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World History

1862–1890

アメリカ|西部拡張と先住民社会

Homestead Act、大陸横断鉄道、保留地、Buffalo Soldiers、Dawes Act、Wounded Knee

19世紀後半のアメリカ西部拡張は、しばしば「開拓者が未開の土地へ進み、大陸を一つの国家へ結びつけた物語」として語られてきた。しかし、この地域は空白地ではなかった。Great Plains、Rocky Mountains、Great Basin、Southwest、Pacific Northwestには、Lakota、Dakota、Cheyenne、Arapaho、Comanche、Kiowa、Nez Perce、Apache、Navajo、Ute、Shoshone、Paiuteをはじめ、異なる言語、政治組織、経済、宗教、土地利用を持つ多数の先住民社会が存在していた。1862年以後の「西部開拓」は、その土地へ農民、鉄道、鉱山、牧畜、都市、軍隊を組み込み、同時に先住民の領土と政治的自立を縮小させていく国家的再編だった。

その転換は南北戦争の最中に始まった。1862年、Lincoln政権と共和党主導のCongressはHomestead ActとPacific Railway Actを成立させた。Homestead Actは一定条件を満たす個人に160 acresのpublic landを取得する道を開き、Pacific Railway ActはUnion PacificとCentral Pacificへ政府債券と広大なland grantsを与え、大陸横断鉄道建設を促進した。南部諸州の離脱によって、それまでCongressで反対を受けていた共和党的な自由土地・内部改良政策を実施しやすくなったのである。

しかし、連邦政府が「public land」と呼んだ土地の多くは、先住民諸国が長く生活し、狩猟し、移動し、条約によって権利を認められていた土地でもあった。National Park ServiceがHomestead Actについて指摘するように、入植者にとって「利用可能な土地」に見えた地域は、先住民にとって故郷だった。土地政策とIndian policyは別々の歴史ではない。農地配分、鉄道建設、鉱山開発、軍事基地、保留地政策が互いに結びつきながら、西部の領土秩序を作り替えた。

鉄道はその再編を劇的に加速させた。1869年に最初の大陸横断鉄道が完成すると、東西移動は数か月からおよそ一週間へ短縮され、移民、商品、軍隊、鉱山労働者、家畜、郵便が高速に移動できるようになった。鉄道会社は土地の巨大所有者でもあり、自社に与えられた土地を入植者へ販売し、町を形成した。Central Pacificでは1万人を超える中国人労働者がSierra Nevadaのトンネル、切通し、路盤建設を担った。西部拡張は白人農民だけの物語ではなく、移民労働者、黒人兵士、先住民、Mexican American communitiesなど多様な人々の労働と衝突を含んでいた。

先住民とアメリカ政府の関係も一つの単純な「Indian Wars」では説明できない。各nation・bandは異なる状況にあり、アメリカ軍と戦う者、条約交渉を選ぶ者、reservationへ移る者、軍scoutとして働く者、交易・農業・賃労働を組み合わせる者がいた。同じnation内でも指導者や地域によって方針が分かれた。LakotaやCheyenneがGreat Plainsで軍事抵抗を続けた一方、Nez Perceでは1855年条約を受け入れたgroupと1863年条約を拒否したgroupが分かれた。先住民社会を一つの均質な集団として描くことは、この時代の政治を理解する妨げになる。

1860年代から1870年代にかけて、戦争と条約が繰り返された。1862年のU.S.–Dakota Warは、条約違反、支払い遅延、食料危機、植民地化が重なったMinnesotaで起こり、戦後には38人のDakota男性がMankatoで処刑され、女性・子ども・高齢者を含む約1,600人がFort Snellingへ収容された後、故郷から強制移住させられた。1864年Sand CreekではColorado volunteer troopsが和平を求めていたCheyenne・Arapahoのcampを攻撃し、多数の女性・子どもを含む人々を殺害した。

一方、1868年Fort Laramie TreatyではRed Cloud Warで米軍に圧力をかけたLakota側との間でGreat Sioux Reservationが認められ、Black HillsもLakotaに保障された。しかし1874年にCuster expeditionがBlack Hillsでgoldを確認すると、鉱山労働者が条約地へ流入した。政府は土地購入を試みたが拒否され、1876年にはreservation外にいたLakota・Cheyenneを軍事的に帰還させようとした。Little BighornでCuster隊が敗北した後も戦争は続き、1877年にアメリカ政府はBlack Hillsを奪取した。条約は国家拡張を停止する恒久的境界にならなかった。

また、バイソンの急減はPlains社会を根本から変えた。バイソンは食料、衣服、住居、道具、交易、宗教儀礼などと深く結びついていた。市場向けhide hunting、鉄道、スポーツハンティング、環境変化など複数の要因が個体数を急激に減少させた。連邦当局・軍関係者の中には、バイソンを失わせることがPlains nationsをreservationへ押し込む手段になると理解していた者もいた。土地だけでなく、生存を支える動物・移動経路・経済基盤そのものが変化したのである。

1870年代後半になると、連邦政策の中心は大規模な軍事征服から「assimilation」へ重心を移していった。1879年にはPennsylvaniaにCarlisle Indian Industrial Schoolが設置され、reservationから離れた場所で先住民の子どもに英語、キリスト教的生活規範、軍隊式discipline、職業訓練を強制するmodelとなった。1887年Dawes Actはreservationの共同保有地を個人allotmentへ分割し、「surplus」とされた土地を非先住民入植へ開放した。これは先住民を個人農民・アメリカ市民へ同化させる政策として正当化されたが、結果としてtribal land baseを大幅に縮小させた。

1890年のWounded Kneeは、この一連の変化を象徴する終点の一つである。Northern Paiuteの宗教指導者Wovokaから広がったGhost Danceは、破壊された生活世界の再生を願う宗教運動としてLakota社会にも伝わった。しかし白人住民と政府当局はこれを軍事的反乱の兆候として恐れた。12月、Sitting Bullが逮捕過程で殺害され、12月29日には7th CavalryがWounded Knee CreekでMiniconjou Lakotaの一団を武装解除しようとする中で銃撃が始まり、女性・子どもを含む多数のLakotaが死亡した。

1890年はかつて歴史家Frederick Jackson Turnerが「frontier」の消滅を論じる際の人口統計上の区切りとも結びつけられてきた。しかし先住民にとって1890年は「開拓が完成した年」ではない。土地、条約、文化、教育、主権をめぐる争いはその後も続き、現代まで法的・政治的問題として残っている。1862〜1890年を理解するには、西部を国家へ統合する過程と、そこで既に暮らしていた人々の社会がどのように再編されたのかを同じ地図の上で見る必要がある。

CONTENTS

  1. 「西部」は空白地ではなかった
  2. 南北戦争と西部政策 — なぜ1862年が転換点なのか
  3. Homestead Act — 160 acresの「自由土地」
  4. public landとは誰の土地だったのか
  5. 1862年U.S.–Dakota War
  6. 処刑、収容、Minnesotaからの強制移住
  7. Pacific Railway Act — 鉄道へ土地と国家資金を与える
  8. 中国人労働者とCentral Pacific
  9. 1869年大陸横断鉄道 — 時間と空間を変える
  10. 鉄道と先住民領土
  11. 1864年Sand Creek Massacre
  12. 南北戦争後の軍隊が西部へ向かう
  13. Buffalo Soldiers — 黒人兵士と西部拡張
  14. Red Cloud WarとBozeman Trail
  15. 1868年Fort Laramie Treaty
  16. reservationとは何だったのか
  17. 1871年 — treaty-makingの終焉
  18. GrantのPeace Policy
  19. バイソンの急減 — Plains社会の経済基盤を失わせる
  20. Black Hills — goldと条約違反
  21. Great Sioux War
  22. 1876年Little Bighorn
  23. 1877年Black Hillsの奪取
  24. Nez Perce War — 1,170 milesの移動
  25. Chief Josephという記憶
  26. Ponca強制移住とStanding Bear
  27. reservation社会 — 配給、agency、農業化
  28. 1879年Carlisle Indian Industrial School
  29. 教育によるassimilation
  30. 先住民社会は文化を失っただけではない
  31. 1887年Dawes Act — communal landからallotmentへ
  32. 「surplus land」を入植へ開く
  33. 土地所有と市民化を結びつける
  34. 1889年Oklahoma Land Run
  35. Ghost Dance — 失われた世界の再生を願う
  36. Sitting Bullの死
  37. 1890年Wounded Knee Massacre
  38. 「frontierが閉じた」という物語
  39. この時代を理解するための8つの視点
  40. この時代に何が変わったのか
  41. 主な出来事

「西部」は空白地ではなかった

19世紀のアメリカ人が「West」と呼んだ範囲は固定されていない。Mississippi River以西だけでなく、時期によってOhio ValleyやGreat Lakesも「西部」と呼ばれた。しかし南北戦争後のwestward expansionでは、Great Plains、Rocky Mountains、Southwest、Pacific Coastが国家政策の主要対象となった。

この地域には多数のIndigenous nationsが存在し、その土地利用も多様だった。Plainsではhorseとbison huntingを中心とする社会が発達していたが、それだけではない。河川沿いで農耕するnation、Pacific Northwestの漁業・交易社会、Southwestのirrigation agricultureや牧畜を組み合わせる社会などがあった。territoryを現代的な固定国境線だけで理解することもできない。

National Park ServiceがHomestead Actの歴史で示す「入植者には空地に見え、Native Americansにはhomeだった」という対比は、西部拡張を理解する基本点である。連邦政府が測量し、区画化し、land officeで配分できる土地へ変換する過程そのものが、異なる土地観・主権体系を上書きする政治行為だった。

南北戦争と西部政策 — なぜ1862年が転換点なのか

南北戦争はEastのbattlefieldだけで起きた出来事ではない。戦争中、共和党政権は西部をUnion経済へ統合する長期政策を次々に進めた。1862年Homestead Act、Pacific Railway Act、Morrill Land-Grant Actはいずれもこの文脈にある。

戦前にはfree soil policyやfederal fundingによるtranscontinental railroadにSouthern politiciansが反対する場合が多かった。slave statesのsecessionによってCongressの勢力関係が変わると、Republican Partyが重視していたfree labor、transportation、education、western settlementを結ぶ政策を実行できた。

ここで重要なのは、南北戦争が奴隷制の運命だけでなく「西部をどのような社会として形成するか」も変えたことである。free labor societyを西へ拡張する政策は、African American emancipationとは別の方向でNative land dispossessionを加速させることになった。

Homestead Act — 160 acresの「自由土地」

Lincolnは1862年5月20日にHomestead Actへ署名した。法律は21歳以上のhead of familyまたは市民・市民権申請者で、合衆国へ武器を向けていない者に、一定のpublic landへclaimを出す資格を認めた。原則として160 acresに居住し、改良し、5年間条件を満たすことでtitleを得る仕組みだった。

制度は白人男性だけに法律上限定されておらず、単身女性、移民のcitizenship-seeker、南北戦争後には元奴隷もclaimを申請できた。NPSによれば長期的には約2億7,000万acres、現在のUnited States面積のおよそ10%がhomestead制度のもとで配分された。

ただし「無料土地」という表現は実態を単純化する。申請料、農機具、住宅、家畜、種、移動費が必要で、半乾燥地域では160 acresだけで農業経営を成立させることが難しい場合も多かった。NPSは最終的に条件を満たしてtitleを取得したclaimantが全体の約40%だったとしている。

public landとは誰の土地だったのか

Homestead Actの土地は連邦法上「public domain」だったが、その多くはNative nationsのtraditional homeland、hunting grounds、あるいはtreaty landだった。連邦政府が条約、購入、軍事力、行政命令によってIndian titleを消滅・縮小させ、その後surveyしてsettlerへ分配するという連続した過程があった。

Pacific Railway Act自体にも、鉄道路線に必要な土地についてUnited StatesがIndian titleを速やかに消滅させる趣旨の条文が含まれていた。つまり鉄道政策は初めからIndian land questionと結びついていた。

「settlement」と「removal」を別々の章に分けると、同じ土地が一方ではhomesteadとなり、他方では誰かのhomelandから切り離されたという関係が見えなくなる。西部拡張は土地を所有可能なparcelへ変換する制度史でもある。

1862年U.S.–Dakota War

1862年8月、MinnesotaでDakotaの一部とアメリカ側の間に戦争が始まった。原因は一つではない。Dakota landの大規模cessions、annuity paymentをめぐる遅延と不正、traderへの債務、狩猟地の減少、食料不足、settler expansionが重なっていた。Minnesota Historical Societyは、戦争直前にDakotaがstarvationへ追い込まれていたことを背景として挙げている。

戦闘は約6週間続き、settler、兵士、Dakota双方に多数の死者が出た。すべてのDakotaが戦争に参加したわけではなく、戦争に反対した者や捕虜となったsettlerを保護した者もいた。

9月23日のWood Lakeの戦いでHenry Sibley率いる米軍が勝利した後、戦争は終息へ向かった。しかしその後に行われた処罰と強制移住は、戦闘そのもの以上にDakota社会へ長期的影響を与えた。

処刑、収容、Minnesotaからの強制移住

軍事委員会は392人のDakota男性を短期間で裁き、303人に死刑判決を出した。President Lincolnが記録をreviewし、最終的に38人の処刑を承認した。1862年12月26日、Mankatoで38人が同時に絞首刑となり、現在もUnited States史上最大規模のmass executionとして知られる。

同時に女性、子ども、高齢者を中心とする約1,600人のDakotaがFort Snellingへ強制的に移動させられ、winter campへ収容された。Minnesota Historical Societyによれば、1862〜63年の冬にdiseaseと厳しい環境によって130〜300人が死亡したと推定されている。

1863年、CongressはDakotaとのtreatiesを無効化し、MinnesotaのDakota landとannuityを没収する法律を成立させ、Dakotaを州外へ移住させた。戦争の結果は「反乱の鎮圧」だけではなく、土地の大規模な再配分と先住民人口の強制的排除だった。

Pacific Railway Act — 鉄道へ土地と国家資金を与える

1862年7月1日のPacific Railway ActはUnion Pacific RailroadとCentral Pacific Railroadへtranscontinental railroad建設を認可した。National Archivesによれば、政府はconstructionを支援するためloan bondsとright-of-way、さらにroute沿いのalternate sectionsからなるland grantsを与えた。

鉄道会社はtransportation companyであると同時に巨大land companyとなった。線路建設によって取得した周辺地を移民・農民・投資家へ売り、鉄道沿いに町を作り、農産物・鉱物・家畜を東部市場へ運んだ。

Congressが後に認可したtranscontinental railroadsを含めると、railroadへのpublic land grantsは巨大な規模に達した。西部の「market integration」は私人企業だけによる自然発生的な発展ではなく、連邦政府の土地・金融政策によって形成された。

中国人労働者とCentral Pacific

Central PacificはCalifornia側からSierra Nevadaを越えて東へ線路を伸ばした。労働力不足の中でChinese immigrantsの雇用を拡大し、1860年代後半には1万人を超える中国人労働者が建設に従事した。National ArchivesはCentral Pacificのworkforceに10,000人以上、NPS資料では時期によって11,000〜12,000人規模の中国人労働者がいたことを示している。

彼らは山岳地帯でtunnelを掘り、崖を削り、冬の雪崩と寒さ、Nevada desertの暑さの中で路盤を作った。1867年にはSierra NevadaでChinese railroad workersが賃上げと労働時間短縮を求めstrikeを行った。

1869年5月10日のPromontory Summitの式典は大陸統合の象徴として写真化されたが、中国人労働者の貢献は長く国民的記憶の周辺に置かれた。西部拡張と「American progress」の視覚イメージが、実際にその基盤を作った移民労働をどのように見えにくくしたかという問題でもある。

1869年大陸横断鉄道 — 時間と空間を変える

1869年5月10日、Central PacificとUnion Pacificの線路がUtah TerritoryのPromontory Summitで接続された。National Archivesによれば、従来数か月かかっていたcoast-to-coast journeyはおよそ一週間へ短縮された。

鉄道によってwestern cattle、grain、mineralsが東部市場へ運ばれ、東部・中西部のmanufactured goodsが西部へ流入した。railroad townが形成され、新聞、郵便、旅行者、軍隊も高速で移動するようになった。

鉄道会社は時刻表を作り、1883年には主要鉄道会社がstandard time zonesを導入した。国家領土が単に地図上でつながるだけでなく、商品・情報・時間の共通networkへ編成されていった。

鉄道と先住民領土

鉄道は先住民社会へ複数の影響を与えた。線路、駅、telegraph、town、military postがtraditional territoryを横断し、settler流入を急増させた。狩猟動物の移動や水場へのaccessも変化した。

Union PacificはGreat Plainsを横切り、Central PacificはGreat Basinを通過した。鉄道建設現場や旅客列車への攻撃も起こり、それに対する米軍作戦が展開された。

鉄道を「戦争を終わらせた文明の道具」と表現するだけでは不十分である。railroadは市場と都市を結ぶinfrastructureであると同時に、連邦軍とsettler populationがNative territoryへ継続的に入る能力を高めたterritorial technologyだった。

1864年Sand Creek Massacre

1864年11月29日、Colorado TerritoryでJohn Chivington大佐率いるColorado volunteersがSand Creek沿いのSouthern Cheyenne・Arapaho villageを攻撃した。NPSによればcampには約700〜750人が暮らしており、Black Kettleらは和平を求め、アメリカ側と交渉していた。

攻撃では多数の女性・子どもを含む人々が殺害され、兵士が遺体を損壊し身体の一部をtrophyとして持ち去ったことも記録されている。NPSはSand Creekをunprovoked attackおよびmassacreとして位置づけている。

事件はCheyenne・Arapahoとアメリカ政府の不信を決定的に深め、その後のPlains conflictsを激化させた。Civil Warの最中、Colorado TerritoryではConfederate threatへの不安、gold rush settlement、territorial politics、Native land pressureが複雑に重なっていた。

南北戦争後の軍隊が西部へ向かう

1865年にCivil Warが終わると、連邦政府はregular armyをwestern forts、railroad routes、mail routes、mining districtsへ配置した。Armyの任務にはsettler・transportation networkの保護、treaty enforcement、reservationへの移住要求、Native resistanceへの軍事作戦が含まれた。

多くのofficersとsoldiersはCivil War経験者だった。Custer、Sheridan、ShermanなどCivil Warで名を知られた軍人がwestern commandで重要な役割を持った。戦争で拡張した軍事組織とlogisticsが、そのまま大陸内部の国家統合へ利用された側面がある。

ただしU.S. Armyの内部も単純な「white settlers対Indians」ではなかった。Native scoutsやAfrican American regimentsも勤務し、敵味方の線は人種的に一様ではなかった。

Buffalo Soldiers — 黒人兵士と西部拡張

1866年、Congressは正規軍にAfrican American regimentsを常設し、9th・10th Cavalry、38th・39th・40th・41st Infantryが編成された。後にinfantryは24th・25thへ再編された。これらの黒人兵士は一般にBuffalo Soldiersと呼ばれるようになった。

NPSによれば多くの黒人男性にとって軍務は、南北戦争後の社会で安定した給与、教育、職業技能、一定の社会的地位を得る数少ない機会の一つだった。しかしArmy自体はsegregatedで、officer corpsの大部分は白人だった。

Buffalo Soldiersはfort建設、road・telegraph protection、mail escort、mapping、cattle thief取締り、Indian Warsなど多様な任務に従事した。ここにはReconstructionの矛盾が表れている。奴隷制から解放された黒人男性が連邦軍の制服を着き、市民としての地位を獲得しようとする一方、その軍隊が別のIndigenous peoplesのterritoryを国家管理下へ組み込む任務を担ったのである。

Red Cloud WarとBozeman Trail

Montana goldfieldsへ向かうBozeman TrailはPowder River countryを横断し、Lakota、Northern Cheyenne、Arapahoの重要なhunting territoryへsettler・miner trafficを持ち込んだ。United Statesはtrail沿いにfortsを建設し、これに対してRed Cloudを中心とするLakota側が1866〜1868年に抵抗した。

このRed Cloud WarではFetterman Fightをはじめ米軍が大きな損失を受け、政府は最終的にBozeman Trailのfortsを放棄する方向へ交渉した。

西部戦争を「軍事力で常にアメリカ側が勝ち続けた」と見るのは誤りである。1868年Fort Laramie Treatyは、Native military resistanceがUnited Statesに大きな譲歩をさせた代表例だった。

1868年Fort Laramie Treaty

1868年、United StatesはLakotaの複数band、ArapahoなどとFort Laramieでtreatyを結んだ。Great Sioux Reservationが設けられ、現在のSouth Dakota西部を中心とする広大な地域がLakotaの利用のために認められた。Black Hillsはその中に含まれていた。

またPowder River countryの一部は「unceded Indian territory」とされ、一定の狩猟利用が認められた。United StatesはBozeman Trail沿いのfortsを放棄することになった。

一方treatyはNative peopleにagency・reservation周辺での定住、農業、学校などを促す条項も持ち、米政府は移動型社会を固定的なreservation生活へ変えようとしていた。条約は単純な「土地を守った勝利」でも「完全な降伏」でもなく、軍事抵抗で領土保障を得ながら、同時にアメリカ政府が社会再編を求めるdocumentだった。

reservationとは何だったのか

reservation systemは19世紀後半に一つのuniformな制度として突然成立したわけではない。条約、Congressional act、executive orderなどによって地域ごとに異なるreservationが形成された。

政府側の目的には、settler territoryとNative territoryを分離して戦争を減らすこと、行政・配給を一箇所へ集中すること、農業・学校・missionを通じてassimilationを進めること、そしてreservation外の土地をsettlementへ開くことがあった。

Native communitiesにとってreservationは強制的制限の場所である一方、生き残った土地とcommunityを維持する政治的拠点にもなった。reservationへ移動したからといってtribal identityやpolitical lifeが消滅したわけではない。政府policyの目的とNative use of reservationは同一ではなかった。

1871年 — treaty-makingの終焉

United Statesは建国期からAmerican Indian nationsとformal treatyを結び、Senateがratifyしてきた。National Archivesによれば、1871年までに約370のIndian treatiesがSenate批准を受けていた。

しかし1871年Indian Appropriation Actは、以後Indian nation or tribeをUnited Statesがtreatyを結ぶ「independent nation, tribe, or power」として認めないと定め、新しいformal treaty-makingを終わらせた。既に批准されたtreaty obligationsを無効にしたわけではない。

これはtribal sovereigntyが完全に消えたことを意味しないが、関係の制度形式を大きく変えた。以後、Congressional acts、executive orders、agreementsを通じてNative affairsを管理する比重が高まり、Congressがより一方的にpolicyを変更できる構造が強まった。

GrantのPeace Policy

President Ulysses S. Grantは1869年以後、Indian Affairsの腐敗を減らし、軍事衝突を減らす「Peace Policy」を進めた。reservation agenciesの運営をQuakerなどChristian religious groupsへ委ね、教育・農業を通じたassimilationを促そうとした。

「Peace」という名称にもかかわらず、policyはNative nationsのpolitical independenceとcultural autonomyをそのまま尊重するものではなかった。政府は狩猟・移動中心の生活をやめさせ、固定農業、Christianity、English educationへ変えることを「civilization」と考えた。

軍事的殺害を減らすことと、文化的同化を進めることは同じ時代に並行した。1870年代後半以降のboarding schoolやallotment policyは、この発想をさらに制度化していく。

バイソンの急減 — Plains社会の経済基盤を失わせる

19世紀初頭にはGreat Plainsに数千万頭規模のbisonがいたと推定されるが、1870年代から1880年代初頭にかけてcommercial huntingが急増し、wild herdsは壊滅的に減少した。railroadはhunterをPlainsへ運び、hidesやbonesを市場へ送り出す交通手段となった。

原因を「白人が軍事目的だけでbisonを絶滅させた」と一つにまとめることはできない。先住民・Euro-American双方を含むrobe trade、commercial hide market、railroad、environmental pressureなど複数の要因があった。

しかしNPSは、1870年代にFederal officialsがbisonとPlains Indiansの自立性の関係を明確に理解し、Armyがhide huntersへammunitionを提供した例を紹介している。bisonが消えればreservation外で生活する能力が弱まり、政府配給への依存が強まることを政策担当者は認識していた。

バイソンの消滅は単なるenvironmental historyではない。食料、tipi、衣服、道具、trade、ceremonyを支える動物が失われることは、Plains culturesのmaterial foundationを直接破壊した。

Black Hills — goldと条約違反

Black HillsはLakotaにとって宗教的・歴史的に重要な土地で、1868年Fort Laramie TreatyのGreat Sioux Reservationに含まれていた。United Statesはsettlerの侵入を防ぐ義務を負っていた。

1874年、George Armstrong Custer率いる軍事expeditionがBlack Hillsへ入り、参加したgeologistsがgold depositsを報告した。情報が広がるとminersが条約地へ殺到した。

Armyは当初minerを排除しようとしたが流入を止められず、政府はLakotaへ土地売却を求めた。Lakota側が提示条件を受け入れなかった後、United Statesはreservation外にいるbandへ1876年1月末までの帰還を命じ、従わない者を「hostile」として軍事対象にした。

Great Sioux War

1876年、ArmyはLakota・Northern Cheyenneのlarge campをreservationへ戻すため複数方向から軍事作戦を開始した。Sitting Bull、Crazy Horse、Gallなど複数のleadersとbandsが関与した。

この戦争を「Indiansがreservationから突然脱走して反乱した」と表現すると背景を失う。Powder River countryは1868 treatyでNative useが認められた地域を含み、Black Hillsへのminer invasionと土地問題が直接の緊張原因だった。

また「Sitting Bullが全Lakotaを統率した」という単純な中央集権構造でもない。campにはLakotaの複数band、Northern Cheyenne、Arapahoが集まり、指導と戦闘参加も分散していた。

1876年Little Bighorn

1876年6月25〜26日、Montana TerritoryのLittle Bighorn River周辺で7th CavalryとLakota・Cheyenneを中心とする大規模campが戦った。NPSによればNative villageはPlains Indiansの中でも特に大きな集まりの一つで、warriorsは最大約2,000人規模だったとされる。

Custerはregimentを分割し、Marcus Renoの部隊がvillage南部を攻撃した後、Custer自身の5 companiesは北側で包囲・壊滅した。Custerを含む彼のdirect commandは全滅した。

アメリカ社会では事件が「Custer’s Last Stand」として英雄神話化された。しかしbattlefieldはNative peoplesにとって、自分たちの家族とcampを軍事攻撃から守った戦いでもある。現在のLittle Bighorn Battlefield National Monumentは双方の記憶を扱っている。

軍事的にはNative側の大勝だったが、長期的には連邦政府の戦争継続意思を弱めなかった。むしろ追加兵力が投入され、winter campaignsと食料基盤の崩壊によって多くのbandsがreservationへ入った。

1877年Black Hillsの奪取

Little Bighorn後、Congressはappropriationを条件にLakotaへBlack Hillsのcessionを迫った。1877年、United StatesはBlack HillsをGreat Sioux Reservationから取り上げた。

National Archivesは、1868 treatyでSiouxに保障されたBlack Hillsが1874年のgold discovery後、1877年にUnited Statesによってconfiscatedされたと説明している。

この土地問題は19世紀で終わらない。20世紀にもLakota・Dakota nationsは条約違反をめぐる訴訟を続け、Black Hillsの所有と補償は現在まで重要なsovereignty issueとなっている。

Nez Perce War — 1,170 milesの移動

Pacific Northwestのnimíipuu、英語名Nez Perceも土地縮小をめぐる圧力に直面した。1855年treatyでは広いreservationが認められたが、gold discovery後の1863年treatyはreservationを大幅に縮小した。一部leadersはこれに署名せず、「non-treaty bands」と呼ばれた。

1877年、U.S. governmentはnon-treaty groupsに縮小reservationへの移動を要求した。移動途中に若いwarriorsがsettlersを殺害したことからwarが始まり、複数のbandsはArmyを避けながらIdaho、Montana、Yellowstone地域を通ってCanadaを目指した。

NPSによれば、その移動は126日、1,170 miles以上に及び、4つの現在の州を横断した。最終的にBear Paw Mountainsで包囲され、多くが降伏した。

Chief Josephという記憶

Hinmatóowyalahtq̓it、一般にChief Josephとして知られるWallowa band leaderは1877年Nez Perce conflictの象徴となった。父Old Josephは1855年treatyに署名したが、1863年のreservation縮小treatyを拒否した。

後世Josephはしばしば全Nez Perce軍を指揮した「military genius」として描かれた。しかし実際の軍事指導にはLooking Glass、White Bird、Toohoolhoolzoteなど複数のleadersが関わった。Josephの主要な役割は家族・communityを含むgroup leadershipと外交だった。

彼を一人のheroへ集約する記憶は、複数のbandsの意思決定や女性・子どもの移動経験を見えにくくする。西部史では個人英雄像と集団社会史を分けて考える必要がある。

Ponca強制移住とStanding Bear

1868年Fort Laramie Treatyの土地指定には、すでにPoncaが1858年treatyで持っていた土地の一部が誤ってGreat Sioux Reservationへ含まれるという問題が起きた。政府は境界矛盾を十分に解決せず、1877年にPoncaをNebraskaのhomelandからIndian Territoryへ強制移住させた。

移住ではdiseaseと厳しい環境により多くの人が死亡した。Chief Standing Bearは息子の遺体を故郷へ埋葬するため北へ戻り、Armyに拘束された。

1879年Standing Bear v. Crookでfederal courtは、habeas corpus statute上Native Americanも「person」にあたり、不法拘禁を争うことができると判断した。この判決はすべてのNative Americansへcitizenshipを与えたわけではないが、Indian personhoodをめぐる重要な司法判断だった。

reservation社会 — 配給、agency、農業化

1870年代後半までにPlainsの多くのcommunitiesはreservationとIndian agencyを中心とする生活へ押し込まれた。政府はfood ration、clothing、farm equipment、schoolなどをagencyを通じて配給した。

treatyでannuityが約束されていた場合でも供給の遅延、不足、腐敗が起きた。bison herdの消滅によって自立的狩猟が難しくなった地域では、rationを削られることが生命に直結した。

政府はmale household headを中心とするfarm modelを理想化し、Native gender roles、communal land use、seasonal mobilityを「非文明的」と判断することが多かった。reservation policyは単に住む場所を限定するのではなく、家族・経済・時間・宗教まで作り替えようとするpolicyだった。

1879年Carlisle Indian Industrial School

1879年、former military officer Richard Henry Prattの主導でPennsylvaniaのCarlisle BarracksにCarlisle Indian Industrial Schoolが開校した。NPSによれば、reservation外に設置された最初期のfederal Indian boarding schoolであり、その後のboarding school systemのmodelとなった。

最初の子どもたちはPlains reservationsなどから長距離をtransportされ、家族・communityから切り離された。Carlisleではhairを切り、Native clothingを取り上げ、English nameを与え、Native languagesやreligious practicesを抑制した。

学校は軍隊式disciplineを取り入れ、生徒を隊列で移動させ、industrial・domestic trainingを行った。「education」はknowledge transferだけでなく、Indigenous identityを作り替える国家政策だった。

教育によるassimilation

Carlisleの発想は、軍事戦争が終わりつつあるなら次は子どもを通じて文化そのものを変えるというものだった。PrattはNative childrenをreservationから遠く離し、white American householdsで働かせるouting systemも利用した。

NPSの現在の解説は、boarding schoolsがNative childrenをlanguages、religions、cultural practicesから切り離し、physical・emotional abuseを含む重大な被害を与えたと位置づけている。

同時に、studentsは制度に一方的に支配されるだけではなかった。友人networkを作り、sport、music、school newspaperを利用し、卒業後にtribal politicsやNative rights活動へ関わった者もいた。assimilation policyの目的と、Native individualsがそこで経験し生き延びた現実は分けて見る必要がある。

先住民社会は文化を失っただけではない

19世紀末の政策は土地・人口・言語・宗教に重大な損失を与えたが、「伝統文化が消滅した」と書くのも正確ではない。家族、ceremony、oral history、language、kinship、craft、political leadershipはreservationやboarding schoolの圧力の中でも継承された。

政府が禁止したreligious ceremoniesが秘密に続けられることもあり、ChristianityとNative traditionsを組み合わせるcommunitiesもあった。reservation自体がtribal communityを維持する領域として使われる場合もあった。

先住民史を「敗北と消滅」の物語にすると、その後のland claims、sovereignty movement、language revival、treaty rights activismが理解できない。19世紀後半は社会破壊の時代であると同時に、適応とsurvivalの時代でもある。

1887年Dawes Act — communal landからallotmentへ

1887年2月8日、CongressはGeneral Allotment Act、通称Dawes Actを成立させた。法律はPresidentに、多くのreservationsの土地をsurveyし、tribal communal ownershipからindividual allotmentsへ分割する権限を与えた。

典型的にはhead of familyへ160 acres、single adultへ80 acresなどを割り当て、土地は一定期間Federal trustに置かれた。政策支持者はprivate propertyとfamily farmをNative Americansへ導入すれば、主流American societyへassimilationできると考えた。

しかしcommunal land tenureを「進歩していない」とみなす発想自体がEuro-American property systemを基準としていた。各nationが土地をどのように利用・管理してきたかは多様であり、Dawes Actはその政治的・文化的制度を個人parcelへ置き換えた。

「surplus land」を入植へ開く

Dawes policyの大きな影響は、個人allotmentだけではない。reservationをmembersへ割り当てた後、政府は残った土地を「surplus」として購入・開放できた。このsurplus landsがnon-Indian settlementへ移った。

Indian Affairsは、Dawes Act以前にNative Americansが約1億3,800万acresをcontrolしていたが、allotmentとsurplus salesによってその大部分を失ったと説明している。land lossは20世紀初頭まで続く。

「unused land」という概念も問題だった。牧畜、狩猟、採集、ceremony、seasonal movementに使う土地はEuro-American farm surveyの基準では「余剰」に見える場合があった。allotmentは土地利用を個人農場という一形態へ限定するpolicyだった。

土地所有と市民化を結びつける

Dawes Actはallotmentを受け、一定のassimilation条件を満たしたNative individualsへUnited States citizenshipを認める仕組みも含んでいた。土地を個人所有し、州・territoryのlawへ従うことがcitizenshipへの道とされた。

これは「市民権の拡大」とだけ見ることはできない。tribal citizenship、communal land、tribal governmentからindividual citizenへ移行させることが政策目的と結びついていたためである。

1924年Indian Citizenship Actではallotmentの有無にかかわらずU.S.-born Native Americansへ連邦市民権が広げられるが、1887年段階ではcitizenshipとassimilationが密接に結びついていた。

1889年Oklahoma Land Run

Indian Territoryは19世紀前半にSoutheastから強制移住させられたCherokee、Choctaw、Chickasaw、Creek、Seminoleなどを含む多数のNative nationsの土地となっていた。その後、西部から移されたtribesも加わった。

しかし1880年代になるとwhite settlersはIndian Territory内の「Unassigned Lands」を開放するよう政府へ圧力を強めた。1889年4月22日、政府はOklahoma Districtの一部をsettlementへ開き、数万人が同時に土地claimへ走るLand Runが行われた。

この光景は「free land」の象徴として広く記憶されたが、その土地がどのように「available」になったのかを遡る必要がある。Indian removal、treaty、reservation、land cessionを経て初めてsettlerがclaimできる土地になったのである。

Ghost Dance — 失われた世界の再生を願う

1889〜1890年頃、Northern Paiute religious leader Wovokaの教えからGhost Dance movementが西部の多数のNative communitiesへ広がった。内容は地域ごとに異なるが、正しく生き、danceを続けることで死者との再会、bisonや従来世界の再生、苦難の終わりを期待するreligious visionを含んでいた。

Lakota reservationsでは、bisonの消滅、land reduction、ration cuts、Dawes-related pressuresなどの中でmovementが急速に受け入れられた。これは単純な「war dance」ではなく、社会崩壊の中で希望と共同体を再構成する宗教運動だった。

しかしwhite newspapersとreservation agentsはGhost Danceを「uprising」の兆候として報告し、軍事的恐怖が拡大した。Library of Congressも当時の新聞がmovementをreligious frenzyとして描き、報道の混乱が軍派遣へつながったことを紹介している。

Sitting Bullの死

Hunkpapa Lakota leader Sitting BullはLittle Bighorn期の抵抗の象徴としてアメリカ社会に知られていた。Canada滞在後、1881年にUnited Statesへ戻り、Standing Rock Reservationで暮らしていた。

1890年、authoritiesはSitting BullがGhost Dance movementへ影響を与えることを恐れた。12月15日、Indian policeが彼を逮捕しようとした際に銃撃が発生し、Sitting Bullと複数のpolice・followersが死亡した。

彼の死後、Big Foot、Miniconjou LakotaのbandなどがPine Ridge方面へ移動し、7th Cavalryが彼らをinterceptした。この流れがWounded Kneeへつながった。

1890年Wounded Knee Massacre

1890年12月29日、South DakotaのWounded Knee Creekで7th CavalryがBig Footのbandを包囲し、武器を回収しようとした。緊張の中で発砲が起き、soldiersはHotchkiss gunsを含む火力をcampへ向けた。

死者数は史料によって異なる。NPSのLittle Bighorn chronologyは少なくとも84人の男性、62人の女性、16人の子どもが死亡したと記録し、Library of CongressのGhost Dance guideは約200 Native Americans死亡とする推定を紹介している。他のhistorical studiesではさらに多い推計もある。

重要なのは、死亡者に多数の女性・子どもが含まれていたことであり、現在NPSを含む公的機関はこの事件をWounded Knee Massacreと表現している。長くArmy史では「battle」と呼ばれてきたが、今日の名称変化自体がhistorical memoryの変化を示している。

Wounded Kneeはしばしば「Indian Warsの終わり」とされる。しかしUnited StatesとNative nationsのconflictが終わったわけではない。土地権、treaty rights、boarding schools、allotment、religious freedom、tribal sovereigntyをめぐる争いは20世紀以後も続いた。

「frontierが閉じた」という物語

1890年Censusは、従来のように連続した明確なsettlement frontier lineを引くことが困難になったと報告した。1893年、historian Frederick Jackson Turnerはこれをもとに有名な「frontier thesis」を発表し、西部frontierがAmerican democracy、individualism、national characterを作ったと論じた。

Turnerの議論は20世紀のアメリカ史理解へ非常に大きな影響を与えたが、後のhistorianは「空地へ文明が広がった」という枠組みがNative peoples、Mexican communities、Chinese laborers、women、environmental transformationを周辺化すると批判してきた。

1890年を「frontierが閉じた年」とするより、連邦政府が大陸の土地をsurvey、railroad、reservation、military、allotmentへ組み込み、以前とは異なるterritorial orderをほぼ完成させた時期と見る方がよい。その秩序の形成には多大な暴力と交渉が含まれていた。

この時代を理解するための8つの視点

第一に、「westward expansion」と「Native dispossession」を別の出来事として扱わない。 Homestead、railroad town、mine、ranchが成立する土地は、それ以前にNative nationsのhomelandやtreaty landだった場合が多い。一方の土地取得と他方の土地喪失は同じterritorial processの両面だった。

第二に、先住民を一つの集団として扱わない。 Lakota、Dakota、Cheyenne、Arapaho、Nez Perce、Poncaなどは異なるpolitical communitiesであり、同じnation内にも複数bandと政策選択があった。戦争、条約、reservation、adaptationへの対応は一様ではない。

第三に、西部拡張を白人settlerだけの物語にしない。 Chinese railroad workers、African American Buffalo Soldiers、European immigrants、Mexican American communities、Native scoutsなど多様な人々が国家拡張の現場に存在した。それぞれが同じ権力関係にいたわけでもない。

第四に、treatyを単なる過去の外交文書と見ない。 Fort Laramie Treatyのような条約は土地、狩猟、主権の権利を現在まで規定するlegal foundationである。United Statesがその約束を破ったことは、後のland claimsとtribal sovereignty litigationへ直接つながった。

第五に、Indian Warsを「文明対野蛮」の衝突として理解しない。 多くのwarはrailroad、mining、settlement、treaty violation、reservation boundaryなど具体的な土地・主権問題から発生した。Native military resistanceは自らのhomeland・communityを守る政治行動だった。

第六に、1870年代後半を「戦争から平和への移行」と単純化しない。 large-scale military campaignsが減る一方、boarding schools、religious suppression、allotmentという別の形の強制が強まった。身体を軍事的に制圧する政策から、土地制度・子どもの教育・文化を変える政策へ重心が移った。

第七に、bisonの消滅を環境史だけにしない。 commercial huntingとmarket economyの問題であると同時に、Plains nationsのfood、housing、mobility、religionを支える基盤を失わせた。environmental transformationとcolonial policyが深く接続していた。

第八に、1890年をNative historyの終わりにしない。 Wounded Knee以後もNative nationsは存在し、land、language、religion、citizenship、treaty rights、self-governmentをめぐって政治活動を続けた。「消えたIndian」という物語自体がsettler colonial societyの文化的神話だった。

この時代に何が変わったのか

第一に、連邦政府がwestern landを市場化する能力が飛躍的に高まった。survey、Homestead Act、railroad land grant、land officeを組み合わせることで、広大な領域が個人農場、企業所有地、town lotへ区画化された。

第二に、大陸規模のtransport networkが成立した。transcontinental railroadは人・商品・軍隊・情報の移動速度を変え、AtlanticとPacificを一つのnational marketへ強く結びつけた。

第三に、Native nationsのterritorial sovereigntyが大幅に縮小した。war、treaty、executive order、reservation、allotmentを通じ、traditional territoryはより小さなfederally administered landsへ切り縮められた。

第四に、United StatesとNative nationsのformal diplomatic relationが変わった。1871年に新規treaty-makingが終了し、Congressional actsとadministrative policyによる一方的管理の比重が増した。

第五に、Indian policyの中心がmilitary conquestだけでなくassimilationへ移った。Carlisle boarding schoolとDawes Actは、Native societyをcollective political communityとしてではなく、English-speaking Christian individual farmersへ変えることを目指した。

第六に、西部は多民族労働社会として形成された。Chinese railroad labor、Black soldiers、European immigrants、Native labor・scoutsなどがwestern economyとstate-buildingを支えた一方、racial hierarchyとexclusionも同時に強まった。

第七に、Great Plainsのenvironmentが根本的に変化した。bison herdsが崩壊し、railroad、cattle ranching、fencing、commercial agricultureがgrassland利用を再編した。環境変化はNative economiesにもsettler economiesにも長期的影響を与えた。

第八に、西部拡張を正当化するnational mythが形成された。railroad ceremony、pioneer narrative、Custer memory、cowboy imageなどが「空いた大陸を個人の努力で開拓した」という物語を作った。その視覚文化・popular cultureは20世紀の映画、広告、美術にも大きな影響を与えることになる。

1862年から1890年までの西部は、単に国境線がPacificへ到達した時代ではない。土地の所有方法、移動速度、自然環境、民族関係、軍事力、citizenship、教育が同時に作り替えられた。Homestead Actでsettlerへ土地を与える国家と、Dawes Actでtribal landを個人parcelへ解体する国家は別々ではない。どちらも土地を測量し、所有者を定め、national marketとfederal lawへ組み込む同じ国家形成の一部だった。

主な出来事

  • 1862年5月20日 — LincolnがHomestead Actに署名。
  • 1862年7月1日 — Pacific Railway Act成立。Union Pacific・Central Pacificの建設支援を開始。
  • 1862年8–9月 — MinnesotaでU.S.–Dakota War。
  • 1862年12月26日 — Mankatoで38人のDakota男性が処刑される。
  • 1863年 — CongressがDakotaとのtreatiesを無効化し、多くのDakotaをMinnesotaから強制移住。
  • 1863年 — Central PacificがSacramentoからtranscontinental railroad建設を開始。
  • 1864年11月29日 — Sand Creek Massacre。Colorado volunteersがCheyenne・Arapaho villageを攻撃。
  • 1865–1868年 — Red Cloud War。Bozeman TrailとPowder River countryをめぐる戦争。
  • 1866年 — Regular ArmyにAfrican American regimentsが設置され、後にBuffalo Soldiersと呼ばれる。
  • 1867年 — Chinese railroad workersがSierra Nevadaで賃金・労働時間をめぐるstrike。
  • 1868年4–11月 — Fort Laramie Treatyの交渉・署名。Great Sioux Reservationを設定。
  • 1869年5月10日 — Promontory Summitで最初の大陸横断鉄道が接続。
  • 1869年 — Grant政権がPeace Policyを進め始める。
  • 1871年3月3日 — Congressが新たなIndian treaty-makingを終了。
  • 1870年代前半 — Great Plainsでcommercial bison huntingが急拡大。
  • 1874年 — Custer expeditionがBlack Hillsでgoldを確認し、miner流入が拡大。
  • 1875–1876年 — United StatesがLakotaへBlack Hills売却を要求。reservation外bandsとの緊張が激化。
  • 1876年6月25–26日 — Battle of the Little Bighorn。Lakota・Cheyenne側が7th Cavalryを破る。
  • 1877年 — United StatesがBlack HillsをGreat Sioux Reservationから取り上げる。
  • 1877年 — Nez Perce War。non-treaty bandsが1,170 miles以上移動した末に降伏。
  • 1877年 — PoncaがNebraskaのhomelandからIndian Territoryへ強制移住。
  • 1879年 — Standing Bear v. Crook。federal courtがNative Americanもhabeas corpus上の「person」と判断。
  • 1879年10月 — Carlisle Indian Industrial School開校。
  • 1881年 — Sitting BullがCanadaからUnited Statesへ戻り降伏。
  • 1882年 — Chinese Exclusion Act成立。西部形成を支えた中国人労働者への連邦排除政策が制度化。
  • 1887年2月8日 — Dawes Act成立。reservation landのindividual allotment policyを全国化。
  • 1889年4月22日 — Oklahoma Land Run。Unassigned Landsのsettlementを開始。
  • 1889–1890年 — Wovokaの教えからGhost Dance movementが広がる。
  • 1890年12月15日 — Sitting BullがStanding Rockで逮捕過程に死亡。
  • 1890年12月29日 — Wounded Knee Massacre。7th Cavalryの攻撃で多数のLakota男性・女性・子どもが死亡。

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西部で土地・鉄道・軍事力を通じた国家統合が進んでいた同じ時期、東部・中西部の都市では鉄道会社、鉄鋼、石油、金融を中心に巨大企業が成長し、移民労働、労働争議、富の集中が新しい社会問題となっていた。次は1870–1900|アメリカ|金ぴか時代 Gilded Age — 鉄道、巨大企業、都市化、富の集中、労働運動、移民へ進むことで、同じ大陸統合を「土地」と「産業」の両側から見ることができる。

参考資料・出典

資料確認日:2026年10月3日 / ART LIBRARY