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World History

1919–1924

アメリカ|戦後反動と1920年代への入口

Red Summer、First Red Scare、禁酒法、女性参政権、移民制限

第一次世界大戦が終わったとき、アメリカ社会が単純に「平時へ戻った」わけではない。1919年から1924年までの数年間には、戦争中に拡大した連邦政府の統制、軍需産業、労働力移動、愛国主義、言論規制、移民への同化圧力が別の形へ変化しながら残った。復員兵が帰国し、軍需契約が縮小し、労働争議が相次ぐ一方、ロシア革命への恐怖と爆弾事件を背景にFirst Red Scareが広がった。人種関係ではGreat Migrationによって北部・中西部の黒人人口が増えた直後にRed Summerが起こり、1921年にはTulsa Race Massacreが発生した。

同じ時期には、政治的権利を拡大する重要な変化もあった。1919年に連邦議会を通過した第19修正条項は1920年8月に批准され、性別を理由に投票権を否定することを憲法上禁止した。数百万人の女性が新たに全国選挙へ参加できるようになった。1924年にはIndian Citizenship Actが成立し、それまで市民権を持っていなかったアメリカ先住民にも連邦市民権が拡張された。

しかし「権利拡大の時代」とだけ捉えることもできない。南部では黒人女性を含むアフリカ系アメリカ人が人頭税、識字試験、白人予備選挙、暴力などによって投票を妨げられた。先住民も1924年に市民権を得た後でさえ、一部州では投票を拒まれた。移民については、1917年の戦時的な「Americanization」と排外主義が戦後にも続き、1921年Emergency Quota Act、1924年Immigration Actによって、国家が移民の出身国構成を数値的に選別する制度が作られた。

禁酒法もこの時代の矛盾を象徴する。第18修正条項は1919年に批准され、Volstead Actにもとづく全国的な酒類禁止は1920年1月に施行された。これは19世紀以来の禁酒運動、女性運動、プロテスタント改革運動、進歩主義的社会改革、第一次世界大戦中の節約・反ドイツ感情が重なって実現した。しかし実施段階では、密造酒、密輸、speakeasy、組織犯罪、警察・行政の腐敗という問題も生み出した。国家が個人の日常行動をどこまで規制できるのかという問いが、酒をめぐって全国規模で可視化された。

1920年大統領選挙で共和党のWarren G. Hardingは「normalcy」への回帰を掲げて大勝した。この言葉は戦争、革命、ストライキ、人種暴力、インフルエンザ、国際主義論争に疲れた社会の気分を捉えた。しかし「正常」へ戻るという政治的言葉とは対照的に、アメリカ社会はすでに大きく変わっていた。1920年国勢調査では初めて人口の過半数が都市居住者となり、ラジオ放送、大量広告、自動車、映画、都市消費文化が急速に拡大する基盤が形成されていた。

したがって1919〜1924年は、第一次世界大戦と「Roaring Twenties」の間にある短い空白ではない。むしろ1920年代の政治と文化を方向づけた決定的な移行期である。女性参政権や先住民市民権のような包摂の拡大と、移民割当・人種暴力・反共弾圧・Ku Klux Klanの拡大のような排除が同じ社会で同時に進んだ。この時代を理解する鍵は、「自由化したのか、保守化したのか」のどちらか一方を選ぶことではなく、政治参加の拡大と境界線の引き直しが並行していたことを見る点にある。

なぜ1919年から1924年なのか

1919年は、第一次世界大戦の国内総動員が解かれ始める一方、その社会的緊張が一気に噴き出した年だった。Seattle General Strike、Boston Police Strike、Steel Strikeなど大規模労働争議が相次ぎ、爆弾事件をきっかけに急進派への恐怖が高まった。Washington D.C.やChicagoなどでは人種暴力が起こり、NAACPのJames Weldon Johnsonはこの年を「Red Summer」と呼んだ。戦争中の「全国的団結」というイメージが崩れ、階級、人種、移民、政治思想をめぐる対立が表面化した。

1924年を一つの終点とする理由は、移民政策と市民権政策に大きな制度変化が集中したためである。Johnson–Reed Actはnational origins quotaを強化し、南・東ヨーロッパからの移民を大幅に制限するとともに、アジアからの移民を広く排除する制度を成立させた。同じ1924年にはIndian Citizenship Actが成立し、アメリカ先住民へ連邦市民権を拡張した。一方では市民の範囲が広がり、他方では国境から入る人々が出身地によって強く選別される。1924年は「誰をアメリカ人とするのか」という戦後社会の問いが、法律として明確に形を取った年だった。

CONTENTS

  1. 1919年 — 総動員を解除するアメリカ
  2. 戦後労働争議 — 戦時協調の終わり
  3. Seattle General Strike
  4. Boston Police StrikeとCalvin Coolidge
  5. 1919年Steel Strike
  6. Red Summer — 戦争後の人種暴力
  7. Washington D.C. — 黒人側の組織的自衛
  8. Chicago — 住宅、労働、都市境界
  9. Elaine — 農村の人種暴力
  10. NAACPと連邦反リンチ法を求める運動
  11. First Red Scare — 「革命」への恐怖
  12. 1919年爆弾事件
  13. Palmer Raids — 司法省による全国摘発
  14. 移民法と国外追放
  15. 戦時言論統制から市民的自由の問題へ
  16. 1920年大統領選挙 — 「normalcy」
  17. 1920年国勢調査 — 初めて都市人口が過半数へ
  18. 1920–1921年不況 — 戦争景気の終わり
  19. 禁酒法施行 — 国家が酒を禁止する
  20. Volstead Actは何を禁止したのか
  21. speakeasy、bootlegging、組織犯罪
  22. 禁酒法と文化・階級・移民
  23. 第19修正条項 — 女性参政権の全国化
  24. 参政権拡大の限界 — 黒人女性、先住民、アジア系女性
  25. 「女性票」は一つの政治勢力だったのか
  26. 参政権獲得後の女性政治運動
  27. 1921年Tulsa Race Massacre
  28. Greenwood — 黒人都市経済を破壊する暴力
  29. Dyer反リンチ法案
  30. 1921年Emergency Quota Act
  31. 移民制限を支えたnativism
  32. Sacco and Vanzetti — 移民・急進主義・司法への疑念
  33. Ku Klux Klanの再拡大
  34. 南部だけではないKlan
  35. 1924年Immigration Act — national origins quota
  36. 南・東ヨーロッパ移民を抑える仕組み
  37. アジア移民排除と日本
  38. Indian Citizenship Act — 市民権の拡張
  39. 市民権と投票権は同じではなかった
  40. 1920年代型の大衆社会へ
  41. この時代を理解するための8つの視点
  42. この時代に何が変わったのか
  43. 主な出来事

1919年 — 総動員を解除するアメリカ

1918年11月11日の休戦後、連邦政府は巨大な戦時体制を短期間で解除し始めた。American Expeditionary Forcesの兵士は帰国し、War Industries Boardなどの戦時経済機関は縮小・解散され、軍需契約も減少した。戦争中に政府が調整していた価格、労働、輸送の関係が民間経済へ戻されていった。

しかし「戦争前の市場」へ簡単に戻ることはできなかった。復員兵が仕事を求める一方、戦時中に工場へ入った女性やGreat Migrationによって北部都市へ移住した黒人労働者も職を維持しようとした。物価は高く、賃金への不満も強かった。戦争中には国家が労使対立を抑えるためNational War Labor Boardを設け、一定の団体交渉を認めていたが、その戦時的保護が弱まると雇用主は組合への対抗姿勢を強めた。

U.S. Department of Laborの公式史は、戦争直後を「労使紛争の流行」と表現している。戦争中に抑えられていた対立が一気に表面化し、1919年のストライキは経済問題であると同時に、後に「革命」「共産主義」と結びつけて語られる政治問題になった。

戦後労働争議 — 戦時協調の終わり

1919年には400万人を超える労働者が何らかのストライキに参加したとされ、アメリカ労働史上でも特に争議の多い年の一つとなった。要求は賃上げ、8時間労働、組合承認、戦時インフレによる実質賃金低下への対応などであり、すべてが革命運動だったわけではない。

しかし1917年ロシア革命の記憶が強い社会では、大規模ストライキそのものが「ボリシェヴィキ革命の前兆」と解釈されることがあった。新聞、企業、政治家の一部は労働争議を「外国人急進派」や「Red」による秩序破壊として描いた。

この「労働争議=革命」というイメージがFirst Red Scareを理解するうえで重要である。実際の労働要求と、それを社会がどう認識したかは分けて考える必要がある。

Seattle General Strike

1919年2月、Seattleで造船所労働者の賃金争議を支援するため、多数の労働組合が参加するGeneral Strikeが始まった。およそ6万人の労働者が参加し、都市機能の大部分が停止した。

ストライキ委員会は食料配給、ゴミ収集、病院など必要なサービスを維持しようとした。Department of Laborの歴史資料によれば、スト中の犯罪率はむしろ低かった。しかしSeattle市長Ole Hansonはストを革命的脅威として描き、警察・軍を準備した。

ストは5日で終わったが、「労働者が都市を運営する」という印象はRed Scareの象徴として全国報道された。実際の争議目的と、革命として語られたイメージの差が、この時代の政治的恐怖をよく示している。

Boston Police StrikeとCalvin Coolidge

1919年9月、Bostonの警察官が賃金、労働条件、組合承認をめぐってストライキを行った。警察不在の間に略奪や暴力が発生し、Massachusetts州知事Calvin Coolidgeは州兵を投入して秩序回復を図った。

Coolidgeは公共安全に関わる者にはストライキの権利はないという立場を示し、全国的な注目を集めた。Department of Laborの歴史資料によれば、州兵と群衆の衝突で民間人の死者も出た。

この事件はCoolidgeを「法と秩序」を守る政治家として全国的に知らしめ、翌1920年共和党副大統領候補となる背景の一つになった。戦後の労働問題が選挙政治と「秩序」言説へ直接接続した例である。

1919年Steel Strike

1919年9月、鉄鋼業で大規模ストライキが始まり、Department of Laborによれば約36万7,000人が参加した。労働者は組合承認、労働時間、賃金などをめぐってU.S. Steelなどと対立した。

企業側は組合を外部勢力・急進派と結びつけ、地域当局は集会や演説を制限した。スト中の衝突では死者も出た。1920年初頭までにストは敗北し、鉄鋼業ではopen shop、つまり組合加入を雇用条件としない企業側の制度が長く優勢となった。

第一次世界大戦中に一時的に拡大した労組の交渉力は、戦後には逆方向へ押し戻された。1920年代の企業社会は労働組合の弱体化と「welfare capitalism」と呼ばれる企業独自の福利厚生政策を組み合わせていく。

Red Summer — 戦争後の人種暴力

1919年夏から秋にかけて、アメリカ各地で黒人住民を標的とする人種暴力と、それに対する黒人側の抵抗が相次いだ。NAACPのJames Weldon Johnsonが「Red Summer」と名づけたこの時期には、Library of Congressによれば25都市で大規模な人種衝突が起きたとされる。

背景には単一の原因ではなく、Great Migrationによる人口移動、住宅不足、雇用競争、復員兵の帰還、黒人退役兵の権利意識、白人優越主義、センセーショナルな新聞報道、リンチの継続などが重なっていた。

第一次世界大戦期、数十万人の黒人男性が軍務に就き、北部工場では黒人労働者が戦争生産を支えた。戦争後に「元の社会的位置へ戻る」ことを期待する白人社会と、完全な市民権を要求する黒人社会の緊張が激しくぶつかった。

Washington D.C. — 黒人側の組織的自衛

1919年7月、Washington D.C.では白人男性、特に軍服姿の集団が黒人住民を襲撃した。新聞が黒人男性による白人女性への犯罪疑惑をセンセーショナルに報道したことが暴力を煽った。

ここで特徴的だったのは、黒人住民が一方的に逃げるだけではなく、武装して地域を防衛したことである。第一次世界大戦から帰還した黒人退役兵を含む住民が自衛に参加した。

これは20世紀初頭の黒人政治文化の変化を示す一場面である。W.E.B. Du Boisは帰還兵に「戦って帰る」という姿勢を呼びかけ、戦場での軍務経験を国内の市民権要求へ結びつけた。Red Summerは暴力の歴史であると同時に、黒人側の自衛と政治組織化が可視化された時期でもあった。

Chicago — 住宅、労働、都市境界

Chicagoでは1919年7月、Lake Michiganの水泳区域で黒人少年Eugene Williamsが白人区域とみなされた場所へ漂流したことをきっかけに石を投げられ、溺死した。警察が加害者とされた白人男性を逮捕しなかったことから衝突が拡大した。

数日間の暴力で黒人・白人双方に多数の死傷者が出た。問題の背景には、水泳場だけではなく住宅の人種境界、黒人居住区の拡大、労働市場、政治マシーン、警察対応があった。

Great MigrationによってChicagoの黒人人口が増加すると、South Sideの住宅市場は強い圧力を受けた。白人住民は人種制限協定や暴力を使って居住境界を維持しようとした。都市の成長と人種隔離が同時進行したのである。

Elaine — 農村の人種暴力

Red Summerは北部都市だけの現象ではなかった。Arkansas州Elaineでは1919年9月、黒人小作農が綿花取引の清算条件を改善するため組織化していたところ、白人との銃撃をきっかけに大規模な暴力が発生した。

黒人住民多数が殺害され、軍も派遣された。事件後、黒人男性が裁判で死刑判決を受けたが、NAACPなどが法的支援を続け、最終的に連邦最高裁Moore v. Dempseyへつながった。

Elaineは、人種暴力が都市住宅競争だけでなく、南部農業の土地・債務・労働関係とも結びついていたことを示す。黒人農民が経済的交渉力を持とうとする行為そのものが、既存秩序への挑戦として暴力的に抑え込まれる場合があった。

NAACPと連邦反リンチ法を求める運動

1919年、NAACPは『Thirty Years of Lynching in the United States, 1889–1918』を刊行し、リンチの件数と実態を全国へ示した。Library of Congress所蔵資料によれば、同報告は30年間に3,224人のリンチ被害者を記録し、そのうち2,522人が黒人だった。

戦後の人種暴力を受け、NAACPはリンチを州任せにせず連邦犯罪として扱うよう議会へ圧力を強めた。James Weldon Johnsonはロビー活動の中心人物となり、新聞広告、統計、議会証言を組み合わせた。

これは黒人公民権運動が、抗議行進だけでなく、データ収集、法律制定、裁判、メディアキャンペーンを統合した全国組織へ成長していく過程でもあった。

First Red Scare — 「革命」への恐怖

1917年のロシア革命は、アメリカ支配層に「革命が工業国でも現実に起こりうる」という認識を与えた。1919年に大規模ストライキ、人種衝突、爆弾事件が重なると、それらの異なる問題が一つの「Red threat」としてまとめて理解されるようになった。

社会主義者、共産主義者、アナキスト、IWW、外国生まれの労働運動家は、しばしば区別されず「Bolsheviks」「Reds」と呼ばれた。移民と急進思想が結びつけられ、「外国から革命が持ち込まれる」というnativistな説明が広がった。

First Red Scareを実際の革命組織の存在だけから理解するのは不十分である。急進派は存在したが、国家が抱いた恐怖、新聞報道、政治家の自己利益、戦時の忠誠監視文化が恐怖を拡大した。

1919年爆弾事件

1919年春から初夏、政治家、実業家、裁判官などへ郵便爆弾が送られ、6月2日には複数都市で爆弾が同時爆発した。Washington D.C.では司法長官A. Mitchell Palmerの自宅も爆破され、実行犯とみられる人物が死亡した。

事件にはアナキスト系急進派が関与したとみられ、政府は国内の革命的暴力が組織的に拡大しているという認識を強めた。

爆弾事件は現実の政治暴力だったが、その後の捜査が「暴力を行った具体的個人」を越えて、広い急進思想・移民コミュニティ全体へ向けられたことが問題となる。

Palmer Raids — 司法省による全国摘発

司法長官Palmerは司法省内にGeneral Intelligence Divisionを設け、若いJ. Edgar Hooverが情報収集を指揮した。1919年11月と1920年1月、司法省は全国の共産主義・アナキスト系組織を対象に大規模な一斉摘発を行った。

Library of CongressのPalmer Raids資料によれば、1920年1月2日の全国摘発では約3,000人が逮捕された。同館は、法的に問題のある強制手法が用いられ、数千人が拘束され、数百人が国外追放されたと整理している。

Department of Laborの公式史では、1920年1月の摘発で4,000人以上が逮捕されたとの記録もあり、集計範囲によって数字が異なる。重要なのは、具体的犯罪ではなく政治的所属や思想を根拠に拘束された人々が多数いたことである。

移民法と国外追放

First Red Scareでは「外国人」であることが政治的脆弱性になった。1918年の移民法改正は、アナキズムを支持する外国人の国外追放を容易にしており、司法省の摘発後、実際の国外追放手続きはDepartment of LaborのBureau of Immigrationが担った。

Emma GoldmanとAlexander Berkmanを含む249人の外国人急進派は1919年12月、通称「Soviet Ark」と呼ばれた輸送船Bufordでロシアへ追放された。

ただし労働省内部では司法省の強引な摘発に対する異論もあり、証拠不十分・手続き違反として多数の追放命令が取り消された。国家機関全体が同じ強硬路線を取っていたわけではない。

戦時言論統制から市民的自由の問題へ

第一次世界大戦中のEspionage ActとSedition Actは、戦争反対者の起訴、新聞の郵送停止、社会主義者への弾圧に使われた。休戦後もEspionage Actは残り、戦時中に有罪となった政治犯の問題が続いた。

この経験から、市民的自由を恒常的に擁護する組織の必要性が認識されるようになった。National Civil Liberties Bureauを前身として1920年にAmerican Civil Liberties Unionが成立し、言論、集会、労働者、急進派の法的権利を擁護する活動を進めた。

つまりFirst Red Scareは弾圧だけを残したのではない。国家安全保障を理由にした権利制限へ対抗する「civil liberties」という20世紀アメリカ政治の重要な制度・言語を成長させる契機にもなった。

1920年大統領選挙 — 「normalcy」

1920年大統領選挙では共和党のWarren G. Hardingと副大統領候補Calvin Coolidgeが、民主党のJames M. CoxとFranklin D. Rooseveltを破った。Library of Congressによれば、Hardingは700万票以上の差をつける大勝だった。

Hardingの有名な「normalcy」は、第一次世界大戦、Wilsonの国際主義、ストライキ、Red Scare、人種暴力といった激しい政治から距離を置き、「healing」「restoration」「serenity」を求めるメッセージだった。

しかし「normalcy」は政策として一つの意味だけを持つ言葉ではない。企業活動への政府介入縮小、共和党政権への交代、国際政治への慎重姿勢、社会的秩序の回復など複数の期待をまとめる選挙言語だった。

また1920年選挙は、第19修正条項批准後に初めて全国規模で女性有権者が参加した大統領選挙でもある。同時に、南部の黒人女性を含む多数の市民は実質的な投票妨害を受け続けていた。

1920年国勢調査 — 初めて都市人口が過半数へ

1920年国勢調査ではアメリカ人口は106,021,537人となり、国勢調査史上初めて「urban」と分類された地域の人口が全体の50%を超えた。Census Bureauは1920年を、アメリカが統計上初めて都市人口多数の国になった転換点としている。

New Yorkは562万人、Chicagoは270万人を超え、Detroit、Cleveland、Los Angelesなど工業・交通・娯楽産業と結びつく都市が急成長した。Great Migrationと移民人口も都市社会を多民族化した。

政治的には、この人口変化が保守的な農村と都市の文化対立として語られるようになる。禁酒法、移民、宗教、教育、性道徳、大衆娯楽をめぐる1920年代の対立には、「どのアメリカが本当のアメリカなのか」という都市化の問題が深く関わっていた。

1920–1921年不況 — 戦争景気の終わり

戦争後の物価上昇に対応してFederal Reserveは1920年に割引率を大きく引き上げ、その後物価は急落し、アメリカ経済は深刻な景気後退へ入った。Federal Reserve Historyは、戦後インフレへの対応として金融引き締めが行われ、1920〜1921年に短いが激しい不況となったと説明している。

農産物価格の下落は特に農村へ大きな打撃を与えた。戦争中のヨーロッパ需要を見込んで生産・借入を増やしていた農家は、価格下落と債務負担に直面した。都市工業でも失業が増えた。

しかし不況は比較的短期間で終わり、その後アメリカ経済は1920年代半ばに成長軌道へ戻った。このため1920年代を「繁栄の時代」とだけ見ると、入口にあった急激な戦後調整を見落とすことになる。

禁酒法施行 — 国家が酒を禁止する

第18修正条項は1917年に連邦議会から州へ送られ、1919年1月16日に必要な州数の批准を得た。National Archivesによれば、修正条項は酒類の製造、販売、輸送を禁止し、1年後の1920年1月に発効した。

禁酒運動には長い歴史があり、酒による家庭内暴力、貧困、労働事故を減らそうとする女性運動、プロテスタント改革運動、都市政治とsaloonの結びつきを問題視するProgressive改革など複数の動機があった。

第一次世界大戦は禁酒法成立を加速させた。穀物を酒ではなく食料に使うべきだという戦時節約論、ビール産業とドイツ系企業の結びつきへの敵意、戦時統制によって私生活への国家介入が受け入れられやすくなったことが追い風となった。

Volstead Actは何を禁止したのか

修正条項だけでは具体的な酒類の定義や執行方法が十分ではなかったため、1919年にNational Prohibition Act、通称Volstead Actが制定された。Wilsonは拒否権を行使したが、議会はこれを覆した。

Volstead Actは「intoxicating liquor」をアルコール分0.5%を超える飲料として厳格に定義し、製造・販売・輸送を規制した。ただし医療・宗教用途などには例外があった。

National Archivesは禁酒法施行直後には飲酒量や酩酊による逮捕が減少したと説明している。したがって禁酒法を「最初から完全に失敗した法律」とするのも単純すぎる。問題は、巨大な需要が残る中で全国規模の執行を持続することだった。

speakeasy、bootlegging、組織犯罪

酒への需要が消えなかったため、密造・密輸市場が急速に発達した。カナダ、カリブ海、海上から酒を密輸するbootlegging、都市の秘密酒場speakeasy、自家製酒が1920年代文化の一部となった。

連邦政府は禁酒取締官を配置したが、広大な国境・海岸線と数千万の消費者を監視するには人員が不足した。地方警察・政治家の買収も起こり、法執行の地域差が大きかった。

酒の違法流通は組織犯罪に高収益市場を与えた。ただし1920年代の犯罪組織をすべて禁酒法だけで生んだとすることもできない。賭博、売春、恐喝など既存の違法市場があり、禁酒法がそこへ巨大な新収益源を加えたと考える方が適切である。

禁酒法と文化・階級・移民

禁酒法をめぐる対立は、酒を飲むか否か以上の文化政治だった。農村・小都市の白人プロテスタント社会では禁酒を道徳と秩序の象徴として支持する傾向が強く、都市のドイツ系・アイルランド系・イタリア系などの移民文化ではビールやワインが日常生活・社交と結びついていた。

そのため禁酒法は一部の都市移民から、特定のプロテスタント道徳を国家が強制する制度として受け取られた。逆に支持者側からは、移民街のsaloonが腐敗政治・犯罪・家計破壊の源と見なされた。

Ku Klux Klanが1920年代に禁酒法執行を自らの「法と秩序」運動へ組み込んだことも、この問題の文化的側面を示す。酒の規制は宗教、民族、階級、地域をめぐる境界線と重なった。

第19修正条項 — 女性参政権の全国化

女性参政権の連邦憲法修正案は1919年6月4日に議会を通過し、州批准へ送られた。1920年8月18日にTennesseeが36番目の批准州となり、8月26日に国務長官Bainbridge Colbyが批准を正式認証した。

第19修正条項は「合衆国またはいかなる州も、性別を理由として合衆国市民の投票権を否定または制限してはならない」と定めた。National Archivesが強調するように、これは数十年にわたる請願、州別運動、ロビー活動、デモ、ピケ、投獄を経た成果だった。

1920年大統領選挙では、それまで州法によって投票できなかった多数の女性が初めて参加した。政党も女性組織、選挙教育、候補者への働きかけを新たに重視する必要に迫られた。

参政権拡大の限界 — 黒人女性、先住民、アジア系女性

第19修正条項は性別を理由とする投票権拒否を違憲にしたが、「すべての女性が1920年に実際に投票できるようになった」という意味ではない。National ArchivesとLibrary of Congressは、南部の黒人女性が人頭税、識字試験、登録拒否、暴力などによって長く投票を阻まれたことを明記している。

また市民権を持たない人には第19修正条項の投票保障は及ばなかった。当時の帰化法はアジア系移民の多くを市民権取得から排除しており、先住民の一部もまだ連邦市民ではなかった。

したがって第19修正条項は巨大な転換であると同時に、「市民とは誰か」「市民が投票所へ実際にアクセスできるか」という次の問題を残した。

「女性票」は一つの政治勢力だったのか

1920年以後、政治家や新聞はしばしば「women’s vote」が一つの統一した選挙勢力になるかを論じた。しかし女性有権者は人種、階級、地域、宗教、政党、職業によって分かれており、単一の政策でまとまったわけではない。

参政権運動内部にも違いがあった。League of Women Votersは新しい有権者への政治教育と政策改革を重視し、National Woman’s Partyは法的平等をさらに押し進める方向へ進んだ。1923年にはAlice PaulらがEqual Rights Amendment案を提示した。

一方、労働法による女性保護を重視する改革者の中には、男女を法律上完全に同一化するERAが女性労働者への保護規定を失わせると警戒する人々もいた。参政権達成後、「女性の権利をどう進めるか」をめぐる新しい対立が始まった。

参政権獲得後の女性政治運動

National American Woman Suffrage Associationを母体として1920年にLeague of Women Votersが組織され、投票方法、政策課題、議会制度について女性有権者を教育する活動を進めた。

女性団体は児童福祉、公衆衛生、教育、平和、労働条件など幅広い政策へ関与した。1921年のSheppard–Towner Maternity and Infancy Actのように、母子保健へ連邦資金を提供する社会政策も成立した。

女性参政権の意味は投票箱だけではない。女性団体がロビー活動、政策調査、候補者評価を行い、全国政治の恒常的な参加者になることも大きな変化だった。

1921年Tulsa Race Massacre

1921年5月31日から6月1日、Oklahoma州Tulsaで、白人群衆が黒人地区Greenwoodを襲撃した。発端は黒人青年Dick Rowlandが白人女性エレベーター係を襲ったという疑いだった。Rowlandが拘束されると、リンチを恐れた黒人住民と白人群衆が裁判所周辺に集まり、衝突が拡大した。

翌朝までにGreenwoodは大規模に焼失した。Library of Congressは、死者を最大約300人と推定し、約40ブロック、1,256戸の黒人住宅、多数の商店、教会、学校、ホテル、映画館、病院、図書館が破壊されたと紹介している。また約9,000人の黒人住民が家や財産を失ったとする記録を掲載している。

事件は長く地域・全国の公的記憶から周辺化され、補償もほとんど行われなかった。TulsaはRed Summer後にも人種暴力の構造が続いていたことを示す。

Greenwood — 黒人都市経済を破壊する暴力

Greenwoodは黒人経営の店舗、医院、ホテル、新聞、劇場などが集まる地区で、「Black Wall Street」と呼ばれることもあった。Jim Crow社会では黒人が白人施設から排除される一方、黒人コミュニティ内部で独自の商業・専門職市場が形成される場合があった。

Tulsa Massacreの破壊は単に多数の人が死亡しただけではない。住宅、店舗、金融資産、営業機会、世代を越えて蓄積されるはずだった財産が失われた。人種暴力には経済的な収奪・排除の側面もあった。

それでも住民はGreenwoodを再建した。市の建築規制や保険金支払いをめぐる困難の中で、黒人住民は商業地区を再形成した。この再建も事件史の重要な部分である。

Dyer反リンチ法案

人種暴力が続く中、Missouri州選出の共和党下院議員Leonidas Dyerは、州がリンチから市民を保護できない場合に連邦政府が介入できる法案を推進した。NAACPはJames Weldon Johnsonを中心に強力なロビー活動を行った。

1922年1月26日、Dyer Anti-Lynching Billは下院を通過した。U.S. Houseの歴史資料によれば、その日の議場傍聴席には数百人の黒人市民が集まり、採決を見守った。

しかし上院では南部民主党議員がfilibusterを示唆し、共和党指導部は成立まで押し切らなかった。法案は成立しなかった。連邦反リンチ法の実現にはさらに100年近くを要することになる。

この失敗は、1920年代に黒人市民の組織的政治運動が拡大していた一方、南部のJim Crow体制を連邦政府が直接規制する政治的障壁が依然として強かったことを示す。

1921年Emergency Quota Act

戦争中にはヨーロッパからの移民が減少していたが、戦後に渡航が再開すると、アメリカでは「大量移民が再び流入する」という懸念が高まった。Red Scareによって移民と政治的急進主義を結びつける議論も強くなった。

1921年5月19日に成立したEmergency Quota Actは、国別の年間移民数を1910年国勢調査時点でアメリカに住んでいた各国出身外国生まれ人口の3%に制限した。U.S. Houseの歴史資料では、総枠はおよそ35万5,000〜35万7,000人規模と整理されている。

これはアメリカ移民政策の重要な転換だった。従来も中国人排斥法や1917年Asiatic Barred Zoneなど特定集団を排除する法律は存在したが、1921年法はヨーロッパ諸国にも国別数値上限を体系的に設定した。

移民制限を支えたnativism

移民制限の支持者は、労働市場、住宅、都市貧困、政治的急進主義、文化的同化など複数の理由を挙げた。しかしその議論には、人種・民族集団に優劣があるという当時のeugenicsや「racial science」の影響も強く存在した。

特に19世紀末から急増したイタリア、ポーランド、ロシア、バルカン地域、東欧ユダヤ系など南・東ヨーロッパからの「new immigrants」は、北・西ヨーロッパ系より「同化しにくい」とする偏見の対象になった。

第一次世界大戦期の100% Americanismは、戦後には「誰を将来のアメリカ人口として受け入れるか」という移民政策へ転換した。移民を市民へ同化させる政策から、入口そのものを制限する政策への重心移動が起きた。

Sacco and Vanzetti — 移民・急進主義・司法への疑念

1920年、Massachusetts州South Braintreeの強盗殺人事件に関連して、イタリア生まれの労働者Nicola SaccoとBartolomeo Vanzettiが逮捕された。二人はいずれもアナキストであり、1921年に有罪判決を受けた。

事件は1927年の処刑まで世界的論争になるが、その出発点はFirst Red Scare直後だった。裁判で政治思想や移民背景がどの程度陪審・裁判官の判断に影響したのか、証拠が有罪をどこまで裏づけたのかをめぐって強い論争が続いた。

Library of Congressは、二人がイタリア系労働者、アナキスト、政治活動家だったこと、事件が高度に論争的だったことを記録している。Sacco–Vanzetti事件は、戦後アメリカで「外国人」「急進派」という属性が司法への信頼問題と結びついた象徴的事件となった。

Ku Klux Klanの再拡大

Ku Klux KlanはReconstruction期の組織とは別に、1915年にGeorgia州Stone Mountain付近で再建された。National Park Serviceによれば、この「第二次Klan」は白人優越主義だけでなく、反移民、反カトリック、反ユダヤ、禁酒法支持を組み合わせた。

1920年代初頭、Klanは広告・会員勧誘会社を利用して急成長した。秘密結社でありながら、地域の親睦団体、教会的道徳運動、選挙組織、警察・行政との人脈を組み合わせ、南部だけでなくMidwestやWestの都市・小都市にも拡大した。

Smithsonianは、1920年代半ばまでにKlanが南北双方で強い政治勢力となり、黒人、移民、Catholic、Jewish communitiesへ敵意を広げたと説明している。

南部だけではないKlan

第二次Klanを南部の農村白人だけの現象として見ると重要な点を落とす。Library of Congressが所蔵するMinnesotaのKlan系新聞資料は、1921年以後同州で組織が急成長し、1923年には51支部、3万人以上の会員が報告されたことを紹介している。

MinnesotaのKlanは黒人だけでなく、Catholic、Jewish、German immigrantなどを「outsider」として攻撃し、移民制限と禁酒法執行を支持した。1924年の党機関紙は、Prohibitionとより厳しい移民法を政治課題として掲げていた。

これは戦後nativismが、南部のJim Crowだけでなく、北部・中西部の「white Protestant Americanism」とも結びついていたことを示す。1920年代の文化対立は全国的な現象だった。

1924年Immigration Act — national origins quota

1921年のEmergency Quota Actは暫定措置だった。議会はさらに厳しい恒久制度を検討し、1924年5月26日にImmigration Act、通称Johnson–Reed Actを成立させた。

U.S. Department of Stateの歴史資料によれば、同法は国別quotaを、1890年国勢調査時点にアメリカに居住していた各国出身者数の2%に設定した。1921年法の基準だった1910年から1890年へ遡ることが重要だった。

1890年は南・東ヨーロッパからの大量移民が本格化する以前だったため、この計算法は北・西ヨーロッパに相対的に多い枠を残し、イタリア、ポーランド、ロシアなどからの移民をより強く削減した。後にはnational origins formulaによる別の配分へ移行するが、1924年法が「望ましい人口構成」を国家が数量化しようとしたことが核心である。

南・東ヨーロッパ移民を抑える仕組み

Immigration Act of 1924の差別性は、単に「全移民を同じ割合で減らした」点にはない。基準年を1890年に設定したことで、移民構成そのものを過去の北・西ヨーロッパ中心の状態へ近づけようとした。

U.S. Department of Stateは、この制度によってBritish IslesやWestern Europe系に割り当てられる比率が相対的に高まり、Southern and Eastern Europeからの新しい移民が大きく制限されたと説明している。

移民法は労働市場管理であると同時に、国家が「将来のアメリカ人の構成」を設計しようとする人口政策だった。1920年代のnativismが法律として制度化された例である。

アジア移民排除と日本

1924年法は既存のアジア系排除政策をさらに強化した。中国系移民はすでにChinese Exclusion法制によって強く排除され、1917年Immigration ActはAsiatic Barred Zoneを設けていた。

日本については1907〜1908年のGentlemen’s Agreementによって日本政府が労働者への旅券発給を自主的に制限していた。しかし1924年法は「citizenshipの資格を持たない外国人」を移民から原則排除する規定を入れ、当時の帰化法上「市民権取得資格なし」とされた日本人移民を事実上全面排除した。

U.S. Department of Stateの外交文書には、日本政府がこの条項を人種差別的で国家的尊厳を傷つけるものとして強く抗議したことが記録されている。アメリカ議会内にも外交関係悪化を懸念する意見があったが、法律は成立した。

したがって1924年移民法は国内人口政策であると同時に、日米関係にも影響する外交問題だった。

Indian Citizenship Act — 市民権の拡張

同じ1924年6月2日、Calvin Coolidge大統領はIndian Citizenship Actに署名した。National Archivesの原文では、アメリカ領内で生まれ、それまで市民でなかったすべてのAmerican Indiansを合衆国市民とすることが定められた。

先住民の一部はすでに条約、個別法、土地割当、軍務などによって市民権を持っていた。第一次世界大戦中にも多数のNative Americansが軍務に就き、戦後の市民権拡大を求める議論の一要素となった。

重要なのは、連邦市民権取得がtribal citizenshipやtribal property rightsを放棄することを意味しなかった点である。法律自体が部族財産への権利を損なわないと明記していた。

市民権と投票権は同じではなかった

Indian Citizenship Actが成立しても、すべての先住民がすぐ投票できたわけではない。Library of Congressは、選挙資格を州が管理していたため、一部州が先住民の投票登録を引き続き拒否し、1950年代まで障壁が残ったことを説明している。

これは第19修正条項の限界とも共通する。憲法・連邦法上の市民権や投票権の原則が存在しても、州法、登録制度、行政判断、暴力によって実際の政治参加が妨げられることがあった。

1920〜1924年の政治参加拡大は、法的宣言と現実のアクセスを分けて見る必要がある。

1920年代型の大衆社会へ

この時期に起きた変化は、政治的抑圧や法制度だけではない。1920年選挙の夜にはPittsburghのKDKAが選挙結果をラジオで放送し、放送メディア時代の象徴的事件となった。戦争中に発達した大量広告・広報技術は、戦後には商品販売と選挙政治へ応用された。

人口の過半数が都市に住み、自動車、映画館、広告、新聞、蓄音機、ラジオが生活を結びつける社会が形成されつつあった。「全国文化」を共有する力が強まる一方、その全国文化の基準から誰が外れるのかという問題も強く意識された。

禁酒法、Klan、移民制限、Red Scareが「古いアメリカの防衛」として語られたのは、社会が実際に変わっていたからでもある。都市化、移民、黒人人口移動、女性の政治参加、大衆文化が進む中で、変化そのものへの反発が政治運動となった。

この時代を理解するための8つの視点

第一に、「戦後反動」を単純に進歩の逆戻りとしない。 1919年以後には労組への攻勢、Red Scare、移民制限、Klanの拡大が起きた一方、第19修正条項やIndian Citizenship Actのような権利拡張も起きた。政治的包摂と排除が同時進行したことが、この時代の特徴である。

第二に、First Red Scareを実在する急進主義と社会的恐怖の両方から見る。 爆弾事件や革命運動は現実に存在したが、ストライキ、移民、社会主義、アナキズム、共産主義が一つの脅威として混同され、法的手続きが弱い大量摘発へつながった。

第三に、Red Summerを「race riot」という対称的な言葉だけで理解しない。 多くの事件では白人群衆が黒人地区・住民を標的として暴力を開始した。一方、WashingtonやChicagoでは黒人住民の組織的な自衛が目立った。暴力の方向と権力関係を具体的に見る必要がある。

第四に、禁酒法を滑稽な失敗としてだけ扱わない。 禁酒法は長い社会改革運動の成果であり、当初は飲酒量減少など一定の効果もあった。しかし巨大な非合法市場を生み、国家による私生活規制の難しさを露呈した。成立理由と実施結果を分けて考えるべきである。

第五に、女性参政権を「戦争への貢献への褒美」としない。 第19修正条項は数十年にわたる女性運動の成果であり、戦争はその最後の政治条件を変えた一要因だった。また批准後も黒人女性などには投票障壁が残った。

第六に、移民制限を単なる景気・雇用政策として見ない。 1921年・1924年法には労働市場への懸念だけでなく、人種・民族に序列をつける考え、eugenics、100% Americanismが反映された。国家が望ましい人口構成を制度として選別した点が重要である。

第七に、Klanを南部の過去の残存物と考えない。 1920年代の第二次Klanは北部・中西部・西部にも広がり、white Protestant nationalism、反移民、反Catholic、反Jewish、Prohibitionを組み合わせた現代的な大衆組織だった。

第八に、「normalcy」を本当に元へ戻った時代と解釈しない。 Hardingの言葉は戦争と社会不安からの回復願望を表したが、1920年までにアメリカは都市人口多数の社会となり、女性有権者、大規模黒人都市社会、ラジオ、大量広告、新しい移民政策が登場していた。「正常へ戻る」という政治言語の下で、社会構造はむしろ新しい1920年代へ進んでいた。

この時代に何が変わったのか

第一に、戦時の「敵国への忠誠」監視が、戦後には「政治思想への忠誠」監視へ変化した。ドイツ系アメリカ人への疑念から、共産主義者、社会主義者、アナキスト、移民活動家へのRed Scareへ移り、国家安全保障と市民的自由の境界が新しい政治課題となった。

第二に、労働者と企業の力関係が戦時期から変化した。戦争中に政府が認めた労働組合の交渉力は、1919年争議の敗北とopen shop運動によって弱められ、1920年代企業社会の基盤が形成された。

第三に、黒人政治が全国都市型へ変化した。Great Migration、黒人退役兵、Red Summer、Tulsa、NAACPの反リンチ運動を通じ、人種問題は南部だけの問題ではなく全国政治・都市政治の問題となった。

第四に、女性の全国的選挙参加が制度化された。第19修正条項は有権者構成を大きく変え、女性組織は参政権獲得後、選挙教育、社会政策、法的平等へ活動領域を広げた。

第五に、連邦政府が個人行動を道徳的に規制する試みが禁酒法として全国化された。これはProgressive改革の延長であると同時に、都市・農村、宗教、民族、階級の文化対立を政治化した。

第六に、移民政策が「誰を排除するか」から「どの国から何人入れるか」を数量化する制度へ変化した。1921年と1924年のquota lawsは、20世紀中盤まで続くnational origins systemの基礎を作った。

第七に、アメリカの市民権の範囲が拡張されながら、その実質的利用には不平等が残った。女性、先住民へ法的権利が広がる一方、黒人・Native American・Asian American communitiesは投票・帰化・移民で異なる制度的障壁に直面した。

第八に、アメリカは明確に都市的大衆社会へ入った。1920年国勢調査で都市人口が初めて過半数となり、ラジオ、映画、広告、自動車、大量消費のネットワークが1920年代の文化を作る条件となった。戦後の排外主義や道徳政治も、この急激な都市化・文化変化への反応として理解することができる。

1919〜1924年は「第一次世界大戦の後始末」と「Roaring Twentiesの前座」ではない。戦争で強化された国家とマスメディア、戦争で加速した人口移動、権利拡大を求める市民運動、変化に対する排外主義が同時に再編された時代である。1920年代の繁栄、Harlem Renaissance、consumer cultureを理解するためにも、その明るいイメージのすぐ下にRed Summer、Palmer Raids、Tulsa、Klan、quota lawが存在したことを見失うことはできない。

主な出来事

  • 1919年1月16日 — 第18修正条項の批准に必要な州数がそろい、全国禁酒法が成立へ。
  • 1919年2月6–11日 — Seattle General Strike。
  • 1919年春 — 政治家・実業家などを狙った郵便爆弾事件が相次ぐ。
  • 1919年6月2日 — Palmer司法長官宅を含む複数都市で爆弾事件。
  • 1919年6月4日 — 第19修正条項が連邦議会を通過し州批准へ。
  • 1919年7月19日 — Washington D.C.で大規模人種暴力が始まる。
  • 1919年7月27日 — ChicagoでEugene Williams死亡を契機に人種衝突が拡大。
  • 1919年夏〜秋 — Red Summer。多数の都市・地域で黒人住民を標的とする暴力。
  • 1919年9月 — Boston Police Strike。
  • 1919年9月22日 — 全国的Steel Strike開始。
  • 1919年9月30日–10月 — Arkansas州Elaineで人種暴力。
  • 1919年10月28日 — 議会がWilsonの拒否権を覆してVolstead Actを成立させる。
  • 1919年11月7日 — Palmer Raidsの第一波。急進派組織への一斉摘発。
  • 1919年12月 — Emma Goldman、Alexander Berkmanら249人がBufordで国外追放。
  • 1920年1月2日 — Palmer Raids第二波。全国規模の大量逮捕。
  • 1920年1月17日 — Volstead Actによる全国禁酒法の本格施行。
  • 1920年 — National Civil Liberties Bureauを基盤にAmerican Civil Liberties Union成立。
  • 1920年春 — SaccoとVanzettiがMassachusettsで逮捕される。
  • 1920年8月18日 — Tennesseeが第19修正条項を批准し必要州数に到達。
  • 1920年8月26日 — 第19修正条項の批准が正式認証される。
  • 1920年11月2日 — 大統領選挙。Warren G. HardingがJames M. Coxに大勝。
  • 1920年国勢調査 — アメリカ史上初めて都市人口が総人口の50%を超える。
  • 1920–1921年 — 戦後インフレの反転と金融引き締めの中で深刻な景気後退。
  • 1921年5月19日 — Emergency Quota Act成立。国別移民quotaを導入。
  • 1921年5月31日–6月1日 — Tulsa Race Massacre。Greenwood地区が大規模に破壊される。
  • 1921年 — SaccoとVanzettiが強盗殺人事件で有罪判決。
  • 1922年1月26日 — Dyer Anti-Lynching Billが下院を通過するが、上院で成立せず。
  • 1923年 — Alice PaulらがEqual Rights Amendment案を提示。
  • 1924年5月26日 — Immigration Act of 1924、Johnson–Reed Act成立。
  • 1924年6月2日 — Indian Citizenship Act成立。米国生まれの非市民Native Americansへ連邦市民権を拡張。

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1924年までに、戦後アメリカの政治的境界線はかなり明確になった。女性とNative Americansには市民権・参政権が拡大される一方、移民の入口はnational origins quotaによって狭められ、Klanは「100% Americanism」を掲げて政治勢力を拡大した。同時に都市人口は過半数を超え、ラジオ、映画、広告、自動車、大量生産が新しい生活文化を作り始めていた。次に続けるなら、1920–1929|アメリカ|大量消費社会と都市文化 — 自動車、ラジオ、映画、広告、Harlem Renaissance、Jazz Ageという記事へ進むことで、今回の「排除と政治的再編」から1920年代の文化・消費社会へ自然につなげることができる。

参考資料・出典

資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY