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World History

1989–1993

冷戦終結とアメリカ

Berlin Wall、Soviet Collapse、Gulf War、新しい国際秩序

1989年から1993年までのわずか数年間で、第二次世界大戦後の国際政治を組み立ててきた冷戦秩序は急速に解体しました。東欧の共産党政権が相次いで崩れ、1989年11月にはベルリンの壁が開き、1990年にはドイツが統一され、1991年末にはソビエト連邦そのものが消滅します。アメリカ合衆国にとってこれは長年の対立相手が弱体化しただけではなく、ヨーロッパの安全保障、核兵器管理、国際連合の役割、軍事介入の根拠をすべて考え直す出来事でした。

この転換を単純に「アメリカが冷戦に勝った」とまとめると、多くの要素を失います。ソ連内部では経済停滞、民族問題、Mikhail Gorbachevによるperestroikaとglasnost、共産党支配の弱体化が進んでいました。東欧ではポーランド、ハンガリー、東ドイツ、チェコスロヴァキア、ルーマニアなどの社会運動と国内政治が体制変化を動かしました。アメリカはこれらを外から全面的に統御したのではなく、急速な変化が暴力的なソ連介入や核危機へ転化しないよう、同盟国と連携しながら慎重に対応しました。

George H. W. Bush大統領は1989年1月に就任しました。前任のRonald Reagan政権末期にはGorbachevとの首脳外交、1987年INF Treaty、ソ連軍のAfghanistan撤退など、米ソ関係はすでに大きく改善していました。Bush政権はこの流れを引き継ぎつつ、「変化を歓迎すること」と「ソ連指導部を追い詰めないこと」を両立させようとします。

その姿勢が最もよく表れたのが1989年秋の東欧革命です。PolandではSolidarityを中心とする勢力が選挙で大きく前進し、Hungaryは国境管理を緩和しました。East Germanyでは出国者と反政府demonstrationが急増し、Erich Honeckerは10月に辞任します。11月9日、東ドイツ政府の旅行規制発表をきっかけにBerlin border crossingsへ群衆が押し寄せ、Berlin Wallは事実上開かれました。

壁の崩壊はWashingtonが事前に計画した出来事ではありませんでした。U.S. Department of Stateの歴史資料も、Bush政権がGerman reunificationについて当初は公に急進的な発言を避けたと記録しています。東ドイツやソ連内部の強硬派を刺激して改革を逆転させる可能性があり、祝勝的な言葉より安定した移行を優先したためです。

1989年12月2–3日、BushとGorbachevはMalta沖で首脳会談を開きました。Malta Summitで正式な「冷戦終結条約」が結ばれたわけではありませんが、両首脳は東欧の変化を軍事対決へ戻さず管理する意思を確認しました。Gorbachevの側近は後に「冷戦を地中海の底へ葬った」と表現し、米国務省の歴史資料もこの会談を米ソ関係の質的変化を示す象徴として位置づけています。

冷戦終結の中心問題はドイツでした。1945年以来、GermanyとBerlinにはUnited States、Soviet Union、United Kingdom、Franceの四大国権限が残り、西ドイツはNATO、東ドイツはWarsaw Pactに属していました。したがって東西ドイツの統一はGerman domestic issueだけではなく、ヨーロッパ安全保障秩序そのものをどう再設計するかという問題でした。

1990年、東西Germanyと米英仏ソの六か国は「Two Plus Four」協議を進めます。最大の争点の一つは、統一GermanyがNATOに残るかどうかでした。Bush政権とWest German Chancellor Helmut KohlはNATO membership維持を重視し、Gorbachevは当初強い警戒を示しました。交渉の中でNATO側は軍事態勢を縮小し、旧東ドイツ地域への外国軍・核兵器配備に制約を設ける枠組みを示し、最終的にソ連側も統一GermanyのNATO membershipを受け入れます。

1990年9月12日、Two Plus Four AgreementがMoscowで署名されました。国務省によれば、これによって四大国のGermany全体とBerlinに関する権利と責任を終わらせる国際的な枠組みが整います。10月3日、旧East German statesがFederal Republic of Germanyへ加入し、Germanyは統一されました。新しいGermanyはNATO memberとして残りました。

この結果を「NATOが東へ拡大した最初の瞬間」とだけ表現すると当時の文脈が単純化されます。1990年の主問題は、新たに独立した東欧諸国のNATO加盟ではなく、統一Germany全体がどの安全保障制度に属するかでした。同時にNATO自身も、ソ連圏との全面軍事対決を前提とした組織から、政治協力と縮小された軍事態勢を組み合わせる組織へ変わろうとしていました。

1990年7月のNATO London Declarationは、「Europe has entered a new, promising era」とし、旧東側諸国へ「hand of friendship」を差し出しました。NATOは従来のcollective defenseを維持しながら、政治対話、軍備管理、軍人交流を増やす方針へ移ります。1991年にはNorth Atlantic Cooperation Councilが作られ、旧Warsaw Pact諸国や旧ソ連共和国との対話制度が始まりました。

ヨーロッパ全体でも軍事対立を減らす制度が作られました。1990年11月にはConventional Armed Forces in Europe Treaty、CFE Treatyが署名され、tank、artillery、armored combat vehicles、combat aircraft、attack helicoptersなど主要通常兵器へ大規模な上限が設けられました。同じParis SummitではCharter of Paris for a New Europeが採択され、旧東西両陣営が民主主義、人権、協力を中心にした新しいEuropean orderを掲げました。

NATOは1990年12月の文書で、東西両陣営が互いを敵と見なさないとの共同宣言を「marks the end of the Cold War」と表現しました。ただし「冷戦が終わった日」を一日だけに特定することには限界があります。Berlin Wallの開放、Malta Summit、German reunification、Warsaw Pact解体、Soviet dissolutionはいずれも別々の段階でした。

ヨーロッパで対立が緩和する一方、Bush政権は1989年12月にPanamaへ大規模な軍事介入を行いました。Operation Just Causeでは2万人を超えるU.S. troopsが投入され、Manuel Noriega政権を倒してNoriegaを拘束し、United Statesでdrug traffickingなどの罪に問いました。Bush政権はPanamanian electionの無効化、米国人の安全、Canal treaties、drug traffickingなどを軍事行動の理由として挙げました。

しかしPanama interventionは国際的に広く支持されたわけではありません。United Nations General Assemblyは1989年12月29日、75対20、棄権40でResolution 44/240を採択し、U.S. military interventionをinternational lawとPanamaの主権・領土保全への違反として強く非難しました。これは冷戦終結後のアメリカ軍事力が、自動的に国際的正統性を得るわけではないことを早くも示した出来事でした。

その翌年、さらに大きなpost-Cold War crisisがPersian Gulfで発生します。1990年8月2日、Saddam Hussein政権下のIraqがKuwaitへ侵攻し、短時間で占領しました。United Nations Security Councilは同日Resolution 660を採択し、侵攻を非難してIraqi forcesの即時・無条件撤退を要求しました。

United StatesはSaudi Arabia防衛のため軍を展開し、Operation Desert Shieldを開始しました。Bush政権は単独でIraqを攻撃するのではなく、United Nations resolutions、Arab states、NATO allies、Japanなどから外交・軍事・財政支援を集めるcoalition diplomacyを重視しました。Soviet UnionもIraqの旧来のpartnerでありながらKuwait侵攻を非難し、米ソが同じ方向で国連外交を進めたことは冷戦期には考えにくい変化でした。

1990年9月9日、BushとGorbachevはHelsinkiで共同声明を出し、Iraqの侵略を容認できないと確認しました。旧superpower rivalsがMiddle East crisisで共同歩調を取ったことは、Bush政権が構想したpost-Cold War cooperationの象徴となりました。

9月11日、BushはCongress演説でPersian Gulf crisisを「new world order」へ向かう機会と結びつけました。これはUnited Statesが世界政府を作るという意味ではなく、国連憲章、集団的行動、国家主権、侵略への共同対応を中心とする国際秩序の構想でした。Bushは大国が小国を力で併合できない状態を作ることを、その構想の中心に置きました。

この「new world order」はBush政権自身の政治的visionであり、完成した現実ではありません。Kuwait crisisではSecurity Councilが例外的に一致しましたが、それはSoviet foreign policyが急速に変化していた特殊な時期でもありました。後のYugoslavia、Somalia、さらに1990年代のregional conflictsは、常に主要国が一致してcollective securityを実行できるわけではないことを示します。

1990年11月29日、Security Council Resolution 678は12対2、棄権1で採択され、Iraqが1991年1月15日までに関連決議を実施しない場合、Kuwaitと協力するmember statesへ「all necessary means」を用いる権限を与えました。Soviet Unionも賛成票を投じ、中国は棄権しました。Cold War期には超大国対立で停止しがちだったSecurity Councilが、major international warへのforce authorizationを成立させたことは大きな変化でした。

United States国内でも軍事行動は自動的に承認されたわけではありません。Congressではsanctionsを継続すべきか、forceを認めるべきか激しい議論がありました。1991年1月14日に成立したAuthorization for Use of Military Force Against Iraq Resolution、Public Law 102-1は、Resolution 678にもとづくU.S. Armed Forcesの使用をPresidentに認めました。

1月16日夜からcoalition air campaignが始まり、Operation Desert Stormへ移行します。air strikesはIraqi air defenses、command and control、missile sites、military formations、infrastructureなどを攻撃しました。IraqはIsraelとSaudi ArabiaへScud missilesを発射しましたが、Israelはcoalition維持を優先するU.S. diplomacyもあり大規模な報復攻撃を行いませんでした。

2月24日にground offensiveが始まりました。U.S. Armyとcoalition forcesはKuwait正面への攻撃と西側からの大規模flanking maneuverを組み合わせ、2月28日までの約100時間でIraqi forcesをKuwaitから撤退させました。U.S. Department of Stateはcoalitionを34か国からなるforceとして記録しています。

Desert Stormはprecision-guided weapons、night-vision systems、satellite communications、air-ground coordinationなど新しいmilitary technologyのimageを世界へ強く印象づけました。ただし「完全なハイテク戦争」だったわけではありません。U.S. Army Center of Military Historyは、勝利が大量のlogistics、ground forces、training、leadership、conventional armor warfareに支えられたことを強調し、映像だけから「push-button war」と理解することを戒めています。

coalition側の人的損失はIraqi military lossesに比べ低く抑えられましたが、Iraqi soldiersとciviliansの損失は非常に大きく、正確な数字には幅があります。戦争末期の撤退路への攻撃、bombingによるcivilian infrastructureへの影響、oil wellsの炎上などは戦後も議論を残しました。短いground warは、戦争全体のhuman costが小さかったことを意味しません。

Bush政権はBaghdadまで進軍してSaddam Hussein政権を倒すことを選びませんでした。UN mandateの中心はKuwait解放であり、coalitionにはArab governmentsを含む多様な参加国がいました。Bush administrationは戦争目的をKuwait liberationへ限定し、Iraq全土の占領とregime changeへ拡張すればcoalitionの政治的基盤が崩れると判断しました。

その決定は後に繰り返し議論されます。戦闘終了後、southern IraqではShiite uprising、northではKurdish uprisingが広がりましたが、Iraqi government forcesはこれらを鎮圧しました。Bushは戦時中、Iraqi peopleがSaddam Husseinを退けることを示唆する言葉を使っていましたが、United Statesは反乱を直接軍事支援してregimeを倒す方針は取りませんでした。

Kurdish populationへの弾圧と大量避難がhumanitarian crisisになると、Security Councilは1991年4月5日にResolution 688を採択し、Iraqi civilian populationへのrepressionを非難してhumanitarian organizationsへのaccessを要求しました。その後United States、United Kingdom、FranceなどはOperation Provide Comfortを実施し、Turkey国境へ逃れたKurdish refugeesへ食料・医療・ shelterを届け、northern Iraqへの帰還を支援しました。

war terminationも単純な「停戦」ではありませんでした。1991年4月3日のSecurity Council Resolution 687はIraqにchemical and biological weapons、range 150 km超のballistic missilesの廃棄を要求し、inspectionを行うUN Special Commission、UNSCOMを設けました。Iraqへのsanctionsも多くが残され、1990年代を通じてweapons inspectionsとsanctionsがU.S.–Iraq relationsの中心問題になります。

Gulf War後、Bush政権はcoalition diplomacyをMiddle East peace processへつなげようとしました。1991年10月、Madrid Peace ConferenceがUnited StatesとSoviet Unionの共同主催で開かれ、Israel、Egypt、Syria、Lebanon、Jordanian-Palestinian delegationが同じ会議に参加しました。国務省は、Arab-Israeli conflictの主要当事者がdirect negotiationの枠組みに一堂に会した初めての機会として位置づけています。

この会議が直ちに恒久和平を実現したわけではありませんが、Cold War期のMiddle East diplomacyからの変化を示しました。WashingtonとMoscowがそれぞれ対立するclientsを支える構造ではなく、両大国が同じconferenceを共同主催する形になったからです。

同時期、米ソ核軍備管理も「制限」から本格的な「削減」へ進みました。1991年7月31日、BushとGorbachevはMoscowでStrategic Arms Reduction Treaty、START Iへ署名しました。Treatyはstrategic offensive nuclear forcesを数量的に減らし、inspection and verificationを伴う大規模なarms reduction frameworkを作りました。

9月27日にはBushがPresidential Nuclear Initiativesを発表し、ground-launched tactical nuclear weaponsの大半撤去、surface ships and attack submarinesからのtactical nuclear weapons removalなどを一方的に進める方針を示しました。Gorbachevも数日後に対応するSoviet reductionsを発表します。正式条約による交渉だけでなく、相互のunilateral measuresによってnuclear postureを急速に縮小する動きが始まりました。

しかし1991年には「米ソ二国間arms control」という前提そのものが崩れます。Soviet Union内部でBaltic republicsやUkraine、Georgiaなどのindependence movementが強まり、Moscow central governmentのauthorityが低下しました。January 1991にはLithuaniaとLatviaでSoviet forcesによる暴力が起こり、Bush政権はGorbachevとの関係維持とrepublicsのself-determinationをどう両立させるか難しい判断を迫られます。

1991年8月19日、Soviet conservative officialsがGorbachevをCrimeaで事実上拘束し、State Committee on the State of Emergencyを名乗って政権掌握を試みました。Russian President Boris YeltsinはMoscowのRussian White Houseを拠点にcoupへ抵抗し、軍の一部も命令に従わず、attemptは数日で崩壊します。

August Coup failureはGorbachevを復権させた一方、Soviet Communist Partyとunion governmentのauthorityを決定的に弱めました。複数republicがindependenceを宣言し、Ukraineでも12月1日のreferendumで独立が承認されます。Russia、Ukraine、Belarusのleadersは12月にSoviet Unionが事実上存在しなくなったとするagreementを結び、Commonwealth of Independent States形成へ進みました。

1991年12月25日、GorbachevはPresident of the Soviet Unionを辞任しました。同日Bushはtelevised addressで「the Soviet Union itself is no more」と述べ、United StatesがRussia、Ukraine、Belarus、Kazakhstanなどnew independent statesを承認する方針を説明しました。翌26日までにSoviet state institutionsは正式に解体され、1922年以来のUSSRは歴史上の国家となりました。

ソ連解体は核兵器管理という新しい危険も生みました。strategic and tactical nuclear weapons、missiles、chemical weapons、weapons scientists、storage sitesが複数のnew independent statesに分散したためです。RussiaだけでなくUkraine、Belarus、Kazakhstanにも旧Soviet strategic nuclear weaponsが残りました。

この問題に対してU.S. Congressは1991年末、Senators Sam NunnとRichard Lugarを中心にSoviet Nuclear Threat Reduction Actを成立させました。後にCooperative Threat Reduction、CTRと呼ばれるprogramは、旧ソ連諸国がnuclear・chemical・biological weaponsを安全に保管、輸送、解体するためU.S. funding and technical expertiseを提供する仕組みでした。

DTRAの公式史はNunn–Lugar CTRを「collapsed Soviet Empire」が残したmassive WMD stockpileへのemergency responseとして説明しています。これは冷戦期には敵国の核兵器を減らすため自国の予算と技術者を相手国へ送るという、ほとんど想定されなかった協力でした。

1992年5月のLisbon ProtocolではRussia、Ukraine、Belarus、KazakhstanがSTART I obligationsを引き継ぐ枠組みへ参加しました。最終的な核兵器移送・非核化にはその後数年を要しますが、post-Soviet nuclear securityは冷戦後最初期の最重要安全保障課題になりました。

United StatesとRussiaの関係も「敵対」から「partnership」を模索する段階へ移ります。Bushは1992年にYeltsinとCamp David、Washingtonなどで会談し、economic reformへの支援、arms reduction、nuclear securityを協議しました。しかしRussiaの市場経済移行はinflation、production collapse、social dislocationを伴い、民主化・市場化が短期間で安定した西側型体制を生むという楽観はすぐに現実の難しさに直面しました。

1993年1月3日、退任直前のBushはMoscowでYeltsinとSTART IIへ署名しました。START IIはSTART Iよりさらにstrategic nuclear arsenalsを削減し、multiple-warhead land-based ICBMsを大幅に減らすことを目指しました。Treatyの実施はその後Russiaのratification politicsやSTART I発効条件に左右されますが、冷戦終結直後のarms-control optimismを象徴する協定でした。

一方、冷戦の終わりが「平和の時代」を保証しないこともすぐ明らかになります。Yugoslaviaでは1991年からfederal stateが解体し、Slovenia、Croatia、Bosnia and Herzegovinaをめぐる戦争が始まりました。U.S. intelligenceは1990年の時点でYugoslavia dissolutionとintercommunal violenceを予測していましたが、Bush政権の優先順位はSoviet transition、German reunification、Gulf crisisにあり、Balkan crisisへの直接的関与は限定的でした。

United Statesは1992年4月にBosnia and Herzegovinaをindependent stateとして承認しましたが、戦争は拡大しました。Cold Warのようなsuperpower confrontationがなくなっても、ethnic nationalism、state collapse、civil warを国際制度だけで早期に止められるわけではありませんでした。Yugoslaviaは「new world order」の最初の重大な限界を示します。

Africaでも同じ問題が現れました。SomaliaではSiad Barre政権崩壊後にcivil warとfamineが拡大し、humanitarian aidのdeliveryも武装勢力によって妨げられました。1992年12月3日、Security Council Resolution 794はChapter VIIにもとづき、humanitarian reliefのためsecure environmentを作る目的で「all necessary means」の使用を認めました。

Bushは退任直前の1992年12月、Operation Restore HopeとしてU.S.-led Unified Task Force、UNITAFをSomaliaへ派遣しました。U.S. Army史によれば任務は飢餓救援物資が必要な人々へ届く安全な環境を確保することで、United Statesと多国籍軍が大規模なhumanitarian interventionを行いました。これはIraqの国家間侵略を撃退するGulf Warとは異なる、state collapseとhumanitarian emergencyへの軍事関与でした。

Somalia missionは1993年にClinton administrationへ引き継がれ、UNOSOM IIへ移行した後、mission scope、武装勢力との関係、command structureをめぐる問題が深刻になります。したがって1992年のRestore Hope開始だけを見てpost-Cold War humanitarian interventionが成功したと結論づけることはできません。冷戦後の軍事力に何をさせるべきかという問題は、むしろここから始まりました。

冷戦終結はUnited States国内の軍事構造にも影響しました。Europeに常駐していた大規模forcesの削減、base closures、defense procurementの縮小が進み、Californiaなどdefense-dependent regionsではemployment lossが1990–91 recessionと重なりました。一方、Gulf War、Panama、Somaliaは、対Soviet continental warへの備えを縮小しても、rapid deployment forcesとregional intervention capabilityの必要性がなくならないことを示しました。

1990年代初頭には「peace dividend」という言葉が使われ、Cold War defense spendingを国内課題へ回せるとの期待が生まれました。しかし軍事支出削減と同時にMiddle East、Balkans、humanitarian crisesへの対応が増え、United Statesは「唯一のsuperpower」と呼ばれる新しい位置に置かれます。これは単にpowerが増えたというより、介入すべき危機と介入すべきでない危機を選ぶ責任が増えたことを意味しました。

Bush政権の「new world order」は、国連を中心とするcollective security、米ソ協力、侵略への共同対応、核削減という点では1990–91年に一定の実体を持ちました。UN Security CouncilがIraqに対して一連のbinding resolutionsを成立させ、WashingtonとMoscowが共同外交を行い、STARTとCFEが進んだことは冷戦期とは明らかに異なります。

しかし同じ時期、Panama interventionは国連総会から非難され、Iraq戦後のKurdish・Shiite repression、Yugoslavia war、Somalia state collapseは新秩序の制度的限界を示しました。United Nationsのauthorizationがあっても、その後の政治秩序を誰が作るのかという問題は残ります。軍事的勝利と政治的安定は同じものではありませんでした。

1989–1993年は、アメリカが「冷戦後の完成された世界秩序」を手に入れた時代ではありません。むしろ、従来の最大の敵が消えたため、何をnational interestとし、どの同盟を残し、どの危機へ軍事力を使い、国連とどのように役割分担し、旧敵国の核兵器をどう安全に処理するかを一から再定義し始めた時代でした。

Berlin Wall、German reunification、Soviet collapse、Gulf Warは同じ物語の中にあります。前半では敵対していた二つのblocが解体され、後半ではその空白の中でUnited Statesと国際制度が新しい地域紛争へ対応し始めました。Cold Warの終わりは一つの時代の終点であると同時に、1990年代のintervention、globalization、NATO transformation、nuclear nonproliferationを生む出発点でした。

Bush政権が引き継いだ米ソ緩和

George H. W. Bushが1989年に大統領へ就任した時、米ソ関係はReagan政権初期の対立状態とはすでに異なっていました。1987年INF Treatyで中距離核戦力の一カテゴリーが廃棄対象となり、GorbachevはAfghanistan撤退、政治的glasnost、経済改革を進めていました。

Bush政権は当初「pause」と呼ばれる政策reviewを行い、Gorbachev改革が一時的な戦術なのか長期的変化なのかを見極めようとしました。その後、Eastern Europeの変化が加速すると、改革を支えつつSoviet hardlinersを刺激しない政策へ移ります。

1989年 東欧革命

1989年にはPolandでSolidarity系勢力が選挙を通じて政府を形成し、Hungaryでは国境開放と政治自由化が進みました。East Germanyから西側へ移動する人々も増え、Czechoslovakiaでは後にVelvet Revolutionと呼ばれるmass protestが共産党支配を終わらせます。

これらはWashingtonの命令で起きた政権交代ではなく、各国内の政治運動とSoviet noninterventionが重なって生じたものです。Gorbachevが1956年Hungaryや1968年Czechoslovakiaのような大規模軍事介入を選ばなかったことが決定的条件でした。

11月9日 Berlin Wall

1989年11月9日、East German official Günter Schabowskiが新しいtravel regulationsについて不正確で曖昧な説明を行い、多数の市民がBerlin border crossingsへ集まりました。border guardsは群衆を止めきれずgateを開き、Wallは事実上機能を失いました。

U.S. Department of Stateは、Wallのfallが世界を驚かせ、German reunificationを一気に現実的な課題へ変えたと説明しています。Cold War divisionの最も象徴的なphysical structureが暴力的軍事衝突ではなく市民移動によって崩れたことは大きな意味を持ちました。

アメリカの慎重な反応

BushはWall崩壊直後に勝利宣言のような大規模celebrationを避けました。WashingtonはEast German hardlinersやSoviet military leadershipが急激な変化へ反応する可能性を警戒していました。

国務省史料ではBush foreign-policy teamが早期にGerman reunificationを強く公言することへ慎重だったとされています。目的は変化の速度をWashingtonが支配することではなく、改革を逆転させるsecurity panicを生まないことでした。

Malta Summit

1989年12月2–3日、BushとGorbachevはMalta周辺でsummitを行いました。悪天候のため会談場所変更も続きましたが、両首脳はEast European transformation、arms control、economic relationsについて協議しました。

formal peace treatyやCold War termination declarationが署名されたわけではありません。それでも双方が従来のzero-sum confrontationを避け、European changeを協力的に管理しようとしたことから、Malta SummitはCold War終結の象徴的momentの一つとされています。

冷戦終結を一日で区切らない

「Cold War ended on November 9, 1989」「Maltaで終わった」「Soviet Union collapseで終わった」という複数のperiodizationがあります。

実際にはideological confrontation、Germany division、military blocs、nuclear rivalry、Soviet stateそのものが別々の速度で変化しました。本記事では1989–91年を一連の解体過程として扱い、一日だけを唯一の終点とはしません。

German reunificationという安全保障問題

GermanyはEurope中央に位置する最大級の国家であり、二度の世界大戦とCold War divisionの記憶から、統一は周辺国にも重大なsecurity issueでした。

United Kingdom、France、Poland、Soviet Unionにはそれぞれ異なる懸念があり、Germany自身のself-determinationだけで国際的settlementを完了できませんでした。

1945年以来のFour Power rightsを終了し、border、force level、NATO membershipを国際条約で処理する必要がありました。

Two Plus Four negotiations

「Two Plus Four」はEast GermanyとWest Germanyの二国に、United States、Soviet Union、United Kingdom、Franceの四大国を加えた協議方式です。

主な争点にはGerman borders、PolandとのOder–Neisse line、foreign troop presence、nuclear weapons、Soviet troops withdrawal、Germanyのalliance choiceがありました。

Washingtonは統一GermanyをNATOへ完全に残すことを重要目標としながら、Soviet security concernsへ一定の配慮を示しました。

統一GermanyとNATO

Soviet leadershipは当初、unified GermanyがNATOに所属することへ強い懸念を持ちました。しかし1990年夏までにGorbachevはGermanyが自らallianceを選ぶ権利を受け入れます。

NATO側は旧East German territoryに関するmilitary postureへ制約を設け、Alliance全体もnuclear and conventional forcesを削減する方向を示しました。

この妥協によってGerman unityとEuropean security structureを同時に処理する道が開かれました。

1990年 Two Plus Four Agreement

1990年9月12日、MoscowでTreaty on the Final Settlement with Respect to Germanyが署名されました。

国務省によればこのagreementはFour Power rights and responsibilitiesを終わらせる法的settlementとなり、unified Germanyのfull sovereigntyへの道を開きました。

United States Senateは10月10日にtreaty ratificationへ同意し、条約は1991年3月15日に発効しました。

1990年10月3日 Germany統一

1990年10月3日、旧German Democratic Republicの五州がFederal Republic of Germanyへ加入し、Germanyは統一されました。

新国家をゼロから作ったというより、West German Basic Lawの枠組みに旧East German territoryが加わる方式でした。

統一GermanyはNATO membershipを継続し、Berlinは首都となりました。

NATOの変容

冷戦の主要相手であったWarsaw PactとSoviet military threatが後退すると、「NATOは必要なのか」という問いが生まれました。

NATOは解散ではなくtransformationを選び、collective defenseを維持しながら政治対話、arms control、former adversariesとのcooperationを拡大します。

この決定は1990年代後半のNATO enlargementへつながりますが、1989–93年段階ではまずAllianceそのものの役割再定義が中心でした。

1990年 London Declaration

1990年7月のLondon DeclarationはNATOがEast European countriesへ「hand of friendship」を差し出す方針を示しました。

military postureの縮小、nuclear relianceの低下、政治的役割の強化を掲げ、Cold War時代のforward confrontationからより柔軟なsecurity organizationへ移ろうとしました。

1991年にはNorth Atlantic Cooperation Councilが作られ、旧Warsaw Pact諸国とのinstitutional dialogueが始まりました。

CFE Treaty

1990年11月、Treaty on Conventional Armed Forces in Europe、CFEがParisで署名されました。

tank、artillery、armored combat vehicles、combat aircraft、attack helicoptersなど主要通常兵器へ地域上限を設定し、NATOとWarsaw Pactのlarge-scale surprise attack capabilityを減らすことを狙いました。

Cold War終結を軍事的factとして固定する重要なarms-control agreementでした。

Charter of Paris

同じ1990年11月のCSCE Paris SummitではCharter of Paris for a New Europeが採択されました。

Europeの国家がdemocracy、human rights、rule of lawを新しい共同秩序の基礎として宣言し、East–West confrontationからpolitical cooperationへ移ることを表現しました。

しかしその後のYugoslavia warは、こうしたnormative declarationだけではethnic conflictやstate collapseを防げないことを示します。

1989年 Operation Just Cause

1989年12月20日、United StatesはPanamaへOperation Just Causeを開始しました。State Departmentによれば20,000人を超えるU.S. troopsが投入され、Manuel Noriega政権を排除し、Noriegaを拘束してUnited Statesでdrug-related chargesによりtrialへかけました。

Bush administrationは1989年Panamanian electionの無効化、Canal areaのsecurity、U.S. citizensへの危険、Noriegaのdrug trafficking involvementなどをmilitary actionの理由として挙げました。

Guillermo Endaraが新政府のpresidentとして就任し、Noriegaは1990年1月にU.S. custodyへ移されました。

Panama interventionへの国際的批判

Panama interventionの合法性には強い異論がありました。

United Nations General Assembly Resolution 44/240は1989年12月29日、75対20、棄権40で採択され、U.S. armed interventionをinternational law、sovereignty、territorial integrityへの違反として強く非難しました。

post-Cold War American military powerとinternational legitimacyが常に一致するわけではないことを示した早い事例です。

1990年 IraqのKuwait侵攻

1990年8月2日、IraqはKuwaitへ侵攻しました。Iraqi forcesは短期間でKuwait Cityを制圧し、Saddam Hussein政権は後にKuwait annexationを宣言しました。

State DepartmentはBush administrationがIraqi threatsを認識していたものの、actual full-scale invasionを予測していなかったと記録しています。

危機はCold War終了過程で最初のlarge-scale interstate aggressionとなりました。

UN Security Council Resolution 660

invasion当日、UN Security CouncilはResolution 660を14対0で採択し、Iraqの侵攻を非難して即時・無条件撤退を要求しました。

その後sanctions、maritime enforcement、Kuwait annexationの無効化など一連のresolutionsが続きました。

United Nationsがcrisis managementの中心forumとなったこと自体が、米ソveto confrontationが緩んだ新しい局面を示しました。

Operation Desert Shield

United StatesはSaudi Arabiaが次のtargetになる可能性を警戒し、1990年8月からOperation Desert Shieldとして大量のforcesをSaudi Arabiaへ展開しました。

最初はSaudi defenseを目的とするdeploymentでしたが、秋以後にはKuwaitからIraqi forcesを排除するoffensive capabilityへ拡大します。

Middle Eastへ数十万人規模のU.S. militaryを短期間で移送するlogisticsは、post-Vietnam military reformの大きなtestとなりました。

Coalition diplomacy

BushとSecretary of State James Bakerはmilitary buildupと並行してlarge international coalitionを作りました。

NATO alliesだけでなくSaudi Arabia、Egypt、SyriaなどArab governmentsも参加し、Japan and Germanyは主にfinancial supportを行いました。

State Departmentは最終的なcoalition forceを34か国から構成されたものとして記録しています。

米ソ共同歩調

1990年9月、BushとGorbachevはHelsinki SummitでIraqのKuwait占領を共同で非難しました。

Soviet UnionはIraqに長年武器を供給してきましたが、Cold War終結局面ではWashingtonとの協調を優先しました。

Security CouncilでMoscowがIraqへのresolutionsを支持したことは、Gulf crisisを典型的な米ソ代理戦争へ変えなかった重要な条件でした。

Bushの「new world order」

1990年9月11日、BushはCongress joint sessionでGulf crisisを「new world order」形成の機会と表現しました。

演説で示された中心conceptは、large statesがsmall neighborsを力で併合することを許さず、rule of law、collective responsibility、United Nationsを用いてaggressionへ共同対処することでした。

この言葉はBush administrationのvisionであり、後世の分析用語を本人へ遡って当てたものではありません。

構想と現実を区別する

1990–91年Gulf crisisではUnited States、Soviet Union、Western Europe、Arab statesが比較的広く協力し、「new world order」が一時的に現実味を持ちました。

しかしmajor powersのinterestsが常に一致する保証はありません。Yugoslaviaではcollective actionが遅れ、PanamaではU.S. interventionが国連総会から批判されました。

そのため「new world order」は完成した制度ではなく、Cold War後の国際協力をどう構築するかというpolicy aspirationとして理解する必要があります。

Resolution 678

1990年11月29日、Security CouncilはResolution 678を12対2、棄権1で採択しました。

Iraqが1991年1月15日までに関連resolutionsを実施しない場合、Kuwaitと協力するmember statesが「all necessary means」を用いることを認めました。

Soviet Unionが賛成、中国が棄権したvote patternはCold War期のSecurity Council paralysisからの大きな変化でした。

Congressによる武力行使承認

United States国内ではmilitary forceの使用をめぐって激しいdebateがありました。

1991年1月14日、Authorization for Use of Military Force Against Iraq Resolution、Public Law 102-1が成立し、PresidentへUN Resolution 678を実施するためのarmed force使用を認めました。

lawはPresidentがpeaceful meansを使い尽くしたとの判断をCongress leadershipへ示すことも求めました。

1991年 air campaign

1月16日夜、coalition air campaignが始まりました。targetにはair-defense networks、command facilities、military airfields、missile sites、Iraqi unitsなどが含まれました。

televisionではprecision-guided weapon footageが繰り返し放映され、Desert Stormは「smart weapons」の戦争というimageを持つようになります。

しかし実際には大量のunguided munitionsも使用され、Iraqi infrastructure and civilian lifeへの影響を含むより複雑なcampaignでした。

100-hour ground war

1991年2月24日、coalition ground offensiveが始まりました。

frontline assaultとwestern desertを迂回するlarge armored maneuverを組み合わせ、Iraqi forcesを包囲・後退させ、Kuwaitを奪回しました。

2月28日にBushがoffensive operations停止を発表し、ground campaignは約100時間で終了しました。

Desert Stormと軍事技術

Desert StormはGPS、night vision、precision guidance、AWACS、satellite communications、stealth aircraftなどCold War末期に蓄積されたtechnologyの実戦使用を可視化しました。

ただしU.S. Army Center of Military Historyは、campaignを「buttonを押せば終わるwar」のように見ることへ注意を促しています。

勝利にはhundreds of thousands of troops、fuel、ammunition、maintenance、medical support、ground maneuverという巨大なmaterial systemが必要でした。

戦争の人的・社会的cost

coalition military casualtiesはIraqi sideより著しく少なかったものの、Iraqi military deathsのestimateには大きな幅があります。

air campaignとground fightingはcivilian infrastructureにも損害を与え、Kuwaitから撤退するIraqi forcesは大量のoil wellsを放火しました。

短期間でmilitary objectivesを達成したことと、human and environmental costが小さかったことは同じではありません。

なぜBaghdadへ進軍しなかったのか

Bush administrationはKuwait解放後にBaghdadへ進軍してSaddam Hussein governmentを倒すことを選びませんでした。

UN authorizationとcoalition consensusはKuwait sovereignty restorationを中心としており、regime changeとIraq occupationまで拡大すればlegal and political basisが変わります。

この限定目的は1991年にはcoalition維持の強みとされた一方、Saddam regime survivalを許したとして後に批判も受けました。

Kurdish・Shiite uprisings

war直後、southern Iraqでは主にShiite rebels、northではKurdish forcesがSaddam Hussein governmentへ反乱を起こしました。

Iraqi forcesはhelicopters and ground forcesを使って反乱を鎮圧し、多数のciviliansが死亡・避難しました。

United Statesは直接regime overthrowを支援する軍事介入へは進まず、この判断はGulf War後の最も論争的な問題の一つになります。

Resolution 688

1991年4月5日、UN Security Council Resolution 688はIraqi civilian population、とくにKurdish areasへのrepressionを非難しました。

resolutionはIraqにrepression終了とhumanitarian organizationsへの即時accessを要求し、refugees and displaced peopleへの国際支援を求めました。

voteは10対3、棄権2で、すべてのSecurity Council membersがhumanitarian interventionの範囲について同じ見解だったわけではありません。

Operation Provide Comfort

Kurdish refugeesがTurkey borderのmountain regionへ大量に逃れると、United Statesを中心とするmultinational forceはOperation Provide Comfortを開始しました。

U.S. Army Center of Military Historyによれば、food、shelter、medical aidを提供し、refugeesがnorthern Iraqへ安全に戻れる環境を作ることがmissionでした。

combat forcesをlarge-scale humanitarian reliefへ転用した経験は、その後Somaliaなどのoperationsへ影響します。

Resolution 687とUNSCOM

1991年4月3日のSecurity Council Resolution 687はformal ceasefire frameworkを設定し、Iraqへchemical and biological weapons、150 km超ballistic missilesの廃棄を要求しました。

UN Special Commission、UNSCOMがinspectionを担い、IAEAとともにIraqのweapons capabilitiesを監視しました。

sanctions解除はcomplianceと結びつき、Gulf Warの終了は1990年代を通じるinspection conflictの始まりでもありました。

1991年 Madrid Conference

Gulf War後、Bush administrationはMiddle Eastで得たcoalition relationshipsをArab-Israeli diplomacyへ利用しようとしました。

1991年10月Madrid Peace ConferenceはUnited StatesとSoviet Unionが共同主催し、Israel、Egypt、Syria、Lebanon、Jordanian-Palestinian delegationが直接協議へ入りました。

国務省はmajor partiesがdirect negotiationの枠に同席したhistorically unprecedented meetingとして位置づけていますが、conferenceだけでconflictが解決したわけではありません。

START I

1991年7月31日、BushとGorbachevはMoscowでStrategic Arms Reduction Treaty、START Iへ署名しました。

従来のSALTが主にstrategic armsの上限管理を目的としたのに対し、STARTはdeployed strategic offensive forcesを実際に削減する条約でした。

inspection、data exchange、verificationを伴い、米ソ核競争を数量削減段階へ進めました。

Presidential Nuclear Initiatives

1991年9月27日、Bushはformal treaty negotiationを待たず、U.S. tactical nuclear postureを大きく減らすPresidential Nuclear Initiativesを発表しました。

ground-launched tactical nuclear weaponsの撤去、surface shipsとattack submarinesからnuclear weaponsを外すことなどが含まれました。

Gorbachevも対応措置を発表し、Cold War末期に世界各地へ分散していたtactical nuclear arsenalsの縮小が急速に進みます。

Soviet Union内部の危機

international diplomacyが進む一方、Soviet domestic political systemは急速に弱体化していました。

Baltic states、Caucasus、Ukraineなどでsovereignty and independence demandsが強まり、economic shortagesとpolitical conflictも深刻化しました。

Bush administrationはGorbachevをarms-control partnerとして必要としながら、republicsのdemocratic and national movementsも無視できない難しい立場にありました。

1991年 August Coup

1991年8月19日、Soviet conservative officialsがGorbachevをCrimeaでisolatedし、State Committee on the State of Emergencyを名乗ってauthority掌握を宣言しました。

Boris YeltsinはRussian White House前で抵抗を呼びかけ、市民がbarriersを築き、軍部隊の多くもcoup leadersへ全面協力しませんでした。

attemptは8月21日までに崩壊し、GorbachevはMoscowへ戻りましたが、political initiativeはYeltsin and republic governmentsへ移っていました。

Republicsの独立

coup failure後、multiple Soviet republicsがindependenceを加速させました。

Ukraineでは1991年12月1日のreferendumでindependenceが承認され、Russia、Ukraine、Belarusのleadersは12月8日にSoviet Unionが存続しないとのagreementを結びCommonwealth of Independent Statesを創設しました。

12月21日のAlma-Ata meetingでさらに多くのrepublicsがCISへ加わり、union governmentの実体はほぼ失われました。

1991年12月 Soviet Union解体

1991年12月25日、Mikhail GorbachevはPresident of the Soviet Unionを辞任しました。

Bushは同日のaddressでSoviet Unionが存在しなくなったと述べ、new independent statesの承認とRussiaとのdiplomatic continuityを説明しました。

翌26日にはSoviet legislatureのrepublic chamberがUSSR dissolutionを正式に認め、69年間続いたunion stateが消滅しました。

旧ソ連核兵器の継承問題

Soviet collapseはnuclear arsenalをただちに消滅させませんでした。

strategic nuclear weapons and delivery systemsはRussiaだけでなくUkraine、Belarus、Kazakhstanにも残り、command authority、warhead security、missile dismantlementがurgent international issueになりました。

さらにchemical and biological weapons facilities、fissile material、weapons scientistsのproliferation riskも懸念されました。

Nunn–Lugar

1991年12月のSoviet Nuclear Threat Reduction ActはSenators Sam NunnとRichard Lugarが主導したbipartisan initiativeでした。

lawはU.S. fundingを使い、旧ソ連のnuclear and other weaponsのtransport、storage、safeguarding、dismantlementを支援できるauthorityを作りました。

DTRAによればCooperative Threat Reduction programは1991年に設立され、former Soviet UnionのWMD stockpiles削減を支援することがinitial missionでした。

Lisbon Protocol

1992年Lisbon ProtocolはSTART I obligationsをpost-Soviet realityへ適応させました。

Russia、Ukraine、Belarus、Kazakhstanがformer Soviet strategic forcesを保有するsuccessor statesとしてSTART frameworkへ参加し、Ukraine、Belarus、Kazakhstanは最終的にnon-nuclear-weapon statesとなる方向を受け入れます。

実際のwarhead removal and treaty ratificationはその後数年を要し、問題はClinton administrationへ引き継がれました。

U.S.–Russia partnershipの模索

1992年、BushとRussian President Boris YeltsinはCold War adversariesではなくpartnersとして関係を作ろうとしました。

discussionにはeconomic reform assistance、trade、nuclear security、arms controlが含まれ、United StatesはWorld Bank and IMFを含むinternational institutionsを通じRussia改革を支援しようとしました。

ただしRussiaのmarket transitionはhigh inflation、production decline、social inequalityを伴い、Western supportだけで安定したpolitical economyを短期間に構築できるものではありませんでした。

1993年 START II

1993年1月3日、BushとYeltsinはMoscowでSTART II Treatyへ署名しました。

START IIはSTART Iからさらにstrategic arsenalsを削減し、multiple-warhead land-based ICBMsを原則廃止する方向を示しました。

Treatyはその後ratification and implementation difficultiesに直面しますが、Bush presidency最後のforeign-policy actsの一つとしてCold War nuclear competitionからcooperative reductionへの転換を象徴しました。

Yugoslaviaが示した限界

Cold War秩序の崩壊はEastern Europe全体を平和なdemocratic transitionへ導いたわけではありません。

Yugoslaviaではeconomic crisis、federal institutionsの弱体化、republic nationalism、Slobodan Miloševićを含む政治指導者によるnationalist mobilizationが重なり、1991年からwarへ進みました。

State Department historyはU.S. intelligenceが1990年時点でfederation collapseとserious intercommunal violenceを予測していたと記録しています。

Bosnia recognitionと戦争

United Statesは1992年4月7日にBosnia and Herzegovinaをindependent stateとしてrecognizeしました。

しかしBosnian Serb forces、Bosnian government forces、Croat forcesなどの間でwarが拡大し、大規模displacement and atrocitiesが発生しました。

Gulf Warのような明確なinterstate invasionと異なり、civil war、ethnic territorial claims、state dissolutionが絡むconflictではinternational responseの合意形成がはるかに難しいことが明らかになります。

1992年 Somalia

SomaliaではSiad Barre government崩壊後にcivil warが続き、famineとstate collapseがhumanitarian emergencyを生みました。

UN aid effortsはarmed factionsによるinsecurityのため十分に機能せず、1992年後半にはmilitary protectionを伴うrelief operationが検討されます。

この危機は、国家間侵略ではなくhumanitarian catastropheを理由にmilitary forceをどう使うかというpost-Cold Warの新しい問題でした。

UN Resolution 794

1992年12月3日、Security Council Resolution 794は全会一致で採択されました。

Somalia humanitarian crisisをinternational peace and securityへのthreatと位置づけ、humanitarian reliefを行えるsecure environmentを作るためmember statesに「all necessary means」を認めました。

Chapter VII authorizationによるlarge-scale humanitarian military operationとして重要なprecedentとなりました。

Operation Restore Hope

BushはResolution 794を受け、Operation Restore HopeとしてU.S.-led Unified Task ForceをSomaliaへ派遣しました。

U.S. Army史によればmissionはrelief suppliesがstarving populationへ届くためのsecurityを作ることで、1992年12月8日から大規模deploymentが始まりました。

1993年にはmissionがUNOSOM IIへ移り、後にarmed factionsとの対立が深刻化するため、Restore Hope開始時点のhumanitarian objectiveとその後のnation-building型missionは区別する必要があります。

Cold War後の米軍再編

Soviet threatの急減はUnited States military structureにも大きな変化を要求しました。

Europe-based forces、nuclear weapons、heavy formationsの削減が進み、base closure and defense-industry contractionがCaliforniaなどregional economiesへ影響しました。

一方でPanama、Gulf War、Kurdish relief、Somaliaは、smaller and more deployable forcesをregional crisesへ迅速に送る能力が重要になることを示しました。

Peace dividend

Cold War終了後にはdefense spending削減分をdomestic needsへ使えるという「peace dividend」への期待が広がりました。

実際にU.S. defense budget and force structureは1990年代を通じ縮小しますが、international commitmentsそのものが消えたわけではありません。

post-Cold War periodはmilitary withdrawalの時代というより、large-scale Soviet war preparationからregional intervention and coalition operationsへmission mixが変わる時代でした。

「new world order」をどう見るか

Bushのnew world order visionには実際の制度的根拠がありました。Security Council cooperation、German reunification diplomacy、CFE、START I、Gulf coalition、Madrid Conferenceはmajor-power coordinationが可能になったことを示しました。

一方、その秩序はautomaticでもuniversalでもありませんでした。Panama interventionへの反発、Iraq戦後のrepression、Yugoslavia war、Somalia interventionはrules、sovereignty、humanitarian responsibility、U.S. leadershipの境界をすぐに問題化しました。

したがって1990–91年を一極支配が完成した瞬間とするより、冷戦の制約が消えたことで新しい選択肢と新しい矛盾が同時に現れた転換期として見る方が適切です。

1989–1993年に何が変わったのか

第一に、Europeを東西二つのmilitary blocへ分けたpolitical orderが解体しました。Berlin Wall fall、German reunification、Warsaw Pact dissolution、Soviet collapseが数年の間に続きました。

第二に、NATOは解散せずtransformationを選びました。former adversariesとのdialogue、reduced force posture、political cooperationを加えながらcollective defense frameworkを維持しました。

第三に、U.S.–Soviet nuclear relationsはarms competitionからverified reductionへ移りました。START I、Presidential Nuclear Initiatives、Nunn–Lugarはその代表です。

第四に、Gulf WarではUnited Nations Security Councilがmajor-power cooperationのもとforce authorizationを行い、United StatesはArab and European statesを含むlarge coalitionを率いました。

第五に、Bush administrationはこの協力を「new world order」と表現しましたが、Panama、Yugoslavia、Iraq postwar crisis、Somaliaはcollective securityのlimitsも同時に示しました。

第六に、Soviet Union崩壊によってnuclear weaponsが複数new statesへ分散し、旧敵国のarsenalを共同でsecure and dismantleすることが新しいnational-security taskとなりました。

第七に、U.S. militaryはcontinental Cold War confrontationからrapid regional deployment、humanitarian relief、coalition warfareへ役割を再編し始めました。

1989–1993年は「Americaが唯一のsuperpowerになった」と一文で終えられる時代ではありません。従来の敵と戦う秩序が消えたため、何を守るのか、どのrulesでforceを使うのか、alliancesとUnited Nationsをどう使うのかを再定義し始めた時代でした。

1989–1993年の主な出来事

  • 1989年1月20日 — George H. W. Bushが第41代U.S. Presidentに就任。
  • 1989年 — Poland、Hungary、East Germany、Czechoslovakiaなどでcommunist ruleが急速に後退。
  • 1989年11月9日 — Berlin Wallのborder crossingsが開放。
  • 1989年12月2–3日 — BushとGorbachevがMalta Summit。
  • 1989年12月20日 — U.S. forcesがPanamaでOperation Just Cause開始。
  • 1989年12月29日 — UN General Assembly Resolution 44/240がU.S. intervention in Panamaを非難。
  • 1990年7月5–6日 — NATO London Summit。Alliance transformationを宣言。
  • 1990年8月2日 — IraqがKuwaitへ侵攻。UNSC Resolution 660が即時撤退を要求。
  • 1990年8月 — Operation Desert Shield開始。U.S. forcesをSaudi Arabiaへ展開。
  • 1990年9月9日 — Bush–Gorbachev Helsinki joint statement。IraqのKuwait占領を共同非難。
  • 1990年9月11日 — BushがCongress演説で「new world order」構想を提示。
  • 1990年9月12日 — Two Plus Four Agreement署名。
  • 1990年10月3日 — Germany統一。
  • 1990年11月 — CFE Treaty署名、Charter of Paris採択。
  • 1990年11月29日 — UNSC Resolution 678が必要な場合のforce使用を承認。
  • 1991年1月14日 — U.S. CongressのAuthorization for Use of Military Force Against Iraq成立。
  • 1991年1月16–17日 — Operation Desert Storm air campaign開始。
  • 1991年2月24–28日 — 約100時間のground offensive。Kuwait解放。
  • 1991年4月3日 — UNSC Resolution 687。ceasefire条件、Iraq WMD廃棄、UNSCOMを設定。
  • 1991年4月5日 — UNSC Resolution 688。Iraqi civilian populationへのrepressionを非難。
  • 1991年4月 — Operation Provide Comfort。Kurdish refugeesへのmultinational relief開始。
  • 1991年7月31日 — BushとGorbachevがSTART I署名。
  • 1991年8月19–21日 — Soviet August Coup attemptが失敗。
  • 1991年9月27日 — BushがPresidential Nuclear Initiativesを発表。
  • 1991年10月30日 — Madrid Peace Conference開幕。
  • 1991年12月 — Nunn–Lugar Soviet Nuclear Threat Reduction Act成立。
  • 1991年12月25日 — Gorbachev辞任。BushがSoviet Union消滅を公表。
  • 1991年12月26日 — USSR dissolutionが正式化。
  • 1992年4月7日 — United StatesがBosnia and Herzegovinaをrecognize。
  • 1992年5月 — Lisbon Protocol。post-Soviet statesへSTART I obligationsを移す枠組み。
  • 1992年12月3日 — UNSC Resolution 794。Somalia humanitarian operationにforceを承認。
  • 1992年12月8日 — U.S.-led Operation Restore Hope開始。
  • 1993年1月3日 — BushとYeltsinがSTART II署名。

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Cold Warが終わった直後、United States国内では別の危機が可視化されました。1991年のRodney King beating映像、警察官の刑事裁判、1992年Los Angeles uprisingは、policing、人種、都市貧困、Korean American商業地域、media representationを一つのnational issueへ結びつけました。

Los Angelesの出来事を「Black対Korean」のethnic conflictだけにまとめることも、「警察暴力への抗議」だけにまとめることもできません。deindustrialization、residential segregation、drug and crime policy、immigration、police legitimacy、Latino populationの増加が同じ都市空間で交差していました。

次の記事は、1991–1992|アメリカ|Los Angelesと人種・警察 — Rodney King、暴動、Korean American、都市格差として、1992 Los Angeles uprisingを都市社会史として詳しく扱います。

参考資料・出典

本ページはU.S. Department of State Office of the Historian、Foreign Relations of the United States、NATO、United Nations Digital Library、U.S. Congress/Government Publishing Office、U.S. Army Center of Military History、Defense Threat Reduction Agency、George H. W. Bush Presidential Library、American Presidency Projectなどの一次資料・公的歴史資料を中心に参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。Cold War終結をアメリカ単独の「勝利」として単純化せず、Soviet internal transformation、East European movements、German diplomacyを分けて扱っています。またGulf Warについてはcoalitionの軍事的成功だけでなく、UN mandate、Congress authorization、Iraqi postwar repression、humanitarian crisis、weapons inspectionsまで含めています。

資料確認日:2026年10月3日 / ART LIBRARY