Art Library
World History

1981–1996

アメリカ|AIDS Crisis

HIV/AIDS、政府対応、ACT UP、医療、偏見、Gay Community

1981年6月5日、Centers for Disease Controlは『Morbidity and Mortality Weekly Report』に、Los Angelesでそれまで健康だった若いgay men五人がPneumocystis pneumoniaを発症したという短い報告を掲載しました。二人はすでに死亡していました。後にこの報告は、アメリカでAIDS epidemicが公的に認識される出発点とみなされるようになります。

この時点では病気の原因も、感染経路も、名称すら分かっていませんでした。医師たちは通常なら重い免疫不全の患者にしか起こらないPneumocystis pneumoniaやKaposi sarcomaが、若い人々に集中して現れていることに気づき始めました。CDCは1981年夏にKaposi Sarcoma and Opportunistic Infections Task Forceを作り、各地から症例情報を集めました。

最初の報告がgay menに集中したことは、epidemiologyの手がかりであると同時に、深刻な社会的偏見を生む条件にもなりました。一部mediaや一般社会では病気が「gay disease」であるかのように理解され、患者が病気そのものだけでなく、sexual orientationへの差別、家族や職場からの排除、医療従事者の恐怖に直面しました。しかし1982年にはhemophilia患者、輸血を受けた人、女性、乳児でも症例が確認され、特定のidentityだけに限定された病気ではないことが明確になっていきます。

1982年9月、CDCはnational surveillanceのための症例定義を公表し、「Acquired Immune Deficiency Syndrome」、AIDSという名称を正式に使用しました。AIDSは一つの症状を指す病名ではなく、重度の免疫機能低下によって通常なら抑えられる感染症や特定のがんが発生するsyndromeとして定義されました。

その後、感染が血液と関係していることが分かるにつれて、血友病患者と輸血を受けた人々への危険が大きな問題になります。当時のhemophilia治療では多数のdonorsから集めたplasmaを濃縮したclotting factor productsが使われており、一人の感染者の血液がpoolへ混入すると多くの患者へ広がる可能性がありました。CDCは1982年7月にhemophilia患者のAIDS症例を報告し、同年12月には輸血を受けた乳児の症例を報告しました。

この事実は、病気を「特定の人々の生活様式」に帰属させる初期の理解を大きく揺さぶりました。National Library of Medicineが後に整理したように、1980年代初頭にはgay men、Haitians、hemophiliacs、heroin usersといういわゆる「4 H」の分類が広まりましたが、これはidentityそのものがriskなのではなく、血液・sexual contact・shared needlesなど感染経路が重要であるという理解を妨げ、特定communityへのstigmaを強めました。

政府の研究機関だけでなく、gay community自身も非常に早い段階から対応を始めました。New Yorkでは1982年、Gay Men’s Health Crisis、GMHCが設立され、hotline、患者支援、医療情報、home care、fundraisingなどを行いました。New York Public Libraryが保存するGMHC recordsは、草の根initiativeが短期間で大規模なAIDS service organizationへ発展した過程を記録しています。

San Francisco、Los Angeles、New Yorkなどではgay men自身がsexual behaviorと感染riskについて情報を交換し、「safer sex」という実践を作っていきました。これは政府が有効な予防campaignを確立するより早く、community内部で病気の情報を共有し、性行為を完全に放棄するのではなくriskを減らす方法を模索したものでした。

1983年にはDenverで開かれたNational Lesbian and Gay Health ConferenceにPeople with AIDS自身が集まり、後にDenver Principlesと呼ばれる声明をまとめました。彼らは自分たちを一方的に「victims」と呼ぶことを拒み、医療、研究、政策決定の場でPeople with AIDS自身が参加する権利を主張しました。患者を医療の受動的対象ではなく、knowledgeとdecision-makingを持つ主体として扱う考え方は、その後のAIDS activismとpatient advocacyに大きな影響を与えます。

同じ1983年、FranceのInstitut PasteurのLuc MontagnierらのgroupがAIDSと関連するretrovirusを分離し、LAVと呼びました。1984年にはNational Cancer InstituteのRobert GalloらもHTLV-IIIと呼ぶvirusをAIDSの原因として報告しました。複数の研究groupによる発見、特許、virus sampleをめぐって長い論争が起こりましたが、医学的にはAIDSがretrovirusによる感染症であるという理解が確立します。1986年、国際的な命名としてHuman Immunodeficiency Virus、HIVが採用されました。

virusが特定されたことで、感染を検出する検査の開発が可能になりました。1985年3月、FDAは最初のHIV antibody testを認可し、アメリカの約2,300のblood banks and plasma centersでscreeningが始まりました。この検査はAIDSを発症しているかどうかではなく、HIVに対するantibodyを検出するものでした。血液供給の安全性を大きく改善する一方、HIV-positiveという新しいmedical and social categoryを生み出しました。

検査可能になったことで、症状がない人でもHIVに感染していることが分かるようになりました。これは「AIDS患者」だけを追跡する段階から、長い無症候期間を含むHIV infectionそのものを考える段階への移行でした。同時に、testing resultsがemployment、insurance、housing、immigrationなどで差別に使われる可能性への懸念も生まれ、confidentialityとinformed consentが重要な政策問題となります。

1985年にはIndiana州の13歳のRyan Whiteが全国的に知られるようになりました。血友病治療の血液製剤からHIVに感染したWhiteは、AIDS diagnosis後に学校への登校を拒まれました。医学的にはcasual contactでHIVが感染しないことが分かり始めていたにもかかわらず、parents and residentsの恐怖によって長いlegal and public conflictが起きました。

Ryan Whiteは、AIDSがgay menだけの病気ではないことを一般社会へ示す象徴になりました。しかし彼を「innocent victim」と呼び、sexual transmissionやdrug useによって感染した人と道徳的に区別する語り方も広まりました。White自身はそのような区別に反対し、すべてのPeople with AIDSへの理解を訴えました。National Library of Medicineは、彼がpublic sympathyとhostilityの双方を受けながらAIDS discriminationを可視化した人物として記録しています。

Reagan administrationのAIDS対応をめぐる評価は現在も政治的・歴史的議論があります。連邦研究費は1980年代前半から増加し、1982年にはNIHがAIDS-related fundingを識別し、1983年にはCongressがAIDS research and treatmentに特定した最初の資金法案を成立させました。Reagan自身も1985年9月のpress conferenceで連邦政府が研究へ資金を投入していると述べています。

一方、患者団体、医師、活動家の多くは、epidemicの急速な拡大に比べWhite Houseのpublic leadershipとprevention messageが遅いと批判しました。National Library of MedicineのAIDS史展示も、1980年代前半のgovernment responseをsilence、stigma、資金不足を伴うものとして描いています。したがって「政府が何もしなかった」という表現も、「十分に対応した」という表現も単純すぎます。研究・surveillanceへの支出は進む一方、national political messagingとcommunity careは大きく遅れたという二つの側面がありました。

1986年、Surgeon General C. Everett Koopは『Surgeon General’s Report on AIDS』を発表しました。KoopはHIVがcasual contactやmosquitoesでは感染しないことを説明し、sex education、condom use、shared needleの回避を含む具体的な予防情報を提示しました。彼はAIDS対策を道徳的な人々の選別ではなくpublic health educationとして扱うことを強く主張しました。

Koopの方針はReagan administration内部の一部conservative officialsとは一致しませんでした。abstinence and monogamyを重視するだけでなくcondomとsexual practicesを率直に説明したためです。しかしpublic-health perspectiveからは、感染経路を曖昧にせず具体的に伝えることが必要だとKoopは考えました。

1987年にはCDCがAmerica Responds to AIDSという大規模national information campaignを開始しました。1988年5月から6月には『Understanding AIDS』約1億700万部が全米のほぼすべての家庭・住宅post office boxへ郵送されました。CDCは、重大なpublic-health problemについて連邦政府がmailでほぼすべての住民へ直接情報を送った初めての試みと説明しています。

1987年は治療とactivismの双方で大きな転換点でした。3月、FDAはzidovudine、AZTをAIDS治療の最初のantiretroviral drugとして承認しました。AZTはHIV replicationを完全に止める薬ではなく、当初のhigh-dose regimenには強い副作用があり、価格も非常に高額でした。それでも、AIDSに対して直接作用する最初の承認薬が生まれたことは大きな医学的転換でした。

同月、New YorkでAIDS Coalition to Unleash Power、ACT UPが結成されました。New York Public Libraryによれば、ACT UPは1987年3月にLesbian and Gay Community Centerで成立し、3月24日にWall Streetで最初の大規模demonstrationを行いました。pharmaceutical companiesのpricing、FDAのdrug approval process、政府の遅い対応を批判し、direct actionとcivil disobedienceを用いました。

ACT UPの特徴は怒りをpublic protestへ変えただけではありません。membersはclinical trial design、drug regulation、epidemiology、insurance、hospital policyなど高度にtechnicalな情報を学び、scientists and regulatorsと同じtableで議論できるexpertiseを蓄積しました。AIDS activismは「患者は専門家の判断を待つ存在」という従来のmedical hierarchyを変えていきました。

同じ1987年、AIDS Memorial QuiltがWashington, D.C.のNational Mallに初めて大規模展示されました。Cleve Jonesらが設立したNAMES Projectによるもので、最初のNational Mall displayでは1,920 panelsが広げられました。Smithsonianによれば50万人を超える来場者が訪れ、亡くなった人の名前と生活を一枚ずつ可視化しました。

Quiltは死亡者数というstatisticsを、個々の名前、衣服、写真、言葉、handmade materialへ変換しました。AIDSで死亡した人々が新聞の数字や匿名の「risk group」ではなく、それぞれfamily、friends、partners、jobs、hobbiesを持つ人間だったことをpublic spaceで示しました。1996年のNational Mall展示では約40,000 panelsが広げられ、およそ120万人が訪れたとSmithsonianは記録しています。

1987年7月、ReaganはPresidential Commission on the Human Immunodeficiency Virus Epidemicを設置しました。commissionはpublic-health、medical care、ethics、law、behaviorなどを検討し、1988年6月にfinal reportを提出しました。この時点で連邦政府のAIDS responseはresearch fundingだけでなく、testing、education、discrimination、care deliveryを含む全国政策として制度化され始めました。

一方で同じ1987年、United StatesはHIV infectionをimmigration medical examinationで入国拒否対象となる「dangerous contagious disease」のlistへ加えました。CDCの後年の旅行医学史は、このtravel and immigration restrictionがpublic-health principlesに基づいていないとの批判を受けたことを記録しています。restrictionはこの時代を超えて長く残り、完全撤廃は2010年でした。

1988年10月11日、ACT UPを中心とするactivistsはMaryland州RockvilleのFDA本部を包囲しました。FDA自身の歴史展示は、数百人のactivistsがdrug approval processの遅さとexperimental treatmentsへのaccess不足を抗議したと記録しています。protestはAIDS patientsのdrug-development processへの参加をnational issueにしました。

FDAはAIDS crisisの中でInvestigational New Drugへのexpanded access、accelerated approvalなどの制度を整備していきました。FDAのofficial historyは、ACT UPの1988年protestが患者のconcernsをpublicly可視化し、新しいtreatment regulationsとaccelerated approvalの発展を後押ししたと説明しています。

この時期、AIDS epidemicはgay menだけでなく、Black and Latino communities、people who inject drugs、そのsexual partners、女性、子どもへ大きく広がっていました。CDCは1989年、最初の100,000 AIDS casesのうち61%がinjecting-drug use歴のないgay/bisexual men、20%がfemale or heterosexual male injecting-drug usersだったと報告しました。epidemicがsexual networksとdrug-use networksの双方で進行していたことが分かります。

raceとclassの格差も拡大しました。Black and Latino communitiesではpoverty、health-care access、housing、incarceration、drug policy、medical mistrustなどがprevention and treatment accessへ影響しました。1996年CDCはAIDS-related illnessのincidence ratesがnon-Hispanic Black and Hispanic populationsでwhite populationより高かった背景として、health-care access、socioeconomic disadvantage、language and cultural barriersなど複数要因を挙げています。

女性のAIDSも長く見えにくい問題でした。初期のCDC AIDS case definitionはgay menに多かったopportunistic infectionsを中心に作られており、女性に見られる重いcervical diseaseなどがdefinitionに含まれないため、実際に重病でもAIDS diagnosisを得にくいという批判が生じました。diagnosisはsurveillance statisticsだけでなく、disability benefitsやspecialized servicesへのaccessとも結びついていました。

ACT UP Women’s Caucusなどはこの問題を強く批判しました。National Library of Medicineは、1990年にactivistsがDepartment of Health and Human ServicesとCDCへ対し、女性の症状を反映するようAIDS definitionを変えることを要求した歴史を記録しています。女性自身がresearch subjects、clinical trials、diagnostic criteriaへ含まれることを求めた運動は、AIDS activismをgender politicsへ広げました。

1990年5月21日、ACT UP各地のmembersはNational Institutes of Healthで「Storm the NIH」と呼ばれるprotestを行いました。clinical trialsが遅く、試験対象者のselectionが狭く、experimental drugsへのaccessが不十分だと批判しました。National Library of Medicineは、このactivismがNIHのtrial processとpatient participationを変える大きな圧力となったと整理しています。

ACT UPのTreatment and Data Committeeは「parallel track」という考え方を推進しました。experimental drugのformal clinical trialへ参加できない重症患者にも、一定の条件で治験薬をaccessできる別経路を作るという提案です。National Academiesの当時のreviewは、このconceptがAIDS activist communityから生まれ、NIH・FDAとの政策協議へ入ったことを記録しています。

1990年にはRyan White Comprehensive AIDS Resources Emergency、CARE Actが成立しました。Ryan Whiteは同年4月に18歳で死亡し、8月にlawが成立しました。現在のHealth Resources and Services Administrationによれば、このprogramはHIV careへ十分アクセスできない低所得・無保険・保険不足の人々へ、states、cities、counties、community organizationsを通じてmedical and support servicesを提供する制度として始まりました。

Ryan White CARE ActはAIDS policyをresearch and preventionだけでなく、長期的なcare infrastructureへ広げました。epidemicが大都市のhospital、community clinics、home care、housing、mental health、case managementに大きな負担を与える中、「治療薬が開発されるまで患者をどう支えるか」が連邦政策の恒常的領域になりました。

1991年11月7日、Los Angeles LakersのEarvin “Magic” JohnsonがHIV-positiveであることを公表し、professional basketballからのretirementを発表しました。彼が当時健康に見える著名なheterosexual athleteだったことは、HIVが特定のsexual identityの人にだけ関係するという誤解を崩す大きなpublic eventとなりました。CDCはJohnsonの発表前後でHIV testing and risk behaviorへの関心が変化したかを調査するほど、その社会的影響を重視しました。

1993年1月1日、CDCはAIDS surveillance case definitionを大幅に拡張しました。HIV-positiveでCD4+ T lymphocyte countが200 cells/µL未満、または14%未満の人をAIDS caseに含め、さらにpulmonary tuberculosis、recurrent pneumonia、invasive cervical cancerを追加しました。

このdefinition changeは女性とpeople of colorの症例をより適切に把握するうえで重要でした。1993年第1四半期には新definitionの導入によってAIDS case reportsが前年同期比で204%増加しました。これはepidemicが突然三倍になったという意味ではなく、それまでsurveillance definitionから外れていたHIV-positive peopleを新たに数えるようになった影響が大きいものでした。

同年のNIH Revitalization Actは、NIH-supported clinical researchにwomen and racial and ethnic minoritiesを含めることを法律上要求しました。AIDS activismだけがこのlawを生んだわけではありませんが、AIDS clinical trialsをめぐる女性・Black・Latino activistsの批判は、medical researchが誰をstandard patientとして想定するのかという全国的問題を強く可視化しました。

1994年にはperinatal transmission preventionで大きなbreakthroughがありました。ACTG Protocol 076は、HIV-positive pregnant womenへ妊娠中・分娩時にAZTを投与し、新生児にも6週間投与するregimenによってmother-to-child transmissionを約3分の2減らせることを示しました。試験は効果が明確になったため予定より早く中止され、regimenは急速にstandard of careになりました。

この成果は「治療薬が患者本人の病気進行を遅らせる」だけでなく、「薬によってHIV transmissionそのものを大幅に防げる」という重要な転換でした。妊婦へのHIV counseling and testing、prenatal careへのaccessが小児HIV preventionの中心政策となります。

一方、1995年までepidemicの人的被害は依然として非常に大きいものでした。CDC surveillance reportによれば、1995年末までに513,486人のAIDS casesが報告され、その62%以上が死亡していました。HIV infectionは1995年に25–44歳のアメリカ人のleading cause of deathとなりました。

しかし1995年末から1996年に治療は新しい段階へ入ります。1995年12月、FDAはsaquinavirを最初のHIV protease inhibitorとして承認しました。1996年にはritonavirとindinavirなどが加わり、異なる作用機序の薬を組み合わせることが可能になります。

NIAIDによれば1996年にはprotease inhibitorと二種類のnucleoside reverse transcriptase inhibitorsを組み合わせるtriple-drug therapyがHIV replicationを持続的に低い水準へ抑えられることが臨床試験で示されました。この治療はHighly Active Antiretroviral Therapy、HAARTと呼ばれ、AIDS treatmentの歴史を大きく変えます。

薬を一種類ずつ使うmonotherapyではHIVが薬剤耐性を獲得しやすく、効果が長続きしませんでした。複数薬を同時に使ってvirus replicationを強く抑制することで、immune functionの回復とopportunistic infectionsの減少が可能になりました。HIV infectionは直ちに治癒する病気にはなりませんでしたが、多くの患者にとって急速に死へ向かう病気から長期管理可能なchronic conditionへ変わる可能性が生まれました。

その変化はpopulation statisticsにも現れ始めました。CDCは1996年前半のAIDS deathsが前年同期より13%減少したと報告しました。1995年には約50,000人だったAIDS-related deathsが、1996年には明確な減少へ転じます。これはcombination antiretroviral therapy、opportunistic infection prophylaxis、medical care improvementsが重なった結果でした。

ただし1996年を「AIDS Crisisが終わった年」とすることはできません。新薬は高価で、医療保険、専門clinic、安定したhousing、継続的な服薬管理へaccessできない人々には十分届きませんでした。CDCは1996年の死亡減少がracial and ethnic groupsで同じ速度ではなかったことを報告しており、女性の死亡は同年上半期にむしろ増加していました。

治療成功が明確になるほど、「誰がその治療へaccessできるのか」という問題が中心になります。1980年代にAIDS activismがdrug approvalの速度を問題にしたのに対し、1990年代半ばにはinsurance、Medicaid、Ryan White funding、poverty、race、housing、drug use、incarcerationなどhealth-care system全体の格差がより重要になりました。

1981–1996年のAIDS Crisisがアメリカ社会へ残した変化は医療だけではありません。患者自身がclinical researchのdesignに参加する仕組み、experimental treatmentへのexpanded access、community advisory boards、public-health communication、sexual-health education、anti-discrimination advocacyなど、後の多くの病気で使われる制度と運動手法がこの時期に作られました。

またAIDSはgay and lesbian politicsも変えました。1970年代Gay Liberationで「visibility」と「pride」を掲げたcommunityは、1980年代には友人、恋人、家族を大量に失いながら、hospital care、funeral、insurance、legal recognition、medical research、housingをめぐる具体的制度と向き合うことになりました。同性partnerがlegal familyとして認められないため、病室への面会や遺産、住居で問題を経験する人々もいました。

一方、AIDSを「gay history」だけに閉じ込めることもできません。hemophilia patients、transfusion recipients、women、children、people who inject drugs、Black and Latino communities、immigrantsなど多様な人々がepidemicの影響を受けました。early gay community activismが重要だったことと、epidemic全体がgay menだけのものではないことは同時に理解する必要があります。

1981年に原因不明の五症例から始まったpublic-health crisisは、1996年にはvirus biology、diagnostic testing、antiretroviral treatment、patient activism、federal care programsを持つ巨大な医療制度へ変わっていました。しかしその過程で何十万人もの人々が病気と差別の双方によって命を失いました。AIDS Crisisの歴史は医学が病原体を発見した物語だけではなく、誰の死が社会から緊急事態として認識されるのか、患者が専門知へどう参加するのか、医療を誰が受けられるのかを問い直したアメリカ社会史でもあります。

CONTENTS

  1. 1981年6月5日 — CDC最初の報告
  2. Pneumocystis pneumoniaとKaposi sarcoma
  3. CDC Task Force
  4. 「gay disease」という誤解と偏見
  5. 1982年 AIDSという名称
  6. 最初のnational surveillance definition
  7. 血友病患者の症例
  8. 輸血と乳児の症例
  9. 血液製剤と感染risk
  10. 「4 H」分類が生んだstigma
  11. 1982年 Gay Men’s Health Crisis
  12. communityから生まれたsafer sex
  13. 1983年 Denver Principles
  14. People with AIDSという自己定義
  15. AIDS原因virusの同定
  16. LAVとHTLV-III
  17. HIVという名称
  18. 1985年 最初のHIV抗体検査
  19. blood supplyのscreening
  20. HIV-positiveという新しいcategory
  21. Ryan Whiteと学校排除
  22. 「innocent victim」という語りの問題
  23. 連邦政府の初期対応
  24. Reagan政権とAIDS
  25. 1986年 Surgeon General’s Report
  26. condom・sex education・public health
  27. America Responds to AIDS
  28. 1988年 Understanding AIDS全国郵送
  29. 1987年 AZT承認
  30. AZTの価格とaccess
  31. 1987年 ACT UP結成
  32. Wall Street demonstration
  33. activistsが専門知を獲得する
  34. AIDS Memorial Quilt
  35. public mourningと名前
  36. Presidential Commission on HIV
  37. 1987年 HIV immigration restriction
  38. 1988年 FDA protest
  39. drug approval制度の変化
  40. Black・Latino communities
  41. people who inject drugs
  42. 女性のAIDSが見えにくかった理由
  43. ACT UP Women’s Caucus
  44. 1990年 Storm the NIH
  45. Parallel Track
  46. 1990年 Ryan White CARE Act
  47. community care infrastructure
  48. 1991年 Magic Johnson
  49. 1993年 AIDS症例定義の拡大
  50. CD4 200未満という基準
  51. invasive cervical cancerの追加
  52. NIH Revitalization Act
  53. 1994年 ACTG 076
  54. 母子感染を約3分の2減少
  55. 1995年 50万人を超えるAIDS cases
  56. 25–44歳のleading cause of death
  57. 1995–1996年 protease inhibitors
  58. 1996年 triple-drug therapy / HAART
  59. 1996年 AIDS deathsの減少
  60. 治療成功とaccess格差
  61. clinical researchと患者参加の変化
  62. Gay Communityへの長期的影響
  63. AIDSをgay historyだけにしない
  64. 1981–1996年に何が変わったのか
  65. 1981–1996年の主な出来事
  66. 次の記事へ
  67. 参考資料・出典

1981年6月5日 — CDC最初の報告

CDCの最初のMMWR reportは、Los Angelesのthree hospitalsで治療を受けたfive young menのPneumocystis carinii pneumoniaを報告しました。all five were described in当時のmedical terminology as homosexual menで、二人はreport publicationまでに死亡していました。

PCPは通常、severe immune suppressionがない若い成人にはほとんど見られないinfectionでした。そのためfive casesのclusterは、未知の免疫系疾患が存在する可能性を示しました。

MMWR publication後、New York、San Franciscoその他のcitiesから類似case reportsが相次ぎ、local clinical observationがnational surveillanceへ変わりました。

Pneumocystis pneumoniaとKaposi sarcoma

1981年夏までにgay menの間でPneumocystis pneumoniaだけでなくKaposi sarcomaの症例も増えていることが確認されました。

Kaposi sarcomaは当時United Statesでは主に高齢男性などに見られるrare cancerと考えられており、若い男性でのclusterは非常に異例でした。

異なる病気が同じpopulationに集中したことから、医師はそれぞれを別のdiseaseとして見るのではなく、共通のimmune dysfunctionが基礎にある可能性を考えるようになりました。

CDC Task Force

CDCは1981年夏にKaposi Sarcoma and Opportunistic Infections Task Forceを組織しました。

目的はcase reportsを集め、共通するmedical history、sexual contacts、drug use、blood exposureなどを調査し、transmission patternを明らかにすることでした。

初期調査には誤ったhypothesesも含まれましたが、public-health surveillanceによって感染性agentが存在する可能性が次第に強まりました。

「gay disease」という誤解と偏見

最初の症例がgay menに集中して報告されたため、病気は早い段階からhomosexualityそのものと結びつけられました。

この理解は医学的に誤っていただけでなく、患者が家族、職場、住宅、medical careで差別される原因になりました。

epidemiologyでは最初のclusterを正確に記録する必要がありますが、risk groupという表現がidentityを病気の原因として扱う社会的stigmaへ変換される危険も、このepidemicで明確になりました。

1982年 AIDSという名称

1981–82年にはGay-Related Immune Deficiencyなど複数のtemporary namesが使われました。

しかしgay men以外にも症例が確認される中、CDCは1982年9月にAcquired Immune Deficiency Syndrome、AIDSという名称とnational case definitionを公表しました。

名称の変更は、病気をsexual identityではなくacquired immune dysfunctionとして捉える重要な転換でした。

最初のnational surveillance definition

1982年のAIDS case definitionはclinical and epidemiologic surveillanceのための定義でした。

原因virusをまだ直接測定できなかったため、特定のopportunistic infectionsやKaposi sarcomaなどと、既知の免疫不全原因がないことを組み合わせてcaseを数えました。

surveillance definitionはmedical diagnosisそのものと完全に同じではありませんが、政府がepidemicの規模を測定しfunding and servicesを計画する基礎となりました。

血友病患者の症例

1982年、CDCはhemophilia patientsにAIDS-like immune deficiencyが起きていることを報告しました。

hemophilia patientsはclotting factor concentrateを繰り返し使用しており、製品は多数のblood donorsから集めたplasmaをpoolして作られていました。

sexual contact以外でも感染が起きることは、病原体がbloodを通じて伝播するというhypothesisを強く支持しました。

輸血と乳児の症例

1982年12月、CDCはSan Francisco areaの20-month-old infantが輸血後に重いimmune deficiencyを発症したcaseを報告しました。

infantは多数donorsからblood productsを受けており、その一人が後にAIDSを発症していました。

このcaseはtransfusion-associated transmissionの重要なevidenceとなり、blood supply safetyをnational priorityへ変えました。

血液製剤と感染risk

blood and plasma productsの安全性はhemophilia communityにとって特に深刻でした。

factor concentrateのpooling systemでは多数のdonorsが一つの製品batchへ関与するため、一人のinfected donationが多くのpatientsへ影響する可能性がありました。

後にheat treatment、donor screening、HIV antibody testingが導入され、blood-product transmission riskは大きく低下していきます。

「4 H」分類が生んだstigma

1980年代初頭、一部medical and media discourseではhomosexuals、Haitians、hemophiliacs、heroin usersをまとめた「4 H」という表現が使われました。

National Library of Medicineは、この分類がidentityをriskそのものとして扱う誤った理解を広げ、Haitian、gay、drug-using communitiesへのstigmaを強めたと説明しています。

感染riskを理解するには「誰であるか」ではなく、どのようなexposure routeがあるかを見る必要がありました。

1982年 Gay Men’s Health Crisis

New Yorkでは1982年、Gay Men’s Health Crisis、GMHCが設立されました。

当初は小規模なgay communityのgrassroots organizationでしたが、hotline、buddy program、home care、public education、fundraising、legal supportなどを急速に拡大しました。

New York Public LibraryのGMHC archiveは、government and hospital systemsだけでは提供できない日常のcareをcommunity organizationsが担ったことを示しています。

communityから生まれたsafer sex

gay men自身は感染経路の科学的確定を待たず、sexual networksの中でrisk reductionを考え始めました。

1982年にはMichael CallenとRichard Berkowitzらがspecific sexual practicesのriskを分析し、condomやsexual behavior modificationを含むsafer-sex approachを提案しました。

これはsexualityを完全に否定するのではなく、available evidenceをもとにinfection riskを減らすcommunity-based public healthでした。

1983年 Denver Principles

1983年DenverのNational Lesbian and Gay Health ConferenceでPeople with AIDSのgroupが自分たちのrights and recommendationsをまとめました。

statementは、自分たちを敗北した「victims」や受動的な「patients」としてだけ扱うことを拒否しました。

medical providers、researchers、media、community organizationsに対してPeople with AIDSをdecision-makingへ参加させることを求めました。

People with AIDSという自己定義

Denver Principlesで重要だったのは、People with AIDS、PWAという自己定義でした。

病気の人をcareのobjectではなくpolitical and medical subjectとして扱い、治療選択、研究、public representationに本人が参加することをrightsとして主張しました。

後のACT UP、community advisory boards、patient advocacy movementsはこの思想をさらに制度化していきます。

AIDS原因virusの同定

1983–84年、複数のresearch groupsがAIDSと関連するretrovirusを分離しました。

Institut PasteurのLuc Montagnier、Françoise Barré-Sinoussiらは1983年にLAVと呼んだvirusを報告し、Robert GalloらNational Cancer Institute teamは1984年にHTLV-IIIと呼ぶvirusをAIDS patientsから多数検出しました。

scientific priorityとpatentをめぐるcontroversyは長く続きましたが、AIDSの原因が特定のhuman retrovirusであるというscientific consensusは急速に形成されました。

LAVとHTLV-III

LAVとHTLV-IIIは当初別々の名称で呼ばれました。

研究group間ではvirus sample、diagnostic test patent、discovery creditをめぐる国際的論争がありました。

この論争と並行して、virus biologyの理解、antibody testing、antiviral drug researchは急速に進みました。

HIVという名称

1986年、international scientific committeeはvirusの名称をHuman Immunodeficiency Virus、HIVへ統一しました。

この名称はAIDSというclinical syndromeと、その原因virusであるHIVを区別するためにも重要でした。

HIVに感染していても長期間AIDSを発症しない人がいるため、「HIV」と「AIDS」は同義語ではありません。

1985年 最初のHIV抗体検査

1985年3月4日、FDAは最初のHIV antibody testをlicenseしました。

testはblood中のHIV antibodyを検出し、exposureの有無を判断するもので、AIDS symptomsの有無を直接測定するものではありませんでした。

FDAは約2,300のblood banks and plasma centersへのdistributionを認め、donated blood screeningが全国的に始まりました。

blood supplyのscreening

HIV antibody testing、donor screening、blood-product processing improvementsによってtransfusion-associated HIV riskは大きく減少しました。

FDAはAIDS epidemic以前のblood safety systemが未知のvirusへ十分準備されていなかったことを後のhistoryで認めています。

blood safetyはinfectious-disease surveillance、manufacturing standards、laboratory testingを統合する制度へ変化しました。

HIV-positiveという新しいcategory

antibody testの導入で、AIDS symptomsがないHIV-positive peopleが大量に存在することが明確になりました。

medical careではearly counseling and monitoringが可能になった一方、test resultを誰が知るのか、insurance companyやemployerが利用できるのかというprivacy and discrimination問題が生まれました。

voluntary testing、informed consent、confidentialityはAIDS policyの中心的な倫理課題となりました。

Ryan Whiteと学校排除

IndianaのRyan Whiteはhemophilia Aの治療に使われたblood productからHIVに感染し、1984年にAIDSと診断されました。

1985年、school officials and parentsは感染への恐怖から彼のschool attendanceに反対しました。

medical authoritiesはcasual classroom contactでHIVが感染しないと説明しましたが、復学をめぐる法的・地域的対立は長く続きました。

「innocent victim」という語りの問題

Ryan Whiteはpublic sympathyを集め、HIVがgay menだけの問題ではないことを広く知らせました。

しかしblood productから感染した患者を「innocent」と呼び、sexual contactやshared needlesを通じて感染した人を暗に責めるmoral hierarchyも生まれました。

White自身はAIDS患者を感染経路によって価値づけることに反対し、すべての患者へのcompassion and educationを求めました。

連邦政府の初期対応

federal agenciesは1981年からsurveillance and researchを開始し、CDC、NIH、FDAなどでAIDS-related workが拡大しました。

NIH Office of AIDS Researchのhistoryでは、1982年にNIHがHIV/AIDS fundingを識別し、1983年にCongressがAIDS research and treatmentを明示した最初のHHS funding legislationを成立させたとしています。

一方、患者care、prevention communication、housing、anti-discriminationなどは地域政府とcommunity organizationsへの依存が大きく、national responseには大きな地域差がありました。

Reagan政権とAIDS

Reagan administrationへのhistorical評価では、研究予算の増加と大統領によるpublic leadershipの遅さを分けて考える必要があります。

1985年9月17日のpress conferenceでReaganはAIDS researchがadministrationのpriorityであり、複数年度で5億ドル以上を投入していると説明しました。

一方、AIDS organizationsとpublic-health advocatesは、epidemicが1981年から急速に拡大したのに、White Houseが全国的prevention messageを強く発するまで数年を要したと批判しました。

1986年 Surgeon General’s Report

1986年、Reaganの要請を受けSurgeon General C. Everett KoopがAIDS reportを作成しました。

reportは感染経路、sexual and bloodborne transmission、testing、preventionをplain languageで説明しました。

Koopはcompulsory testing、quarantine、HIV-positive peopleへのvisible markingなど一部で提案されていた強制策を支持せず、educationを中心に置きました。

condom・sex education・public health

Koopはabstinence and mutually faithful monogamyを安全な選択として説明すると同時に、sexual activityを続ける人にはcondom useがinfection riskを下げる重要な手段だと明記しました。

またAIDS educationをschool health educationに含めるべきだと主張しました。

conservative administration内でsexual practicesを具体的に説明することには反発がありましたが、Koopはpublic health informationを曖昧にする方が危険だと考えました。

America Responds to AIDS

1987年、CDCはAmerica Responds to AIDS、ARTA campaignを開始しました。

目的はHIV transmissionに関する誤解を減らし、prevention、testing、counselingの情報をnational levelで提供することでした。

campaignではgeneral populationだけでなく、Black and Hispanic communities、women、young peopleなどへ対象を分けたmaterialsも作られました。

1988年 Understanding AIDS全国郵送

1988年5月26日から6月30日、CDCは『Understanding AIDS』約107 million copiesを全米のすべてのhouseholds and residential post-office boxesへ郵送しました。

CDCは重大なpublic-health problemについてfederal governmentがmailでほぼ全国民へ直接contactする最初の試みと説明しています。

brochureはHIVがcasual contactでは広がらないこと、sexual and blood exposureで感染すること、prevention methodsを明確に説明しました。

1987年 AZT承認

1987年3月、FDAはzidovudine、AZTをAIDSに対する最初のantiretroviral treatmentとして承認しました。

AZTはHIV reverse transcriptaseの働きを阻害しvirus replicationを減らすnucleoside analogueでした。

当時は他のapproved antiretroviralsがなく、approvalは患者と医師に初めてvirusそのものをtargetとする治療optionを与えました。

AZTの価格とaccess

AZTは当初非常に高価で、high-dose regimenによるtoxicityも大きな問題でした。

FDA historyによれば高価格が低所得患者のaccessを妨げ、Congressは1987年にstatesへAZT購入のため30 million dollarsのemergency fundingを認めました。

drug innovationだけでなく、誰が薬を買えるかがAIDS treatment policyの中心課題になりました。

1987年 ACT UP結成

1987年3月、New York CityのLesbian and Gay Community CenterでAIDS Coalition to Unleash Power、ACT UPが結成されました。

organizationはdirect action、civil disobedience、media strategyを使ってgovernment、pharmaceutical companies、insurance companies、hospitals、religious institutionsなどへ圧力をかけました。

ACT UPは全国と国外へchaptersを拡大し、AIDS activismの最も影響力のあるnetworkの一つになりました。

Wall Street demonstration

1987年3月24日、ACT UPはWall Streetで最初の大規模actionを行いました。

New York Public LibraryのACT UP archiveは、activistsがdrug pricingとFDA approval processを批判し、Burroughs WellcomeのAZT価格を主要issueの一つにしたと記録しています。

17人がarrestされましたが、demonstrationはACT UPの名前とAIDS drug policyをnational mediaへ広げました。

activistsが専門知を獲得する

ACT UPの重要性はprotestのvisual impactだけではありません。

Treatment and Data Committeeを中心にmembersはclinical trial protocol、surrogate markers、toxicity、FDA regulation、epidemiologyを学び、scientists and government officialsへtechnical proposalsを提出しました。

National AcademiesはAIDS activismがclinical trials processへ前例のない影響を与えたと分析しています。

AIDS Memorial Quilt

1987年、Cleve Jonesらが設立したNAMES Project FoundationはAIDS Memorial QuiltをNational Mallで展示しました。

October 11の最初のWashington displayでは1,920 panelsが広げられ、各panelがAIDSで亡くなった個人をmemorializeしました。

Smithsonianはこのdisplayにhalf a millionを超えるvisitorsが訪れたと記録しています。

public mourningと名前

AIDS Memorial Quiltはmass deathをpublicly mournする場を作りました。

患者の死が家族に隠されたり、funeralでAIDSという言葉を避けられたりする時代に、名前を大きくpublic spaceへ出すこと自体がpolitical actでした。

1996年National Mall displayでは約40,000 panelsが広げられ、Smithsonianによれば約1.2 million visitorsが訪れました。

Presidential Commission on HIV

1987年7月、ReaganはPresidential Commission on the Human Immunodeficiency Virus Epidemicを設置しました。

commissionはmedical researchだけでなくhealth care delivery、ethics、law、behavior、educationなどを検討しました。

1988年のfinal reportはnational AIDS policyの継続的調整を求め、後のNational Commission on AIDSへつながりました。

1987年 HIV immigration restriction

同じ1987年、HIV infectionはUnited Statesへのimmigration medical examinationでexclusion対象となるdisease listへ加えられ、permanent-residence applicantsにはHIV testingが導入されました。

CDC Yellow Bookのhistorical overviewは、このrestrictionがpublic-health groundsを欠くとしてactivists and expertsから広く批判されたと記録しています。

restrictionは1990年代も続き、この時期のAIDS policyがeducation and treatment expansionだけでなくexclusionary measuresも含んでいたことを示します。

1988年 FDA protest

1988年10月11日、hundreds of AIDS activistsがFDA headquartersを包囲しました。

activistsはterminally ill patientsに対しdrug approvalが遅すぎ、experimental drugsへのaccessも狭すぎると主張しました。

FDA自身のhistoryは、このprotestがpatient concernsをpublicizeし、drug-development policyの変更を促す重要なpressureになったと認めています。

drug approval制度の変化

AIDS crisisの中でFDAはtraditional approval processだけではterminal illnessへ対応できないという問題に直面しました。

1987年にはtreatment IND rulesが導入され、clinical trial外でも一定条件でinvestigational drugsを使えるexpanded accessが進みました。

その後accelerated approval regulationsも整備され、surrogate endpointsなどを用いて重篤疾患薬を早く承認する制度の基礎となりました。

Black・Latino communities

1980年代後半になるとAIDS burdenはBlack and Latino communitiesで急速に大きくなりました。

poverty、limited health-care access、housing instability、incarceration、drug-use networks、language barriersなどがtesting、prevention、early treatmentへ影響しました。

CDCはminority community organizationsへのprevention supportを拡大しましたが、AIDSをwhite gay male epidemicとして描くmedia imageとのgapは長く残りました。

people who inject drugs

shared needlesを通じたHIV transmissionはNew York、New Jerseyなど一部urban areasでepidemicの大きなrouteとなりました。

people who inject drugs自身だけでなくsexual partnersやinfantsへ感染networkが広がるため、drug policyとHIV preventionは切り離せませんでした。

needle exchangeなどharm-reduction policiesは感染予防の可能性とdrug useを助長する懸念をめぐり激しいpolitical controversyとなり、地域によって政策が大きく異なりました。

女性のAIDSが見えにくかった理由

初期AIDS surveillance definitionは最初に多く観察されたgay menのopportunistic infectionsを中心に形成されました。

女性に多く現れるsevere gynecological conditionsや別のsymptom patternsがdefinitionへ十分反映されず、HIV-positive womenが重病でもAIDS diagnosisを得にくいことがありました。

診断categoryはstatisticsだけでなくMedicaid、disability、housing and AIDS-specific servicesへのeligibilityに影響するため、definition itselfがpolitical issueになりました。

ACT UP Women’s Caucus

ACT UP women activistsはAIDS research and policyがmale patientをdefaultとしていることを批判しました。

1990年にはHHSとCDCへのnational campaignでAIDS definitionにwomen’s conditionsを含めるよう要求しました。

National Library of Medicineはこのmovementを、women with AIDSがcare and treatmentへaccessできるようsurveillance systemそのものを変えるcampaignとして記録しています。

1990年 Storm the NIH

1990年5月21日、ACT UP chaptersはBethesdaのNational Institutes of Health campusで大規模demonstrationを行いました。

activistsはclinical trialsの速度、対象者selection、experimental drugsへのaccess、community involvementを問題にしました。

NLMはこのpressureがAIDS research policyを変え、people with AIDS and activistsがscientific processへ正式に参加する道を広げたとしています。

Parallel Track

ACT UP Treatment and Data Committeeが推進した重要なpolicy proposalがparallel trackでした。

formal efficacy trialsへの参加資格がない、またはtrialへ入れないpatientsにinvestigational drugsへのparallel access routeを与える考えです。

NIAIDとFDAはactivistsとの協議を通じてexpanded accessとclinical research integrityを両立させる制度を検討し、patient advocatesがresearch designへ直接関与する前例が形成されました。

1990年 Ryan White CARE Act

Ryan Whiteが1990年4月に死亡した後、Congressは同年8月Ryan White Comprehensive AIDS Resources Emergency Actを成立させました。

Health Resources and Services Administrationによれば、lawはHIV care needsの大きいcities、states、community organizationsへfundingを提供する制度を作りました。

低所得、無保険、保険不足のpeople with HIVへmedical and support servicesを提供するfederal safety-net programの基礎となりました。

community care infrastructure

AIDS患者にはantiviral drugsだけでなく、opportunistic infection treatment、mental-health care、nutrition、transportation、housing、home care、case managementが必要でした。

Ryan White fundingはcommunity health centers、hospitals、nonprofit organizationsをつなぎ、epidemicをlong-term care systemとして支えるinfrastructureを作りました。

community-based organizationsが1980年代初頭に作ったservicesがfederal fundingによって恒常制度へ組み込まれていきました。

1991年 Magic Johnson

1991年11月7日、NBA superstar Earvin “Magic” JohnsonはHIV-positiveであることを公表し、professional basketballからretireすると発表しました。

Johnsonは当時AIDSを発症しておらず、healthy-looking heterosexual celebrityがHIV infectionを公表したことは、infectionが特定のvisible groupだけに関係するという誤解を大きく揺さぶりました。

CDCはannouncement前後のSTD clinic patientsのrisk behavior and awarenessを調査しており、そのpublic-health impactの大きさが分かります。

1993年 AIDS症例定義の拡大

CDCは1993年1月1日にadult and adolescent AIDS surveillance definitionを大幅に改訂しました。

HIV-infected personでCD4 countが200 cells per microliter未満、またはCD4 percentageが14%未満なら、特定opportunistic diseaseがなくてもAIDS caseとしてreportできるようになりました。

この変更によってadvanced immunosuppressionそのものをsurveillanceへ取り込めるようになりました。

CD4 200未満という基準

CD4 T lymphocytesはHIVが主にdamageするimmune cellsで、数が低下するほどsevere opportunistic infectionのriskが高まります。

CD4 200未満というlaboratory thresholdをcase definitionへ入れることで、clinical diseaseが出る前のsevere immune suppressionもofficial surveillanceに反映されました。

case countingがsymptom-based systemからlaboratory-based HIV disease stagingへ近づいた重要な転換でした。

invasive cervical cancerの追加

1993年definitionにはpulmonary tuberculosis、recurrent pneumonia、invasive cervical cancerも追加されました。

特にinvasive cervical cancer inclusionはwomen’s AIDS advocacyが長く求めてきた問題と重なります。

definition changeは女性とminority populationsのdisease burdenをより正確にsurveillanceへ反映する一歩となりました。

NIH Revitalization Act

1993年NIH Revitalization ActはNIH-supported clinical researchにwomen and racial and ethnic minoritiesを含めることをlawで要求しました。

1994年NIH guidelinesはPhase III trialsでsex/gender and racial/ethnic differencesを分析できるdesignを求めました。

この改革はAIDSだけの結果ではありませんが、AIDS activistsがclinical trialsのexclusionをpublic issueにした時代背景と強く重なっています。

1994年 ACTG 076

1994年、AIDS Clinical Trials Group Protocol 076はperinatal HIV transmission preventionで大きな成果を示しました。

HIV-positive pregnant womenへpregnancy and labor中にzidovudineを投与し、新生児にもsix weeks投与するregimenをplaceboと比較しました。

効果が非常に大きかったためData and Safety Monitoring Boardはtrialを予定より早く止めました。

母子感染を約3分の2減少

NICHDによればACTG 076はmother-to-child transmission riskを約two-thirds減らしました。

後のanalysisではtransmission rateはplacebo group約22.6%に対しzidovudine group約7.6%でした。

結果は急速にstandard of careとなり、prenatal HIV testing and treatmentによってpediatric HIV infectionを大幅に減らす道を開きました。

1995年 50万人を超えるAIDS cases

CDC surveillanceでは1995年末までにUnited Statesで513,486 AIDS casesがreportedされました。

その62%以上がすでに死亡していました。

epidemic開始から14年でhalf a millionを超えるofficial AIDS diagnosesに達したことは、HIV/AIDSが1980–90年代American public healthの中心的crisisだった規模を示します。

25–44歳のleading cause of death

CDCによればHIV infectionは1995年に25–44歳のpeopleのleading cause of deathとなりました。

この年齢層は本来死亡率が比較的低いため、young and middle-aged adultsに集中するAIDS mortalityは家庭、workplaces、arts, health care, urban communitiesへ大きなsocial impactを与えました。

1995年にはmen 25–44でleading cause、women同年齢層でもthird leading causeと報告されています。

1995–1996年 protease inhibitors

1995年12月、FDAはsaquinavirを最初のprotease inhibitorとしてapprovedしました。

1996年にはritonavir、indinavirなどが続き、既存のreverse transcriptase inhibitorsとは異なるstageでHIV replicationをblockする薬classが利用可能になりました。

異なるmechanismsのdrugsを組み合わせることでdrug resistanceを抑え、viral replicationをより強く抑制できるようになりました。

1996年 triple-drug therapy / HAART

NIAIDによれば1996年、protease inhibitorと二つのnucleoside analogue drugsを組み合わせるtriple therapyがHIVを持続的に強く抑制できることが示されました。

このapproachはHighly Active Antiretroviral Therapy、HAARTと呼ばれるようになります。

viral load testingも治療効果を早く評価するtoolとして普及し、HIV treatmentは症状が出てからopportunistic infectionへ対処するmedicineからvirus suppression中心へ変化しました。

1996年 AIDS deathsの減少

CDCは1996年前半のAIDS deathsが1995年前半より13%減ったと報告しました。

1994年まで増加を続けたAIDS deathsは1995年にほぼ横ばいとなり、1996年に明確な減少へ転じました。

CDCはcombination antiretroviral therapy、protease inhibitors、opportunistic infection prophylaxis、care improvementsをsurvival改善の要因として挙げています。

治療成功とaccess格差

HAARTの登場は医学的breakthroughでしたが、そのbenefitは最初から均等ではありませんでした。

specialist care、insurance、Medicaid eligibility、drug adherence、stable housing、transportationなどがtreatment accessに影響しました。

CDCは1996年にdeath declineがnon-Hispanic white populationで大きい一方、Black populationでは小さく、womenでは同年前半のdeathsが増えたことを報告しており、新しい治療が既存のhealth inequalityを自動的に消さなかったことが分かります。

clinical researchと患者参加の変化

AIDS Crisisはdrug regulationとclinical research cultureを変えました。

expanded access、accelerated approval、community advisory boards、ACTG committeesへのpatient representationなど、people living with diseaseがresearch processへ制度的に参加する仕組みが発展しました。

このmodelは後にcancer、rare disease、other chronic illnessesのpatient advocacyにも影響を与えます。

Gay Communityへの長期的影響

AIDS epidemicはgay communitiesに非常に大きな人口的・心理的・政治的損失を与えました。

friends and partnersを繰り返し失う中でcommunity organizationsはmedical care、funeral support、housing、legal services、safer-sex educationを自ら作りました。

同時にAIDS activismはsexual orientation discrimination、same-sex partnership、health insurance、hospital visitation、family recognitionなどをpublic policyへ持ち込む力にもなりました。

AIDSをgay historyだけにしない

gay menがepidemicの初期に大きな被害を受け、response organizationsを作ったことはAIDS historyの中心です。

しかしAIDSは同時にhemophilia patients、blood transfusion recipients、women、children、people who inject drugs、Black and Latino communities、immigrantsにも深刻な影響を与えました。

一つのidentity narrativeへ閉じ込めると、感染経路、health inequality、blood safety、drug policy、women’s health、povertyというepidemicの複数の構造を見失います。

1981–1996年に何が変わったのか

第一に、原因不明のclinical clusterだった病気がHIVというvirusによる感染症として理解され、diagnostic testingとnational surveillance systemが確立しました。

第二に、blood supplyとblood productsの安全制度が根本的に変わりました。donor screening、antibody testing、manufacturing controlsによってtransfusion-related transmissionは大幅に減少しました。

第三に、public-health communicationのあり方が変わりました。Koop report、America Responds to AIDS、『Understanding AIDS』全国郵送はsexual behavior and drug useを具体的に説明するnational health educationの前例となりました。

第四に、People with AIDS自身がmedical research and policyの主体になりました。Denver Principles、ACT UP、community advisory boardsはpatient participationの制度を変えました。

第五に、drug regulationが変わりました。AZTからexpanded access、parallel track、accelerated approvalへ進み、life-threatening diseasesのdrug development processが再設計されました。

第六に、AIDS surveillanceがgender and raceのbiasを修正する方向へ変わりました。1993年definitionはCD4 criteria、pulmonary TB、recurrent pneumonia、invasive cervical cancerを追加しました。

第七に、careがfederal policyとして制度化されました。Ryan White CARE Actはlow-income and underinsured people with HIVへcommunity-based medical and support servicesを提供する長期infrastructureを作りました。

第八に、1994年ACTG 076と1996年HAARTによってHIV treatmentの可能性が根本的に変わりました。infection preventionとlong-term viral suppressionが現実的なclinical goalになりました。

しかし1996年はcrisisの終わりではありません。治療accessのrace・class・gender格差、stigma、insurance、housing、drug use、immigration restrictionなどの問題は残りました。AIDS Crisisは医学の進歩と社会的不平等が同時に存在し得ることを最も明確に示した20世紀後半のAmerican historyの一つでした。

1981–1996年の主な出来事

  • 1981年6月5日 — CDCがLos Angelesのgay men五人のPneumocystis pneumoniaをMMWRで報告。
  • 1981年夏 — CDCがKaposi Sarcoma and Opportunistic Infections Task Forceを組織。
  • 1982年 — Gay Men’s Health Crisis、GMHC設立。
  • 1982年7月 — CDCがhemophilia patientsのAIDS症例を報告。
  • 1982年9月 — CDCがAIDSという名称とnational surveillance case definitionを公表。
  • 1982年12月 — CDCが輸血と関連する乳児AIDS症例を報告。
  • 1983年 — Denver Principles。People with AIDSが自己決定と政策参加を要求。
  • 1983年 — Institut Pasteur teamがAIDS-associated retrovirus、LAVを報告。
  • 1984年 — U.S. researchersがHTLV-IIIと呼ぶvirusをAIDS原因として報告。
  • 1985年3月4日 — FDAが最初のHIV antibody testを認可。blood screening開始。
  • 1985年 — Ryan Whiteの学校復学をめぐるnational controversy。
  • 1986年 — virus名がHuman Immunodeficiency Virus、HIVへ統一。
  • 1986年 — Surgeon General C. Everett KoopがAIDS reportを発表。
  • 1987年3月 — FDAがAZTを最初のAIDS antiretroviral drugとして承認。
  • 1987年3月 — New YorkでACT UP結成。
  • 1987年3月24日 — ACT UPがWall Streetで最初の大規模demonstration。
  • 1987年 — CDCがAmerica Responds to AIDS campaignを開始。
  • 1987年 — United StatesがHIV infectionをimmigration exclusion対象へ追加。
  • 1987年7月 — Presidential Commission on the HIV Epidemic設置。
  • 1987年10月11日 — AIDS Memorial QuiltがNational Mallで初の大規模展示。
  • 1988年5–6月 — 『Understanding AIDS』約1億700万部を全米家庭へ郵送。
  • 1988年10月11日 — ACT UPなどがFDA headquartersを包囲。
  • 1989年 — 100,000件目のAIDS caseがCDCへ報告。
  • 1990年5月21日 — ACT UPがStorm the NIHを実施。
  • 1990年8月18日 — Ryan White CARE Act成立。
  • 1991年11月7日 — Magic JohnsonがHIV-positiveであることを公表。
  • 1993年1月1日 — CDCのexpanded AIDS case definition発効。CD4基準、pulmonary TB、recurrent pneumonia、invasive cervical cancerを追加。
  • 1993年6月10日 — NIH Revitalization Act成立。women and minoritiesのclinical research inclusionを法制化。
  • 1994年2月 — ACTG 076がAZTによるmother-to-child transmission約3分の2減少を報告。
  • 1995年 — U.S.累積reported AIDS casesが500,000を超える。
  • 1995年 — HIV infectionが25–44歳のleading cause of deathとなる。
  • 1995年12月 — FDAが最初のprotease inhibitor saquinavirを承認。
  • 1996年 — ritonavir、indinavirなどprotease inhibitorsが承認されtriple-drug therapyが普及。
  • 1996年 — CDCがAIDS deathsの初の明確なnational declineを報告。
  • 1996年10月 — 約40,000 panelsのAIDS Memorial QuiltがNational Mallで全面展示。

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AIDS Crisisが医療・sexuality・civil rightsを変えていた同じ1980年代、criminal justice policyも大きく変化しました。Reagan administrationはWar on Drugsを強化し、1984年・1986年のfederal sentencing laws、mandatory minimum sentences、crack cocaineをめぐる政策、police and prison expansionが進みます。

その影響はすべてのpopulationへ均等ではなく、Black and Latino communitiesでarrest、sentencing、incarcerationが大きく増えました。一方、violent crimeとdrug-related violenceが実際に深刻化した地域もあり、政策を単に「根拠のない刑罰化」として扱うことも十分ではありません。

次の記事は、1982–1994|アメリカ|War on Drugsと大量収監 — Crack、Mandatory Minimums、Policing、Prisonとし、drug market、crime、federal legislation、sentencing disparity、state prisons、race、public safetyを分けて検証します。

参考資料・出典

本ページはCenters for Disease Control and Prevention、U.S. Food and Drug Administration、National Institutes of Health、National Library of Medicine、Health Resources and Services Administration、Ronald Reagan Presidential Library、Library of Congress、Smithsonian Institution、New York Public Libraryなどの公的・研究機関・一次資料archiveを中心に参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。Reagan administrationについては研究予算の増加とpublic political responseへの批判を分け、ACT UPについても抗議運動だけでなくdrug regulation・clinical trial designへの具体的な参加を扱っています。またHIV/AIDSをgay menだけの歴史に限定せず、血友病患者、輸血患者、女性、子ども、people who inject drugs、Black and Latino communitiesを含めて記述しています。

資料確認日:2026年10月3日 / ART LIBRARY