1933–1939
独裁・再軍備・第二次世界大戦への道
ナチ体制、人民戦線、スペイン内戦、宥和政策
1933年1月30日、ドイツ大統領ヒンデンブルクはアドルフ・ヒトラーを首相に任命しました。この時点でドイツが完成した独裁国家になったわけではありません。ナチ党は国会最大党でしたが単独過半数を持たず、ヒトラー政権は保守政治家を含む連立内閣として始まりました。しかし数週間のうちに国会議事堂放火令で基本権が停止され、3月の全権委任法によって政府は議会の同意なしに法律を制定できるようになります。夏までに他政党は消滅し、議会制民主主義は急速に解体されました。
国内独裁化と対外政策は別々の歴史ではありません。ナチ政権はヴェルサイユ条約による軍備制限を段階的に破り、1935年に徴兵制を復活させ、1936年には非武装地帯ラインラントへ軍隊を進めました。1938年にはオーストリアを併合し、ミュンヘン協定によってチェコスロヴァキアのズデーテン地方を獲得します。翌1939年3月には、前年の協定で残存を前提としていたチェコ地域まで占領しました。
同じ時期、国際秩序はヨーロッパ以外でも崩れていました。1935年、ファシスト・イタリアはエチオピアへ侵攻しました。国際連盟はイタリアに制裁を実施しましたが、戦争を止めることはできませんでした。1936年にはスペインで軍人反乱から内戦が始まり、ドイツとイタリアがフランコ側、ソ連が共和国側を支援しました。英仏などが掲げた不干渉政策は外国介入を実際には停止できませんでした。
民主主義側にも別の応答がありました。フランスでは1936年に人民戦線が選挙に勝利し、レオン・ブルム政権の下で40時間労働制、有給休暇、団体協約など大規模な社会改革が成立しました。恐慌とファシズムの伸長に対し、議会制民主主義の枠内で社会改革を進める政治的対応でした。
ソ連では1936–38年に大粛清が頂点へ達しました。旧ボリシェヴィキ指導者、党官僚、軍人、技術者、文化人、一般市民が逮捕・処刑・収容所送りとなり、国家と社会に巨大な恐怖が広がりました。ファシズムと共産主義を単純に同一視することはできませんが、1930年代には複数の政治体制で国家権力が社会を強力に統制し、反対派を排除する方向が進みました。
東アジアでは、日本が1933年に国際連盟脱退を通告した後、1936年の二・二六事件を経て軍部の政治的影響力がさらに強まりました。同年、日本はドイツと日独防共協定を結びました。1937年7月の盧溝橋事件は局地的衝突として始まりましたが、上海での大規模戦闘を経て全面戦争へ拡大します。日本軍は12月に南京を占領し、その後、殺害、強姦、略奪など大規模な暴力が発生しました。中国国民政府は重慶へ移って抗戦を続けました。
1938年になると、ヨーロッパでは対独宥和政策が最大の争点となります。イギリスとフランスが軍事衝突を避けながらドイツの要求の一部を認め、ヴェルサイユ体制を修正することで平和を維持しようとした政策は、第一次世界大戦の記憶、軍備状況、国内世論、帝国防衛などを背景としていました。しかし1938年9月のミュンヘン協定にチェコスロヴァキア自身が対等な交渉当事者として参加できず、翌年ドイツが協定を破ってチェコ地域を占領したことで、その前提は崩れました。
1939年8月23日、ナチ・ドイツとソ連は独ソ不可侵条約を結びました。公開条約では相互不可侵を定め、秘密議定書では東ヨーロッパを両国の勢力圏へ分ける構想を定めました。9月1日、ドイツ軍はポーランドへ侵攻し、3日にイギリスとフランスがドイツへ宣戦します。ここでヨーロッパにおける第二次世界大戦が始まりました。
CONTENTS
- ヒトラー政権成立と独裁化
- 国会議事堂放火令と全権委任法
- 一党国家と強制収容所
- 反ユダヤ政策とニュルンベルク法
- 再軍備と徴兵制復活
- イタリアのエチオピア侵攻
- 国際連盟制裁の限界
- ラインラント進駐
- フランス人民戦線
- スペイン内戦
- ゲルニカと外国介入
- ソ連の大粛清
- 日本の二・二六事件
- 日独防共協定
- 西安事件と国共合作
- 盧溝橋事件から全面戦争へ
- 南京占領と大規模な暴力
- 日本の国家総動員
- オーストリア併合
- 難民と反ユダヤ迫害
- ミュンヘン協定
- 宥和政策をどう見るか
- 1938年11月ポグロム
- 1939年 プラハ占領
- スペイン内戦終結
- 英仏のポーランド保障
- 独ソ不可侵条約
- ポーランド侵攻
- 1933–1939年に何が変わったのか
- 主な出来事
- 次の時代へ — 第二次世界大戦
- 参考資料・出典
ヒトラー政権成立と独裁化
1933年1月30日、ヒトラーは大統領による任命で首相となりました。ナチ党は大規模な選挙支持を持っていましたが、国民の過半数が独裁制を選挙で直接選択したわけではありません。政権成立には、パーペンら保守政治家がヒトラーを首相に据えながら閣内で制御できると考えた政治工作がありました。
政権発足後、ナチ党は国家権力を使って政治競争の条件を急速に変えました。反対派の逮捕、新聞・集会への制限、SA・SSによる威嚇が進み、自由な選挙政治の基盤が崩れていきました。
国会議事堂放火令と全権委任法
2月27日に国会議事堂が放火されると、翌28日に「国民と国家を保護するための大統領令」が出されました。米国ホロコースト記念博物館によれば、この法令は言論、出版、集会、通信の秘密などの基本権を停止し、政治的反対者を具体的な刑事容疑なしに拘束することを可能にしました。
3月23日には全権委任法が可決され、政府は国会の同意なしに法律を制定できるようになりました。採決時には共産党議員が排除され、多数の社会民主党議員も拘束などで出席できず、会場周辺にはSA・SSが配置されていました。この法律がヒトラー独裁の制度的中心となりました。
一党国家と強制収容所
1933年を通じて、州政府、労働組合、職業団体、文化組織、教育機関などがナチ体制へ組み込まれました。5月には独立労働組合が解体され、7月にはナチ党以外の新政党結成が禁止されました。
同年3月にはダッハウ強制収容所が設置され、初期には共産党員、社会民主党員、労働組合活動家など政治的反対者が中心に収容されました。これは後の絶滅収容所と同じ目的ではありませんでしたが、司法手続きの外で国家が人を拘束・威嚇・強制労働させる制度の基盤となりました。
反ユダヤ政策とニュルンベルク法
反ユダヤ政策も政権初期から制度化されました。1933年4月にはユダヤ人商店の全国的ボイコットが行われ、公務員制度再建法によってユダヤ人や政治的反対者の公職排除が進みました。
1935年9月15日のニュルンベルク法は、ユダヤ人を完全な帝国市民権から排除し、ユダヤ人と「ドイツ人または同種の血」を持つ人々との結婚・性的関係を禁止しました。後の施行規則では、信仰ではなく祖父母の出自によって人々が人種的カテゴリーへ分類されました。人種主義的イデオロギーが身分法へ変えられた重要な転換点でした。
再軍備と徴兵制復活
ナチ政権はヴェルサイユ条約の軍備制限を公然と破る方向へ進みました。1935年3月16日には徴兵制を復活し、陸軍規模を大幅に拡大すると発表しました。空軍ルフトヴァッフェも公然化されました。
再軍備は失業減少や工業生産拡大とも結びつきましたが、単なる景気対策ではありません。ナチ政権が想定する領土拡張と戦争遂行能力の構築を目的とする国家政策でした。
同年6月、イギリスはドイツと海軍協定を結び、ドイツ海軍を一定の比率まで認めました。イギリスには無制限な建艦競争を避けたい考えがありましたが、ヴェルサイユ体制を個別交渉で修正する先例にもなりました。
イタリアのエチオピア侵攻
1935年10月、ムッソリーニのイタリア軍はエリトリアとイタリア領ソマリランドからエチオピアへ侵攻しました。エチオピアは国際連盟加盟国であり、アフリカで植民地化を免れていた数少ない独立国家でした。
イタリア軍は戦車、航空機、重砲を投入し、化学兵器も使用しました。アメリカ外交文書には、エチオピア政府が1935年10月初めに国境侵犯と爆撃を国際連盟へ報告した記録が残っています。
国際連盟制裁の限界
国際連盟はイタリアを侵略国と判断し、武器禁輸、金融制限、特定商品の禁輸などの経済制裁を行いました。1935年末の外交文書では、50カ国前後が複数の制裁措置に参加していたことが確認できます。
しかし石油全面禁輸やスエズ運河閉鎖までは進まず、イタリアの軍事行動を止めることはできませんでした。1936年5月にアディスアベバが占領され、国際連盟はその後制裁を解除しました。
この事件は「国際連盟が何もしなかった」例ではなく、集団制裁を実施しても、加盟国が大戦回避や自国の戦略的利益を優先すれば十分な抑止力にならないことを示した事件でした。
ラインラント進駐
1936年3月7日、ドイツ軍はヴェルサイユ条約とロカルノ条約で非武装化されていたラインラントへ進駐しました。米国ホロコースト記念博物館は、ヒトラーが英仏の軍事介入がないことに賭けて行った明確な条約違反と位置づけています。
フランスとイギリスは抗議しましたが、軍事行動を取りませんでした。フランスの国内政治、イギリスの慎重姿勢、第一次世界大戦再来への恐怖、軍事準備への懸念などが対応を制約しました。
この成功によってヒトラー政権は西部国境での軍事的自由を拡大し、国内威信も高めました。
フランス人民戦線
フランスではファシズムへの警戒と社会危機を背景に、社会党、急進社会党、共産党が人民戦線を形成しました。1936年春の総選挙で勝利し、レオン・ブルムが首相となります。
選挙後には工場占拠を伴う大規模ストライキが広がり、6月のマティニョン協定で労働組合の権利、団体協約、賃上げなどが認められました。フランス国民議会によれば、続いて週40時間労働制、有給休暇、団体協約拡充が法律となりました。
1930年代は独裁化だけの時代ではありません。議会制民主主義の内部で社会権を拡大する対応も同時に存在していました。
スペイン内戦
1936年7月、スペイン共和国政府に対して軍の一部が反乱を起こし、国家全体を一度に掌握できなかったため内戦となりました。Library of Congressは、フランコらの軍事クーデタが選挙で成立した共和国政府の転覆を目的としたことを、同時代ポスター資料の背景として説明しています。
共和国側には共和主義者、社会主義者、共産主義者、アナキスト、地域民族主義者などが存在し、反乱側にも軍人、王党派、カトリック保守、ファランヘなど異なる勢力がいました。単純な二つの均質陣営ではありませんでした。
ゲルニカと外国介入
ドイツはコンドル軍団、イタリアは航空機と大規模兵力を送りフランコ側を支援しました。ソ連は共和国側へ戦車、航空機、顧問、兵器を提供し、世界各地の反ファシスト志願者は国際旅団へ参加しました。
1937年4月26日、バスク地方のゲルニカがドイツ・イタリア航空部隊の爆撃を受けました。米国ホロコースト記念博物館は200人以上の民間人が死亡したとしています。この空爆は後にピカソの《ゲルニカ》によって世界的な反戦の象徴となりました。
スペイン内戦は「第二次世界大戦の予行演習」と呼ばれることがありますが、外国兵器の実験だけが戦争の原因ではありません。スペイン社会内部の土地、宗教、軍、地域自治、労働運動、共和政をめぐる対立が出発点でした。
ソ連の大粛清
1934年のキーロフ暗殺後、スターリン政権は党内外の「敵」を摘発する弾圧を拡大しました。1936–38年のモスクワ裁判ではジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンら旧ボリシェヴィキ指導者が反国家陰謀などの罪で裁かれ、処刑されました。
Library of Congressの旧ソ連公文書展は、1937–38年に大粛清がピークへ達し、党・政府・軍・文化界から一般市民まで大量の人々が逮捕・処刑・収容所送りとなったことを示しています。
1937年には赤軍上層部も粛清され、アメリカ外交文書には将官を含む軍人や多数の政府・党官僚が逮捕・処刑されているとの報告があります。
日本の二・二六事件
1936年2月26日未明、急進的な陸軍青年将校らが約1,400人の兵を率い、首相官邸などを襲撃しました。斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監らが殺害されました。
国立国会図書館によれば、反乱部隊は東京の政治・軍事中枢を一時占拠しましたが、天皇が討伐の意思を明確にし、29日までに鎮圧されました。事件後、皇道派系の将官が多数排除され、統制派が陸軍で優位になりました。
反乱側が政権を獲得したわけではありませんが、事件が政界に与えた恐怖と、同年の軍部大臣現役武官制復活などを通じ、軍部の政治的発言力はさらに強まりました。
日独防共協定
1936年11月25日、日本とドイツは日独防共協定を締結しました。表向きには国際共産主義運動、コミンテルンへの対抗を掲げ、秘密協定ではソ連を念頭に相互協議などを定めました。
翌1937年にはイタリアも参加しました。ただしこの時点で1940年の日独伊三国同盟と同じ包括的軍事同盟が成立していたわけではありません。ドイツ、イタリア、日本の戦略目標には大きな差がありました。
西安事件と国共合作
中国では国民党政府の蔣介石が中国共産党への軍事作戦を継続する一方、日本の華北進出が強まっていました。1936年12月、西安で張学良らが蔣介石を拘束し、内戦停止と抗日共同戦線を求めました。
交渉後に蔣は釈放され、翌年の日中戦争拡大後、国民党と共産党は第二次国共合作へ進みました。外務省外交史料館の1936–37年文書でも、西安事件と国共合作問題は重要な外交案件として記録されています。
盧溝橋事件から全面戦争へ
1937年7月7日夜、北京郊外の盧溝橋付近で演習中の日本軍と中国軍の間に衝突が起きました。初期には現地停戦交渉が行われ、7月11日には双方の撤退などを含む合意に達したとの報告もありました。
しかし増援と軍事衝突が続き、7月末までに日本軍は北京・天津方面をほぼ制圧しました。8月には上海で大規模戦闘が始まり、日本側も本土から陸軍部隊を増派します。外務省外交史料館は、上海戦を経て局地事件が全面戦争へ拡大した過程を記録しています。
南京占領と大規模な暴力
上海戦後、日本軍は中国国民政府の首都南京へ進撃し、1937年12月13日に占領しました。その後、市内と周辺で日本軍兵士による大規模な殺害、強姦、略奪が発生しました。
死者総数には史料範囲や集計方法をめぐる研究上の幅がありますが、大規模な民間人・捕虜殺害と性暴力・略奪が起きたこと自体は複数の同時代史料から確認できます。1937年12月25日のアメリカ外交文書は、南京に残った外国人らの報告として、広範な略奪と無差別な射撃・殺害を記録しています。1938年1月の報告にも難民区内での強姦・殺害が多数記録されています。
南京占領でも中国政府は降伏せず、政治中枢を武漢、さらに重慶へ移して抗戦を続けました。
日本の国家総動員
日中戦争の長期化によって、日本国内では経済・労働・物資を戦争へ集中する制度が拡大しました。1937年10月には企画院が設置され、1938年4月には国家総動員法が公布されました。
国立国会図書館によれば、企画院は物的・人的資源を動員する生産力拡充計画や国民動員計画を作成し、戦時統制経済の中心機関となりました。
戦争が長期化するにつれ、価格、資材、労働力、企業生産など国内社会の広い領域が国家統制の対象になっていきました。
オーストリア併合
1938年3月、ヒトラーはオーストリア政府へ圧力をかけ、首相シュシュニクの辞任などを要求しました。3月12日にドイツ軍が国境を越え、13日にオーストリアをドイツへ編入する法律が出されました。
米国ホロコースト記念博物館は、これをナチ・ドイツによる最初の領土的侵略・拡張と位置づけています。多数のオーストリア人がドイツ軍を歓迎した一方、併合は軍事的威圧の下で行われ、後の国民投票ではユダヤ人、ロマ、政治的反対者など多数が投票から排除されました。
難民と反ユダヤ迫害
オーストリア併合直後、ウィーンなどでユダヤ人への公然たる暴力と屈辱行為が広がり、ドイツの反ユダヤ法が適用されました。国外へ逃れようとする人々が増えます。
1938年7月にはフランスのエヴィアンで難民会議が開かれましたが、多くの参加国は既存の移民受け入れ枠を大幅には拡大しませんでした。迫害の深刻化が国際社会に認識されていても、安全な移住先は十分に提供されませんでした。
ミュンヘン協定
1938年、ヒトラーはチェコスロヴァキアのズデーテン地方のドイツ系住民の民族自決を掲げ、地域のドイツ編入を要求しました。ズデーテンには重要な工業地帯と国境要塞があり、その割譲はチェコスロヴァキアの防衛力を大きく弱めます。
9月29–30日、ドイツ、イギリス、フランス、イタリアの首脳がミュンヘンで協定を結び、ズデーテン地域のドイツ占領日程を決めました。チェコスロヴァキアは主要交渉当事者として会議に参加していませんでした。
アメリカ公使館の後の報告では、チェコスロヴァキア側がこの決定を「without us and against us」と受け止めたことが記されています。
宥和政策をどう見るか
宥和政策は後世、「侵略者へ譲歩した失敗」として知られます。しかし当時の英仏政府には、第一次世界大戦の大量死、空爆への恐怖、軍備準備の不足、国内平和世論、帝国防衛負担、ヴェルサイユ条約の一部には修正余地があるとの認識がありました。
そのためミュンヘンを「弱腰だった」の一言で説明するのも不十分です。一方、1939年3月にドイツがチェコ地域を占領したことで、要求をドイツ系住民の統合に限定できるという政策前提は明確に崩れました。
1938年11月ポグロム
1938年11月9–10日、ドイツとオーストリアでユダヤ人を標的とする大規模な暴力が組織されました。シナゴーグが焼かれ、商店・住宅が破壊され、多数のユダヤ人男性が強制収容所へ送られました。
米国ホロコースト記念博物館は、この11月ポグロムを1933年以来続いていた反ユダヤ街頭暴力の中で最大規模かつ明確に組織された事件と位置づけています。その後、ユダヤ人の商業、教育、公共空間への参加を制限する法律がさらに強化されました。
この時点では後の組織的大量殺害政策が完成していたわけではありませんが、社会からの排除、財産剥奪、強制移住へ向けた政策が急速に暴力化していました。
1939年 プラハ占領
ミュンヘン協定から半年もたたない1939年3月、チェコスロヴァキア国家は解体されました。スロヴァキアはドイツの強い影響下で独立し、3月15日にドイツ軍がチェコ地域へ入り、ボヘミア・モラヴィア保護領が設置されました。
これはドイツ人多数地域の「民族自決」という要求を越えて、非ドイツ人多数地域を直接支配する行動でした。イギリス政府は対独政策を抑止へ転換し、3月末にはポーランドの独立を保障する方針を示しました。
スペイン内戦終結
1939年初めにフランコ軍はカタルーニャを占領し、多数の共和国側住民がフランスへ避難しました。3月にはマドリードも陥落し、4月1日にフランコが戦争終結を宣言しました。
共和国は敗北し、フランコ独裁は1975年まで続きました。スペイン内戦はそのまま第二次世界大戦へ合流したわけではなく、フランコ政権は世界大戦では正式参戦を避けます。しかしドイツ・イタリアの軍事協力、反ファシスト亡命、難民問題に大きな影響を与えました。
英仏のポーランド保障
1939年春、ドイツは自由市ダンツィヒの帰属や東プロイセンへの交通路をめぐってポーランドへ圧力を強めました。
チェコスロヴァキア解体後、イギリスは3月31日にポーランドの独立が明白に脅かされ、ポーランド政府が抵抗する場合に支援する意思を表明しました。フランスもポーランドと同盟関係にありました。
対独政策は、限定的要求を譲歩によって管理する段階から、次の侵略を抑止する段階へ移りました。
独ソ不可侵条約
1939年夏、イギリス・フランス・ソ連は対独協力を協議しましたが、相互不信と東欧諸国の通過権問題などで交渉は進みませんでした。
8月23日、ドイツ外相リッベントロップとソ連外相モロトフはモスクワで独ソ不可侵条約へ調印しました。イデオロギー上激しく敵対していた両国が、当面互いに戦わないことを約束しました。
秘密議定書ではポーランド、バルト諸国、フィンランド、ベッサラビアなどを独ソの利益圏へ分ける構想が定められました。ドイツはこれによってポーランド侵攻時の二正面戦争リスクを低下させました。
ポーランド侵攻
1939年9月1日、ドイツ軍はポーランドへ侵攻しました。9月3日、イギリスとフランスはドイツへ宣戦し、ヨーロッパにおける第二次世界大戦が始まりました。9月17日にはソ連軍も東方からポーランドへ侵攻し、ポーランドはドイツとソ連によって分割占領されました。
ただし世界史的には、1939年が「世界に初めて戦争が戻った年」ではありません。中国では1937年以来日中戦争が続き、エチオピアはイタリアに占領され、スペイン内戦は同年春まで続いていました。
1939年9月は、1930年代を通じて複数地域で崩れていた国際秩序が、ヨーロッパ大国間の全面戦争へ転化した瞬間でした。
1933–1939年に何が変わったのか
1933年の時点では、ヴェルサイユ条約、ロカルノ体制、国際連盟、不戦条約、軍縮交渉といった第一次世界大戦後の制度がまだ存在していました。しかし六年間でその実効性は大きく低下しました。ドイツは再軍備とラインラント進駐を行い、イタリアはエチオピアを侵略し、日本は満洲占領から中国全面戦争へ進みました。
国内政治でも、ドイツは一党独裁と人種法国家へ変化し、ソ連では大粛清が進みました。一方フランスでは人民戦線が議会政治の枠内で労働権を拡大しました。スペインでは内戦が外国介入を通じて国際化し、ファシズム・反ファシズム・革命・保守反革命が交差しました。
日本では二・二六事件後、軍部の政治的影響力がさらに強まり、1937年の日中戦争は短期決着せず国家総動員体制へ進みました。南京占領後の大規模な暴力と中国の長期抗戦は、東アジアの戦争がすでに世界大戦前夜に巨大な規模へ達していたことを示します。
1938年のミュンヘン協定は戦争回避を優先した宥和政策の頂点でしたが、1939年3月のチェコ地域占領によってその前提は崩れました。英仏はポーランド保障へ転じ、ドイツはソ連との不可侵条約を選びます。
第二次世界大戦への道は、独裁国家が最初から一つの共同計画で動いたからでも、民主国家が一度の決断を誤ったからでもありません。国際制度の弱さ、第一次世界大戦への恐怖、帝国主義、民族問題、反共主義、再軍備、国内政治、各政府の選択が重なり、地域ごとの暴力が次第に接続していった過程でした。
1933–1939年の主な出来事
- 1933年1月30日 — ヒトラーがドイツ首相に任命。
- 1933年2月28日 — 国会議事堂放火令。基本権停止。
- 1933年3月23日 — 全権委任法成立。
- 1933年7月 — ナチ党一党国家化。
- 1934年6月末 — 「長いナイフの夜」。
- 1934年8月 — ヒトラーが国家元首権限を統合。
- 1935年3月16日 — ドイツが徴兵制復活を公表。
- 1935年6月 — 英独海軍協定。
- 1935年9月15日 — ニュルンベルク法成立。
- 1935年10月 — イタリアがエチオピアへ侵攻。
- 1936年2月26–29日 — 日本で二・二六事件。
- 1936年3月7日 — ドイツ軍がラインラントへ進駐。
- 1936年春 — フランス人民戦線が総選挙に勝利。
- 1936年6月 — マティニョン協定、40時間労働制・有給休暇など。
- 1936年7月 — スペイン内戦開始。
- 1936年11月25日 — 日独防共協定。
- 1936年12月 — 西安事件。
- 1936–1938年 — ソ連で大粛清。
- 1937年4月26日 — ゲルニカ空爆。
- 1937年7月7日 — 盧溝橋事件。
- 1937年8月 — 上海戦。日中戦争が全面戦争化。
- 1937年12月13日 — 日本軍が南京を占領。その後大規模な殺害・強姦・略奪が発生。
- 1938年3月11–13日 — ドイツがオーストリアを併合。
- 1938年4月1日 — 日本で国家総動員法公布。
- 1938年7月 — エヴィアン会議。
- 1938年9月29–30日 — ミュンヘン協定。
- 1938年11月9–10日 — ドイツ・オーストリアで11月ポグロム。
- 1939年3月 — ドイツがチェコ地域を占領。チェコスロヴァキア解体。
- 1939年4月1日 — フランコがスペイン内戦終結を宣言。
- 1939年3月31日 — イギリスがポーランド独立を保障。
- 1939年8月23日 — 独ソ不可侵条約と秘密議定書。
- 1939年9月1日 — ドイツがポーランドへ侵攻。
- 1939年9月3日 — イギリス・フランスがドイツへ宣戦。
- 1939年9月17日 — ソ連軍がポーランド東部へ侵攻。
次の時代へ — 第二次世界大戦
1939年秋、ポーランドはドイツとソ連によって分割占領されました。西部ではしばらく大規模地上戦の少ない時期が続きますが、1940年春にはドイツ軍がデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、フランスへ侵攻します。
一方、中国では1937年以来日中戦争が続いていました。1941年に独ソ戦と日本の対米英戦争が始まると、ヨーロッパ、東アジア、太平洋の戦争が完全に結びつきます。
次の記事では、1939–1945|第二次世界大戦 — 占領、ホロコースト、総力戦、アジア太平洋として、ポーランド侵攻、フランス敗北、独ソ戦、ホロコースト、日中戦争との接続、真珠湾攻撃、植民地兵、占領社会、原子爆弾、ドイツ・日本の降伏までを一つの世界戦争として扱います。
参考資料・出典
本ページは、United States Holocaust Memorial Museum、Library of Congress、U.S. Department of State Office of the Historian、フランス国民議会、国立国会図書館、外務省外交史料館などの資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。ナチ政権については首相任命と独裁完成を同一視せず、国会議事堂放火令、全権委任法、一党国家化を分けました。宥和政策については後世の結果だけから単純評価せず、第一次世界大戦の記憶や軍事・世論上の制約を含めています。スペイン内戦は外国勢力の代理戦争だけに還元せず、国内の政治・社会対立と国際介入を区別しました。日中戦争は盧溝橋事件から直線的に全面戦争へ移ったとせず、現地停戦交渉と上海戦を経た拡大過程を記述しています。
- United States Holocaust Memorial Museum — Adolf Hitler and the Nazi Rise to Power, 1918–1933
- United States Holocaust Memorial Museum — Reichstag Fire Decree
- United States Holocaust Memorial Museum — The Enabling Act of 1933
- United States Holocaust Memorial Museum — Nuremberg Race Laws
- United States Holocaust Memorial Museum — Antisemitic Legislation 1933–1939
- United States Holocaust Memorial Museum — Kristallnacht / November Pogrom
- United States Holocaust Memorial Museum — Timeline of the German Military and the Nazi Regime
- United States Holocaust Memorial Museum — Remilitarization of the Rhineland
- United States Holocaust Memorial Museum — Nazi Territorial Aggression: The Anschluss
- United States Holocaust Memorial Museum — The British Policy of Appeasement toward Hitler and Nazi Germany
- U.S. Department of State — Ethiopian-Italian Conflict, 1935
- U.S. Department of State — League Sanctions against Italy, 1935
- Assemblée nationale — Le Front populaire et les lois sociales
- Library of Congress — Spanish Civil War Posters, 1936–1939
- United States Holocaust Memorial Museum — Spanish Civil War
- U.S. Department of State — International Intervention and the Spanish Civil War
- Library of Congress — Revelations from the Russian Archives
- U.S. Department of State — Soviet Purges, 1937
- 国立国会図書館 — 2・26事件
- 外務省外交史料館 — 日独防共協定と日独伊関係
- 外務省外交史料館 — 西安事件・国共合作問題
- 外務省外交史料館 — 特別展示「日中戦争と日本外交」
- U.S. Department of State — Marco Polo Bridge Incident, July 1937
- U.S. Department of State — Reports from Nanking after Japanese occupation
- U.S. Department of State — Reports of atrocities at Nanking, January 1938
- 国立国会図書館 — 国家総動員
- U.S. Department of State — Munich Agreement, September 1938
- U.S. Department of State — Czechoslovak reaction to Munich
資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY