も、読み書き試験、行政手続き、脅迫、暴力などによって黒人有権者の登録が妨げられていました。

1965年3月7日、アラバマ州セルマで投票権を求める行進者が州警察などに襲撃されました。「血の日曜日」と呼ばれた映像は全国に報道されました。

同年8月6日に成立した投票権法は、人種差別的な投票資格制度を禁止し、連邦政府が選挙制度へ直接介入する仕組みを導入しました。Library of Congressによれば、黒人有権者登録率はその後大幅に上昇しました。

法改正だけでは終わらない人種問題

公民権法と投票権法はジム・クロウ体制を法的に解体する大きな成果でした。しかし住宅隔離、学校間格差、失業、低賃金、警察暴力などは残りました。

1965年ロサンゼルスのワッツで大規模な暴動が起き、その後も複数都市で衝突が発生しました。運動内部では非暴力直接行動と制度改革を重視する路線だけでなく、黒人自身による政治・経済的自己決定を強調する「ブラック・パワー」が広がりました。

法制度上の平等と、実際の社会・経済的平等は同じではありませんでした。

ベトナム — 顧問派遣から戦争拡大へ

1954年ジュネーヴ協定後、ベトナムは北緯17度線付近で暫定的に南北へ分けられました。北ではホー・チ・ミン率いるベトナム民主共和国、南ではゴ・ディン・ジエム政権が成立しました。

南部では共産主義勢力と反政府勢力による武装活動が拡大し、1960年には南ベトナム解放民族戦線が形成されました。北ベトナムは南の革命運動を支援しました。

ケネディ政権は南ベトナムへの軍事顧問と装備支援を大幅に増やしましたが、1963年にはジエム政権が軍事クーデタで倒され、その後の南ベトナム政権は不安定な状態が続きました。

1964年 トンキン湾事件

1964年8月2日、北ベトナム沖のトンキン湾でアメリカ駆逐艦マドックスと北ベトナム魚雷艇が交戦しました。8月4日にも二度目の攻撃があったと報告されました。

しかし後に8月4日の攻撃が実際に起きたのかについて重大な疑問が生じました。アメリカ国務省歴史局と国立公文書館も、第二の攻撃について後に疑義が生じたことを明記しています。

この事件は、情報が不確実な軍事状況の中で政策決定が急速に進んだ重要な事例です。

トンキン湾決議

8月7日、アメリカ議会はトンキン湾決議を可決しました。下院は全会一致、上院では2人だけが反対しました。

決議は大統領に、アメリカ軍への武力攻撃を撃退し、東南アジアでさらなる侵略を防ぐため「必要なすべての措置」を取る権限を認めました。

正式な宣戦布告ではありませんでしたが、ジョンソン政権と後のニクソン政権はベトナムにおける軍事行動の法的根拠として利用しました。決議は1971年に廃止されます。

1965年 米軍地上戦闘部隊投入

1965年3月、アメリカ海兵隊がダナンへ上陸しました。基地防衛を目的とする部隊から始まりましたが、地上戦闘任務は急速に拡大しました。

その後アメリカ軍兵力は数十万人規模へ増え、1968年には50万人を超えました。アメリカは南ベトナム政府軍とともに、北ベトナム軍・南ベトナム解放民族戦線との大規模な地上戦を行いました。

「軍事顧問による支援」から「アメリカ軍自身が主要戦闘主体となる戦争」への転換でした。

北爆とローリング・サンダー作戦

1965年、アメリカは北ベトナムへの継続的航空爆撃「ローリング・サンダー作戦」を開始しました。北ベトナムの軍事能力と補給網を破壊し、南への支援を停止させることが目的でした。

しかし北ベトナムはソ連・中国から支援を受け、補給路を修復し、南への浸透を続けました。爆撃によって北側の戦争継続意思を破壊することもできませんでした。

軍事力の圧倒的優位が、そのまま政治目的の達成を保証しないことが次第に明らかになります。

ベトナム戦争を「米ソ代理戦争」だけで見ない

ベトナム戦争には冷戦の構造が明確に存在しました。アメリカは南ベトナムを支援し、ソ連と中国は北ベトナムへ大量の武器・経済援助を提供しました。

しかし戦争の起源には、フランス植民地支配からの独立戦争、ベトナム国家統一、南ベトナム国内政治、農村社会、共産主義革命など独自の歴史があります。

北ベトナムもソ連・中国の単なる代理ではなく、両大国の対立を利用しながら独自の戦争目的を追求しました。「超大国が現地人を動かした戦争」とだけ捉えると、ベトナム側の政治主体性が見えなくなります。

反戦運動の拡大

アメリカ軍の兵力増加と徴兵拡大によって、ベトナム戦争は大学生や若年男性にとって直接的な問題となりました。大学キャンパスでは討論会、徴兵カード焼却、デモが増えました。

反戦運動には平和主義者、公民権運動家、学生新左翼、宗教者、退役軍人など多様な参加者がいました。戦争への反対理由も、道徳的反対、反帝国主義、徴兵への反発、財政負担、公民権政策への影響など一様ではありませんでした。

一方、戦争継続を支持する世論も存在し、アメリカ社会は戦争をめぐって深く分裂しました。

日本 — 1964年東京オリンピック

1964年10月、東京で第18回オリンピック競技大会が開催されました。国立国会図書館には大会準備、施設、交通整備、公式報告書など大量の記録が残されています。

大会に合わせる形で東海道新幹線が開業し、高速道路・都市交通・宿泊施設などの整備も進みました。

東京大会は「戦後復興が完了した日」と単純に定義できる出来事ではありませんが、高度経済成長期の日本が国際社会へ再び大規模に自己提示した象徴的行事でした。

1965年 日韓基本条約

1965年6月22日、日本と大韓民国は「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」など一連の協定へ署名しました。12月18日に発効し、両国の外交関係が正常化しました。

同時に請求権・経済協力協定、漁業協定などが結ばれました。

しかし植民地支配をどう評価するか、個人の請求権をどう扱うかなどをめぐる歴史認識・法的解釈の問題は、その後も日韓関係の争点として残りました。条約締結による外交正常化と、歴史問題の完全解決は同じではありませんでした。

1965–1966年 インドネシアの大量殺害

1965年9月30日から10月1日にかけて、インドネシアで陸軍将軍らが殺害される事件が起きました。事件の首謀・共産党PKI指導部の関与の範囲については歴史研究上の議論がありますが、陸軍はPKIによるクーデタとして非難しました。

スハルト少将を中心とする陸軍は事態を掌握し、その後PKI党員、支持者とみなされた人々、左派、地域によっては華人系住民などへの大規模な殺害・拘禁が広がりました。

当時のアメリカ政府文書も数十万人規模の死者を推計していました。現在も総数には幅がありますが、20世紀の大規模な政治的集団殺害の一つとして研究されています。

スカルノからスハルトへ

インドネシア独立以来の大統領スカルノは、軍、共産党、民族主義勢力の均衡を取る政治を行っていました。しかし1965年事件後、その政治的基盤は崩れました。

1966年にスハルトが実権を強め、1967年に大統領代行、1968年に正式な大統領となりました。

新体制は「新秩序」と呼ばれ、反共主義、軍の強い政治的役割、西側諸国との経済関係改善を特徴としました。冷戦は国家間同盟だけでなく、国内政治体制の転換とも深く結びついていました。

1966年 中国文化大革命

1966年、中国で「プロレタリア文化大革命」が本格化しました。Library of Congressの中国研究資料は、毛沢東が党機構内部に「資本主義の道を歩む」勢力がいるとみなし、既存党組織を迂回して若者を政治動員したと整理しています。

国家主席劉少奇、鄧小平をはじめ多数の党幹部が批判・失脚の対象となりました。

文化大革命は単純な文化政策ではなく、毛沢東の権力回復、社会主義社会における階級闘争継続論、世代動員が結びついた全国的政治闘争でした。

紅衛兵と「四旧」攻撃

中高生・大学生を中心とする紅衛兵組織が全国で形成され、毛沢東への忠誠と「革命」を掲げて党幹部、教員、知識人などを批判しました。

「旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣」、いわゆる「四旧」を破壊する運動では、寺院、書籍、美術品、墓地、歴史的建築なども攻撃対象となりました。

Library of Congressには、紅衛兵が「四旧」を破壊する姿を描いた1967年の政治宣伝ポスターも保存されています。文化財破壊と身体的暴力は、抽象的な思想闘争ではなく現実の社会生活を変えました。

派閥抗争と軍の介入

紅衛兵運動は中央の命令だけで一枚岩に動いたわけではありません。各地域・学校・工場で異なる「造反派」が競合し、互いに相手を反革命と批判する派閥抗争が広がりました。

1967年には武器を用いる衝突も各地で起こり、鉄道・工場・行政機構の運営が混乱しました。

人民解放軍は次第に秩序回復と革命委員会設置へ関与し、文化大革命を始動させた大衆動員を軍・国家が再び統制する方向へ進みました。

上山下郷運動

1968年以後、多数の都市青年が農村や辺境地域へ送り出されました。知識青年に農民から学ばせ、労働を通じて思想改造を行うという理念が掲げられました。

同時に、大都市で制御困難になった紅衛兵組織を分散させる政治的意味もありました。

文化大革命は教育制度、職業経歴、家族、知識人社会へ長期間影響を残しました。1969年の党大会で制度的秩序はある程度再建されましたが、文化大革命自体は一般に1976年まで続いたとされます。

1967年 第三次中東戦争

1967年5月、エジプト軍がシナイ半島へ進出し、ナーセル政権が国連緊急軍の撤退を要求した後、ティラン海峡をイスラエル船舶に閉鎖しました。イスラエルと周辺アラブ諸国の緊張は急速に高まりました。

6月5日、イスラエルはエジプト空軍基地を攻撃し、戦争が始まりました。6日間でイスラエルはエジプト、ヨルダン、シリアを軍事的に破り、シナイ半島、ガザ地区、ヨルダン川西岸、東エルサレム、ゴラン高原を占領しました。

戦争は短期間でしたが、その領土的帰結はその後数十年の中東政治を規定することになります。

占領地という長期問題

1967年以前のイスラエルとアラブ諸国の対立に、広大な占領地をどう扱うかという問題が加わりました。ヨルダン川西岸・ガザには多数のパレスチナ人が居住していました。

イスラエルは東エルサレムへの統治を拡大し、占領地域ではその後入植活動も始まりました。

パレスチナ人の民族運動もさらに重要性を増し、PLOが独自の政治・軍事主体として存在感を強めます。

国連安保理決議242

1967年11月22日、国連安全保障理事会は決議242を全会一致で採択しました。

決議は「最近の紛争で占領された領域からのイスラエル軍撤退」と、地域のすべての国家が「安全かつ承認された境界内で平和に生きる権利」の双方を掲げました。

英語正文の「territories occupied」とフランス語正文などの表現をめぐる解釈差を含め、撤退範囲は後に激しく争われました。しかし領土と和平を交換する考え方は、その後の中東和平外交の基礎となりました。

1967–1970年 ナイジェリア内戦

ナイジェリアでは1966年の軍事クーデタと反クーデタ、北部でのイボ人虐殺、大規模な難民移動によって地域対立が激化しました。

1967年5月、東部州が「ビアフラ共和国」として分離独立を宣言すると、連邦政府との内戦が始まりました。

連邦軍の包囲と補給遮断の中でビアフラ側では深刻な飢餓が発生し、飢えた子どもたちの映像が世界に報道されました。1970年1月にビアフラは降伏しました。戦争報道と国際人道援助のあり方にも大きな影響を与えた紛争でした。

なぜ「1968年」なのか

1968年にはアメリカ、フランス、チェコスロヴァキア、メキシコ、日本、西ドイツ、イタリアなどで大規模な社会運動が相次ぎました。しかし世界各地の運動が同じ組織や目的を共有していたわけではありません。

共通していたのは、戦後生まれの若年人口増加、大学進学者増加、テレビを含むマスメディアの発達、ベトナム戦争、既存政党・官僚機構・大学制度への不信、消費社会の拡大などでした。

「1968年」は一つの世界革命ではなく、異なる社会の不満が同時期に噴出し、映像・音楽・思想・報道を通じて互いを意識した世界的な政治文化現象でした。

1968年 テト攻勢

1968年1月末、ベトナムの旧正月テトの時期に、北ベトナム軍と南ベトナム解放民族戦線は南ベトナム各地で大規模攻勢を開始しました。

サイゴン、フエを含む都市や軍事施設が同時に攻撃され、サイゴンのアメリカ大使館敷地内にも攻撃部隊が侵入しました。

アメリカ・南ベトナム側は最終的にほぼすべての主要都市を奪回し、攻勢側は大きな人的損失を受けました。

軍事的結果と政治的結果

アメリカ国務省歴史局は、テト攻勢後に南ベトナム解放民族戦線の戦力が大きく損耗し、占領地域の多くが奪回された一方、アメリカ国内では政府の戦況説明への信頼が低下したと整理しています。

つまり「テト攻勢で北側が軍事的に勝利した」と単純に説明することも、「軍事的に撃退したのでアメリカ側の勝利だった」とだけ説明することも不十分です。

政治戦争では、戦場の損害と国内世論への影響が異なる結果を生むことがあります。3月31日、ジョンソンは北爆の一部停止と大統領選への不出馬を発表しました。

キング暗殺

1968年4月4日、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアはテネシー州メンフィスで暗殺されました。キングは当時、清掃労働者のストライキ支援のため同地に滞在していました。

暗殺後、アメリカの多数の都市で抗議と騒乱が起こりました。

キングは晩年、公民権だけでなく貧困とベトナム戦争にも批判を広げていました。したがって彼の活動を1963年の「夢」の演説だけに限定すると、経済的不平等と戦争を含む後期の政治思想を見落とします。

ブラック・パワーと都市問題

1960年代後半、SNCCのストークリー・カーマイケルらが「ブラック・パワー」を掲げ、黒人自身による政治的自己決定、組織化、経済力を重視しました。

ブラック・パンサー党は警察暴力への監視と武装自衛を主張する一方、無料朝食など地域社会プログラムも行いました。

公民権運動は「非暴力から暴力へ単純に転換した」のではありません。法的平等を求める運動から、都市の構造的不平等、人種的自己決定、経済的正義を含む複数の運動へ広がりました。

フランス五月危機

1968年5月、パリ大学ナンテール校やソルボンヌを中心とする学生抗議が警察との衝突へ発展しました。大学制度、権威主義、ベトナム戦争、資本主義社会、性道徳など多様な問題が批判されました。

学生への警察対応を契機に労働者のストライキが急速に拡大し、数百万人規模の労働者が参加するゼネストとなりました。

ド・ゴール政権は崩壊せず、6月総選挙では与党が勝利しました。しかし五月危機は大学、労働、文化、世代関係を変える長期的象徴となりました。政治革命には至らなくても、社会文化上の転換が起こりうることを示しました。

プラハの春

1968年1月、アレクサンデル・ドゥプチェクがチェコスロヴァキア共産党第一書記となり、検閲緩和、経済改革、政治参加拡大などを進めました。

「人間の顔をした社会主義」と呼ばれた改革は、社会主義体制そのものをただちに廃止する運動ではありませんでした。共産党支配を維持しながら、より自由な社会主義制度を作ろうとする試みでした。

しかしソ連指導部は、改革が東欧他国へ波及しワルシャワ条約圏を弱めることを警戒しました。

ワルシャワ条約機構軍の侵攻

8月20日から21日にかけて、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍がチェコスロヴァキアへ侵攻しました。

チェコスロヴァキア軍は全面的軍事抵抗を行わず、市民は道路標識を外す、兵士と議論する、放送を続けるなどさまざまな非武装抵抗を行いました。

改革指導者はモスクワへ連行され、段階的に改革は撤回されました。1969年にはグスターフ・フサークが指導部を掌握し、「正常化」と呼ばれる政治統制の再強化が進みました。

「制限主権」という論理

侵攻後、ソ連指導部は社会主義国の一国で社会主義体制そのものが脅かされる場合、それは全社会主義諸国の問題になるという論理を示しました。西側では一般に「ブレジネフ・ドクトリン」と呼ばれます。

この原則は、東欧諸国の国家主権がワルシャワ条約圏と共産主義体制維持によって制限されることを意味しました。

ハンガリー1956年とチェコスロヴァキア1968年は、ソ連が東欧同盟国の政治改革をどこまで許容するかの境界を示しました。

メキシコ学生運動とトラテロルコ

メキシコでは1968年夏、警察暴力への抗議から大学・高校生の運動が拡大しました。学生側は政治犯釈放、治安組織への責任追及などを要求しました。

10月2日、メキシコシティのトラテロルコ三文化広場で集会中の学生・市民に治安部隊が発砲し、多数が死亡・逮捕されました。正確な死者数は現在も確定していません。

アメリカ外交文書も、当時の治安部隊による「過剰な力」の使用を報告しています。事件から10日後、メキシコシティ・オリンピックが開幕しました。

日本の大学闘争

日本でも1960年代後半、大学授業料、学生処分、大学運営、医学部制度、ベトナム戦争、日米安保などをめぐって大学紛争が広がりました。

日大全共闘、東大全共闘など、既存の学生自治会組織とは異なる形の「全学共闘会議」が形成されました。要求や組織構成は大学ごとに異なり、すべてを一つの新左翼運動として括ることはできません。

国立国会図書館所蔵の研究では、日本の「1968年」を高度経済成長、大学大衆化、ベトナム戦争、議会政治への不信などの複合的背景から分析しています。

1969年 安田講堂攻防戦

東京大学では1968年の医学部問題から紛争が全学へ拡大し、安田講堂などが占拠されました。

1969年1月18–19日、大学側の要請で導入された機動隊が安田講堂を封鎖していた学生を排除し、大規模な衝突となりました。

これによって東大闘争がただちに終わったわけではありませんが、テレビ中継された攻防戦は日本の大学紛争を象徴する映像となりました。

1968年 核拡散防止条約

1968年7月1日、核拡散防止条約NPTが署名開放されました。条約は核兵器国から非核兵器国への核兵器・関連技術移転を防ぎ、非核兵器国による核兵器取得を制限する一方、平和利用協力と核軍縮交渉の義務も定めました。

条約は1970年3月5日に発効しました。

NPTは核兵器国と非核兵器国を異なる法的カテゴリーに置く不平等性への批判を受けながらも、後に世界的な核不拡散体制の中心となりました。

1969年 — 変革と反動が交差する

1969年になると、1968年型の大規模社会運動の一部は制度改革へ吸収され、一部は急進化・分裂し、一部は国家によって抑圧されました。

同時に、宇宙開発、性的少数者の権利運動、環境運動、女性解放運動など新しい政治・文化領域が前面に出てきます。

「1960年代」は1969年12月31日に突然終わるものではありません。1970年代前半まで、戦争、社会運動、文化的価値観の変化は連続していました。

アポロ11号

1969年7月16日、アポロ11号が打ち上げられ、7月20日、ニール・アームストロングとバズ・オルドリンが月面へ着陸しました。マイケル・コリンズは司令船で月周回軌道に残りました。

NASAによれば、月面着陸映像は推定約6億5千万人が視聴しました。

月着陸は科学技術上の成果であると同時に、スプートニク以来の米ソ宇宙競争における国家威信の競争でもありました。冷戦は地上の軍事境界だけでなく宇宙へ拡張されていました。

ストーンウォール蜂起

1969年6月28日未明、ニューヨークのストーンウォール・インに警察が踏み込みました。当時、同性愛者の公共空間やバー営業を制限する法律・行政慣行が広く存在していました。

この夜、店の利用者と周辺住民が警察に抵抗し、その後数夜にわたって抗議が続きました。

アメリカ国立公園局はストーンウォールを、現代のゲイ・レズビアン公民権運動を大きく加速させた画期的出来事と位置づけています。運動そのものは1969年以前から存在していましたが、ストーンウォール後により可視的で大衆的な組織化が進みました。

ニクソンと「ベトナム化」

1969年に大統領へ就任したニクソンは、南ベトナム軍の装備・訓練を強化し、アメリカ地上軍を段階的に撤退させる「ベトナム化」を進めました。

アメリカ兵の死傷者と国内政治負担を減らしながら、南ベトナム政府が単独で北側へ対抗できる状態を作ることが目的でした。

しかし米軍撤退と同時に航空戦力の使用は続き、戦争はカンボジア・ラオスにも深く広がりました。「撤退」と「戦争縮小」は完全に同じではありませんでした。

カンボジア爆撃と越境作戦

北ベトナム軍・解放民族戦線は中立国カンボジア東部を補給・休養拠点として利用していました。ニクソン政権は1969年からカンボジア内の拠点を秘密裏に爆撃しました。

1970年4月、アメリカ軍と南ベトナム軍はカンボジア領内へ地上侵攻しました。

ニクソンはこれを撤退を安全に進めるための限定作戦と説明しましたが、アメリカ国内では「戦争を終わらせる」と述べながら戦域を拡大したとの批判が急速に強まりました。

1970年 ケント州立大学

カンボジア作戦に抗議する学生デモが全米大学へ広がる中、1970年5月4日、オハイオ州ケント州立大学で州兵が学生へ発砲しました。

学生4人が死亡し、9人が負傷しました。死者全員が州兵への直接攻撃に参加していたわけではありませんでした。

事件は戦争をめぐるアメリカ国内分裂をさらに深め、全国で大学ストライキが広がりました。国立公文書館には事件後に設置された大統領委員会の調査記録が保存されています。

日本 — 1970年と高度成長社会

日本では1970年、大阪で日本万国博覧会が開催されました。高度経済成長、科学技術、未来都市への期待を象徴する国家的イベントでした。

同じ年、1960年に改定された日米安全保障条約は最初の10年間を終え、自動延長されました。60年安保のような政権を揺るがす規模の反対運動にはなりませんでしたが、ベトナム戦争と在日米軍基地をめぐる抗議は続きました。

経済成長の一方、水俣病、イタイイタイ病、大気汚染など公害問題が社会問題として深刻化し、「成長そのものをどう評価するか」という問いも広がりました。

1971年 バングラデシュ独立

1970年のパキスタン総選挙で、東パキスタンを基盤とするアワミ連盟が国民議会で過半数を獲得しました。しかし政権移譲は実現せず、政治対立が深まりました。

1971年3月、パキスタン軍は東部で軍事弾圧を開始しました。大量の住民が殺害・避難し、約1000万人がインドへ流入したとされます。

東パキスタン側はバングラデシュ独立を宣言し、ムクティ・バヒニが武装闘争を行いました。

インド・パキスタン戦争

難民流入と国境衝突が続く中、1971年12月にインドとパキスタンが全面戦争へ入りました。

インド軍とバングラデシュ側部隊は東パキスタンで急速に進撃し、12月16日にダッカのパキスタン軍が降伏しました。東パキスタンは独立国家バングラデシュとなりました。

アメリカはパキスタンとの関係を重視し、ソ連はインドとの関係を強めていました。地域内戦・民族自決・大国外交が結びついた戦争でした。

1971年 ニクソン・ショック

1971年8月15日、ニクソン大統領はドルと金の交換停止、輸入課徴金、賃金・物価凍結などを含む「新経済政策」を発表しました。

第二次世界大戦後のブレトンウッズ体制では、各国通貨がドルへ、ドルが1オンス35ドルで金へ結びついていました。しかし海外に流通するドルがアメリカの金準備を大きく上回るようになっていました。

金交換停止は固定為替相場制度の中心を崩し、戦後経済秩序の転換を始めました。

ブレトンウッズ体制の終わり

1971年末のスミソニアン協定では主要通貨の新しい固定相場が設定されましたが、市場圧力を安定させることはできませんでした。

1973年までに主要通貨は変動相場制へ移行し、戦後約四半世紀続いたブレトンウッズ型固定為替相場は事実上終了しました。

この通貨体制転換の直後、1973年秋には石油危機が発生します。1970年代のインフレーションと世界経済変動を理解する重要な前史です。

1972年 米中接近

中ソ関係が悪化する中、アメリカと中華人民共和国は1960年代末から秘密接触を進めました。1971年7月、キッシンジャーが秘密裏に北京を訪問し、ニクソン訪中への道を開きました。

1972年2月21日から28日、ニクソンは現職アメリカ大統領として初めて中華人民共和国を訪問し、毛沢東、周恩来と会談しました。

米中接近は、アメリカ・ソ連・中国の三角関係を利用する外交へ冷戦を変化させました。

上海コミュニケ

ニクソン訪中の最終日に、アメリカと中国は上海コミュニケを発表しました。

台湾問題について中国側は中華人民共和国が中国唯一の合法政府で台湾は中国の一部だとする立場を述べ、アメリカ側は台湾海峡両側のすべての中国人が「中国は一つ」と主張していることを認識し、その立場に異議を唱えないとしました。

両国の立場は同一になったわけではありませんでしたが、長年の敵対関係から関係正常化へ進む枠組みが作られました。正式な米中国交正常化は1979年です。

SALT IとABM条約

1969年から始まった米ソ戦略兵器制限交渉は、1972年5月のモスクワ首脳会談で最初の主要合意へ達しました。

ニクソンとブレジネフは弾道弾迎撃ミサイルABMシステムを制限する条約と、戦略攻撃兵器の一部を数量制限する暫定協定へ署名しました。

核兵器を廃絶する条約ではありませんでした。むしろ互いに報復能力を保持することで、一方が核戦争で勝てると考えにくい状態を安定化しようとする軍備管理でした。

デタントとは何だったのか

1970年代初頭の米ソ緊張緩和は一般に「デタント」と呼ばれます。首脳会談、SALT、経済交流、欧州安全保障交渉などが進みました。

しかし米ソが同盟国になったわけでも、世界各地の冷戦競争が終わったわけでもありません。ベトナム戦争は続き、南アジア・中東・アフリカでは両国が異なる勢力を支援しました。

デタントとは冷戦の終了ではなく、核超大国同士の直接対立を管理しながら競争を続ける外交の一形態でした。

1972年 沖縄返還

第二次世界大戦後、沖縄を含む琉球諸島はアメリカの施政下に置かれていました。1969年の日米首脳会談で返還方針が合意され、1971年6月17日に沖縄返還協定が署名されました。

協定は1972年5月15日に発効し、沖縄の施政権が日本へ返還されました。

しかしアメリカ軍基地は返還後も大規模に残りました。主権返還と基地問題の解消は同じではなく、沖縄の基地負担はその後も日本政治の重要な争点となりました。

1972年 日中国交正常化

1972年9月、田中角栄首相が北京を訪問し、周恩来首相らと交渉しました。9月29日、日本国政府と中華人民共和国政府は共同声明を発表しました。

日本政府は中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」と承認し、両国は外交関係を樹立しました。中国政府は日本に対する戦争賠償請求を放棄すると表明しました。

アメリカのニクソン訪中と同じ1972年に、日本の対中外交も大きく転換しました。東アジアの冷戦外交構造が動き始めた年でした。

1973年 パリ和平協定

長期交渉の末、1973年1月27日、「ベトナムにおける戦争の終結及び平和の回復に関する協定」、パリ和平協定が署名されました。

署名したのはアメリカ、ベトナム共和国、ベトナム民主共和国、南ベトナム共和国臨時革命政府でした。協定は停戦、米軍撤退、捕虜返還などを定めました。

アメリカ国務省の外交文書は、この協定がアメリカ軍のベトナムからの撤退とアメリカの直接的戦闘参加の終結をもたらしたと整理しています。

それでもベトナム戦争は終わらなかった

パリ和平協定は「ベトナムそのものに安定した和平を成立させた協定」にはなりませんでした。北ベトナム軍部隊は南部に残り、南ベトナム政府と共産側の戦闘は続きました。

協定後の停戦は各地で破られ、南北双方が支配地域を拡大しようとしました。

1975年、北ベトナム軍が大規模攻勢を行い、4月30日にサイゴンが陥落します。したがって1973年はアメリカの直接戦争参加の終結点としては重要ですが、ベトナム戦争の最終終結点ではありません。

1962–1973年に何が変わったのか

1962年のキューバ危機後、米ソは核戦争を回避するための制度を作り始めました。部分的核実験禁止条約、核拡散防止条約、SALT Iは、核競争を止めるのではなく制御しようとする試みでした。核抑止という危険な均衡が国際秩序の恒常的条件になりました。

一方、ベトナムではアメリカの軍事介入が史上最大規模へ拡大し、その後撤退へ転じました。戦争はベトナムだけでなく、アメリカ国内政治、カンボジア、ラオス、大学、音楽、報道、徴兵制度を変えました。1973年の和平協定は米軍撤退を実現しましたが、ベトナムの内戦を終わらせませんでした。

アメリカでは公民権法と投票権法によって法的人種差別が大きく後退しました。しかし運動はそこで終わらず、経済的不平等、警察、住宅、黒人の自己決定へ争点が移りました。1969年のストーンウォール以後、性的少数者の権利運動もより可視的になりました。

「1968年」に象徴される学生・社会運動は国境を越えて同じ革命を行ったわけではありません。パリ五月危機、プラハの春、メキシコ学生運動、日本の全共闘、アメリカ反戦運動は、それぞれ異なる国家制度と社会条件を持っていました。しかし若年人口、大学大衆化、テレビ報道、ベトナム戦争、既存権威への不信によって、互いを意識しながら同時進行したという意味で世界史的な共振がありました。

中国の文化大革命はこれらの社会運動と同じ「自由化運動」として扱うことはできません。毛沢東が党内対立と革命イデオロギーの中で若者を動員し、国家・党組織を揺さぶった政治闘争であり、多数の迫害・暴力を生みました。同じ「若者の政治参加」という外形の下でも、国家権力との関係はまったく異なります。

脱植民地化後の世界も安定していませんでした。インドネシアの大量殺害、ナイジェリア内戦、バングラデシュ独立は、植民地帝国崩壊後の国家統合、民族、政治体制、冷戦介入の困難を示しました。

日本は高度経済成長を背景に、東京オリンピック、日韓国交正常化、沖縄返還、日中国交正常化を通じて東アジアの国際関係へ再び深く組み込まれました。同時に学生運動、公害問題、安保・基地問題が、成長社会の内部矛盾として表面化しました。

そして1971–72年には、戦後秩序そのものも変化しました。ドルと金の交換停止によってブレトンウッズ体制が崩れ始め、米中接近と米ソデタントによって冷戦の二極構造も複雑化しました。1973年秋に起きる中東戦争と石油危機は、この変化を世界経済の危機へ変えていきます。

1962–1973年の主な出来事

  • 1963年6月 — 米ソ間の緊急通信回線設置で合意。
  • 1963年8月5日 — 米英ソが部分的核実験禁止条約へ署名。
  • 1963年8月28日 — ワシントン大行進。約25万人が参加。
  • 1963年11月22日 — ケネディ大統領暗殺、ジョンソンが大統領へ。
  • 1964年7月2日 — アメリカ公民権法成立。
  • 1964年8月2日 — トンキン湾で米艦と北ベトナム魚雷艇が交戦。
  • 1964年8月7日 — アメリカ議会がトンキン湾決議を可決。
  • 1964年10月 — 東京オリンピック開催。
  • 1965年3月 — アメリカ海兵隊がダナンへ上陸。地上戦闘部隊投入が本格化。
  • 1965年8月6日 — アメリカ投票権法成立。
  • 1965年6月22日 — 日韓基本条約などに署名。
  • 1965年9–10月 — インドネシアでクーデタ未遂事件と反共大量殺害が始まる。
  • 1966年 — 中国で文化大革命が本格化。
  • 1967年6月5–10日 — 第三次中東戦争。イスラエルが広大な地域を占領。
  • 1967年7月 — ナイジェリア内戦が本格化。
  • 1967年11月22日 — 国連安保理決議242採択。
  • 1968年1月 — チェコスロヴァキアでドゥプチェクが党第一書記へ。
  • 1968年1月末 — ベトナムでテト攻勢開始。
  • 1968年4月4日 — マーティン・ルーサー・キング・ジュニア暗殺。
  • 1968年5月 — フランス五月危機、学生運動とゼネスト。
  • 1968年7月1日 — 核拡散防止条約署名開放。
  • 1968年8月20–21日 — ワルシャワ条約機構軍がチェコスロヴァキアへ侵攻。
  • 1968年10月2日 — メキシコ・トラテロルコで学生・市民への弾圧。
  • 1968–1969年 — 日本各地で大学闘争・全共闘運動が拡大。
  • 1969年1月18–19日 — 東大安田講堂攻防戦。
  • 1969年6月28日 — ニューヨークでストーンウォール蜂起。
  • 1969年7月20日 — アポロ11号が人類初の有人月面着陸。
  • 1969年11月17日 — 米ソSALT交渉開始。
  • 1970年4–5月 — 米軍・南ベトナム軍がカンボジアへ越境作戦。
  • 1970年5月4日 — ケント州立大学で州兵が学生へ発砲、4人死亡。
  • 1970年 — 大阪万博開催。日米安全保障条約が自動延長。
  • 1971年 — 東パキスタン危機がバングラデシュ独立戦争へ発展。
  • 1971年8月15日 — ニクソンがドルと金の交換停止を発表。
  • 1971年12月 — インド・パキスタン戦争、バングラデシュ独立確定。
  • 1972年2月21–28日 — ニクソン大統領が中国訪問、上海コミュニケ。
  • 1972年5月15日 — 沖縄の施政権が日本へ返還。
  • 1972年5月26日 — 米ソがABM条約とSALT I暫定協定へ署名。
  • 1972年9月29日 — 日中共同声明、日本と中華人民共和国が国交正常化。
  • 1973年1月27日 — パリ和平協定署名。
  • 1973年 — 主要通貨が変動相場制へ移行し、ブレトンウッズ型固定相場体制が事実上終結。

次の時代へ — 石油危機、スタグフレーション、権威主義と革命

1973年1月のパリ和平協定はアメリカのベトナム直接介入を終結へ向かわせました。しかし同年秋、世界は別の危機へ入ります。10月、エジプトとシリアがイスラエルへ攻撃し、第四次中東戦争が始まりました。米ソ双方が同盟国を支援する中、核超大国間の緊張も再び高まりました。

アラブ石油輸出国は石油生産削減と対米禁輸を実施し、原油価格が急上昇しました。戦後の大量生産・大量消費を支えた安価なエネルギーという前提が崩れ、インフレーションと景気停滞が同時進行する「スタグフレーション」が先進工業国を襲います。

同じ1973年9月にはチリで軍事クーデタが起こり、アジェンデ政権が崩壊してピノチェト軍政が成立しました。南米では軍事独裁が広がる一方、ポルトガル帝国は1974年のカーネーション革命後に解体へ向かいます。

次の記事では、1973–1979|石油危機と世界経済の転換 — スタグフレーション、軍事政権、革命、第二次石油危機として、戦後高度成長モデルが揺らぎ、現在につながる新自由主義・エネルギー安全保障・中東政治の前提が形成される過程を扱います。

参考資料・出典

本ページは、U.S. Department of State Office of the Historian、National Archives and Records Administration、Library of Congress、United Nations、NASA、U.S. National Park Service、国立国会図書館、日本国外務省などの資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。ベトナム戦争についてはアメリカ側の政策史だけでなく、ベトナムの植民地支配・国家統一・国内政治という背景を区別しました。「1968年」は世界各地の運動を同一目的の一運動として扱わず、それぞれ異なる政治制度と社会条件を持ちながら国際的に共振した現象として記述しています。中国文化大革命も欧米・日本の学生運動と単純に同列化していません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY