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World History

1947–1954

アメリカ|赤狩りとマッカーシズム

忠誠審査、HUAC、Hollywood、反共政治

1947年から1954年までのアメリカ合衆国では、冷戦の始まりとともに「共産主義者が政府・文化・教育・労働組合へ浸透しているのではないか」という不安が急速に政治化しました。後世この時代はRed Scare、そしてJoseph McCarthy上院議員の名からMcCarthyismと呼ばれます。しかし、反共政治はMcCarthyが1950年に全国的に注目される以前からすでに始まっていました。

1947年3月、Harry S. Truman大統領はExecutive Order 9835を発し、連邦政府の新規採用者だけでなく現職職員にも広範な忠誠審査制度を導入しました。同年、司法長官は「全体主義、ファシスト、共産主義、破壊的」とみなした団体のリストを公表しました。連邦職員は本人の具体的な違法行為だけでなく、過去の所属団体、交友関係、政治活動、家族関係まで調査対象となり得ました。

同じ1947年、House Committee on Un-American Activities、HUACはHollywoodの映画産業における共産主義の影響を調査しました。脚本家、監督、producerなどが議会へ召喚され、十人が「現在または過去に共産党員だったか」という質問への回答を拒否しました。彼らはHollywood Tenと呼ばれ、議会侮辱罪で有罪となり、映画会社からblacklistの対象にされました。

ここで重要なのは、ソ連の諜報活動そのものが架空ではなかったことです。第二次世界大戦から冷戦初期にかけ、アメリカ政府・原子力計画などへソ連の情報網が存在していました。後に公開されたVenona decryptsや公文書は、Julius Rosenbergら複数の人物がソ連へ情報を渡していたことを示しています。したがって当時のcounterintelligence上の懸念には実際の根拠がありました。

しかし、実在する諜報事件と、政治的思想・交友・組合活動・性的指向などを広く「安全保障上の危険」とみなすことは同じではありません。Red Scareの時代には、法的に犯罪と立証されていない人々も、議会証言、忠誠審査、雇用主の判断、blacklistによって職を失いました。映画・放送・教育・労働運動では、証言拒否や過去の政治活動だけで事実上の就業停止となることもありました。

1948年にはAlger Hiss事件が全国的な政治事件となりました。元State Department高官Hissは、元共産党地下活動関係者Whittaker Chambersからソ連側へ情報を渡したと告発されました。espionageそのものは時効のため起訴されず、Hissはgrand juryで虚偽証言をしたとしてperjuryで起訴され、1950年に有罪となりました。後に公開された情報はHissのソ連諜報活動への関与を支持する方向に読まれることが多いものの、法的な有罪判決はあくまでperjuryでした。

1950年2月、Wisconsin州選出の共和党上院議員Joseph McCarthyはWest Virginia州Wheelingで演説し、State Departmentに多数の共産主義者がいると主張しました。U.S. Senate Historical Officeによれば、彼は205人の「card-carrying communists」の名前を持っていると主張しました。Senateの調査はその告発を裏付けませんでしたが、Korean War、Hiss有罪、ソ連の原爆保有、中華人民共和国成立などが重なった時期だったため、彼の告発は大きな政治的影響を持ちました。

McCarthyはRed Scareを一人で作ったわけではありません。Trumanの忠誠審査、HUAC、Smith Actによる共産党指導者の訴追、McCarran Internal Security Act、企業blacklistなど、多くの制度がすでに存在しました。それでもMcCarthyは、証拠の提示より公開告発を先行させ、人物の評判を政治的に攻撃する手法を全国規模の政治spectacleへ変えました。

反共安全保障は同性愛者の連邦職員にも及びました。1940年代末から、同性愛者は「脅迫されやすい」「道徳的に不適格」などの偏見を理由にsecurity riskとされ、多数が調査・解雇されました。1953年のDwight D. Eisenhower大統領のExecutive Order 10450は政府雇用のsecurity programを再編し、当時の表現で「sexual perversion」を安全保障審査の対象へ含めました。後世この政策はLavender Scareと呼ばれます。

1953年、共和党が上院多数を取るとMcCarthyはSenate Permanent Subcommittee on Investigationsのchairmanとなり、政府職員、Voice of America、海外図書館、Army Signal Corpsなどへ調査を広げました。1954年にはArmyとの対立がArmy–McCarthy hearingsへ発展し、全国テレビ中継によって彼の尋問方法が広く可視化されました。

同年12月2日、U.S. SenateはMcCarthyの上院委員会に対する行為とBrigadier General Ralph Zwickerへの対応を理由に正式な非難決議を可決しました。これによってMcCarthy個人の政治的影響力は急速に低下します。しかし、blacklist、忠誠審査、Lavender Scare、反共法制が同時に消えたわけではありません。

1947–1954年の赤狩りを理解するには、「共産主義の脅威はすべて虚構だった」あるいは「安全保障のためならすべて正当だった」という二つの単純化を避ける必要があります。実際のソ連諜報活動は存在しました。同時に、その脅威への対応はしばしば犯罪立証を超え、思想、発言、所属、性的指向、政治的反対意見を監視する制度へ拡張しました。冷戦国家が安全保障と市民的自由の境界をどこに置くのかという問題が、この時代の核心でした。

冷戦初期の安全保障不安

第二次世界大戦中、アメリカとソ連は対ドイツ戦で同盟国でしたが、戦争終結とともにヨーロッパの政治秩序、東欧、ドイツ、核兵器をめぐる対立が急速に深まりました。1947年Truman Doctrine、Marshall Plan、1948年Berlin Blockade、1949年NATOなどを通じてCold Warの陣営構造が形成されていきます。

1949年にはソ連が最初の原子爆弾実験に成功し、同年中華人民共和国が成立しました。1950年にはKorean Warが始まりました。多くのアメリカ人にとって共産主義は抽象的な思想ではなく、核兵器を持つ敵対国家、東アジア・ヨーロッパの地政学的変化と結びついた現実の安全保障問題でした。

この環境が国内政治の反共化を加速させます。しかし国際的対立が深刻だったことと、国内のあらゆる左派政治・労働運動・批判的言論をsecurity threatとみなすことは同じではありません。Red Scareはその二つをしばしば重ね合わせました。

McCarthy以前のRed Scare

「McCarthyism」という名称から、赤狩りが1950年にMcCarthyとともに始まったように見えることがあります。しかし連邦職員の忠誠審査、Attorney General’s List、HUACのHollywood investigation、共産党員へのSmith Act訴追はすべてMcCarthyの全国的台頭以前に始まっています。

National Archivesは、Attorney General’s List of Subversive Organizationsが1947年12月に公表され、Red Scareの中心制度の一つとなったことを記録しています。Trumanのloyalty programも同年3月に始まりました。

したがってMcCarthyismを広い意味で使う場合には、McCarthy本人の活動と、彼以前から存在した政府・議会・司法・民間雇用主による反共制度を区別する必要があります。

1947年 Executive Order 9835

1947年3月21日、Truman大統領はExecutive Order 9835を発しました。命令はExecutive Branchへ入るすべての新規civilian employeesにloyalty investigationを課し、各省庁に現職職員の忠誠を審査するloyalty boardsを設けました。

Truman Libraryに残る命令は、政府職員の圧倒的多数の忠誠は疑いないとしながらも、一人でもdisloyal personが存在すれば民主的制度への脅威となるという論理を示しています。同時に「根拠のない不忠誠告発」から忠実な職員を保護する必要も明記していました。

制度設計の理念には両方が含まれていましたが、実際の審査では秘密情報、所属団体、交友関係などが判断材料となり、被疑者が情報源へ十分反論できない問題が生じました。

Federal Employee Loyalty Program

各省庁のloyalty boardsは職員の記録を審査し、必要に応じてFBI調査を利用しました。審査対象はespionageやsabotageだけではなく、「totalitarian、fascist、communist、subversive」と指定された団体との関係などへ広がりました。

1951年、TrumanはExecutive Order 10241によって解雇・採用拒否基準を「忠誠に合理的疑いがある」場合へ変更しました。これにより、政府が犯罪や積極的なスパイ行為を証明することと、職員が政府職に適するほど忠実かを判断することの基準は明確に異なるものとなりました。

loyalty programはMcCarthyの委員会とは別制度です。McCarthyがまだ全国的に知られていない時点から、連邦雇用には政治的忠誠を評価する行政機構が存在していました。

Attorney General’s List of Subversive Organizations

Executive Order 9835はAttorney Generalが「totalitarian、fascist、communist、subversive」などと判断した組織情報をloyalty boardsへ提供する仕組みを持っていました。1947年12月、Attorney General Tom Clarkは最初の大規模なpublic listを発表しました。

National Archivesの研究によれば、このAttorney General’s List of Subversive Organizationsは、団体が指定前に十分なhearingを受ける手続きがなく、どの基準で各団体が分類されたのか不透明な部分もありました。

団体へのmembershipは自動的な解雇を意味すると政府は説明していませんでしたが、リスト掲載そのものが強い社会的stigmatizationを生みました。団体に所属した個人の雇用・評判にも大きな影響を与える可能性がありました。

HUACとは何だったのか

House Committee on Un-American Activities、HUACは1938年に特別委員会として始まり、1945年に常設のHouse committeeとなりました。Communist Partyだけでなく、さまざまな団体・個人の「subversive activities」を調査しました。

National Archivesのfinding aidによれば、初期recordsには労働組合員、Hollywood関係者、Alger Hissを含む政府職員などへの調査が含まれます。

HUACは裁判所ではなく議会委員会でした。刑事有罪を直接宣告する権限はありませんでしたが、subpoena、公開hearing、contempt of Congress referralを通じて強い政治的・社会的影響力を持ちました。

1947年 Hollywood hearings

1947年10月、HUACは映画産業における共産主義的影響を調査する公開hearingをWashingtonで開きました。映画studio executives、actors、writers、directorsなどが証言しました。

当時Screen Actors Guild presidentだったRonald Reaganも「friendly witness」として証言し、共産主義の組織的影響への懸念を述べました。一方でCommittee for the First Amendmentを作り、議会が思想を取り締まることへ反対するHollywood関係者もいました。

Hollywoodは巨大な大衆文化産業だったため、映画にcommunist propagandaが入り込むという議論は国家安全保障だけでなく、誰が物語と世論を作る権利を持つかという文化政治へ広がりました。

friendly witnessとunfriendly witness

HUAC hearingsでは、委員会の質問へ協力し共産党員・関係者について証言する人々がfriendly witnesses、回答を拒否・抵抗する人々がunfriendly witnessesと呼ばれることがありました。

証言者の中には自分の過去のCommunist Party membershipを認め、他人の名前を委員会へ提供した人もいました。逆に、思想・所属を議会が質問すること自体がFirst Amendmentに反すると主張する人もいました。

この構造は法廷の有罪・無罪とは違う社会的圧力を作りました。名前を挙げるかどうか、証言へ協力するかどうかが、映画産業で仕事を続けられるかに直接影響しました。

Hollywood Ten

1947年10月、十人のscreenwriters、directors、producersがHUACからCommunist Party membershipについて質問され、回答を拒否しました。Dalton Trumbo、Ring Lardner Jr.、John Howard Lawsonらが含まれ、後にHollywood Tenと呼ばれました。

彼らは主にFirst Amendmentを根拠に、議会が政治的信念・所属を問う権限に異議を唱えました。しかしHouseは彼らをcontempt of Congressとして処理し、裁判で有罪となりました。

National ArchivesはHollywood Tenの一人Ring Lardner Jr.が約10か月連邦刑務所で服役したことを記録しています。

Hollywood blacklist

1947年11月、主要映画studioのexecutivesはNew YorkのWaldorf-Astoria Hotelで会合し、Hollywood Tenを雇用しない方針を表明しました。blacklistは連邦法として制定された制度ではなく、民間企業が政治的リスクを避けるために行った雇用排除でした。

その後blacklistはHollywood Tenだけでなく、HUAC証言を拒否した人、過去に左派団体へ参加した人、名前を挙げることを拒んだ人へ広がりました。映画、radio、television業界にも影響しました。

一部のscreenwriterはpseudonymやfrontを使って仕事を続けました。blacklistは正式な裁判判決がなくても政治的疑惑によって生計を失わせる仕組みとなりました。

映画・radio・televisionへの影響

blacklistの影響は雇用だけではありません。studioやnetworkは反共批判を避けるため脚本・番組内容にも慎重になり、政治的主題を扱う際のself-censorshipが強まったと多くの研究で指摘されています。

一方、明確に反共主義を主題とする映画・television作品も制作されました。文化産業は国家から直接統制されたわけではありませんが、議会調査、advertiser、studio management、視聴者世論が作品選択へ影響しました。

Red Scareは「政府が映画を検閲した」という一文では捉えられません。public hearingとprivate employment decisionが連動し、制度外の政治的圧力を作った点が特徴です。

労働組合と反共政治

戦後反共政治は労働運動にも深く影響しました。1947年Taft-Hartley ActはNational Labor Relations Boardの手続きを利用するunion officersに、Communist Party memberではないことを宣誓するaffidavitを求めました。

Congress of Industrial Organizations、CIO内部でも反共派と左派unionの対立が強まり、1949–1950年には共産党の影響下にあるとされた複数unionが追放されました。

労働組合内部の共産党員・左派活動家が実際に存在したことと、労働者の賃金・公民権・平和運動まで一括して「communist influence」とみなすことは別問題でした。Red Scareは労働運動内部の政治勢力図を大きく変えました。

実在したソ連諜報活動

Red Scareを理解する際、実際のSoviet espionage networkを無視することはできません。National Archivesのdeclassified recordsは、Soviet intelligenceが第二次世界大戦期から政府機関、defense industry、atomic bomb projectへagentを持っていたことを示しています。

代表的な人物にはKlaus Fuchs、Harry Gold、David Greenglass、Julius Rosenbergなどがいます。彼らは原子力・軍事・産業情報をソ連へ渡したとされています。

この事実はcounterintelligenceの必要性を示します。しかし情報機関が具体的な証拠に基づいてespionageを捜査することと、広い政治的思想・交友を安全保障上の不忠誠とみなすことは区別しなければなりません。

Venonaと秘密情報

Venona projectはU.S. Army Signal Intelligence ServiceなどがSoviet diplomatic・intelligence messagesを解読した秘密programでした。解読は1940年代後半からFBI counterintelligenceへ重要な情報を提供しました。

Venona資料は当時publicには公開されず、多くの刑事裁判でも情報源保護のため直接証拠として使えませんでした。そのため政府が内部で把握していた情報と、国民・議会がpublic evidenceとして見られる情報には大きな差がありました。

1990年代以後にdeclassifyされたVenona資料は、複数のSoviet agentsの存在を確認する研究資料となりました。同時に、後世の史料を使って1950年代当時のすべての告発が正しかったと逆算することはできません。

Alger Hiss事件

Alger HissはNew Deal期に政府で働き、State Department高官を務め、San Francisco Conferenceにも参加した人物でした。1948年、元Communist underground memberのWhittaker ChambersはHUACで、Hissが1930年代に地下組織へ関与していたと告発しました。

Hissは当初Chambersとの関係を否定しましたが、後にChambersを別名で知っていたと認めました。ChambersはさらにState Department documentsを示し、議会と司法省の調査が進みました。

Hissはespionageでは起訴されませんでした。FBIの公式説明によれば、espionage offenseはstatute of limitationsが過ぎていたため、grand juryでChambersとの関係などについて虚偽証言をしたperjuryが訴追対象となりました。

Pumpkin Papersとperjury裁判

1948年末、Chambersは自宅農場に隠していたmicrofilmなどをHUACへ提出しました。microfilmがpumpkinの中に一時的に隠されていたことから「Pumpkin Papers」と呼ばれました。

documentsにはState Department資料やHissのhandwritingとされたnotesが含まれ、HissとChambersの関係をめぐる重要証拠となりました。

1949年の最初のperjury trialはhung juryでしたが、1950年1月の第二審でHissは二件のperjuryについて有罪となり、5年の刑を受けました。事件は、政府内部へのSoviet infiltrationという懸念へpublic credibilityを与える大きな政治事件となりました。

Smith Actと共産党指導者

Smith Actは1940年に成立し、政府をforce or violenceでoverthrowする必要性をadvocate・teachすることや、その目的の組織へ一定の形で関与することを犯罪化しました。

1948年、Communist Party USAのleadersがSmith Act違反のconspiracyで起訴され、1949年に十一人が有罪となりました。

事件の中心は実際の政府転覆行動ではなく、党の教義・教育・組織が将来のviolent overthrowをadvocateしているかでした。そのためFirst Amendmentの表現・結社の自由との関係が大きな争点となりました。

1951年 Dennis v. United States

Communist Party leadersは有罪判決を争い、1951年にDennis v. United Statesとして連邦最高裁が判断しました。

最高裁多数はSmith Actの適用を維持し、政府のviolent overthrowを組織的にadvocateするconspiracyが十分重大なdangerを生むと判断しました。

判決はCold War初期のsecurity concernを背景に表現の自由へ広い制限を認めた重要事例です。後の1950年代後半から1960年代にかけ、最高裁はsubversive speechをめぐる基準をより限定的にしていきます。

1950年 McCarran Internal Security Act

1950年9月、CongressはInternal Security Act、一般にMcCarran Actと呼ばれる法律を成立させました。Communist-action organizationsなどへregistration requirementsを課し、非常時に特定人物を拘束する制度などを含む広範な法律でした。

Trumanは法案をvetoし、Justice Department、Defense Department、CIA、State Departmentからもsecurity・intelligence活動を損ねるという助言を受けたと説明しました。Trumanは法案がcivil libertiesを弱めるとも批判しました。

しかしCongressは翌日vetoをoverrideし法律を成立させました。この経緯は、反共法制が単純に「Truman政権の政策」ではなく、Executive BranchとCongressの間にも強い対立があったことを示します。

Rosenberg事件

1949年のSoviet atomic bomb test後、原子力情報がどのようにソ連へ渡ったのかは国家的関心となりました。British physicist Klaus Fuchsのconfessionを端緒にHarry Gold、David Greenglassらが逮捕され、捜査はJulius Rosenbergへつながりました。

Julius Rosenbergと妻Ethel RosenbergはMorton Sobellらとともにconspiracy to commit espionageで起訴されました。1951年3月に有罪となり、JuliusとEthelはdeath sentenceを受けました。

1953年6月19日、二人はSing Sing Prisonで処刑されました。死刑の妥当性、証拠評価、trialの政治環境をめぐって国内外で大きな抗議と論争が起こりました。

Julius・Ethelをどう区別するか

後に公開されたVenona messagesやSoviet recordsは、Julius RosenbergがSoviet espionage networkへ積極的に関与していたことを強く裏づける資料となりました。

Ethel Rosenbergについては、裁判での役割と後に明らかになった実際の関与の程度を区別して議論する必要があります。彼女がJuliusの活動を知っていた可能性と、Juliusと同等のoperational roleを果たしたかは同じ問題ではありません。

National Archivesが公開したgrand jury transcriptsは、Rosenberg trialの証言形成やDavid・Ruth Greenglassの証言を再検討する重要資料となっています。Rosenberg事件は「完全な冤罪」か「すべて裁判通り」かという二択ではなく、個人ごとの証拠と刑罰の比例性を分けて見る必要があります。

Korean Warと反共世論

1950年6月、North Korea軍が38th parallelを越えてSouth Koreaへ侵攻し、Korean Warが始まりました。アメリカ軍はUnited Nations commandの中心として参戦しました。

中国人民志願軍の参戦によって戦争はさらに長期化し、Cold WarがEuropeだけでなく実際の大規模戦争になることへの不安が高まりました。

McCarthyが全国的注目を集めた直後にKorean Warが始まったことは、国内反共政治を強める環境となりました。政府内部の共産主義者という告発が、海外での軍事的後退や政策失敗の説明として使われやすくなりました。

1950年 McCarthyの台頭

1950年2月9日、Joseph R. McCarthy上院議員はWheeling, West Virginiaで演説し、State Departmentに多数のCommunistsが残っていると主張しました。U.S. Senate Historical Officeによれば、彼は205人の名前を持っていると述べたとされています。

その後McCarthyが示す人数や分類は一定せず、証拠の提示方法にも問題がありました。Senateの特別subcommitteeは彼の主要な告発を裏付けず、後にSenate Historical Officeは当時の調査がMcCarthyのchargesを「fraud and hoax」と退けたと説明しています。

それでもHiss事件、Soviet atomic bomb、中国革命、Korean Warなどの出来事が彼の政治的messageを受け入れやすくしました。

「リスト」の人数と証拠

McCarthyの最も有名なpolitical techniqueの一つが、「listを持っている」と主張して多数の人物へ疑念を向ける方法でした。Wheeling speechでは205人とされた一方、その後のspeechやSenateで別の数字が使われました。

告発には過去のFBI・State Department loyalty files、新聞報道、匿名情報などが混在し、すでに政府を離れた人物や調査済みのcasesが含まれることもありました。

このため個々のcaseを検証する前に、「多数のcommunistsが政府内にいる」という印象がpublic discourseを支配しました。数字の大きさそのものがpolitical effectを持つ手法でした。

Margaret Chase Smithの批判

1950年6月1日、Maine州の共和党上院議員Margaret Chase SmithはSenateでDeclaration of Conscienceを行い、McCarthyの名前を直接挙げずに、恐怖、人格攻撃、根拠の弱い告発が議会政治を損なっていると批判しました。

Senate Historical Officeによれば、Smith自身もcommunist subversionへの懸念は共有していました。しかしMcCarthyに証拠を見せるよう求め、その資料が告発を十分支えないと判断したことがspeechの背景でした。

これはRed Scareを批判することと、Soviet espionageの存在を否定することが同じではなかったことを示す重要な例です。

McCarthyismという政治手法

McCarthyismという言葉は、狭義にはJoseph McCarthy本人の活動を指します。広義には、十分な証拠を示さず「共産主義者」「subversive」と公に告発し、雇用・評判・政治生命へ損害を与える手法を指すようになりました。

この政治手法では、犯罪行為そのものよりassociation、membership、過去のsignature、会議参加、知人関係が疑惑の材料になりました。本人が質問へ答えないことも「隠している」証拠のように扱われる場合がありました。

一方、Fifth Amendmentを用いてself-incriminationを避ける証人も増えました。これは法的権利の行使でしたが、publicには罪を認めたかのように扱われ、blacklistにつながることもありました。

Lavender Scare

Red Scareと並行して、連邦政府はgay men、lesbiansなどをsecurity riskとして排除しました。後世Lavender Scareと呼ばれるこの政策は、1940年代末から本格化しました。

National Archivesによれば、数千人のgay federal employeesがsexualityを理由に解雇またはresignを強いられました。同性愛そのものをespionage crimeと結びつける証拠ではなく、「blackmailされやすい」「道徳的に不適格」という偏見がsecurity logicとして使われました。

Lavender ScareはMcCarthyismの周辺的な逸話ではありません。State Departmentやcivil serviceのsecurity reviewに制度的に組み込まれ、1970年代まで長く影響しました。

1953年 Executive Order 10450

1953年4月27日、Eisenhower大統領はExecutive Order 10450を発し、政府雇用におけるsecurity requirementsを再編しました。各省庁は職員の雇用継続がnational securityに明確に一致するかを判断する責任を持ちました。

National Archivesに残る原文は、security concernとなり得る行為としてdishonesty、immorality、excessive drunkenness、drug addictionなどと並び、当時の表現で「sexual perversion」を列挙していました。

このorderはTrumanのExecutive Order 9835を置き換え、loyaltyからsecurityへ用語と制度を再編しましたが、実際には同性愛者排除を制度化する中心文書となりました。

大学・教育・研究への影響

反共政治は大学にも及びました。教員の政治所属、guest speakers、学生組織、research fundingが問題となり、一部州では教員へloyalty oathを要求しました。

大学側はacademic freedomを守る必要と、議会・donor・州政府からの反共pressureの間で対応を迫られました。communist membershipを理由にdismissalされたfacultyもいました。

同時に、Cold Warは大学への連邦研究費を増大させ、physics、engineering、area studies、language educationなどを拡大させました。知的自由への圧力と国家支援の拡大が同じ時期に進んだ点が戦後大学の特徴です。

State Departmentと外交官

State DepartmentはMcCarthyの主要な標的でした。第二次世界大戦後のChina policy、Yalta、Eastern Europeなど外交上の結果を「内部のbetrayal」で説明するpolitical rhetoricが広がり、外交官の判断・過去の人間関係が強く調査されました。

China specialistのcareer officersなどがloyalty/security investigationsで職を離れ、外交機関内部で政治的に敏感な分析を書くことへの萎縮効果があったと指摘されています。

またState DepartmentはLavender Scareの主要な場でもありました。反共securityとsexuality investigationが同じ「信頼性」の枠組みに組み込まれました。

1953年 McCarthy委員会

1953年、共和党がSenate majorityとなるとMcCarthyはCommittee on Government OperationsのPermanent Subcommittee on Investigations chairとなりました。これによって彼はformal subpoena powerとstaffを持つ強い調査positionを得ました。

1953年から1954年初頭にかけてpress、State Department、Voice of America、海外information libraries、Government Printing Office、Army Signal Corpsなどを対象にhearingを行いました。

Senate Historical Officeによれば、closed executive sessionsだけでも395人のwitnessesがquestionされました。public hearingだけでは見えない規模の調査が進んでいました。

Armyとの対立

McCarthyのstaffはArmy Signal Corps施設Fort Monmouthなどでsecurity riskが存在すると主張し、Army officialsを厳しく追及しました。

一方Army側は、McCarthyのchief counsel Roy Cohnらが元staff member G. David Schineの軍務にspecial treatmentを求めたと主張しました。McCarthy側はArmyが彼のinvestigationを止めるためこのchargeを利用したと反論しました。

互いのchargesを調査するため、1954年にMcCarthy自身が一時委員長席を離れ、Army–McCarthy hearingsが始まりました。

1954年 Army–McCarthy hearings

Army–McCarthy hearingsは1954年4月22日から6月17日にかけて行われ、Senate subcommitteeがArmy officialsとMcCarthy staff双方のchargesを調査しました。

hearingは全国televisionで中継され、McCarthy、Roy Cohn、Army counsel Joseph Welchらのやり取りが家庭へ直接届きました。これまで新聞記事やradio soundbiteでMcCarthyを知っていた国民が、長時間の尋問styleを見ることになりました。

Senate Historical Officeは、このtelevised hearingsがMcCarthyのnational popularity低下に寄与したと説明しています。

テレビと政治spectacle

1950年代初頭、televisionは急速に家庭へ普及していました。Army–McCarthy hearingsはテレビがCongressional politicsを全国的なlive spectacleへ変える初期の重要例の一つです。

cameraはspeechの要約だけでなく、interruptions、表情、尋問態度、staffとのやり取りを映しました。McCarthyが政治的に使ってきたpublic accusationの手法が、同じmass mediaによって逆に彼自身の行動を詳細に見せることになりました。

政治のtelevision化はMcCarthyだけの問題ではなく、その後のpresidential campaign、Congressional hearing、公民権運動にも大きな影響を与えます。

Joseph Welchと公開尋問

Army counsel Joseph Welchはhearings中、McCarthyがWelchのlaw firmに所属する若いlawyer Fred Fisherの過去のNational Lawyers Guild membershipを持ち出したことへ強く反発しました。

1954年6月9日のやり取りは「Have you no sense of decency?」というWelchの発言で広く記憶されています。Senate Historical OfficeもMcCarthy史の重要なhistorical minuteとしてこの場面を取り上げています。

ただしMcCarthyの失速をこの一言だけで説明するのは単純化です。Armyとの対立、television coverage、Senate内の長年の反発、証拠に対する疑問が重なっていました。

1954年 上院非難決議

Army–McCarthy hearings後、SenateはMcCarthyのconductを調査するselect committeeを設置しました。46項目のchargesが整理され、最終的に二つの主要カテゴリーについてcensureがrecommendされました。

1954年12月2日、SenateはMcCarthyを正式にcondemnしました。Senate Historical Officeによれば、一つは過去のSenate subcommittee調査への非協力、もう一つはBrigadier General Ralph W. Zwickerへの扱いをめぐるものでした。

censureはMcCarthyをSenateから除名するものではありませんでしたが、政治的影響力は大きく低下しました。彼は1957年に死去するまでSenatorを続けました。

McCarthy失速後も残った制度

1954年のcensureでMcCarthy個人の時代は終わりに向かいましたが、Red Scareの制度はすぐには消えませんでした。Executive Order 10450、security clearance制度、Hollywood blacklist、州loyalty lawsなどはその後も続きました。

Hollywood blacklistは1960年代初頭まで大きな影響を持ち、Dalton Trumboの実名credit復帰などを通じて徐々に崩れていきました。

Lavender Scareもさらに長く続き、National ArchivesによればCivil Service Commissionが同性愛を理由とする一律排除を終えるのは1975年、State Departmentでのban終了は1977年でした。

安全保障と市民的自由

1947–1954年の中心問題は、国家が現実のespionage threatへどう対応するかと、思想・結社・表現・privacyの自由をどこまで守るかの境界でした。

loyalty hearingやCongressional investigationでは、刑事裁判ほど厳格なevidence ruleやdue processがない場合がありました。匿名informantの情報、association、refusal to answerが職業上の重大な結果につながることもありました。

一方、実際のSoviet espionage casesも存在しました。この両方を同時に見ることで、Red Scareを「完全な妄想」あるいは「必要なsecurity measure」と一括せず、制度ごとに証拠・目的・手続き・結果を評価できます。

1947–1954年に何が変わったのか

第一に、Cold War securityが外交・軍事だけでなくfederal employmentへ組み込まれました。Executive Order 9835と10450は、政府職員の思想・行動・私生活をnational securityの観点から評価する行政制度を作りました。

第二に、Congressional investigationがmass mediaと結びつき、公開告発そのものが政治的制裁になりました。HUACとMcCarthy hearingsでは、刑事有罪判決がなくても証言・拒否・associationがcareerへ直結しました。

第三に、Hollywood blacklistに代表されるように、政府調査とprivate employer decisionが連動しました。国家が直接法律でemployment banを命じなくても、public accusationが実質的な職業排除を生みました。

第四に、実在したSoviet espionageは反共政治へ強い説得力を与えました。Hiss、Fuchs、Rosenberg networkなどの事件は、政府内部浸透への懸念が完全な創作ではなかったことを示します。

第五に、その一方でsecurity categoryが拡張され、Communist Party membershipだけでなく、左派団体との関係、証言拒否、sexual orientationなどが国家への信頼性判断へ組み込まれました。

第六に、McCarthy本人はRed Scareの始点ではありませんでしたが、証拠の不確かな公開告発をpolitical weaponとして最大化しました。McCarthyismという言葉が彼の名を超えて一般語になった理由はこの手法にあります。

第七に、televisionが政治権力を変えました。Army–McCarthy hearingsは、議員がmediaを利用するだけでなく、長時間のlive coverageが政治家自身をpublic scrutinyへさらすことを示しました。

1954年にMcCarthyはcensureされましたが、安全保障国家と市民的自由の緊張はその後も続きます。Vietnam War、civil rights movement、antiwar movement、FBI surveillanceをめぐる1960年代の問題にも、この時期に作られた制度と政治文化がつながっていきます。

1947–1954年の主な出来事

  • 1947年3月21日 — TrumanがExecutive Order 9835を発し、Federal Employee Loyalty Programを制度化。
  • 1947年 — HUACがHollywoodにおける共産主義の影響を本格調査。
  • 1947年10月 — Hollywood hearings。後のHollywood Tenが証言を拒否。
  • 1947年11月 — 映画studio executivesがHollywood Tenを雇用しない方針を表明し、blacklistが形成される。
  • 1947年12月 — Attorney General’s List of Subversive Organizationsが公表。
  • 1948年 — Whittaker ChambersがHUACでAlger Hissを告発。
  • 1948年12月 — Hissがperjuryで起訴される。
  • 1949年 — Communist Party USAの主要指導者がSmith Act違反で有罪。
  • 1949年8月 — ソ連が最初の原子爆弾実験に成功。
  • 1949年10月 — 中華人民共和国成立。
  • 1950年1月21日 — Alger Hissが二件のperjuryで有罪。
  • 1950年2月9日 — Joseph McCarthyがWheeling speechでState DepartmentへのCommunist infiltrationを主張。
  • 1950年6月1日 — Margaret Chase SmithがDeclaration of Conscienceを行い、根拠の弱い告発政治を批判。
  • 1950年6月 — Korean War開始。
  • 1950年9月 — CongressがTrumanのvetoを覆しMcCarran Internal Security Actを成立。
  • 1950年 — 連邦政府でLavender Scareが拡大し、同性愛者をsecurity riskとする調査が強まる。
  • 1951年3月29日 — Julius and Ethel Rosenbergがconspiracy to commit espionageで有罪。
  • 1951年6月4日 — Dennis v. United Statesで最高裁がSmith Actによる共産党指導者の有罪を維持。
  • 1951年 — TrumanがExecutive Order 10241でloyalty adjudication基準を変更。
  • 1953年1月 — McCarthyがSenate Permanent Subcommittee on Investigationsのchairmanとなる。
  • 1953年4月27日 — EisenhowerがExecutive Order 10450を発し、government employment security programを再編。
  • 1953年6月19日 — Julius and Ethel Rosenbergが処刑される。
  • 1953–1954年 — McCarthy委員会が政府機関、press、Voice of America、Armyなどを調査。
  • 1954年4月22日–6月17日 — Army–McCarthy hearingsが全国television中継。
  • 1954年6月9日 — Army counsel Joseph WelchとMcCarthyの有名な公開対立。
  • 1954年12月2日 — U.S. SenateがJoseph McCarthyを正式にcondemn。

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赤狩りとMcCarthyismは、戦後アメリカの「豊かな郊外社会」と同じ時期に進行しました。1950年代のテレビ、住宅、自動車、大量消費という安定したイメージの背後で、Cold Warとnuclear warへの恐怖、政治的忠誠審査、civil defenseが日常生活に入り込んでいました。

次のアメリカ史をさらに補うなら、国内史としては1950–1963|アメリカ|冷戦社会と核の恐怖 — 朝鮮戦争、Civil Defense、Fallout Shelter、Cuban Missile Crisisを独立記事にすると、郊外化・Red Scareとつながりながら、なぜ1950年代のアメリカ文化にnuclear anxietyが深く入り込んだのかを整理できます。

もう一つの大きな軸はVietnam Warです。1964年以後の戦争拡大、徴兵、television報道、学生反戦運動、Pentagon Papersを「アメリカ国内社会の戦争」として独立記事にすることで、1960年代後半のBlack Power、学生運動、女性運動とも同じ時間軸に置けます。

参考資料・出典

本ページは、Harry S. Truman Presidential Library & Museum、U.S. National Archives and Records Administration、U.S. Senate Historical Office、U.S. House of Representatives History, Art & Archives、Library of Congress、Federal Bureau of Investigationなどの公的資料・一次史料アーカイブを中心に参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。実在したSoviet espionageと、思想・所属・性的指向まで広がったloyalty/security investigationsを区別し、Alger Hissは法的にはperjury conviction、Rosenberg事件はJuliusとEthelの証拠関係を同一視しないよう記述しました。

資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY