1973–1979
石油危機と世界経済の転換
スタグフレーション、軍事政権、革命、第二次石油危機
1973年は、第二次世界大戦後の世界経済が大きく方向を変えた年でした。すでに1971年のドルと金の交換停止と1973年の主要通貨の変動相場制移行によって、ブレトンウッズ体制の固定為替秩序は崩れていました。そこへ10月の第四次中東戦争と石油危機が重なります。戦後の工業化と大量消費を支えてきた「比較的安価で大量に供給される石油」という前提が崩れ、石油輸入国では物価上昇と景気停滞が同時に進みました。
石油危機は「アラブ諸国が突然石油価格を四倍にした」という一つの出来事ではありません。アラブ産油国によるアメリカなどへの石油禁輸と生産削減、OPEC産油国による原油価格引き上げ、すでに進んでいた産油国と国際石油会社の価格・権益交渉が重なった結果でした。アメリカではガソリン不足とインフレーションが社会問題化し、日本では「狂乱物価」と呼ばれる急激な物価上昇と1974年のマイナス成長が起こりました。
この経済危機は冷戦政治とも同時進行しました。1973年9月、チリではアウグスト・ピノチェトら軍部がサルバドール・アジェンデ政権を倒し、長期軍事独裁が始まりました。アメリカ政府は1970年のアジェンデ就任阻止や、その後の政権不安定化を目的とする秘密工作・経済的圧力に関与していました。一方、1973年9月11日のクーデタそのものをアメリカ政府が直接指揮・支援したことを示す証拠については、公開された米政府史料でも慎重な区別がされています。
1974年にはポルトガルでカーネーション革命が起こり、半世紀近く続いた独裁体制が崩壊しました。革命は国内民主化だけでなく、アンゴラ、モザンビークなどポルトガル植民地の独立を急速に進めました。しかしアンゴラでは独立運動諸派の対立に、ソ連・キューバ、アメリカ、南アフリカなどの介入が重なり、独立直後から長い内戦に入ります。脱植民地化と冷戦は別々の現象ではありませんでした。
1975年4月30日、北ベトナム軍がサイゴンを制圧し、長く続いたベトナム戦争は南ベトナム政権の崩壊によって終結しました。そのわずか13日前、カンボジアではクメール・ルージュがプノンペンを占領していました。クメール・ルージュ政権は都市住民を農村へ強制移動させ、強制労働、飢餓、疾病、処刑を通じて1975年から79年にかけて約200万人近くを死亡させました。アメリカ軍撤退によってインドシナの暴力が終わったわけではありません。
同じ1975年、東西冷戦には別の動きもありました。アメリカ、ソ連、カナダと欧州諸国を含む35カ国はヘルシンキ最終議定書へ署名し、国境不可侵、安全保障、経済協力、人権・基本的自由をめぐる原則を確認しました。デタントは続いていましたが、南部アフリカ、ラテンアメリカ、東南アジアでは武力紛争と政治弾圧が拡大していました。冷戦の「緊張緩和」は世界全体の暴力減少を意味しませんでした。
ラテンアメリカでは軍事政権間の越境的な反左派協力も進みました。チリ、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビアなどの治安機関は「コンドル作戦」と呼ばれる情報共有・追跡協力を行い、国外の反体制派を標的とする暗殺計画まで検討・実行しました。1976年にはアルゼンチンで軍事クーデタが起こり、秘密拘禁、拷問、強制失踪など大規模な国家暴力が広がります。
一方、1970年代後半には後の世界経済を形作る別の変化も始まっていました。中国では1976年に毛沢東が死去し、文化大革命期の政治秩序が終息へ向かいます。鄧小平が復権し、1978年末の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議を重要な転換点として、農業・企業・価格制度の改革と対外開放が進められました。中国は国家統制を維持しながら、市場的要素と海外経済関係を拡大する長期的変化へ入ります。
日本も石油危機によって戦後の高度成長モデルを修正しました。日本銀行によれば、1974年の消費者物価上昇率は20%を超え、実質成長率はマイナスとなりました。しかし第一次石油危機後、日本は石油備蓄、エネルギー源多様化、省エネルギー政策を進め、1979年には省エネ法を制定します。そのため1979年の第二次石油危機では、第一次危機ほど激しい国内インフレーションを起こしませんでした。
1978年には日本と中国が平和友好条約へ署名し、1972年の国交正常化後の関係を制度化しました。翌1979年1月1日にはアメリカと中華人民共和国も正式な外交関係を樹立しました。東アジアでは米中接近、中ソ対立、日本と中国の関係改善が同時に進み、冷戦初期の「アメリカ対中ソ」という単純な構図は完全に崩れていました。
しかし1979年は新たな危機の年にもなりました。イランではシャー体制が崩壊し、アーヤトッラー・ホメイニを中心とする革命政権が成立しました。イランの石油生産急減と将来供給への不安は第二次石油危機を引き起こし、原油価格は再び急上昇しました。11月にはテヘランのアメリカ大使館が占拠され、人質危機が始まります。
そして12月末、ソ連軍がアフガニスタンへ大規模に進駐し、ハフィーズッラー・アミン政権を倒してバブラク・カルマル政権を成立させました。1970年代前半のデタントによって改善していた米ソ関係は大きく後退します。1973年の石油危機から1979年のイラン革命・アフガニスタン侵攻までの七年間は、「戦後高度成長とデタントの終わり」と、1980年代の市場改革・新冷戦・中東危機へ向かう転換点でした。
CONTENTS
- 1973年 第四次中東戦争
- 第一次石油危機
- OPECとアラブ石油禁輸を区別する
- スタグフレーション
- 日本 — 第一次石油危機と「狂乱物価」
- 石油依存から省エネルギーへ
- 1973年 チリ軍事クーデタ
- アメリカの関与をどう見るか
- ピノチェト軍政
- ウォーターゲート
- 1974年 ニクソン辞任
- 1974年 カーネーション革命
- ポルトガル植民地帝国の解体
- アンゴラ独立と内戦
- キューバ・ソ連・南アフリカ・アメリカ
- 1975年 サイゴン陥落
- ベトナム統一
- クメール・ルージュ政権
- 強制移動、労働、飢餓、処刑
- 1975年 ヘルシンキ最終議定書
- 人権が冷戦外交の言語になる
- コンドル作戦
- 1976年 アルゼンチン軍事クーデタ
- 強制失踪と「汚い戦争」
- 1976年 ソウェト蜂起
- 1976年 毛沢東死去
- 四人組逮捕と文化大革命の終息
- 鄧小平の復権
- 1978年 改革開放への転換
- 1978年 日中平和友好条約
- 1979年 米中国交正常化
- カーター政権と人権外交
- イラン革命への道
- 1979年 イラン革命
- 第二次石油危機
- 日本と第二次石油危機
- イラン人質危機
- 1979年 ソ連のアフガニスタン侵攻
- デタントの後退
- 1973–1979年に何が変わったのか
- 1973–1979年の主な出来事
- 次の時代へ — 新自由主義、冷戦再燃、1980年代
- 参考資料・出典
1973年 第四次中東戦争
1973年10月6日、エジプトとシリアは1967年の第三次中東戦争でイスラエルに占領された領土を奪回するため、イスラエルへの攻撃を開始しました。ユダヤ教の贖罪日ヨム・キプールに始まったため、英語ではYom Kippur Warと呼ばれます。
エジプト軍はスエズ運河を渡ってシナイ半島へ進出し、シリア軍はゴラン高原を攻撃しました。初期にはアラブ側が戦果を上げましたが、イスラエル軍は反撃し、戦争終盤にはスエズ運河西岸へ進出しました。
アメリカはイスラエルへ軍需物資を空輸し、ソ連はエジプト・シリア側を支援しました。局地戦争が米ソ対立へ発展する危険が高まり、国連安全保障理事会決議338などを通じて停戦へ進みました。
第一次石油危機
戦争中、アラブ産油国は石油を外交・政治手段として利用しました。アメリカ国務省歴史局によれば、アラブ産油国はアメリカによるイスラエル軍への再補給に対抗し、アメリカなどイスラエル支持国への石油禁輸を行いました。
同時に産油量削減と原油価格の上昇が重なり、1973年末から74年にかけて世界の原油価格は短期間で約四倍となりました。
石油を大量輸入する工業国では、エネルギー価格上昇が輸送、化学、電力、製造業、家庭生活へ波及しました。ガソリンスタンドの長い列、暖房・電力節約、速度制限などが石油依存社会の脆弱性を可視化しました。
OPECとアラブ石油禁輸を区別する
第一次石油危機では、OPEC、アラブ産油国、石油禁輸、価格引き上げがしばしば一つの出来事として説明されます。しかし区別が必要です。
OPECはアラブ諸国だけの組織ではなく、イランやベネズエラなど非アラブ産油国も含んでいました。アメリカなど特定国への禁輸を実施したのは主としてアラブ産油国側でした。
一方、国際石油価格の大幅上昇には、OPEC加盟国による価格決定力の強化と、産油国が石油会社から価格・生産の主導権を取り戻してきた長期的変化も関係していました。したがって危機を「戦争を理由にした一時的禁輸」だけで説明すると、石油産業の権力構造転換を見落とします。
スタグフレーション
1970年代の先進工業国では、物価上昇と景気停滞・失業が同時に進む「スタグフレーション」が大きな政策課題となりました。
しかしインフレーションをすべて石油危機の結果と考えることも正確ではありません。Federal Reserve Historyは、アメリカの「大インフレーション」が1960年代半ばから始まっており、1973年の石油ショックはすでに存在していたインフレ圧力をさらに悪化させたと整理しています。
ブレトンウッズ体制崩壊、拡張的財政・金融政策、賃金・価格形成、食料価格、エネルギー価格など複数の要因が重なっていました。1970年代は、戦後の高成長を支えてきた経済政策の前提そのものが問い直された時代でした。
日本 — 第一次石油危機と「狂乱物価」
当時の日本は一次エネルギー供給の約77%を石油に依存し、その大部分を中東から輸入していました。石油危機への不安から、トイレットペーパーや洗剤などの買いだめが社会現象となりました。
しかし日本のインフレーションも石油危機だけが原因ではありません。日本銀行は、1973年前半にはすでに物価上昇率が高く、賃金上昇も急速であったことを指摘しています。石油価格上昇はその国内インフレをさらに加速させました。
1974年には消費者物価上昇率が20%を超え、実質経済成長率は戦後の高度成長期として異例のマイナスとなりました。戦後続いてきた年率8~10%前後の高成長を当然視する時代は終わりました。
石油依存から省エネルギーへ
第一次石油危機後、日本政府・企業は石油供給途絶への備えを進めました。1973年に石油需給適正化法が制定され、1975年には石油備蓄法によって民間備蓄が制度化されました。1978年には国家石油備蓄も始まりました。
同時に産業設備の省エネルギー化、石油以外のエネルギー開発、原子力・天然ガス利用などが進められました。1974年には新エネルギー研究を進めるサンシャイン計画も始まりました。
1979年には「エネルギーの使用の合理化に関する法律」、いわゆる省エネ法が制定されます。石油危機は日本のエネルギー消費構造と産業技術を長期的に変える契機となりました。
1973年 チリ軍事クーデタ
1973年9月11日、チリ軍部は社会主義者サルバドール・アジェンデ大統領の政権を軍事クーデタで倒しました。大統領宮殿ラ・モネダは軍による攻撃を受け、アジェンデはその日のうちに死亡しました。現在では自殺とする調査結果が広く受け入れられています。
軍事政権ではアウグスト・ピノチェトが中心的指導者となり、国会は解散され、多数の左派政党・政治組織が禁止されました。
クーデタ後、軍・治安機関によって大量逮捕、拷問、処刑、強制失踪が行われました。チリはラテンアメリカ軍事独裁の象徴的事例となりました。
アメリカの関与をどう見るか
アメリカとチリの1973年クーデタを扱う際、「CIAがピノチェトのクーデタを直接実行した」とだけ説明するのは史料上慎重さが必要です。一方、「アメリカは全く関係していなかった」とするのも不正確です。
公開されたアメリカ国務省外交文書は、ニクソン政権が1970年にアジェンデの大統領就任を阻止するため、憲法的手段と軍事クーデタの可能性の双方を検討し、その後もアジェンデ政権を不安定化させる政策を採ったことを記録しています。国際融資・援助への圧力やチリ軍との関係強化も行われました。
一方、国務省歴史局の整理では、1973年9月のピノチェトらによるクーデタそのものをアメリカ政府が直接支援したことを示す証拠は限定的とされています。長期的介入と当日の軍事作戦指揮を区別する必要があります。
ピノチェト軍政
ピノチェト政権は政治反対派を激しく弾圧する一方、経済政策では市場原理を重視する改革を進めました。国営企業民営化、貿易自由化、規制緩和などが実施され、シカゴ大学で学んだチリ人経済学者「シカゴ・ボーイズ」が政策形成に関与しました。
その政策は1980年代以降の「新自由主義」論の先行例としてしばしば位置づけられます。しかし軍事独裁そのものと特定の経済政策を同義にすることはできません。
初期にはインフレーション低下と同時に深刻な景気後退や失業も生じ、その後の成長・格差・社会保障制度をめぐる評価は長く議論されています。
ウォーターゲート
1972年6月、ワシントンのウォーターゲート・ビルにある民主党全国委員会事務所へ侵入した5人が逮捕されました。当初は一つの不法侵入事件でしたが、捜査と報道によってニクソン政権関係者とのつながりと、事件隠蔽の試みが明らかになりました。
上院調査、特別検察官による捜査、大統領執務室録音テープをめぐる争いは、議会・司法・大統領権限の憲法上の対立へ発展しました。
1974年7月、連邦最高裁は大統領に録音テープ提出を命じ、下院司法委員会は司法妨害、権力乱用などを理由とする弾劾条項を採択しました。
1974年 ニクソン辞任
1974年8月9日、リチャード・ニクソンはアメリカ大統領を辞任しました。大統領が任期途中に辞任したのはアメリカ史上初めてでした。
副大統領ジェラルド・フォードが大統領へ昇格し、9月にはニクソンに対する全面的な恩赦を与えました。
ウォーターゲートはアメリカの民主主義制度が崩壊した事件ではなく、大統領権力の濫用を議会・司法・報道が追及し、最終的に大統領辞任へ至った制度的危機でした。同時に政府への国民的不信を長期的に深めました。
1974年 カーネーション革命
1974年4月25日、ポルトガル軍の若手・中堅将校を中心とする国軍運動MFAがマルセロ・カエターノ政権を倒しました。
1926年以来続いてきた権威主義体制、サラザールとその後継者カエターノによる「エスタド・ノヴォ」は崩壊しました。首都リスボンでは市民が兵士へカーネーションを渡したことから「カーネーション革命」と呼ばれます。
軍事クーデタから始まりましたが、その後は政党合法化、選挙、憲法制定へ進み、ポルトガルは民主政治へ移行しました。
ポルトガル植民地帝国の解体
革命の背景には、アンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウで長期間続いた植民地戦争がありました。戦争はポルトガルの財政と若い将校層に大きな負担を与えていました。
革命後、ポルトガル新政府はアフリカ植民地独立を受け入れる方向へ転換しました。モザンビークは1975年6月、アンゴラは同年11月に独立しました。
ヨーロッパ最後の大規模植民地帝国の一つが急速に解体されましたが、独立後の政治秩序は必ずしも平和には移行しませんでした。
アンゴラ独立と内戦
アンゴラにはMPLA、FNLA、UNITAという主要な三つの独立運動が存在していました。ポルトガル政府と三組織は1975年1月のアルヴォル協定で独立までの移行政府形成に合意しましたが、協力は崩壊しました。
1975年11月11日の独立を前に三派間の軍事衝突が激化し、MPLAが首都ルアンダを掌握してアンゴラ人民共和国成立を宣言しました。
独立は植民地戦争の終結であると同時に、数十年続く内戦の始まりとなりました。
キューバ・ソ連・南アフリカ・アメリカ
アンゴラ内戦は冷戦の国際介入と結びつきました。ソ連はMPLAへ武器を提供し、キューバは数千人規模からさらに拡大する部隊を派遣しました。
南アフリカ軍は南方からアンゴラへ侵入し、UNITAなど反MPLA勢力を支援しました。アメリカもCIAを通じFNLA・UNITA側へ秘密支援を行いました。
アメリカ国務省外交文書は、独立直後のアンゴラでMPLAがソ連・キューバ、反対勢力が南アフリカやアメリカなどの支援を受けたことを記録しています。アフリカの脱植民地化は超大国の「代理戦争」に還元できませんが、冷戦介入によって紛争が国際化・長期化しました。
1975年 サイゴン陥落
1973年パリ和平協定後も南北ベトナム間の戦闘は続いていました。アメリカ議会と世論は再介入へ消極的となり、ニクソンのウォーターゲート失脚も南ベトナムへの政治的支援を弱めました。
1975年3月、北ベトナム軍は中央高原から大規模攻勢を開始しました。南ベトナム軍の防衛線は急速に崩壊し、フエ、ダナンなど主要都市が相次いで占領されました。
4月30日、北ベトナム軍戦車がサイゴンの大統領府へ入り、南ベトナム政府は降伏しました。アメリカ国務省歴史局はこれをベトナム戦争の実質的終結点としています。
ベトナム統一
サイゴン陥落後、南部は革命政府の管理下に置かれ、1976年7月に南北は「ベトナム社会主義共和国」として正式に統一されました。
戦争終結後も経済復興、旧南ベトナム政府関係者の再教育、人口移動など多くの問題が残りました。多数のベトナム人が国外へ脱出し、後に「ボート・ピープル」と呼ばれる難民問題へ発展します。
1975年は「インドシナ戦争の終わり」ではありますが、地域の政治暴力と難民移動の終わりではありませんでした。
クメール・ルージュ政権
1975年4月17日、ポル・ポトらが率いるクメール・ルージュはカンボジアの首都プノンペンを占領しました。
都市住民は占領直後から農村へ強制的に移動させられました。貨幣、市場、宗教活動、学校教育、家族生活など既存社会を解体し、農業共同労働を中心とする急進的な社会改造が進められました。
国家は「民主カンプチア」と改称されましたが、政治的自由を意味する民主制度とは無関係でした。
強制移動、労働、飢餓、処刑
米国ホロコースト記念博物館によれば、1975年4月から1979年1月までのクメール・ルージュ支配下で、約200万人近くが死亡しました。
死因は処刑だけではありません。強制労働、飢餓、過労、疾病、医療崩壊が多数の死者を生みました。旧政府関係者、知識人、宗教者、少数民族、政権内部で反逆を疑われた人々も迫害されました。
1978年末にベトナム軍がカンボジアへ侵攻し、1979年1月にプノンペンを占領してクメール・ルージュ政権を倒しました。しかしその後も内戦は長期間続きました。
1975年 ヘルシンキ最終議定書
1975年8月1日、欧州諸国、アメリカ、カナダを含む35カ国の首脳がヘルシンキ最終議定書へ署名しました。
文書は国家主権、武力不行使、国境不可侵、領土保全、紛争の平和的解決、内政不干渉、人権・基本的自由などの原則を確認しました。また経済・科学・環境協力、人々・情報の交流についても定めました。
ソ連側は第二次世界大戦後の欧州国境の承認を重視し、西側は人権と人・情報の移動を重視しました。異なる利益を一つの文書に組み込んだデタント外交の代表例でした。
人権が冷戦外交の言語になる
ヘルシンキ最終議定書は法的拘束力を持つ平和条約ではありませんでした。しかし東欧・ソ連の反体制活動家は、政府自身が署名した「人権と基本的自由」の原則を使って政府を批判するようになりました。
ヘルシンキ監視グループなどが形成され、政治犯、信教、移住、表現の自由が国際問題化しました。
1977年に就任したアメリカ大統領ジミー・カーターも人権を外交政策の重要な言語として前面に出しました。冷戦外交で「国家安全保障」だけでなく、国内での政府の行動が国際関係の争点となる傾向が強まりました。
コンドル作戦
1970年代半ば、南米の複数軍事政権・治安機関は反体制派に関する情報を国境を越えて共有する「コンドル作戦」を形成しました。
アメリカ政府の1976年文書では、チリ、アルゼンチン、ウルグアイなどの治安機関による協力が情報交換にとどまらず、国外での暗殺作戦まで検討していることに重大な懸念が示されています。
1976年9月には、ピノチェト政権の元外相オルランド・レテリエルがワシントンD.C.で自動車爆弾によって殺害されました。国家による政治弾圧が国境を越えて実行された象徴的事件です。
1976年 アルゼンチン軍事クーデタ
1976年3月24日、アルゼンチン軍はイサベル・ペロン大統領を追放し、ホルヘ・ラファエル・ビデラらによる軍事政権を成立させました。
当時のアルゼンチンでは左翼武装組織による政治暴力と、極右組織によるテロの双方が存在していました。しかし軍事政権は「反破壊活動」を名目に、それをはるかに超える広範な社会層を国家弾圧の対象としました。
労働運動家、学生、教員、ジャーナリスト、左派活動家、その関係者などが拘束されました。
強制失踪と「汚い戦争」
軍事政権下では正式な司法手続きによらない秘密拘禁所が各地に設けられました。拘束者は拷問を受け、多数が殺害され、遺体や拘束事実を公表されない「強制失踪」の状態となりました。
アメリカ国務省の1978年文書も、秘密逮捕、強制失踪、即決処刑が米・アルゼンチン関係の中心的人権問題になっていたと記録しています。
国家暴力の犠牲者数については史料・定義による差があります。重要なのは、失踪という方法自体が家族から「生死すら確認できない」状態を作り出し、社会全体を恐怖で統制したことです。
1976年 ソウェト蜂起
南アフリカ共和国ではアパルトヘイト体制が続いていました。1976年6月16日、ソウェトの黒人学生たちは、学校教育でアフリカーンス語を強制的に使用する政策などに抗議して行進しました。
警察が学生へ発砲し、抗議はソウェトから南アフリカ各地へ広がりました。死者数については集計に幅がありますが、多数の若者・市民が死亡しました。
ソウェト蜂起はアパルトヘイト反対運動の新しい世代を生み、南アフリカ政府への国際的批判をさらに強めました。
1976年 毛沢東死去
1976年9月9日、毛沢東が死去しました。中国共産党・中華人民共和国の建国以来、政治の中心にいた指導者の死は、文化大革命後の権力再編を決定的にしました。
当時、周恩来も同年1月に死去し、朱徳も7月に亡くなっていました。革命第一世代の主要指導者が相次いで去る年でした。
毛沢東死後には華国鋒が最高指導部の中心となりましたが、政策路線をめぐる争いは続きました。
四人組逮捕と文化大革命の終息
1976年10月、江青、張春橋、姚文元、王洪文の「四人組」が逮捕されました。彼らは文化大革命期の急進派指導部の象徴でした。
四人組逮捕は文化大革命型の大衆政治動員を終わらせ、党・国家機構を再建する方向へ政治を転換する重要な出来事となりました。
中国共産党は後に1981年の歴史決議で文化大革命を深刻な誤りとして公式に否定しますが、1976年の時点ではその歴史評価がすぐに完成したわけではありません。
鄧小平の復権
鄧小平は文化大革命中に失脚と復権を繰り返しました。1976年には再び職務を解かれましたが、毛沢東死後の1977年に復権しました。
鄧は「階級闘争」を政治の中心に置く文化大革命型路線より、農業、工業、科学技術、国防の「四つの現代化」を重視しました。
形式上、鄧がただちに党主席や国家元首となったわけではありません。しかし人事・政策・軍を通じて政治的影響力を強め、中国の発展路線を大きく変えていきました。
1978年 改革開放への転換
1978年12月の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議は、後に「改革開放」の重要な転換点として位置づけられます。
農村では人民公社型集団農業から家族単位の生産請負へ移行する試みが広がり、都市企業では経営自主性、利潤、価格制度などの改革が進みました。
Library of Congressの中国研究資料は、鄧小平期の改革が計画制度、商品市場、価格・賃金、金融・税制を再編し、対外経済・技術関係を急速に拡大したと整理しています。中国がただちに自由市場経済へ転換したのではなく、共産党支配を維持したまま経済制度の一部を市場化する長期過程が始まりました。
1978年 日中平和友好条約
1978年8月12日、日本と中華人民共和国は北京で平和友好条約へ署名しました。条約は10月23日の批准書交換によって発効しました。
外務省の条約本文では、主権・領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等・互恵、平和共存を確認し、紛争を平和的手段で解決すると定めています。
第2条には、いずれの国もアジア太平洋その他の地域で覇権を求めず、他国による覇権確立にも反対するという条項が置かれました。ソ連はこの「反覇権条項」が自国を標的としていると強く警戒しました。
1979年 米中国交正常化
アメリカと中華人民共和国は1978年12月に国交正常化を発表し、1979年1月1日に正式な外交関係を樹立しました。
アメリカは中華人民共和国政府を中国の唯一の合法政府として承認し、中華民国との正式な外交関係と米華相互防衛条約を終了することになりました。一方、台湾との文化・商業その他の非公式関係は継続しました。
1月末には鄧小平がアメリカを訪問しました。米中接近は中ソ対立と結びつき、冷戦の力関係を三角形へ変える重要な外交転換でした。
カーター政権と人権外交
1977年に就任したジミー・カーター大統領は、人権をアメリカ外交の重要な原則として強調しました。議会でも1970年代半ばから、軍事援助・経済援助を人権状況と結びつける法律や議論が増えていました。
アルゼンチン軍政などへの武器供与をめぐって、失踪・拷問が米外交関係の争点となりました。
ただし人権外交は一貫して同じ基準で全国家へ適用されたわけではありません。冷戦、安全保障、石油、同盟関係との間で政策はしばしば矛盾しました。それでも国家の国内弾圧を外交上公然と問題にする傾向は1970年代後半に強まりました。
イラン革命への道
イランのモハンマド・レザー・シャーは、石油収入を背景に急速な工業化・軍備拡大・近代化を進めました。一方、政治反対派への弾圧、秘密警察SAVAK、所得格差、インフレーション、急激な社会変化、王制とアメリカとの近さへの不満も蓄積していました。
反政府運動にはイスラム宗教勢力だけでなく、自由主義者、民族主義者、左派、学生、商人など異なる勢力が参加しました。
アメリカ政府の1979–80年内部分析も、シャー体制を倒した段階では「非常に広い反シャー連合」が革命を担ったと整理しています。最初からホメイニ派だけが革命を独占していたわけではありません。
1979年 イラン革命
1978年を通じてデモとストライキが拡大し、石油労働者のストライキも政権を圧迫しました。1979年1月16日、シャーはイランを離れました。
2月1日、亡命していたアーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニが帰国しました。2月にはシャー側のバフティヤール政権が崩壊し、革命側が国家権力を掌握しました。
4月の国民投票を経てイラン・イスラム共和国が成立し、その後の憲法制定過程で宗教指導者の権力が制度化されました。革命初期の自由主義・左派・イスラム諸勢力の連合は次第に解体され、ホメイニ派が政治的主導権を強めました。
第二次石油危機
イラン革命によって石油生産が急減しました。Federal Reserve Historyによれば、1979年1月までにイランの生産減少は日量約480万バレル、当時の世界生産の約7%に達しました。
しかし1979年の価格高騰を単純な供給不足だけで説明することもできません。将来の供給不安を恐れた在庫積み増し・投機的需要と、世界的な石油需要の強さも価格上昇を増幅しました。
原油価格は1979年半ばから急上昇し、1980年にかけて再び世界的なインフレーション圧力を強めました。
日本と第二次石油危機
日本にとって1979年の原油価格上昇も大きな負担でした。しかし第一次石油危機とは経済への伝わり方が異なりました。
日本銀行によれば、第一次危機では1974年に消費者物価上昇率が20%を超え、実質成長もマイナスとなりましたが、第二次危機では経済成長率は3~5%程度を維持し、消費者物価上昇率も一桁台にとどまりました。
第一次危機後の省エネルギー投資、産業構造転換、石油備蓄、金融・賃金政策の変化が耐性を高めました。1979年の省エネ法制定は、この長期的転換を制度化する象徴でした。
イラン人質危機
1979年10月、病気治療のためアメリカが追放中のシャーの入国を認めると、イラン革命派の反米感情がさらに高まりました。
11月4日、学生らがテヘランのアメリカ大使館を占拠し、50人を超えるアメリカ人を人質として拘束しました。アメリカ国務省の記録では、人質拘束は最終的に444日間続きました。
大使館占拠はイラン国内政治にも作用し、より穏健なバザルガン暫定政府は辞任しました。革命体制内で反米主義とホメイニ派の政治的優位が強まりました。
1979年 ソ連のアフガニスタン侵攻
アフガニスタンでは1978年4月の「サウル革命」によって人民民主党政権が成立しましたが、急進的な社会改革、党内対立、地方反乱によって政治危機が拡大しました。
1979年末、ソ連指導部は友好的な共産政権が崩壊することを恐れ、大規模軍事介入を決定しました。12月25日からソ連軍航空部隊の大量輸送が始まり、27日には地上軍が国境を越えました。
ソ連特殊部隊はハフィーズッラー・アミン大統領を殺害し、バブラク・カルマルを新指導者として擁立しました。アフガニスタン戦争はその後約10年間続きます。
デタントの後退
1970年代前半の米ソ関係ではSALT I、首脳会談、ヘルシンキ最終議定書など緊張管理が進んでいました。1979年6月にはカーターとブレジネフがSALT IIへ署名しました。
しかしアンゴラなど第三世界での対立、人権問題、アメリカ国内の対ソ不信がすでにデタントを弱めていました。そこへ12月のアフガニスタン侵攻が起こりました。
カーター政権はSALT II批准手続きを事実上停止し、ソ連への穀物輸出制限や1980年モスクワ・オリンピックのボイコットへ進みました。1980年代初頭の冷戦再緊張は、1979年末に明確な形を取り始めました。
1973–1979年に何が変わったのか
1973年以前の先進工業国では、戦後復興、高い生産性上昇、安価な石油、固定為替を背景にした高成長が長く続きました。1970年代半ばになると、その前提がほぼ同時に崩れました。変動相場制、石油価格上昇、インフレーション、失業、成長鈍化が政策担当者に新しい問題を突きつけました。
「石油危機が高度成長を終わらせた」と一つの原因で説明することはできません。アメリカや日本のインフレーションは1973年以前から高まり、ブレトンウッズ崩壊も先行していました。しかし石油危機が転換を急激にし、エネルギー・金融・産業政策の変更を強制したことは確かです。
政治面でも、冷戦の単純な二極構造は変化しました。ベトナム戦争は共産側の勝利で終わり、アメリカ国内ではウォーターゲート後の政府不信が深まりました。ソ連とアメリカはヘルシンキで共存の原則を確認する一方、アンゴラやアフガニスタンでは対立しました。
脱植民地化はポルトガル革命によって新しい段階へ入りました。アンゴラとモザンビークの独立は欧州植民地帝国の解体を進めましたが、アンゴラ内戦では独立運動内部の対立に冷戦大国と地域大国が介入しました。植民地支配の終わりと平和の到来は同じではありませんでした。
ラテンアメリカではチリとアルゼンチンの軍事政権が反共主義を掲げ、国家による秘密拘禁・拷問・失踪が広がりました。コンドル作戦は、この弾圧が一国内にとどまらず国境を越えて協調されたことを示しました。カーター政権の人権外交は、こうした国家暴力を冷戦外交の議題へ押し上げました。
東アジアでは別の転換が始まりました。中国では文化大革命が終息し、鄧小平の下で改革開放が始まりました。日本と中国は1978年に平和友好条約を結び、アメリカと中国は1979年に国交を正常化しました。1950年代の東アジア冷戦構造は、米中ソ三角関係の変化によって大きく組み替えられました。
日本にとって1970年代は、高度経済成長の終焉だけでなく「資源を大量投入して成長する経済」から、エネルギー効率、技術集約、産業構造転換を重視する経済への移行期でした。第一次石油危機を経験した後、1979年の第二次危機への対応は相対的に安定していました。
そして1979年には、イラン革命、第二次石油危機、米国大使館人質事件、ソ連のアフガニスタン侵攻が連続しました。戦後世界が1970年代前半に期待したデタントと安定成長の両方が後退し、1980年代には市場自由化を重視する経済政策、核軍拡、地域紛争、イスラム政治運動がより大きな位置を占めていきます。
1973–1979年の主な出来事
- 1973年9月11日 — チリ軍部がアジェンデ政権を倒し、ピノチェト軍政へ。
- 1973年10月6日 — 第四次中東戦争開始。
- 1973年10月 — アラブ産油国による石油禁輸・減産が始まり、第一次石油危機へ。
- 1973–1974年 — 原油価格が短期間で約4倍へ上昇。
- 1974年4月25日 — ポルトガルでカーネーション革命。
- 1974年8月9日 — ウォーターゲート事件を背景にニクソン大統領が辞任。
- 1974年 — 日本で物価上昇率が20%を超え、実質成長率がマイナスへ。
- 1975年4月17日 — クメール・ルージュがプノンペンを占領。
- 1975年4月30日 — 北ベトナム軍がサイゴンを制圧。
- 1975年6月25日 — モザンビーク独立。
- 1975年8月1日 — 35カ国がヘルシンキ最終議定書へ署名。
- 1975年11月11日 — アンゴラ独立。内戦が国際化。
- 1975年前後 — 南米軍事政権の治安機関によるコンドル作戦が形成される。
- 1976年3月24日 — アルゼンチンで軍事クーデタ。
- 1976年6月16日 — 南アフリカでソウェト蜂起。
- 1976年7月 — 南北ベトナムがベトナム社会主義共和国として正式統一。
- 1976年9月9日 — 毛沢東死去。
- 1976年10月 — 中国で四人組逮捕。
- 1977年 — 鄧小平が中国指導部へ復権。
- 1978年8月12日 — 日本と中国が平和友好条約へ署名。
- 1978年12月 — 中国共産党第11期三中全会。改革開放への転換が本格化。
- 1978年末–1979年 — イラン革命に伴い石油生産が急減し、第二次石油危機へ。
- 1979年1月1日 — アメリカと中華人民共和国が正式に国交正常化。
- 1979年1月16日 — イランのシャーが国外へ退去。
- 1979年2月1日 — ホメイニがイランへ帰国。
- 1979年2月 — イラン王制側政府が崩壊し、革命勢力が実権を掌握。
- 1979年 — 日本で省エネ法制定。
- 1979年6月 — カーターとブレジネフがSALT IIへ署名。
- 1979年11月4日 — テヘランの米国大使館占拠、人質危機開始。
- 1979年12月25–27日 — ソ連軍がアフガニスタンへ大規模介入。
次の時代へ — 新自由主義、冷戦再燃、1980年代
1979年は、次の時代の入口となりました。イギリスではマーガレット・サッチャーが首相となり、アメリカでは翌1980年の選挙でロナルド・レーガンが勝利します。インフレーション、低成長、財政問題に対し、規制緩和、民営化、金融引き締め、市場競争を重視する政策が強い影響力を持つようになります。
アメリカ連邦準備制度では1979年にポール・ボルカーが議長となり、インフレーション抑制を優先する強力な金融引き締めへ向かいます。その結果、1980年代初頭には深刻な景気後退と失業増加が起こりますが、インフレーションは後に大きく低下します。
冷戦でも、ソ連のアフガニスタン侵攻によってデタントは大幅に後退しました。アメリカはアフガニスタンのムジャヒディン支援を拡大し、レーガン政権下では軍備増強と強硬な対ソ政策が進みます。
一方、中国は改革開放を拡大し、経済特区設置、外国投資受け入れ、農村改革を進めます。1980年代には世界経済の市場化とグローバル化が新しい段階へ入ります。
次の記事では、1979–1989|新自由主義と冷戦再燃 — サッチャー、レーガン、改革開放、核軍拡、東欧革命として、1970年代危機への政策的回答が1980年代の政治・経済秩序をどのように作り、最終的に冷戦終結へつながったのかを扱います。
参考資料・出典
本ページは、U.S. Department of State Office of the Historian、Foreign Relations of the United States、Federal Reserve History、National Archives、United States Holocaust Memorial Museum、OSCE、United Nations関連資料、Library of Congress、South African History Online、日本銀行、資源エネルギー庁、日本国外務省などを参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。第一次石油危機については、アラブ産油国による禁輸・減産とOPECによる価格・権益構造の変化を区別しました。チリではアメリカによる長期的な秘密介入・経済的圧力と、1973年9月11日の軍事クーデタそのものへの直接関与を区別しています。日本のインフレーションは石油価格だけに原因を求めず、危機以前からの金融・賃金・需要要因を含めました。
- U.S. Department of State — Oil Embargo, 1973–1974
- Federal Reserve History — Oil Shock of 1973–74
- Federal Reserve History — The Great Inflation
- U.S. Department of State — Allende and Chile, 1969–1973
- Foreign Relations of the United States — Chile, 1969–1973
- U.S. National Archives — Nixon and Watergate
- U.S. National Archives — Watergate and the Constitution: Chronology
- Foreign Relations of the United States — Portuguese Revolution and African Decolonization
- U.S. Department of State — Angola: Historical Background
- Foreign Relations of the United States — Angola, Cuba, Soviet Union and U.S. Policy
- U.S. Department of State — Ending the Vietnam War, 1973–1975
- United States Holocaust Memorial Museum — Cambodia 1975–1979
- OSCE — Helsinki Final Act, 1975
- Foreign Relations of the United States — Operation Condor, August 1976
- Foreign Relations of the United States — Human Rights in Argentina, 1978
- South African History Online — The Soweto Revolt, June 1976
- Library of Congress — China: A Country Study
- U.S. Department of State — China Policy and Normalization, 1977–1979
- Foreign Relations of the United States — U.S.–PRC Diplomatic Normalization
- 外務省 — 日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約
- 外務省 — 1978年外交青書:日中平和友好条約
- 日本銀行 — 第一次・第二次石油ショックと日本の物価
- 資源エネルギー庁 — 2度のオイルショックと日本のエネルギー政策
- 資源エネルギー庁 — 省エネ法の制定と石油危機
- Federal Reserve History — Oil Shock of 1978–79
- U.S. Department of State — The Iranian Hostage Crisis
- Foreign Relations of the United States — Iran’s Revolution and Political Transformation
- U.S. Department of State — Soviet Invasion of Afghanistan and U.S. Response
- Foreign Relations of the United States — Soviet Troop Movements into Afghanistan, December 1979
資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY