Art Library
World History

1050–1200

交易圏と宗教世界の再編

セルジューク、十字軍、宋、都市の成長

1050年から1200年頃までの世界では、巨大な単一帝国が全地域を覆ったわけではありません。しかし、前の時代に形成されていた交易圏、宗教圏、都市ネットワークが拡大し、互いに接触する頻度が高まっていきました。中国では宋の商業・都市経済が成熟し、海上交易が拡大しました。西アジアでは中央アジア起源のセルジューク朝がイラン、イラク、アナトリアへ勢力を広げ、地中海東部では十字軍によってラテン系キリスト教勢力が恒常的な領土支配を始めました。

ヨーロッパでは人口増加、農業生産、修道院、巡礼、都市、市場が拡大し、11〜12世紀に大規模な教会建築が各地で進みました。ロマネスク建築の巨大な石造教会は、宗教的信仰だけでなく、人口・富・職人組織・物流の成長を示すものでもありました。教皇と皇帝の間では聖職者任命権をめぐる叙任権闘争が起き、1054年にはローマとコンスタンティノープルの教会対立が相互破門へ至りました。

一方、この時代を「ヨーロッパが成長し始めた時代」だけとして見ると世界像を大きく歪めます。北宋の開封は巨大な商業都市であり、1127年以後の南宋では杭州を中心に海上交易がさらに拡大しました。高麗では青磁文化が成熟し、日本では院政、平氏政権、源平争乱を経て1185年に武家政権への転換が始まりました。東南アジアではアンコールとバガンで大規模な寺院都市が発展しました。

南アジアではチョーラ朝、パーラ朝、ラージプート諸勢力、ガズナ朝、ゴール朝などが競合し、宗教・王権・交易の複数中心が並立しました。インド洋には南インド、スリランカ、東南アジア、ペルシア湾、紅海、東アフリカを結ぶ海上ネットワークが存在し、陶磁器、香料、織物、金、象牙などが流通していました。

アフリカでは西アフリカのガーナ王国が11世紀後半から衰退し、サハラ交易の政治中心が変化していきました。東アフリカのスワヒリ海岸ではキルワなどの港湾都市が成長し、内陸部の金・象牙とインド洋市場が結ばれていました。南部アフリカではリンポポ川流域にMapungubweへつながる地域権力が形成され始めます。

アメリカ大陸でも大規模都市と広域政治が発達しました。北米ミシシッピ川流域ではカホキアが1050年頃から急速に巨大化し、中央メキシコではトゥーラを中心とするトルテカ勢力が繁栄しました。ユカタンではチチェン・イツァが衰退し、政治中心が再編されました。アンデスではティワナクの衰退後、チムーなど新しい海岸国家が形成されていきます。

この150年間を特徴づけるのは「文明同士が初めて出会った」ことではありません。それ以前から交流は存在していました。重要なのは、都市人口、巡礼、海上輸送、王朝軍事力、宗教組織、書物・教育の拡大によって、人・物・知識の移動がさらに大規模になったことです。その結果、交易は戦争と、宗教は国家形成と、都市の成長は遠距離ネットワークと、以前より密接に結びついていきました。

CONTENTS

  1. 1050年頃から世界はどう変わったのか
  2. 宋 — 商業社会の成熟
  3. 開封という大都市
  4. 宋と海上交易
  5. 羅針盤と航海知識
  6. 女真・金の台頭
  7. 1127年 南宋成立
  8. 高麗 — 仏教、青磁、宋との交流
  9. 日本 — 平安後期から武家政権へ
  10. 院政と地方武士
  11. 1180–1185年 源平争乱
  12. 鎌倉政権の形成
  13. 李朝ベトナム
  14. バガン王朝
  15. アンコールと巨大寺院都市
  16. アンコール・ワット
  17. セルジューク朝の拡大
  18. 1055年 バグダード入城
  19. 1071年 マンジケルトの戦い
  20. セルジューク世界の文化と都市
  21. ファーティマ朝と東地中海
  22. 1054年 東西教会の分裂
  23. 叙任権闘争
  24. 1077年 カノッサ
  25. 1066年 ノルマン・コンクエスト
  26. 西ヨーロッパの人口・都市・市場
  27. ロマネスク建築と修道院
  28. 巡礼路という交通ネットワーク
  29. 大学と知識の制度化
  30. アラビア語からラテン語への翻訳
  31. 1095年 第一回十字軍
  32. ラインラントのユダヤ人迫害
  33. 1099年 エルサレム占領
  34. 十字軍国家
  35. 戦争と交易・文化交流
  36. 第二回十字軍
  37. サラーフッディーンと1187年エルサレム
  38. 第三回十字軍
  39. マグリブ — ムラービト朝からムワッヒド朝へ
  40. イベリア半島の複数宗教社会
  41. 南アジアの複数王国
  42. チョーラ朝の後期
  43. スリランカとポロンナルワ
  44. ガズナ朝からゴール朝へ
  45. 西アフリカとサハラ交易の再編
  46. ガーナ王国の衰退をどう考えるか
  47. スワヒリ海岸の都市成長
  48. 南部アフリカと内陸交易
  49. カホキア — 北米の巨大中心地
  50. トゥーラとトルテカ
  51. ミシュテカ諸王国
  52. マヤ世界の再編
  53. アンデス — ティワナク後の再編
  54. 同じ時代に存在した都市世界
  55. 交易・宗教・軍事は別々ではない
  56. 1050–1200年に何が変わったのか
  57. 1050–1200年の主な出来事
  58. 次の時代へ — モンゴルとユーラシア規模の接続
  59. 参考資料・出典

1050年頃から世界はどう変わったのか

1050年頃から1200年頃までを一つの時期として見ると、多くの地域で「拡大」が共通して現れます。ただし同じ原因で一斉に拡大したわけではありません。

東アジアでは商業と海上交易、西ヨーロッパでは人口と農業・巡礼・都市、西アジアではセルジューク勢力の軍事移動、東南アジアでは寺院都市と王権、北米ではカホキアの都市的中心、アンデスでは高地帝国崩壊後の地域国家形成が進みました。

これらを一つの「世界システム」と呼ぶにはまだ距離があります。しかし、地域内部の人口・生産・交通の密度が高まり、複数の広域ネットワークが以前より強く接続する方向へ進んでいました。

宋 — 商業社会の成熟

北宋は960年から1127年まで中国の大部分を統治しました。北方では遼、西北では西夏が並立し、宋は軍事的に全域を支配してはいませんでした。

一方、宋国内では都市、市場、貨幣、運河、出版、手工業が高度に発達しました。鉄生産、陶磁器、絹、茶などの生産も拡大し、地方市場と長距離交易が結びつきました。

政治的軍事力だけで王朝の「強さ」を評価すると、宋の歴史的重要性を見落とします。世界史上では、巨大な市場経済・行政国家・知識社会としての宋が重要です。

開封という大都市

北宋の首都開封は大運河や黄河水系を通じ各地から穀物・物資が集まる巨大都市でした。

唐代の長安のような厳格な区画・夜間統制は緩和され、市街には常設店舗、飲食店、娯楽、夜市などが広がりました。都市生活の商業化は張択端の《清明上河図》など後世に伝わる視覚資料からもうかがえます。

都市の成長は単なる人口集中ではなく、税収、流通、職人、印刷、飲食、娯楽など多様な専門職を成立させる経済基盤でした。

宋と海上交易

12世紀には宋の海上交易がさらに拡大しました。中国南東沿岸の泉州、広州、明州などの港には外国商人が出入りし、中国産の陶磁器、絹、金属製品などが東南アジア、南アジア、さらにインド洋西部へ輸出されました。

メトロポリタン美術館の中国史年代記は、12世紀半ばの宋を主要な海洋勢力と位置づけ、大型船がインドのマラバール海岸や紅海方面まで航行したと整理しています。

中国が海上貿易だけで世界を支配したという意味ではありません。むしろ中国商人、アラブ・ペルシア商人、東南アジア商人、南インド商人などが重なる多中心的な海域ネットワークでした。

羅針盤と航海知識

磁石の性質は中国でそれ以前から知られていましたが、メトロポリタン美術館の年代記は1119年頃に航海用磁気コンパスに関する記録が現れるとしています。

羅針盤だけが長距離航海を可能にしたわけではありません。季節風、星、沿岸地形、潮流、港湾知識などが航海技術の基盤でした。

しかし方位を安定的に確認できる技術は、沿岸視認が難しい航海で重要性を増し、後のインド洋・世界海運史に大きな影響を与えます。

女真・金の台頭

12世紀初頭、満洲方面の女真勢力が完顔阿骨打の下で統合され、1115年に金朝が成立しました。

金は遼を攻撃し、1125年までに遼を滅ぼしました。宋は当初金と協力して遼を挟撃しましたが、その後両者は対立します。

東アジア北部の勢力関係は、宋対遼という長く続いた二国間秩序から、金の急成長によって大きく変わりました。

1127年 南宋成立

1127年、金軍は北宋の首都開封を占領し、皇帝欽宗と前皇帝徽宗らを連行しました。北宋は崩壊しました。

皇族の趙構は南方へ逃れ、高宗として南宋を成立させ、のちに杭州、当時の臨安を首都としました。

北方領土喪失は宋にとって重大な政治的敗北でした。しかし南宋は長江下流・南東沿岸の豊かな農業・商業地域を基盤に経済活動を続け、海上交易への比重をさらに高めました。

高麗 — 仏教、青磁、宋との交流

朝鮮半島では高麗王朝が続いていました。仏教は王室・貴族の強い保護を受け、寺院、仏具、絵画、経典制作などが発展しました。

高麗青磁は宋代中国の技術を学びながら、12世紀に独自の洗練へ到達しました。メトロポリタン美術館は、高麗陶工が中国南部の青磁技術を吸収し、12世紀前半から独自の形・装飾・象嵌技法を発展させたと説明しています。

高麗は宋・遼・金の間で外交関係を調整しながら独立王朝として存続しました。東アジア文化交流は中国からの一方向的伝播ではなく、各地域で選択・再構成されました。

日本 — 平安後期から武家政権へ

日本では1050年頃も京都の天皇・貴族社会が政治文化の中心でした。しかし地方社会では荘園と公領をめぐる紛争処理や警備のため、武装した在地勢力が力を高めていました。

12世紀になると皇族・摂関家・寺社・武士集団の関係が複雑化し、中央政治そのものが武力衝突へ巻き込まれていきます。

1185年の平氏敗北は、宮廷政治が消滅した瞬間ではありません。しかし地方軍事勢力が全国規模の政治秩序を作る転換点となりました。

院政と地方武士

1086年、白河天皇は退位後も上皇として政治的影響力を維持しました。これ以後の「院政」は、天皇在位中の宮廷制度とは別の権力拠点を作りました。

上皇、摂関家、寺社などは独自の所領と武力を持つようになり、平氏・源氏などの武士を軍事力として利用しました。

武士が突然貴族社会を倒したのではなく、宮廷政治内部で軍事力への依存が高まった結果、武士の政治的価値が増していったと見る方が自然です。

1180–1185年 源平争乱

12世紀後半、平清盛を中心とする平氏は中央政界で大きな権力を握りました。皇室との婚姻、官職、荘園、瀬戸内海交易などを通じて勢力を拡大しました。

1180年以後、源頼朝をはじめ複数の反平氏勢力が挙兵し、全国各地で戦闘が広がりました。1185年の壇ノ浦の戦いで平氏の主力は敗北しました。

この争乱は単純な「源氏対平氏」の二勢力戦ではなく、地方武士、寺社、朝廷内勢力が地域ごとに異なる同盟関係を作った内乱でした。

鎌倉政権の形成

源頼朝は関東の鎌倉を政治・軍事拠点とし、家臣との主従関係と地方行政を組織しました。

メトロポリタン美術館は1185年を平安から鎌倉への大きな転換点とし、1192年に頼朝が征夷大将軍へ任命されたことを武家政権の制度化として挙げています。

ただし天皇・朝廷は存続し、土地権利や官職、儀礼で重要な役割を持ち続けました。日本では朝廷と武家政権が並存する二重的な統治構造が形成されていきます。

李朝ベトナム

ベトナム北部では李朝が昇龍、現在のハノイを首都に王朝国家を整備しました。

宋との間では1075–77年に大規模な戦争が起きました。李朝側は宋の攻撃準備を警戒して国境を越えた先制攻撃を行い、その後宋軍がベトナムへ進攻しました。最終的には双方が撤兵・交渉へ進みました。

この戦争はベトナムが宋の単なる地方政権ではなく、独自の軍事・外交判断を行う王朝国家として定着していたことを示します。

バガン王朝

現在のミャンマーではアノーヤター、在位1044–1077年の下でバガン王朝が勢力を拡大しました。

メトロポリタン美術館は、バガン王朝が上座部仏教を保護し、11世紀以降に巨大な宗教建築と文学文化を発展させたと整理しています。

バガン平原には数千の仏塔・寺院が建設されました。宗教施設建設は王の信仰表明であると同時に、土地・労働・寄進を組織する政治経済制度でもありました。

アンコールと巨大寺院都市

カンボジアではアンコール王朝が大陸部東南アジアの広域政治勢力として成長しました。

11世紀後半から12世紀には寺院、貯水池、道路、堤防、都市空間が大規模化しました。王権はヒンドゥー教・仏教の宗教体系を利用して政治的宇宙観を可視化しました。

アンコールは単なる「遺跡の集まり」ではなく、農村、貯水施設、寺院、道路、行政拠点を含む巨大な人間景観でした。

アンコール・ワット

スールヤヴァルマン2世の時代、12世紀前半にアンコール・ワットが建設されました。

メトロポリタン美術館は1113–1145年以後の建設とし、ヴィシュヌへ捧げられた巨大寺院として位置づけています。長大な回廊浮彫には神話、戦争、王の行列などが描かれました。

宗教建築の規模は、王権の軍事力だけでなく、農業生産、石材運搬、職人、測量、労働組織を統合できる行政能力を示します。

セルジューク朝の拡大

セルジューク朝は中央アジアのトルコ系遊牧集団を起源としました。1040年のダンダーナカーンの戦いでガズナ朝を破り、ホラーサーンとイランへ支配を拡大しました。

メトロポリタン美術館によれば、セルジューク勢力は半世紀ほどでイラン、イラク、アナトリアの大部分を含む巨大な政治圏を作りました。

ただしこの帝国は中央から均一に統治される国家ではなく、王族、軍司令官、地方政権が大きな自立性を持つ分権的な秩序でした。

1055年 バグダード入城

1055年、セルジューク朝のトゥグリル・ベグはバグダードへ入り、ブワイフ朝の支配を終わらせました。

アッバース朝カリフは政治・軍事的な実権を取り戻したわけではありませんが、セルジューク君主はカリフの宗教的権威を利用し、自らをスンナ派イスラームの保護者として位置づけました。

「カリフ」と「スルタン」の役割分担は、宗教的権威と軍事・行政権力が別々の主体へ分かれるイスラーム政治の重要な形となりました。

1071年 マンジケルトの戦い

1071年、セルジューク朝スルタンのアルプ・アルスラーンは東アナトリアのマンジケルトでビザンツ皇帝ロマノス4世の軍を破り、皇帝を捕虜にしました。

この一戦だけでアナトリアが即座に「トルコ化」したわけではありません。しかしビザンツ内部の政治混乱も重なり、その後トルコ系集団の定住と地方支配が急速に広がりました。

アナトリアではルーム・セルジューク朝が形成され、ビザンツ帝国の軍事・財政基盤は大きく縮小しました。この変化が1095年の十字軍呼びかけの背景の一つになります。

セルジューク世界の文化と都市

セルジューク時代のイランではイスファハーン、ニーシャープール、レイなどの都市が発展しました。

メトロポリタン美術館はセルジューク時代を、陶器、金属器、石・漆喰彫刻、織物、ガラスなど多様な工芸が高度に発達した時期としています。トルコ系支配層、ペルシア語行政文化、アラビア語学術、イスラーム宗教制度などが組み合わされました。

セルジューク世界は「遊牧民が都市文明を征服した」という一方向の構図ではなく、支配者自身がイラン・イスラームの都市文化へ組み込まれ、新しい文化を生み出した社会でした。

ファーティマ朝と東地中海

エジプトではファーティマ朝がカイロを中心に統治していました。11世紀後半には内政・軍事的困難を抱えましたが、紅海・地中海交易の結節点としてエジプトの重要性は続きました。

エジプトのフスタートに残されたカイロ・ゲニザ文書は、ユダヤ商人を含む商業ネットワークが北アフリカ、シチリア、イエメン、インドなどを結んでいたことを示しています。

1099年に十字軍が到達した時点でエルサレムを支配していたのもセルジュークではなくファーティマ朝でした。十字軍史を単純な「西欧対セルジューク」と見ることはできません。

1054年 東西教会の分裂

1054年、ローマ教皇の使節とコンスタンティノープル総主教ミカエル・ケルラリオスの対立が相互破門に至りました。

メトロポリタン美術館のビザンツ史資料は、これを後に「大シスマ」と呼ばれる東西教会分裂の重要な転換点としています。

ただし1054年にすべての東西キリスト教徒が一斉に完全分離したわけではありません。典礼、教皇権、神学、言語、政治をめぐる差異はそれ以前から蓄積し、その後も交流・和解の試みがありました。分裂は長い過程として理解する必要があります。

叙任権闘争

11世紀後半、西ヨーロッパでは教会改革運動が強まりました。聖職売買や聖職者の結婚問題だけでなく、国王・諸侯が司教や修道院長を任命する権限が争点となりました。

教皇グレゴリウス7世は教会の自律と教皇権を強く主張し、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は帝国統治に不可欠な司教任命への関与を維持しようとしました。

宗教的原則と政治制度が分離していなかった中世社会では、「誰が司教を任命するか」は行政・土地・軍事・税収を誰が支配するかという問題でもありました。

1077年 カノッサ

1076年、グレゴリウス7世はハインリヒ4世を破門しました。ドイツ諸侯が皇帝への服従を見直す動きを見せる中、ハインリヒは1077年冬にイタリアへ赴き、カノッサ城の教皇を訪ねました。

教皇は破門を解除しましたが、皇帝と教皇の争いは終わりませんでした。その後も対立と内戦は続きます。

最終的には1122年のヴォルムス協約によって妥協が成立し、宗教職としての叙任と世俗的権利の授与を区別する制度が整えられました。

1066年 ノルマン・コンクエスト

1066年、イングランド王エドワード懺悔王の死後、王位継承をめぐる争いが起きました。

ノルマンディー公ギヨーム、英語ではウィリアムはイングランドへ侵攻し、10月14日のヘイスティングズの戦いでハロルド2世を破りました。クリスマスにイングランド王として戴冠しました。

征服後、ノルマン系貴族への土地再配分、城塞建設、教会人事再編が進み、イングランドとノルマンディーをまたぐ政治秩序が形成されました。後の英仏関係の長期的複雑さにもつながります。

西ヨーロッパの人口・都市・市場

11〜12世紀の西ヨーロッパでは、農地拡大、技術改良、比較的安定した地域秩序などを背景に人口と生産が増加しました。

余剰生産の拡大は市場、定期市、手工業、貨幣利用を促し、古代都市の再成長や新しい町の形成につながりました。

ただし成長は地域ごとに不均等でした。イタリア北部、フランドル、ライン川流域、フランスなどでは都市・商業が早く拡大し、農村的な地域では変化がより緩やかでした。

ロマネスク建築と修道院

メトロポリタン美術館は11〜12世紀の西ヨーロッパで、経済的繁栄、政治的安定、人口増加と修道院制度の拡大を背景に、前例のない教会建築ブームが起きたと説明しています。

クリュニー、シトー、カルトジオなどの修道院ネットワークが広がり、石造教会は大型化しました。半円アーチ、厚い壁、石造ヴォールト、大規模な彫刻装飾などを特徴とする建築を後世の美術史家は「ロマネスク」と呼びます。

当時の人々自身がヨーロッパ全域で一つの様式名を共有していたわけではありません。「ロマネスク」は近代美術史による分類です。

巡礼路という交通ネットワーク

ローマ、エルサレム、サンティアゴ・デ・コンポステーラなどへの巡礼は11〜12世紀に活発化しました。

巡礼者の移動に合わせ、修道院は宿泊、食事、礼拝の場を提供しました。巡礼路沿いの教会は多数の参詣者が聖遺物を拝めるよう、周歩廊や放射状礼拝堂を備えることがありました。

巡礼は宗教行為であると同時に、道路、宿泊、商業、情報、建築様式を広げる移動ネットワークでもありました。

大学と知識の制度化

12世紀には西ヨーロッパの都市・教会学校から、後に大学と呼ばれる制度が形成され始めました。

ボローニャでは法学、パリでは神学・哲学が中心となり、教師と学生が特権を持つ共同体を形成しました。1200年前後にはパリ大学が制度化されていきます。

メトロポリタン美術館の「The Year 1200」は、サレルノ、ボローニャ、パリをヨーロッパ最初期の大学と位置づけ、12世紀にアリストテレス著作がラテン西欧へ流入したことを学問変化の重要な背景として挙げています。

アラビア語からラテン語への翻訳

11〜12世紀、西ヨーロッパの学者はイスラーム世界で保存・発展していた医学、数学、天文学、哲学の著作をラテン語へ翻訳しました。

とくにイベリア半島、シチリア、南イタリアなどキリスト教・イスラーム・ユダヤ文化が接する地域が翻訳拠点となりました。

アリストテレスだけでなく、イブン・スィーナー、イブン・ルシュドなどの著作が後のヨーロッパ大学教育へ大きな影響を与えます。知識移動を「古代ギリシアからヨーロッパへ直接復活した」とだけ説明すると、アラビア語圏の研究・翻訳・注釈の役割を失います。

1095年 第一回十字軍

1095年11月、教皇ウルバヌス2世はクレルモン公会議で東方への軍事遠征を呼びかけました。

背景にはビザンツ皇帝アレクシオス1世からの軍事援助要請、アナトリアでのセルジューク系勢力の拡大、エルサレム巡礼と聖地への宗教的関心、西欧内部の武人文化、教皇権の発展など複数の要因がありました。

十字軍参加者には罪の赦免という宗教的動機が強く示されました。一方、土地・富・身分上昇を期待する参加者も存在しました。単一の動機で数万人規模の移動を説明することはできません。

ラインラントのユダヤ人迫害

1096年、本格的な諸侯軍に先行した一部の十字軍集団は、ライン川流域のシュパイアー、ヴォルムス、マインツなどのユダヤ人共同体を襲撃しました。

メトロポリタン美術館の十字軍史も、いわゆる民衆十字軍の一部が東方へ向かう途中にユダヤ人を恐怖に陥れたことを記録しています。

十字軍を「キリスト教対イスラーム」の国外戦争だけとして描くと、ヨーロッパ内部で起きた宗教的暴力を見落とします。

1099年 エルサレム占領

十字軍主力はコンスタンティノープルを経由し、ニカイア、アンティオキアなどを攻略しながら南下しました。

1099年7月15日、約5週間の包囲後に十字軍はエルサレムを占領しました。当時の都市はファーティマ朝の支配下でした。

占領時にはムスリムとユダヤ人住民に対する大規模な殺害が行われました。ケンブリッジ大学図書館のカイロ・ゲニザ研究は、アシュケロンへ逃れた難民や捕虜の救援を伝える同時代文書を紹介しています。

十字軍国家

第一回十字軍後、西欧系支配者はエデッサ伯国、アンティオキア公国、エルサレム王国、トリポリ伯国を形成しました。

これらは「ヨーロッパの植民地」をそのまま移植した国家ではありません。少数のラテン系支配者が、アルメニア人、シリア系キリスト教徒、ギリシア正教徒、ムスリム、ユダヤ人など多様な住民を統治しました。

軍事衝突は恒常的でしたが、外交、休戦、商業、婚姻、技術・芸術交流も存在しました。

戦争と交易・文化交流

十字軍地域では、戦争中であっても交易が完全に停止したわけではありません。

メトロポリタン美術館は、12世紀後半の旅行者イブン・ジュバイルが、フランク系支配地域とムスリム地域の間を商人が移動していたことを記録した例を紹介しています。

エルサレムの金工品などにはイスラーム的な装飾技法とキリスト教主題が組み合わされた作品もあります。宗教境界は軍事境界であると同時に、文化的接触地帯でもありました。

第二回十字軍

1144年、モースル・アレッポを支配したザンギーがエデッサを占領しました。これを受けて西欧では第二回十字軍が組織されました。

フランス王ルイ7世、神聖ローマ皇帝コンラート3世らが参加しましたが、1148年のダマスカス攻撃は失敗しました。

第二回十字軍の失敗は、ムスリム側政治勢力が再編・統合されつつあることを示しました。十字軍国家は周辺勢力との複雑な同盟関係なしには存続できませんでした。

サラーフッディーンと1187年エルサレム

12世紀後半、クルド系軍人サラーフッディーン、欧文ではSaladinはエジプトのファーティマ朝を終わらせ、エジプトとシリアの広い地域を統合しました。

1187年7月のハッティンの戦いでエルサレム王国軍を破り、同年10月にエルサレムを奪回しました。

1099年の十字軍占領時とは異なり、都市住民の多くは身代金などを条件に退去することが認められました。ユダヤ人の居住も再び認められました。

第三回十字軍

エルサレム陥落を受け、イングランド王リチャード1世、フランス王フィリップ2世、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世などが第三回十字軍へ参加しました。

フリードリヒ1世は1190年にアナトリアで溺死しました。リチャード1世らはアッコンを奪取し、沿岸部の支配を回復しましたが、エルサレム自体は奪回できませんでした。

1192年の合意でキリスト教巡礼者のエルサレム訪問が認められ、十字軍国家は沿岸部を中心に存続しました。

マグリブ — ムラービト朝からムワッヒド朝へ

11世紀後半、ベルベル系のムラービト朝はサハラ西部とモロッコで勢力を拡大し、マラケシュを首都として建設しました。

メトロポリタン美術館は、ムラービト朝がサハラ交易の一部、モロッコ、アルジェリア、西イベリアの広域を支配したと整理しています。

12世紀半ばには宗教改革運動を起源とするムワッヒド朝がムラービト朝を倒し、マグリブからアル=アンダルスまでの広大な地域を統合しました。

イベリア半島の複数宗教社会

11世紀のアル=アンダルスではコルドバ・カリフ国崩壊後、複数のタイファ王国が並立していました。北部のカスティーリャ、レオン、アラゴンなどキリスト教諸王国も南下を進めました。

1085年、カスティーリャ王アルフォンソ6世がトレドを占領すると、タイファ諸国は北アフリカのムラービト朝へ援助を求めました。

イベリア半島では戦争と支配交代が続いた一方、アラビア語、ヘブライ語、ラテン語、ロマンス諸語を使う人々が共存し、知識・音楽・建築・工芸の相互影響も生まれました。「共存」と「迫害」のどちらか一方だけで全時期を説明することはできません。

南アジアの複数王国

1050–1200年の南アジアには統一国家はなく、北部・中央部・デカン・南部・スリランカに複数王朝が並立しました。

北東ではパーラ朝の仏教保護が続き、西北にはガズナ朝、後にゴール朝が進出しました。中央・西部ではラージプート系諸王朝が競合し、デカンでは後期チャールキヤ、ホイサラなどが台頭しました。

寺院、修道院、都市、商人組織は王権の境界を越えて活動し、宗教世界と交易世界が重なっていました。

チョーラ朝の後期

11世紀後半にもチョーラ朝は南インドの主要王朝でしたが、デカンの後期チャールキヤやスリランカ勢力などとの戦争が続きました。

チョーラ支配下では巨大寺院、青銅像、灌漑、港湾交易が引き続き重要でした。

12世紀になると周辺王朝の成長によって政治的優位は次第に縮小しますが、タミル商人と宗教文化の海域的影響は東南アジアまで続きました。

スリランカとポロンナルワ

スリランカでは1070年頃、ヴィジャヤバーフ1世がチョーラ勢力を島から排除し、ポロンナルワを中心とする王朝秩序を再建しました。

メトロポリタン美術館は、ポロンナルワ期を1070–1200年頃の統一と繁栄の時代として整理しています。

12世紀のパラークラマバーフ1世は大規模灌漑施設を整備し、仏教僧団の再編を進めました。インド洋の島嶼国家として南インド・東南アジアとの交流も続きました。

ガズナ朝からゴール朝へ

11世紀前半に巨大な軍事力を持ったガズナ朝は、セルジューク朝にイラン東部を失った後もアフガニスタン・パンジャーブ方面で存続しました。

12世紀後半にはアフガニスタン中央部のゴール朝が台頭し、1175年頃からパンジャーブ方面へ進出しました。

1192年、ゴール朝軍はタラーインの戦いでチャーハマーナ朝のプリトヴィーラージャ3世を破り、北インド支配を拡大しました。その軍司令官クトゥブッディーン・アイバクが1206年にデリーで独立し、次の時代のデリー・スルタン朝へつながります。

西アフリカとサハラ交易の再編

西アフリカ内陸部と北アフリカを結ぶサハラ交易は11〜12世紀にも重要でした。

金、塩、織物、馬、銅などが交易され、イスラーム系商人や学者がサヘルの都市へ移動しました。地域の支配者がイスラームを受容しても、住民全体の宗教がただちに均一化したわけではありません。

宗教受容、宮廷政治、交易関係は異なる速度で進みました。

ガーナ王国の衰退をどう考えるか

ガーナ王国は11世紀後半から勢力を失っていきました。

古い説明では「1076年にムラービト朝がガーナ王国を征服して滅ぼした」と断定されることがありました。しかし現在では、その直接征服の規模や実態について史料上の不確実性が指摘されています。

サハラ交易路の変化、周辺勢力の成長、政治的分裂など複数の要因を含む長期的衰退として扱う方が慎重です。重要なのは、ガーナ衰退後も西アフリカの金交易と都市ネットワークが消えず、後のマリ帝国へ再編されていくことです。

スワヒリ海岸の都市成長

東アフリカ沿岸ではキルワ、モンバサ、モガディシュなどの港湾都市がインド洋交易へ深く参加しました。

キルワでは11世紀頃から石造建築と貨幣鋳造が進み、東アフリカ内陸の象牙・金などとインド洋からの陶磁器・織物・ガラスなどが交換されました。

スワヒリ社会はアフリカ在地のバントゥー系文化を基盤に、イスラームと海上交易を組み込んだ都市文化でした。

南部アフリカと内陸交易

南部アフリカのリンポポ川流域では、11世紀にK2などの集落からMapungubweへ政治・経済的中心が移っていきました。

メトロポリタン美術館の年代記は、この地域で象牙加工や輸入ガラスビーズが確認され、東アフリカ沿岸交易との接続が存在したとしています。

後のグレート・ジンバブエにつながる金・象牙・牧畜・農業・長距離交易の社会基盤が形成されていきました。

カホキア — 北米の巨大中心地

1050年頃、現在のアメリカ・イリノイ州、ミシシッピ川東岸でカホキアが急速に巨大化しました。

UNESCOによれば、1050–1150年頃のカホキアは人口約1万〜2万人に達し、巨大な土塁、広場、集落群を持つ北米最大級の先コロンブス期中心地となりました。

トウモロコシ農業、儀礼、地域権力、長距離交換が集中し、貝、銅、石材などが広い地域から移動しました。文字史料を持たない社会であっても、都市的・政治的複雑性が存在していました。

トゥーラとトルテカ

中央メキシコでは1000–1200年頃、トゥーラを中心とするトルテカ都市国家が有力でした。

メトロポリタン美術館は1000年頃のトゥーラを中央メキシコ最大都市とし、約5平方マイルに広がり人口約6万人と推定しています。

戦士像、羽毛ある蛇、ジャガー、鷲など軍事・宗教的図像が建築装飾に用いられました。後世のアステカもトルテカを理想化された先行文明として記憶しました。

ミシュテカ諸王国

現在のオアハカ地域では多数のミシュテカ都市国家が存在しました。

11世紀後半には「8鹿ジャガーの爪」として知られる支配者がティラントンゴを中心に軍事・婚姻同盟を拡大しました。

その事績は後世の絵文書に記録されました。アメリカ大陸にも王統、戦争、婚姻、外交を記録する独自の歴史表現が存在していました。

マヤ世界の再編

古典期マヤ南部低地の王朝都市が10世紀までに衰退した後も、マヤ社会は継続しました。

ユカタン半島ではチチェン・イツァが1000年頃まで有力でしたが、1100年頃から建築活動が減り、政治中心が分散しました。マヤパンなど新しい都市が形成されていきました。

中央メキシコのトルテカ文化とユカタンの関係については美術様式の類似が知られますが、単純な「トルテカによるマヤ征服」と断定できる史料はありません。移住、交易、政治同盟など複数の接触形態が検討されています。

アンデス — ティワナク後の再編

アンデス高地では1000年頃まで広域的影響力を持ったティワナクが11世紀頃に急速に衰退しました。

メトロポリタン美術館は1100年頃、ボリビア高原で干ばつが始まりティワナク中心地が放棄されたと整理しています。

同じ頃、ペルー北海岸ではシカン文化から新しい政治中心が形成され、1150年頃にはチムー王国がチャン・チャンを中心に成長し始めました。高地の広域帝国衰退後、沿岸国家が新たな政治中心となっていきます。

同じ時代に存在した都市世界

1050–1200年を世界史として見ると、非常に異なる社会で大規模な都市・中心地が同時に存在していました。

開封と杭州は商業・行政都市、カイロとバグダードは交易・宗教・学術都市、コンスタンティノープルは帝国首都、アンコールとバガンは宗教・王権を可視化する巨大都市景観、カホキアは土塁と広場を中心とする儀礼・政治中心でした。

「都市」という言葉はそれぞれ異なる社会構造を一括りにする危険があります。しかし、人と物資と宗教儀礼と政治権力が密集する場所が世界各地で大型化したという比較は可能です。

交易・宗教・軍事は別々ではない

この時代の広域移動は「商業」「宗教」「戦争」にきれいに分けられません。

十字軍兵士が通った地中海路では商人と巡礼者も移動しました。セルジューク軍事移動はアナトリアの人口・宗教地理を変えました。巡礼路沿いには市場と宿泊施設が成長しました。チョーラ朝や宋の海上活動は貿易と国家財政・軍事を結びつけました。

宗教組織も経済主体でした。寺院、修道院、モスク、教会は土地、寄進、職人、写本、教育を管理しました。王朝が宗教施設を建設することは信仰行為であると同時に、資源を集中し政治的正統性を示す行為でもありました。

1050–1200年に何が変わったのか

1050–1200年の世界では、まずユーラシア各地の政治勢力が大きく再配置されました。セルジューク朝がイラン・イラク・アナトリアへ拡大し、北宋は女真金によって華北を失い南宋へ移行しました。西欧ではノルマン人がイングランドを征服し、日本では武士が全国政治へ進出しました。

宗教世界も再編されました。1054年の東西教会対立、教皇改革と叙任権闘争、1095年からの十字軍、セルジューク・ファーティマ・ザンギー・アイユーブ朝などイスラーム側政治勢力の変化が重なりました。宗教は個人的信仰だけではなく国家、土地、軍事、教育制度の中心でした。

同時に、宗教境界を越える交流も強まりました。十字軍地域でも交易は続き、イベリア半島やシチリアではアラビア語の科学・哲学書がラテン語へ翻訳されました。敵対と知識交換は同じ地域で並行していました。

東アジアでは宋の商業社会、海上交易、印刷、貨幣、航海技術が拡大しました。高麗は宋文化を取り入れながら独自の青磁を発展させ、東南アジアではバガンとアンコールが大規模な宗教・都市景観を形成しました。

南アジアでは統一帝国より複数の地域王朝が競合し、インド洋交易がそれらを横断しました。12世紀末にはゴール朝勢力が北インドへ大規模に進出し、1206年以後のデリー・スルタン朝への道を開きます。

アフリカではガーナ王国衰退後もサハラ交易が続き、東アフリカではスワヒリ港湾都市が成長しました。南部アフリカの内陸社会も海岸交易と接続しました。大陸内部と外部世界は別々ではありませんでした。

アメリカ大陸ではカホキア、トゥーラ、ミシュテカ諸王国、マヤ諸都市、アンデスの地域国家が独自の大規模社会を形成しました。ユーラシア・アフリカとの恒常的接続はありませんでしたが、「同じ時代の世界」を理解するにはこれらを同じ時間軸へ置く必要があります。

この時期までに複数の地域ネットワークはかなり高い密度へ達しました。次の13世紀にはモンゴル帝国が東アジアから東ヨーロッパ・西アジアまでを軍事的に接続し、ユーラシア内陸の移動規模をさらに大きくします。1050–1200年は、その直前に各地域の人口・都市・王権・交易が拡大した重要な準備段階でした。

1050–1200年の主な出来事

  • 1054年 — ローマ教皇使節とコンスタンティノープル総主教が相互破門。東西教会分裂の重要な転換点。
  • 1055年 — セルジューク朝トゥグリル・ベグがバグダードへ入り、ブワイフ朝支配を終わらせる。
  • 1066年 — ノルマンディー公ウィリアムがヘイスティングズで勝利し、イングランドを征服。
  • 1070年頃 — ヴィジャヤバーフ1世がスリランカからチョーラ勢力を排除し、ポロンナルワ期へ。
  • 1071年 — マンジケルトの戦い。セルジューク軍がビザンツ軍を破る。
  • 1075–1077年 — 李朝ベトナムと宋が大規模戦争。
  • 1076年 — 教皇グレゴリウス7世が皇帝ハインリヒ4世を破門。
  • 1077年 — ハインリヒ4世がカノッサで教皇と和解。
  • 1085年 — カスティーリャ王アルフォンソ6世がトレドを占領。
  • 1086年 — 日本で白河上皇の院政が始まる。
  • 1095年 — 教皇ウルバヌス2世がクレルモンで十字軍を呼びかける。
  • 1096年 — 十字軍集団によるラインラントのユダヤ人共同体襲撃。
  • 1099年7月15日 — 第一回十字軍がエルサレムを占領。
  • 11世紀後半 — カホキアがミシシッピ川流域で巨大化。
  • 1100年前後 — トゥーラが中央メキシコの有力都市として繁栄。
  • 1115年 — 女真の金朝成立。
  • 1119年頃 — 中国で航海用磁気コンパスに関する記録。
  • 1122年 — ヴォルムス協約が叙任権問題の妥協を成立させる。
  • 1125年 — 金が遼を滅ぼす。
  • 1127年 — 金軍が開封を占領、北宋滅亡。南宋成立。
  • 12世紀前半 — 高麗青磁が高度に発達。
  • 1113–1145年以後 — アンコール・ワット建設。
  • 1144年 — ザンギーがエデッサを占領。
  • 1147–1149年 — 第二回十字軍。
  • 1147年 — ムワッヒド朝がムラービト朝のマラケシュを攻略。
  • 1150年頃 — 宋の大型商船がインド洋西部まで活動。
  • 1150年頃以後 — アンデス北海岸でチムー王国が形成・拡大。
  • 1175年頃 — ゴール朝がパンジャーブ方面へ勢力を拡大。
  • 1180–1185年 — 日本で源平争乱。
  • 1185年 — 壇ノ浦で平氏主力が敗北。鎌倉政権形成が進む。
  • 1187年 — サラーフッディーンがハッティンで十字軍国家軍を破り、エルサレムを奪回。
  • 1189–1192年 — 第三回十字軍。
  • 1191年 — 栄西が宋から帰国し、日本で禅の普及を進める。
  • 1192年 — 源頼朝が征夷大将軍に任命される。同年ゴール朝が第二次タラーインの戦いで勝利。
  • 1200年頃 — ボローニャ・パリなどで大学制度が発達。西欧の都市的知識社会が拡大。

次の時代へ — モンゴルとユーラシア規模の接続

1200年頃、各地域の政治秩序はさらに大きな転換の入口にありました。

中央ユーラシアではテムジンがモンゴル諸集団を統合し、1206年にチンギス・ハンとして推戴されます。そこから数十年間でモンゴル軍は中国北部、中央アジア、イラン、ロシア、東ヨーロッパへ進出し、史上最大級の陸上帝国を形成します。

同じ1204年には第四回十字軍がエルサレムではなくコンスタンティノープルを占領・略奪し、ビザンツ帝国を一時崩壊させます。1206年には北インドでデリー・スルタン朝が始まります。

東南アジアではアンコール、バガン、ジャワの諸王国が繁栄し、中国では南宋と金が並立します。しかし13世紀後半にはこれらの多くがモンゴル帝国の軍事・外交圧力を受けます。

交易面でも、モンゴル支配下でユーラシア東西を移動する商人、使節、宗教者、技術者が増えます。後にはマルコ・ポーロなどの旅行記がこの接続を象徴します。一方、同じ広域交通網は14世紀に黒死病が拡大する経路にもなります。

次の記事では、1200–1300|モンゴル帝国とユーラシアの接続 — チンギス・ハン、征服、交易、移動として、13世紀に世界史の接続密度がどのように変化したのかを追います。

参考資料・出典

本ページは、The Metropolitan Museum of ArtのHeilbrunn Timeline of Art HistoryとMetPublications、UNESCO World Heritage Centre、Cambridge University Library、U.S. National Park Serviceなどの研究・公的資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。十字軍は「キリスト教とイスラームの単純な文明衝突」とせず、西欧内部の政治・宗教変化、ビザンツ帝国の要請、セルジューク系諸勢力、ファーティマ朝、ユダヤ人共同体、交易・文化交流を含めて扱いました。また、1054年の東西教会分裂や1185年の日本の政治転換も、一日で制度が完全に置き換わった出来事とはせず、長期的な変化の転換点として記述しています。

資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY