Art Library
World History

1200–1300

モンゴル帝国とユーラシアの接続

チンギス・ハン、征服、交易、移動

13世紀の世界史を一つの出来事だけで象徴するとすれば、モンゴル帝国の成立と拡大は避けて通れません。1206年、モンゴル高原の諸集団を統合したテムジンはチンギス・ハンとして推戴されました。その後わずか数十年のうちに、モンゴル軍は華北、中央アジア、イラン、ルーシ、東ヨーロッパへ進出し、チンギス・ハンの子・孫の世代には太平洋岸から黒海・東欧に至る史上最大級の連続した陸上帝国が形成されました。

ただし「モンゴル帝国がユーラシアを統一し、平和な交易の時代を作った」という一文だけでは、13世紀の実態を大きく歪めます。征服過程では都市破壊、住民殺害、強制移住、農地荒廃が起こり、とりわけ中央アジア、イラン、ルーシなどでは長期的な人口・政治秩序の変化を生みました。中世史料が伝える犠牲者数には誇張や不確実性があるため、具体的な数字をそのまま事実として扱うことには注意が必要です。

一方で、征服後に成立した広域政治秩序は交通路を再編しました。駅伝制、通行証、軍事的警備、商人保護によって、使節、商人、宗教者、職人、医師、天文学者が長距離を移動しやすくなりました。中国の絵画・陶磁器・紙、イランの天文学・医学、中央アジアの商人文化、ヨーロッパの使節・宣教師などが、以前より高い頻度で接触しました。

しかしモンゴル帝国は一枚岩のまま続いたわけではありません。13世紀半ば以降、チンギス・ハン一族の諸系統は、大ハーンの元朝、中央アジアのチャガタイ・ウルス、ルーシ・草原地域のジョチ・ウルス、イラン・イラクのイルハン朝などへ分かれました。1260年代にはモンゴル王族同士の戦争も起きています。「パクス・モンゴリカ」という言葉を使う場合も、それは戦争が消えたという意味ではなく、一部の幹線交通や国際交易が帝国・諸ハン国の保護によって活発化したという限定的な意味で理解する必要があります。

モンゴルの衝撃は東アジアだけにも西アジアだけにも収まりません。高麗は1231年以後繰り返し侵攻を受け、1270年以後は元朝との王室婚姻を伴う密接な関係へ入りました。南宋は1279年に滅亡し、中国全土が元の支配下へ入りました。日本には1274年と1281年に遠征軍が来襲し、大越とチャンパにも複数回の遠征が行われました。バガン王朝は13世紀末に衰退し、ジャワでは1293年の元軍遠征を契機の一つとしてマジャパヒト王国が成立しました。

西方では1258年にフレグ軍がバグダードを占領し、アッバース朝カリフの政治的系譜を終わらせました。しかし1260年、エジプトのマムルーク軍はアイン・ジャールートでモンゴル軍を破りました。モンゴル軍がどこでも不可避的に勝利したわけではありません。エジプト・シリアではマムルーク朝が強大化し、インドではデリー・スルタン朝が北インドを統治しました。

また、13世紀の世界はモンゴルだけで動いていたのでもありません。西アフリカではスンジャタ・ケイタの伝承と結びつくマリ帝国が台頭し、サハラ金交易の中心となっていきました。東アフリカではキルワなどスワヒリ港湾都市がインド洋交易で成長し、南部アフリカではMapungubweからGreat Zimbabweへ政治・経済の重心が移っていきました。エチオピアではラリベラの岩窟教会群がキリスト教巡礼の中心となりました。

アメリカ大陸では、カホキアが12世紀の最盛期を過ぎながらも13世紀まで重要な中心地であり、メソアメリカではトゥーラ崩壊後の政治再編が進みました。アンデス北海岸ではチムー王国がチャン・チャンを中心に拡大しました。これらの社会はモンゴル帝国と直接結ばれてはいませんが、同じ13世紀の世界を理解するためには同じ時間軸に置く必要があります。

1200–1300年は、征服による破壊と、征服後の移動の増大が同時に起きた時代でした。ユーラシア内陸の政治的距離が縮まり、人・物・知識が移動する速度と範囲が大きく変わりました。そしてこの高密度化した交通網は、14世紀には別の帰結も生みます。交易路と軍事路は、黒死病を含む感染症が広域へ拡大する経路にもなっていきます。

CONTENTS

  1. 13世紀をどう見るか
  2. モンゴル高原と遊牧社会
  3. テムジンの台頭
  4. 1206年 チンギス・ハン
  5. 軍事組織と統治
  6. 西夏・金との戦争
  7. 1215年 中都占領
  8. ホラズム・シャー朝との戦争
  9. 征服と破壊をどう記述するか
  10. 1227年 チンギス・ハン死去
  11. オゴデイと帝国拡大
  12. カラコルムと帝国行政
  13. 駅伝制と通行証
  14. ルーシ諸公国への侵攻
  15. 1240年 キーウ陥落
  16. 1241年 ポーランド・ハンガリー
  17. ジョチ・ウルス/黄金のオルド
  18. 高麗への侵攻
  19. 高麗大蔵経と金属活字
  20. 1270年以後の高麗と元
  21. モンゴルによる中国征服
  22. 1234年 金朝滅亡
  23. クビライの台頭
  24. 1260年 大ハーン位をめぐる内戦
  25. 1271年 元朝
  26. 1279年 南宋滅亡
  27. 大都と多民族帝国
  28. イスラーム天文学と元朝
  29. 1274・1281年 日本遠征
  30. 日本側への長期的影響
  31. 大越への遠征
  32. チャンパと元軍
  33. バガン王朝とモンゴル圧力
  34. 1293年 ジャワ遠征とマジャパヒト
  35. 1258年 バグダード陥落
  36. イルハン朝
  37. 1260年 アイン・ジャールート
  38. マムルーク朝
  39. 1295年 ガザンの改宗
  40. 一つの帝国から複数のハン国へ
  41. 1206年 デリー・スルタン朝
  42. インドとモンゴル世界の境界
  43. 1204年 第四回十字軍とコンスタンティノープル
  44. 1261年 ビザンツ帝国復興
  45. 1215年 マグナ・カルタ
  46. 13世紀イングランドの議会形成
  47. マリ帝国の台頭
  48. 金とサハラ交易
  49. スワヒリ海岸
  50. エチオピア・ラリベラ
  51. Mapungubwe
  52. Great Zimbabweへの移行
  53. カホキアの変化
  54. メソアメリカの再編
  55. チムーとアンデス北海岸
  56. 「パクス・モンゴリカ」とは何か
  57. 商人と長距離交易
  58. 職人・宗教者・技術者の移動
  59. 東西を横断する視覚文化
  60. マルコ・ポーロをどう位置づけるか
  61. 1200–1300年に何が変わったのか
  62. 1200–1300年の主な出来事
  63. 次の時代へ — 黒死病と14世紀の危機
  64. 参考資料・出典

13世紀をどう見るか

13世紀を「モンゴルの世紀」と呼ぶことはできますが、それは世界全体がモンゴルによって支配されたという意味ではありません。

モンゴル帝国の直接支配はユーラシアの巨大な部分に及びましたが、西ヨーロッパ、エジプト、インドの大部分、東南アジアの多く、日本、アフリカの大部分、アメリカ大陸は支配外にありました。またモンゴル支配地域そのものも、13世紀後半には複数のハン国へ分かれていきました。

それでも一つの王族ネットワークが中国、中央アジア、イラン、草原、ルーシをまたいで権力を行使したことは、それ以前の世界史にない規模でした。

モンゴル高原と遊牧社会

12世紀末のモンゴル高原にはモンゴル、ケレイト、ナイマン、メルキト、タタルなど複数の政治・親族集団が存在していました。

遊牧社会は固定した国境を持つ領域国家とは異なり、牧草地、家畜、婚姻、同盟、戦争を通じて政治関係が変化しました。馬・羊・山羊などの牧畜が経済基盤であり、中国北部や中央アジアとの交易も重要でした。

「遊牧民」と「定住文明」を完全に切り離すことはできません。草原社会は農耕都市から織物・穀物・金属製品を得る一方、馬、家畜、毛皮などを供給していました。

テムジンの台頭

テムジンは12世紀後半、父を失った後の不安定な環境から同盟と戦争を重ね、モンゴル高原の主要勢力を次々と破りました。

彼の勢力拡大では血縁だけでなく個人的忠誠と軍功が重視され、敵対集団からも有能な人物を取り込むことがありました。

この再編によって、従来の部族関係をそのまま残すのではなく、多様な集団をハーンの軍事・政治組織へ再配置する基盤が生まれました。

1206年 チンギス・ハン

1206年、オノン川付近で開かれたクリルタイでテムジンは「チンギス・ハン」として推戴されたとされます。

メトロポリタン美術館の中国史年代記も1206年を、テムジンがモンゴルの大ハーンとなる時点として置いています。

これは単なる称号変更ではなく、高原の多数の軍事集団を一つの征服国家へ再編する転換点でした。

軍事組織と統治

モンゴル軍は高い機動力、騎射、情報収集、複数方向からの作戦、退却を装う戦術などを効果的に組み合わせました。

軍事集団は十進法的な単位に再編され、異なる出自の集団を混合することで旧来の部族忠誠を弱める効果もありました。

征服地ではモンゴル人だけで行政を行うのではなく、中国人、契丹人、ウイグル人、ペルシア人など既存の官僚・書記・徴税者を利用しました。メトロポリタン美術館も、モンゴルが征服地の行政制度を素早く取り入れ、少数のモンゴル支配層の下で現地官僚を活用した点を強調しています。

西夏・金との戦争

チンギス・ハンはまず周辺の西夏や金朝への軍事行動を拡大しました。

華北を支配していた女真・金は人口、都市、農業、城壁を持つ大国家であり、草原軍が簡単に征服できる相手ではありませんでした。モンゴル軍は中国系・中央アジア系技術者を取り込み、攻城技術を学びました。

征服の過程で遊牧軍は都市攻囲と行政という、草原戦争とは異なる能力を獲得していきました。

1215年 中都占領

1215年、モンゴル軍は金朝の中都、現在の北京周辺を占領しました。

金朝は首都を南へ移し存続しましたが、華北支配は大きく揺らぎました。モンゴルはこの戦争を通じ、中国北部の人口・財政・工芸・軍事技術へアクセスするようになります。

後にクビライが大都を帝国首都とすることを考えると、北京地域は13世紀のモンゴル国家形成で継続的に重要でした。

ホラズム・シャー朝との戦争

モンゴル帝国と中央アジア・イランのホラズム・シャー朝は、当初から全面戦争を予定していたわけではありません。交易使節をめぐる衝突が外交危機へ発展し、1219年にチンギス・ハンは大規模な西方遠征を開始しました。

ブハラ、サマルカンド、ウルゲンチ、メルヴなど中央アジアの都市が次々に攻撃されました。

この征服によってモンゴル勢力はカスピ海東方まで広がり、逃走したホラズム・シャーを追う部隊はイラン、コーカサス、草原方面へ進みました。

征服と破壊をどう記述するか

モンゴル征服について中世年代記には、数十万・数百万の住民が殺されたという非常に大きな数字が記されることがあります。

しかし当時の都市人口や記録方法を考えると、数字をそのまま現代的統計として扱うことはできません。それでも、多数の都市で殺害、略奪、灌漑施設破壊、人口移動が起きたこと自体は複数史料と考古学研究から確認されています。

「モンゴルは文明を破壊しただけ」でも「実は寛容で交易を発展させただけ」でもなく、破壊的征服と征服後の統治・交流を両方見る必要があります。

1227年 チンギス・ハン死去

チンギス・ハンは1227年、西夏への遠征中に死去しました。

帝国は息子たちの系統へ領域・権益を分配するウルス制度を持っていましたが、全体を統率する大ハーンも選ばれました。

チンギスの死は帝国解体を意味せず、その子・孫の世代に征服範囲はさらに拡大しました。

オゴデイと帝国拡大

1229年、オゴデイが大ハーンとなりました。

オゴデイ期には金朝征服、ルーシ・東欧遠征、中央アジア支配の制度化が進みました。1234年には金朝が滅亡し、中国北部はモンゴル支配へ入りました。

帝国の規模拡大に伴い、徴税、駅伝、使節、物資輸送を管理する行政制度の重要性が高まりました。

カラコルムと帝国行政

オゴデイはモンゴル高原のカラコルムを帝国政治の重要拠点として整備しました。

カラコルムは巨大人口を持つ農耕帝国の首都ではありませんでしたが、王宮、宗教施設、商人・職人居住区を持つ国際的な政治拠点となりました。

UNESCOのモンゴル帝国研究では、仏教寺院、モスク、キリスト教会などが同じ都市に存在していたと紹介されています。帝国支配層が複数宗教を実務的に利用・保護したことを示します。

駅伝制と通行証

広大な領域を統治するため、モンゴルは駅伝・中継網を整備しました。一定間隔で馬、食料、宿泊を提供する駅を設け、使節や公文書を高速で移動させました。

メトロポリタン美術館は、大ハーンの使節が「パイザ」と呼ばれる通行証を携え、駅伝網を利用して大都からタブリーズまで約5,000マイルをおよそ一か月で移動し得たと説明しています。

この制度は軍事・行政だけでなく、商人・外交使節・宗教者が帝国を横断する条件にもなりました。

ルーシ諸公国への侵攻

1223年、モンゴル軍はカルカ川の戦いでルーシ諸侯とクマン連合軍を破りましたが、この段階では恒常支配へ移りませんでした。

1237年以後、バトゥ率いる大軍が本格的にルーシ諸公国へ侵攻し、リャザン、ウラジーミルなどの都市を攻略しました。

ルーシ世界は統一国家ではなく複数公国に分かれていたため、共同防衛は困難でした。

1240年 キーウ陥落

1240年、モンゴル軍はキーウを攻略しました。キエフ・ルーシ以来の重要都市は大きな破壊を受けました。

その後、ルーシ諸公はジョチ・ウルスのハーンから統治承認を受け、貢納関係に組み込まれていきました。

メトロポリタン美術館の東欧年代記は1237年頃以後を「Golden Horde domination」と位置づけ、15世紀頃まで続く長期的政治関係として整理しています。

1241年 ポーランド・ハンガリー

1241年、モンゴル軍はポーランドとハンガリーへ進攻しました。レグニツァとモヒの戦いで現地軍を破り、ハンガリー平原へ広く侵入しました。

1242年には主力が東方へ撤退しました。オゴデイ死去に伴う政治事情、軍事戦略、補給・環境条件など撤退理由については歴史研究上議論があります。

重要なのは、モンゴル帝国が一時的であっても中央ヨーロッパまで軍事力を到達させ、ヨーロッパ諸国に草原帝国の存在を強く認識させたことです。

ジョチ・ウルス/黄金のオルド

チンギス・ハン長男ジョチの系統はユーラシア西部の草原を支配しました。後世一般に「Golden Horde/黄金のオルド」と呼ばれる政治体です。

その中心はヴォルガ川下流域に置かれ、ルーシ諸公国、クリミア、黒海交易、中央アジアとの関係を通じて繁栄しました。

ジョチ・ウルスは単なる略奪軍ではなく、都市、税制、外交、商業を持つ国家へ発展しました。黒海のイタリア商人都市との交易も重要になります。

高麗への侵攻

高麗は1231年から1257年にかけて複数回のモンゴル侵攻を受けました。

1231年、高麗朝廷は開京から江華島へ移り、海を利用してモンゴル騎兵の直接攻撃を避けました。地方では長期間の戦闘と被害が続きました。

メトロポリタン美術館の韓国史資料は、この期間に六度の侵攻があったと整理しています。

高麗大蔵経と金属活字

モンゴル戦争の最中、高麗朝廷は1236年に新しい仏教大蔵経版木の制作を命じました。11世紀に作られた以前の版木が1232年の侵攻で失われたためです。

1251年までに8万枚を超える版木が完成し、現在「高麗大蔵経」として海印寺に保存されています。

また高麗では13世紀前半に金属活字印刷も用いられており、1234年頃の儒教儀礼書が金属活字で印刷された記録があります。軍事危機と高度な出版文化が同じ社会に共存していました。

1270年以後の高麗と元

長期抗戦の後、1270年までに高麗王室とモンゴル側は和平関係へ入りました。

高麗王家は元朝皇族との婚姻関係を持ち、政治的に強い影響を受けました。同時に高麗王朝自体は廃止されず存続しました。

高麗は後の日本遠征で兵員・船舶・補給を要求され、元の東アジア軍事政策へ深く組み込まれました。

モンゴルによる中国征服

中国征服はチンギス・ハン一代で完了した事業ではありませんでした。

華北の金朝、四川・長江以南の南宋、さらに周辺地域を含む戦争は数十年間続きました。

モンゴル支配者は中国人・契丹人・女真人・中央アジア系の行政官・軍人を利用し、中国式行政を取り込みながら征服を進めました。

1234年 金朝滅亡

1234年、モンゴルと南宋の攻撃によって女真・金朝が滅亡しました。

これによってモンゴルは華北を支配しましたが、南宋とはその後さらに約45年間戦争が続きます。

宋とモンゴルの対立は、長江水系、山岳地形、城塞、水軍を含む大規模戦争となり、草原騎兵だけでは解決できませんでした。

クビライの台頭

1250年代、チンギス・ハンの孫クビライは中国方面の統治に深く関与しました。

彼は中国人儒者、チベット仏教僧、中央アジア・イスラーム圏の専門家などを宮廷へ集め、草原的王権と中国皇帝制度を組み合わせた統治を進めました。

1260年に兄モンケが南宋戦争中に死去すると、大ハーン位をめぐる内戦が起きます。

1260年 大ハーン位をめぐる内戦

1260年、クビライは自ら大ハーンに選出された一方、弟アリク・ブケもモンゴル高原で大ハーンを称しました。

両者の内戦は1264年まで続き、クビライが勝利しました。

しかしこの内戦は、すべてのモンゴル王族が大ハーンの指揮下で一体化していた時代の終わりを示しました。中央アジア、イラン、草原の諸ウルスは次第に独自国家として行動します。

1271年 元朝

1271年、クビライは王朝名を「大元」と定めました。

大都、現在の北京を中心に、中国皇帝としての制度とモンゴル大ハーンとしての権威を組み合わせました。

メトロポリタン美術館は元朝を、モンゴル帝国の一部でありながら中国王朝として統治された政権と位置づけています。

1279年 南宋滅亡

元軍は南宋への攻勢を続け、1276年に臨安、現在の杭州を占領しました。南宋朝廷の残存勢力は南方へ移動しました。

1279年、崖山の海戦で南宋側が敗北し、中国全土は元朝の支配下へ入りました。

宋の滅亡は、中国史上初めてモンゴル系支配者が中国全域を直接統治する王朝が成立したことを意味しました。

大都と多民族帝国

クビライは大都を巨大帝国の首都として整備しました。

元朝ではモンゴル人だけでなく、中央アジア・西アジアから来た「色目人」、旧金領の住民、旧南宋領の住民などが異なる政治的位置に置かれました。

同時に宮廷には仏教、道教、イスラーム、キリスト教など複数宗教の人々が出入りしました。宗教的寛容は現代的な信教自由と同じではなく、帝国統治と王権正統化の実務的側面を持っていました。

イスラーム天文学と元朝

元朝宮廷では西方から来た専門家も活動しました。

メトロポリタン美術館の年代記は、1271年頃にクビライがムスリム天文学の機関を設け、ペルシア・アラブ系専門家を中国へ招いたと記録しています。

これは「中国の科学」と「イスラーム科学」が別々に進んだのではなく、帝国宮廷が専門知識の移動を制度的に支えた例です。

1274・1281年 日本遠征

クビライは日本へ複数回使節を送り、服属関係を求めました。鎌倉幕府はこれを受け入れず、1274年に元・高麗軍が対馬、壱岐を経て北部九州へ侵攻しました。

1281年にはさらに大規模な遠征が行われ、高麗方面と旧南宋方面から艦隊が出動しました。

日本側の防御・戦闘に加え、暴風・台風が艦隊へ大きな損害を与え、侵攻は失敗しました。後世「神風」と呼ばれる自然現象だけで勝敗を説明するのではなく、海上補給、艦隊統合、防御施設、戦闘、気象が重なった軍事作戦として見る必要があります。

日本側への長期的影響

鎌倉幕府は再侵攻に備えて九州沿岸の防備を強化し、御家人へ警備負担を求めました。

しかし国内の反乱平定とは異なり、元寇では新しい土地を獲得して恩賞として分配することが困難でした。御家人の負担と恩賞問題は幕府政治の長期的不満の一つとなります。

また中国大陸の戦乱から来日した禅僧などを通じ、鎌倉期の宗教・文化交流も続きました。軍事対立と文化交流は同時に存在していました。

大越への遠征

現在のベトナム北部の大越、陳朝はモンゴル・元軍による複数回の侵攻を受けました。

1258年の最初の侵攻では首都昇龍が一時占領されましたが、モンゴル軍は長期駐留せず撤退しました。1285年、1287–88年にも元軍が大規模に侵攻しました。

陳朝側は正面決戦だけでなく、退却、補給妨害、地形利用、水軍を組み合わせました。1288年の白藤江の戦いで元側水軍が大損害を受け、遠征は終わりました。

チャンパと元軍

現在のベトナム中部のチャンパにも元朝は軍事圧力をかけました。

1280年代、元軍は海上からチャンパへ侵攻しましたが、現地勢力は内陸部へ退いて抵抗を続けました。

モンゴル軍が陸上で高い機動力を持っていても、熱帯気候、補給、海上輸送、森林・山岳地形の問題は遠征を困難にしました。

バガン王朝とモンゴル圧力

ミャンマーのバガン王朝は11〜13世紀に上座部仏教寺院を大量に建設した大国でした。

13世紀後半には元朝と国境・朝貢関係をめぐり緊張し、モンゴル軍が複数回侵入しました。メトロポリタン美術館は1258–1293年に東南アジア本土・島嶼部への断続的なモンゴル侵攻があったと整理しています。

1287年頃を境にバガンの統一王朝は崩れますが、その原因をモンゴル侵攻だけに求めることはできません。寺院への大規模寄進による財政問題、地方勢力、王位継承など国内要因も重要でした。

1293年 ジャワ遠征とマジャパヒト

クビライはジャワのシンガサリ王国にも服属を要求しました。使節が侮辱されたことを受け、1292–93年に元軍が海上遠征を行いました。

しかし元軍到着時にはジャワ国内で政変が起きていました。王族ラデン・ウィジャヤは元軍を利用して敵対勢力を破った後、今度は元軍を攻撃して撤退させました。

1293年、彼はマジャパヒト王国を成立させます。東南アジア側はモンゴル圧力を受けるだけの受動的存在ではなく、それを国内政治に利用する主体でもありました。

1258年 バグダード陥落

モンケ大ハーンは弟フレグに西アジア遠征を命じました。フレグ軍は1256年にイランのイスマーイール派拠点を制圧し、1258年にはバグダードへ進みました。

アッバース朝カリフが降伏すると都市は略奪・破壊を受け、多数の住民が死亡しました。正確な死者数について中世史料の数字は一致せず、慎重に扱う必要があります。

750年以来続いたバグダードのアッバース朝カリフ政治はここで終わりました。後にカイロでアッバース家のカリフ位が名目的に復活しますが、政治的中心はマムルーク朝にありました。

イルハン朝

フレグとその子孫はイラン、イラク、コーカサスなどを支配し、イルハン朝を形成しました。

イルハン朝は元朝の大ハーンとの宗族関係を意識しながらも、実際には独立性の高い国家として行動しました。

メトロポリタン美術館は、イルハン朝の成立によって東アジアの意匠がイラン美術へ流入し、既存のペルシア・イスラーム美術と融合したことを重要な文化的遺産として挙げています。

1260年 アイン・ジャールート

フレグ軍はシリアへ進出し、アレッポ、ダマスカスなどを占領しました。

しかしモンケ死去の知らせを受けてフレグが主力の一部を東へ戻した後、1260年9月、パレスチナのアイン・ジャールートでマムルーク軍がモンゴル軍を破りました。

この戦いはモンゴル軍の西方進出を完全に終わらせた一戦ではありませんが、エジプト征服を阻止し、マムルーク朝がシリアへ支配を拡大する重要な転換点となりました。

マムルーク朝

エジプトでは1250年、アイユーブ朝軍事制度の中核だったマムルーク軍人が政権を握り、マムルーク朝が成立しました。

マムルークとは購入・訓練された軍事奴隷を意味しますが、政権成立後は彼ら自身が支配エリートとなりました。

メトロポリタン美術館は、1260年のアイン・ジャールート勝利後、マムルーク朝がアイユーブ朝のシリア拠点を継承し、カイロを後期中世イスラーム世界の主要経済・文化中心へ発展させたと整理しています。

1295年 ガザンの改宗

イルハン朝のモンゴル支配層は当初、シャーマニズム、仏教、キリスト教など複数宗教と関係を持っていました。

1295年、ガザン・ハンはイスラームへ改宗し、国家統治でもイスラーム制度をより強く採用しました。

これはモンゴル征服者が征服地文化を一方的に置き換えたのではなく、数世代のうちにイラン・イスラーム社会へ深く統合されたことを示します。

一つの帝国から複数のハン国へ

13世紀後半には、モンゴル帝国を単一国家として描くことが難しくなります。

元朝、イルハン朝、チャガタイ・ウルス、ジョチ・ウルスは同じチンギス家の権威を共有しながら、外交・戦争・宗教政策を独自に進めました。

イルハン朝とジョチ・ウルスがコーカサスをめぐって戦うなど、モンゴル国家同士の戦争も起こりました。したがって「パクス・モンゴリカ」は帝国内に完全な政治統一が続いたという意味ではありません。

1206年 デリー・スルタン朝

南アジア北部では、ゴール朝軍司令官クトゥブッディーン・アイバクが1206年に独立し、デリーを中心とするスルタン政権を成立させました。

メトロポリタン美術館はこれを、北インドと一部デカンを複数のテュルク系王朝が統治するデリー・スルタン朝時代の始まりとしています。

イスラーム系支配層、ペルシア語行政文化、南アジアの在地社会が接触し、建築、言語、宗教、都市文化に新しい組み合わせが生まれました。

インドとモンゴル世界の境界

モンゴル軍はインダス川方面まで繰り返し到達し、13世紀後半にはデリー・スルタン朝領への侵入も起こりました。

しかし北インド全体がモンゴル帝国へ組み込まれることはありませんでした。デリー・スルタン朝は北西国境の防衛を重要政策としました。

一方で難民、学者、職人、軍人が中央アジア・イランのモンゴル征服からインドへ移動し、デリーなどの都市社会へ新しい人材が流入しました。

1204年 第四回十字軍とコンスタンティノープル

13世紀はモンゴル登場より前から大きな政治断絶で始まりました。

1204年、エルサレムを目指して組織された第四回十字軍は進路を変え、キリスト教都市コンスタンティノープルを占領・略奪しました。ラテン帝国が成立し、ビザンツ系勢力はニカイア、エピロス、トレビゾンドなどへ分かれました。

メトロポリタン美術館は、1204年の略奪によって多くのビザンツ美術品が西ヨーロッパへ移動し、イタリア美術へも影響したことを指摘しています。

1261年 ビザンツ帝国復興

1261年、ニカイア帝国のミカエル8世パレオロゴスはコンスタンティノープルを奪回し、ビザンツ帝国を復興しました。

しかし1204年以前の領土・経済力は回復せず、帝国はバルカン、アナトリア、エーゲ海で多数勢力と競合しました。

それでもパレオロゴス朝期には宗教美術・写本・知識文化が再び活発化しました。

1215年 マグナ・カルタ

イングランドでは1215年、ジョン王と反乱貴族の政治危機の中でマグナ・カルタが成立しました。

イギリス議会の歴史資料は、これを王と政府も法の上に立つ存在ではないという原則を文書化した重要な出来事と位置づけています。

ただし1215年文書は現代的な民主主義憲法ではなく、主として王と有力貴族の権利・義務を調整する中世の政治文書でした。発布直後には教皇によって無効化され、その後修正版が再発布されながら長期的象徴性を獲得しました。

13世紀イングランドの議会形成

13世紀イングランドでは王が課税・戦争のため有力者との協議を必要とし、議会制度が段階的に形成されました。

UK Parliamentの年代記では、1236年に「Parliament」という語が王の大評議会を指す用語として現れ、1254年には各州から選出された騎士、1265年には州と都市の代表が招集されています。

この制度はまだ近代的普通選挙議会ではありませんが、王権と課税・代表・協議の関係が制度化されていく重要な過程でした。

マリ帝国の台頭

西アフリカではガーナ王国衰退後、ソソ勢力が一時優位を持ちましたが、13世紀前半にマンデ系勢力が再編されました。

スンジャタ・ケイタは口承叙事詩でマリ建国の中心人物として語られています。伝承ではソソ王スマングル・カンテを破り、マンデ諸集団を統合したとされます。

年代・細部には口承史料と後世文献の問題があるため、1235年など特定年を絶対的に断定するより、13世紀前半から中頃にマリ帝国が台頭したと捉えるのが慎重です。

金とサハラ交易

マリ帝国の成長にはニジェール川流域と金産地、サハラ交易路の支配が重要でした。

メトロポリタン美術館の金交易史は、12世紀末までにガーナが西スーダン金交易の優位を失い、新しいビュレ金産地へ交易路が移る中でマリが台頭したと説明しています。

金と塩は長距離交易の中心商品であり、イスラーム商人・学者・都市社会との接触を拡大しました。14世紀のマンサ・ムーサの時代にこの経済力はさらに可視化されます。

スワヒリ海岸

東アフリカ沿岸ではキルワなどのスワヒリ都市が13世紀にも成長しました。

これらの都市はアフリカ在地社会を基盤とし、イスラームを受容しながら、アラビア半島、ペルシア湾、インド、東南アジアとの海上交易に参加しました。

キルワは内陸の金・象牙とインド洋の陶磁器、織物、香料、銀などを結ぶ港として豊かになりました。後のGreat Zimbabweの経済とも深くつながります。

エチオピア・ラリベラ

エチオピア高原ではザグウェ朝の下でキリスト教国家が続きました。

UNESCOはラリベラの11の岩窟教会を12〜13世紀に形成された「新しいエルサレム」と位置づけています。王ラリベラの時代に建設されたという伝承を持ちますが、近年の研究ではより長い建設期間も検討されています。

エチオピア・キリスト教世界は地中海ヨーロッパの外側に存在する独自の古いキリスト教伝統でした。

Mapungubwe

南部アフリカではリンポポ川とシャシェ川の合流地域にMapungubwe王国が成長しました。

UNESCOは900〜1300年頃を、この地域で在地王国と社会階層が発展した時代として位置づけています。王宮区域と一般居住地の空間的分離は政治的階層化を示します。

ガラスビーズなどの輸入品は、内陸社会が東アフリカ海岸とインド洋交易へ接続していたことを示しています。

Great Zimbabweへの移行

13世紀末から14世紀にかけて、南部アフリカの政治・交易中心はMapungubweからGreat Zimbabwe方面へ移っていきました。

Great Zimbabweの石造都市そのものは11世紀頃から長期的に形成されていました。メトロポリタン美術館は、畜産、農業、織物、鉄・銅・金加工と、海岸を通じた金・象牙交易を経済基盤として挙げています。

巨大石壁を外部文明の建設とした古い植民地主義的説は、考古学によって否定されています。ショナ語系住民の祖先による在地国家形成として理解されています。

カホキアの変化

北米ミシシッピ川流域のカホキアは1050–1150年頃に人口1万〜2万人規模の最盛期を迎えました。

13世紀には人口縮小が進みましたが、ミシシッピ文化そのものは広い地域で継続しました。

UNESCOはカホキアを、共同農業、労働組織、交易、政治・宗教階層を持つ北米最大級の先コロンブス期中心として評価しています。

メソアメリカの再編

中央メキシコでは12世紀末から13世紀初頭にトゥーラの政治的中心性が衰退し、複数の都市国家が並立しました。

メキシコ盆地には後にアステカと呼ばれるメシカを含む諸集団が移動・定住していきますが、テノチティトラン建設は14世紀前半です。

ユカタン半島でもチチェン・イツァ後の政治再編が続き、マヤパンなどが重要になります。13世紀のメソアメリカは「アステカ以前の空白」ではありませんでした。

チムーとアンデス北海岸

アンデス北海岸では12世紀頃からチムー王国がチャン・チャンを中心に発展しました。

灌漑農業、職人集団、都市計画、金属工芸などが高度に組織され、沿岸の複数谷を統合していきました。

13世紀は後のインカ帝国成立より前ですが、アンデスにはすでに広域的な国家形成の長い蓄積がありました。

「パクス・モンゴリカ」とは何か

「パクス・モンゴリカ」は、モンゴル支配下でユーラシア交易路が比較的安全になり、東西交流が活発化したことを説明する後世の表現です。

UNESCOのシルクロード研究も、この語の妥当性には議論があるとしつつ、モンゴル帝国期に物質・文化・知識の大規模交流が促進されたことを認めています。

したがってこの言葉を「13世紀ユーラシアは平和だった」という意味で使うべきではありません。モンゴル諸国同士の戦争、反乱、征服は続きました。より正確には、主要交易路の保護と帝国規模の移動制度が拡充したことを指します。

商人と長距離交易

モンゴル支配者は商人へ資金を提供し、交易利益を分配する関係を作ることがありました。

中国の絹・陶磁器・漆器、中央アジアの馬、イラン・西アジアの織物・薬品・工芸品などが広い地域を移動しました。

陸路だけでなく、元朝期には中国と東南アジア、インド、ペルシア湾を結ぶ海上交易も活発でした。13世紀後半の「ユーラシア接続」は陸上のシルクロードだけでは説明できません。

職人・宗教者・技術者の移動

モンゴル軍は征服地から熟練職人を選別して他地域へ移住させることがありました。

これは強制移動であり、自由な文化交流として美化すべきものではありません。しかし結果として、金属加工、織物、陶芸、建築、兵器、天文学などの技術が遠隔地域へ移転する経路になりました。

同時に仏教僧、キリスト教宣教師、イスラーム学者、道士など宗教者もモンゴル宮廷を訪れ、各宗教が保護・競争・交渉を行いました。

東西を横断する視覚文化

イルハン朝美術では中国起源の雲、岩、樹木、龍などの表現がペルシア絵画・工芸へ入りました。

メトロポリタン美術館は、元朝とイルハン朝を結ぶ人物・物品の移動によって、東アジアの視覚言語がイランで再構成され、その後イスラーム美術へ長く影響したと説明しています。

「中国美術がそのまま西へ移った」のではなく、異なる素材・宗教・宮廷文化の中で変形され、新しい様式として定着しました。

マルコ・ポーロをどう位置づけるか

ヴェネツィア商人マルコ・ポーロの名は13世紀東西交流の象徴として有名です。彼は父・叔父とともにユーラシアを横断し、クビライ宮廷を訪れたとする旅行記で知られます。

しかしマルコ・ポーロは東西交流を「発見」した最初の人物ではありません。彼以前にも中央アジア商人、イスラーム商人、モンゴル使節、ローマ教皇使節など多数の人々が長距離を移動していました。

重要なのは、彼の旅行記がヨーロッパで広く読まれ、中国・中央アジア・インド洋世界についての情報を伝えたことです。個人の冒険談より、彼が移動できた13世紀の交通・政治環境を見る方が世界史的には重要です。

1200–1300年に何が変わったのか

13世紀最大の変化は、ユーラシアの政治距離が急激に縮んだことです。1200年頃には南宋、金、ホラズム、ルーシ諸公国、イスラーム諸王朝など多数の政治圏が並立していました。1300年頃には、その多くがモンゴル征服を経験し、元、チャガタイ、イルハン、ジョチの諸ハン国からなるチンギス家の広域秩序へ組み込まれていました。

その変化は巨大な暴力によって起きました。都市攻囲、人口殺害、略奪、強制移住を伴う征服を、「交易が活性化したから結果的によかった」と評価することはできません。征服された社会にとって13世紀のモンゴル進出は深刻な破壊でもありました。

しかし征服後、モンゴル国家は行政・税制・交通網を作り、商人と専門家を保護・移動させました。元の大都、イルハン朝のタブリーズ、ジョチ・ウルスの都市、中央アジアの交易都市は、政治的には別国家になりながら王族・商人・使節を通じて結ばれていました。

中国では1279年に南宋が滅亡し、元朝が中国全土を支配しました。元朝宮廷にはチベット仏教、イスラーム天文学、中央アジア商人などが入り、中国はより大きなユーラシア帝国の中心の一つとなりました。

東アジア周辺ではモンゴルの拡大が異なる結果を生みました。高麗は王朝を残したまま元と密接な従属・婚姻関係へ入り、日本への遠征は失敗し、大越・チャンパも征服を回避しました。東南アジアではバガンが弱体化する一方、ジャワでは元軍遠征の混乱からマジャパヒトが成立しました。

西アジアでは1258年のバグダード陥落によってアッバース朝の政治的中心が消えましたが、イスラーム世界そのものが崩壊したわけではありません。マムルーク朝がエジプト・シリアで台頭し、イルハン朝自身も1295年以後イスラーム化しました。征服者と被征服文化の関係は数世代で大きく変化しました。

南アジアではデリー・スルタン朝、西アフリカではマリ帝国、東アフリカではスワヒリ都市、南部アフリカではMapungubweとGreat Zimbabweが発展しました。これらはモンゴル帝国の単なる周辺史ではなく、それぞれ独自の政治・交易ネットワークを形成していました。

アメリカ大陸でもカホキア、メソアメリカ諸都市、アンデスのチムーなどが独自に変化していました。ユーラシアの急速な接続は世界全体の接続ではありませんでした。

それでも13世紀にユーラシアの人・物・情報移動が大規模化したことは、次の時代へ決定的に影響します。14世紀には旅行者・商人・外交使節がさらに移動する一方、気候変動、飢饉、戦争、そして黒死病が広域ネットワークを通じて複数地域を同時に揺らします。

1200–1300年の主な出来事

  • 1204年 — 第四回十字軍がコンスタンティノープルを占領・略奪し、ラテン帝国成立。
  • 1206年 — テムジンがチンギス・ハンとして推戴される。
  • 1206年頃 — クトゥブッディーン・アイバクがデリーで独立し、デリー・スルタン朝時代が始まる。
  • 1215年 — モンゴル軍が金朝の中都を占領。
  • 1215年 — イングランドでマグナ・カルタ発布。
  • 1219–1221年 — モンゴル帝国がホラズム・シャー朝を大規模攻撃。
  • 1227年 — チンギス・ハン死去。
  • 1229年 — オゴデイが大ハーンとなる。
  • 1231–1257年 — モンゴル軍が高麗へ複数回侵攻。
  • 1234年 — 金朝滅亡。
  • 1236年 — 高麗が新しい大蔵経版木制作を開始。
  • 1237–1240年 — モンゴル軍がルーシ諸公国を征服。
  • 1240年 — キーウ陥落。
  • 1241年 — モンゴル軍がポーランド・ハンガリーへ侵攻し、レグニツァ・モヒで勝利。
  • 1250年 — エジプトでマムルーク朝成立。
  • 1251年 — 高麗大蔵経の8万枚を超える版木が完成。
  • 1256年 — フレグがイラン方面でイルハン朝支配の基盤を形成。
  • 1258年 — モンゴル軍がバグダードを占領。アッバース朝カリフ政治が終焉。
  • 1258年 — モンゴル軍が大越へ最初の大規模侵攻。
  • 1260年 — クビライとアリク・ブケが大ハーン位を争う。アイン・ジャールートでマムルーク軍がモンゴル軍を破る。
  • 1261年 — ミカエル8世がコンスタンティノープルを奪回し、ビザンツ帝国復興。
  • 1264年 — クビライが大都を主要首都とする。
  • 1270年 — 高麗朝廷がモンゴル側と和平し、元との密接な関係へ。
  • 1271年 — クビライが王朝名を大元とする。
  • 1274年 — 元・高麗軍が日本へ最初の遠征。
  • 1276年 — 元軍が南宋首都臨安を占領。
  • 1279年 — 崖山の海戦で南宋滅亡。元が中国全土を支配。
  • 1281年 — 元軍が日本へ2度目の大規模遠征。
  • 1285年 — 元軍が大越へ大規模侵攻。
  • 1287–1288年 — 元軍が再び大越へ侵攻。白藤江などで敗退。
  • 1287年頃 — バガン王朝の統一支配が崩れる。
  • 1293年 — 元軍がジャワへ遠征。ラデン・ウィジャヤがマジャパヒト王国を成立させる。
  • 1295年 — イルハン朝ガザン・ハンがイスラームへ改宗。
  • 13世紀 — マリ帝国が西アフリカで台頭。MapungubweとGreat Zimbabweを結ぶ南部アフリカ交易圏が発展。

次の時代へ — 黒死病と14世紀の危機

1300年頃、モンゴル帝国はもはや単一の統一国家ではありませんでしたが、元、イルハン、チャガタイ、ジョチの諸ハン国は広域交易と外交を続けていました。

しかし14世紀にはこの秩序が大きく揺らぎます。イルハン朝は1330年代に解体へ向かい、元朝では財政・政治・災害問題が深刻化します。中央アジアと草原でも諸勢力の争いが強まります。

同時にヨーロッパでは飢饉、英仏百年戦争、教皇庁の分裂などが起こり、日本では鎌倉幕府が崩壊して南北朝動乱へ入ります。中国では紅巾の乱を経て1368年に明朝が成立します。

そして1340年代後半、黒死病がユーラシア・北アフリカの広範囲へ拡大します。感染症の正確な経路については研究が続いていますが、13世紀までに発達した長距離交易・移動ネットワークが、病原体の広域移動を可能にする条件の一つとなりました。

次の記事では、1300–1400|黒死病と14世紀の危機 — 疫病、百年戦争、元朝崩壊、社会再編として、モンゴル時代に高密度化した世界が疫病・戦争・気候変動によってどのように揺らいだのかを追います。

参考資料・出典

本ページは、The Metropolitan Museum of ArtのHeilbrunn Timeline of Art Historyと研究資料、UNESCO Silk Roads Programme、UNESCO World Heritage Centre、UK Parliamentなどの公的・研究資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。モンゴル帝国については、征服時の破壊と征服後の交易・文化移動を別々の事実として扱い、後者を理由に前者を過小評価しない構成としました。また「パクス・モンゴリカ」は戦争の消滅を意味する言葉としてではなく、一部の交通路・交易路がモンゴル諸政権によって保護され、広域移動が促進された現象を示す限定的な分析概念として使用しています。

資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY