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World History

1600–1700

商業帝国と17世紀の危機

東インド会社、清、徳川、ムガル、戦争、奴隷貿易

17世紀は、世界各地で国家、商業、戦争、環境が大きく組み替えられた一世紀でした。1600年にイングランド東インド会社、1602年にオランダ東インド会社(VOC)が成立し、ヨーロッパの特許会社がインド洋・東南アジア交易へ本格的に参入しました。しかし彼らが進出したアジアには、ムガル帝国、サファヴィー朝、オスマン帝国、明・清、中国沿岸商人、徳川日本、アユタヤ、マタラム、アチェなど強力な国家と商業圏がすでに存在していました。

東アジアでは、1600年の関ヶ原の戦いを経て徳川政権が成立し、日本列島の長期的な政治秩序が再編されました。中国では17世紀前半に明朝が財政難、農民反乱、旱魃、疫病、北方軍事圧力に直面し、1644年に北京が陥落します。その後、満洲で力を伸ばしていた清朝が中国内地へ進出し、数十年にわたる戦争を経て支配を確立しました。朝鮮では朝鮮王朝が後金・清との戦争を経験し、東アジアの外交秩序そのものが変化しました。

南アジアではムガル帝国がジャハーンギール、シャー・ジャハーン、アウラングゼーブの時代に巨大な領域国家へ発展しました。イランではシャー・アッバース1世がイスファハーンを中心にサファヴィー国家を再編し、オスマン帝国も地中海、黒海、バルカン、西アジアにまたがる大帝国として存続しました。

ヨーロッパでは1618年から1648年まで三十年戦争が続き、神聖ローマ帝国を中心に広大な地域が戦争、徴発、飢饉、疫病に襲われました。イングランドでは1640年代に内戦が始まり、1649年には国王チャールズ1世が処刑されました。同じ1640年代、中国では明朝が崩壊し、イベリア半島ではポルトガルがスペイン王権から独立しました。この同時性から、歴史家は「17世紀の一般的危機」あるいは「グローバル・クライシス」を論じてきました。

気候変動もこの議論の重要な要素です。いわゆる小氷期の中でも17世紀には寒冷化と極端な気象が各地で記録され、1640年代は特に厳しい時期の一つでした。中国北部では1620年代末から1640年代初頭に深刻な旱魃が続き、オスマン領でも乾燥と寒冷化が農業・租税・人口移動に影響しました。ただし気候が王朝崩壊や戦争を直接「引き起こした」と単純化することはできません。

17世紀はまた、大西洋奴隷貿易が16世紀とは比較にならない規模へ拡大した時代でした。カリブ海とブラジルで砂糖プランテーションが成長し、西・中央アフリカから多数の人々が捕らえられ、大西洋を越えて強制移送されました。同時に中央・西アフリカではンドンゴ・マタンバ、コンゴ、ルバ、ルンダ、クバ、オヨ、アカン諸国などが独自の国家形成を進めました。アフリカを奴隷供給地だけとして見ることは、この世紀の歴史を大きく歪めます。

北アメリカではイングランド、フランス、オランダ、スペインの植民拠点が増えましたが、そこは「無人の新世界」ではありませんでした。ポウハタン連合、ワンパノアグ、ナラガンセット、プエブロ諸社会、イロコイ連邦をはじめ多数の先住民社会が政治・交易・戦争の主体として存在しました。1675年以後のメタコム戦争や1680年のプエブロ反乱は、植民地拡大に対する先住民側の大規模な抵抗でした。

したがって1600–1700年を「ヨーロッパが世界を支配し始めた一世紀」とだけ見ることはできません。ヨーロッパの海上商業国家は勢力を拡大しましたが、アジアの巨大帝国と在地商人は依然として強く、ヨーロッパ企業は多くの地域で現地権力との交渉なしに活動できませんでした。17世紀末の世界は、複数の帝国、商業会社、都市、農村社会、先住民国家が衝突し、協力し、交易しながらつながる、多中心的な世界でした。

CONTENTS

  1. 17世紀を「危機の世紀」と呼べるか
  2. 小氷期、寒冷化、旱魃
  3. 疫病と17世紀社会
  4. 1600年 イングランド東インド会社
  5. 1602年 オランダ東インド会社
  6. 1619年 バタヴィア
  7. 1621年 バンダ諸島と香辛料独占
  8. 特許会社と既存のインド洋
  9. 1600年 関ヶ原と徳川政権
  10. 1603年 江戸幕府
  11. 1637–1638年 島原・天草一揆
  12. 「鎖国」と海上統制
  13. 長崎、出島、東アジア交易
  14. 朝鮮王朝と後金・清
  15. 明朝末期の危機
  16. 銀と明朝崩壊をどう考えるか
  17. 1644年と清朝の中国進出
  18. 鄭成功と台湾
  19. 康熙帝と清朝の統合
  20. サファヴィー朝とイスファハーン
  21. 17世紀のオスマン帝国
  22. ジェラーリー反乱と環境危機
  23. 1683年 第二次ウィーン包囲
  24. 17世紀ムガル帝国
  25. アウラングゼーブとデカン
  26. シヴァージーとマラーター
  27. 東南アジアの再編
  28. アユタヤと国際交易
  29. マタラムとジャワ
  30. 1618–1648年 三十年戦争
  31. 1648年 ウェストファリア条約
  32. イングランド内戦と革命
  33. 知識、観測、科学の制度化
  34. 17世紀アフリカをどう見るか
  35. ンジンガとンドンゴ・マタンバ
  36. コンゴ王国
  37. ルバ、ルンダ、クバ
  38. 西アフリカの国家再編
  39. 大西洋奴隷貿易の急拡大
  40. 砂糖プランテーション
  41. パルマーレスと逃亡奴隷共同体
  42. 1607年 ジェームズタウンとポウハタン
  43. ヌーヴェルフランスと毛皮交易
  44. ニューネーデルラント
  45. 1675–1676年 メタコム戦争
  46. 1680年 プエブロ反乱
  47. スペイン領アメリカ
  48. ブラジルとカリブ海
  49. オランダ西インド会社と大西洋
  50. 1652年 ケープ植民地とコイコイ社会
  51. エチオピアとゴンダール
  52. ロシアのシベリア進出と清
  53. オセアニアとオーストラリア先住民社会
  54. 商業会社、銀、砂糖、奴隷
  55. 1600–1700年に何が変わったのか
  56. 1600–1700年の主な出来事
  57. 次の時代へ — 18世紀の帝国競争
  58. 参考資料・出典

17世紀を「危機の世紀」と呼べるか

17世紀の中頃には、中国、ヨーロッパ、オスマン領、南アジア、東南アジア、アメリカ大陸の一部で、戦争、反乱、飢饉、疫病、人口移動が重なりました。とくに1630〜1650年代には、明朝崩壊、三十年戦争、イングランド内戦、ポルトガル独立、カタルーニャ反乱、フランスのフロンドなどが集中しています。この同時性から、20世紀以降の歴史学では「17世紀の一般的危機」という概念が議論されてきました。

しかし、世界全体が同じ原因で同じ危機を経験したわけではありません。徳川日本は17世紀を通じて長期的な政治安定へ向かい、清朝も1644年以後には領域を拡張しました。ムガル帝国は世紀後半に最大級の版図を持ち、オランダ共和国では商業・金融が成長しました。ある地域の危機が別地域では国家形成や商業拡大の条件となることもありました。

したがって「17世紀の危機」は答えではなく、比較のための問いとして使う方が適切です。気候、人口、国家財政、軍事技術、交易、疫病、反乱がどの地域でどのように重なったのかを個別に確認する必要があります。

小氷期、寒冷化、旱魃

17世紀は一般に「小氷期」と呼ばれる長期的な寒冷期の一部にあたり、北半球各地で厳冬、短い生育期、旱魃、異常降水などが記録されています。とくに1640年代は寒冷な年が集中した時期として研究され、農作物不足、価格上昇、人口移動と政治不安の背景の一つになったと考えられています。

中国北部では1627年から1643年頃まで深刻な旱魃が繰り返されました。近年の気候復元研究は、明末に東アジア夏季モンスーンが弱まり、中国南北に広い乾燥傾向が現れたことを示しています。一方、中国東北部では相対的に湿潤な条件が続いたという研究もあり、環境条件の地域差が明と満洲勢力に異なる影響を与えた可能性が論じられています。

ただし、気候変動を「明朝を滅ぼした原因」「三十年戦争を起こした原因」と直接結びつけるべきではありません。同じ異常気象でも、備蓄、租税、土地制度、輸送、軍事負担、地方政治によって被害は大きく異なりました。自然条件と社会制度が重なることで危機が深刻化したと考える必要があります。

疫病と17世紀社会

17世紀の危機を考える際、戦争と飢饉だけでなく疫病も重要です。ペストは14世紀の黒死病後もユーラシア各地から消えておらず、17世紀にも都市・港湾・軍隊の移動に沿って繰り返し流行しました。1665年のロンドン大疫病は著名ですが、イングランドだけの現象ではなく、オスマン領、地中海、中国などでも深刻な流行が記録されています。

中国では明末から清初にかけて複数の感染症が発生し、戦争、旱魃、人口移動と重なりました。どの記録がペストや天然痘など特定の病原体を示すかは史料上必ずしも明確ではなく、近代医学の病名を中世・近世記録へそのまま当てはめることには注意が必要です。比較研究では、同じ時期にイングランドと中国が大規模な疫病を経験したことが指摘されていますが、流行の時期・経路・社会的影響は一致していません。

疫病の被害は病原体だけで決まりません。栄養状態、住宅密度、軍隊の移動、都市衛生、食料供給、避難能力、行政対応などが死亡率を左右しました。17世紀の人口危機を気候や疫病の単一原因へ還元せず、戦争と社会制度が人々の脆弱性をどのように増幅したかを見る必要があります。

1600年 イングランド東インド会社

1600年12月31日、イングランド王エリザベス1世はロンドン商人の会社に東方交易の特許を与えました。後にイングランド東インド会社、さらにイギリス東インド会社として知られる組織です。イギリス図書館には1600年と1609年の特許状関係資料が保存されています。

17世紀初頭の東インド会社は、後のようにインド亜大陸を広大に支配する領域権力ではありませんでした。ムガル帝国や東南アジア諸国の許可を得ながら、スラト、マドラスなどに商館と拠点を形成し、綿織物、胡椒、香辛料などを扱いました。

会社は王権から独占的な交易権を得た私企業でしたが、船舶、要塞、武装兵を持ち、外交と戦争にも関わりました。民間会社と国家権力の境界が曖昧なことが、17世紀の特許会社の重要な特徴です。

1602年 オランダ東インド会社

1602年3月、ネーデルラント連邦議会は複数の東方貿易会社を統合し、オランダ東インド会社、VOCを成立させました。特許は喜望峰以東からマゼラン海峡以西の地域でオランダ側の独占交易を認め、会社には条約締結、要塞建設、軍事行動など大きな権限が与えられました。

VOCは株主資本を継続的に運用する大規模会社として組織され、アムステルダム、ゼーラントなど複数の支部を持ちました。国家と商人資本を結びつけ、17世紀最大級の海上商業組織へ成長します。

しかしVOCの成功は市場競争だけによって実現したものではありません。要塞、封鎖、海戦、現地支配者との条約、強制栽培、住民追放など軍事的・政治的手段を用いて香辛料供給を管理しました。会社史は金融史であると同時に植民地暴力の歴史でもあります。

1619年 バタヴィア

1619年、VOC総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンはジャワ島西部のジャヤカルタを破壊し、その地にバタヴィアを建設しました。現在のジャカルタです。バタヴィアはVOCのアジア本部となり、東南アジア、インド、中国、日本、ペルシア、ヨーロッパを結ぶ交易の管理拠点となりました。

都市にはオランダ人だけでなく、中国系商人、ジャワ人、マレー人、バリ人、南アジア人、マルディカと呼ばれる解放奴隷、奴隷として連行された人々など、多様な住民が暮らしました。VOC都市はヨーロッパ人だけの植民地都市ではなく、強制移住と商業移動が重なる多民族社会でした。

バタヴィアの成長は周辺のジャワ政治とも深く関係しました。VOCはマタラム王国、バンテンなど在地勢力と戦争・交渉を繰り返し、港湾と交易ルートを確保しました。

1621年 バンダ諸島と香辛料独占

モルッカ諸島南部のバンダ諸島は、当時世界の主要なナツメグとメースの産地でした。VOCは供給独占を求め、住民にオランダとの排他的取引を要求しましたが、バンダ側商人はアジア各地の商人との交易を続けました。

1621年、クーン率いるVOC軍はバンダ諸島を制圧し、住民を大量に殺害、追放、奴隷化しました。人口の大部分が失われた後、土地はオランダ人管理者の農園へ再編され、外部から連行された奴隷労働者によってナツメグが栽培されました。

この事件は、VOCの香辛料独占が単なる効率的な商業経営ではなく、供給量を制限して価格を維持するための領域支配と暴力を伴ったことを示します。

特許会社と既存のインド洋

VOCと東インド会社は17世紀に海上交易で重要な存在となりましたが、インド洋全体を独占したわけではありません。グジャラート、コロマンデル、ベンガル、アラビア、ペルシア、アルメニア、中国、マレー、ジャワなどの商人は広域交易を継続しました。

ヨーロッパ会社が特に欲したのはアジアの商品でした。胡椒、香辛料だけでなく、17世紀後半にはインド綿織物の重要性が急増します。アジア内部の交易利益によって、会社はヨーロッパへの輸出だけでなく、インドから東南アジア、日本から東南アジアといった地域間交易を行いました。

したがって17世紀商業の変化は「ヨーロッパがアジア貿易を奪った」と一行で説明できません。むしろ既存の海域市場へ武装特許会社が入り込み、特定の商品・港湾で強い支配力を獲得していった過程でした。

1600年 関ヶ原と徳川政権

1598年の豊臣秀吉死後、日本では豊臣政権内部の権力関係が不安定化しました。1600年の関ヶ原の戦いで徳川家康側が勝利し、多数の大名領が再配置されました。

関ヶ原を「一戦で近世日本が完成した」と見ることはできません。豊臣家は大坂に残り、徳川家は大名との婚姻・領地配置・軍役関係を通じて支配を固めました。1614–1615年の大坂の陣で豊臣家が滅亡し、徳川政権の優位が決定的になります。

戦国期に成長した城下町、商品流通、検地、兵農分離なども徳川政権に受け継がれました。17世紀の安定は突然生まれたのではなく、16世紀後半の統一過程を再編したものでした。

1603年 江戸幕府

1603年、徳川家康は征夷大将軍に任じられ、江戸を中心とする武家政権を制度化しました。京都には天皇・公家社会が存続し、大坂は経済都市として発展し、全国には大名領が並立しました。

後世「幕藩体制」と呼ばれるこの秩序では、将軍が全国を単一の官僚機構で直接統治したわけではありません。大名は自領で行政・徴税を行いながら、徳川家との主従関係に組み込まれました。17世紀中頃には参勤交代などを通じて大名統制が制度化されます。

長期的な内戦終結は人口増加、農地開発、街道整備、都市成長を促しました。江戸、大坂、京都など巨大都市が発達し、国内市場の統合が進みました。

1637–1638年 島原・天草一揆

1637年、九州の島原半島と天草で大規模な一揆が起こりました。重い年貢負担、飢饉、領主支配への不満に加え、この地域に多かったキリスト教徒への弾圧が背景にありました。

参加者は農民だけではなく、浪人、漁民、町人などを含みました。原城に立てこもった反乱側を幕府軍が包囲し、1638年に鎮圧しました。多数の死者を出した大規模な内戦でした。

この一揆後、幕府はキリスト教禁制と海外関係の管理をさらに強化しました。ただし、日本がこの時点で海外との関係を完全に断絶したわけではありません。

「鎖国」と海上統制

江戸時代前半の対外政策は長く「鎖国」と呼ばれてきましたが、この語は当時の幕府が公式な国家名称として用いたものではなく、18世紀末以後に定着した表現です。17世紀の政策実態は、海外渡航と交易相手・港湾を幕府が厳格に管理する体制でした。

1630年代には日本人の海外渡航・帰国が制限され、ポルトガル船は1639年に来航を禁止されました。一方、オランダ、中国商人は長崎で交易を続け、朝鮮とは対馬藩を介して外交・貿易があり、琉球王国は薩摩と中国の双方につながり、松前藩はアイヌ社会との交易を行いました。

したがって日本は「閉じた国」ではありませんでした。複数の窓口を幕府・諸藩が統制し、東アジア海域の人・物・情報を選択的に取り入れる体制だったと理解する方が実態に近いです。

長崎、出島、東アジア交易

長崎は17世紀の日本における主要な国際港でした。ポルトガル人退去後、1641年にオランダ商館が平戸から出島へ移され、中国商人も長崎交易を継続しました。

日本からは銀、銅、海産物などが輸出され、中国産絹、薬品、書籍、東南アジア産品などが輸入されました。17世紀中頃まで日本銀は東アジア市場で重要で、中国への銀流入にも関わりました。幕府は銀・銅流出を制限するため輸出管理を強めます。

オランダ商館を通じてヨーロッパ情報も流入しましたが、交易の大部分はアジア商品との交換でした。長崎を「西洋との唯一の窓」とだけ見ると、中国商人と東アジア交易の比重を過小評価します。

朝鮮王朝と後金・清

朝鮮王朝は1592–1598年の日本軍侵攻による深刻な被害から17世紀初頭に復興を進めました。しかし北方では女真諸集団を統合したヌルハチが後金を建国し、明朝と戦争を始めます。

朝鮮は伝統的に明との外交関係を重視していましたが、1627年に後金軍、1636年には清軍の侵攻を受けました。1637年、朝鮮は清への服属関係を受け入れざるを得なくなります。

清に従属した後も朝鮮の知識人の一部には明への文化的・政治的忠誠意識が長く残りました。一方で清との使節往来を通じて中国の書籍、物品、情報が流入し、東アジア関係は新しい形へ再編されました。

明朝末期の危機

明朝末期には複数の問題が重なりました。北辺では後金・満洲勢力との戦争が続き、軍事費が増大しました。国内では官僚派閥争い、徴税負担、地方行政の弱体化が進み、農村では飢饉と反乱が拡大しました。

1620年代末以後の中国北部では長期旱魃が深刻化し、黄河流域や陝西などで農業生産が打撃を受けました。疫病も各地で発生しました。農民反乱軍の中から李自成や張献忠が成長し、明の地方統治を揺るがしました。

これらの問題に、世界的な銀流通の変化を加える議論もあります。ただし明朝崩壊を単一の財政危機、気候危機、銀不足だけで説明することは現在の研究では難しいとされています。

銀と明朝崩壊をどう考えるか

16世紀後半以来、中国には日本銀とアメリカ銀が大量に流入し、明の租税と商業取引で銀の重要性が高まりました。そのため17世紀前半の国際銀流通変動が明の財政危機を引き起こしたという説が長く影響力を持ちました。

しかし経済史家リチャード・フォン・グラーンらは、1640年代初頭の銀輸入減少だけを明朝崩壊の決定要因とする説明に疑問を呈しています。中国の貨幣需要は国内経済の長期変化によって形成され、国外銀流入量だけで通貨危機を説明することは難しいからです。

銀は重要でしたが、戦争、徴税、旱魃、疫病、農民反乱、官僚政治、地方軍事力などと組み合わせて考える必要があります。世界交易と国内政治を結ぶ際にも、単純な一方向因果を避けなければなりません。

1644年と清朝の中国進出

満洲ではヌルハチが女真諸集団を統合し、1616年に後金を建国しました。後継者ホンタイジは1636年に国号を清とし、満洲人、モンゴル人、漢人などを組み込んだ軍事・行政体制を拡大しました。

1644年、李自成軍が北京を占領し、崇禎帝が自害すると、山海関を守る明将呉三桂は清軍と協力して李自成軍を攻撃しました。清軍は北京へ入りましたが、中国各地の征服には数十年を要しました。南明政権や地方軍事勢力の抵抗が続いたためです。

清朝は征服王朝である一方、明の官僚制度や儒教的皇帝理念を大規模に継承しました。満洲固有の八旗制度と、中国王朝の行政・科挙・儒教儀礼を組み合わせることで統治を正当化していきました。

鄭成功と台湾

福建沿岸の海商・軍事勢力である鄭氏は、東アジア海域交易と南明抵抗を結びつけました。鄭成功、国姓爺として知られる鄭成功は清に抵抗し、海上軍事力を維持しました。

1661年、鄭成功はオランダ東インド会社が支配していた台湾南部を攻撃し、翌1662年にゼーランディア城を降伏させました。台湾のVOC支配は終わり、鄭氏政権が成立します。

台湾にはそれ以前から多様な先住民社会が存在し、17世紀には中国沿岸からの移住者、オランダ人、スペイン人などが関与しました。台湾史をオランダ対鄭氏だけで語るのではなく、先住民社会と移住者の土地関係を含めて考える必要があります。

康熙帝と清朝の統合

1661年に即位した康熙帝は幼少期を経て親政を開始し、17世紀後半の清朝統合を進めました。1673年から1681年には、呉三桂ら旧明系武将による三藩の乱を鎮圧しました。

1683年には清軍が台湾の鄭氏政権を降伏させ、沿岸支配を強化しました。1689年にはロシアとのネルチンスク条約を結び、北方国境問題を外交的に処理しました。

清朝は17世紀末までに中国内地で安定を強めましたが、その帝国拡張は18世紀にも続きます。康熙帝期の安定は、17世紀前半の危機が中国全体の長期衰退を意味しなかったことを示す重要な例です。

サファヴィー朝とイスファハーン

サファヴィー朝ではシャー・アッバース1世が1597–98年に首都をイスファハーンへ移し、17世紀初頭に軍事・行政・商業を再編しました。新しい王の広場、宮殿、モスク、市場が建設され、イスファハーンは巨大な帝国都市へ成長しました。

アッバース1世はキズィルバシュ部族軍事勢力への依存を弱め、グラームと呼ばれるコーカサス系軍人・官僚を登用しました。絹は主要輸出品で、アルメニア商人などを通じてインド、オスマン領、ロシア、ヨーロッパへ流通しました。

17世紀後半にもサファヴィー朝は存続しましたが、環境史研究は1660年代以後の旱魃や資源不足が国家・農村社会に圧力を与えた可能性を示しています。サファヴィー崩壊は1722年ですが、その前段階は17世紀後半から形成されました。

17世紀のオスマン帝国

17世紀のオスマン帝国はしばしば「衰退期」と呼ばれてきましたが、現在では単純な衰退史観は見直されています。帝国は政治危機と軍事敗北を経験しながらも、行政・財政・軍事制度を再編して存続しました。

イスタンブル、カイロ、アレッポ、イズミルなどは国際商業都市として機能し、地中海、紅海、黒海、陸上交易を結びました。徴税請負の拡大や地方有力者の成長は中央権力の崩壊というより、統治方法の変化として見る必要があります。

宮廷ではスルタンだけでなく皇太后や宮廷女性、宰相、軍団、宗教官僚など複数の政治主体が力を持ちました。17世紀オスマン政治は絶対的スルタン権力が弱まったという一方向の物語では説明できません。

ジェラーリー反乱と環境危機

16世紀末から17世紀初頭、アナトリアではジェラーリー反乱と総称される大規模な武装蜂起・地方混乱が続きました。重い租税、戦争動員、地方軍人の失業、貨幣価値変動、農村社会の不安定化など複数要因が重なりました。

環境史家サム・ホワイトは、1590年代以後の厳しい寒冷化と旱魃が農業生産と家畜に打撃を与え、国家財政と農村移動を悪化させたことを指摘しています。多くの農民が村を離れ、都市や比較的安全な地域へ移動しました。

しかし環境変化だけで反乱を説明することはできません。オスマン国家が長期戦争のため徴税と軍事動員を強めたこと、地方武装勢力が成長したことが、気候ショックを政治危機へ変える重要な条件でした。

1683年 第二次ウィーン包囲

1683年、オスマン軍はハプスブルク領のウィーンを包囲しました。救援に来たポーランド王ヤン3世ソビエスキを含む連合軍がオスマン軍を破り、包囲は失敗しました。

この戦いは後世しばしば「ヨーロッパ対イスラーム」の決戦として象徴化されましたが、実際の政治関係はより複雑でした。フランスはハプスブルクと競争し、オスマンと外交関係を持ち、東欧諸国にも独自の利害がありました。

1683年以後、ハプスブルク側は反攻を進め、1699年のカルロヴィッツ条約でオスマン帝国はハンガリーの大部分などを失いました。これはオスマンの中央ヨーロッパ政策の大きな転換でしたが、帝国そのものの終焉ではありません。

17世紀ムガル帝国

17世紀の南アジアではムガル帝国が世界最大級の農業・都市経済を持つ国家として繁栄しました。ジャハーンギール、シャー・ジャハーン、アウラングゼーブの各治世に、帝国は北インドからデカンへ領域を拡大しました。

帝国財政の基盤は農村からの地租収入で、マンサブダーリー制度を通じて官僚・軍人へ地租徴収権が割り当てられました。大都市と港湾では綿織物、絹、インディゴ、香辛料、宝石などの交易が活発でした。

ヨーロッパ東インド会社はムガル領で活動しましたが、17世紀には帝国政府の許可と現地商人のネットワークに依存していました。後世のイギリス植民地支配を17世紀へ投影することはできません。

アウラングゼーブとデカン

1658年に実権を握ったアウラングゼーブは、ムガル帝国を南方へ大きく拡張しました。ビジャープルとゴールコンダを征服し、17世紀末には帝国領域は最大規模に達しました。

一方、長期デカン戦争は莫大な軍事費と兵站負担を伴いました。マラーター勢力との戦争は終わらず、地方ザミーンダールやシク教勢力などとの対立も深まりました。

アウラングゼーブの宗教政策はしばしば単純な「不寛容」として説明されます。1679年のジズヤ復活や一部寺院破壊は重要ですが、ヒンドゥー系官僚・軍人も帝国制度に残りました。政策は宗教理念だけでなく、戦争、地方政治、王権統制との関係で検討する必要があります。

シヴァージーとマラーター

17世紀中頃、デカン西部でシヴァージーがマラーター勢力を拡大しました。山地要塞、機動的な軍事行動、地方農村・有力者との関係を利用し、ビジャープルとムガル双方に対抗しました。

1674年、シヴァージーは正式な戴冠式を行い独立君主としての地位を示しました。1680年の死後もマラーター勢力は存続し、アウラングゼーブの長期遠征に抵抗します。

マラーターの成長はムガル帝国の「突然の衰退」の結果ではなく、デカン地域の長期的な政治・軍事再編の中で進みました。18世紀にはマラーター連合がインド亜大陸の主要勢力となります。

東南アジアの再編

17世紀東南アジアは、VOC進出だけで説明できません。アユタヤ、マタラム、アチェ、ジョホール、マカッサル、ベトナムの鄭氏・阮氏など多くの在地政権が競合し、中国、日本、南アジア、イスラーム圏の商人も活動しました。

VOCは香辛料や港湾をめぐって軍事力を使用しましたが、すべての地域を直接支配したわけではありません。多くの場合、現地王権との条約、軍事同盟、王位継承争いへの介入を通じて影響力を拡大しました。

17世紀後半には一部港市の国際商業が変化し、VOCの独占政策が交易経路を再編しました。しかし東南アジア内部の農業、河川交通、朝貢、王権形成は独自に続いていました。

アユタヤと国際交易

シャムのアユタヤ王国は17世紀に東南アジア有数の国際都市国家でした。チャオプラヤ川流域の米生産を基盤としながら、中国、日本、ペルシア、インド、オランダ、ポルトガルなど多様な商人・使節を受け入れました。

日本人町、中国人居住区、ペルシア系宮廷人、ヨーロッパ商館などが存在し、王権は外来商人を外交・軍事・財政に利用しました。ナーラーイ王の時代にはフランスとの外交も活発化します。

1688年の政変後、フランス勢力は後退しましたが、これを「シャムの鎖国」と見るのは適切ではありません。中国やアジア諸地域との交易は継続しました。

マタラムとジャワ

ジャワ島中部ではイスラーム系マタラム王国が17世紀前半に勢力を拡大しました。スルタン・アグンの時代にはジャワ内陸部の大部分を支配し、1628年と1629年にはVOCのバタヴィアを攻撃しました。

マタラムは港湾国家ではなく、稲作農業と内陸王権を基盤にしていました。ジャワ北岸の港市を統制しようとする政策は、VOCとの競争だけでなく国内統合とも関係しました。

17世紀後半には王位継承争いと反乱が続き、VOCは軍事支援と引き換えに領土・商業権を得ました。植民地支配は一方的征服だけでなく、在地王朝の内戦へ会社が介入する形でも進みました。

1618–1648年 三十年戦争

1618年、ボヘミアでハプスブルク君主に対する反乱が起こり、神聖ローマ帝国を中心とする長期戦争へ発展しました。宗教対立は重要でしたが、ハプスブルク家と諸侯、デンマーク、スウェーデン、フランスなどの国家利害も複雑に絡みました。

軍隊は現地調達と徴発に依存し、農村・都市住民に大きな負担を与えました。戦闘だけでなく飢饉、疫病、略奪によって人口が大幅に減った地域もあります。ただし被害の程度は神聖ローマ帝国内でも大きな地域差がありました。

1648年の講和まで戦争は断続的に続き、ヨーロッパ国際政治と帝国内部の宗派・諸侯関係を大きく変えました。

1648年 ウェストファリア条約

1648年、ミュンスターとオスナブリュックで複数の講和条約が締結され、三十年戦争とスペイン・オランダ戦争の一部が終結しました。一般にウェストファリア条約と総称されます。

後世、この条約を「主権国家体制が誕生した瞬間」とする説明が広く流布しました。しかし近年の国際関係史では、そのような一回的起源論は慎重に扱われています。条約は神聖ローマ帝国内の諸侯権、宗教関係、フランス・スウェーデンの地位、オランダ・スイスの国際的位置などを再調整したものでした。

近代国家や国際法が1648年に突然完成したわけではありません。ウェストファリアは長期的な国家形成・外交史の重要な節目として理解する方が適切です。

イングランド内戦と革命

イングランドでは国王チャールズ1世と議会の対立が財政、宗教、軍事統制をめぐって深まり、1642年に内戦が始まりました。議会派と王党派の戦争はスコットランド・アイルランドを含む複合王国全体の危機でした。

オリヴァー・クロムウェルらの議会軍が優位となり、1649年にチャールズ1世は裁判の末処刑されました。王政は廃止され共和政となりますが、その後クロムウェルの護国卿政が成立しました。

1660年に王政が復古し、1688–1689年の名誉革命によって議会と王権の関係が再編されました。17世紀イングランド政治は「議会制民主主義が直線的に発達した」過程ではなく、内戦、軍事政権、宗教対立、植民地拡張を含む複雑な変動でした。

知識、観測、科学の制度化

17世紀ヨーロッパでは、望遠鏡による天体観測、実験、数学的自然記述が発展しました。ガリレオ、ケプラー、デカルト、ニュートンらの研究は後世「科学革命」と呼ばれます。1660年にはロンドン王立協会、1666年にはフランス王立科学アカデミーが成立しました。

しかし知識生産はヨーロッパ内部だけで完結していません。航海者、商人、宣教師はアジア、アメリカ、アフリカの植物、地理、天文学、医学情報を収集しました。中国ではイエズス会士が暦法・天文学に関わり、中国側学者との翻訳・計算作業が行われました。

知識交換には不平等もありました。植民地で先住民や奴隷化された人々から得た植物・医療知識が、情報提供者の名を残さずヨーロッパの自然史へ取り込まれることも多くありました。「科学革命」を単一地域の孤立した成果として理解するだけでは不十分です。

17世紀アフリカをどう見るか

17世紀のアフリカ史では大西洋奴隷貿易の拡大が重大ですが、それだけを中心にすると大陸内部の国家形成を見失います。中央アフリカではコンゴ、ンドンゴ、マタンバ、ルバ、ルンダ、クバ、西アフリカではオヨ、アカン諸国などが独自の政治秩序を形成しました。

沿岸交易と内陸政治は地域によって異なります。ヨーロッパ商人と積極的に取引する王権もあれば、交易路支配をめぐって戦争する国家もありました。奴隷貿易に参加したアフリカ人商人・支配者もいましたが、その利益と被害は社会内部で均等ではありませんでした。

大西洋交易は武器、織物、貨幣商品をもたらす一方、捕虜化を目的とする戦争と人身売買を促進しました。国家形成と奴隷貿易の関係は地域によって異なり、「奴隷貿易が国家を作った」「国家が奴隷貿易を作った」という単一方向では説明できません。

ンジンガとンドンゴ・マタンバ

現在のアンゴラ地域では、ポルトガル植民地勢力、ンドンゴ王国、インバンガラ集団などが17世紀前半に激しく争いました。その中で最も著名な政治指導者の一人がンジンガ・ムバンデです。

ンジンガは1620年代からンドンゴの支配者としてポルトガルと交渉・戦争を行い、後にマタンバを拠点として勢力を再建しました。キリスト教への改宗、オランダとの同盟、ポルトガルとの和平などを状況に応じて使い分けました。

ンジンガを単純な「反植民地英雄」あるいは「奴隷貿易参加者」のどちらか一方に固定することはできません。17世紀中央アフリカの王権は、戦争、捕虜、外交、宗教、交易が絡む極めて不安定な環境で存続を図っていました。

コンゴ王国

コンゴ王国は17世紀にも中央アフリカ西岸の主要国家でした。キリスト教は王権文化に深く定着し、王や貴族は洗礼名を用い、ローマやポルトガルとの外交を続けました。

一方、ポルトガル領アンゴラの拡大と奴隷取引、王位継承争いがコンゴ政治を不安定化させました。1665年のムブウィラの戦いで国王アントニオ1世がポルトガル軍に敗れて死亡すると、長期的な内戦が深まります。

それでもコンゴ社会そのものが消滅したわけではありません。地方王権とキリスト教共同体は存続し、17世紀末から18世紀初頭には宗教運動も生まれました。

ルバ、ルンダ、クバ

中央アフリカ内陸では、17世紀にルバ、ルンダ、クバなどの政治体系が発展しました。メトロポリタン美術館の地域年代記でも、ルンダ国家は17世紀初頭から、クバ王国は17世紀前半から成長したと整理されています。

これらの社会では首長制、王権、親族関係、貢納、長距離交易が組み合わされました。銅、塩、鉄、織物などの地域交易が政治秩序を支えました。

大西洋岸から離れた国家を奴隷貿易との距離だけで評価すべきではありません。中央アフリカには大西洋交易とは別に、内陸の生産・交換・王権形成の歴史がありました。

西アフリカの国家再編

1591年のソンガイ帝国崩壊後、西アフリカは「国家なき時代」になったわけではありません。ニジェール川流域には複数の政治勢力が存続し、ハウサ諸都市、ボルヌ、オヨなどが地域交易に参加しました。

森林地帯ではアカン諸国が金産地と交易路をめぐって競争し、17世紀後半にはアシャンティ国家形成へつながる政治統合が進みました。ベニン王国もニジェール・デルタ周辺の交易へ関与しながら独自の宮廷秩序を維持しました。

沿岸部でヨーロッパ商館が増えても、土地支配の多くはアフリカ側の政治勢力にありました。商館は現地王権・商人との交渉なしに交易できず、17世紀の段階では沿岸植民地支配は限定的でした。

大西洋奴隷貿易の急拡大

17世紀には大西洋奴隷貿易が16世紀より大幅に拡大しました。SlaveVoyagesに基づく研究では、1601–1700年に大西洋航路へ送り出されたアフリカ人は100万人を大きく超え、世紀後半に輸送数が急増しました。正確な人数は史料欠落を含む推計であり、固定値として扱うべきではありません。

ポルトガル・ブラジル系商人だけでなく、オランダ、イングランド、フランスなどが奴隷貿易へ本格参入しました。西中央アフリカ、ベニン湾、黄金海岸、セネガンビアなど複数の地域から人々が強制移送されました。

捕虜化、売買、沿岸への移送、中間航路、植民地での強制労働という一連の過程で甚大な暴力と死亡が発生しました。大西洋奴隷貿易は商品交易ではなく、人間を財産として扱う制度によって成立しました。

砂糖プランテーション

17世紀の大西洋経済を変えた主要商品が砂糖でした。16世紀からブラジルで発達した砂糖農園に加え、17世紀中頃からバルバドスなどカリブ海諸島で大規模なプランテーションが拡大しました。

砂糖生産には製糖設備、大量の燃料、土地、資本、労働力が必要でした。プランターは奴隷化されたアフリカ人労働者への依存を急速に強め、島嶼社会の人口構成と土地利用が大きく変わりました。

ヨーロッパで砂糖消費が広がる過程は、アフリカでの捕虜化と大西洋強制移送、カリブ海の森林伐採と農園労働に支えられていました。消費史と奴隷制史は切り離せません。

パルマーレスと逃亡奴隷共同体

奴隷化された人々は支配を受け入れるだけではありませんでした。逃亡、仕事の拒否、反乱、独自共同体形成など多様な抵抗を行いました。

ブラジル北東部では17世紀にパルマーレスと呼ばれる逃亡奴隷共同体群が長期にわたり存続しました。アフリカ出身者、その子孫、先住民などが暮らし、農業と地域交易を行いながらポルトガル・植民地軍の攻撃に抵抗しました。

指導者ズンビの時代を含め、パルマーレスは1690年代まで存続しました。逃亡奴隷共同体は奴隷制大西洋世界の周縁ではなく、その暴力に対する継続的な政治的応答でした。

1607年 ジェームズタウンとポウハタン

1607年、ヴァージニア会社のイングランド人入植者がジェームズタウンを建設しました。この地域は無人ではなく、ワフンセナコー、英語史料でポウハタンと呼ばれる最高指導者が30以上の共同体を束ねるツェナコマカの政治圏に含まれていました。

初期植民地は食料不足と病気に苦しみ、ポウハタン側との交易に依存しました。両者の関係は同盟、外交、捕虜交換、戦争の間を揺れ動きました。1610年代以後、タバコ栽培が植民地経済を支えるようになると、イングランド側は土地をさらに拡大しました。

植民地史を「入植者が荒野を開拓した」と描くと、先住民の土地・政治を消してしまいます。ジェームズタウンの拡大はポウハタン諸社会の領域を侵食する植民地化の過程でした。

ヌーヴェルフランスと毛皮交易

フランスは17世紀初頭にセントローレンス川流域へ拠点を築き、1608年にケベックが建設されました。人口規模ではイングランド植民地より小さかったものの、毛皮交易と宣教を通じて広大な地域へ関係を広げました。

フランス商人はアルゴンキン系諸社会、ヒューロン=ウェンダットなどと交易・軍事同盟を結びました。一方、イロコイ連邦との戦争が激化し、ヨーロッパ製武器と毛皮需要が先住民間政治にも影響しました。

しかし先住民はヨーロッパ勢力の代理人ではありません。各国家・共同体は自らの外交、領域、安全保障、交易利益にもとづいてフランス、オランダ、後にイングランドとの関係を選択しました。

ニューネーデルラント

オランダ西インド会社は17世紀前半、ハドソン川流域とマンハッタン島を中心にニューネーデルラント植民地を形成しました。ニューアムステルダムは大西洋商業と毛皮交易の港となりました。

植民地にはオランダ人だけでなく、ドイツ系、スカンディナヴィア系、ユダヤ人、アフリカ人などが暮らし、奴隷化されたアフリカ人も都市建設と農業に従事しました。

1664年にイングランド軍がニューアムステルダムを占領し、ニューヨークと改称しました。植民地支配国が変わっても、地域の先住民社会と交易・土地問題は継続しました。

1675–1676年 メタコム戦争

ニューイングランドでは17世紀を通じてイングランド植民地が拡大し、ワンパノアグ、ナラガンセットなど先住民社会との土地・主権をめぐる緊張が強まりました。

1675年、ワンパノアグの指導者メタコムを中心とする戦争が始まりました。英語史料では「キング・フィリップ戦争」と呼ばれます。複数の先住民勢力と植民地が参加し、ニューイングランド社会に非常に大きな人口被害と集落破壊をもたらしました。

植民地側はキリスト教化した先住民まで疑い、ボストン港の島などへ強制収容しました。1676年にメタコムが死亡した後も北部では戦闘が続きました。これは単なる「辺境戦争」ではなく、植民地拡大に対する主権と土地をめぐる大規模な戦争でした。

1680年 プエブロ反乱

スペイン領ニューメキシコでは、フランシスコ会宣教師と植民地行政がプエブロ諸社会に改宗、貢納、労働を要求し、伝統宗教を抑圧しました。旱魃、飢饉、周辺集団との戦争も社会不安を強めました。

1680年、ポペを中心に複数のプエブロ共同体が連携して一斉蜂起し、サンタフェを攻撃しました。スペイン人入植者と同盟者は南方へ撤退し、スペイン支配は地域から約12年間排除されました。

国立公園局はこの反乱を北米で最も成功した先住民蜂起の一つとして位置づけています。1692年以後スペインは再征服を進めましたが、植民地統治は以前と同一には戻らず、宗教・労働政策には一定の調整が必要となりました。

スペイン領アメリカ

17世紀のスペイン領アメリカでは、メキシコシティ、リマ、ポトシなど大都市が副王領統治と交易の中心でした。銀鉱山は引き続き重要でしたが、生産量や地域経済は世紀を通じて変動しました。

先住民共同体は植民地支配下でも土地、地方自治、宗教共同体を維持し、裁判や請願を通じて権利を交渉しました。一方、強制労働、税、土地収奪、疫病の影響は続きました。

アフリカ人とその子孫も都市、鉱山、農園、家内労働など広範な分野で生活しました。植民地社会はスペイン人と先住民だけの二者関係ではなく、アフリカ系、混血、アジア系住民を含む複雑な社会へ変化していました。

ブラジルとカリブ海

ポルトガル領ブラジルは17世紀前半に世界最大級の砂糖生産地域でした。1630年代からオランダ西インド会社がブラジル北東部を占領し、レシフェを中心に支配しましたが、1654年までにポルトガル側が奪回しました。

その後、砂糖技術と資本はカリブ海諸島にも広がり、バルバドス、マルティニーク、グアドループなどでプランテーションが成長しました。イングランドは1655年にジャマイカをスペインから奪取しました。

カリブ海社会の成長は先住民人口の激減、土地収奪、大西洋奴隷貿易の拡大と不可分でした。17世紀後半には多くの砂糖島でアフリカ系奴隷人口がヨーロッパ系住民を上回るようになり、植民地社会の構造が大きく変化しました。

オランダ西インド会社と大西洋

1621年、ネーデルラント連邦はオランダ西インド会社(WIC)を設立し、西アフリカ、大西洋、アメリカで交易・私掠・植民活動を行う特権を与えました。VOCが主にアジアへ向かったのに対し、WICはポルトガル・スペインの大西洋帝国へ軍事的に挑戦しました。

WICは1630年代にブラジル北東部を占領し、砂糖生産地と奴隷貿易拠点を結びつけました。西アフリカ沿岸でも城塞と商館を確保し、1641年には一時ルアンダを占領しました。これらの作戦は砂糖、金、人身売買を一つの商業・軍事戦略の中へ組み込むものでした。

しかしオランダの大西洋支配は安定した領域帝国ではありません。ブラジルでは1654年に撤退し、アフリカ沿岸でも現地国家やポルトガル勢力との競争が続きました。特許会社の力は大きかったものの、各地域の政治を自由に支配できたわけではありません。

1652年 ケープ植民地とコイコイ社会

1652年、VOCは喜望峰に補給基地を設けました。目的はヨーロッパとアジアを往復する船へ水、肉、野菜などを供給することであり、当初から南部アフリカ全体を征服する計画だったわけではありません。

しかし補給地の拡大には土地と家畜が必要となり、牧畜を行っていたコイコイ諸社会との交易・紛争が増えました。VOCは自由農民の入植を進め、土地占有を広げ、ケープ社会にはアジア、マダガスカル、アフリカ各地から奴隷化された人々も移送されました。

南部アフリカには同時にムタパ、トルワ、マダガスカルの諸王国など独自の政治圏が存在しました。ケープ植民地の成立を南部アフリカ史全体の始点として扱うのではなく、既存社会の一角へ新しい植民拠点が入り込んだ出来事として位置づける必要があります。

エチオピアとゴンダール

エチオピアでは16世紀末から17世紀初頭にカトリック宣教師、とくにイエズス会の影響が宮廷へ入りました。皇帝スセニョスは1620年代にカトリックへの接近を進めましたが、宗教政策への強い反発と内乱を招きました。

1632年に即位したファシラダスはエチオピア正教会を再び王権の中心に据え、イエズス会士を退去させました。彼はゴンダールを王都として整備し、宮殿・教会建築が発展します。17世紀後半にはゴンダールがキリスト教美術、写本、学問の重要な中心となりました。

この時代のエチオピアは「ヨーロッパ宣教を拒絶して孤立した王国」ではありません。紅海・スーダン・イスラーム諸国との交易と外交を維持し、国内ではオロモ諸集団、地方貴族、教会勢力との関係を調整しながら王権を再編していました。

ロシアのシベリア進出と清

ロシア国家とコサック集団は16世紀末から17世紀にかけてウラル山脈を越え、シベリアの河川網に沿って東へ進出しました。毛皮、とくにクロテンは重要な交易・貢納資源で、先住民諸社会にはヤサクと呼ばれる毛皮貢納が要求されました。

この拡大は無人地帯への移住ではありません。シベリアにはサハ、エヴェンキ、ブリヤート、チュクチなど多数の先住民社会が存在し、交易、抵抗、移住、疫病を通じてロシア側と接触しました。17世紀中頃にはロシア勢力はアムール川流域へ達し、清朝の勢力圏と衝突します。

1651年に築かれたアルバジン要塞をめぐって清とロシアは争い、1686年には清軍の包囲によってロシア守備隊が降伏しました。1689年のネルチンスク条約は両国の境界と交易関係を調整し、清がヨーロッパ系国家と結んだ初期の正式条約の一つとなりました。

オセアニアとオーストラリア先住民社会

17世紀の太平洋とオーストラリアには、ヨーロッパ船が到来するはるか以前から多様な先住民社会が存在していました。オーストラリア大陸では数百の言語・社会集団が土地、水、季節移動、交易、儀礼を組み合わせて生活し、メラネシア、ミクロネシア、ポリネシアでも独自の航海・親族・首長制秩序が展開していました。

1606年、VOC船デュイフケンのウィレム・ヤンスゾーンがヨーロッパ人として記録上初めてオーストラリア大陸北部を航海・測量し、ケープ・ヨークでWikの人々と接触しました。1642年にはアベル・タスマンが現在のタスマニアやニュージーランド方面を航海しました。

これらの航海を「オーストラリア発見」とだけ呼ぶと、何万年にも及ぶ先住民史を消してしまいます。17世紀のオランダ航海は沿岸地図をヨーロッパ側に増やしましたが、オーストラリア大陸を植民地支配したわけではなく、多くの地域社会は独自の歴史を続けました。

商業会社、銀、砂糖、奴隷

17世紀の世界経済は一つの統一市場ではありませんでしたが、複数の地域経済の接続はさらに深まりました。VOCは日本銀やアジアの商品を使って東南アジア交易を行い、イングランド東インド会社はインド綿織物をヨーロッパや他地域へ運びました。

大西洋では砂糖とタバコの需要が奴隷労働を拡大させ、西・中央アフリカの政治とアメリカ植民地社会を暴力的に結びました。スペイン領アメリカの銀はヨーロッパ経由またはマニラ経由でアジアへ流れました。

こうした接続の利益は均等ではありません。株主や商人が利益を得る一方、奴隷化された人々、強制労働者、土地を失った先住民、独占政策で生活を破壊された住民がいました。「商業拡大」は同時に支配と暴力の拡大でもありました。

1600–1700年に何が変わったのか

第一に、国家から特権を与えられた商業会社が世界交易の重要な政治主体となりました。東インド会社とVOCは単なる商人組織ではなく、船、兵士、要塞、司法、条約権を持ちました。これは18世紀以後の植民地帝国へつながる新しい制度でした。

第二に、東アジアの政治秩序が大きく変わりました。日本では徳川政権が長期安定を築き、中国では明朝が崩壊して清朝が成立し、朝鮮は明中心の外交秩序から清との関係へ移りました。ただし各社会は孤立せず、長崎、中国沿岸、琉球、朝鮮使節などを通じて交流を続けました。

第三に、ムガル、オスマン、サファヴィーという巨大帝国は17世紀にも世界政治・経済の中心でした。ヨーロッパ会社のアジア進出が始まったからといって、アジアの帝国が直ちにヨーロッパに従属したわけではありません。

第四に、1640年代を中心に気候異常、戦争、反乱、疫病が複数地域で重なりました。しかし「グローバル・クライシス」という概念は地域差を消す危険もあります。中国の王朝交代、ヨーロッパの戦争、オスマンの農村危機には共通点がある一方、原因と帰結は同一ではありません。

第五に、大西洋奴隷貿易とプランテーション経済が飛躍的に拡大しました。砂糖、タバコなどの植民地商品はヨーロッパ消費を変えましたが、その生産はアフリカ人の強制移送と奴隷労働に大きく依存しました。

第六に、アメリカ大陸ではヨーロッパ植民地が拡大する一方、先住民の外交・戦争・抵抗が続きました。メタコム戦争やプエブロ反乱は、17世紀北米が植民地国家だけの歴史ではなかったことを示します。

第七に、知識と情報の長距離移動が制度化されました。印刷、郵便、商業通信、科学協会、宣教師ネットワーク、航海記録を通じて情報が広がりました。その知識の多くはアジア、アフリカ、アメリカの人々との接触から得られました。

17世紀末には、世界の各地域が16世紀より密接に結ばれていました。しかしその接続は平等なものではありませんでした。帝国、商業会社、奴隷制、植民地化、在地国家が同時に存在し、次の18世紀の帝国競争を準備していました。

同時に、世界のすべてが海上交易へ包摂されたわけでもありません。中央アジア、アフリカ内陸、北米内陸、オセアニアの多くの社会では、地域内部の政治・農業・牧畜・交易が依然として生活の中心でした。世界史上の接続が強まったことと、各地域が固有の時間と制度を持ち続けたことは両立します。17世紀を理解するには、この二つを同時に見る必要があります。

また、17世紀の変化を1700年で切断することもできません。清の拡張、ムガルのデカン戦争、オスマンとハプスブルクの競争、大西洋奴隷貿易、先住民と植民地勢力の抗争はいずれも18世紀へ連続します。年代区分は理解のための便宜であり、実際の歴史過程は世紀境界を越えて進んでいました。地域ごとの時間差も重要です。同時代性と非同時代性の両方を見る必要があります。

1600–1700年の主な出来事

  • 1600年 — 関ヶ原の戦い。イングランド東インド会社に特許が与えられる。
  • 1602年 — オランダ東インド会社(VOC)成立。
  • 1603年 — 徳川家康が征夷大将軍となり、江戸幕府が成立。
  • 1607年 — イングランド人がジェームズタウンを建設。ポウハタン政治圏との接触が本格化。
  • 1608年 — フランスがケベックを建設。
  • 1615年 — 大坂夏の陣。豊臣家滅亡。
  • 1616年 — ヌルハチが後金を建国。
  • 1618年 — 三十年戦争始まる。
  • 1619年 — VOCがジャヤカルタを破壊しバタヴィアを建設。
  • 1621年 — VOCがバンダ諸島を制圧し、住民の殺害・追放・奴隷化を伴う独占体制を構築。
  • 1624年頃 — ンジンガがンドンゴの支配者となり、ポルトガルとの戦争・外交を進める。
  • 1627年 — 後金が朝鮮へ侵攻。
  • 1628–1629年 — マタラム軍がVOCのバタヴィアを攻撃。
  • 1636年 — ホンタイジが国号を清とする。清軍が朝鮮へ侵攻。
  • 1637–1638年 — 日本で島原・天草一揆。
  • 1639年 — 江戸幕府がポルトガル船来航を禁止。
  • 1640年 — ポルトガルがスペイン王権から独立を回復。
  • 1641年 — オランダ商館が平戸から長崎・出島へ移転。VOCがマラッカをポルトガルから奪取。
  • 1642年 — イングランド内戦始まる。
  • 1644年 — 李自成軍が北京を占領。崇禎帝死去。清軍が北京へ入る。
  • 1648年 — ウェストファリア講和。三十年戦争終結。
  • 1649年 — イングランド国王チャールズ1世処刑。
  • 1654年 — ポルトガル側がオランダ支配下のブラジル北東部を奪回。
  • 1655年 — イングランドがジャマイカをスペインから奪取。
  • 1658年 — アウラングゼーブがムガル帝国の実権を掌握。
  • 1660年 — イングランドで王政復古。
  • 1662年 — 鄭成功が台湾のVOC拠点を降伏させる。
  • 1664年 — イングランドがニューアムステルダムを占領しニューヨークと改称。
  • 1665年 — ムブウィラの戦いでコンゴ王アントニオ1世が死亡。
  • 1673–1681年 — 清朝で三藩の乱。
  • 1674年 — シヴァージーが戴冠。
  • 1675–1676年 — ニューイングランドでメタコム戦争。
  • 1679年 — アウラングゼーブがジズヤを復活。
  • 1680年 — プエブロ反乱。スペイン勢力がニューメキシコから追放される。
  • 1683年 — 第二次ウィーン包囲。清が台湾の鄭氏政権を降伏させる。
  • 1688年 — イングランド名誉革命。アユタヤで政変。
  • 1689年 — 清とロシアがネルチンスク条約を締結。
  • 1690年代 — ブラジルのパルマーレス共同体がポルトガル植民地軍により破壊される。
  • 1699年 — カルロヴィッツ条約。オスマン帝国が中央ヨーロッパの広い領域を譲渡。
  • 17世紀後半 — カリブ海砂糖プランテーションと大西洋奴隷貿易が急速に拡大。

次の時代へ — 18世紀の帝国競争

1700年頃、17世紀に形成された商業会社と海上交易網はさらに巨大化しつつありました。1701年からスペイン継承戦争が始まり、王朝問題と植民地・商業利害が大西洋を越えて結びつきます。

東アジアでは康熙帝の清朝が安定を強め、18世紀に雍正帝・乾隆帝の下で中央アジア・チベット方面へ帝国領域を拡張します。日本では徳川政権の平和と都市化が続き、朝鮮でも独自の政治・文化秩序が展開します。

南アジアでは1707年のアウラングゼーブ死後、ムガル帝国の中央権力が弱まり、マラーター、地方ナワーブ、シク教勢力などが成長します。ヨーロッパ東インド会社はこの政治的多極化の中で軍事・徴税権を獲得していきますが、その転換は18世紀半ばに本格化します。

大西洋では砂糖、コーヒー、タバコ、綿花などの需要増加に伴い、奴隷貿易は18世紀に最大規模へ達します。アフリカではアシャンティ、ダホメ、オヨなどが成長し、北アメリカではフランス、イギリス、スペインと先住民諸国の同盟・戦争が激化します。

次の記事では、1700–1800|帝国競争と大西洋革命の世紀 — 清、ムガル後継国家、植民地戦争、奴隷貿易、独立革命として、18世紀の帝国競争からアメリカ独立、フランス革命、ハイチ革命へ至る世界的変化を追います。

参考資料・出典

本ページは、Cambridge University Press、Nature Portfolio、The Metropolitan Museum of Art、British Library、Nationaal Archief、UNESCO、SlaveVoyages、U.S. National Park Serviceなどの研究・公的機関資料を参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。「17世紀の一般的危機」は確定した単一理論としてではなく、比較史上の論争的概念として扱いました。明朝崩壊についても、銀輸入減少・気候変動・農民反乱・戦争・国家財政を単一の原因へ還元していません。

資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY