1993–2001
アメリカ|グローバル化とデジタル経済
NAFTA、インターネット、ドットコム・ブーム、金融市場
1990年代初め、アメリカは冷戦が終わった後の新しい経済環境に向き合っていました。ソビエト連邦が1991年に崩壊し、東西の軍事的対立を軸としてきた国際秩序が変わります。アメリカ国内では1990〜91年の景気後退からの回復が課題となり、海外企業との競争や工場の再編が雇用への不安を生んでいました。1993年に就任した民主党のビル・クリントン大統領は、国内経済を立て直しながら、貿易市場を広げる政策を進めました。
この頃、企業にとって国境の意味が変わり始めていました。例えばアメリカで自動車を売る会社は、アメリカ国内だけですべての部品を作る必要がありません。エンジンを別の国で製造し、部品を組み立て、完成した車を再び国境を越えて販売することができます。政府が輸入品に課す関税を引き下げれば、こうした取引はしやすくなります。製品が安くなる期待が高まる反面、海外の工場と競争する地域では仕事が失われる心配もありました。
もう一つの変化は、情報を運ぶ速さです。研究者や大学が使っていたコンピューターのネットワークが民間へ広がり、企業は離れた拠点の在庫や注文をより早く把握できるようになりました。家庭でもパソコンを通信回線につないで情報を探し、買い物をする人が増えます。技術の変化は実際に企業の生産性を高め、投資家はインターネット関連企業の将来に大きな期待を寄せました。
1990年代の後半、アメリカでは景気拡大と株価上昇が続きました。その中で、貿易による雇用への影響、インターネットを利用できる家庭とできない家庭の差、巨額の借入を使う金融取引など、新しい問題も現れます。北米の貿易協定から世界貿易のルール、商用インターネットの発達、金融市場の過熱へと進む流れを追うと、2000年の株価急落と2001年の景気後退がどのような経済の中で起きたのかが見えてきます。
CONTENTS
冷戦後のアメリカと新しい経済競争
1993年から2001年の経済変化を理解するには、冷戦の終結と、その直前の景気後退から始める必要があります。企業は海外市場での競争に向き合い、働く人々は工場の再編や雇用の先行きを心配していました。同じ時期、研究用だった通信網が企業と家庭へ入り始めます。国際貿易の制度と情報を運ぶ技術が、互いを支えながら変化していった時期でした。
景気回復の中で問われた雇用と競争力
1990〜91年の景気後退の後、失業率は高い状態が続き、1993年の年平均では6.9%でした。工場の自動化や海外生産への転換が進む中で、働く人々にとっては、景気が回復しても以前と同じ職場が戻るとは限らないことが問題でした。政府に求められていたのは、企業の成長を促すことと、働く人々の生活を支えることの両方でした。
企業活動の変化を実感しやすかったのは、工場が地域の雇用を支える町でした。自動車や電気機器の企業が生産工程を組み替えると、工場で働く人に加えて、部品の納入業者、運送会社、周辺の商店にも影響が及びます。全国の景気が回復しても、地元で従来と同じ仕事を見つけられるとは限りません。自由貿易に反対する労働組合の主張には、こうした生活上の不安がありました。
1993年に発足したクリントン政権は、財政赤字の削減や教育・技術への投資を重視しました。共和党と民主党の内部でも貿易政策への意見は分かれ、自由貿易を支持する企業と、雇用流出を警戒する労働組合の利害も一致していませんでした。貿易協定をめぐる対立は、こうした景気回復期の不安を背景に生まれました。(参照:米国労働統計局 | 1993年と2000年の失業率/クリントン大統領図書館 | NAFTAの交渉と成立)
国境を越える生産と情報通信の結びつき
1990年代の企業は、製品の製造場所と販売場所を分ける選択肢を広げていました。国際貿易のルールが共通化され、部品輸送や通関の見通しが立てやすくなると、国境を越える取引を長期の経営計画に組み込みやすくなります。
同時にコンピューターの性能が向上し、通信回線を使って離れた拠点の情報をやり取りできるようになりました。工場や倉庫の在庫情報を共有できれば、部品を必要な場所へ必要な時期に届ける計画も立てやすくなります。貿易制度の変化と情報技術の普及は、別々の出来事でありながら、企業が世界規模で働く方法を支え合っていました。(参照:米国商務省(1998年) | 成長するデジタル経済/米国経済分析局(2004年) | 1990年代後半の産業別経済成長)
NAFTAが変えた北米の貿易
アメリカ、カナダ、メキシコの三か国では、それぞれの国境を越える取引をしやすくする交渉が進みました。関税を下げれば企業や消費者に利益が生まれると期待される反面、国内の労働条件や産業をどう守るかが大きな政治問題になりました。
1993年の交渉から1994年の発効へ
北米自由貿易協定(NAFTA)は1994年1月1日に発効しました。アメリカとカナダの間には1989年から自由貿易協定があり、そこへメキシコを加える交渉を進めたのが共和党のジョージ・H・W・ブッシュ政権でした。1992年に三か国の首脳が協定へ署名した後、政権を引き継いだ民主党のクリントン大統領が米国議会での承認を進めました。
アメリカの貿易協定には、交渉した大統領が署名するだけでなく、国内で実施するための法律を議会で成立させる手続が必要でした。NAFTAの承認を進めたクリントン大統領は民主党でしたが、民主党の議員がすべて賛成したわけではありません。賃金の低い国との競争を心配する議員や労働組合が反対し、企業や輸出産業の支持者には共和党議員もいました。政党をまたぐ賛否の違いが、この協定を当時の大きな政治争点にしました。
クリントンはNAFTAによってメキシコへの輸出が拡大すると期待しました。労働組合や環境団体は、企業が賃金や環境規制の条件を比べて工場を移すことを懸念します。そこで政権は労働・環境問題などの補足協定を交渉し、1993年末に国内の実施法が成立しました。自由貿易を進める方針と、その負担への対策をどう組み合わせるかが、成立前から争われていました。(参照:クリントン大統領図書館 | NAFTAの交渉と成立/米国大統領文書集 | NAFTAの労働・環境に関する補足協定)
関税撤廃と国境を越える自動車生産
関税は外国から輸入する品物に課される税金です。関税が高いと、海外で作った部品を国内工場へ運ぶ費用が増えます。NAFTAは多くの関税を段階的に撤廃するとともに、原産地規則、税関手続、投資、サービス取引、知的財産などのルールを定めました。原産地規則とは、ある製品が協定の対象となる三か国の産品と認められる条件を決める仕組みです。
例えば自動車産業では、エンジン、変速機、電子部品、完成車が北米の複数の工場を経て販売されます。部品が国境を越えるたびに複雑な手続や高い関税が必要であれば、こうした生産は費用がかさみます。NAFTAは三か国をまたぐ生産計画を組みやすくし、企業の調達や販売の結びつきを強めました。
原産地規則が必要なのは、三か国以外で作った製品を一度メキシコへ輸入し、そこからアメリカへ送れば無条件に関税がなくなる、といった扱いを防ぐためです。自動車のように大量の部品からできた製品では、どの部品をどこで生産したかが優遇を受けられるかどうかに関係します。そのため企業は価格だけでなく、部品の調達先や生産工程も検討する必要がありました。
北米の貿易拡大は協定だけで生まれた現象ではありません。メキシコの以前からの経済改革、為替の変動、企業の技術投資も影響しています。協定はその変化が続くための制度的な土台の一つとなりました。(参照:米国通商代表部 | 北米自由貿易協定の内容と経緯)
輸出の機会と工場労働者への負担
貿易が広がると、海外で売れる商品を作る企業は新しい市場を得られます。消費者は輸入品を選びやすくなり、国内メーカーも海外製の部品を利用できます。反対に、輸入品と競争する工場では価格を下げる必要が生まれ、生産拠点の変更や人員削減につながることがあります。
一方、メキシコ側にも事情がありました。メキシコ政府は1980年代から貿易の自由化を進め、北米市場へ輸出する製造業への投資を呼び込もうとしていました。アメリカ企業にとっては製造費用を抑えられる可能性があり、メキシコの労働者には雇用の機会が生まれます。賃金水準や労働条件が異なる国同士の統合が進むほど、企業の競争力と働く人の生活をどう両立させるかが問われました。
特定の町で大きな工場が閉鎖されると、そこで働いていた人々だけでなく、運送業者や商店の売上にも影響します。新しい仕事が国内の別の地域に増えても、家族や住宅を抱えた労働者が簡単に移住できるわけではありません。クリントン政権は、こうした懸念に応えるため、労働・環境に関する補足協定や労働者の再就職支援を訴えました。貿易の総額と個々の地域の経験を分けて考える必要がある理由は、ここにあります。
協定の前後には景気変動や為替相場の動きも起きました。メキシコでは1994年末から通貨危機が深刻化し、輸出入価格や投資環境に影響を与えています。貿易の増加や工場移転の全体をNAFTAだけの結果として計算することは難しく、後の研究でも産業や地域を分けて影響を評価する必要がありました。 (参照:クリントン政権公文書 | 労働組合とNAFTAをめぐる対立/米国大統領文書集 | NAFTAの労働・環境に関する補足協定/国際通貨基金(2001年) | 1994年のメキシコ通貨危機)
世界貿易機関と国際ルールの拡大
北米の協定が特定の三か国の取引を扱うのに対して、世界貿易機関(WTO)は多数の国・地域が参加する国際貿易のルールを扱います。企業が世界各地で活動するようになるにつれ、各国がどのような共通の約束を持つべきかが重要になりました。
GATTからWTOへの転換
第二次世界大戦後、各国は高い関税や輸入制限によって貿易が妨げられる状況を改善しようとしました。1947年に成立した「関税及び貿易に関する一般協定」(GATT)は、そのための国際的な取り決めです。各国が交渉を重ねて関税を引き下げることで、商品を国境を越えて売買しやすくする役割を果たしました。
GATTのもとでは、加盟国が交渉のたびに関税引き下げを約束し、その約束を守ることが重視されました。1980年代にはサービス産業や技術に関わる国際取引も大きくなり、商品だけを中心にした枠組みでは扱いきれない問題が増えます。幅広い分野の規則を継続的に管理し、各国間の争いを解決する仕組みを整えることが、WTOの設立へつながりました。
1986年に始まったウルグアイ・ラウンドと呼ばれる大規模な交渉では、従来の商品貿易に加え、サービスや知的財産、農業なども話し合われました。この合意に基づき1995年1月1日にWTOが発足します。加盟する国や地域は、共通の貿易ルールを守りながら、今後の制度について協議する場を持つようになりました。(参照:世界貿易機関 | 組織の成立と基本的な役割/世界貿易機関 | 貿易交渉と紛争処理の仕組み)
関税から特許・サービス・紛争処理へ
国境を越える経済活動には、完成品の輸入以外にもさまざまな形があります。外国の会社が金融や通信などのサービスを提供すること、医薬品やソフトウェアの発明・著作物を保護すること、国内の農業補助金が輸入品との競争に影響することなどです。これらの問題では、関税が低くても国内制度の違いが企業活動を左右します。
例えば、ある国が外国製品だけに厳しい販売条件を課した場合、輸出している国はその措置が国際的な約束に反すると主張することがあります。WTOには政府間の協議と紛争解決の手続があり、当事国は規則に照らして争うことができます。政府が国民の安全や環境を守るために採用する政策にも例外が認められるため、具体的な争いでは協定の条文と措置の目的が問題になります。
また、途上国にとっては外国市場への輸出機会が増える期待がある一方、農業や新しい産業をどの程度保護できるのかが切実でした。先進国と途上国が同じ制度をめぐっても、守ろうとする産業や政策の優先順位が違うことが、後の交渉で大きな隔たりを生みます。
WTOは加盟国の約束を管理し、政府同士が貿易措置を争う際の手続も整えました。争いの当事者は企業そのものではなく、原則として加盟する政府です。市場を広げるための共通ルールが増えるほど、国内で決めた制度と国際的な約束の関係も政治問題になります。この緊張は1999年のシアトル会議で目立つようになります。(参照:世界貿易機関 | 貿易交渉と紛争処理の仕組み)
研究用ネットワークが家庭のインターネットになる
貿易交渉が進んでいた1990年代前半、コンピューター通信の世界でも大きな変化が起きていました。インターネットの技術は以前から存在しましたが、研究者のネットワークを一般の家庭や企業が使えるようにするには、接続事業者と情報を見るためのソフトウェアが必要でした。
大学と全米科学財団が支えた通信網
インターネットは、多数のコンピューターネットワークが共通の通信方式でつながった仕組みです。その基礎にはアメリカ国防総省が支援したARPANETや、大学・研究機関を結んだ全米科学財団のNSFNETがありました。1986年に始まったNSFNETは、離れた大学の研究者が計算資源や情報を共有するための全国的な通信網を発達させました。
ネットワークをつなぐには、どの大学からでも同じ方式でデータを送受信できる技術が必要です。インターネットでは情報を小さな単位に分けて送る通信方式が使われ、複数のネットワークを通って届けられます。利用者は相手のコンピューターがどの地域にあるかを細かく意識せず、電子メールや情報のやり取りを行えるようになっていきました。
研究機関同士の通信が増えると、通信設備や運用方法が整い、その技術を使って事業を行う民間企業も現れました。1990年代前半には民間のインターネット接続事業者が成長し、1995年4月には全米科学財団が専用のNSFNET基幹網の運用を終了しました。利用者を結ぶ中心的な役割が、公的な研究用の基幹網から複数の民間通信網へ移っていったのです。(参照:全米科学財団 | 商用インターネット成立の経緯)
ウェブとブラウザーが情報を身近にした
インターネットと、そこでウェブページを閲覧する仕組みは別のものです。欧州原子核研究機構(CERN)にいたティム・バーナーズ=リーは1989年、研究者が情報を結び付けて参照できる仕組みとしてワールド・ワイド・ウェブを考案しました。文章中のリンクから別の資料へ移動できるため、情報を探す方法が大きく変わりました。CERNは1993年4月にウェブのソフトウェアを自由に利用できる形で公開しています。
ウェブが広まった理由には、作成した情報を別の情報へリンクで結び付けられることに加え、閲覧のための道具を多くの人が利用できたことがあります。1993年4月30日、CERNはウェブ関連ソフトウェアを自由に利用できる形で公開しました。大学だけでなく企業や個人もウェブサイトを作りやすくなり、公開される情報そのものが増えていきます。
同じ1993年には、米イリノイ大学の国立スーパーコンピューター応用研究所が開発したブラウザー「Mosaic」が広まりました。ブラウザーはウェブページを見るためのソフトウェアで、文字だけの操作に慣れていない人も画像やリンクを画面上で扱いやすくなりました。後には商用ブラウザーも登場し、通信回線につながったパソコンが、一般の人々にとって情報を読む道具へ変わっていきます。(参照:欧州原子核研究機構 | ウェブ誕生と1993年の公開/全米科学財団 | 商用インターネット成立の経緯)
家庭での利用が急増した1997〜2000年
当時の家庭では、パソコンを電話回線とモデムと呼ばれる機器で接続する方法が広く使われていました。接続には機器の購入費や通信料金が必要で、現在のようにいつでも高速で通信できる環境が一般的だったわけではありません。
米国国勢調査局によると、自宅でインターネットを使う人がいる世帯の割合は1997年に約18%、1998年に約26%、2000年には約42%に達しました。2000年には約4,400万世帯、約9,400万人が家庭からインターネットを利用していました。電子メール、ニュース、買い物などが家庭へ広がり、情報通信が専門家だけの技術であった時代から日常生活へ移っていきました。(参照:米国国勢調査局 | 2000年の家庭用コンピューターとインターネット)
便利さが広がるほど目立ったデジタル格差
家庭の通信環境が急速に変わるなかで、所得や教育、住んでいる地域によって利用の機会が異なることも分かってきました。パソコンと接続回線を買える世帯は早くから利用を始めましたが、低所得の家庭や通信設備が整っていない地域では接続が難しい場合がありました。
政府が2000年に公表した調査では、年収7万5,000ドル以上の世帯のインターネット接続率は77.7%でした。一方、年収1万5,000ドル未満の世帯では12.7%にとどまります。国全体の普及率が約4割へ上昇しても、所得階層によって利用できる機会には大きな違いが残っていました。
教育の面でも、家庭で資料を検索できる生徒と、学校や図書館など限られた場所でしか利用できない生徒では条件が違います。新しい通信技術を学校教育や求人情報の提供へ取り入れるとき、政府や地域の公共施設が接続機会をどう支えるかが課題となりました。
米国商務省の1998年と2000年の調査では、所得や学歴などによるインターネット接続率の差が示されました。2000年の報告でも普及が広がる過程で格差が残ることが確認されています。学校の調べ物や求人情報がオンラインへ移るほど、通信環境の違いが新しい教育・就業上の問題になるため、政府は「デジタル格差」を政策上の課題として捉えるようになりました。(参照:米国商務省 | 1998年のデジタル格差調査/米国商務省 | 2000年のインターネット接続格差)
企業活動と仕事を変えた情報技術
インターネットの普及がもたらした影響は、画面でウェブサイトを見ることにとどまりません。企業は商品や在庫の情報を共有し、通信会社は制度改革に直面し、新たな事業も登場しました。
注文・在庫・物流がつながる
例えば小売店が商品を売るとき、従来は店舗の販売記録を集め、倉庫の在庫と照らして発注する必要がありました。コンピューターと通信網を使えば、売れた商品をデータとして集め、在庫の減り方を素早く把握できます。部品を作る工場でも、取引先からの注文や配送状況を把握し、生産計画を調整しやすくなりました。
例えば、ある商品の売れ行きが急に伸びた場合、店舗から本部へ情報が届くまでに時間がかかれば、商品が棚からなくなっても工場や倉庫では気づくのが遅れます。販売記録を電子的に集めれば、在庫の不足を早く確認して発注を変えられます。逆に売れ残りが増えたときは、生産量や仕入れを調整して在庫を抱える費用を減らせます。
製造業では、設計図面や注文内容をデータで共有することが、製品の仕様変更への対応に役立ちました。アメリカ国内の工場だけでなく、外国の協力会社へも同じ情報を送れるようになると、先に進んでいた生産の国際化を支える条件が整います。インターネット上の取引と企業内部の専用ネットワークの発達は、互いに関係する変化でした。
こうした効率化にはパソコンの導入だけでなく、商品を識別するコード、データベース、社内の業務手順、従業員の技能が必要です。米国労働統計局の長期研究は、1990年代の生産性向上に電子データ交換や商品識別技術などが関係したことを指摘しています。情報技術は企業の内部で仕事をどう進めるかという方法まで変えました。(参照:米国労働統計局 | 情報化と労働生産性の長期的変化/米国商務省(1998年) | 成長するデジタル経済)
電子商取引が新しい市場を開く
1990年代半ばから、インターネット上で商品を紹介し、注文を受け付ける事業が拡大しました。例えばアマゾンは1995年7月にウェブ上の販売を開始し、1997年5月には株式を公開しています。書店の棚の広さに縛られず商品を紹介できる反面、実際に販売するには倉庫、配送、代金の決済が必要です。画面上で注文を受ける技術と、商品を届ける仕組みが組み合わさって、遠くの消費者へ店舗を持たずに販売する方法が成長しました。
従来の通信販売でも、カタログを見て電話や郵便で注文することはできました。ウェブ販売が新しかったのは、商品情報を更新しやすく、利用者が画面から検索して注文まで進められる点です。店舗を増やさなくても販売できる地域を広げられるため、地方の買い手にも商品を届ける方法が変わりました。
その一方、注文を集めることと事業を黒字にすることは別の課題でした。商品を安く売って利用者を増やしても、広告費、倉庫、配送、返品への対応には実際の費用がかかります。1990年代後半の新興企業では、どの程度の売上があればこうした費用を賄えるのかが十分に見えない段階で、大規模な投資を進める例が増えていきました。
企業が電子商取引へ投資した背景には、家庭の接続率が短期間で高まっていたことがあります。将来さらに多くの人がインターネットを利用するなら、早い時期から顧客を集めた企業は大きな市場を獲得できると考えられました。1998年の米国商務省の報告も、デジタル経済が新しい事業機会と経済成長の一部となっていたことを記録しています。(参照:米国商務省(1998年) | 成長するデジタル経済/米国国勢調査局 | 2000年の家庭用コンピューターとインターネット/米国証券取引委員会 | アマゾンの事業開始と株式公開記録)
1996年電気通信法と市場の競争
電話や放送の設備は巨額の費用が必要なため、通信会社には厳しい規制が設けられてきました。電話会社が地域ごとに強い事業基盤を持つ中で、通信技術の発達によって電話、ケーブルテレビ、データ通信の市場が重なり始めます。企業が新しい通信サービスへ参入するには、既存の設備に接続できるかといった制度上の条件も重要でした。
アメリカでは市内通話を提供する地域電話会社と、遠距離通話の事業者などが、長く異なる規則のもとで活動していました。新しい会社が電話サービスへ参入しようとしても、家庭まで引かれた既存の回線を使えなければ、すぐには顧客を獲得できません。1996年の法律は、こうした既存設備への接続や事業者間の競争に関わるルールを整えることを求めました。
政府が新しい法律を作っても、その日のうちに全国の電話料金が下がったり、すべての地域で競争が始まったりしたわけではありません。各事業者が接続条件を交渉し、連邦通信委員会や州の規制機関が細かな運用を決める必要がありました。通信市場の改革には、技術投資だけでなく法制度を整える作業が伴っていました。
クリントン大統領が1996年2月8日に署名した電気通信法は、1934年の通信法以来の大きな制度改正でした。通信分野で市場への参入と競争を促すことを目指し、連邦通信委員会(FCC)が詳細な規則を整える必要がありました。規制を変えることは、通信サービスを増やす期待につながりましたが、企業の統合や設備投資のあり方にも影響しました。(参照:米国政府刊行物 | 1996年電気通信法の制定記録)
情報技術投資と生産性上昇の関係
企業が同じ労働時間で以前より多くの商品やサービスを生み出せれば、「労働生産性」が上がったといいます。1990年代後半、米国では半導体やパソコンの性能が向上し、情報機器の価格も低下しました。企業は設備やソフトウェアへ多額の資金を投じ、作業の速度や精度、情報を扱う能力を高めました。
例えば、同じ数の従業員で商品の受注処理にかかる時間を短縮できれば、その分だけ多くの注文に対応できます。コンピューターで計算を速くすることだけが生産性の上昇ではありません。工場の機械を動かす順番、必要な原材料の在庫、配送の経路などを改善することも、働く時間に対して生み出せる価値を増やします。
こうした効果が生まれるまでには、新しい設備を使うための訓練や、業務の進め方の変更も必要でした。インターネットに接続するだけで企業の生産性が同じように上がるわけではなく、どの産業で何の仕事に技術を組み合わせたのかによって成果は異なります。1990年代の生産性上昇は、半導体産業の進歩と幅広い企業の業務改革が重なった結果として考えられています。
米国経済分析局が2004年に公表した歴史統計では、実質GDPの年平均成長率は1987〜95年の2.7%から1995〜2000年の4.1%に高まっています。情報技術産業がその成長に貢献しました。情報化の効果はソフトウェア会社だけに現れたわけではありません。製造業や流通業、金融業などで設備と業務を組み替えることが、経済全体の効率化へつながりました。(参照:米国経済分析局(2004年) | 1990年代後半の産業別経済成長/米国労働統計局 | 情報化と労働生産性の長期的変化)
技術企業が大きくなると生まれる競争の問題
インターネットを使う人が増えると、特定のソフトウェアを広く使えることが企業の強みになります。利用者が多い製品へ企業が対応するソフトを作り、その結果さらに利用者が増える場合もあります。これは新しい事業を大きく成長させますが、すでに強い地位を持つ企業の行動が競争を妨げる問題も生みます。
Windowsは当時、多くのパソコンで使われていた基本ソフトです。ウェブを見るためのブラウザーを最初からパソコンに組み込むと、利用者は別の会社の製品を探す機会が減る可能性があります。司法省は、マイクロソフトが基本ソフト市場で持つ強い立場を利用して、競合するブラウザーを不利にしたと主張しました。マイクロソフト側は自社製品の統合が利用者の利便性や技術革新に役立つとの立場を示しました。
米国司法省は1998年、マイクロソフトがパソコン用基本ソフト「Windows」の市場で持つ力を、ウェブブラウザーの競争に利用したとする独占禁止法訴訟を起こしました。コンピューター産業の成長とともに、政府は技術革新を促す競争と、大企業による市場支配をどう調整するかという課題にも直面していました。(参照:米国司法省 | 1998年のマイクロソフト独占禁止法訴訟)
金融制度の変化と市場の結びつき
企業の海外活動や新興産業への投資が広がる中で、金融機関の活動範囲も大きく変わりました。銀行が州境を越えて事業を広げ、投資資金が世界の市場を行き来するようになると、遠い国の危機がアメリカの金融機関にも波及します。新しい企業への資金供給を支える制度と、損失が連鎖する危険が同時に広がっていました。
1994年の銀行法改正と全国規模の金融業
アメリカでは長い間、銀行が州をまたいで支店を開設することに規制がありました。地域ごとに金融機関が分かれていると、全国で活動する企業にとっては、取引する銀行を増やす必要が生まれます。1994年9月に成立したリーグル=ニール法は、銀行や銀行持株会社が州境を越えて活動する制度を大きく変えました。
改正前は州ごとに参入の条件が異なり、企業が別の州へ事業を広げても銀行サービスを統一しにくい事情がありました。1994年法は州を越えた銀行の買収を原則として1995年9月以降認め、1997年6月以降には条件付きで別の州の銀行を一つの支店網へまとめる道を開きました。既存の地域銀行は、大手銀行が進出したときの競争について懸念を示していました。
大手銀行は複数州へ支店網を広げ、銀行の合併と規模拡大が進みました。こうした金融業の全国化は、企業が広い地域で資金を調達し取引するための条件を整えました。地域銀行の姿や市場競争も変わり、金融業の集中が進む背景にもなります。(参照:連邦準備制度史料 | 1994年の州際銀行規制改革)
アジア通貨危機からロシア危機へ
国境を越える資金の移動は企業の投資を支えます。海外の銀行や投資家が一国の企業へ資金を貸し付ければ、事業を急速に拡大できます。短期間で返済しなければならない借入が大きい場合は、投資家が資金を引き揚げると資金繰りが難しくなります。国の通貨の価値が急落すれば、外国通貨で借りた資金の返済負担も増えます。
タイではそれまで、通貨バーツを米ドルに対してほぼ一定の水準に保つ政策が採られていました。投資家が通貨の下落を予想して資金を引き揚げると、中央銀行は相場を維持するために外貨準備を使う必要があります。1997年7月に固定的な相場を維持できなくなり、バーツの価値が下落すると、ドルなど外国通貨で借りていた企業は返済に必要な現地通貨の額が増えてしまいました。
ロシアでは1998年8月17日、政府がルーブル相場の調整や国債の債務再編を発表しました。アジアの危機とは国内事情が異なりますが、投資家が新興市場の資産全般を危険とみなして売却すると、直接関係の薄い市場にも影響が広がります。安全な資産を求める動きはアメリカの金融取引における価格差も変え、LTCMの損失を大きくする一因になりました。
この時期のアメリカでは、海外で損失を出した投資家が国内の金融資産も売って現金を確保する動きが問題となりました。また、国ごとに原因が異なる危機でも、投資家がまとめて「危険な投資」と判断すると、資金の引き揚げが連鎖する場合があります。国際的な金融市場が緊密になるほど、一つの国で生じた問題が別の地域の資産価格に影響する経路が増えたのです。 (参照:国際通貨基金 | タイ通貨危機の経緯と影響/国際通貨基金 | アジア通貨・金融危機の経緯/連邦準備制度史料 | 1998年のLTCM危機)
LTCM危機と金融機関による民間出資
ロシア危機後の金融市場の動揺で、アメリカのヘッジファンド「ロングターム・キャピタル・マネジメント」(LTCM)は大きな損失を抱えました。ヘッジファンドは投資家から集めた資金で多様な金融商品を売買する運用組織です。LTCMは似た証券のわずかな価格差を利用する取引を行い、利益を増やすために多額の借入を使っていました。1997年末には自己資本1ドルに対して約30ドルの負債を抱えていました。
LTCMが狙っていたのは、似た性質の債券などの価格が一時的に離れても、やがて通常の関係に戻るという取引でした。想定どおりなら小さな差から利益が得られます。利益の幅が小さいため、借入で投資額を大きくすると収益を増やせますが、価格差が予想と反対の方向へ動いた場合は損失も大きくなります。
当時の市場では、多くの投資家が換金しやすい国債などへ資金を移しました。LTCMが割高と見て売ったものがさらに値上がりし、割安と見て買ったものがさらに値下がりすれば、複数の取引が同時に損失を生みます。こうした損失を穴埋めするために資産を急いで売れば、市場の価格変動をさらに拡大する恐れがありました。
金融市場が混乱すると、LTCMが縮まると予想した価格差は逆に広がり、多くの取引で損失が発生しました。LTCMと取引していた大手銀行や証券会社まで影響を受ける恐れが生まれます。ニューヨーク連邦準備銀行が協議を仲介し、1998年9月23日に14の民間金融機関が計約36億ドルを出資してファンドの資産を秩序立って縮小する道を開きました。連邦準備制度は自ら資金を貸し付けておらず、損失への対応は民間の出資で行われました。
この事件で明らかになったのは、一つの運用会社の取引が大手金融機関と広く結びついていると、その会社の破綻処理が市場全体の問題になることです。金融技術の高度化に合わせて、借入の規模や取引先との関係を把握する必要性も強く意識されました。(参照:連邦準備制度史料 | 1998年のLTCM危機)
1999年の金融サービス近代化法
1933年の銀行法は、大恐慌期の金融不安を背景に、預金を扱う商業銀行と株式・社債の引き受けなどを行う証券業の関係を制限していました。その後、金融市場の取引が複雑化すると、銀行、証券、保険を同じ企業グループが扱う例が増えました。1980年代末からは規制運用も段階的に変わり、企業の活動と法律の境界を見直す必要が高まります。
銀行は預金者から預かった資金を使って企業や家庭に貸し出すため、預金者が資金を引き出せるかどうかが社会の信頼に関わります。証券会社は企業の株式・社債の発行を手助けし、投資家が価格変動のリスクを引き受ける取引も行います。これらを一つのグループで扱う場合、資金の管理や経営上の問題が別の業務へ及ばないよう、監督の仕組みを考える必要があります。
この法律によって金融機関は活動の選択肢を広げましたが、銀行が資金を自由に使ってあらゆる証券取引を行えるようになった、という意味ではありません。預金保険や監督の仕組みなどは残り、金融持株会社の事業全体を監督する制度が設けられました。金融業の統合を促す規定と、巨大なグループを監視する規定が同時に整えられたのです。
1999年11月12日に成立したグラム=リーチ=ブライリー法は、こうした金融業務の統合を認める制度を整え、「金融持株会社」という形で銀行・証券・保険を同じグループに置きやすくしました。連邦準備制度には新しい持株会社への監督権限も与えられます。金融機関が提供できるサービスの幅が広がると同時に、企業グループ全体の経営をどう監督するかが重要になりました。(参照:連邦準備制度史料 | 1999年の金融サービス近代化法)
ベンチャー投資とドットコム・ブーム
インターネットが急速に普及すると、多くの投資家は新しい市場が生まれると考えました。新しい企業は銀行融資とは違う方法で資金を集め、株式市場で高く評価されることでさらに事業を拡大していきます。成長への期待が大きくなるほど、利益を得られる時期や規模をどう見積もるかが問題となりました。
新興企業が資金を集める仕組み
新しい企業は、製品の開発や顧客の獲得に先に費用がかかり、設立直後から利益を得られるとは限りません。銀行は返済可能性を重視するため、利益の見通しが不確かな企業へ大きく貸し出すのは難しい場合があります。そこで利用されたのが、投資家が企業の株式を取得し、企業が成長したときに利益を得る「ベンチャーキャピタル」です。
株式を買う投資家は、企業が失敗すれば資金を失う可能性があります。その代わり、成功した場合には株価の上昇による利益を期待できます。技術企業は開発に資金が必要な一方で、完成するまでの売上が少ないことも多いため、こうした出資の仕組みと相性が良いと考えられました。
ベンチャー投資を受けた会社は、事業が拡大した段階で株式を公開することがあります。その際には、初期に出資した投資家が保有株式を売却できる機会が生まれ、会社も新しく発行する株式を通じて資金を得られます。株式市場へ上場することが、新興企業の成長と投資家の資金回収を結びつける一つの方法になりました。
新興企業は投資資金でソフトウェアや通信設備を開発し、事業を拡大しました。さらに株式公開を行えば、株式市場の投資家から資金を集めることができます。1995年8月8日にネットスケープ社が株式公開した際には、公開価格28ドルの株式が初日に58ドルで取引を終え、インターネット事業への期待を象徴する出来事になりました。企業側は成長の速度を重視し、投資家側は将来の利益を予想して株式を買います。1990年代後半にはインターネット利用者そのものが増えていたため、高成長への期待が広く共有されていました。(参照:米国商務省(1998年) | 成長するデジタル経済/連邦準備制度理事会(2025年) | ドットコム株の投機的評価/コンピューター歴史博物館 | 1995年のネットスケープ株式公開)
利用者の増加と株価の高騰
ネット上の事業には、利用者が増えるほどサービスの価値が高まるものがあります。多くの人が使うサービスには、広告主や取引相手も集まりやすくなるためです。投資家は、今の利益が小さくても将来の利用者数が大きく増える企業に高い価値を付けるようになりました。
投資家が企業を評価するときには、本来は将来得られる利益や事業の継続可能性が重要になります。ところが、新しい市場がどれほど大きくなるかを見積もりにくいと、利用者数やウェブサイトの閲覧回数などが成長の目印として使われることがあります。利用者が増えても広告費や配送費がそれ以上に増えれば利益は出ません。
1990年代後半には、利益が少ない企業や赤字の企業にも多額の投資が集まり、インターネット関連株が急騰しました。ドットコム・ブームと呼ばれる現象です。新しい事業が実際に育つ可能性と、投資家が期待する価格は別々に考える必要があります。連邦準備制度の後年の分析でも、この時期には利益の実績が乏しい企業の株価が急速に上昇したことが指摘されています。(参照:連邦準備制度理事会(2025年) | ドットコム株の投機的評価)
株価が下がると企業の資金調達が難しくなる
株式市場で企業の評価が高ければ、新しい株式を発行して設備投資や宣伝費をまかないやすくなります。その仕組みは事業の急成長を助けます。将来の売上が予想を下回り、投資家の期待が弱まると株価は下がります。赤字を続ける企業は新しい資金を集めにくくなり、事業の縮小や倒産へ追い込まれる可能性があります。
資金調達が続く間、新興企業は採算が取れる前に人員を採用し、宣伝し、サービスの利用者を増やせます。市場が期待を改めたときには、それまで予定していた資金が集まらなくなる可能性があります。社員の給与や倉庫の賃料はすぐにはなくならないため、短期間で経営が苦しくなる企業も現れます。
この関係は、インターネット技術の進歩と、関連企業の株価が常に上がり続けるという期待が別のものであることを表しています。実際の通信技術や業務の効率化が残っても、過剰に高く評価された株価は修正されます。2000年に始まる市場の転換は、こうした資金の流れを変えることになりました。(参照:連邦準備制度理事会(2006年) | 資産価格の過熱と金融政策/連邦準備制度理事会(2025年) | ドットコム株の投機的評価)
1999年シアトル会議とグローバル化への反発
1999年末には、グローバル化を進める政府間の交渉と、その影響を心配する市民の抗議が同じ場所で起こりました。アメリカ西海岸のシアトルで開かれた世界貿易機関の会議では、国による利害の違いが明らかになるとともに、労働や環境の問題も国際的な注目を集めました。
WTO加盟国が新交渉で合意できなかった理由
1999年11月30日から12月3日、アメリカ西海岸のシアトルでWTOの第3回閣僚会議が開かれました。各国の担当閣僚が集まり、世界の貿易ルールをさらに拡大する新たな交渉の開始を目指していました。農業の扱い、労働や環境と貿易の関係、途上国が求める制度上の配慮など、加盟国の利害は多岐にわたっていました。
加盟する政府の間にも立場の違いがありました。農業輸出を広げたい国と、自国の農家を保護したい国では関税や補助金への考え方が異なります。途上国の政府は、先進国が求める新しい制度に応じる前に、すでに合意した約束の履行や自国に有利な市場アクセスの改善を求めました。WTOでは多くの重要な決定に加盟国の合意が必要となるため、この隔たりを短期間で埋めることは難しかったのです。
会議は新たな交渉開始について合意できずに終了しました。世界貿易機関自身の2000年の報告も、長い準備を重ねたものの加盟国間の合意が成立しなかったと記録しています。会議の成果が得られなかった背景には、交渉内容そのものをめぐる政府間の意見の違いがありました。(参照:世界貿易機関 | 1999年シアトル閣僚会議/世界貿易機関 | 1999年シアトル閣僚会議の合意不成立)
労働組合と環境団体が抗議した背景
会議場の外では、労働組合、環境団体、農業関係者、学生などが大規模な抗議行動を行いました。労働者の立場からは、企業が低賃金の国へ生産を移すことで仕事や賃金が圧迫されることが心配されました。環境団体は、厳しい規制を持つ国の企業が不利になり、環境保護が弱められる可能性を問題にしました。貿易の規則を誰が決め、影響を受ける市民がどう参加できるかも争点でした。
抗議に参加した人々の要求も同一ではありませんでした。アメリカの労働組合は賃金や国内の雇用を重視し、環境団体は貿易規則と自然保護の関係を問題にしました。農業や開発途上国の政策に関心を持つ団体も参加し、共通していたのは、国際的な経済ルールによる影響を市民の視点から議論してほしいという要求でした。
会議の決裂を抗議行動だけが引き起こしたと考えるのは適切ではありません。交渉室の中では加盟国政府の間に具体的な政策対立があり、外では制度の決定方法に不満を持つ市民が集まっていました。シアトルでは異なる二つの問題が同じ場所に現れ、グローバル化を進めるときの政治的な難しさを見せたのです。
抗議の多くは集会や行進という形を取り、局所的には破壊行為や警察との衝突も起きました。当時のWTO事務局長は平和的な抗議の意義を認める声明を出しています。シアトルの出来事は、国際貿易を進める制度が広がるほど、その決定過程と社会的な負担について説明し、議論する必要が高まっていたことを示しています。(参照:世界貿易機関 | シアトル抗議行動についての当時の声明/世界貿易機関 | 1999年シアトル閣僚会議の合意不成立)
長期景気拡大と暮らしの変化
1990年代後半のアメリカでは、仕事が増え、失業率が下がり、税収も伸びました。技術革新と自由貿易への期待が広がった背景には、このような目に見える景気拡大がありました。
1991年から10年間続いた景気拡大
全米経済研究所(NBER)の景気循環年表によれば、アメリカ経済は1991年3月に景気後退を脱し、2001年3月まで10年間にわたって拡大しました。景気拡大とは、生産、所得、雇用などが経済全体として増えていく期間を指します。この10年間は、NBERが当時記録していた中で最長の拡大期間でした。
米国労働統計局の年平均失業率は1993年の6.9%から2000年には4.0%へ低下しました。経済成長の背景には情報技術への投資だけでなく、企業活動の拡大、労働力の増加、国際取引、財政と金融環境など複数の条件がありました。多くの人が成長を実感できる時期だったことが、新しい経済のあり方への期待を強めました。(参照:全米経済研究所 | 米国の景気循環年表/米国労働統計局 | 1993年と2000年の失業率/米国経済分析局(2004年) | 1990年代後半の産業別経済成長)
景気拡大と連邦財政の改善
企業の利益や働く人々の所得が増えると、政府には税収が入りやすくなります。1990年代のアメリカでは、景気拡大による税収の伸びに、財政赤字を抑える政策や冷戦後の国防支出の変化などが重なり、1998会計年度には連邦財政が約700億ドルの黒字に転じました。
財政赤字は、一年間に政府が使うお金が税収などの収入を上回る状態です。1990年代初めの連邦政府は大きな赤字を抱えていましたが、その後の景気回復と財政政策によって収支が改善しました。1998会計年度の黒字は、連邦政府の年間の財政収支が1969年度以来初めてプラスになったことを意味します。
この変化は、政府が毎年の歳出を税収などでどこまで賄えるかをめぐる議論に影響しました。景気の良さと情報技術関連株の上昇が続く間は、財政状況も改善しやすくなります。経済の成長が鈍れば税収も変動するため、景気拡大期の黒字を恒久的な状態と考えることはできません。(参照:米国財務省(1998年) | 1998会計年度の連邦財政黒字)
好景気の中でも地域と職種で異なる経験
多くの雇用が生まれても、すべての労働者が同じ条件で働けるわけではありません。情報技術に詳しい人材や金融業の専門職には新しい機会が広がりました。製造業の再編に直面した地域では、経験を生かせる別の職場を探すことが難しい場合がありました。
失業率の低下は全国の雇用環境を示す数字ですが、転職の負担や賃金の変化までは一つの平均値に現れません。製造業の仕事を失った人が、同じ地域で同じ賃金の仕事に移れるとは限りません。急成長する技術産業へ入るには、情報技術に関する学習や別の地域への移動が必要な場合もあります。
家庭でも、株式を保有している人は株価上昇による利益を得やすく、パソコンや通信サービスを購入する余裕がある世帯はインターネットを早く利用できました。デジタル格差の政府調査や、貿易をめぐる労働組合の反対運動は、経済全体が拡大している時期にも利益の分配が社会問題になっていたことを伝えています。(参照:米国商務省 | 1998年のデジタル格差調査/クリントン政権公文書 | 労働組合とNAFTAをめぐる対立)
ドットコム株の急落と2001年景気後退
1990年代後半に積み重なった投資への期待は、2000年頃から修正されました。企業が成長を見込んで資金を集めていた仕組みは、株価が下落すると逆に経営を苦しくします。新しい通信設備への投資が減り、株式市場の変動が生産や雇用へ広がって、2001年の景気後退へつながりました。
2000年の株価下落が投資を冷やす
2000年春を境に、インターネットや通信関連の株価が大きく下がり始めました。売上や利益が予想どおりに伸びない企業は投資家から新しい資金を集めにくくなり、採用や広告、事業拡大の計画を縮小します。株価の下落で、技術関連の会社へ資金を集めれば急速に成長できるという流れが変わりました。
例えば、企業が将来の急増する通信量に備えて回線設備を大量に発注した場合、想定より利用者や売上が伸びなければ、設備が余ってしまいます。通信会社が次の投資を見送ると、回線や通信機器を作るメーカーも受注を減らします。インターネット企業の株価だけでなく、部品工場や通信設備の事業へも影響が広がる仕組みがありました。
一部の企業は資金不足から事業を停止しました。残った企業にも採用や新規開発を抑える動きが生まれ、投資家が将来の成長を見込んで資金を出す循環は急速に弱まりました。それでも、すでに普及した通信技術や家庭のインターネット利用そのものが消えたわけではなく、技術の普及と金融市場の調整は別の速度で進みました。
それまで通信会社は将来の需要増を見込んで回線や設備を増やし、企業はコンピューターやソフトウェアへ投資していました。期待が弱まると設備の発注が減り、技術を売る企業にも影響が広がりました。株式市場の調整と、現実の設備投資や雇用の減少が結びついたのです。(参照:連邦準備制度理事会(2025年) | ドットコム株の投機的評価/米国労働統計局 | 情報化と労働生産性の長期的変化)
2001年の景気後退は9月11日より前に始まった
景気後退は、ある産業だけの売上低下にとどまらず、生産や雇用など経済全体で活動が落ち込む状態です。NBERは、アメリカの景気拡大が2001年3月で終わり、同月から景気後退が始まったと判定しています。景気後退は2001年11月まで続きました。
景気後退は、株価が下がっただけで決まるものではありません。工場の生産、企業の雇用、家計の所得など、経済のさまざまな活動が幅広く落ち込むことを示します。全米経済研究所は、複数の経済指標を検討して景気の山と谷を後から判定する研究機関です。2001年の景気後退開始が3月だったという判断も、当時のすべての人が3月のうちに知っていたわけではありません。
2001年9月11日の同時多発テロは航空、旅行、金融などへ大きな影響を与えました。経済の減速はその半年前にすでに始まっており、技術株の下落や設備投資の縮小などが先行していました。1990年代の急速な技術投資は長期的な変化を残すと同時に、投資の行き過ぎが修正される過程で短期の景気変動を生んだのです。(参照:全米経済研究所 | 米国の景気循環年表/全米経済研究所 | 2001年3月の景気後退開始の判定)
まとめ
1990年代のアメリカ経済では、国際貿易と情報通信という二つの仕組みが大きく変わりました。NAFTAは北米の企業が国境を越えて生産・販売する条件を整え、WTOは各国が貿易の規則を話し合う恒常的な場を設けました。民間のインターネット接続網とウェブが発達したことで、企業は注文や在庫の情報を素早く共有し、家庭でも新しい情報や商品へアクセスできるようになりました。
企業活動が広がると、新興企業への投資や銀行の業務も拡大します。高い成長期待は新しい事業への資金供給を後押ししましたが、LTCMの危機は金融取引が複数の機関を通じて結びつく危険を明らかにしました。シアトルでの抗議は、貿易拡大によって生じる利益と負担を誰が引き受けるのかという問いを国際社会へ突き付けました。
2000年以降の株価下落と2001年の景気後退は、企業の将来に対する期待が現実の収益や投資計画と離れると、経済全体へ影響が及ぶことを示しました。景気拡大が終わった後も、国境を越える生産網、商用インターネット、デジタル化された企業活動は残り、21世紀の経済と暮らしを形づくる基盤になっていきます。
主な出来事
- 1993年 — ビル・クリントンが大統領に就任。NAFTAの承認へ向けた議論が進む。
- 1993年 — ウェブブラウザー「Mosaic」が普及し、画像やリンクを画面上で扱いやすくなる。
- 1993年4月 — 欧州原子核研究機構(CERN)がウェブのソフトウェアを自由に利用できる形で公開。
- 1994年1月1日 — 北米自由貿易協定(NAFTA)が発効。
- 1994年9月 — 州境を越える銀行活動を拡大するリーグル=ニール法が成立。
- 1995年1月1日 — 世界貿易機関(WTO)が発足。
- 1995年4月 — NSFNETの専用基幹網が終了し、民間通信網の役割が拡大。
- 1995年7月 — アマゾンがウェブでの販売を開始。
- 1995年8月 — ネットスケープ社が株式公開。インターネット関連事業への期待が高まる。
- 1996年2月8日 — 電気通信法が成立し、通信市場の競争に関するルールが大きく変わる。
- 1997年 — 米国の自宅インターネット利用世帯が約18%に達する。
- 1997年7月 — タイのバーツ下落を契機としてアジア通貨危機が拡大。
- 1998年5月 — 米国司法省がマイクロソフトに対する独占禁止法訴訟を提起。
- 1998年8〜9月 — ロシア金融危機が国際市場へ波及し、LTCMの経営危機が深刻化。
- 1998会計年度 — 米連邦財政が1969年度以来の黒字となる。
- 1998年9月23日 — 14金融機関がLTCMへ計約36億ドルを出資。
- 1998会計年度 — 連邦財政が黒字に転じる。
- 1999年11月12日 — 金融サービス近代化法が成立。
- 1999年11月30日〜12月3日 — シアトルでWTO閣僚会議。新交渉開始で合意できず、大規模な抗議が起きる。
- 2000年 — 米国の自宅インターネット利用世帯が約42%に達する。
- 2000年春頃 — インターネット関連株の急落が始まり、資金調達や設備投資に影響が広がる。
- 2001年3月 — NBER基準で景気後退が始まり、10年間の景気拡大が終わる。
- 2001年11月 — NBER基準で景気後退が終了。
参考資料・出典
- クリントン大統領図書館 | NAFTAの交渉と成立
- 米国通商代表部 | 北米自由貿易協定の内容と経緯
- 米国大統領文書集 | NAFTAの労働・環境に関する補足協定
- クリントン政権公文書 | 労働組合とNAFTAをめぐる対立
- 世界貿易機関 | 組織の成立と基本的な役割
- 世界貿易機関 | 貿易交渉と紛争処理の仕組み
- 世界貿易機関 | 1999年シアトル閣僚会議
- 世界貿易機関 | 1999年シアトル閣僚会議の合意不成立
- 世界貿易機関 | シアトル抗議行動についての当時の声明
- 全米科学財団 | 商用インターネット成立の経緯
- 欧州原子核研究機構 | ウェブ誕生と1993年の公開
- 米国国勢調査局 | 2000年の家庭用コンピューターとインターネット
- 米国商務省 | 1998年のデジタル格差調査
- 米国商務省 | 2000年のインターネット接続格差
- 米国商務省(1998年) | 成長するデジタル経済
- 米国政府刊行物 | 1996年電気通信法の制定記録
- 米国司法省 | 1998年のマイクロソフト独占禁止法訴訟
- 米国経済分析局(2004年) | 1990年代後半の産業別経済成長
- 米国労働統計局 | 情報化と労働生産性の長期的変化
- 米国労働統計局 | 1993年と2000年の失業率
- 連邦準備制度史料 | 1994年の州際銀行規制改革
- 連邦準備制度史料 | 1999年の金融サービス近代化法
- 国際通貨基金 | タイ通貨危機の経緯と影響
- 国際通貨基金 | アジア通貨・金融危機の経緯
- 連邦準備制度史料 | 1998年のLTCM危機
- 連邦準備制度理事会(2025年) | ドットコム株の投機的評価
- 連邦準備制度理事会(2006年) | 資産価格の過熱と金融政策
- 全米経済研究所 | 米国の景気循環年表
- 全米経済研究所 | 2001年3月の景気後退開始の判定
- 米国財務省(1998年) | 1998会計年度の連邦財政黒字
- 米国証券取引委員会 | アマゾンの事業開始と株式公開記録
- コンピューター歴史博物館 | 1995年のネットスケープ株式公開
- 国際通貨基金(1999年) | ロシア1998年8月の金融危機
- 世界貿易機関 | 2001年から振り返る1999年シアトル会議
- 国際通貨基金(2001年) | 1994年のメキシコ通貨危機