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World History

2001–2008

9・11後の世界

対テロ戦争、アフガニスタン、イラク、中国台頭、世界金融危機

2001年9月11日、アルカイダのメンバー19人がアメリカ国内線4機をハイジャックし、ニューヨークの世界貿易センター、ワシントン近郊の国防総省などを攻撃しました。この事件は冷戦後の国際秩序を一変させました。1990年代に世界政治の中心語だった「グローバル化」「市場統合」「インターネット」に加えて、「テロ対策」「国土安全保障」「先制行動」「監視」「国家再建」が2000年代の中心課題となります。

9月18日、アメリカ議会は2001年軍事力行使承認、AUMFを成立させました。大統領に対し、9・11攻撃を計画・実行・支援した国家、組織、人物や、それらを匿った勢力に「必要かつ適切な武力」を行使する権限を認める法律でした。10月にはUSA PATRIOT Actが成立し、捜査・監視・情報共有・テロ資金対策の権限が拡大しました。2002年には国土安全保障省を創設する法律が成立し、22の連邦機関を統合する巨大な行政再編が進みました。

国際社会でもテロ対策は制度化されました。国連安全保障理事会は2001年9月28日の決議1373で、テロ資金供与の犯罪化、資産凍結、テロリストへの資金・サービス提供禁止などをすべての加盟国に求めました。対テロ政策は軍事作戦だけではなく、金融、警察、国境管理、航空保安、情報機関の国際協力へ広がりました。

10月7日、アメリカとイギリスはアフガニスタンのアルカイダ訓練拠点とタリバン軍事施設への攻撃を開始しました。アメリカ政府は、タリバンがアルカイダ指導部の引き渡しなどの要求に応じなかったことを軍事行動の理由として説明しました。北部同盟などアフガニスタン国内の反タリバン勢力と米英軍の作戦によって、タリバン政権は主要都市から急速に退きました。

しかし政権を倒すことと安定した国家を作ることは同じではありませんでした。2001年末のボン・プロセスを経て暫定政権が作られ、国連安保理決議1386によって国際治安支援部隊ISAFが設置されました。2003年にはNATOがISAFの指揮を引き受け、2006年には活動範囲をアフガニスタン全土へ拡大しました。ところが南部・東部ではタリバンの反乱が再び強まり、2007–08年には国際部隊との戦闘が激化しました。

対テロ戦争の焦点は2002–03年にイラクへも移りました。サダム・フセイン政権は1991年湾岸戦争後から大量破壊兵器の廃棄義務と国連査察をめぐって長く対立していました。2002年11月の国連安保理決議1441は、イラクを過去の軍縮義務違反にあるとし、「最後の機会」を与えて査察を強化しました。UNMOVICとIAEAの査察団は2002年末から多数の施設を調査しました。

2003年3月時点で、査察団は未解決の軍縮問題が残ると報告していましたが、禁止された大量破壊兵器計画が継続・再開されている証拠は確認していませんでした。安全保障理事会では査察継続を求める国々と、イラクは十分に協力しておらず武力行使が必要だとする米英などの間で意見が分かれました。決議1441の後、武力行使を新たに明示的に承認する安保理決議は採択されませんでした。米英は既存の決議などを法的根拠に挙げましたが、その解釈には当時から大きな争いがありました。

3月19日、アメリカとイギリスを中心とする連合軍はイラクへの軍事作戦を開始しました。サダム政権は数週間で崩壊しましたが、その後の占領統治、治安機構再建、政治制度設計は極めて困難になりました。旧体制軍・治安関係者、イスラム主義武装組織、外国人戦闘員、地域民兵など複数の勢力が武装闘争へ入りました。

戦争前、アメリカ・イギリス政府はイラクが化学・生物兵器を保有し、核兵器計画を再構築しようとしているとの情報評価を重要な根拠として示しました。しかし戦後のイラク調査団は、大量破壊兵器の備蓄を発見しませんでした。アメリカ上院情報特別委員会の後の報告では、イラクは1991年に核兵器計画を終了し、再開を試みた証拠も発見されなかったと整理されています。戦前情報の評価・提示方法は、情報機関と政府の意思決定をめぐる長期的な論争となりました。

2004年にはアブグレイブ刑務所でアメリカ軍関係者によるイラク人拘束者への虐待を写した写真が公表されました。米軍のTaguba調査は、2003年秋に拘束者への違法で重大な虐待が繰り返されたと認定しました。事件は、対テロ戦争における拘束・尋問・人権・ジュネーヴ諸条約の適用をめぐる国際的議論を強めました。

一方、イラクでは2005年に暫定国民議会選挙、憲法国民投票、国民議会選挙が実施されました。しかし政治制度形成と治安安定は並行しませんでした。2006年2月、サーマッラーのシーア派聖廟が爆破されると、スンニ派とシーア派の報復暴力が急増しました。アメリカ政府監査院やイラク研究グループは、同年後半の暴力を宗派対立、反乱、アルカイダ系組織、民兵、犯罪が絡む複合的危機として記録しています。

2007年、アメリカはイラク駐留部隊を増派し、バグダッドなどの治安作戦を強化しました。同時期、スンニ派地域の一部ではアルカイダ系勢力に反発する部族勢力との協力が進みました。2007年後半には民間人死者と攻撃件数が減少しましたが、治安改善を単純に増派だけの結果とすることはできません。米軍戦術、部族政治、シーア派民兵の活動変化、地域ごとの人口移動など複数の要因が重なっていました。

9・11後のテロはアメリカ国外でも大きな衝撃を与えました。2004年3月11日にはスペイン・マドリードの通勤列車で連続爆破事件が起こり、2005年7月7日にはロンドンの地下鉄とバスで4人の自爆実行犯による同時爆破が起き、52人の被害者が死亡しました。テロ対策は軍事遠征だけでなく、欧州都市内部の治安・社会統合・情報機関協力という問題にもなりました。

しかし2001–08年を「対テロ戦争の時代」だけで説明することはできません。世界経済では中国の台頭がより大きな長期変化を生みました。中国は2001年12月11日にWTOの143番目の加盟国となりました。改革開放以来進めていた輸出産業、外国直接投資、沿海部工業化が、世界貿易制度への加盟によってさらに拡大しました。中国は「世界の工場」と呼ばれる巨大な製造拠点へ成長し、原材料・エネルギー需要も急増しました。

東西冷戦後のヨーロッパ再編も続きました。2004年3月にはブルガリア、エストニア、ラトビア、リトアニア、ルーマニア、スロバキア、スロベニアの7カ国がNATOへ加盟しました。同年5月にはチェコ、エストニア、キプロス、ラトビア、リトアニア、ハンガリー、マルタ、ポーランド、スロバキア、スロベニアの10カ国がEUへ加盟しました。旧ソ連・東欧の国々が西側の政治・経済・安全保障制度へ参加する流れが大きく進みました。

この東方拡大は、多くの中東欧諸国から見れば冷戦後の主権選択と安全保障の制度化でした。一方ロシアでは、NATOが旧ソ連圏へ接近しているという警戒が次第に強まりました。2004年ウクライナ大統領選挙では不正疑惑をめぐる大規模抗議、いわゆるオレンジ革命が起き、最高裁判所が決選投票の再実施を命じました。12月の再投票はOSCEからそれ以前より大幅に国際基準へ近づいたと評価されました。

2008年8月にはグルジアとロシアの間で戦争が起きました。南オセチアをめぐる長年の衝突が激化し、グルジア軍によるツヒンヴァリ砲撃・進攻とロシア軍の大規模な軍事介入が短期間に拡大しました。後に欧州評議会は、戦争は8月7日に突然始まったのではなく長期的な緊張の蓄積があったとした上で、グルジア側の砲撃とロシア側の広範な軍事行動の双方について国際人道法上の問題を指摘しました。冷戦後の欧州安全保障秩序に残るロシアと旧ソ連諸国の対立が明確になった出来事でした。

東アジアでは北朝鮮の核問題が深刻化しました。日本では2002年9月17日、小泉純一郎首相が平壌で金正日国防委員長と会談し、日朝平壌宣言へ署名しました。北朝鮮側は日本人拉致への関与を認め、同年10月には5人の拉致被害者が日本へ帰国しました。同じ宣言で双方は朝鮮半島の核問題に関する国際的合意の遵守と対話の必要性も確認しました。

しかし核問題はその後悪化しました。北朝鮮は2003年に核拡散防止条約からの脱退を表明し、六者会合が始まりました。2006年10月9日、北朝鮮は初の核実験を実施したと発表しました。国連安全保障理事会は10月14日の決議1718で核実験を非難し、核兵器・核計画の放棄を要求するとともに制裁制度を設置しました。北東アジアでは冷戦後も核抑止と分断の問題が残り続けました。

日本はイラク戦争後の復興にも関与しました。2004年1月から2006年7月まで陸上自衛隊がイラク南部サマーワに派遣され、給水、医療、道路・学校など公共施設の復旧を支援しました。航空自衛隊は2004年から2008年まで輸送支援を行いました。日本政府はODAと自衛隊活動を「車の両輪」と位置づけました。この派遣は、自衛隊の海外活動と日本の安全保障政策の範囲をめぐる国内政治上の大きな論点にもなりました。

2000年代前半は、感染症と自然災害がグローバル化の別の側面を示した時代でもあります。2002年末から中国南部で広がったSARSは、航空移動を通じ香港、台湾、シンガポール、カナダなどへ拡大しました。WHOは2003年3月に世界的警報を出し、7月には主要な感染連鎖が封じ込められたと発表しました。感染症が国境管理、情報公開、世界的監視体制を必要とすることが明確になりました。

2004年12月26日にはスマトラ島沖で巨大地震が発生し、インド洋沿岸を津波が襲いました。WHOによれば死者は22万7千人を超え、約170万人が住居を失いました。インドネシア、スリランカ、インド、タイなどに甚大な被害が出ました。国際的な救援活動が大規模に展開され、その後インド洋津波警報システムの構築が進みました。

気候変動も国際政治の中心へ入りました。1997年に採択された京都議定書は、ロシアの批准などを経て2005年2月16日に発効しました。先進国に温室効果ガス排出削減・制限の法的目標を課す最初の主要国際枠組みとなりました。アメリカは議定書を批准せず、中国など当時の途上国には同じ種類の数値削減義務が課されなかったため、制度の公平性と実効性をめぐる議論も続きました。

2000年代半ばの世界経済は、中国など新興国の急成長、低金利、国際資本移動の拡大、住宅価格上昇によって活況を呈しました。しかしアメリカ住宅市場の内部では、信用力の低い借り手へのサブプライム住宅ローン、証券化、複雑な金融商品、短期資金調達への依存が拡大していました。住宅価格が下落へ転じると、住宅ローンの延滞と証券化商品の損失が金融機関へ広がりました。

2007年夏、アメリカのサブプライム住宅ローン市場の混乱は短期金融市場へ波及しました。連邦準備制度は流動性供給を拡大し、2008年3月には投資銀行ベアー・スターンズが経営危機に陥り、JPモルガンによる買収が公的支援の下で進められました。9月には政府支援機関ファニーメイとフレディマックが公的管理下に置かれました。

2008年9月15日、リーマン・ブラザーズが破産を申請しました。IMFはこれを世界的な金融危機を急激に深めた決定的事件の一つと位置づけています。信用市場では相手金融機関の支払い能力への不安が急増し、銀行間市場が機能不全へ近づきました。翌日以後、アメリカ政府とFRBは巨大保険会社AIGの破綻回避へ介入しました。

10月3日、アメリカでは緊急経済安定化法が成立し、最大7,000億ドルのTroubled Asset Relief Program、TARPが承認されました。当初は不良資産買い取りを中心に構想されましたが、実際には大手銀行へ公的資本を注入する方式も主要手段となりました。欧州諸国も銀行保証、資本注入、国有化などを実施しました。

世界金融危機は「アメリカ国内の住宅問題」にとどまりませんでした。グローバルな銀行・証券市場を通じて欧州へ広がり、2008年秋には新興国からも資本が急速に流出しました。IMFは同年10月、1930年代以来もっとも危険な先進国金融市場のショックと表現し、世界経済が大幅な減速へ向かうと警告しました。

2001年から2008年までの世界は、一方ではテロ攻撃を防ぐため国家の軍事・警察・監視能力が強化され、他方では貿易、金融、デジタル情報、国際生産が国境を越えてさらに統合された時代でした。ところが2008年の金融危機は、グローバルな相互接続が繁栄を拡大するだけでなく、危機を世界へ瞬時に伝える仕組みにもなることを示しました。

2001年9月11日

2001年9月11日朝、アルカイダのメンバー19人がアメリカ国内線4機をハイジャックしました。2機はニューヨークの世界貿易センターへ、1機は国防総省へ突入しました。4機目は乗客・乗員が抵抗し、ペンシルヴェニア州へ墜落しました。

攻撃はアメリカ国土における安全保障認識を根本的に変えました。9・11委員会は後に、アルカイダが1990年代後半にアフガニスタンを主要拠点として組織・訓練・計画能力を再構築していた過程を詳細に検証しました。

冷戦期の国家間軍事力を中心とする安全保障から、国境を越える非国家武装組織、民間航空、国際金融、通信ネットワークを含む安全保障へ政策の焦点が移りました。

軍事力行使承認AUMF

9月18日、アメリカ議会はPublic Law 107-40、2001年軍事力行使承認を成立させました。

法律は、9・11攻撃を「計画し、承認し、実行し、支援した」国家・組織・個人、またはそうした組織・人物を匿った勢力に対して、大統領が「必要かつ適切な武力」を使用することを認めました。

このAUMFはアフガニスタン戦争だけに限定された宣戦布告ではなく、その後の複数の対テロ軍事作戦で法的根拠として用いられることになります。

国連安保理決議1373と世界的テロ対策

2001年9月28日、国連安全保障理事会は決議1373を全会一致で採択しました。

決議は加盟国に、テロ資金供与の犯罪化、テロ関係者の資産凍結、資金・金融サービス提供の禁止、捜査・情報交換・国境管理の強化などを求めました。

国家が特定の軍事同盟へ参加しなくても、金融・司法・警察制度を対テロ体制へ適応させることが国際的義務として強化されました。対テロ戦争は軍事作戦だけでなく世界的な法執行体制となりました。

PATRIOT Actと監視・捜査権限

2001年10月26日、USA PATRIOT Actが成立しました。法律はテロ捜査のための通信監視、情報共有、金融捜査、外国情報監視などの権限を拡大しました。

政府側は、テロ組織が通信・金融技術を利用する状況に既存の捜査制度を適応させる必要があると説明しました。一方、市民的自由・プライバシー・司法監督の範囲をめぐる批判も強まりました。

9・11後の安全保障政策では「攻撃を起こさせないための予防」と「国家権力をどこまで制限するか」が恒常的な政治問題となります。

国土安全保障省の創設

2002年11月のHomeland Security Actによってアメリカ国土安全保障省DHSが創設されました。税関、移民、沿岸警備、緊急事態管理など22の連邦機関・組織が巨大な一省へ統合されました。

2003年から本格稼働し、国境管理、航空安全、テロ対策、災害対応、サイバーセキュリティなどを担う体制が作られました。

冷戦後に縮小が期待された安全保障国家は、9・11を契機に別の形で再編・拡大しました。

2001年 アフガニスタン戦争

アメリカ政府はタリバン政権に対し、アルカイダ指導部の引き渡し、テロ訓練施設閉鎖などを要求しました。タリバンが要求を受け入れなかったとして、10月7日、アメリカとイギリスは軍事作戦「不朽の自由作戦」を開始しました。

航空攻撃、特殊部隊、CIA要員、北部同盟などアフガニスタン側反タリバン勢力の地上戦が組み合わされました。

首都カブールは11月にタリバン支配から離れ、カンダハルも12月に陥落しました。アルカイダ指導部の一部はパキスタン国境地域などへ逃れました。

タリバン政権崩壊

タリバンは中央政府としての支配を急速に失いましたが、組織そのものが完全に消滅したわけではありませんでした。

アフガニスタン南部・東部、パキスタン国境地域では旧タリバン勢力や地域武装組織が再編されました。国際部隊が主要都市を確保しても、国家機構と治安部隊が弱い地方では政府の支配力が限定されていました。

「2001年にタリバンが敗北し戦争が終わった」と見ると、その後20年続くアフガニスタン戦争の性格を理解できません。

ボン・プロセスと暫定政権

2001年12月、アフガニスタン各政治勢力の代表はドイツのボンで、タリバン後の暫定政治体制について合意しました。

ハーミド・カルザイを議長とする暫定行政機構が発足し、その後ロヤ・ジルガ、憲法制定、選挙という政治工程が進められました。

2004年には新憲法の下で大統領選挙が行われ、カルザイが選出されました。2005年には議会選挙も実施されました。

ISAFとNATO

国連安保理決議1386は2001年12月、カブール周辺の治安を支援する国際治安支援部隊ISAFを承認しました。

2003年8月、NATOがISAFの戦略指揮を引き受けました。NATOにとって欧州・北大西洋圏外で初めての大規模長期軍事任務となりました。

ISAFは段階的にカブールから北部、西部、南部、東部へ拡大し、2006年10月には全土を対象とする体制となりました。

タリバン反乱の再拡大

NATOによれば、ISAFが南部・東部へ拡大すると、2007–08年には再拡大した反乱勢力との戦闘が増加しました。

タリバンは越境補給、地方社会の不満、政府の腐敗、民間人被害などを利用して支持・威圧網を再構築しました。国際部隊は軍事作戦だけでなく、地方復興チームを通じて行政・インフラ支援も行いました。

しかし治安、国家建設、経済開発を同時に進める戦略は容易に成果を上げず、アフガニスタンは長期戦へ入ります。

イラク戦争への道

サダム・フセイン政権は1980年代に化学兵器を保有・使用し、1991年湾岸戦争後には国連によって化学・生物・核兵器計画と長距離ミサイルの廃棄を義務づけられていました。

1990年代の査察では大量の禁止計画・物質が破壊されましたが、イラクが提出した記録には不整合と未確認項目が残りました。1998年末に国連査察員が撤退した後、軍縮状況を継続的に確認できない期間が続きました。

9・11後、ブッシュ政権はイラクの大量破壊兵器能力とテロ拡散リスクをより重大な安全保障問題として扱うようになりました。

国連安保理決議1441

2002年11月8日、国連安全保障理事会は決議1441を全会一致で採択しました。

決議はイラクが過去の軍縮義務について「重大な違反」の状態にあるとしながら、軍縮義務を履行する「最後の機会」を与えました。UNMOVICとIAEAに対し、強化された査察を行う権限を認めました。

決議はイラクの新たな違反に「深刻な結果」があると警告しましたが、新たな違反が報告された場合には安全保障理事会が直ちに会合して状況を検討するとしていました。米英と他の理事国の間では、この決議が追加決議なしで自動的な武力行使を認めるかについて見解が一致していませんでした。

UNMOVIC・IAEA査察

査察は2002年11月末に再開されました。UNMOVICは化学・生物兵器とミサイル、IAEAは核関連施設を調査しました。

2003年3月7日の安全保障理事会報告では、イラクによる協力には遅れや未解決事項がある一方、査察アクセス自体は概して行われ、アル・サムード2ミサイルの廃棄も始まっていました。複数の理事国は査察継続を求めました。

査察団は3月18日に撤退しました。UNMOVICの後の報告では、撤退時点までに禁止された大量破壊兵器計画の継続・再開を示す証拠は発見していなかったとされています。

2003年 イラク侵攻

3月19日、アメリカ・イギリスなどの連合軍がイラクへの軍事作戦を開始しました。アメリカ政府は大量破壊兵器の脅威、国連決議への不履行、サダム政権からのイラク解放などを目的として説明しました。

主要戦闘では連合軍が短期間でバグダッドへ進撃し、4月にはサダム政権の中央統治が崩壊しました。

しかしサダム政権崩壊後、国家機構の混乱、略奪、失業、武装勢力の形成が急速に進み、戦争は「政権を倒す通常戦」から「占領・反乱・内戦的暴力」へ性格を変えました。

大量破壊兵器は何が見つかったのか

連合軍は戦後、大規模なイラク調査グループISGを投入して大量破壊兵器を捜索しました。しかし戦争前に想定された化学・生物兵器の備蓄や活動中の核兵器計画は確認されませんでした。

アメリカ上院情報特別委員会の戦後検証は、イラクが1991年に核兵器計画を終了し、それを再開しようとした証拠はなかったとしています。また高強度アルミ管は通常ロケット計画向けであり、1991年以後国外からウランを調達しようとした証拠も確認されなかったとしました。

一方、サダム政権が過去の技術・人材の一部を保持し、将来的な能力回復への意図を完全に放棄していなかったとするISGの分析もあります。「何も問題がなかった」のではなく、戦前に提示された現有兵器・再建計画の評価が現実と大きく異なっていたことが問題となりました。

占領統治と反乱

2003年5月以後、アメリカを中心とする連合国暫定当局CPAがイラクを統治しました。旧バアス党関係者の公職排除と旧イラク軍解体は、サダム体制の再建を防ぐ目的を持っていましたが、多数の武装訓練を受けた人々が職を失う結果も生みました。

スンニ派地域を中心に旧体制関係者や地域武装勢力の反乱が拡大し、アブ・ムサブ・ザルカウィの組織など国際ジハード主義勢力もイラクへ入りました。

イラク戦争はアルカイダとサダム政権の既存の作戦協力を解体する戦争というより、戦後の混乱の中でアルカイダ系組織がイラク国内に新しい活動拠点を作る結果を生みました。

アブグレイブ虐待事件

2004年春、アブグレイブ刑務所で米軍関係者がイラク人拘束者を虐待・侮辱する写真が報道されました。

米軍のAntonio Taguba少将による調査は、2003年10月から12月に複数の拘束者に対し、殴打、性的屈辱、犬を用いた威嚇など違法で重大な虐待が行われたと認定しました。

事件は一部兵士の刑事責任だけでなく、収容施設の指揮系統、訓練、尋問方針、ジュネーヴ諸条約と対テロ拘束政策をめぐるより広い問題を提起しました。

2005年 選挙と憲法

2005年1月、イラクで暫定国民議会選挙が実施されました。スンニ派の参加率が低かったことから政治的代表性に偏りが生じましたが、その後憲法起草過程ではスンニ派代表を追加する努力も行われました。

10月には新憲法が国民投票で承認され、12月には新憲法に基づく国民議会選挙が実施されました。国連は投票参加率が1月の約59%から12月には約75%へ上昇したと報告しています。

選挙と憲法制定は政治移行の重要な制度的成果でしたが、暴力と宗派不信をただちに解消しませんでした。

2006年 宗派暴力の激化

2006年2月22日、サーマッラーのシーア派重要聖地アスカリ廟が爆破されました。事件後、シーア派民兵とスンニ派武装勢力の報復攻撃が急増しました。

アメリカ政府監査院は、2006年半ばには宗派対立がイラク暴力の中心的特徴になりつつあり、バグダッドなど混住地域で住民が民兵へ依存する傾向が強まったと報告しました。

年末のイラク研究グループも、反乱、アルカイダ系勢力、シーア派民兵、死の部隊、犯罪組織が絡み、治安状況が悪化していると評価しました。

2007年 増派と治安変化

2007年初頭、ブッシュ政権は約2万人を超える追加米軍をイラク、とくにバグダッド周辺へ投入しました。部隊を大規模基地から地域へ配置し、住民保護を重視する対反乱作戦が強化されました。

同時期、アンバール州などでスンニ派部族勢力がアルカイダ系組織へ反発し、米軍と協力する「覚醒評議会」が拡大しました。またシーア派のムクタダ・サドルがマフディ軍の活動停止を命じたことも暴力減少に影響しました。

2007年後半には民間人死者と攻撃が大きく減りました。治安改善には増派だけでなく、これら複数の政治・軍事変化が重なったと考える必要があります。

マドリードとロンドン

2004年3月11日、スペイン・マドリードの通勤列車で複数の爆弾が爆発し、多数の死傷者が出ました。アルカイダ思想に影響されたイスラム過激派ネットワークが実行した事件として捜査・裁判が行われました。

2005年7月7日にはロンドンの地下鉄3列車とバス1台で4人の自爆実行犯が爆発を起こし、被害者52人が死亡しました。

これらの事件は、欧州各国にとってテロ脅威が海外戦場だけでなく自国内の社会・交通・情報網に存在することを示しました。治安政策と同時に、宗教・移民・社会統合を安易にテロ原因へ還元しない慎重さも必要となりました。

中国のWTO加盟

2001年12月11日、中国は世界貿易機関WTOの143番目の加盟国となりました。1980年代以来の長期加盟交渉の結果でした。

中国は関税引下げ、市場アクセス、貿易ルール、サービス分野など広範な加盟条件を受け入れました。外国企業にとって中国市場へのアクセスが制度化される一方、中国企業もWTOルールの下で世界市場への輸出を拡大しました。

中国の加盟は1990年代までのグローバル化を量的に一段拡大する出来事となりました。

世界の生産拠点としての中国

中国には1990年代から大量の外国直接投資が流入していましたが、WTO加盟後には輸出製造業がさらに急速に拡大しました。

香港・台湾・日本・韓国・欧米企業などが、中国沿海部を国際サプライチェーンへ組み込みました。電子機器、衣料、機械、日用品など、多くの製品で部品調達・組立が中国へ集中しました。

中国の成長は鉄鉱石、銅、原油などの需要を高め、オーストラリア、ブラジル、アフリカ、中東など資源輸出国との経済関係も変えました。

2004年 NATO東方拡大

2004年3月29日、ブルガリア、エストニア、ラトビア、リトアニア、ルーマニア、スロバキア、スロベニアがNATOへ加盟しました。

7カ国同時加盟は当時NATO史上最大の拡大で、加盟国は26カ国となりました。とくにエストニア、ラトビア、リトアニアという旧ソ連共和国の加盟は、冷戦後安全保障秩序の大きな転換でした。

加盟国側は自国の安全保障と西側制度への参加を目的としました。一方ロシア側では、NATOの東方拡大が自国周辺の安全保障環境を悪化させるとの認識が強まりました。

2004年 EU最大拡大

2004年5月1日、チェコ、エストニア、キプロス、ラトビア、リトアニア、ハンガリー、マルタ、ポーランド、スロバキア、スロベニアの10カ国がEUへ加盟しました。

人口と加盟国数の双方でEU史上最大の一括拡大でした。2007年にはブルガリアとルーマニアも加盟し、EUは27カ国となりました。

冷戦によって東西に分断されていたヨーロッパの多くが、共通市場・法制度・政治協力へ統合されました。

ウクライナ・オレンジ革命

2004年ウクライナ大統領選挙では、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチとヴィクトル・ユシチェンコが争いました。11月21日の決選投票後、選挙不正を訴える大規模な抗議運動がキーウ中心部などで続きました。

OSCE選挙監視団は11月投票が多数の国際基準を満たさなかったと評価しました。ウクライナ最高裁判所は中央選管の結果を無効とし、決選投票の再実施を命じました。

12月26日の再投票ではユシチェンコが勝利し、OSCEは前回より大幅に国際基準へ近づいたと評価しました。この一連の抗議が「オレンジ革命」と呼ばれます。

ロシアと西側の関係変化

9・11直後、プーチン政権はアメリカのアフガニスタン作戦に一定の協力姿勢を示し、2002年にはNATOロシア理事会も設立されました。

しかしNATO・EUの東方拡大、ウクライナ・グルジアなど旧ソ連諸国の政治変化、ミサイル防衛、コソボ独立問題などをめぐって相互不信が深まりました。

2000年代半ばにはロシアの石油・ガス収入が増加し、国家財政と中央政府の統制力も回復しました。ロシアは1990年代の弱体化から、周辺地域と国際政治でより積極的に影響力を行使する方向へ移りました。

2008年 グルジア・ロシア戦争

グルジアでは南オセチアとアブハジアの分離紛争が1990年代から未解決のまま残り、ロシアが平和維持軍と住民へのパスポート付与などを通じて深く関与していました。

2008年8月、南オセチア周辺の小規模衝突が急速に激化しました。グルジア軍はツヒンヴァリへ大規模砲撃・地上進攻を行い、ロシア軍は南オセチアを越えてグルジア本土へ広範な軍事作戦を展開しました。

欧州評議会は、戦争は8月7日の一出来事だけから始まったのではないとしつつ、グルジアによるツヒンヴァリ砲撃とロシアによる紛争地域外への大規模軍事行動の双方について比例性・国際人道法上の問題を指摘しました。EU仲介で停戦が成立しましたが、ロシアはその後南オセチアとアブハジアを独立国家として承認しました。

日本 — 2002年 日朝平壌宣言

2002年9月17日、小泉純一郎首相は日本の首相として初めて北朝鮮の平壌を訪問し、金正日国防委員長と会談しました。

日朝平壌宣言では、国交正常化交渉の再開、日本側による植民地支配への反省と謝罪、安全保障問題を対話で解決する必要性などが確認されました。

朝鮮半島核問題についても、関連する国際合意を遵守し、核・ミサイル問題を関係国間の対話で解決する必要があるとしました。

拉致被害者5人の帰国

首脳会談で金正日は、日本側が長く提起していた拉致問題について北朝鮮関係者による拉致を認め、謝罪しました。

北朝鮮側が生存していると回答した拉致被害者5人は2002年10月15日に日本へ帰国しました。

一方、他の被害者について北朝鮮側が示した説明を日本政府・家族が受け入れられない問題が残り、日朝国交正常化は実現しませんでした。拉致・核・ミサイル問題が日朝関係を長期的に規定しました。

北朝鮮核問題

2002年秋以後、北朝鮮のウラン濃縮計画をめぐる問題が表面化し、米朝間の1994年枠組み合意が崩れていきました。

北朝鮮はIAEA監視装置を撤去させ、2003年1月に核拡散防止条約NPTからの脱退を表明しました。

同年から日本、韓国、北朝鮮、アメリカ、中国、ロシアによる六者会合が始まりました。2005年9月には北朝鮮の核放棄と関係正常化の原則を含む共同声明が発表されましたが、履行をめぐる対立は続きました。

2006年 北朝鮮核実験

2006年10月9日、北朝鮮は地下核実験を実施したと発表しました。

国連安全保障理事会は10月14日、決議1718を全会一致で採択しました。決議は追加核実験・弾道ミサイル発射を行わないこと、NPT脱退表明を撤回すること、核兵器・核計画を完全かつ検証可能な形で放棄することを要求しました。

同時に兵器関連品や特定の奢侈品などを対象とする制裁と、北朝鮮制裁委員会を設けました。

日本 — イラク復興支援と自衛隊

日本政府は2003年にイラク人道復興支援特別措置法を制定しました。2004年1月から陸上自衛隊をイラク南部サマーワへ派遣し、給水、医療、学校・道路など公共施設の復旧支援を行いました。

陸上自衛隊は2006年7月までに撤収し、航空自衛隊による輸送支援は2008年12月まで続きました。

外務省はODAによる資金協力と自衛隊による人的支援を「車の両輪」と説明しました。イラク派遣は、日本が戦後の安全保障政策でどこまで海外に自衛隊を派遣するのかをめぐる大きな国内論争にもなりました。

2003年 SARS

重症急性呼吸器症候群SARSは2002年末に中国広東省で発生し、2003年には香港、台湾、シンガポール、ベトナム、カナダなどへ広がりました。

航空交通の発達した世界で、新しい感染症が短期間に複数大陸へ広がることが明確になりました。WHOは感染地域に関する異例の渡航勧告を出し、各国は検疫・接触者追跡・隔離を強化しました。

2003年7月5日、WHOは世界的な主要感染連鎖が封じ込められたと発表しました。感染症情報を政府が迅速に共有する重要性が大きな教訓となりました。

2004年 インド洋大津波

2004年12月26日、スマトラ島沖でマグニチュード9級の巨大地震が発生し、巨大津波がインド洋沿岸へ広がりました。

WHOによれば死者は22万7千人を超え、約170万人が住居を失いました。インドネシア・アチェ州、スリランカ、インド、タイなどが特に大きな被害を受けました。

災害後には各国政府、国連、NGO、軍、民間団体による巨大な国際救援活動が行われました。この経験を受け、インド洋地域で津波早期警報システムの構築が進められました。

2005年 京都議定書発効

1997年に採択された京都議定書は2005年2月16日に発効しました。

議定書は先進国と市場経済移行国に温室効果ガス排出の法的な数値目標を課しました。排出量取引、共同実施、クリーン開発メカニズムなど、市場的仕組みを利用する制度も導入しました。

アメリカは批准せず、中国・インドなど当時の途上国には同じ数値削減義務が設定されませんでした。気候政策では歴史的排出責任、経済発展、国際競争力をどう調整するかが長期的な争点となりました。

2000年代半ばの世界的好況

2003年頃から2007年まで世界経済は高い成長を続けました。IMFによれば2004–07年の世界成長は歴史的にも高い水準でした。

アメリカでは低金利と住宅価格上昇、中国では輸出・投資、資源国では原油・金属価格上昇、欧州では金融統合が成長を支えました。

国際金融市場では投資家が高い利回りを求め、住宅ローン、企業債務、証券化商品へ大量の資金が流入しました。リスクが金融市場全体へ分散されたとの見方も広がりました。

アメリカ住宅バブルと信用拡大

アメリカでは住宅価格が長期間上昇し、住宅を担保とする借入が拡大しました。

従来なら住宅ローンを得にくかった信用力の低い借り手にもサブプライム・ローンが広がり、変動金利や初期返済額を低く設定した商品も増えました。

金融機関は住宅ローンを証券化し、MBSやCDOなどとして国内外の投資家へ販売しました。ローンを組成した金融機関が満期まで保有しない構造は信用リスク評価を複雑にしました。

2007年 サブプライム危機

住宅価格上昇が止まり、金利負担も上昇するとサブプライム住宅ローンの延滞・差押えが増えました。

住宅ローン証券の価格下落によって、それを保有する銀行・投資ファンドの損失が拡大しました。しかし複雑な証券化によって、どの金融機関がどれほど損失を抱えているのか分かりにくくなっていました。

2007年夏には銀行間市場で信用不安が高まり、中央銀行は大量の流動性を供給するようになりました。住宅市場の問題が金融システム全体の信頼問題へ変わりました。

2008年 ベアー・スターンズ

2008年3月、アメリカ大手投資銀行ベアー・スターンズが短期資金を確保できなくなり、急速な経営危機に陥りました。

FRBは市場全体への連鎖を防ぐため緊急融資を行い、JPモルガン・チェースによる買収を支援しました。

一社の破綻が取引相手、デリバティブ、短期資金市場へ広く影響する「システミック・リスク」が政策の中心問題となりました。

リーマン・ブラザーズ破綻

2008年9月15日、大手投資銀行リーマン・ブラザーズは連邦破産法の適用を申請しました。

それまで当局がベアー・スターンズや住宅金融機関へ介入していたことから、金融市場には大手金融機関への一定の公的支援期待がありました。リーマン破綻はその期待を崩し、金融機関同士の信用を急速に低下させました。

IMFは、リーマン破綻後に世界の市場で流動性が収縮し、信用リスクへの恐怖が急上昇したと記録しています。

AIGと金融システム危機

リーマン破綻直後、世界最大級の保険会社AIGも経営危機に陥りました。AIGは住宅関連証券そのものだけでなく、それらの信用リスクを保証するクレジット・デフォルト・スワップを大量に扱っていました。

AIGが破綻すると、世界の銀行・投資家が同時に損失を受ける危険があるとして、FRBは大規模な緊急融資を実施しました。

「どの会社を救済し、どの会社を破綻させるのか」という政策判断は、市場規律と金融システム安定の間に大きな問題を残しました。

TARPと公的資本

金融危機が拡大する中、ブッシュ政権は議会へ緊急経済安定化法を提出しました。最初の法案は下院で否決され、市場が急落しましたが、修正法案は10月3日に成立しました。

法律は最大7,000億ドルのTARPを認めました。当初は金融機関の不良資産購入が中心構想でしたが、その後財務省は大手銀行の優先株を購入し、直接資本を注入する方式を採用しました。

同時にFRB、FDIC、財務省は流動性供給、預金保証拡大、住宅金融支援など複数の非常措置を実施しました。

世界金融危機へ

2008年秋、金融危機は欧州銀行、新興国、企業金融、世界貿易へ急速に広がりました。

短期金融市場では銀行同士が資金を貸し出すことを恐れ、企業も運転資金や投資資金を調達しにくくなりました。株価は世界的に下落し、資本は新興国から安全資産へ移動しました。

IMFは2008年10月、「成熟市場では1930年代以来もっとも危険な金融ショック」と表現しました。2009年には世界貿易と生産がさらに急減しますが、その展開は次の記事で扱います。

2001–2008年に何が変わったのか

2001年9月11日は、安全保障の主体と対象を変えました。アメリカは国家ではないアルカイダを主要敵とし、アフガニスタンへ軍事介入しました。AUMF、PATRIOT Act、国土安全保障省、国連安保理決議1373を通じ、軍事・警察・金融・情報の国際的対テロ体制が作られました。

しかし対テロ戦争は短期的な警察作戦ではなく長期戦となりました。タリバン政権は2001年に倒れましたが反乱は再拡大し、NATOはアフガニスタン全土へ展開しました。イラクではサダム政権を倒した後に反乱と宗派暴力が拡大しました。「政権転覆」と「国家建設」の違いが世界政治の中心問題となりました。

イラク戦争は情報と政策判断への信頼にも大きな影響を与えました。大量破壊兵器査察をめぐって国際社会が分裂したまま侵攻が行われ、戦後には想定された兵器備蓄が発見されませんでした。アブグレイブの虐待も、民主主義国家が安全保障を理由にどこまで強制力を行使できるかという問題を突きつけました。

同時に世界経済はかつてないほど統合されました。中国のWTO加盟、EU拡大、国際サプライチェーン、金融証券化によって生産と資本は国境を越えて移動しました。2000年代半ばには新興国成長と商品価格上昇が世界経済を押し上げました。

東西ヨーロッパの分断も制度的にはさらに解消され、2004年にはEUとNATOが大幅拡大しました。しかしそれはヨーロッパの安全保障対立が消えたことを意味しませんでした。ウクライナ政治危機と2008年グルジア・ロシア戦争は、旧ソ連空間をめぐる安全保障・主権・影響圏の対立が残っていることを示しました。

東アジアでは中国の経済的台頭と北朝鮮核問題が同時に進みました。日本は中国との経済関係を深めながら、北朝鮮の拉致・核・ミサイル問題へ対応し、イラクでは自衛隊による復興支援を行いました。日本外交・安全保障の課題は、冷戦期の日米同盟だけでは説明できないほど多方向化しました。

SARSとインド洋津波は、国際的相互依存が軍事・経済だけではないことを示しました。感染症と自然災害も航空網・都市化・国際救援・情報共有を通じて世界的な課題となりました。京都議定書発効によって気候変動も国家間交渉の恒常的なテーマとなりました。

そして2008年、グローバル化の成功を支えた金融ネットワーク自体が危機の伝播装置となりました。住宅ローンの損失が証券化と国際金融を通じ世界中の銀行へ広がり、リーマン破綻後には金融機関同士が互いを信用できない状態へ近づきました。

2001–2008年は「テロとの戦争」と「グローバル化」が矛盾せず同時に進んだ時代でした。国境では監視が強化される一方、商品・資金・情報はより高速に国境を越えました。その二つの動きが2008年の金融危機によって大きな転換点を迎えます。

2001–2008年の主な出来事

  • 2001年9月11日 — アルカイダによるアメリカ同時多発テロ。
  • 2001年9月18日 — アメリカで2001年軍事力行使承認AUMF成立。
  • 2001年9月28日 — 国連安保理決議1373採択。
  • 2001年10月7日 — 米英軍がアフガニスタンへの軍事作戦を開始。
  • 2001年10月26日 — USA PATRIOT Act成立。
  • 2001年12月 — ボン合意。国連安保理がISAF設置を承認。
  • 2001年12月11日 — 中国がWTOへ加盟。
  • 2002年9月17日 — 小泉首相と金正日国防委員長が日朝平壌宣言へ署名。
  • 2002年10月15日 — 拉致被害者5人が日本へ帰国。
  • 2002年11月8日 — 国連安保理決議1441、イラク査察強化。
  • 2002年11月 — アメリカで国土安全保障法成立。
  • 2003年3月19日 — 米英などがイラクへの軍事作戦を開始。
  • 2003年 — SARSが世界複数地域へ拡大。7月にWHOが主要流行封じ込めを発表。
  • 2003年8月11日 — NATOがアフガニスタンISAFの指揮を引き受ける。
  • 2004年3月11日 — マドリード列車爆破事件。
  • 2004年3月29日 — 東欧・バルト7カ国がNATO加盟。
  • 2004年春 — アブグレイブ刑務所虐待事件が世界的に報道される。
  • 2004年5月1日 — 10カ国がEU加盟、EU史上最大の拡大。
  • 2004年 — 日本の陸上自衛隊がサマーワでイラク人道復興支援を開始。
  • 2004年11–12月 — ウクライナ大統領選挙をめぐりオレンジ革命、決選投票再実施。
  • 2004年12月26日 — スマトラ島沖地震とインド洋大津波。
  • 2005年1月 — イラク暫定国民議会選挙。
  • 2005年2月16日 — 京都議定書発効。
  • 2005年7月7日 — ロンドン同時爆破事件。
  • 2005年10月 — イラク新憲法が国民投票で承認。
  • 2005年12月 — イラク国民議会選挙。
  • 2006年2月22日 — サーマッラーのアスカリ廟爆破、宗派暴力が急増。
  • 2006年7月 — 日本の陸上自衛隊がサマーワから撤収。
  • 2006年10月5日 — NATO-ISAFがアフガニスタン全土へ展開。
  • 2006年10月9日 — 北朝鮮が初の核実験を実施したと発表。
  • 2006年10月14日 — 国連安保理決議1718、対北朝鮮制裁。
  • 2007年 — アメリカがイラクへ追加部隊を投入。年後半に暴力が減少。
  • 2007年夏 — サブプライム住宅ローン問題が世界金融市場へ波及。
  • 2008年3月 — ベアー・スターンズ危機、JPモルガンによる買収。
  • 2008年8月 — グルジア・ロシア戦争。
  • 2008年9月15日 — リーマン・ブラザーズが破産申請。
  • 2008年9月 — アメリカ政府・FRBがAIGへ緊急支援。
  • 2008年10月3日 — 緊急経済安定化法成立、TARP創設。
  • 2008年秋 — 金融危機が欧州・新興国・実体経済へ急速に拡大。
  • 2008年12月 — 日本の航空自衛隊によるイラク輸送支援終了。

次の時代へ — 金融危機、アラブの春、ユーロ危機

2008年金融危機は、翌2009年に世界貿易・工業生産・雇用を大きく落ち込ませます。各国政府は銀行救済、財政刺激、ゼロ金利、量的緩和など非常措置を導入し、国家と金融市場の関係は再び大きく変化します。

危機は欧州では政府債務問題へ波及し、ギリシャを中心にユーロ圏危機が起きます。緊縮財政、失業、EU制度への不信が欧州政治を揺さぶります。

2010年末にはチュニジアから「アラブの春」が始まり、エジプト、リビア、シリアなどへ抗議運動が広がります。独裁政権が崩壊する国がある一方、内戦や国家崩壊へ進む国も現れます。

デジタル社会ではFacebook、Twitter、YouTube、スマートフォンが情報拡散と政治動員を変えます。2000年代前半のWebは、2010年代には常時接続されたソーシャルネットワークへ変化していきます。

中国は金融危機後も大規模な景気刺激を行い、世界経済に占める比重をさらに高めます。一方、2014年にはロシアがクリミアを併合し、ウクライナ東部で戦争が始まり、冷戦後欧州秩序の亀裂がより深刻になります。

日本では2009年の政権交代、2011年の東日本大震災・福島第一原発事故、長期デフレへの対応が大きな転換となります。

次の記事では、2008–2016|世界金融危機後の再編 — ユーロ危機、アラブの春、東日本大震災、中国台頭、クリミアとして、金融危機から生じた政治・社会的変化と、2010年代前半の新しい国際対立を扱います。

参考資料・出典

本ページは、9/11 Commission、U.S. Government Publishing Office、United Nations Security Council、NATO、U.S. Department of State、United States Senate、United States Institute of Peace、World Trade Organization、European Union、OSCE、Council of Europe、WHO、UNFCCC、International Monetary Fund、Federal Reserve History、U.S. Department of the Treasury、日本国外務省などの一次資料・公的資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。イラク戦争では、戦前の政府主張、国連査察団の当時の報告、戦後の大量破壊兵器調査を区別しました。2008年グルジア・ロシア戦争についても一方の政府説明だけを採用せず、長期的背景と双方の軍事行動を分けて記述しています。

資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY