1955–1965
アメリカ|公民権運動
Montgomery、Little Rock、Sit-ins、Freedom Rides、Civil Rights Act
1955年から1965年までのアメリカ合衆国では、公民権をめぐる闘争が法廷中心の運動から、ボイコット、Sit-ins、Freedom Rides、街頭行進、有権者登録、Freedom Schoolsなどを組み合わせた全国的な大衆運動へ拡大しました。この十年間に、南部の人種隔離秩序は連邦法と最高裁判決の両面から大きく崩され、1964年Civil Rights Actと1965年Voting Rights Actという20世紀アメリカ史上最も重要な公民権立法へ到達します。
しかし、この変化をMartin Luther King Jr.一人の指導力やWashingtonの連邦政府だけで説明することはできません。Rosa Parks、Jo Ann Robinson、E. D. Nixon、Ella Baker、Diane Nash、John Lewis、Fannie Lou Hamer、Bob Moses、Fred Shuttlesworth、Medgar Eversなど、多数の地域活動家、学生、教会関係者、労働運動家が運動を支えました。またNAACP、Southern Christian Leadership Conference(SCLC)、Student Nonviolent Coordinating Committee(SNCC)、Congress of Racial Equality(CORE)は、それぞれ異なる組織文化と戦術を持っていました。
この時代は、1954年Brown v. Board of Education判決が公立学校の法的人種分離を違憲とした直後から始まります。判決後、南部では学校統合を遅らせるMassive Resistanceが広がり、一部州政府は公立学校を閉鎖してでも統合を避けようとしました。法的勝利と社会現実の間には大きな距離があり、その距離を埋めたのが地域住民による直接行動でした。
1955年夏、ChicagoからMississippiを訪れた14歳のEmmett Tillが白人女性への言動を理由に誘拐・殺害されました。被告となった白人男性二人は全白人陪審によって無罪となり、事件は全国的な怒りを呼びました。同年12月、MontgomeryでRosa Parksがバス座席の移動を拒否して逮捕されると、黒人住民は一年以上に及ぶBus Boycottを組織しました。これは単なる一女性の自発的行動ではなく、長年の地域組織、女性活動家、NAACP、教会ネットワークが蓄積してきた運動の上に成立しました。
1957年、Arkansas州Little Rockでは、九人の黒人高校生がCentral High Schoolへの入学を試みました。州知事Orval FaubusがNational Guardを使って入学を阻止したため、Dwight Eisenhower大統領は101st Airborne Divisionを派遣して連邦裁判所命令を執行しました。学校統合は「地方の教育問題」から、州権限と連邦憲法秩序の衝突へ変わりました。
1960年にはNorth Carolina州Greensboroで四人の黒人大学生が人種分離されたlunch counterに座り込み、サービスを要求しました。Sit-in運動は数週間で南部各地へ広がり、同年Student Nonviolent Coordinating Committeeが結成されました。若い活動家たちは既存指導者の判断を待つのではなく、自分たち自身で地域に入り、長期的な組織化と有権者登録を進めるようになります。
1961年のFreedom Ridesでは、黒人と白人の活動家が州境を越えるバスとterminalの人種分離廃止を実際に試しました。Alabamaでバスが焼かれ、Montgomeryで活動家が暴徒に襲撃されても、学生たちは行動を継続しました。連邦政府は最終的にInterstate Commerce Commissionへ規則実施を求め、州際交通施設の人種分離撤廃を進めました。
1963年のBirmingham Campaignでは、SCLCと地元指導者Fred Shuttlesworthらが人種分離された店舗・公共施設を標的にboycottとmarchを展開しました。警察責任者Bull Connorが犬と高圧放水を若い参加者へ向ける映像が全国放送され、南部人種隔離の暴力が国際的にも可視化されました。John F. Kennedy大統領は同年6月に包括的なCivil Rights billを議会へ提出します。
同年8月28日にはMarch on Washington for Jobs and Freedomが行われ、25万人を超える人々がWashington, D.C.に集まりました。Martin Luther King Jr.の「I Have a Dream」演説で広く記憶されていますが、行進の正式名称が示すように、要求には雇用、最低賃金、失業対策、学校統合、投票権など経済的・政治的課題が含まれていました。
1964年7月2日、Lyndon B. Johnson大統領はCivil Rights Actに署名しました。法律は公共施設、学校、雇用、連邦資金を受ける事業などにおける差別へ強い規制を加えました。しかし投票権については依然として州・地方当局による識字試験、登録手続き、脅迫、暴力が残り、Mississippiなどでは黒人有権者登録率が極めて低い地域がありました。
そこで1964年Freedom Summerと1965年Selma Campaignでは、投票権が運動の中心課題となりました。MississippiではSNCC、CORE、NAACPなどがCOFOの下で有権者登録、Freedom Schools、Mississippi Freedom Democratic Partyを組織しました。Selmaでは1965年3月7日、Edmund Pettus Bridgeを渡ろうとした非暴力のmarchersが州警察に襲撃され、その映像が全国に放送されました。
1965年8月6日、JohnsonはVoting Rights Actへ署名しました。同法は南部で黒人有権者を排除していたliteracy testsなどを禁止し、一定地域へ連邦examinerを派遣する制度などを設けました。National Archivesによれば、同年末までに25万人の新しい黒人有権者が登録され、その約3分の1は連邦examinerによる登録でした。
それでも1965年は「人種問題が解決した年」ではありません。同年8月にはLos AngelesのWattsで大規模な都市暴動が起こり、北部・西部では住宅、警察、雇用、都市貧困が主要な争点として前面化します。Malcolm Xの暗殺、Black Powerの台頭、Black Panther Party結成など、黒人政治は次の段階へ移ります。
1955–1965年の公民権運動は、自由を連邦法に書き込むことと、その自由を地域社会で実際に使えるものにすることの間にある巨大な距離を縮める運動でした。そしてその成果は、指導者だけではなく、座り込みに参加した学生、歩いて仕事へ向かったMontgomeryの住民、Mississippiの農村で有権者登録に挑んだ住民、学校へ通い続けた子どもたちの長期的な行動によって作られました。
CONTENTS
- Brown判決後の南部 — Massive Resistance
- 1955年 Emmett Till殺害
- Rosa ParksとMontgomeryの地域運動
- 1955–1956年 Montgomery Bus Boycott
- Montgomery Improvement AssociationとKing
- Browder v. Gayleとバス統合
- 1957年 SCLC成立
- 1957年 Little Rock Nine
- Eisenhowerと連邦軍派遣
- Civil Rights Act of 1957
- 1960年 Greensboro Sit-ins
- SNCCと学生運動
- Ella Bakerとgrassroots organizing
- 1961年 Freedom Rides
- AnnistonとMontgomeryの暴力
- Diane NashとFreedom Rides継続
- Albany Movement
- 有権者登録への転換
- 1963年 Birmingham Campaign
- Letter from Birmingham Jail
- Children’s Crusadeと警察暴力
- KennedyのCivil Rights bill
- Medgar Evers暗殺
- 1963年 March on Washington
- Jobs and Freedomという要求
- 16th Street Baptist Church爆破
- Kennedy暗殺とJohnson政権
- 1964年 Civil Rights Act
- Senate filibusterとcloture
- 1964年 Freedom Summer
- Chaney、Goodman、Schwerner殺害
- Freedom Schools
- Mississippi Freedom Democratic Party
- NAACP・SCLC・SNCC・COREの違い
- 1965年 Selma Campaign
- Bloody Sunday
- Selma to Montgomery March
- 1965年 Voting Rights Act
- Voting Rights Actの初期効果
- 1965年に残った問題
- 1955–1965年に何が変わったのか
- 1955–1965年の主な出来事
- 次の記事へ
- 参考資料・出典
Brown判決後の南部 — Massive Resistance
1954年Brown v. Board of Education判決は、公立学校における州公認の人種分離を違憲としました。しかし南部州政府や地方教育委員会の多くは、判決を実施するよりも遅延・回避する方法を探しました。1955年Brown II判決が学校統合を「all deliberate speed」で進めるよう命じたことも、具体的期限の曖昧さから抵抗側に時間を与えました。
VirginiaなどではMassive Resistanceと呼ばれる政策が形成され、統合命令を受けた学校への州資金停止や学校閉鎖を可能にする法律が作られました。白人市民評議会White Citizens’ Councilsも各地で組織され、経済的制裁、雇用圧力、選挙運動を通じて統合反対を進めました。
Brown判決後の南部は「法が変わったため自然に統合が進んだ」社会ではありません。連邦裁判所の判断を地域で実行するためには、原告家族、NAACP、学生、連邦政府が長い政治闘争を続ける必要がありました。
1955年 Emmett Till殺害
1955年8月、Chicagoに住む14歳のEmmett Tillは親族を訪ねてMississippi州Moneyへ滞在しました。白人女性Carolyn Bryantへの言動をめぐる非難の後、Roy BryantとJ. W. MilamがTillを親族宅から連れ去り、激しく暴行して殺害しました。
Tillの母Mamie Till-MobleyはChicagoで棺を開いた状態の葬儀を行い、息子の遺体を社会に見せる決断をしました。黒人メディアを中心に写真と事件報道が広がり、Mississippiにおける人種暴力への全国的関心を高めました。
被告二人は1955年9月、全白人男性陪審によって無罪となりました。Library of CongressのCivil Rights History Projectでは、多くの後の活動家がTill事件を、自分たちが運動へ参加する契機として記憶しています。事件は公民権運動を単独で「開始」させたわけではありませんが、若い世代に強い衝撃を与えました。
Rosa ParksとMontgomeryの地域運動
1955年12月1日、Montgomeryの縫製労働者Rosa Parksは市バスで白人乗客のために座席を空けるよう求められ、拒否して逮捕されました。Parksは偶然疲れて抵抗した一般市民というより、Montgomery NAACPの長年のmember・secretaryであり、人種差別事件の調査にも携わっていました。
またParks以前にもClaudette Colvin、Mary Louise Smithら黒人女性がバス人種分離へ抵抗していました。Montgomeryの女性活動家は以前からバスの差別的待遇に抗議しており、Women’s Political CouncilのJo Ann RobinsonはParks逮捕後すぐに大量のboycott leafletを印刷・配布しました。
したがってMontgomery Bus Boycottは一人の英雄の自発的行動だけではなく、黒人女性、労働運動、NAACP、教会、地域住民が長年蓄積してきた組織力から生まれました。
1955–1956年 Montgomery Bus Boycott
1955年12月5日、Parksの裁判日に黒人住民は一日バス利用を拒否しました。参加率が非常に高かったため運動は継続され、Montgomery Improvement Associationが組織されました。
boycottは381日間続きました。参加者は徒歩で通勤し、教会と地域組織はcarpoolを運営しました。National Park Serviceによれば、Montgomery City Linesは一日3万から4万の運賃収入を失ったとされます。
活動家は逮捕、爆破、嫌がらせに直面しました。Martin Luther King Jr.の自宅も爆破されました。それでも運動は継続され、地域社会が日常生活そのものを組織することで人種分離制度へ経済的・政治的圧力を与えました。
Montgomery Improvement AssociationとKing
Montgomery Improvement Associationはboycottを調整するため1955年12月5日に結成され、若い牧師Martin Luther King Jr.がpresidentに選ばれました。Kingはまだ全国的著名人ではなく、Montgomeryへ赴任して間もないため既存派閥から比較的中立と見られたことも選出理由の一つでした。
Kingの演説力と非暴力思想は運動の象徴となりましたが、MIAを支えたのはE. D. Nixon、Jo Ann Robinson、Ralph Abernathy、教会関係者、女性活動家、carpool運転手など多数の住民でした。
このboycottを通じてKingは全国的指導者となりますが、公民権運動をKing中心の物語だけにすると、地域組織の長期的な労働と女性活動家の役割が見えなくなります。
Browder v. Gayleとバス統合
Montgomery Bus Boycottと並行して、バス分離そのものを違憲とする訴訟Browder v. Gayleが進みました。原告にはAurelia Browder、Claudette Colvin、Susie McDonald、Mary Louise Smithらが参加しました。
1956年6月、連邦地方裁判所はMontgomeryとAlabama州のバス人種分離制度を違憲と判断し、11月に連邦最高裁がその判断を維持しました。12月20日に命令がMontgomeryへ届き、boycottは終了しました。
この過程は法廷闘争と大衆直接行動が別々の戦術ではなかったことを示します。boycottが地域社会に政治圧力をかけ、裁判が人種分離の法的基盤を崩しました。
1957年 SCLC成立
Montgomery成功後、南部各地の黒人牧師・活動家は1957年にSouthern Christian Leadership Conferenceを結成しました。Kingがpresidentとなり、Ralph Abernathy、Fred Shuttlesworth、Joseph Loweryなどが参加しました。
SCLCは個々の教会の上に中央組織を作るというより、南部の教会・地域運動を結ぶnetworkとして機能しました。mass meeting、boycott、march、非暴力直接行動を通じて地域政府と連邦政府へ圧力をかけることを重視しました。
一方、SCLCは初期には有権者登録運動で期待した成果を出せず、組織力にも地域差がありました。1960年代に学生運動が広がると、若い活動家との戦術・世代差も明確になります。
1957年 Little Rock Nine
Arkansas州Little Rock School DistrictはBrown判決後、段階的な学校統合計画を立てました。1957年9月、NAACP Arkansas支部のDaisy Batesらの支援を受けた九人の黒人学生がCentral High Schoolへ入学しようとしました。
州知事Orval FaubusはArkansas National Guardを学校へ派遣し、暴力防止を理由に九人の入校を阻止しました。9月4日、Elizabeth Eckfordら学生は白人群衆の罵声と脅迫を受けながら学校から追い返されました。
連邦裁判所はFaubusの行動が統合命令に反すると判断しましたが、9月23日に学生が再び登校すると校外の白人群衆が暴力化し、学生は安全上の理由で退校を余儀なくされました。
Eisenhowerと連邦軍派遣
Little Rock危機はBrown判決の実施をめぐる州政府と連邦政府の直接対立へ発展しました。Dwight D. Eisenhower大統領はFaubusとの交渉が失敗すると、Arkansas National Guardを連邦指揮下へ置き、101st Airborne DivisionをLittle Rockへ派遣しました。
9月25日、Little Rock Nineは連邦兵士の護衛でCentral High Schoolへ入りました。その後も学生たちは日常的ないじめ、暴力、排斥に耐えながら通学しました。
Eisenhowerは人種平等の大衆運動を積極的に主導したわけではありませんが、連邦裁判所命令を州が公然と無視することは認めませんでした。Little Rockは公民権が同時に憲法秩序と連邦権力の問題であることを全国へ示しました。
Civil Rights Act of 1957
1957年、連邦議会はReconstruction以後初の主要な公民権法であるCivil Rights Act of 1957を成立させました。法律はCivil Rights DivisionをJustice Departmentに設置し、Commission on Civil Rightsを創設しました。
当初案より大幅に弱められ、投票権侵害への連邦政府の実効的介入能力には限界がありました。南部上院議員による抵抗の中で、Lyndon B. Johnsonを含む議会指導部が妥協した結果でもありました。
それでも連邦議会が公民権を立法課題として再び扱い始めた点は重要でした。1960年にも追加のCivil Rights Actが成立し、1964・1965年のより強力な立法へ制度的につながりました。
1960年 Greensboro Sit-ins
1960年2月1日、North Carolina Agricultural and Technical State Universityの黒人学生Ezell Blair Jr.、David Richmond、Franklin McCain、Joseph McNeilの四人はGreensboroのWoolworth lunch counterで、白人専用席に座ってサービスを求めました。
店側は食事提供を拒否しましたが、学生は閉店まで座り続け、翌日には参加者が増えました。新聞とテレビを通じて行動が広まり、数週間で南部各地の大学生がlunch counter、図書館、百貨店などでSit-inを始めました。
Library of CongressはOklahoma CityでClara LuperとNAACP Youth Councilが1958年からSit-inを行っていたことも記録しています。GreensboroはSit-in戦術の最初ではありませんが、1960年に学生直接行動を全国的な波へ変えた転換点でした。
SNCCと学生運動
Sit-in運動に参加した学生たちは1960年4月、North Carolina州RaleighのShaw Universityで会議を開き、Student Nonviolent Coordinating Committeeを結成しました。SCLCのElla Bakerが会議開催に重要な役割を果たしました。
SNCCは年長の牧師指導者を中心とする組織とは異なり、学生自身の自治と地域住民によるgrassroots organizingを重視しました。初期には非暴力を原則としましたが、単に象徴的なmarchを行うだけでなく、MississippiやGeorgiaの農村へ長期間入り、有権者登録と地域組織作りを進めました。
1960年代半ばになるとSNCC内部では非暴力、白人参加、Black Power、Vietnam Warなどをめぐる議論が深まります。1955–1965年は、その後の黒人政治の多様化を準備した時期でもありました。
Ella Bakerとgrassroots organizing
Ella BakerはNAACP、SCLC、SNCCにまたがって活動した重要なorganizerでした。Bakerはカリスマ的な一人の指導者へ権力を集中させるより、地域住民が自ら問題を定義し、長期的に組織を運営することを重視しました。
1960年の学生会議でも、学生組織をSCLCの青年部として吸収せず独立組織にする方向を支えました。これによってSNCCは年長指導者とは異なる戦術と組織文化を持つことができました。
公民権運動の歴史を大規模演説やWashingtonの立法だけで見ると、Bakerが重視した戸別訪問、地域集会、住民リーダー育成という地味な組織化が見えにくくなります。しかしMississippiの投票権運動やFreedom Summerは、こうした方法なしには成立しませんでした。
1961年 Freedom Rides
1960年Boynton v. Virginiaで連邦最高裁は州際交通terminalの人種分離を違法と判断しましたが、Deep Southでは実施されない地域が多く残りました。COREは判決を実地に試すため1961年5月、黒人・白人13人によるFreedom RideをWashington, D.C.からNew Orleansへ出発させました。
活動家は同じバスに乗り、terminalでは人種指定とは異なる待合室・食堂を利用しました。目的は暴力を誘発することではなく、既に存在する連邦法が実際に施行されるかを検証することでした。
しかしAlabamaで激しい白人暴力が発生し、Freedom Ridesは全国ニュースとなりました。法廷判決だけでは現場の制度が変わらず、その実施には直接行動と連邦行政が必要であることが明確になりました。
AnnistonとMontgomeryの暴力
1961年5月14日、Alabama州Anniston近郊でFreedom Ridersが乗ったGreyhound busが白人暴徒に襲撃され、firebombを投げ込まれました。乗客が燃える車両から脱出すると、さらに暴行を受けました。
別のTrailways busの活動家もBirminghamで襲撃されました。5月20日にはBirminghamからMontgomeryへ向かった新しいridersがterminalで暴徒に襲われ、Justice Department職員John Seigenthalerも負傷しました。
こうした暴力は地方警察が活動家を十分に保護しなかった問題も含みました。テレビ・写真報道は国内外へ広がり、John F. Kennedy政権は公民権運動を外交的にも無視できない問題として扱うようになります。
Diane NashとFreedom Rides継続
AnnistonとBirminghamで暴力が起きた後、COREは当初のrideを中断しました。しかしNashville学生運動のDiane NashらSNCC活動家は、暴力によって行動を止めれば白人暴力が公共政策を決めることになるとしてridesの継続を決めました。
新しい参加者は逮捕・暴行の危険を承知で南部へ向かいました。Mississippi州Jacksonでは多数のFreedom Ridersが逮捕され、Parchman Prisonへ送られました。Library of Congressによれば、1961年夏には300人を超えるridersがJacksonへ入りました。
最終的にKennedy政権の要請を受け、Interstate Commerce Commissionは州際バスとterminalにおける人種分離禁止規則を強化し、1961年11月から実施しました。
Albany Movement
1961年末からGeorgia州Albanyでは、SNCC、NAACP、地域指導者らが公共施設・交通・投票など広範な人種分離へ挑戦するAlbany Movementを組織しました。SCLCとKingも参加しました。
警察長Laurie PritchettはBirminghamのBull Connorとは異なり、可能な限りテレビ映えする暴力を避けながら大量逮捕を行い、拘束者を周辺の複数施設へ分散させました。運動側は一つの明確な標的に圧力を集中できず、短期的には大きな制度改革を得られませんでした。
Albanyはしばしば「失敗」と呼ばれますが、SNCCは地域有権者登録を継続し、SCLCは次のBirminghamで要求を絞り込み、経済boycottとmass actionを組み合わせる戦術を学びました。
有権者登録への転換
SNCCのorganizersは1961年以後、Mississippi、Georgia、Alabamaなどで有権者登録運動へ深く関わるようになりました。黒人住民は投票登録を試みるだけで職を失い、融資を止められ、農地から追放され、暴力を受ける危険がありました。
MississippiではBob MosesらがMcComb、Greenwoodなどで長期的なorganizingを進めました。これは一日限りのmass marchとは異なり、住民宅を訪ね、county courthouseへ同行し、地域内部で指導者を育てる活動でした。
投票権は1965年Selmaで突然現れた課題ではありません。何年もの地域活動、逮捕、暴力、失敗の蓄積によって、連邦政府に強い投票権法を要求する政治的条件が形成されました。
1963年 Birmingham Campaign
Alabama州Birminghamは公共施設、住宅、雇用で厳しい人種分離が続き、黒人住宅や教会へのbombingも頻発していました。1963年春、SCLCは地元Alabama Christian Movement for Human RightsのFred Shuttlesworthらと協力してProject C、すなわちconfrontation campaignを開始しました。
活動はdowntownの商業施設を標的にしたboycott、Sit-in、marchで構成され、Easter shopping seasonに経済的圧力をかけました。KingとRalph Abernathyらも逮捕されました。
Birminghamは運動側が明確な経済標的を設定し、白人商業指導者との交渉を引き出す戦術を取った点でAlbanyの経験を反映していました。
Letter from Birmingham Jail
1963年4月、Kingは無許可marchへの参加で逮捕され、Birmingham City Jailに収容されました。地元白人聖職者が公民権運動を時期尚早で外部からの扇動だと批判したことに対し、Kingは後にLetter from Birmingham Jailとして知られる文章を書きました。
Kingは不正な法律と正当な法律を区別し、人々が「より都合のよい時期」を待つよう求められ続けてきた歴史を批判しました。非暴力直接行動は交渉を拒む社会に建設的な緊張を作り、交渉を不可避にする手段だと説明しました。
この文章はKingの思想を示す重要資料ですが、Birmingham Campaignの実際の組織化はSCLCだけでなく地元活動家、学生、教会、商人、家族の参加によって支えられていました。
Children’s Crusadeと警察暴力
成人活動家の逮捕が増えたBirminghamで、1963年5月から学生・子どもが大量にmarchへ参加しました。後世Children’s Crusadeと呼ばれます。
Public Safety Commissioner Eugene ‘Bull’ Connorの警察は参加者を大量逮捕し、警察犬と高圧放水を使用しました。映像・写真は全国テレビや新聞で報道され、子どもたちに向けられる国家暴力として強い衝撃を与えました。
National Park Serviceによれば、Birminghamの商業指導者は5月にlunch counter統合と黒人雇用拡大などの妥協へ合意しました。しかしbombingと白人暴力は続き、地域の人種秩序が一度の合意で変わらないことも示されました。
KennedyのCivil Rights bill
Birminghamの映像とAlabama大学統合をめぐる州知事George Wallaceとの対立が続く中、John F. Kennedy大統領は1963年6月11日にテレビ演説を行い、公民権を単なる地域秩序ではなくmoral issueとして位置づけました。
Kennedy政権はその後、public accommodations、学校統合、連邦資金、投票などを対象とする包括的civil rights legislationを議会へ提出しました。
Kennedyは就任直後から一貫して最も強い公民権立法を推進していたわけではなく、南部民主党議員との関係や冷戦政治を考慮して慎重でした。1963年のmass movementと暴力の可視化が、政権の立法姿勢をより積極的な方向へ押しました。
Medgar Evers暗殺
1963年6月12日未明、Mississippi NAACP field secretary Medgar EversはJacksonの自宅前で白人至上主義者Byron De La Beckwithに射殺されました。Eversは有権者登録、学校統合、Emmett Till事件、地域boycottなどに長年関わっていました。
彼の自宅はNAACP活動拠点でもあり、家族は継続的な脅迫を受けていました。Eversの暗殺はKennedyの公民権演説の翌日に起こり、南部活動家が日常的に直面していた暴力を全国へ再び示しました。
Beckwithは1960年代の二度の裁判では全白人陪審が評決に至らず自由となり、1994年の再審で有罪となりました。刑事司法制度の人種的不均衡も事件の長期的な一部です。
1963年 March on Washington
1963年8月28日、March on Washington for Jobs and Freedomに25万人を超える参加者が集まりました。A. Philip Randolphが構想し、Bayard Rustinが組織実務を担い、NAACP、SCLC、SNCC、CORE、National Urban League、宗教団体、労働組合などが参加しました。
Lincoln MemorialでKingが’I Have a Dream’演説を行ったことで広く知られていますが、行進全体は一人の演説を聞くための集会ではありませんでした。複数の組織が公民権法、学校統合、投票権、雇用、最低賃金などの要求を共有しました。
行進は大規模かつ平和的に実施され、議会に審議中のcivil rights billへの圧力を強めました。
Jobs and Freedomという要求
行進の正式名称にJobsが含まれていたことは重要です。公民権運動は法律上の人種隔離だけでなく、失業、低賃金、職業差別、住宅など経済的不平等も問題にしていました。
A. Philip Randolphは1941年のMarch on Washington Movement以来、黒人労働と公民権を結びつけてきました。1963年行進でも連邦jobs program、最低賃金引き上げ、公正雇用を求める要求が含まれました。
後世、Kingの夢と道徳的統合だけに焦点を当てると、運動に存在した経済正義の要求が弱く見えてしまいます。1960年代後半にKingが貧困・労働・Vietnam Warへ関心を広げるのも、突然の方向転換ではありませんでした。
16th Street Baptist Church爆破
1963年9月15日、Birminghamの16th Street Baptist Churchで白人至上主義者が設置したbombが爆発し、Addie Mae Collins、Denise McNair、Carole Robertson、Cynthia Wesleyの四人の少女が死亡しました。
教会はBirmingham Campaignの集会・出発地点として使われており、公民権運動の重要拠点でした。爆破は統合への白人暴力的抵抗が制度・警察だけでなくterrorismとして存在していたことを示しました。
同日、Birminghamではさらに黒人少年二人が別々の事件で死亡しました。Civil Rights legislationをめぐる全国議論の最中に起きたこれらの死は、法改正を求める圧力をさらに強めました。
Kennedy暗殺とJohnson政権
1963年11月22日、Kennedy大統領がDallasで暗殺され、Lyndon B. Johnson副大統領が大統領に就任しました。Johnsonは数日後の議会演説でKennedyが提出していたcivil rights billの早期成立を求めました。
Johnsonは上院議員・多数党院内総務として議会手続きを熟知し、公民権運動側、民主党liberals、共和党議員とのcoalition形成を進めました。
1964年法成立をKennedyの殉教だけで説明することはできません。Birmingham、March on Washington、長年のNAACP lobbying、黒人有権者・労働運動、議会内交渉が重なった結果でした。
1964年 Civil Rights Act
1964年7月2日、JohnsonはCivil Rights Act of 1964に署名しました。National Archivesによれば、法律はpublic accommodationsにおける差別を禁止し、学校・公共施設統合を進め、雇用差別を違法としました。
Title IIはhotel、restaurant、theaterなど公共施設での人種差別を規制し、Title VIは連邦資金を受けるprogramでの差別を禁止しました。Title VIIは雇用差別を禁止し、Equal Employment Opportunity Commission設立へつながりました。
法律はraceとcolorだけでなくreligion、sex、national originを理由とする差別も対象にしました。ただし、その後の実施には裁判、行政、地域での長期的な enforcement が必要でした。
Senate filibusterとcloture
1964年Civil Rights billは議会で激しい抵抗を受けました。Houseを通過したH.R. 7152に対し、南部上院議員はfilibusterを行い、審議は60日間に及びました。
当時filibusterを終わらせるclotureには100人中67票、3分の2が必要でした。民主党Hubert Humphreyと共和党Thomas Kuchel、共和党院内総務Everett Dirksenらが超党派coalitionを作りました。
1964年6月10日、上院は71対29でclotureを可決しました。U.S. Senateによれば、公民権法案に対してclotureが成立した最初の事例でした。6月19日に上院が法案を73対27で可決し、7月2日にJohnsonが署名しました。
1964年 Freedom Summer
1964年夏、MississippiでCouncil of Federated Organizations、COFOがFreedom Summerを実施しました。SNCCのBob Mosesがproject directorを務め、NAACP、CORE、SCLCなどが協力しました。
中心課題は黒人有権者登録でした。Mississippiでは黒人人口比率が高いにもかかわらず、登録制度、経済報復、暴力によって多くの黒人住民が投票から排除されていました。
数百人の主に北部の白人大学生が地域黒人活動家とともに参加したことで全国メディアの注目が高まりましたが、運動の基盤はそれ以前から危険の中で活動していたMississippiの黒人住民とorganizersにありました。
Chaney、Goodman、Schwerner殺害
Freedom Summer開始直後の1964年6月21日、James Chaney、Andrew Goodman、Michael Schwernerの三人のcivil rights workersがMississippi州Neshoba Countyで行方不明になりました。彼らは黒人教会のburningを調査していました。
三人は地元警察に拘束された後に釈放され、その後Ku Klux Klan関係者らに殺害されました。遺体は8月に発見されました。
黒人Chaneyと白人Goodman・Schwernerの殺害は全国的に大きく報道されました。同時に、Mississippiで以前から殺害・失踪していた黒人住民の事件が同じ規模で報じられなかったことも、メディアと人種の関係を示します。
Freedom Schools
Freedom Summerでは有権者登録だけでなくFreedom Schoolsが設置されました。通常学校で十分に扱われない黒人史、公民権、政治、literatureなどを学び、生徒自身が社会問題について議論する教育空間でした。
Library of CongressとNational Park Serviceの資料によれば、各地のFreedom Schoolsには多数の若者が参加しました。授業は単に試験知識を教えるのではなく、「なぜ自分たちの社会はこうなっているのか」を問い、政治参加を促しました。
教育と有権者登録を結びつけた点は、SNCCのgrassroots organizingの特徴でした。公民権運動は抗議eventだけでなく、長期的な政治教育でもありました。
Mississippi Freedom Democratic Party
Mississippi Democratic Partyの公式delegationは白人中心で、黒人有権者が事実上排除されていました。活動家は1964年、Mississippi Freedom Democratic Party、MFDPを組織し、人種的に開かれた別delegationを作りました。
Atlantic CityのDemocratic National ConventionでMFDPは公式Mississippi delegationのseatを争いました。Fannie Lou Hamerはtelevised testimonyで投票登録を試みたことで受けた暴力と差別を証言しました。
Johnson政権と党指導部は一部at-large seatsなどを含むcompromiseを提案しましたがMFDPは拒否しました。短期的には正式delegationを置き換えられませんでしたが、政党代表制度における人種排除を全国政治の問題にしました。
NAACP・SCLC・SNCC・COREの違い
公民権運動は一つの中央組織によって指揮された運動ではありません。NAACPは長期の法廷闘争、会員組織、lobbyingに強みを持ち、Brown判決を含む法的戦略を進めました。
SCLCは黒人教会networkとmass mobilizationを生かし、Kingらの全国的知名度を使ってBirminghamやSelmaのcampaignへ注目を集めました。COREはinterracial direct actionの伝統を持ち、Freedom Ridesを組織しました。
SNCCは若いorganizersが地域へ長期滞在し、住民自身が政治的主体となるgrassroots organizingを重視しました。組織間には協力だけでなく競争・戦術対立もありました。その多様性こそが運動の強さと緊張の両方を生みました。
1965年 Selma Campaign
Alabama州Dallas Countyでは黒人人口が多いにもかかわらず、有権者登録が強く制限されていました。SNCCは1963年頃からSelma周辺で登録活動を続け、1965年にSCLCが加わって全国的campaignへ拡大しました。
活動家はcounty courthouseで登録を求め、marchとmass meetingを続けました。Sheriff Jim Clarkらによる逮捕と暴力が繰り返されました。
1965年2月18日、近隣Marionで夜間marchに参加していたJimmie Lee Jacksonが州警察官に撃たれ、後に死亡しました。その死を受け、Selmaから州都Montgomeryまでmarchする計画が具体化しました。
Bloody Sunday
1965年3月7日、約600人の非暴力marchersがSelmaのBrown ChapelからMontgomeryへ向けて出発しました。John LewisとHosea Williamsらが先頭を歩きました。
Edmund Pettus Bridgeを渡った地点でAlabama State Troopersと地元警察が道を塞ぎ、marchersへ解散を命じました。直後、警官隊はnightstickとtear gasで参加者を攻撃し、多数が負傷しました。
テレビカメラが攻撃を撮影し、映像は全国へ放送されました。National Archivesはこの暴力がVoting Rights legislationへの支持を大きく高めた要因と位置づけています。
Selma to Montgomery March
Bloody Sundayの二日後、Kingはより大規模なmarchを橋まで率いましたが、連邦裁判所の判断を待つため引き返しました。これはTurnaround Tuesdayと呼ばれます。
連邦裁判所がmarchを認めた後、3月21日に約3200人がSelmaを出発しました。途中の区間では参加人数が制限されましたが、3月25日にMontgomeryへ到着する頃には約2万5000人へ増えました。
marchは投票権が地方選挙手続きではなく連邦憲法上の全国問題であることを強く示しました。
1965年 Voting Rights Act
Bloody Sunday後の1965年3月15日、Johnson大統領は議会合同会議で強力なvoting rights billを求めました。法案は議会を通過し、8月6日にVoting Rights Act of 1965として署名されました。
法律は人種差別的に使用されてきたliteracy testsを禁止し、一定の基準に該当するjurisdictionへ連邦examinersを送り、有権者を直接登録できる仕組みを作りました。Section 5は対象地域が投票制度を変更する際、事前に連邦政府または連邦裁判所の承認を得るpreclearanceを要求しました。
これは州・地方選挙管理への連邦政府介入を大きく強化する法律でした。修正第15条が1870年に成立してから約一世紀後、投票権を実際に行使させるための強い執行制度が設けられました。
Voting Rights Actの初期効果
National Archivesによれば、1965年末までに約25万人の新しい黒人有権者が登録され、その約3分の1は連邦examinersによるものでした。1966年末には南部13州のうち黒人登録率が50%未満だった州は4州まで減りました。
有権者登録増加は市議会、county、州議会、連邦議会などへ黒人候補が進出する長期的基盤となりました。政治参加が投票可能性だけでなく候補者・政策決定へ拡張されていきます。
ただし投票権をめぐる争いが1965年で終わったわけではありません。district線、at-large election、登録制度など別の手段をめぐって訴訟が続き、Voting Rights Act自体もその後何度も改正・延長されました。
1965年に残った問題
1964年Civil Rights Actと1965年Voting Rights Actは法的人種隔離と投票排除に対する巨大な転換でしたが、住宅隔離、学校の事実上の分離、警察暴力、雇用格差、都市貧困を即座に解消するものではありませんでした。
1965年8月にはLos AngelesのWattsで警察との衝突から大規模な暴動が広がりました。公民権運動の主要立法が成立した直後に都市危機が起きたことは、「南部Jim Crowを廃止すれば人種問題が終わる」という理解の限界を示しました。
同年2月にはMalcolm Xが暗殺され、SNCC内部でも非暴力や統合主義への疑問が強まりつつありました。次の時代にはBlack Power、Black Panther Party、都市暴動、住宅、警察、Vietnam Warが黒人政治の主要争点になります。
1955–1965年に何が変わったのか
第一に、公民権運動の主体が大きく拡大しました。1950年代半ばの法廷・教会中心の運動に、学生、若いorganizers、農村住民、労働者が加わり、全国的なmass movementが形成されました。
第二に、運動戦術が多様化しました。boycott、Sit-in、Freedom Ride、mass march、有権者登録、Freedom School、法廷訴訟、Washington lobbyingが組み合わされました。一つの戦術がすべてを解決したのではありません。
第三に、連邦政府の役割が変化しました。Little Rockでの軍派遣、1964年Civil Rights Act、1965年Voting Rights Actを通じて、州が維持する人種差別を連邦政府が規制・執行する制度が強化されました。
第四に、televisionと写真が運動の政治環境を変えました。Birmingham、Freedom Rides、Bloody Sundayなどの暴力が全国放送され、地域の人種秩序が国内外の観衆へ可視化されました。ただしmedia coverageがなければ運動が存在しなかったわけではなく、地域組織はカメラが来る前から活動していました。
第五に、公民権運動は法的平等だけでなく経済問題を含んでいました。March on WashingtonがJobs and Freedomを掲げたように、雇用、最低賃金、住宅、貧困は運動の中心課題でした。
第六に、運動内部の多様性が次の時代の分岐を生みました。SCLCのmass mobilization、NAACPのlegal strategy、SNCCのgrassroots organizing、COREのdirect actionは協力しながらも異なる政治観を持っていました。
1965年までにJim Crowの主要な法的基盤は大きく崩れました。しかし人種的な資産格差、都市分離、警察、雇用、教育の問題は残りました。公民権運動はここで完結するのではなく、Black Powerと都市アメリカをめぐる次の段階へ移っていきます。
1955–1965年の主な出来事
- 1955年8月28日 — Emmett TillがMississippiで誘拐・殺害される。
- 1955年12月1日 — Rosa ParksがMontgomeryのバスで逮捕。
- 1955年12月5日 — Montgomery Bus BoycottとMontgomery Improvement Associationが始動。
- 1956年 — Browder v. GayleでAlabamaのバス人種分離制度が違憲と判断される。
- 1956年12月 — Montgomeryのバス統合が実施され、boycott終了。
- 1957年 — Southern Christian Leadership Conference(SCLC)成立。
- 1957年9月 — Little Rock NineがCentral High School統合へ挑戦。
- 1957年9月25日 — 101st Airborne Division護衛の下、Little Rock Nineが授業へ参加。
- 1957年 — Civil Rights Act of 1957成立。
- 1960年2月1日 — Greensboro Sit-ins開始。
- 1960年4月 — Student Nonviolent Coordinating Committee(SNCC)成立。
- 1961年5月4日 — COREの最初のFreedom RidersがWashington, D.C.を出発。
- 1961年5月14日 — AnnistonでFreedom Ridersのbusがfirebombingを受ける。
- 1961年 — Albany MovementがGeorgiaで拡大。
- 1963年4–5月 — Birmingham Campaign。Boycott、march、mass arrestsが続く。
- 1963年6月11日 — Kennedyがtelevised civil rights addressを行う。
- 1963年6月12日 — Medgar Evers暗殺。
- 1963年8月28日 — March on Washington for Jobs and Freedom。25万人超が参加。
- 1963年9月15日 — Birminghamの16th Street Baptist Church爆破。少女4人死亡。
- 1963年11月22日 — Kennedy大統領暗殺。Johnsonが大統領就任。
- 1964年1月23日 — 修正第24条批准。連邦選挙のpoll taxを禁止。
- 1964年6月 — Mississippi Freedom Summer開始。
- 1964年6月21日 — Chaney、Goodman、SchwernerがMississippiで殺害される。
- 1964年7月2日 — Civil Rights Act of 1964成立。
- 1964年8月 — Mississippi Freedom Democratic PartyがDemocratic National Conventionでdelegation seatを要求。
- 1965年2月21日 — Malcolm X暗殺。
- 1965年3月7日 — SelmaのBloody Sunday。
- 1965年3月21–25日 — Selma to Montgomery March。
- 1965年8月6日 — Voting Rights Act of 1965成立。
- 1965年8月 — Los AngelesでWatts uprising。
次の記事へ
1965年までにCivil Rights ActとVoting Rights Actが成立し、南部Jim Crowの法的基盤は大きく崩れました。しかし黒人アメリカの主要な問題は、もはや公共施設の「Whites Only」表示だけでは説明できませんでした。
北部・西部の都市では住宅隔離、学校の事実上の分離、失業、警察暴力、都市再開発が大きな問題となり、1965年Watts、1967年Detroit・Newarkなどで大規模な都市反乱が起こります。Malcolm Xの思想は若い活動家へ強い影響を持ち、SNCCではStokely CarmichaelがBlack Powerを掲げます。1966年にはOaklandでBlack Panther Partyが結成されます。
次の記事では、1965–1972|アメリカ|Black Powerと都市社会 — Malcolm X、Watts、Black Panther Party、King暗殺として、公民権立法後の黒人政治が都市、警察、住宅、経済格差、Vietnam Warへ争点を広げていく過程を扱います。
参考資料・出典
本ページは、U.S. National Archives and Records Administration、Library of Congress、U.S. National Park Service、U.S. Senate Historical Officeなどの公的機関・一次資料アーカイブを中心に参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。公民権運動を一人の指導者や一組織に還元せず、NAACP、SCLC、SNCC、CORE、地域組織、学生、女性活動家、黒人住民の異なる役割を区別しました。また1964年・1965年の連邦立法を「人種差別の終結」とは扱わず、法制度の変化と住宅・警察・経済格差などの社会構造を分けて記述しています。
- Library of Congress — The Murder of Emmett Till
- U.S. National Park Service — The Montgomery Bus Boycott
- U.S. National Park Service — Rosa Parks
- U.S. National Park Service — Little Rock Central High School
- U.S. National Park Service — The 1957 Crisis at Central High
- Library of Congress — Civil Rights Era, 1950–1963
- Library of Congress — NAACP: The Civil Rights Era
- U.S. National Park Service — Birmingham Civil Rights National Monument: Historical Proclamation
- U.S. National Park Service — Medgar Evers: Campaigns and Causes
- U.S. National Archives — The March on Washington for Jobs and Freedom
- U.S. National Archives — Official Program for the March on Washington, 1963
- U.S. National Archives — Civil Rights Act, 1964
- U.S. Senate — The Civil Rights Act of 1964
- U.S. National Archives — Cloture Motion for the Civil Rights Act of 1964
- Library of Congress — Mississippi Freedom Summer
- Library of Congress — Immediate Impact of the Civil Rights Act: Freedom Summer and MFDP
- U.S. National Park Service — COFO and Mississippi Freedom Summer
- U.S. National Park Service — Bloody Sunday
- U.S. National Park Service — Selma to Montgomery March
- U.S. National Archives — Voting Rights Act, 1965
- U.S. National Archives — Congress and the Voting Rights Act of 1965
資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY