Art Library
World History

1955–1962

冷戦危機と脱植民地化

スエズ、ハンガリー、アフリカ独立、ベルリン、キューバ

1955年までに、ヨーロッパではNATOとワルシャワ条約機構という二つの軍事同盟が向き合い、ドイツは東西に分断されていました。冷戦の基本構造はすでに形を取っていました。しかし1955年から1962年の世界を「アメリカとソ連が対立した時代」とだけ説明すると、同時に起きていた巨大な変化を見落とします。それが植民地帝国の解体です。

1956年は、その二つの流れが同時に表面化した象徴的な年でした。東欧ではハンガリーでソ連支配に対する大規模な蜂起が起こり、ソ連軍が武力で鎮圧しました。同じ時期、中東ではエジプト大統領ガマール・アブドゥル=ナーセルがスエズ運河会社を国有化し、イスラエル、イギリス、フランスがエジプトへ軍事行動を行いました。アメリカは西側同盟国である英仏の軍事行動を支持せず、国連を通じて撤兵を求めました。東欧でソ連の勢力圏が軍事力によって維持される一方、中東ではイギリス・フランスの帝国的軍事行動が国際的圧力によって後退させられたのです。

1957年には、ソ連が世界初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げました。冷戦は領土と軍事同盟だけでなく、ミサイル、原子力、宇宙開発、科学教育を競う技術競争へ拡大します。同年、西ヨーロッパではローマ条約が調印され、欧州経済共同体EECが成立しました。ヨーロッパは東西に分断される一方、西側では国家間統合を進めるもう一つの動きが始まっていました。

アジアでも政治体制と経済政策が大きく変化しました。中国では毛沢東が1958年から「大躍進」を進め、人民公社を中心に急速な工業化と農業集団化を試みました。しかし生産統計の誇張、非効率な工業化、過大な穀物調達、自然条件などが重なり、1959年以後深刻な食料危機と大規模な飢餓が発生しました。同時に中ソ関係も悪化し始め、社会主義陣営が一枚岩ではないことが明確になります。

日本では1955年に日本社会党の再統一と自由民主党結成によって、後に「55年体制」と呼ばれる政治構造が成立しました。1960年には日米安全保障条約改定をめぐって国会内外で巨大な政治対立が起こり、数十万人規模のデモが繰り返されました。新条約は発効しましたが岸信介内閣は退陣し、その後の池田勇人内閣は所得倍増計画を掲げ、政治対立の焦点を経済成長へ移していきます。

植民地世界では変化がさらに速く進みました。1957年にガーナがサハラ以南の英領アフリカで先駆的に独立し、1960年には17のアフリカ諸国が独立しました。この年は「アフリカの年」と呼ばれます。国連総会も1960年12月に「植民地独立付与宣言」を採択し、すべての人民の自決権と植民地主義の速やかな終結を掲げました。

しかし独立は自動的に安定した国家を作るわけではありませんでした。ベルギー領コンゴは1960年6月に独立しましたが、軍の反乱、ベルギー軍の介入、資源豊富なカタンガ州の分離、パトリス・ルムンバ首相とジョセフ・カサヴブ大統領の対立が重なりました。国連は最大約2万人規模のONUCを派遣し、これは初期国連史最大級の平和維持活動となりました。ルムンバは1961年に殺害され、コンゴ危機は冷戦・資源・脱植民地化が交錯する象徴となりました。

北アフリカでは1954年から続いていたアルジェリア戦争が1962年に終結へ向かいました。フランス政府と民族解放戦線FLNは3月18日にエヴィアン協定へ署名し、停戦を経てアルジェリアは7月に独立しました。フランスにとってアルジェリアは単なる海外植民地ではなく本国制度へ組み込まれた領域だったため、独立はフランス国内政治そのものを揺るがしました。

そして冷戦は1961–62年に最も危険な段階へ入ります。1961年8月、東ドイツ当局は東ベルリンから西ベルリンへの人口流出を止めるため境界を封鎖し、ベルリンの壁を建設しました。同年4月にはアメリカ政府が支援した亡命キューバ人部隊によるピッグス湾侵攻が失敗し、キューバのカストロ政権はソ連との関係をさらに深めます。1962年10月、ソ連の核ミサイルがキューバへ配備されていることをアメリカが発見すると、米ソは核戦争の寸前まで近づきました。

1955–1962年は、冷戦が世界を二つの陣営へ分けた時代であると同時に、その二極構造の外から多数の新独立国が登場した時代でした。帝国の解体、民族自決、国連平和維持、地域統合、核抑止、宇宙開発という、現在まで続く国際秩序の重要な要素がこの短い期間に同時に形成されました。

CONTENTS

  1. 1955年以後の冷戦
  2. スターリン死後と「非スターリン化」
  3. 1956年 フルシチョフの秘密報告
  4. ポーランド危機
  5. 1956年 ハンガリー動乱
  6. ナジ政権とワルシャワ条約脱退表明
  7. ソ連軍の再介入
  8. 20万人を超える難民
  9. スエズ運河とナーセル
  10. 1956年 スエズ運河国有化
  11. イスラエル・英仏の軍事行動
  12. アメリカはなぜ英仏を支持しなかったのか
  13. 国連緊急軍UNEF
  14. スエズ危機が示した帝国秩序の変化
  15. アイゼンハワー・ドクトリン
  16. 西ヨーロッパ統合
  17. 1957年 ローマ条約
  18. スプートニク・ショック
  19. 宇宙開発と軍事技術
  20. 日本 — 55年体制
  21. 1956年 日本の国連加盟
  22. 中国 — 大躍進
  23. 人民公社
  24. 大規模な飢餓
  25. 中ソ関係の亀裂
  26. 1958年 台湾海峡危機
  27. 1959年 キューバ革命
  28. カストロ政権とアメリカ
  29. 1960年 U-2撃墜事件
  30. パリ首脳会談の崩壊
  31. 1960年「アフリカの年」
  32. 国連植民地独立付与宣言
  33. コンゴ独立
  34. カタンガ分離
  35. ONUC — 国連の大規模平和維持活動
  36. ルムンバ殺害
  37. ハマーショルドの死
  38. 日本 — 1960年安保
  39. 安保闘争
  40. 池田内閣と経済成長
  41. ベルリン危機
  42. 1961年 ベルリンの壁
  43. ピッグス湾侵攻
  44. キューバとソ連の接近
  45. アルジェリア戦争の終結
  46. 1962年 エヴィアン協定
  47. アルジェリア独立
  48. 1962年 キューバ危機
  49. 海上「隔離」
  50. 公開合意と秘密の取引
  51. 核戦争の瀬戸際
  52. 1955–1962年に何が変わったのか
  53. 1955–1962年の主な出来事
  54. 次の時代へ — ベトナム、1968年、社会運動
  55. 参考資料・出典

1955年以後の冷戦

1955年には西ドイツがNATOへ加盟し、その直後ソ連と東欧諸国がワルシャワ条約機構を成立させました。ヨーロッパでは東西の軍事ブロックがほぼ完成していました。

しかし同じ1955年、バンドン会議ではアジア・アフリカ29カ国が植民地主義、民族自決、平和共存について議論していました。冷戦による二極化と、二大陣営から一定の自律性を保とうとする新興国家の外交が同時に始まっていました。

1955–62年の世界政治は、この二つの動きが交差することで理解しやすくなります。米ソは世界各地域を自らの安全保障体系へ組み込もうとしましたが、新独立国は必ずしも米ソいずれかの単純な「代理国」にはなりませんでした。

スターリン死後と「非スターリン化」

スターリンは1953年に死去しました。その後ソ連共産党指導部では権力闘争が続き、ニキータ・フルシチョフが次第に主導権を握りました。

新指導部はスターリン期の大量弾圧の一部を批判し、収容所からの釈放、政治的名誉回復、文化統制の一定の緩和を進めました。「雪どけ」と呼ばれる変化です。

しかし非スターリン化は共産党一党支配やソ連の東欧支配そのものを否定する政策ではありませんでした。その限界が1956年のハンガリーで明確になります。

1956年 フルシチョフの秘密報告

1956年2月、ソ連共産党第20回大会の非公開会議でフルシチョフはスターリンによる個人崇拝と政治弾圧を批判しました。

演説内容は東欧や西側にも広まり、スターリンを絶対的指導者としてきた共産主義運動に大きな衝撃を与えました。

東欧では「スターリンの誤りを批判できるなら、自国のスターリン主義的指導部やソ連への従属も変えられるのではないか」という期待が高まりました。ポーランドとハンガリーの政治危機には、この非スターリン化が重要な背景となりました。

ポーランド危機

1956年6月、ポーランドのポズナニで労働者が賃金・労働条件をめぐって抗議し、政治的要求へ発展しました。治安部隊との衝突で死者が出ました。

10月には、かつて党指導部から排除されていたヴワディスワフ・ゴムウカが復権しました。ソ連指導部は軍事介入も検討しましたが、最終的にゴムウカが社会主義体制とワルシャワ条約への参加を維持すると確認し、ポーランドでは一定の国内改革が認められました。

ポーランドとハンガリーは同じ1956年危機でも結果が異なりました。ソ連が東欧のすべての改革を同じ方法で処理したわけではありません。

1956年 ハンガリー動乱

1956年10月23日、ブダペストで学生・市民のデモが始まりました。要求にはソ連軍撤退、政治改革、表現の自由、イムレ・ナジの復帰などが含まれていました。

秘密警察の発砲やソ連軍介入によって抗議は武装蜂起へ発展しました。工場では労働者評議会が作られ、各地で既存政権の統制が崩れました。

アメリカ外交文書も、この運動が当初の改革要求を越え、反ソ連・反共産党独裁の全国的反乱へ拡大したことを記録しています。

ナジ政権とワルシャワ条約脱退表明

イムレ・ナジは首相へ復帰し、複数政党政治を認める方向へ進みました。ソ連軍がブダペストから一時後退すると、革命側はさらに大きな政治変化が可能だと考えました。

11月1日、ナジ政府はハンガリーの中立を宣言し、ワルシャワ条約機構からの脱退を表明して国連へ支援を求めました。

これはソ連にとって東欧軍事圏そのものを崩しかねない要求でした。国内改革の範囲を越えて、安全保障同盟から離脱する段階に入ったことがソ連の判断を決定的に変えました。

ソ連軍の再介入

11月4日、ソ連軍は大規模な軍事作戦を開始し、ナジ政権を倒しました。ヤーノシュ・カーダールを首班とする新政権がソ連の支援の下で成立しました。

アメリカ政府は外交的抗議と国連での批判を行いましたが、軍事介入はしませんでした。ハンガリーはワルシャワ条約圏内にあり、軍事介入すれば米ソ直接戦争へ発展する危険がありました。

西側が「東欧解放」を宣伝してきたことと、実際にはソ連支配地域へ軍事介入しないことの差も明らかになりました。

20万人を超える難民

蜂起鎮圧後、多数のハンガリー人が西側へ逃れました。UNHCRによれば、20万人を超える人々が周辺国へ避難し、とくにオーストリアへ大量に流入しました。

これは1950年に設立されたUNHCRにとって、第二次世界大戦後の残留難民問題を超えた最初の大規模緊急事態となりました。

多数の国が難民を受け入れた経験は、戦後国際難民保護制度が新しい政治危機へ対応する仕組みへ変化する契機となりました。

スエズ運河とナーセル

エジプトでは1952年の自由将校団革命後、ナーセルが政治的主導権を握りました。ナーセルはイギリスの影響力を縮小し、アラブ民族主義と非同盟的外交を進めました。

エジプトはアスワン・ハイ・ダム建設を国家開発の中心計画としていましたが、アメリカ・イギリスによる融資支援は1956年に撤回されました。

ナーセルはその直後、スエズ運河会社の収入をダム建設へ利用するとして運河会社国有化を宣言しました。

1956年 スエズ運河国有化

1956年7月26日、ナーセルはスエズ運河会社の国有化を発表しました。運河はエジプト領内にありましたが、会社は英仏資本の影響下にあり、欧州とアジア・中東を結ぶ重要航路でした。

イギリスとフランスは国際航行と自国権益への脅威とみなし、運河管理を国際化しようとしました。エジプト側は主権国家による合法的国有化だと主張しました。

外交交渉は続きましたが、英仏はイスラエルと秘密裏に軍事行動を調整しました。

イスラエル・英仏の軍事行動

10月29日、イスラエル軍がシナイ半島へ侵攻しました。翌日、イギリスとフランスはエジプトとイスラエル双方に運河から離れるよう最後通告を出しました。イスラエル軍が当時まだ運河から離れていたことを考えると、この要求はエジプトが拒否することを前提にしたものでした。

エジプトが拒否すると、英仏軍は空爆を開始し、その後ポートサイド付近へ上陸しました。

軍事的には英仏・イスラエル側が優勢でしたが、国際政治上は急速に孤立しました。

アメリカはなぜ英仏を支持しなかったのか

アイゼンハワー政権は、冷戦上の同盟国イギリス・フランスの攻撃を支持しませんでした。アメリカ国務省歴史局は、欧州植民地主義と距離を置く必要、ソ連がエジプト支援を名目に介入する危険、同じ時期にハンガリーへのソ連軍事介入を批判していたこととの矛盾などを理由として挙げています。

アメリカは国連で停戦・撤兵を求め、イギリスへ強い経済的圧力もかけました。

西側陣営は一枚岩ではありませんでした。反ソ連同盟の内部でも、植民地政策と中東戦略をめぐって利害が衝突しました。

国連緊急軍UNEF

英仏が安全保障理事会で拒否権を使ったため、スエズ問題は国連総会の緊急特別会期へ移されました。国連は停戦と撤兵を求め、1956年11月に国連緊急軍UNEFを設置しました。

UN Peacekeepingによれば、UNEFは国連史上最初の武装した平和維持部隊でした。加盟国部隊がエジプトへ展開し、侵攻軍の撤退を監視した後、エジプト・イスラエル間の緩衝地帯へ配置されました。

国連平和維持活動は国連憲章に「PKO」という名称で明記されていた制度ではありません。スエズ危機への実務的対応から形成された新しい国際安全保障手段でした。

スエズ危機が示した帝国秩序の変化

スエズ危機はイギリス・フランスの軍事能力がなくなったことを意味しません。しかし両国がアメリカの支持を得ずに大規模な帝国的軍事行動を継続することが難しくなったことを示しました。

ナーセルは軍事的損失を受けながら、政治的にはアラブ民族主義の象徴として影響力を高めました。

第二次世界大戦前のように欧州列強が中東の政治秩序を一方的に決定する時代は終わりつつありました。

アイゼンハワー・ドクトリン

スエズ危機後、アメリカ政府はイギリス・フランスの影響力低下によって中東に「権力の空白」が生じ、ソ連の影響が拡大することを懸念しました。

1957年、アイゼンハワー大統領は中東諸国への経済・軍事援助と、国際共産主義に支援された武力侵略へ対応するための米軍使用を可能とする政策を議会へ求めました。

しかし地域の民族主義を単純に「ソ連共産主義の拡大」とみなすことには限界がありました。ナーセル主義はソ連と協力することがあっても、エジプト独自の国家利益とアラブ民族主義に基づいていました。

西ヨーロッパ統合

冷戦によってヨーロッパは東西に分断されましたが、西ヨーロッパでは別の方向として国家間統合が進みました。

1951年の欧州石炭鉄鋼共同体は、フランスと西ドイツの基幹軍需産業を共同管理へ置くことで、両国間の戦争を制度的に困難にする構想でした。

1950年代後半には対象を石炭・鉄鋼から経済全体へ広げる構想が進みました。

1957年 ローマ条約

1957年3月25日、フランス、西ドイツ、イタリア、ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの6カ国がローマ条約へ署名しました。

条約は欧州経済共同体EECと欧州原子力共同体Euratomを設立し、1958年1月1日に発効しました。EECは関税障壁を段階的に削減し、人・商品・サービス・資本の移動を拡大する共同市場を目指しました。

後の欧州連合EUへ直接つながる制度的基盤の一つが、この冷戦・脱植民地化の時代に作られました。

スプートニク・ショック

1957年10月4日、ソ連は世界初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げました。NASAによれば、衛星は約83.6キログラムで、約98分で地球を一周しました。

小型衛星そのものの軍事能力より重要だったのは、それを軌道へ投入したロケット技術でした。同じ技術は大陸間弾道ミサイルへ応用できるため、アメリカではソ連がミサイル技術で先行しているという強い不安が生まれました。

「スプートニク・ショック」は科学教育、宇宙開発、防衛研究への投資拡大を促しました。

宇宙開発と軍事技術

1958年1月、アメリカは人工衛星エクスプローラー1号の打ち上げに成功しました。同年、NASAが設立されます。

1961年4月にはソ連のユーリ・ガガーリンが人類初の有人宇宙飛行を行いました。翌月、ケネディ大統領は1960年代末までに人間を月へ送り安全に帰還させる目標を掲げます。

宇宙開発は科学的探査であると同時に、ロケット技術、国家威信、教育、軍事技術を競う冷戦の象徴でした。

日本 — 55年体制

日本では1955年10月に左右に分裂していた日本社会党が再統一し、11月15日に自由党と日本民主党が合同して自由民主党が成立しました。

国立国会図書館は、この自民党と社会党の対立を中心とする政治構造を「いわゆる55年体制」と説明しています。

ただし実際の議席数や政治力は「二つの同規模政党による政権交代制」ではありませんでした。自民党が長期にわたり政権を担い、社会党が最大野党として対抗する構造が基本となりました。

1956年 日本の国連加盟

1956年10月、日ソ共同宣言によって日本とソ連は戦争状態を終了し、外交関係を回復しました。

これによってソ連による日本の国連加盟への反対が解消され、12月18日、国連総会は日本加盟を全会一致で承認しました。

第二次世界大戦敗戦国として占領された日本が、国際社会の正式な構成国へ復帰していく重要な段階でした。

中国 — 大躍進

1958年、中国共産党指導部は「大躍進」を開始しました。ソ連型の重工業中心開発をそのまま模倣するのではなく、中国の巨大な人口と労働力を一斉動員して農業・工業生産を急速に増大させようとしました。

地方には鉄鋼増産目標が課され、いわゆる裏庭炉で大量の小規模製鉄が行われました。農村労働力は水利建設や製鉄などへ動員されました。

1958年当時の外国情報機関も大躍進の規模を「中国社会を根本から変える実験」と認識していましたが、公式生産統計は大きく誇張されていました。

人民公社

大躍進と並行して、農業合作社は巨大な人民公社へ統合されました。Library of Congressの中国研究資料によれば、1958年秋までに約75万の農業生産合作社が約2万3,500の人民公社へまとめられ、一つの公社は平均約5,000世帯を含みました。

公社は農業生産だけでなく、行政、教育、食堂、民兵、地域工業などを統合する社会単位として構想されました。

農家の生活と生産を短期間に大規模再編したことは、現場の混乱とインセンティブ低下を招きました。

大規模な飢餓

1959年以後、中国では深刻な食料不足が広がりました。原因については長く研究されていますが、過大な生産報告、国家による穀物調達、人民公社化、労働力の非農業部門への移動、政策判断、自然災害など複数要因が重なりました。

1961年のアメリカ政府文書でも、中国各地で栄養失調、食料不足、農業生産低下が深刻化していたことが報告されています。

死者総数の推計には大きな幅があります。したがって一つの数値を確定的に示すより、1959–61年を中心に数千万規模の過剰死亡を推計する研究が存在することと、政策が飢饉を大幅に悪化させたことを区別して理解する必要があります。

中ソ関係の亀裂

中国とソ連はともに共産党政権でしたが、核戦争の危険をどう考えるか、西側との「平和共存」をどこまで進めるか、経済開発モデル、共産主義運動の指導権などをめぐって対立が深まりました。

1960年、ソ連は中国に派遣していた技術専門家を引き揚げ、援助計画を縮小しました。大躍進による経済危機の中でこの措置は中国側に強い反発を生みました。

冷戦は「資本主義陣営対共産主義陣営」という二枚の均質なブロックではなくなっていきました。

1958年 台湾海峡危機

1958年夏、中国人民解放軍は台湾海峡の金門・馬祖島への砲撃を強化しました。両島は中国大陸沿岸にありながら中華民国政府が支配していました。

アメリカは台湾防衛を重視し、海軍力を展開して中華民国への補給を支援しました。一方、核兵器使用の可能性まで検討されたことが後に明らかになっています。

戦闘は全面戦争へ拡大せず、砲撃は次第に限定化されました。この危機は中国とアメリカが朝鮮戦争後も東アジアで直接軍事衝突へ近づく危険を抱えていたことを示します。

1959年 キューバ革命

1959年1月、フルヘンシオ・バティスタ政権が崩壊し、フィデル・カストロを中心とする革命勢力がキューバで政権を掌握しました。

革命は当初から単純に「ソ連が作った共産革命」だったわけではありません。バティスタ独裁への反対、社会的不平等、土地問題、アメリカ企業への経済依存など国内要因を背景に形成された運動でした。

しかし革命後、土地改革やアメリカ企業資産の接収をめぐって米政府との関係は急速に悪化し、キューバはソ連との経済・軍事関係を深めていきました。

カストロ政権とアメリカ

アメリカ政府はキューバの資産国有化とソ連への接近を安全保障上の脅威とみなしました。1960年3月、アイゼンハワー政権はCIAにカストロ政権転覆計画を準備させました。

キューバ側もアメリカの経済制裁・転覆工作を革命防衛の脅威として利用し、国内政治統制を強めました。

地理的にアメリカ本土から約150キロメートルしか離れていないキューバがソ連側へ接近したことは、冷戦の地理を大きく変えました。

1960年 U-2撃墜事件

アメリカは1950年代後半、ソ連の核・ミサイル能力を把握するため高高度偵察機U-2をソ連領空へ飛行させていました。

1960年5月1日、フランシス・ゲーリー・パワーズが操縦するU-2がスヴェルドロフスク付近でソ連の地対空ミサイルによって撃墜されました。パワーズは生存して捕らえられました。

アメリカ政府は当初「気象観測機が迷い込んだ」と説明しましたが、ソ連がパイロット生存と機体・カメラ回収を公表したため説明は破綻しました。

パリ首脳会談の崩壊

U-2事件直後にはアイゼンハワー、フルシチョフ、マクミラン、ド・ゴールによるパリ首脳会談が予定されていました。ベルリン問題や軍縮、東西緊張緩和を協議する重要な機会でした。

フルシチョフはアメリカ側に謝罪と偵察飛行停止を要求しましたが、アイゼンハワーは正式謝罪を拒否しました。首脳会談は実質的に崩壊しました。

1950年代後半に進みかけていた「平和共存」や首脳外交の可能性は、ベルリン危機とともに再び強い緊張へ戻りました。

1960年「アフリカの年」

1960年には17のアフリカ諸国が独立し、この年は「アフリカの年」と呼ばれます。カメルーン、セネガル、マリ、マダガスカル、コンゴ、ソマリア、ナイジェリアなど、多数の旧英・仏・ベルギー領が主権国家となりました。

国連加盟国数も急増しました。新独立国は国連総会で大きな政治集団となり、植民地主義、アパルトヘイト、経済開発、軍縮などの議題へ強い影響を持つようになります。

ヨーロッパ中心だった国際政治の人口構成そのものが変わりました。

国連植民地独立付与宣言

1960年12月14日、国連総会は決議1514「植民地諸国及び諸人民に対する独立付与に関する宣言」を採択しました。

宣言は、すべての人民が自決権を持ち、植民地主義を速やかかつ無条件に終結させる必要があるとしました。

国連が植民地独立を単なる個別の帝国・植民地間問題ではなく、国際規範として扱う転換点でした。

コンゴ独立

ベルギー領コンゴは1960年6月30日に独立しました。ジョセフ・カサヴブが大統領、パトリス・ルムンバが首相となりました。

しかし独立直後に軍の反乱が起こり、ベルギー軍が自国民保護を名目に介入しました。旧植民地行政でコンゴ人の高級官僚・軍指揮官を十分に育成してこなかったことも、新国家の制度的脆弱性を大きくしました。

政治的独立が即座に行政・軍事・経済的自立を意味するわけではないことが露呈しました。

カタンガ分離

独立から間もなく、鉱物資源が豊富なカタンガ州のモイーズ・チョンベが分離独立を宣言しました。ベルギー企業や外国経済利害もカタンガに強い関心を持っていました。

コンゴ中央政府はベルギー軍撤退と国家統一回復のため国連へ支援を求めました。

冷戦下では、ルムンバがソ連へ支援を求めたことから、アメリカ・ソ連双方がコンゴ政治へ介入するようになります。

ONUC — 国連の大規模平和維持活動

1960年7月、国連はコンゴ国連活動ONUCを設置しました。UN Peacekeepingによれば、最大時には約2万人の軍事要員を擁し、それまでの国連平和維持活動とは比較にならない規模となりました。

当初の任務はベルギー軍撤退を促し、コンゴ政府へ軍事・技術支援を提供することでした。しかし内戦、分離運動、冷戦介入の中で任務は拡大しました。

ONUCは後の国連平和維持活動にとって、国家間の停戦監視を超え、国家崩壊・内戦に介入することの困難さを示す先例となりました。

ルムンバ殺害

ルムンバとカサヴブの対立が深まる中、1960年9月にジョゼフ・モブツが軍事介入し、ルムンバは権力を失いました。

ルムンバはその後拘束され、1961年1月17日にカタンガで殺害されました。ベルギー側関係者とカタンガ当局の関与は後に詳細に検証され、アメリカ政府内部でもルムンバ排除・暗殺計画が検討されていたことが公開文書から明らかになっています。

ルムンバの死は、独立直後のアフリカ政治へ旧宗主国・企業・米ソ冷戦が深く介入した象徴として長く記憶されました。

ハマーショルドの死

国連事務総長ダグ・ハマーショルドはコンゴ危機の調停を直接進めました。1961年9月、カタンガ問題をめぐる停戦交渉へ向かう途中、搭乗機が北ローデシアのンドラ近郊で墜落し死亡しました。

事故原因についてはその後も調査が続き、外部攻撃の可能性を含め未解明の点が残っています。

現職国連事務総長が平和維持活動の最中に死亡したことは、コンゴ危機の危険性と国連の役割拡大を強く印象づけました。

日本 — 1960年安保

岸信介内閣は1951年の日米安全保障条約を改定し、日本の安全保障上の自主性と相互性を強化することを目指しました。新しい「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」は1960年1月19日にワシントンで署名されました。

新条約第5条は日本の施政下にある領域への武力攻撃に日米が共同対処することを定め、第10条には発効から10年後以降、一年前の通告で終了可能という規定が置かれました。

政府側は旧条約より相互性が高まったと説明しましたが、野党・労働組合・学生・市民運動には、米軍基地とアメリカの戦争へ日本が巻き込まれる可能性への強い反対がありました。

安保闘争

国会審議は激しく対立しました。国立国会図書館によれば、5月19日に衆議院安保特別委員会で与党が単独採決を行い、翌20日未明の本会議でも新条約を承認しました。

国会周辺では大規模な抗議デモが続き、6月15日には警官隊との衝突で東京大学学生の樺美智子が死亡しました。予定されていたアイゼンハワー大統領訪日は中止されました。

条約は6月23日に発効し、岸首相は同日退陣を表明しました。安保闘争は戦後日本最大級の大衆政治運動の一つとなりました。

池田内閣と経済成長

岸退陣後、1960年7月に池田勇人内閣が成立しました。同年12月、政府は国民所得倍増計画を決定しました。

高度経済成長そのものはすでに1950年代後半から始まっていましたが、池田政権は政治対立の焦点を憲法・安全保障から所得・消費・成長へ移す政策を強く打ち出しました。

日本は冷戦下でアメリカとの安全保障関係を維持しながら、軍事大国化より経済成長を優先する戦後型発展経路を鮮明にしていきます。

ベルリン危機

1958年11月、フルシチョフは西側諸国に西ベルリンからの軍撤退を要求し、ベルリンを「自由都市」とする構想を提示しました。

西ベルリンは東ドイツ領内に位置しながらアメリカ・イギリス・フランスの占領権が残る特殊な地域でした。同時に東ドイツ住民が西側へ移住する主要経路でもありました。

1958年から61年まで続くベルリン危機では、米ソ双方が核戦争を避けながら相手の権利と意志を試す危険な交渉を続けました。

1961年 ベルリンの壁

1961年夏までに東ドイツから西ベルリンを経由して西側へ移住する人々が急増しました。専門職・若年層の流出は東ドイツ社会・経済に大きな負担となりました。

8月13日未明、東ドイツ当局は東西ベルリン境界を有刺鉄線などで封鎖しました。その後コンクリート壁、監視塔、警備区域が整備され、「ベルリンの壁」となりました。

壁は西ベルリンを直接占領するのではなく、自国住民の西側流出を物理的に止める手段でした。米ソは軍事衝突を避け、ベルリンの分断は固定化されました。

ピッグス湾侵攻

1961年4月17日、CIAが訓練・支援した亡命キューバ人部隊「2506旅団」がキューバのピッグス湾へ上陸しました。目的はカストロ政権を倒す反乱を引き起こすことでした。

しかし部隊はキューバ軍によって約二日で敗北しました。アメリカ国務省歴史局は、この失敗がカストロ政権をむしろ強化し、キューバとソ連の関係をさらに接近させたとしています。

ケネディ政権はその後も「マングース作戦」と呼ばれる秘密工作を進め、カストロ政権転覆を目指しました。

キューバとソ連の接近

ピッグス湾侵攻は、キューバ指導部にアメリカによる再侵攻への現実的な恐怖を与えました。ソ連にとってキューバは西半球でアメリカに接近した重要な同盟国となりました。

フルシチョフは1962年、キューバへ核弾頭搭載可能な中距離・準中距離弾道ミサイルを秘密裏に配備することで、アメリカによる侵攻を抑止し、米ソ核戦力上の不均衡にも対応しようとしました。

この秘密配備が発見されたことで、冷戦史上最も危険な危機が発生します。

アルジェリア戦争の終結

アルジェリア戦争は1954年に民族解放戦線FLNの武装蜂起から始まりました。フランスは大量の兵力を投入し、FLN側のゲリラ戦、フランス軍の拷問・強制移住、FLNによる住民への暴力などが長期間続きました。

アルジェリアには多数のヨーロッパ系住民が暮らし、フランス国内制度にも組み込まれていたため、単純な「海外植民地の独立交渉」ではありませんでした。

戦争はフランス第四共和政の政治危機を深め、1958年のド・ゴール復帰と第五共和政成立の重要な背景となりました。

1962年 エヴィアン協定

フランス政府とFLNの交渉は長期間に及びましたが、1962年3月18日にエヴィアン協定が署名され、翌19日に停戦が発効しました。

協定はアルジェリア住民による自決投票、フランス人住民の権利、サハラの資源・軍事施設など複雑な問題について取り決めました。

フランス外交文書館は、この合意を18カ月に及ぶ秘密・公式交渉の結果として位置づけています。

アルジェリア独立

1962年7月の住民投票を経てアルジェリアは独立しました。フランスは独立を認め、7月5日がアルジェリア独立記念日となりました。

独立前後にはヨーロッパ系住民ピエ・ノワールの大規模なフランス移住、フランス側に協力したアルジェリア人ハルキへの報復など、巨大な人口移動と暴力が続きました。

アルジェリア戦争の終結はフランス植民地帝国解体の重要な転換点でした。

1962年 キューバ危機

1962年10月14日、アメリカのU-2偵察機がキューバで建設中のソ連弾道ミサイル基地を撮影しました。写真分析後、ケネディ政権は16日に危機対応を開始しました。

アメリカ軍首脳の一部は空爆と侵攻を提案しましたが、ケネディはまずキューバへ向かう攻撃兵器を阻止する海上措置を選択しました。

ソ連核ミサイルとアメリカ核戦力が直接対峙し、誤判断や局地的軍事行動が全面核戦争へ発展する危険が現実のものとなりました。

海上「隔離」

10月22日、ケネディはテレビ演説でソ連ミサイル配備を公表し、キューバ周辺に海上「隔離」、quarantineを実施すると発表しました。

「封鎖 blockade」は国際法上戦争行為と解釈される可能性があったため、アメリカ政府は「隔離」という言葉を使用しました。

アメリカ海軍はソ連船を監視し、米ソ両軍は高い警戒態勢へ入りました。一方、外交チャンネルでは妥協案の探索が続きました。

公開合意と秘密の取引

10月26日と27日、フルシチョフから異なる条件を含む二つのメッセージが届きました。最終的にソ連はキューバから攻撃用ミサイルを撤去し、アメリカはキューバへ侵攻しないことを公開上約束しました。

同時に、ロバート・ケネディ司法長官はソ連大使ドブルイニンへ、アメリカがトルコに配備していたジュピター・ミサイルも近く撤去する意向を秘密裏に伝えました。ただしこれを公開取引とはしないことが条件でした。

10月28日、フルシチョフはキューバのミサイル撤去を発表し、危機は収束へ向かいました。アメリカのトルコ配備ジュピター・ミサイルは1963年に撤去されました。

核戦争の瀬戸際

キューバ危機は、アメリカ国務省歴史局が「米ソが核戦争へ最も近づいた時」と表現する危機でした。

危機中にはアメリカU-2偵察機がキューバ上空で撃墜され、ソ連潜水艦と米海軍が接触するなど、首脳部の意図を超えて戦闘が始まる危険も存在しました。

危機後、米ソは緊急時の通信を改善するホットライン設置へ進み、1963年には部分的核実験禁止条約を締結します。核兵器が「使える巨大兵器」ではなく、使用すれば双方を破滅させうる政治的兵器であることがより明確になりました。

1955–1962年に何が変わったのか

1955年には、冷戦の軍事同盟構造がほぼ完成していました。ところが1962年までの七年間に、その対立は核兵器、弾道ミサイル、宇宙開発、諜報、秘密工作を含むさらに複雑な競争へ発展しました。スプートニク、U-2、ベルリンの壁、ピッグス湾、キューバ危機はすべて、この冷戦の新しい技術的・政治的性格を示しています。

同時に共産主義陣営も一枚岩ではなくなりました。ハンガリーではソ連支配への反乱が起き、中国とソ連の関係も大躍進・核戦略・外交路線をめぐって悪化しました。「東側」と呼ばれる諸国の内部にも国家利益と政治路線の違いがありました。

西側陣営も同様です。スエズ危機ではアメリカが英仏の軍事行動に反対しました。第二次世界大戦前の帝国的序列より、アメリカを中心とする新しい西側同盟秩序が優位となったことが示されました。一方、西ヨーロッパではローマ条約によってEECが形成され、国家主権の一部を共同制度へ委ねる地域統合が始まりました。

しかしこの時代で最も大きな長期変化は脱植民地化でした。1960年だけで17のアフリカ諸国が独立し、国連総会は植民地独立付与宣言を採択しました。アルジェリアも1962年に独立しました。国際社会を構成する国家の数と地域分布が急速に変化しました。

独立は必ずしも安定を意味しませんでした。コンゴ危機は、植民地国家が残した制度的弱さ、鉱物資源、旧宗主国の経済利害、国内政治対立、米ソ介入が組み合わさる危険を示しました。国連はONUCという大規模平和維持活動を展開し、国際組織が新国家の内戦・国家建設に関わる時代へ入ります。

日本では55年体制、国連加盟、1960年安保改定によって、戦後日本の国内政治と対米安全保障の基本構造が作られました。安保闘争後の池田内閣は経済成長を前面に出し、日本社会の政治的焦点も変わっていきます。

1962年10月、米ソはキューバをめぐって核戦争の瀬戸際まで進みました。しかしその同じ年、アルジェリアが独立し、国連には新しい国家が加わっていました。1955–1962年の世界は、二大国がすべてを決めた時代ではありません。超大国の核対立と、帝国から解放された諸国による新しい国際政治が同時に生まれた時代でした。

1955–1962年の主な出来事

  • 1955年10月13日 — 日本社会党が再統一。
  • 1955年11月15日 — 自由民主党結成。日本で「55年体制」が成立。
  • 1956年2月 — ソ連共産党第20回大会でフルシチョフがスターリン批判。
  • 1956年7月26日 — エジプトがスエズ運河会社を国有化。
  • 1956年10月23日 — ハンガリーで大規模蜂起開始。
  • 1956年10月29日 — イスラエル軍がシナイ半島へ侵攻。
  • 1956年10月31日 — イギリス・フランスがエジプトを空爆。
  • 1956年11月4日 — ソ連軍がハンガリーへ大規模再介入。
  • 1956年11月 — 国連がスエズ危機に対しUNEFを設置。
  • 1956年12月18日 — 日本が国際連合へ加盟。
  • 1957年3月6日 — ガーナ独立。
  • 1957年3月25日 — ローマ条約署名。
  • 1957年10月4日 — ソ連がスプートニク1号を打ち上げ。
  • 1958年 — 中国で大躍進・人民公社化が本格化。
  • 1958年夏 — 第二次台湾海峡危機。
  • 1958年11月 — フルシチョフが西ベルリン問題で最後通牒的要求。
  • 1959年1月 — キューバ革命でバティスタ政権崩壊。
  • 1959–1961年 — 中国で深刻な食料危機・飢饉。
  • 1960年1月19日 — 新日米安全保障条約をワシントンで署名。
  • 1960年5月1日 — アメリカU-2偵察機がソ連上空で撃墜。
  • 1960年5月19–20日 — 日本の衆議院で新安保条約をめぐる強行採決。
  • 1960年6月15日 — 安保反対デモで国会周辺が衝突、学生1人が死亡。
  • 1960年6月23日 — 新日米安全保障条約発効。岸首相が退陣表明。
  • 1960年6月30日 — ベルギー領コンゴ独立。
  • 1960年 — 17のアフリカ諸国が独立。「アフリカの年」。
  • 1960年7月 — 国連コンゴ活動ONUC開始。
  • 1960年12月14日 — 国連総会が植民地独立付与宣言を採択。
  • 1961年1月17日 — パトリス・ルムンバ殺害。
  • 1961年4月12日 — ユーリ・ガガーリンが人類初の有人宇宙飛行。
  • 1961年4月17日 — ピッグス湾侵攻開始、約2日で失敗。
  • 1961年8月13日 — 東西ベルリン境界封鎖、ベルリンの壁建設開始。
  • 1961年9月18日 — 国連事務総長ハマーショルドがコンゴ危機調停中の航空機事故で死亡。
  • 1962年3月18日 — エヴィアン協定署名。
  • 1962年7月 — アルジェリア独立。
  • 1962年10月14日 — U-2偵察機がキューバのソ連ミサイル基地を撮影。
  • 1962年10月22日 — ケネディがキューバへの海上隔離を発表。
  • 1962年10月28日 — フルシチョフがキューバからのミサイル撤去を表明。

次の時代へ — ベトナム、1968年、社会運動

キューバ危機後、米ソは核戦争回避のため直接通信と軍備管理を進め始めました。しかし冷戦そのものが終わったわけではありません。むしろ超大国が直接核戦争を避ける一方、アジア・アフリカ・中東の地域紛争へ冷戦が深く入り込むようになります。

東南アジアでは1954年に分割されたベトナムで南北対立が激化し、アメリカの軍事関与が急速に拡大します。中国では大躍進の失敗後に国内路線対立が進み、1966年には文化大革命が始まります。中ソ対立も公然化していきます。

1960年代には植民地独立もさらに進みますが、コンゴ、アルジェリア、ベトナムなどが示すように、独立後の国家建設と冷戦介入が新しい紛争を生みました。中東では1967年に第三次中東戦争が起こります。

同時にアメリカの公民権運動、女性運動、学生運動、反戦運動などが社会秩序を揺さぶり、1968年にはパリ、プラハ、アメリカ、メキシコ、日本など世界各地で若者・労働者・市民の抗議が噴き出します。

次の記事では、1962–1973|ベトナム戦争と「1968年」 — 公民権運動、文化大革命、プラハの春、反戦運動として、冷戦が社会内部の変革運動と衝突する1960年代から、1973年のベトナム和平・石油危機前夜までを扱います。

参考資料・出典

本ページは、U.S. Department of State Office of the Historian、Foreign Relations of the United States、United Nations、UN Peacekeeping、UNHCR、European Parliament、NASA、Library of Congress、フランス外務省外交史料館、国立国会図書館、日本国外務省などの資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。1955–1962年を米ソ対立だけで説明せず、スエズ危機と欧州帝国の後退、アフリカ独立、コンゴ危機、アルジェリア独立、日本の安保改定、中国の大躍進を同じ世界史の時間軸に置きました。キューバ危機については、公開されたミサイル撤去・不侵攻合意だけでなく、トルコのジュピター・ミサイル撤去をめぐる秘密了解も区別しています。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY