Art Library
World History

1993–2001

アメリカ|グローバル化とデジタル経済

NAFTA、インターネット、ドットコム・ブーム、金融市場

1990年代のアメリカ経済は、冷戦終結後の国際秩序の再編と、情報通信技術の急速な普及が重なった時代でした。北米自由貿易協定(NAFTA)が発効し、世界貿易機関(WTO)が設立され、企業は国境をまたいだ調達・生産・販売をさらに進めました。同時に、研究者や大学を中心に発展してきたインターネットは商用ネットワークへ移行し、家庭や企業へ急速に広がっていきます。

この変化は、単純な「製造業からインターネット産業へ」という置き換えではありません。アメリカの製造業は1990年代後半にも大きな生産力を持ち、情報通信技術の導入によって生産性を高めました。一方で、企業が世界規模で部品調達や生産拠点を組み替えることによって、地域ごとの雇用への影響は大きく異なりました。輸出が増えた産業もあれば、輸入競争や工場再編にさらされた地域もありました。

また、1990年代後半には株式市場で情報通信関連企業への期待が急速に高まり、「インターネットにつながる事業であれば将来大きく成長する」という楽観が広がりました。実際に生産性向上や新しい企業の成長は起きていましたが、将来の利益を過大に見込んだ投資も増え、2000年以後には多くのインターネット企業の株価が急落します。

したがって1993–2001年は、グローバル化とデジタル化が「正しかったか間違っていたか」を一つの結論で判断する時代ではありません。貿易拡大、技術革新、金融市場の発展によって大きな成長機会が生まれる一方、地域格差、職業構造の変化、投資熱、金融リスク、デジタル格差も拡大しました。この時代の重要性は、21世紀のアメリカ経済を形づくる制度と企業行動が同時に整ったことにあります。

CONTENTS

  1. 1994年 — 北米自由貿易協定(NAFTA)発効
  2. NAFTAを単純な自由貿易の成功・失敗にしない
  3. 北米域内の貿易と企業再編
  4. 雇用への影響は地域・産業で異なる
  5. 1995年 世界貿易機関(WTO)発足
  6. 貿易ルールが関税以外へ広がる
  7. 『グローバル化』という言葉が日常語になる
  8. インターネットの商用化
  9. NSFNETの役割
  10. 1995年 NSFNET基幹網の終了
  11. World Wide Webとブラウザー
  12. Mosaicが変えた利用環境
  13. 家庭へのインターネット普及
  14. 1997年18%から2000年42%へ
  15. デジタル格差
  16. 企業活動のネットワーク化
  17. 電子商取引の拡大
  18. 1996年 電気通信法
  19. 通信市場の競争促進
  20. 1990年代後半の生産性上昇
  21. 情報通信機器への投資
  22. 技術だけで成長を説明しない
  23. 仕事の中身が変わる
  24. 外部委託と企業組織の変化
  25. 1994年 州際銀行規制の緩和
  26. 金融業の全国化
  27. 資本市場と企業成長
  28. ベンチャー投資の拡大
  29. 新興企業と株式公開
  30. ドットコム・ブーム
  31. 利益より将来期待が先行する
  32. すべての技術企業が投機だったわけではない
  33. 1997年 アジア通貨危機
  34. 1998年 ロシア危機
  35. LTCM危機
  36. 公的資金による救済ではなかった
  37. 1999年 金融サービス近代化法
  38. 銀行・証券・保険の境界が変わる
  39. 1999年 Seattle WTO閣僚会議
  40. 反グローバル化運動
  41. 労働・環境・民主的統制をめぐる批判
  42. 1990年代の長期景気拡大
  43. 低失業と雇用拡大
  44. 連邦財政黒字
  45. 成長と格差の共存
  46. 2000年 株式市場の転換
  47. ドットコム株の急落
  48. 設備投資の反動
  49. 2001年景気後退
  50. 9月11日以前から始まっていた景気後退
  51. 『新経済』論の再評価
  52. 1993–2001年に何が変わったのか
  53. 1993–2001年の主な出来事
  54. 次の記事へ
  55. 参考資料・出典

1994年 — 北米自由貿易協定(NAFTA)発効

北米自由貿易協定は1994年1月1日に発効し、アメリカ、カナダ、メキシコの三か国間で関税や数量制限を段階的に撤廃する枠組みを作りました。アメリカ通商代表部によれば、工業製品と多くの農産物について関税撤廃を進め、最終的には大部分の関税・数量制限をなくす設計でした。

NAFTAは関税だけを扱う協定ではありません。原産地規則、税関手続、農業、政府調達、投資、サービス貿易、知的財産、紛争処理などを含み、北米の企業活動を共通ルールのもとへ組み込む制度でした。

そのためNAFTAは、単純に『安い輸入品が増えた協定』ではなく、部品が国境を何度も越える自動車産業のような北米規模の生産網を支える制度でもありました。

NAFTAを単純な自由貿易の成功・失敗にしない

NAFTAをめぐる評価は成立当初から分かれていました。支持側は輸出市場の拡大、投資増加、企業の効率化、消費者価格の低下を期待しました。反対側は、賃金の低いメキシコへの工場移転、労働条件の悪化、環境規制の競争、地域産業への打撃を懸念しました。

実際の影響は産業ごとに異なります。北米域内の貿易は増えましたが、その変化をNAFTAだけに帰属させることはできません。メキシコの1980年代からの貿易自由化、為替変動、技術革新、アメリカ国内の企業再編、世界的な供給網の拡大も同時に進んでいました。

したがって『NAFTAが雇用を増やした』『NAFTAが雇用を奪った』という全国一本の説明より、どの産業・地域・職種で利益と負担が集中したかを見る方が重要です。

北米域内の貿易と企業再編

NAFTA発効後、企業は三か国を一つの市場として調達・生産・販売を組み立てやすくなりました。

自動車産業ではエンジン、変速機、電子部品、完成車が複数回国境を越える生産網が発達しました。農業、電子機器、機械、衣料などでも国境をまたいだ供給関係が広がりました。

これは輸入と国内生産を単純な対立として見ることを難しくしました。アメリカ企業がメキシコから輸入する製品の中にも、アメリカで生産された部品や設計、金融、物流が含まれる場合があるためです。

雇用への影響は地域・産業で異なる

貿易自由化は全国平均では小さく見えても、特定の町や工場では大きな意味を持つことがあります。

輸出が増えた農業・製造業では雇用機会が広がる一方、輸入競争に直面した工場では閉鎖や人員削減が起きることがありました。労働者が別の産業へ移れるかどうかは、技能、年齢、地域の雇用市場、住宅事情によって異なります。

このためグローバル化をめぐる政治的不満は、国全体の貿易総額だけでは理解できません。損失が地域的に集中し、利益が企業利益や消費者価格のように広く分散する場合、経験の差が大きくなるからです。

1995年 世界貿易機関(WTO)発足

1995年1月1日、世界貿易機関(WTO)が発足しました。

その前身であるGATTは1947年以来、主に関税引き下げを通じて国際貿易のルールを作ってきました。1986年からのウルグアイ・ラウンドでは、サービス貿易、知的財産、農業、非関税障壁などへ交渉分野が広がりました。

123の参加国・地域によるマラケシュ合意を経てWTOが設立され、貿易ルールを常設の国際機関が管理する体制へ移りました。

貿易ルールが関税以外へ広がる

1990年代の国際経済統合では、関税率だけでなく各国の国内制度が貿易と結びつくようになりました。

知的財産権、農業補助金、サービス業への参入、製品基準、政府調達などが国際協議の対象となり、企業にとっては市場参入の予測可能性が高まる一方、各国の規制裁量が国際ルールの影響を受ける場面も増えました。

この変化が後のWTO批判で『貿易機関が国内政策へ踏み込んでいる』という懸念につながります。

『グローバル化』という言葉が日常語になる

1990年代には企業、投資家、政府だけでなく一般のニュースでも『グローバル化』という言葉が急速に広がりました。

冷戦期にも国際貿易と多国籍企業は存在していましたが、ソ連圏の解体、通信費の低下、コンテナ輸送、金融自由化、貿易協定の拡大によって、企業が世界各地を一つの市場として考える条件が強まりました。

ただし世界が完全に一体化したわけではありません。北米、ヨーロッパ、東アジアなど複数の地域的な生産網が発達し、それらが部分的に接続されていったと見る方が実態に近いものです。

インターネットの商用化

同じ時期、インターネットは研究機関中心のネットワークから一般の企業・家庭が利用する通信基盤へ変わりました。

その源流には国防総省が支援したARPANETと、大学・研究機関を接続した全米科学財団のNSFNETがあります。

1990年代初頭に民間の接続事業者が増え、電子メールやファイル転送だけでなく、World Wide Webを通じて情報を視覚的に閲覧する利用が急速に広がりました。

NSFNETの役割

全米科学財団は1986年、全国の研究者をスーパーコンピューター施設へ接続するためNSFNETを開始しました。

NSFによればNSFNETに接続されたコンピューターは1986年の約2,000台から1993年には200万台以上へ増え、事実上の全米インターネット基幹網として機能しました。

大学・研究所のネットワークを全国規模で結び、民間事業者がその上に商用サービスを構築できる技術・運用経験を蓄積した点が重要です。

1995年 NSFNET基幹網の終了

商用インターネット事業者が急速に成長したため、NSFは1995年に専用のNSFNET基幹網を終了しました。

NSFはこの変化を、インターネットの民営化が進み民間ネットワークが基盤を担えるようになった結果と説明しています。

政府が研究ネットワークを直接運営する段階から、民間通信会社や接続事業者が多数のネットワークを相互接続する構造へ移ったことが、現在のインターネットへつながります。

World Wide Webとブラウザー

インターネット普及を加速させたのがWorld Wide Webとグラフィカルなブラウザーでした。

初期のネットワーク利用には専門的な操作が必要でしたが、Webでは文字、画像、リンクを一つの画面で扱え、情報を探す行為が大幅に簡単になりました。

企業、新聞、大学、個人がそれぞれ自分のページを公開できることで、ネットワークは研究者の通信手段から一般向けの情報空間へ変化しました。

Mosaicが変えた利用環境

NSFの支援を受けたUniversity of IllinoisのNational Center for Supercomputing Applicationsで開発されたMosaicは、1990年代初頭のWeb普及を象徴するブラウザーとなりました。

NSFはMosaicを、文字と画像を同じページ上で容易に閲覧できる最初期の一般利用向けブラウザーとして位置づけています。

後のNetscape Navigatorなど商用ブラウザーが登場し、ブラウザーがパソコン上の主要ソフトウェアの一つになります。

家庭へのインターネット普及

インターネットは企業だけでなく家庭にも急速に入っていきました。

Census Bureauは1997年に初めて家庭のインターネット利用を本格的に調査し、2000年には家庭用コンピューターとインターネット接続が日常生活の重要な設備になりつつあると報告しました。

電子メール、ニュース、買い物、学校の課題、仕事探しなど、ネットワーク利用の目的が広がりました。

1997年18%から2000年42%へ

Census Bureauによれば、自宅でインターネットを利用する世帯の割合は1997年18%、1998年26%、2000年には約42%へ上昇しました。

わずか三年間で普及率が二倍以上になったことは、1990年代後半のデジタル化の速度を示します。

2000年には4,400万世帯、約9,400万人が家庭からインターネットを利用していました。

デジタル格差

普及は均等ではありませんでした。

2000年Censusでは、所得7万5,000ドル以上の世帯はインターネット利用率が非常に高い一方、低所得世帯では低く、都市中心部と郊外、都市部と非都市部でも差がありました。

インターネットが教育、就職、商取引の入口になるほど、接続できないこと自体が新しい不利益になり得るため、『デジタル格差』が政策課題として意識されるようになります。

企業活動のネットワーク化

企業では電子メール、在庫管理、受発注、物流追跡、顧客データベースなどがネットワーク化されました。

それまで電話や紙の伝票で行っていた情報交換をデジタル化することで、離れた事業所や取引先の間で情報を即座に共有できるようになります。

インターネットそのものだけでなく、企業内ネットワーク、データベース、通信回線、業務ソフトウェアへの投資が生産性向上へ結びつきました。

電子商取引の拡大

1990年代後半にはインターネットを利用した小売、広告、旅行予約、金融取引が拡大しました。

企業は店舗や営業所を持たなくても全国の顧客へ商品情報を届けられ、消費者は価格比較や注文を自宅から行えるようになりました。

ただし当時の電子商取引はまだ経済全体から見れば小さく、物流・決済・通信の既存インフラに強く依存していました。

1996年 電気通信法

1996年2月8日、Telecommunications Act of 1996が成立しました。

FCCはこの法律を、1934年Communications Act以来の大規模な制度改正として位置づけ、電話、放送、ケーブルなど通信市場へ競争を導入することを主要目的としました。

従来別々に規制されていた通信分野の境界が、デジタル技術によって重なり始めたことへの制度的対応でもありました。

通信市場の競争促進

1996年法は地域電話会社、長距離通信、ケーブルテレビなどの市場間参入を広げ、規制独占から競争へ移行することを目指しました。

FCCは実施のため80を超える規則制定を必要としたと報告しており、単なる『規制撤廃』ではなく新しい競争ルールを作る巨大な行政改革でした。

通信企業の合併・再編も進み、通信網とインターネット事業の結びつきが強まります。

1990年代後半の生産性上昇

1990年代後半にはアメリカの労働生産性の伸びが加速しました。

BLSの後年の分析では、民間非農業部門の労働生産性は1990年代前半より後半で高い伸びを示し、1995–2000年には情報処理機器への資本投資が生産性上昇へ大きく寄与したとされています。

BEAも1995–2000年の実質GDP成長率が1987–95年より高まり、情報技術産業がその成長へ重要な貢献をしたと分析しています。

情報通信機器への投資

パソコン、サーバー、半導体、通信機器の性能向上と価格低下によって、企業は情報処理能力を急速に増やしました。

単に古い機械を新しい機械へ置き換えるのではなく、企業組織そのものをネットワーク中心に再設計する投資が進みました。

在庫を減らし、需要を早く把握し、複数拠点の情報を統合できることが、製造業、小売、物流、金融など幅広い業種の効率化へつながりました。

技術だけで成長を説明しない

1990年代後半の成長を『インターネットがすべてを変えた』と説明するのは単純すぎます。

低いインフレ、安定した金融環境、企業投資、労働力の増加、国際貿易、財政状況の改善など複数の要因が同時に存在しました。

また技術投資が効果を生むには、企業が業務手順、組織、技能、人材配置を変える必要がありました。パソコンを導入するだけで自動的に生産性が上がったわけではありません。

仕事の中身が変わる

情報化は新しい職業を生み出す一方、既存職種の仕事内容も変えました。

事務職では文書作成、会計、顧客管理がコンピューター化され、設計・製造ではCADやデータ管理が一般化し、金融では取引と情報分析の速度が上がりました。

その結果、コンピューターを使えることが特別な技能から、多くの仕事で前提となる基礎技能へ変わり始めます。

外部委託と企業組織の変化

企業は情報技術を使い、経理、設計、物流、顧客対応などの一部業務を外部企業へ委託しやすくなりました。

これによって同じ企業の正社員として働く人が減り、専門サービス会社や派遣会社、請負企業に雇用される人が増える場合がありました。

グローバル化とデジタル化は、工場の場所だけでなく『企業の内部にどの仕事を残すか』という組織の境界を変えました。

1994年 州際銀行規制の緩和

金融分野では1994年のRiegle–Neal Interstate Banking and Branching Efficiency Actが大きな制度転換となりました。

Federal Reserve Historyによれば、この法律は銀行が州境を越えて支店網を拡大することを大幅に容易にし、地域ごとに分断されていた銀行市場の全国化を進めました。

大手銀行による合併が増え、全国規模の金融グループが形成される制度的条件が整いました。

金融業の全国化

銀行、証券、保険、資産運用の規模が拡大し、金融サービスは全国的・国際的な市場へ統合されました。

企業は銀行融資だけでなく、株式、社債、転換社債など多様な方法で資金を調達し、新興企業も株式市場へアクセスする機会を得ました。

一方、金融市場への依存が高まることで、資産価格の変動が企業投資や家計心理へ与える影響も大きくなります。

資本市場と企業成長

1990年代の高い株価は企業が新株を発行して資金を調達しやすい環境を作りました。

とくにまだ十分な利益を出していない技術企業でも、成長期待が高ければ株式公開によって大きな資金を集められることがありました。

これは新しい事業への投資を促す一方、将来期待が実際の収益力から離れやすい条件にもなりました。

ベンチャー投資の拡大

Silicon Valleyを中心に、ベンチャーキャピタルが新興技術企業へ資金を供給する仕組みが拡大しました。

ソフトウェア、半導体、通信、電子商取引などの企業は、銀行融資よりも株式型の資金調達を利用し、短期間で急成長することを目指しました。

失敗する企業が多いことを前提に少数の大成功で投資全体を回収するという仕組みは、従来型の銀行融資とは異なる企業成長モデルでした。

新興企業と株式公開

1990年代後半には設立から短期間の企業が株式公開する例が増えました。

投資家は現在の利益よりも利用者数、アクセス数、市場占有率、将来のネットワーク効果を重視する場合がありました。

インターネット利用者が急増していたため、将来大きな市場が生まれるという予想自体には現実的な根拠がありましたが、どの企業が実際に利益を上げるかは別問題でした。

ドットコム・ブーム

1990年代後半、インターネット企業の株価が急上昇し、いわゆるドットコム・ブームが起こりました。

オンライン小売、検索、広告、通信、ソフトウェアなどさまざまな企業が投資資金を集め、赤字でも成長率が高ければ高い企業価値が付くことがありました。

Federal Reserveの後年の分析でも、1996–99年にインターネット関連株の価格が非常に急速に上昇したことが確認されています。

利益より将来期待が先行する

投資家の一部は、インターネットが既存産業を急速に置き換えると考え、現在の収益より将来の市場規模を重視しました。

その結果、十分な売上や利益がない企業でも高い評価を受けることがあり、企業名に「.com」を加えるだけで株価が上がるような現象も研究で確認されています。

新技術が本当に社会を変えることと、その技術に関係するすべての企業が適正な価格で評価されることは別の問題です。

すべての技術企業が投機だったわけではない

ドットコム・ブームをすべて幻想だったとするのも不正確です。

インターネット利用は実際に急増し、半導体、通信設備、企業ソフトウェア、オンラインサービスは長期的に巨大な市場へ成長しました。

問題は技術そのものではなく、どの企業が利益を上げるか、どの速度で市場が成長するかについて投資家の期待が過度に楽観的になったことでした。

1997年 アジア通貨危機

1997年にはThailandを起点に通貨・金融危機が東アジアへ広がり、世界の金融市場が大きく揺れました。

アメリカ企業にとっては輸出市場の減速や為替変動が問題となる一方、危機地域から資金が安全資産へ移動し、アメリカの金融市場へ資本が流入する面もありました。

グローバル化は成長機会だけでなく、遠い地域の金融危機が短期間で国内市場へ伝わる構造も強めました。

1998年 ロシア危機

1998年8月、Russiaは通貨を大幅に切り下げ、国内債務の支払い停止へ踏み切りました。

投資家がリスクの高い資産を一斉に売却し、安全性と流動性の高い資産へ移る動きが広がり、世界の債券・株式市場で価格差が急激に拡大しました。

この市場混乱が、アメリカの大手金融機関と取引していたヘッジファンドLTCMを危機へ追い込みます。

LTCM危機

Long-Term Capital Management、LTCMは高度な数理モデルと大規模な借入を使って金融市場の小さな価格差から利益を得ようとするヘッジファンドでした。

1998年の市場混乱で想定していた価格差が縮まるどころか逆に拡大し、巨額の損失を抱えました。Federal Reserve Historyによれば1997年末には自己資本1ドルに対して約30ドルの負債を持つほど高い借入比率でした。

多数の大手銀行・証券会社がLTCMと取引していたため、突然の破綻と資産売却が市場全体を混乱させる懸念が生まれました。

公的資金による救済ではなかった

New York Federal Reserveは主要金融機関を集め、LTCM問題への民間対応を協議しました。

最終的に14の銀行・証券会社が約36億ドルを出資し、LTCMの90%を取得して秩序だった縮小を行いました。

Federal Reserveは協議を仲介しましたが、自ら資金を投入したわけではありません。この点は『FedがLTCMを税金で救済した』という説明と区別する必要があります。

1999年 金融サービス近代化法

1999年11月、Financial Services Modernization Act、通称Gramm–Leach–Bliley Actが成立しました。

Federal Reserve Historyによれば、この法律は1933年Banking Actで設けられていた商業銀行と証券業の系列関係に対する主要な制限を撤廃し、銀行・証券・保険を同じ金融グループ内で扱いやすくしました。

同時にFederal Reserveには新しい金融持株会社への監督権限が与えられました。

銀行・証券・保険の境界が変わる

銀行と証券の境界は1999年に突然消えたわけではありません。1980年代末から銀行グループは段階的に証券業務へ進出し、金融市場では統合がすでに進んでいました。

1999年法はその現実に法律を合わせ、金融持株会社という形で複数業種を同一企業グループに置く制度を整えました。

この再編は金融サービスの効率化や商品多様化を期待された一方、大規模金融グループの複雑化という課題も生みました。

1999年 Seattle WTO閣僚会議

1999年11月30日から12月3日、WTO第3回閣僚会議がSeattleで開かれました。

新しい多角的貿易交渉の開始を目指しましたが、加盟国間で農業、労働、途上国の利益などをめぐる合意がまとまらず、会議は新ラウンド開始を決められないまま終了しました。

会議場の外では大規模な抗議行動が起こり、グローバル化への反対運動が世界的に可視化されました。

反グローバル化運動

Seattleの抗議には労働組合、環境団体、人権活動家、農業関係者、学生、宗教団体など非常に異なる人々が参加しました。

多くの参加者は平和的に行進しましたが、一部では窓ガラス破壊などの行為があり、警察との衝突も発生しました。

WTO自身も当時の声明で、平和的抗議と破壊的行為を区別しつつ、国際貿易制度への不安や怒りが広がっていることを認めています。

労働・環境・民主的統制をめぐる批判

反グローバル化運動の批判は『外国製品を買いたくない』という単純な保護主義だけではありませんでした。

企業が低賃金・低規制の国へ生産を移すことで労働条件や環境基準が引き下げられるのではないか、国際貿易ルールが民主的に決められた国内規制を制約するのではないか、途上国が十分な発言力を持てないのではないか、という議論がありました。

一方、WTO支持側は、共通ルールがなければ大国間の力関係が強まり、貿易紛争がさらに不安定になると主張しました。

1990年代の長期景気拡大

アメリカ経済は1991年3月から2001年3月まで10年間の景気拡大を続けました。

NBERの景気循環記録では、当時これは同機関の年表で最長の景気拡大でした。

1990年代後半には実質成長率が高まり、失業率とインフレ率が比較的低い状態が同時に続きました。

低失業と雇用拡大

1990年代後半には労働市場が引き締まり、幅広い職種で雇用が増えました。

技術産業だけでなく小売、医療、建設、金融、専門サービスなどが成長し、失業率は長期的に低下しました。

ただし雇用の質は一様ではなく、高賃金の専門職と低賃金のサービス職が同時に増える構造も続きました。

連邦財政黒字

景気拡大、税収増加、1990年代の財政政策によって、連邦政府は1990年代末に財政黒字へ転じました。

冷戦後の国防費削減も財政構造へ影響し、1990年代末には『債務をどこまで減らせるか』が政策論争になるほど財政環境が改善しました。

この黒字を技術革新だけの結果と見ることはできず、景気、税制、歳出抑制など複数要因が関係していました。

成長と格差の共存

高い成長率と低失業率が続いても、所得や資産が均等に増えたわけではありません。

株式を多く保有する世帯は株価上昇の恩恵を受けやすく、情報技術や金融の高技能職では賃金が伸びる一方、地域によっては製造業再編や低賃金サービスへの移行が続きました。

1990年代は『経済全体が伸びること』と『格差がなくなること』が同じではないと分かる時代でもありました。

2000年 株式市場の転換

2000年になると、インターネット関連企業への過度な期待が修正され始めました。

利益を上げられない企業が資金調達を続けることが難しくなり、株価下落によって追加投資も減少しました。

投資家が『利用者数を増やせば後から利益はついてくる』という前提を再評価し、企業収益と現金収支をより重視するようになりました。

ドットコム株の急落

Federal Reserveの後年の分析では、1990年代後半の技術株は生産性上昇や企業利益という実体的な改善に支えられた面を持ちながらも、最終的には将来収益への期待が行き過ぎたと整理されています。

株価下落で多くの新興企業が倒産し、通信・ソフトウェア・インターネット関連企業では人員削減が広がりました。

ただし2008年の金融危機とは異なり、技術株崩壊による損失は銀行の中核的な貸借対照表へ同じ程度集中しておらず、金融システム全体の崩壊にはつながりませんでした。

設備投資の反動

1990年代後半に企業は通信設備、コンピューター、ソフトウェアへ大量投資していました。

成長期待が低下すると、企業は過剰になった設備投資を削減し、半導体・通信機器・情報技術関連の受注が落ち込みました。

ドットコム企業の倒産だけでなく、実物投資の反動が2001年の景気減速へつながります。

2001年景気後退

NBERはアメリカ経済の景気拡大が2001年3月に終了し、同月から景気後退が始まったと判定しています。

この景気後退は2001年11月まで8か月続き、1991年3月からの10年間の拡大を終わらせました。

Federal Reserveの後年の説明では、ドットコム・ブームの終焉と株価下落が景気後退の大きな要因の一つでした。

9月11日以前から始まっていた景気後退

2001年9月11日の同時多発テロは経済へ重大な追加shockを与えましたが、景気後退自体はその半年前の3月に始まっていました。

したがって2001年不況を9月11日だけの結果とすることはできません。

本記事ではデジタル投資と株式市場の調整までを扱い、9月11日以後の安全保障国家、Afghanistan、Iraq Warについては次の時代の記事で独立して扱います。

『新経済』論の再評価

1990年代後半には、情報技術によって従来の景気循環やインフレの制約が弱くなったという『新経済』論が広く語られました。

実際に生産性上昇は統計で確認され、企業活動の効率化も進みました。そのためすべてが幻想だったわけではありません。

一方、2000–01年の調整は、新技術が経済構造を変えていても、企業利益、過剰投資、資産価格、景気循環といった基本的な制約が消えるわけではないことを示しました。

1993–2001年に何が変わったのか

第一に、NAFTAとWTOによって企業活動がより明確な国際ルールのもとへ組み込まれました。北米では国境を越えた生産網がさらに発達しました。

第二に、インターネットが研究基盤から民間の通信基盤へ移り、1995年にはNSFNETの専用基幹網が終了しました。

第三に、家庭のインターネット利用率は1997年18%から2000年約42%へ急上昇し、通信が日常生活の基盤になり始めました。

第四に、情報通信技術への投資が企業組織、物流、金融、製造業の生産性向上へ大きく寄与しました。

第五に、銀行の州際展開、資本市場、新興企業への投資が拡大し、金融が企業成長と技術産業を支える役割を強めました。

第六に、LTCM危機は高度な金融取引と借入が、一社の問題を市場全体へ波及させる可能性を示しました。

第七に、1999年の金融サービス近代化法で銀行・証券・保険の制度的境界が変化し、大規模金融グループの時代が進みました。

第八に、Seattle WTO閣僚会議の抗議は、自由貿易の利益だけでなく、労働、環境、地域産業、民主的統制をめぐる不安を可視化しました。

第九に、ドットコム・ブームでは実際の技術革新と投資上の過剰期待が同時に存在し、2000年以後の株価調整と2001年景気後退へつながりました。

1993–2001年のアメリカは、国境を越える市場とデジタルネットワークを経済成長の中心へ置く社会へ変わりました。しかし、その変化は地域や階層へ均等には分配されず、21世紀に続く自由貿易、巨大金融、インターネット企業、デジタル格差をめぐる論争も同時に生み出しました。

1993–2001年の主な出来事

  • 1993年 — Mosaicブラウザーが一般公開され、Web利用が急速に拡大。
  • 1994年1月1日 — 北米自由貿易協定(NAFTA)発効。
  • 1994年9月 — Riegle–Neal Interstate Banking and Branching Efficiency Act成立。
  • 1995年1月1日 — 世界貿易機関(WTO)発足。
  • 1995年 — 全米科学財団がNSFNETの専用基幹網を終了。商用インターネット網へ移行。
  • 1995–2000年 — 情報通信技術への投資と生産性上昇が加速。
  • 1996年2月8日 — Telecommunications Act of 1996成立。
  • 1997年 — Censusが家庭のインターネット利用を初めて本格調査。利用世帯18%。
  • 1997年 — アジア通貨危機が始まり国際金融市場が動揺。
  • 1998年8月 — ロシア金融危機。
  • 1998年9月 — LTCMが危機に陥り、14金融機関が約36億ドルを拠出して秩序ある縮小を支援。
  • 1998年 — 家庭のインターネット利用世帯が約26%へ。
  • 1999年11月 — Gramm–Leach–Bliley Act成立。金融持株会社制度を拡大。
  • 1999年11月30日–12月3日 — SeattleでWTO第3回閣僚会議。大規模抗議と交渉決裂。
  • 2000年 — 家庭のインターネット利用世帯が約42%へ。
  • 2000年 — ドットコム関連株が大きな転換点を迎え、株価下落が広がる。
  • 2001年3月 — NBER基準で景気後退開始。1991年から10年間の景気拡大が終了。
  • 2001年 — 技術・通信企業の倒産や人員削減、設備投資削減が拡大。
  • 2001年11月 — NBER基準で景気後退終了。

次の記事へ

1990年代の経済成長と並行して、アメリカ国内の政治と社会をめぐる対立も大きく変化しました。1994年中間選挙、犯罪対策、福祉改革、人工妊娠中絶、同性関係をめぐる法制度、宗教保守、銃規制などが、連邦政治と州政治の主要争点になっていきます。

この時代は単に「保守化した」「左右対立が激しくなった」とまとめるより、どの制度と社会問題をめぐって政党間・州間・社会運動間の対立が再編されたのかを見る必要があります。

次の記事は、1994–2000|アメリカ|政治再編と文化をめぐる対立 — 中間選挙、犯罪対策、福祉改革、人工妊娠中絶、LGBTQをめぐる法制度として扱います。

参考資料・出典

本ページはU.S. Trade Representative、U.S. National Science Foundation、U.S. Census Bureau、Federal Communications Commission、U.S. Bureau of Economic Analysis、U.S. Bureau of Labor Statistics、Federal Reserve History、Federal Reserve Board、World Trade Organization、National Bureau of Economic Researchなどの公的・研究機関資料を中心に参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。NAFTAについては全国単位の成功・失敗を断定せず産業・地域差を明記し、インターネットの成長についても技術革新と投資過熱を区別しています。LTCMについてはFederal Reserveが協議を仲介した一方、公的資金を直接投入していないことを明記しました。

資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY