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World History

1973–1980

アメリカ|石油危機と経済転換

Oil Shock、Stagflation、Deindustrialization、Sun Belt

1970年代のアメリカ合衆国は、戦後の長い経済成長が突然終わった時代として語られることがあります。しかし実際には、成長そのものが消滅したわけではありません。人口は増え、雇用も回復する時期があり、製造業雇用も1970年代末には一時的に過去最高水準へ達しました。より重要なのは、経済がどこで成長し、どの産業が利益を上げ、どの地域と労働者が負担を受けるのかという構造が変わり始めたことです。

その転換を象徴するのが1973年の石油危機です。1973年10月、第4次中東戦争のさなか、アメリカがIsraelを支援したことへの対応としてArab oil-producing statesはUnited Statesなどへの石油輸出を制限し、生産削減を進めました。Federal Reserve Historyによれば、原油価格は禁輸前の1barrel約2.90ドルから1974年1月には11.65ドルへほぼ4倍になりました。gasoline stationでは販売量制限や長い車列が現れ、エネルギーが無制限に安く供給されるという戦後アメリカの前提が崩れました。

ただし1970年代のinflationを「OPECが石油価格を上げたから起きた」と説明するのは不十分です。Federal Reserve自身の歴史研究は、Great Inflationが1965年頃から1982年まで続いた長期現象であり、Vietnam War期の財政・金融環境、1971年以後のBretton Woods体制崩壊、ドルの変動、世界景気、食料価格、productivity slowdown、金融政策、そして二度のoil shockが重なったと整理しています。1973年の石油危機は、すでに存在していたinflation pressureを一段と悪化させた出来事でした。

この時期に広く使われるようになった言葉がstagflationです。通常、景気が悪化して失業が増えれば物価上昇率は低下し、景気が過熱すれば物価が上がると考えられていました。しかし1970年代には高いinflationと高いunemploymentが同時に起こります。Bureau of Labor Statisticsによれば、unemployment rateは1973年の年平均4.9%から1975年には8.5%へ上昇しました。一方、Consumer Price Indexは1974年に年平均11.0%上昇しました。

1973年末から1975年にかけて企業投資と消費は弱まり、auto、steel、constructionなど景気循環に敏感な産業で雇用が大きく減りました。BLSの製造業雇用統計では1973年の約1,859万人から1975年には約1,691万人まで低下しています。energy cost、interest rates、inventory adjustment、国内外需要など複数の要因が重なり、戦後の主要な景気後退の一つとなりました。

Gerald Fordが1974年8月に大統領へ就任した時、政治社会はWatergateとNixon辞任だけでなく、inflation、recession、energy shortageに直面していました。Fordは同年10月、Whip Inflation Now、WINを掲げ、連邦支出抑制、energy conservation、個人の節約などを呼びかけました。しかし「節約すればinflationに勝てる」というpublic campaignだけでは経済問題を解決できず、1975年には政策の重点を景気回復と雇用へも移さざるを得ませんでした。

同じ1975年、New York Cityは深刻な財政危機に陥りました。市は長年、経常的な歳出不足を短期借入で補い、会計報告にも問題を抱えていました。産業・人口構造の変化と税基盤の弱まりも重なり、投資家が市の短期債を購入しなくなると資金繰りが破綻寸前となりました。New York City自身の財政制度史は、1975年にpublic credit marketsへのaccessを失ったことが危機を決定的にしたと説明しています。

New York StateはMunicipal Assistance CorporationとEmergency Financial Control Boardを設置し、市へ厳しい財政監督を導入しました。balanced budget、複数年financial plan、会計基準の改善が求められ、municipal workforceやpublic servicesにも大きな削減圧力がかかりました。1970年代New Yorkの危機は、都市政府が無制限に借金できる時代の終わりを象徴し、以後の都市政策で「財政規律」がより強く意識される契機となりました。

石油危機への対応はenergy policyを恒久的な連邦政策分野へ変えました。1975年12月、FordはEnergy Policy and Conservation Actへ署名しました。この法律はStrategic Petroleum Reserve、SPRの創設を認め、自動車のCorporate Average Fuel Economy、CAFE基準を導入し、consumer productsのenergy efficiencyに関する連邦制度の基礎も作りました。

SPRはGulf Coastの地下salt cavernsを利用して緊急時の原油を備蓄する仕組みです。Department of Energyによれば、1975年法は最大10億barrels規模のreserveを認め、1977年7月に最初の約412,000 barrelsがWest Hackberryへ搬入されました。1973年のgasoline linesは、石油供給途絶を単なる市場価格の問題ではなくnational securityの問題として扱う政策へつながりました。

CAFEも自動車産業を変える重要な制度でした。1975年Energy Policy and Conservation Actは1978 model yearから新車fleetに燃費基準を課す仕組みを作りました。大型車と高排気量engineを中心としていたDetroit automakersは、燃料価格上昇とJapanese small carsの競争だけでなく、連邦燃費規制への対応も迫られました。

しかし1970年代の産業転換を「Detroitが衰退し、製造業が消えた」とまとめるのも正確ではありません。BLSの全国製造業雇用は1975年の落ち込み後に回復し、1979年には約1,943万人とこの統計系列の高水準へ達しました。したがってdeindustrializationの初期局面は、全国の製造業雇用が一直線に減ったというより、古い工場・都市・産業で閉鎖が集中する一方、別地域・別業種では製造業が拡大する地理的再編として見る必要があります。

その象徴的事例の一つがOhio州Youngstownです。1977年9月19日、Youngstown Sheet and Tube CompanyはCampbell Worksの主要設備閉鎖を発表しました。Congressional hearing資料は、この閉鎖に伴い約4,100人が数か月にわたりlayoffされたと記録しています。地域ではこの日が「Black Monday」と呼ばれ、続くsteel plant closuresによってMahoning Valleyの産業基盤は急速に縮小しました。

Youngstownのような事例は、後に「Rust Belt」と呼ばれるMidwest・Northeast旧工業地域の問題を可視化しました。しかし原因をforeign importsだけ、union wagesだけ、technologyだけ、environmental regulationだけに求めることはできません。古いplant設備、企業投資判断、international competition、productivity change、エネルギー価格、需要構造、企業の地域移転など複数要因が重なりました。

一方、SouthとWestでは人口・雇用が大きく増加しました。Censusによれば、1970年から1980年にかけてUnited States全体の人口shareはSouthが30.9%から33.3%へ、Westが17.1%から19.1%へ上昇しました。Northeastは24.1%から21.7%、Midwestは27.8%から26.0%へ低下しました。Censusのmigration調査も1970年代にNortheast・North CentralからSouth・Westへのnet outmigrationが続いたことを確認しています。

このSouth・Westの成長地域は一般にSun Beltと呼ばれます。ただしSun BeltはCensusの正式地域区分ではなく、Florida、Texas、Arizona、Californiaなどを含む幅広い概念です。その成長要因も一つではありません。air conditioning、interstate highways、低価格の土地、defense and aerospace spending、oil and gas industry、retirement migration、suburban development、right-to-work laws、population migrationなどが地域ごとに異なる比率で作用しました。

1970年代の人口移動は、政治的な力の地理も変えていきました。人口が増えればHouse of Representativesの議席配分やelectoral votesも長期的にSouth・Westへ移ります。企業本社、住宅開発、service sector、defense contractorsなどもSun Beltの都市圏で拡大し、New York、Detroit、Cleveland、Pittsburghなど旧来のindustrial metropolisだけがAmerican economyを代表する構造ではなくなっていきました。

Jimmy Carterは1977年1月に大統領へ就任すると、energy policyを政権の中心課題に置きました。同年4月18日のテレビ演説でenergy crisisを「moral equivalent of war」と表現し、conservation、domestic production、新energy sources、pricing reformを組み合わせたNational Energy Planを提案しました。この言葉は、石油問題を一時的なgasoline shortageではなく、長期的な産業・外交・生活様式の問題として位置づけたことを示します。

1977年8月、CarterはDepartment of Energy Organization Actへ署名し、10月1日にDepartment of Energy、DOEが発足しました。DOEはFederal Energy Administration、Energy Research and Development Administrationなど30を超える分散したenergy functionsを統合し、cabinet-level departmentとしてenergy policy、research、nuclear weapons、conservationを一つの行政体系にまとめました。

同じCarter政権期には、energy以外でもeconomic regulationを市場競争へ移す政策が進みます。1978年Airline Deregulation ActはCivil Aeronautics Boardによるfare、route、market entry regulationを段階的に縮小しました。1980年Motor Carrier Actはtrucking regulationを大幅に緩和し、同年Staggers Rail Actもrailroad regulationの市場化を進めました。

このderegulationを1980年代Reagan政権だけの政策として説明するのは正確ではありません。transportation deregulationはDemocratic Carter administrationとCongressの超党派的な政策転換として1970年代後半から進みました。inflation、低productivity、規制産業の非効率性への懸念の中で、「政府が価格と参入を細かく管理するよりcompetitionを使うべきだ」という考えが広がっていました。

1978年頃には景気と雇用は一度改善します。BLSによれば年平均unemployment rateは1975年8.5%から1978年6.1%へ低下しました。しかしinflationは再び加速し、1978年末にはCPIの前年比上昇率が9%前後まで上がっていました。景気回復が物価安定を伴わなかったことが政策を難しくしました。

そして1978年末から1979年、Iranian Revolutionを背景に世界のoil supplyへ再び不安が広がりました。Federal Reserve Historyによれば、oil priceは1979年4月から1980年4月の間に2倍以上へ上昇しました。実際の供給減だけでなく、さらなる不足を恐れたprecautionary demandやhoardingもprice surgeを拡大したとされています。

1979年夏、アメリカでは再びgasoline linesが現れ、energy policyへの不満が強まりました。7月15日、Carterはtelevision addressでenergy crisisを、政治制度と社会の「confidence」の問題へ結びつけました。この演説は後に「malaise speech」と呼ばれることがありますが、Carter自身は演説中にmalaiseという単語を使っていません。

演説では石油輸入削減、synthetic fuels、solar energy、conservation、public transportationなどを進める方針が示されました。しかし国民が「信頼を失っている」とするCarterの診断には賛否があり、支持者は長期的なenergy transitionを語った演説と評価する一方、批判者は経済的困難の責任を国民の心理へ移していると受け止めました。これは当時から評価が分かれた政治的speechでした。

1979年の第二次oil shockはすでに高かったinflationをさらに押し上げました。BLSによればConsumer Price Indexの年平均上昇率は1979年11.3%、1980年13.5%でした。食料、housing、energy、interest-sensitive costsが家計へ大きな負担を与え、「給料が上がっても実質購買力が増えない」という感覚が広がりました。

Federal Reserveの対応も転換します。Carterは1979年8月にNew York Fed PresidentだったPaul VolckerをFederal Reserve Board Chairmanへ指名しました。10月、VolckerとFederal Open Market Committeeはmoney supply controlをより重視する新しい運営方針を発表し、inflationを抑えるため金融引締めを強めました。

この政策の効果と負担は1980年代初頭により明確になります。Federal Reserve Historyによれば、federal funds rateはVolcker就任時の約11%から1981年には19%付近まで上昇し、その後inflationは大幅に低下しました。しかし高金利はhousing、auto、manufacturingを強く抑制し、1980年と1981–82年の景気後退へ大きな負担を与えました。1979年の政策転換は、1970年代のinflationを終わらせる代わりに短期的な失業増を受け入れる方向への転換でした。

自動車産業の危機もこの構造変化を象徴しました。Chryslerは1970年代末、energy-efficient carsへの需要変化、販売不振、資金難に直面しました。Congressは1979年Chrysler Corporation Loan Guarantee Actを成立させ、最大15億ドルのfederal loan guaranteesを認めました。これは政府がChryslerへ15億ドルを直接贈与する法律ではなく、一定条件のもと民間借入を連邦政府が保証する仕組みでした。

Chrysler支援は「政府は市場に介入すべきか」「大企業を救済することは適切か」「大量雇用とsupplier networkを守ることをどう評価するか」という論争を生みました。市場competitionを重視するderegulationと、大企業へのloan guaranteeが同じ時期に存在したことは、1970年代末の政策が単純な「small government」へ一直線に進んでいたわけではないことを示します。

1980年、Federal Reserveの高金利、credit controls、第二次oil shockの影響などによって景気は再び悪化しました。BLSの四半期unemployment rateは1979年末5.9%から1980年第3四半期7.7%へ上昇しました。製造業雇用も1979年約1,943万人から1980年約1,873万人へ減少しました。

この時点で、戦後アメリカ経済の問題設定は大きく変わっていました。1960年代には「成長をどう分配するか」が主要な問いの一つでしたが、1970年代末にはinflationをどう止めるか、energy dependenceをどう減らすか、古い産業都市をどう再生するか、国際競争にどう対応するか、政府規制をどこまで残すかという問いが前面に出ました。

この変化を「製造業からservice economyへ移った」とだけまとめることにも注意が必要です。manufacturingは依然として巨大であり、South・Westやsuburbsでは新しい工場、aerospace、electronics、energy-related industryが成長しました。問題は産業そのものの消滅ではなく、生産拠点、technology、企業組織、労働市場、地域間の力関係が組み替えられたことでした。

また1970年代のSun Belt growthは、Northeast・Midwestの「失敗」とSouth・Westの「成功」という単純な競争でもありません。New YorkやChicagoはfinance、media、professional servicesなどで大きな役割を維持し、CaliforniaやTexasにもenergy shock、housing costs、inequalityなど独自の問題がありました。地域再編とは、一つの地域が完全に衰退し別の地域が完全に置き換えたことではなく、人口とinvestmentの重心が移動したことを意味します。

1973–1980年は、後のReagan eraを理解するための「前史」にとどまりません。この期間そのものにenergy conservation、strategic oil reserve、fuel economy regulation、deregulation、monetary tightening、corporate rescue、urban fiscal controlなど、1980年代以後も続く政策装置が作られました。政策思想も、New Deal以後のgovernment managementを単純に拡張する方向から、市場競争と制度改革を組み合わせる方向へ変化していました。

戦後型アメリカ経済はこの時期に消えたのではなく、複数の制度が同時に更新されました。石油危機はenergy policyを変え、stagflationはmacroeconomic policyを変え、都市財政危機はlocal governmentを変え、regional migrationは政治地理を変え、industrial restructuringは労働者と都市の生活を変えました。1970年代後半は「停滞の時代」であると同時に、次の経済秩序が組み立てられ始めた時代でもありました。

1973年以前 — Great Inflationの前史

1973年のoil shock以前から、アメリカではinflationが問題化していました。Federal Reserve HistoryはGreat Inflationの期間をおおむね1965–1982年としています。

1960年代後半にはVietnam War、Great Society、民間需要の拡大が重なる中で物価上昇が強まり、monetary policyが十分にinflationを抑えられない局面が続きました。

1970年代の経済危機を理解するには、oil embargoを突然の出発点とせず、すでに続いていたinflationの上へenergy shockが重なったと見る必要があります。

Bretton Woods崩壊とドル

1971年8月、Nixonはdollarとgoldの交換停止を発表し、Bretton Woodsの固定相場制度は解体へ向かいました。

dollarのdevaluationはアメリカ輸出競争力を支える側面がある一方、dollar建てで取引されるimport pricesを押し上げ、oil-producing countriesの実質収入にも影響しました。

Federal Reserve Historyは1973年oil-price riseの背景として、oil demandや産油国のmarket powerだけでなくdollar valueの変化も重要だったとしています。

1973年 Arab Oil Embargo

1973年10月、EgyptとSyriaがIsraelへ攻撃し、第4次中東戦争が始まりました。

10月19日、United StatesがIsraelへの軍事支援を進める中、Arab members of OAPECはUnited Statesへのoil embargoとproduction cutsを開始しました。

embargoは1974年3月に解除されましたが、価格は危機以前の水準へ戻らず、世界のenergy economyは構造的に変化しました。

原油価格の急騰

Federal Reserve Historyによれば、oil priceはembargo前の1barrel約2.90ドルから1974年1月には11.65ドルへ上昇しました。

oilはgasolineだけでなくtransportation、petrochemicals、manufacturing、heating、electricityなど広い経済活動へ影響するため、価格上昇は企業costと家計支出の双方へ波及しました。

energy-intensiveなAmerican suburban lifestyleと大型自動車への依存が、国際oil marketの変化へ脆弱であることが明確になりました。

gasoline linesと日常生活

供給制限とdistribution problemsによって一部gas stationsでは在庫がなくなり、購入量制限や長いcar linesが発生しました。

EIAのenergy historyは、1973年に一部stationsでgasolineが不足し、車が長時間列を作ったことを記録しています。

energy crisisはmacroeconomic statisticsではなく、「いつ車へ給油できるのか」という日常生活の問題として一般家庭へ入りました。

inflationは石油だけが原因ではない

oil-price shockは1970年代inflationの重要要因でしたが、Federal Reserveはそれだけで説明していません。

当時Fed Chair Arthur BurnsはVietnam Warのfinancing、dollar devaluations、1972–73年世界的boom、food-price shocks、oil prices、productivity slowdownなど複数要因を列挙しました。

後世のmonetary historiansは、central bankがsupply shockそのものを消せなくても、それが長期inflationへ定着する程度にはmonetary policyが影響すると指摘しています。

Stagflationとは何だったのか

stagflationはstagnationとinflationを組み合わせた言葉で、経済成長が弱く失業が高いのに物価も上がる状態を指します。

戦後macroeconomic policyではinflationとunemploymentの間に比較的安定したtrade-offがあるという理解が強かったため、両方が同時に悪化する1970年代の経験は政策frameworkを揺さぶりました。

oil shocks、inflation expectations、productivity、wage-price dynamics、monetary policyをどう理解するかが経済学上の大きな争点となりました。

1973–1975年の景気後退

energy shockの時期にinvestmentとconsumptionが弱まり、auto、construction、manufacturingが大きく落ち込みました。

企業は高いinput costsと低い需要に同時に直面し、inventory削減とlayoffを進めました。

1975年に入ると景気は底へ近づきましたが、失業の改善には時間がかかりました。

1975年 unemployment 8.5%

Bureau of Labor Statisticsによれば、年平均unemployment rateは1973年4.9%、1974年5.6%、1975年8.5%でした。

1975年第2四半期には季節調整済みの四半期平均で8.9%へ達しました。

高失業と高inflationが同時に存在したことが、当時のpolicymakersが従来型の刺激策・引締策のどちらか一方だけでは対応しにくかった理由です。

Ford政権と経済危機

Gerald Fordは1974年8月、Nixon辞任後に大統領へ就任しました。政権発足時の中心的domestic issueはWatergate後の政治信頼だけではなく、inflation、recession、energyでした。

Fordは当初inflationを最大の問題として強く位置づけ、federal spending restraintとprivate conservationを訴えました。

しかし1974年末から失業が急上昇すると、政策はinflationだけでなくrecession recoveryも考慮する方向へ変わりました。

Whip Inflation Now

1974年10月8日、FordはCongressへの演説でWhip Inflation Now、WIN campaignを発表しました。

節約、waste reduction、energy conservationなど国民のvoluntary actionもinflation対策として呼びかけ、WIN buttonが配布されました。

campaignはpublic symbolとして有名になりましたが、complexなinflationをindividual thriftへ還元しすぎているという批判も当時からありました。Ford自身も後にはinflation、recession、energyを同時に扱う必要を強調しました。

1975年 New York City財政危機

1975年、New York Cityは短期債を市場で借り換えられなくなり、default寸前へ追い込まれました。

New York Cityのcharter reform資料は、長年の支出超過をshort-term debtで補ったこと、不十分なfinancial reportingとaccountingによって信用を失ったことを危機の主要背景として挙げています。

現在のCity Comptrollerも、global economic changesと市自身のweak financial practicesが組み合わさった危機だったと整理しています。

財政監督と都市政策

New York StateはMunicipal Assistance CorporationとEmergency Financial Control Boardを設置し、City financesへ強い監督を導入しました。

Financial Emergency Actはbalanced budget requirement、generally accepted accounting principles、four-year financial planなどを制度化しました。

危機対応ではmunicipal employment、wages、services、capital spendingが大きな圧力を受け、1970年代のurban governanceで財政制約が政策そのものを規定することが可視化されました。

1975年 Energy Policy and Conservation Act

1975年12月22日、FordはEnergy Policy and Conservation Act、EPCAへ署名しました。

Department of Energyのtimelineによれば、lawはoil price controlsを延長し、自動車fuel-economy standardsを義務化し、Strategic Petroleum Reserve創設を認めました。

1973–74年oil shockを一時的crisisとしてではなく、恒久的なenergy security policyで対応する転換でした。

Strategic Petroleum Reserve

Strategic Petroleum Reserve、SPRは大規模なcrude oil stockpileを持ち、輸入途絶など非常時にreleaseできるようにする制度です。

DOEによれば1975年法は最大10億barrelsのreserveを認め、Gulf Coastのsalt cavernsがstorage siteとして選ばれました。

1977年7月21日に約412,000 barrelsのSaudi light crudeが最初に搬入され、実際の備蓄が始まりました。

CAFEと燃費規制

EPCAはCorporate Average Fuel Economy、CAFE standardsも創設しました。

Department of Energyによれば、1978 model yearからnew motor vehiclesのfleet-average fuel efficiencyを高める制度が導入されました。

gasoline shortageとoil import vulnerabilityが、自動車のengine size、weight、designをprivate consumer choiceだけでなくenergy policyの対象へ変えました。

自動車産業の変化

1970年代のDetroit automakersはfuel prices、emissions rules、safety standards、Japanese automakersとのcompetition、consumer preferenceの変化へ同時に対応する必要がありました。

大型vehicle中心のproduct lineはoil-price shockで不利になり、小型・fuel-efficient vehiclesへの需要が増えました。

この転換は後のChrysler crisisにもつながりますが、American auto industry全体が1970年代だけで崩壊したわけではなく、salesとemploymentは景気循環によって回復する時期もありました。

1970年代製造業をどう見るか

「1970年代にAmerican manufacturing employmentが一貫して減少した」という説明は統計上正確ではありません。

BLSによれば製造業雇用は1973年18.59 millionから1975年16.91 millionへ落ち込みましたが、その後増え、1979年には19.43 millionへ達しました。

本格的で持続的なnational manufacturing-employment declineは1980年代以後により明確になります。1970年代はその前段階として地域・産業間の再配置が大きく進んだ時代でした。

1977年 Youngstown steel closure

regional deindustrializationを象徴する出来事の一つがYoungstown, Ohioのsteel closuresです。

1977年9月19日、Youngstown Sheet and TubeはCampbell Worksの主要部門閉鎖を発表しました。1979年のCongressional hearing reportは約4,100人が数か月にわたりlayoffされたとしています。

Ohio History Connectionもこの日を地域で「Black Monday」と呼ばれた出来事として記録しています。その後もMahoning Valleyではsteel closuresが続きました。

「Rust Belt」形成の初期局面

Youngstown、Detroit、Cleveland、Buffalo、Pittsburghなど旧工業都市ではplant shutdowns、population loss、税収低下が地域社会へ集中しました。

後に「Rust Belt」と呼ばれる地理的imageは、こうした1970年代末から1980年代前半の工業縮小によって強まりました。

ただしすべてのMidwest・Northeast citiesが同じ速度で衰退したわけではなく、finance、education、health care、advanced manufacturingへ転換した都市もありました。

Deindustrializationを単一原因にしない

工場閉鎖の原因をforeign competitionだけにする説明は不十分です。

steel and auto industriesではold plant and equipment、new production technology、global competition、企業のcapital allocation、energy costs、labor relations、suburban and regional shiftsなど複数要因が作用しました。

政策論争ではimports、union wages、taxes、environmental rulesなど異なる原因が強調されましたが、地域ごとに条件は異なりました。

Sun Beltの人口成長

同じ時期、SouthとWestの人口shareは大きく増えました。

CensusではSouthのshareが1970年30.9%から1980年33.3%へ、Westは17.1%から19.1%へ上昇しました。

Northeastは24.1%から21.7%、Midwestは27.8%から26.0%へ低下しています。

Northeast・MidwestからSouth・Westへ

Censusの1975–1979 mobility studyは、NortheastとNorth CentralからSouth・Westへのnet outmigrationが1970年代前半から続いていたと報告しています。

retirement、jobs、housing、climate、military bases、energy and aerospace industriesなどmigration理由は多様でした。

Sun Belt growthは一つの産業政策の結果ではなく、戦後から続く人口移動が1970年代にさらに強まった現象でした。

人口重心と政治地理

人口移動はeconomyだけでなくpolitical representationにも影響しました。

decennial census後のHouse reapportionmentでは人口が増えたSouth and West statesが長期的に議席を増やし、Northeast and Midwestの比重が低下しました。

Sun Beltの都市圏成長はsuburban homeowners、energy industry、defense sector、new immigrant communitiesなど異なる政治勢力を拡大させました。

1977年 CarterとNational Energy Plan

Jimmy Carterは1977年就任直後からenergyをmajor domestic priorityにしました。

4月18日のaddressではoil and natural gasへの依存、imports増大、domestic production declineへの懸念を示し、conservationとdomestic energy developmentを組み合わせる必要を訴えました。

4月20日にはCongressへNational Energy Planを提示し、pricing、taxes、conservation、production、alternative energyを含む包括的な政策を求めました。

「moral equivalent of war」

Carterはenergy challengeを「moral equivalent of war」と表現しました。

これは実際の戦争を求める意味ではなく、energy conservationにnational mobilizationに近い長期的commitmentが必要だという比喩でした。

speechは1973年gas linesが消えた後もenergy vulnerabilityは残っていると主張し、短期危機から長期energy strategyへpublic attentionを戻そうとしました。

Department of Energy設立

1977年8月4日、CarterはDepartment of Energy Organization Actへ署名しました。

DOEは1977年10月1日に活動を開始し、Federal Energy Administration、Energy Research and Development Administrationなど30以上のfederal energy functionsを統合しました。

energy regulation、research、nuclear weapons、conservationをcabinet departmentの中で扱う現在の行政構造は、この1970年代energy crisisから生まれました。

conservationという政策

1970年代以前、energy policyは国内生産を増やすことへ重点が置かれがちでした。

oil shocks後はfuel economy、building and appliance efficiency、public transportation、insulation、temperature controlなど「消費量を減らす」こと自体が政策手段として拡大しました。

DOEによれば1975年EPCAはconsumer productsのenergy-efficiency test and labeling programの基礎も作りました。

規制緩和への転換

1970年代後半には別のeconomic policy shiftも進みました。それがtransportation sectorsのderegulationです。

従来、federal agenciesはairline routes and fares、trucking rates and entryなどを細かく管理していました。

inflationとproductivityへの懸念がある中、competitionを増やしてprice and efficiencyを改善するという政策がCarter administrationとCongressで支持されました。

1978年 Airline Deregulation Act

1978年Airline Deregulation Actはdomestic airline fares、routes、market entryに対するCivil Aeronautics Boardのeconomic controlを段階的に縮小しました。

Department of Transportationはこのlawがinterstate and domestic overseas air transportationのeconomic deregulationへ期限と政策を設定したと説明しています。

小規模都市がserviceを失う懸念に対応するためEssential Air Service programも同時に設けられました。

1980年 Motor Carrier Act

1980年Motor Carrier Actはtrucking industryへのeconomic regulationを大幅に緩和しました。

Department of Transportationの歴史資料は、1978–1984年にairlines、trucking、railroadsなどで超党派的なderegulation legislationが続いたと説明しています。

この政策転換はReagan administration以前から始まっており、1970年代末のeconomic restructuringの一部でした。

1976–1978年の雇用回復

1975年不況の後、雇用は回復しました。

BLSの年平均unemployment rateは1975年8.5%、1976年7.7%、1977年7.1%、1978年6.1%へ低下しました。

しかしこの回復と同時にinflationは再加速しており、「成長すれば物価も自然に安定する」という状況ではありませんでした。

1979年 第二次Oil Shock

1978年末からIranian RevolutionによってIranian oil productionが大きく混乱し、世界市場は再び供給不安へ直面しました。

Federal Reserve Historyによればoil pricesは1979年4月から1980年4月の間に2倍以上になりました。

実際の供給減だけでなく、将来のshortageを恐れたprecautionary demandとspeculative hoardingもprice surgeを大きくしたとされています。

Iranian Revolutionと供給不安

Iranは当時世界の主要oil exportersの一つであり、revolution前後のstrikesと政治混乱でproductionが急減しました。

他国のproduction increaseで物理的shortageの一部は補われましたが、market participantsはさらに供給が失われることを恐れました。

1973年の経験が記憶されていたため、fear itselfがinventory accumulationを促しprice pressureを強めました。

1979年 gasoline shortage

1979年夏、一部地域では再びgas stationsにlong linesができ、曜日やlicense plate numberによる販売制限を導入する州もありました。

energy shortageへのpublic frustrationはCarter administrationへのpolitical pressureを強めました。

1970年代に二度のgasoline crisisを経験したことで、energy dependenceはAmerican household cultureとforeign policyの両方を結ぶ問題として定着しました。

Carterの「Crisis of Confidence」演説

1979年7月15日、Carterはtelevised addressでenergy problemをAmerican societyの「crisis of confidence」と結びつけました。

speechは政治・政府・media・businessへの信頼低下、material consumptionへの過度な依存を問題として挙げ、energy conservationをnational renewalの一部として位置づけました。

同時にoil imports削減、alternative energy、public transportationなど具体政策も提示しました。

「malaise speech」という後世の呼称

この演説は後にしばしば「malaise speech」と呼ばれます。

しかしofficial transcriptではCarterはmalaiseという単語を一度も使用していません。呼称はspeechのtoneを要約するlater labelです。

歴史記事ではnicknameをそのまま本人の発言として引用しないことが重要です。

1979–1980年の二桁inflation

Bureau of Labor StatisticsによればCPIの年平均上昇率は1979年11.3%、1980年13.5%でした。

1980年春にはyear-over-year CPIが14%台へ達する月もありました。

inflationはfood、housing、mortgage-related costs、energyなど生活の広い領域へ及び、wage increaseがあってもreal purchasing powerを維持できない世帯が増えました。

Paul Volcker就任

1979年夏、CarterはFederal Reserve Chair G. William MillerをTreasury Secretaryへ移し、New York Fed President Paul Volckerを新しいFed Chairへ指名しました。

Federal Reserve Historyによれば、Volckerはconfirmation hearingの段階からinflation抑制を最優先する姿勢を明確にしました。

appointmentはCarter administrationが高inflationに対してより強いmonetary restraintを受け入れるsignalとなりました。

1979年10月 Federal Reserveの転換

1979年10月、Volcker率いるFOMCはmoney supplyを抑制するため、reserve quantitiesをより重視する新しいoperating proceduresを発表しました。

interest ratesを特定水準へ滑らかに誘導する従来方式より、market ratesの大きな変動を許容する政策となりました。

目的はinflation expectationsを抑え、Federal Reserveがprice stabilityを優先することを市場へ示すことでした。

高金利政策への入口

Volcker policyの最も激しい部分は1981–82年ですが、転換は1979年に始まりました。

Federal Reserve Historyによればfederal funds rateはVolcker就任時約11%から1981年に19%近くへ上昇しました。

高金利はinflationを抑える一方、住宅ローン、自動車購入、設備投資を難しくし、manufacturing and constructionへ強い負担を与えました。

Chrysler危機

1970年代末、Chrysler Corporationはsales decline、high debt、model mixの問題、energy-efficient carsへの需要変化などから深刻な資金難へ入りました。

Chryslerは全米に大量の直接雇用とsupplier jobsを持つため、failureがregional employmentへ与える影響も議論されました。

Lee Iacocca率いるmanagementはfederal governmentへloan guaranteeを求めました。

1979年 Chrysler Loan Guarantee Act

1979年末、CongressはChrysler Corporation Loan Guarantee Actを成立させました。

GAO資料によればfederal guarantee authorityはloan principal最大15億ドルで、直接15億ドルを無条件給付する制度ではありませんでした。

government interventionとmarket disciplineをどう両立させるかという議論は、後のcorporate rescue政策にも繰り返し現れる論点となります。

1980年景気後退

1980年、第二次oil shockとmonetary tighteningの中でeconomyは再び悪化しました。

BLSによれば季節調整済みunemployment rateは1979年第4四半期5.9%から1980年第2四半期7.3%、第3四半期7.7%へ上昇しました。

manufacturing employmentも1979年19.43 millionから1980年18.73 millionへ低下しました。

戦後型経済から何が変わったのか

戦後数十年間のAmerican economic modelは、cheap energy、large-scale manufacturing、suburban expansion、stable industrial employment、高いproductivity growthを前提としていました。

1970年代はその各要素へ同時に圧力が加わりました。energy priceは上昇し、old industrial citiesではplant closuresが起こり、populationはSouth and Westへ移動し、inflationがlong-term contractsとhousehold planningを不安定にしました。

政府の対応もenergy regulation、efficiency standards、strategic stockpile、urban fiscal control、deregulation、monetary tighteningという相互に異なる政策を組み合わせるものになりました。

1973–1980年に何が変わったのか

第一に、energy securityが恒久的なnational policyになりました。oil embargoはSPR、CAFE、DOEなど現在まで続くinstitutionを生みました。

第二に、stagflationが戦後macroeconomic policyの前提を揺さぶりました。high unemploymentとhigh inflationへの同時対応が難しく、1979年にはFederal Reserveがprice stabilityをより強く優先する方向へ転換しました。

第三に、industrial geographyが変わり始めました。national manufacturing employmentは1970年代末まで高水準でしたが、Youngstownのような旧工業地域ではplant closureが集中し、地域経済へ深刻な影響を与えました。

第四に、population and investmentの重心がSouth・Westへ移りました。Sun Belt growthはpolitical representation、housing、business locationを長期的に変えました。

第五に、New York City fiscal crisisはurban governmentにbalanced budgets、financial oversight、multi-year planningを強く要求する新しいmunicipal finance modelを作りました。

第六に、transportation deregulationがCarter eraから進みました。competitionを用いてpriceとefficiencyを改善する政策は1980年代以後のmarket-oriented reformへつながりました。

第七に、政府介入が単純に縮小したわけではありません。規制緩和と同じ時期にChrysler loan guarantee、energy stockpile、fuel-economy standardsなど新しいgovernment interventionsも作られました。

1973–1980年は「アメリカ経済が衰退した七年間」ではなく、戦後型growth modelの限界が明確になり、energy、money、industry、cities、regionsをめぐる次の制度が同時に作られ始めた転換期でした。

1973–1980年の主な出来事

  • 1973年10月 — 第4次中東戦争。Arab oil producersがUnited Statesへの石油禁輸・生産削減を開始。
  • 1973年末–1974年 — gasoline shortagesと長い給油待ちが発生。
  • 1974年1月 — 原油価格がembargo前の約4倍へ。
  • 1974年3月 — Arab oil embargo解除。高いoil pricesは継続。
  • 1974年8月9日 — Gerald Fordが大統領就任。
  • 1974年10月8日 — FordがWhip Inflation Now、WINを発表。
  • 1975年 — 年平均unemployment rate 8.5%。
  • 1975年 — New York Cityが深刻なfiscal crisisへ。州による財政監督制度が成立。
  • 1975年12月22日 — Energy Policy and Conservation Act成立。SPRとCAFE制度を創設。
  • 1977年7月21日 — Strategic Petroleum Reserveへ最初のcrude oil搬入。
  • 1977年9月19日 — Youngstown Sheet and TubeがCampbell Works主要部門閉鎖を発表。
  • 1977年8月4日 — CarterがDepartment of Energy Organization Actへ署名。
  • 1977年10月1日 — Department of Energy正式発足。
  • 1978年 — unemployment rate年平均6.1%まで低下する一方、inflationが再加速。
  • 1978年10月24日 — Airline Deregulation Act成立。
  • 1978–1979年 — Iranian Revolutionを背景に第二次oil shock。
  • 1979年夏 — United States各地で再びgasoline lines。
  • 1979年7月15日 — Carterが「Crisis of Confidence」energy address。
  • 1979年8月 — Paul VolckerがFederal Reserve Board Chairmanに就任。
  • 1979年10月6日 — Federal Reserveが新しいanti-inflation operating proceduresを発表。
  • 1979年 — CPI年平均11.3%上昇。
  • 1979年末 — Chrysler Corporation Loan Guarantee Act成立。最大15億ドルのloan guaranteesを認可。
  • 1980年 — CPI年平均13.5%上昇。
  • 1980年 — 景気後退でunemploymentが再上昇。
  • 1980年7月 — Motor Carrier Act成立。truckingのeconomic regulationを大幅緩和。
  • 1980年10月 — Staggers Rail Act成立。railroadのeconomic deregulationを拡大。

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1970年代のstagflation、energy crisis、industrial restructuringを背景に、1980年大統領選挙ではtax、government regulation、inflation、Soviet Unionへの対応などが主要争点となりました。Ronald Reaganの1981年就任後には大規模減税、規制緩和、defense spending増加、labor relationsの転換が進みます。

ただし1980年代を単純に「governmentからmarketへ」と説明することはできません。Federal Reserveのanti-inflation policyはCarter政権期に始まり、transportation deregulationも1978–80年に進んでいました。Reagan eraはそれらを引き継ぎながら、tax、labor、welfare、defenseをより広いpolitical programとして再構成した時代です。

次の記事は、1980–1988|アメリカ|Reagan Eraと経済政策転換 — Tax Cuts、PATCO、Deregulation、Defense Buildupとすると、1970年代に始まった経済構造転換が1980年代にどう制度化されたかを追えます。

参考資料・出典

本ページはFederal Reserve History、U.S. Bureau of Labor Statistics、U.S. Energy Information Administration、U.S. Department of Energy、U.S. Census Bureau、New York City、U.S. Department of Transportation、U.S. Government Accountability Office、American Presidency Project、GovInfoなどの公的資料を中心に参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。1970年代inflationを1973年oil embargoだけの結果とはせず、Great Inflationの長期的背景と複数要因を区別しました。またdeindustrializationについては、1970年代の全国製造業雇用が一貫して減少したわけではないため、Youngstownなど旧工業地域の地域的縮小と全国総数を分けて記述しています。

資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY