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World History

1979–1989

新自由主義と冷戦再燃

サッチャー、レーガン、改革開放、核軍拡、東欧革命

1979年から1989年までの十年間は、一見すると二つの逆方向の動きに分かれて見えます。前半には米ソ対立が再び激化し、核軍拡、アフガニスタン戦争、中米紛争、ポーランド危機などを通じて「新冷戦」と呼ばれる緊張が広がりました。ところが後半になると、ソ連のミハイル・ゴルバチョフが改革と軍備管理を進め、1987年には米ソがINF条約に署名し、1989年には東欧の共産党政権が次々に崩壊しました。

同じ十年間、世界経済でも大きな転換が進みました。1970年代のインフレーションと低成長への対応として、イギリスのマーガレット・サッチャー政権とアメリカのロナルド・レーガン政権は、物価安定、市場競争、規制緩和、減税、民営化、労働組合の権限抑制などを重視しました。後世にはこうした政策群が「新自由主義」と総称されることがありますが、両国の制度・政策は同一ではなく、当事者自身が一つの統一された経済思想を同じ方法で実行したわけでもありません。

アメリカではさらに、1979年に連邦準備制度理事会議長となったポール・ボルカーがインフレーション抑制を優先し、金利を大幅に引き上げました。1981–82年には深刻な景気後退と高失業が起きましたが、その後インフレーションは低下しました。高金利とドル高は世界にも影響し、とくにドル建て債務を抱えていたラテンアメリカ諸国では1982年に債務危機が本格化しました。

一方、中国ではまったく別の形で市場的仕組みが拡大しました。1978年末からの改革開放は、農村の生産請負、経済特区、外国投資、企業自主権拡大などを通じて計画経済を修正しました。しかし中国共産党による一党支配は維持されました。1989年春、北京を中心に政治改革・腐敗批判などを求める学生・市民の運動が広がりましたが、6月に軍が北京中心部へ入り、武力で運動を鎮圧しました。経済改革と政治的自由化が同じ速度で進むとは限らないことが明確になりました。

日本では1980年代前半、石油危機への適応と輸出競争力を背景に経済的存在感が強まり、アメリカとの貿易摩擦も拡大しました。1985年のプラザ合意後、円は急速に上昇しました。円高不況への懸念から国内需要拡大と金融緩和が進み、1980年代後半には土地・株式などの資産価格が急上昇しました。日本銀行の後年の検証は、この時期を資産価格上昇、経済活動の過熱、マネーと信用の膨張が併存した「バブル経済」と整理しています。

政治面では、権威主義体制から民主政治への移行も複数地域で進みました。1986年のフィリピンでは、マルコス政権に反対する大規模な「ピープル・パワー」が軍内部の離反と結びつき、コラソン・アキノ政権が成立しました。1987年の韓国では、拷問死事件などを契機に全国的な民主化運動が広がり、政府側が大統領直接選挙を含む改革を受け入れました。南米でもアルゼンチン、ブラジルなどで軍事政権から民政への移行が進みました。

1980年代後半の最大の変化はソ連と東欧で起きました。1985年に共産党書記長となったゴルバチョフは、経済再建を意味するペレストロイカと、情報公開・政治的議論を広げるグラスノスチを進めました。軍事費と外交緊張を減らす必要からアメリカとの軍備管理交渉も加速しました。1987年のINF条約では、米ソが一つのカテゴリーの地上発射中距離核ミサイルを廃棄することに合意しました。

ゴルバチョフはさらに、東欧諸国に対してソ連軍が自動的に介入して共産党政権を維持する従来の路線から離れていきました。その結果、1989年にはポーランドで「連帯」が選挙に参加し、ハンガリーが国境を開放し、東ドイツでは大規模な平和的デモと人口流出が政権を揺るがしました。11月9日、ベルリンの壁の国境検問所が開かれました。その後チェコスロヴァキアでビロード革命が起こり、ルーマニアではより暴力的な政権崩壊が起きました。

1989年は冷戦の「完全な終結日」ではありません。ソ連はまだ存在し、ドイツ再統一もソ連解体も1990–91年の出来事です。しかし、第二次世界大戦後40年以上続いた東欧のソ連型政治秩序が1989年に急速に解体し、ヨーロッパ冷戦の基本構造が戻れない形で崩れたことは確かです。

CONTENTS

  1. 1979年 — 次の時代への転換
  2. サッチャー政権成立
  3. 「新自由主義」という言葉をどう使うか
  4. インフレーション抑制とイギリス経済
  5. 1984–1985年 炭鉱ストライキ
  6. 民営化と市場化
  7. ボルカー・ショック
  8. 1981年 レーガン政権
  9. 減税、規制緩和、軍事支出
  10. 1981–1982年景気後退
  11. PATCOストライキ
  12. 1982年 ラテンアメリカ債務危機
  13. IMFと構造調整
  14. 1980年 ポーランド「連帯」
  15. 1981年 ポーランド戒厳令
  16. アフガニスタン戦争
  17. パキスタン、アメリカ、サウジアラビア
  18. 1980–1988年 イラン・イラク戦争
  19. 化学兵器と都市・タンカー戦争
  20. 1982年 フォークランド戦争
  21. 1982年 レバノン戦争
  22. 冷戦再燃と核軍拡
  23. 欧州中距離核ミサイル問題
  24. 1983年 戦略防衛構想SDI
  25. 核戦争への恐怖
  26. 中国の改革開放
  27. 農村改革と生産請負
  28. 経済特区
  29. 1984年 沿海都市開放
  30. 日本 — 輸出拡大と貿易摩擦
  31. 1985年 プラザ合意
  32. 急速な円高
  33. 1980年代後半のバブル経済
  34. 南アフリカ — 反アパルトヘイト運動
  35. 非常事態と国際制裁
  36. 1985年 ゴルバチョフ登場
  37. ペレストロイカ
  38. グラスノスチ
  39. 1986年 チェルノブイリ事故
  40. 1986年 フィリピン・ピープルパワー
  41. 1987年 韓国六月民主抗争
  42. 1987年 INF条約
  43. 1987年 第一次インティファーダ
  44. 1988–1989年 ソ連軍のアフガニスタン撤退
  45. 1988年 イラン・イラク戦争停戦
  46. 1989年 ポーランド円卓会議と選挙
  47. ハンガリー改革と国境開放
  48. 1989年 中国・天安門
  49. 東ドイツの平和革命
  50. 1989年11月9日 ベルリンの壁開放
  51. チェコスロヴァキアのビロード革命
  52. ルーマニア革命
  53. 「1989年=冷戦終結」なのか
  54. 1979–1989年に何が変わったのか
  55. 1979–1989年の主な出来事
  56. 次の時代へ — 冷戦後とグローバル化
  57. 参考資料・出典

1979年 — 次の時代への転換

1979年には、後の1980年代を特徴づける出来事が相次ぎました。イラン革命と第二次石油危機、サッチャー政権成立、中国改革開放の本格化、アメリカ連邦準備制度の金融引き締め、ソ連のアフガニスタン侵攻です。

1970年代のデタントと戦後高成長の延長上で世界を考えることが難しくなり、経済政策、安全保障、エネルギー、国家と市場の関係が同時に再検討されました。

1980年代は突然始まったのではなく、1979年の複数の危機から生まれたと言えます。

サッチャー政権成立

1979年5月、保守党のマーガレット・サッチャーがイギリス首相となりました。1970年代のイギリスでは高インフレーション、低成長、労使対立、財政・国際収支問題などが続き、「英国病」という表現も広く使われていました。

サッチャー政権は、インフレーション抑制を最優先し、通貨供給量管理、歳出抑制、労働市場改革、市場競争の強化を進めました。

イングランド銀行の後年の整理でも、1979年政権のマクロ経済戦略では貨幣供給目標が中心的役割を持ち、その後の商品市場・労働市場改革と組み合わされたと説明されています。

「新自由主義」という言葉をどう使うか

1980年代のサッチャー政権、レーガン政権、国際金融機関の政策を「新自由主義」と総称することがあります。一般には、国家所有や直接規制より市場競争を重視し、民営化、規制緩和、貿易自由化、減税、財政規律などを推進する方向を指します。

しかしこの語は後世の研究・批評で広く使われる分析概念で、政策担当者全員が同じ意味で「新自由主義」を自称していたわけではありません。イギリス、アメリカ、チリ、国際通貨基金などでは制度も政治条件も異なりました。

したがって本記事では、一つの世界的計画が一斉に実行されたという意味ではなく、1970年代危機への対応として市場重視の政策が複数地域で強まったことを示す便宜的な言葉として用います。

インフレーション抑制とイギリス経済

サッチャー政権初期には高金利と財政引き締め、ポンド高、世界景気後退などが重なり、製造業生産が大きく低下し、失業率が上昇しました。

一方、1970年代後半から続いていた高インフレーションは1980年代前半に低下しました。貨幣供給量の目標値は実際にはしばしば達成できず、イングランド銀行は後に貨幣指標だけで金融政策を運営する難しさを指摘しています。

「サッチャー政権が単一の教科書的マネタリズムを十年間そのまま実行した」と考えるより、初期の強い貨幣目標から為替・金利・財政を含むより実務的な政策へ変化したと見る方が実態に近いものです。

1984–1985年 炭鉱ストライキ

1984年3月から85年3月まで、イギリス炭鉱労働者全国組合NUMは炭鉱閉鎖をめぐって約一年間の大規模ストライキを行いました。

政府と全国石炭公社側は採算性の低い炭鉱閉鎖を必要とし、NUM側は地域雇用と炭鉱産業そのものを守ろうとしました。ストライキではピケ、警察動員、労組内部の意見対立が激しく、イギリス社会を二分する政治闘争となりました。

ストライキは最終的にNUM側が全国的合意を得ないまま職場復帰して終結しました。以後、炭鉱労組を含む伝統的労働組合の政治的影響力は低下していきます。

民営化と市場化

1980年代のイギリスでは、ブリティッシュ・テレコム、ブリティッシュ・ガスなど大規模国有企業の民営化が進みました。公営住宅の入居者へ自宅購入を促す「Right to Buy」も拡大しました。

民営化は政府財政への収入をもたらし、株式所有を一般市民へ広げることも目標とされました。一方で、公益事業の料金・規制、地域格差、雇用などをめぐる議論も続きました。

国家が直接企業を所有・運営する戦後型モデルから、民間所有と規制制度を組み合わせるモデルへの移行が進みました。

ボルカー・ショック

1979年8月、ポール・ボルカーがアメリカ連邦準備制度理事会議長に就任しました。第二次石油危機の中でインフレーション期待が強まり、FRBは同年10月から金融政策運営を大きく転換しました。

金利は非常に高い水準まで上昇し、住宅、自動車、製造業など金利に敏感な部門を強く圧迫しました。1980年と1981–82年に景気後退が起こり、1982年には失業率が10%を超える時期もありました。

代償は大きかったものの、インフレーション率は1980年代前半に大きく低下しました。金融当局が雇用・景気より物価安定を優先する政策転換は、世界の中央銀行政策にも長期的影響を与えました。

1981年 レーガン政権

1980年大統領選挙でロナルド・レーガンが勝利し、1981年1月に就任しました。レーガンは連邦政府規制と税負担を縮小し、民間企業と個人の経済活動を活性化させることを掲げました。

同時に国防支出を増加させ、ソ連に対する軍事的・外交的圧力を強めました。

レーガン政権は国内経済の市場化と、対外政策の軍備増強を同時に進めた点で1980年代アメリカ政治を特徴づけました。

減税、規制緩和、軍事支出

1981年には大規模な個人所得税減税が成立し、三年間で税率を段階的に引き下げることになりました。企業投資への減税も拡大しました。

レーガン政権は規制緩和と社会支出抑制を進める一方、国防予算を大幅に増加させました。

景気回復後には雇用と生産が拡大しましたが、財政赤字と連邦政府債務も増えました。レーガン政権期の経済を「小さな政府」とだけ表現すると、軍事支出の拡大と財政赤字という別の側面が見えなくなります。

1981–1982年景気後退

高金利政策はインフレーションを抑制する一方、1981年から82年に深刻な景気後退を引き起こしました。製造業地域では工場閉鎖・失業が増加しました。

レーガン政権の経済政策とFRBの金融引き締めは別の意思決定主体による政策でした。高金利を直接決めたのは連邦準備制度であり、政権の減税・歳出政策と区別する必要があります。

1982年後半から景気は回復し、インフレーション率も1970年代より低い水準へ移りました。

PATCOストライキ

1981年8月、アメリカの航空管制官組合PATCOが労働条件改善などを求めてストライキへ入りました。連邦職員のストライキは法律で禁止されていました。

レーガン大統領は職場復帰期限を設定し、期限までに戻らなかった1万人を超える航空管制官を解雇しました。

PATCO事件は、民間企業の労使関係を直接規定したわけではありませんが、1980年代アメリカで労働組合の交渉力が低下していく象徴的出来事となりました。

1982年 ラテンアメリカ債務危機

1970年代、国際銀行は産油国から流入した大量の資金をラテンアメリカなどへ貸し出していました。多くの融資はドル建て変動金利でした。

アメリカの高金利、ドル高、世界景気後退、一次産品価格低下によって、債務国の返済負担は急増しました。1982年8月、メキシコが対外債務を予定通り返済できないと表明し、危機が地域全体へ広がりました。

IMFの歴史資料は、1982年メキシコ危機をラテンアメリカ債務危機の始まりとして位置づけています。

IMFと構造調整

債務国はIMFや世界銀行、民間銀行と交渉し、緊急融資と債務再編を受けました。その条件として財政赤字削減、通貨切下げ、補助金削減、国営企業改革、貿易自由化などが求められることが多くありました。

これらは国際収支を改善し返済能力を回復することを目標としましたが、短期的には失業、実質賃金低下、公共支出削減を伴う場合がありました。

1980年代はラテンアメリカで「失われた十年」と呼ばれる低成長期となりました。後に1989年に「ワシントン・コンセンサス」という言葉が作られますが、1980年代初めの政策を最初からその名前の統一プログラムとして扱うのは時代を遡った説明になります。

1980年 ポーランド「連帯」

1980年夏、ポーランドで食料価格引き上げに対する労働者ストライキが広がりました。バルト海沿岸のグダニスク造船所ではレフ・ワレサらがストライキを組織しました。

政府とのグダニスク合意によって、独立自主管理労組「連帯」が合法化されました。共産党支配下の東欧で、党から独立した大規模労働組合が公認されたことは異例でした。

連帯は労働条件だけでなく表現・宗教・政治参加をめぐる幅広い社会運動へ成長し、会員は数百万人規模となりました。

1981年 ポーランド戒厳令

1981年12月13日、ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ政権は戒厳令を導入しました。連帯指導者を含む多数が拘束され、ストライキ・集会・出版活動が制限されました。

ソ連軍が直接侵攻したわけではありませんが、ポーランド指導部はソ連とワルシャワ条約体制の圧力を強く意識していました。

連帯は地下活動へ移りました。戒厳令によって運動は一時抑圧されましたが消滅せず、1989年の政治交渉へつながります。

アフガニスタン戦争

1979年末にソ連軍が介入したアフガニスタンでは、1980年代を通じて政府軍・ソ連軍と、複数のムジャヒディン勢力との戦闘が続きました。

山岳地帯と農村を中心にゲリラ戦が展開され、ソ連軍は主要都市・道路・基地を支配しながら反政府勢力を完全には排除できませんでした。

戦争によって多数の住民が死亡・負傷し、数百万人がパキスタンやイランへ避難しました。第二次世界大戦後最大級の難民危機の一つとなりました。

パキスタン、アメリカ、サウジアラビア

アフガニスタン反政府勢力は国内だけで戦っていたわけではありません。パキスタン軍統合情報局ISIを中心に武器・資金・訓練が提供され、アメリカとサウジアラビアも大規模な支援を行いました。

レーガン政権はアフガニスタンを、ソ連の勢力拡大を押し戻す冷戦戦線の一つと位置づけました。

しかしムジャヒディンは単一組織ではなく、イスラム主義、民族、地域、指導者によって複数派閥に分かれていました。後のアフガニスタン内戦を理解するには、反ソ勢力を一枚岩として描かないことが重要です。

1980–1988年 イラン・イラク戦争

1980年9月、サダム・フセイン政権下のイラク軍がイランへ侵攻し、八年間に及ぶ戦争が始まりました。国境、シャット・アル=アラブ水路、1979年イラン革命後の地域勢力関係などが背景にありました。

イラクは短期戦を想定しましたが、イラン側は体制崩壊を免れて反撃し、1982年にはイラク軍を国境付近まで押し戻しました。その後イランはイラク領内へ進攻し、戦争は消耗戦となりました。

湾岸アラブ諸国の多くはイラクを財政的に支援し、アメリカ、ソ連、欧州諸国もそれぞれ異なる形で地域へ関与しました。

化学兵器と都市・タンカー戦争

イラク軍は戦争中、イラン軍やクルド人住民に対して化学兵器を使用しました。国際機関の調査でも化学兵器使用が確認されました。

両国は相手の都市をミサイル・航空機で攻撃する「都市戦争」を行い、ペルシャ湾では石油輸送船を攻撃する「タンカー戦争」も拡大しました。

戦争終盤にはアメリカ海軍が湾岸で船舶護衛とイラン軍との武力衝突に関与しました。地域戦争が世界の石油輸送と大国軍事力へ直接結びつきました。

1982年 フォークランド戦争

1982年4月、アルゼンチン軍事政権はイギリスが実効支配するフォークランド諸島、アルゼンチン名マルビナス諸島を占領しました。アルゼンチンは長く領有権を主張していました。

サッチャー政権は大規模な海空軍部隊を南大西洋へ派遣し、約二か月の戦闘で島を奪回しました。

戦争は領有権問題を解決せず、アルゼンチンは現在も主権を主張しています。一方、敗北はアルゼンチン軍事政権の政治的正統性を大きく損ない、1983年の民政移管につながる要因の一つとなりました。

1982年 レバノン戦争

1975年以来内戦状態にあったレバノンには、PLOの武装組織、シリア軍、キリスト教系民兵、イスラエルなど多くの勢力が介入していました。

1982年6月、イスラエル軍はPLO勢力を国境から排除することなどを目的にレバノンへ大規模侵攻し、ベイルートを包囲しました。国際交渉の結果、PLO指導部はチュニジアなどへ退去しました。

同年9月、イスラエル軍が西ベイルートを占領する中、レバノンのキリスト教系民兵がサブラ・シャティーラ難民地区でパレスチナ人などを大量殺害しました。イスラエル国内のカハン委員会はイスラエル側に間接的責任があると認定しました。

冷戦再燃と核軍拡

ソ連のアフガニスタン侵攻、ポーランド戒厳令、米ソ間の軍備競争によって1980年代前半の冷戦は強く緊張しました。

レーガン政権は軍事予算を拡大し、MX大陸間弾道ミサイル、B-1爆撃機、海軍増強などを進めました。ソ連も巨大な核・通常戦力を維持しました。

両国の核戦力はすでに相手国を壊滅させる規模に達していました。軍拡は単純な兵器数量競争ではなく、相手が先制攻撃や防御技術で優位に立つという認識を互いに恐れる安全保障上の連鎖でもありました。

欧州中距離核ミサイル問題

ソ連がSS-20中距離ミサイルを配備すると、NATOは1979年に「二重決定」を行い、軍備管理交渉を提案すると同時に、合意できなければ西欧へアメリカのパーシングIIと地上発射巡航ミサイルを配備する方針を決めました。

1983年に配備が始まると、西ドイツ、イギリス、オランダなどで大規模な反核デモが起きました。

この中距離核戦力問題が、後に1987年INF条約で一つの兵器カテゴリーを全面廃棄する交渉へつながります。

1983年 戦略防衛構想SDI

1983年3月、レーガン大統領は弾道ミサイルを飛翔中に迎撃する技術研究「戦略防衛構想」、SDIを発表しました。「スター・ウォーズ」と呼ばれることもありました。

核抑止を「相手の報復能力を保証すること」から「核ミサイルを防御すること」へ変える可能性を持つ構想だったため、ソ連は自国の抑止力を無効化する脅威として強く警戒しました。

技術的実現可能性をめぐる議論は大きく、完全な防衛網は実現しませんでした。しかしSDIは1980年代後半の米ソ軍備管理交渉で主要争点となりました。

核戦争への恐怖

1983年は米ソ関係が特に緊張した年でした。9月にはソ連軍が領空侵犯した大韓航空007便を撃墜し、多数の乗客・乗員が死亡しました。

同年11月、NATO指揮演習「Able Archer 83」が行われました。後に公開された情報から、ソ連側が西側による核攻撃準備の可能性を強く警戒していたことが明らかになっています。

実際に西側が核攻撃を始めようとしていたわけではありません。しかし互いの意図を誤認する危険が、キューバ危機から二十年後も存在していました。

中国の改革開放

鄧小平を中心とする中国指導部は、文化大革命後の経済停滞から脱するため「四つの現代化」を進めました。農業、工業、科学技術、国防の近代化が重点となりました。

改革は中央計画を一度に廃止するものではありませんでした。国有企業、国家価格、計画配分を残しながら、その外側や内部に市場的な取引・利益動機・地方裁量を段階的に広げる方式でした。

この「二重構造」は急速な成長を生む一方、価格差を利用した腐敗や地域格差など新しい問題も生みました。

農村改革と生産請負

農村では人民公社の集団農業を緩め、土地の所有は集団に残しながら、農家単位で生産責任を負う「家庭聯産承包責任制」が広がりました。

農家は国家への納入など一定義務を果たした後、余剰生産物をより自由に販売できるようになりました。

1980年代前半には農業生産と農家所得が大きく増加し、人民公社制度は解体されていきました。

経済特区

1980年、中国は深圳、珠海、汕頭、厦門などに経済特区を設置しました。外国資本、輸出加工、税制優遇、市場的経営を限定地域で実験する制度でした。

特に香港に隣接する深圳は、小規模な都市から輸出製造業と外国投資の巨大拠点へ急成長しました。

経済特区は「中国全土を一度に市場化する」のではなく、一部地域で制度実験を行い成功例を拡大する改革方式を象徴しています。

1984年 沿海都市開放

1984年、中国政府は上海、天津、広州など14の沿海都市を対外開放し、外国投資受け入れ地域を拡大しました。

沿海地域の成長を先行させ、その資本・技術・輸出能力を全国経済へ波及させる発展戦略が強まりました。

その結果、中国経済の成長は加速しましたが、沿海部と内陸部、都市と農村の格差も次第に広がりました。

日本 — 輸出拡大と貿易摩擦

1980年代、日本の自動車、電機、半導体などの輸出競争力は高まり、対米貿易黒字が拡大しました。アメリカでは製造業雇用や貿易赤字をめぐる政治問題として「日本問題」が強く意識されました。

日本企業は現地生産を拡大し、自動車メーカーなどが北米へ工場を建設しました。

貿易摩擦は単に「日本が輸出しすぎた」という問題だけではなく、ドル高、アメリカの財政・貯蓄構造、産業競争力、市場アクセスなど複数の問題と結びついていました。

1985年 プラザ合意

1985年9月22日、アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、日本のG5財務相・中央銀行総裁がニューヨークのプラザホテルで会合し、ドル高是正のため協調行動を取ることで合意しました。

日本財務省の政策史は、当時ドル円相場が1984年から1ドル250円を超える水準までドル高・円安となり、アメリカの貿易赤字が急拡大していたことを背景に、アメリカが従来の為替市場不介入姿勢を変更したと説明しています。

プラザ合意後、主要国は協調介入を行い、ドルは急速に下落しました。

急速な円高

円はプラザ合意前の1ドル240円前後から、1980年代後半には120円台まで上昇しました。輸出企業は価格競争力低下と海外生産移転の圧力に直面しました。

政府・日本銀行は円高不況への懸念から国内需要拡大策と金融緩和を進めました。1987年のルーブル合意では、今度は急速なドル下落を止め為替相場を安定させることが主要国の課題となりました。

為替調整は貿易不均衡を一挙に解消せず、国内政策との組み合わせが重要になりました。

1980年代後半のバブル経済

1980年代後半、日本では株価と土地価格が急上昇し、企業・金融機関の貸出と投資も拡大しました。

日本銀行の後年の研究は、バブル期を「資産価格の急激な上昇」「経済活動の過熱」「マネー・信用の膨張」の三つで特徴づけています。プラザ合意後の円高そのものが単独でバブルを作ったのではなく、長期的金融緩和、金融自由化、土地担保融資、強気な成長期待など複数の要因が相互作用しました。

1989年末には株式市場が歴史的高値圏に達しました。バブルの崩壊と長期停滞は次の1990年代の記事で扱います。

南アフリカ — 反アパルトヘイト運動

南アフリカでは1983年に非人種主義を掲げる統一民主戦線UDFが結成され、1984年以後、タウンシップで選挙ボイコット、家賃不払い、ストライキ、学生運動などが拡大しました。

国外ではANCが武装闘争と国際的制裁要求を続け、労働組合運動も組織力を強めました。

アパルトヘイト政府は限定的な制度改革を行いましたが、黒人多数派に国政参加を認めなかったため、抗議を抑えることができませんでした。

非常事態と国際制裁

1985年7月、政府は一部地域に非常事態を宣言し、1986年には全国へ拡大しました。治安機関には広範な拘束権限が与えられ、報道規制も強化されました。

国内抵抗と同時に国際的経済制裁も拡大しました。アメリカ議会は1986年、レーガン大統領の拒否権を覆して包括的反アパルトヘイト法を成立させました。

制裁だけでアパルトヘイトが崩壊したわけではありませんが、国内大衆運動、労働運動、企業撤退、国際的孤立、地域戦争の負担が重なり、政府に政治交渉を検討させる圧力となりました。

1985年 ゴルバチョフ登場

1985年3月、54歳のミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長となりました。ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコと高齢指導者が相次いで死去した後の世代交代でした。

ソ連経済は低成長、技術革新の遅れ、農業問題、巨額の軍事負担を抱えていました。ゴルバチョフは経済再建のため国内制度と対外関係の双方を変える必要があると考えました。

改革は当初、ソ連型社会主義を廃止するためではなく、それを活性化し維持するために始まりました。

ペレストロイカ

ペレストロイカは「再建・再編」を意味し、企業の自主性拡大、経済管理改革、限定的な協同組合・民間活動の容認などを含みました。

しかし中央計画制度と市場的仕組みの関係は不明確で、旧制度の統制を弱める一方、新しい価格・所有制度を十分に整えない状態が生じました。

改革は供給不足や財政問題をすぐには解決せず、むしろ既存経済システムの矛盾を表面化させる面もありました。

グラスノスチ

グラスノスチは「公開性」を意味し、報道・出版・歴史研究・政治議論の範囲を拡大しました。

スターリン時代の粛清、アフガニスタン戦争、社会問題など、以前は公然と議論しにくかったテーマがメディアに登場しました。

改革の目的は党への信頼を回復し社会の参加を高めることでしたが、公開された問題の規模は共産党支配そのものへの批判を強めました。情報公開は政権が完全には制御できない政治力となりました。

1986年 チェルノブイリ事故

1986年4月26日、ウクライナ共和国北部のチェルノブイリ原子力発電所4号炉で爆発事故が起きました。大量の放射性物質が大気中へ放出され、周辺住民の避難と広範な環境汚染を引き起こしました。

IAEAは、事故が原子炉設計上の欠陥と安全規則違反を含む運転上の問題が重なって発生したと整理しています。

ソ連政府の初期情報公開の遅れは国内外から強い批判を受けました。ゴルバチョフ自身も後に、チェルノブイリがグラスノスチを進める重要な契機になったと振り返っています。

1986年 フィリピン・ピープルパワー

フィリピンではフェルディナンド・マルコスが1965年以来大統領を務め、1972年から長期間の戒厳令・権威主義統治を行いました。1983年、野党指導者ベニグノ・アキノ・ジュニアが帰国直後に暗殺されると、反政権運動が急速に拡大しました。

1986年2月の大統領選挙ではマルコスとコラソン・アキノ双方が勝利を主張し、不正選挙への抗議が広がりました。軍の一部がマルコスから離反すると、マニラのエドゥサ通り周辺へ多数の市民が集まりました。

2月25日、マルコスは国外へ退去し、アキノが大統領となりました。Library of Congressのフィリピン研究は、ピープルパワーを宗教界、企業層、軍内反対派、都市中間層から労働者まで広い支持を持つ運動として整理しています。

1987年 韓国六月民主抗争

韓国では全斗煥政権下で大統領間接選挙と強い政治統制が続いていました。1987年1月、ソウル大学生の朴鍾哲が警察取り調べ中の拷問で死亡したことが明らかになり、政府への抗議が拡大しました。

6月には全国で連日の大規模デモが行われ、学生だけでなく会社員・市民層も参加しました。延世大学生李韓烈が催涙弾を受けて重傷を負い、後に死亡したことも運動を拡大させました。

6月29日、盧泰愚は大統領直接選挙、政治犯釈放、基本権拡大などを含む民主化宣言を発表しました。Library of Congressは六月抗争を韓国民主化の決定的転換点の一つとして位置づけています。

1987年 INF条約

1987年12月8日、レーガン大統領とゴルバチョフ書記長はワシントンで中距離核戦力全廃条約、INF条約へ署名しました。

条約は射程500~5,500キロメートルの地上発射弾道・巡航ミサイルを米ソ双方が廃棄し、将来も保有しないことを定めました。従来の軍備管理が兵器数の上限を設定することが多かったのに対し、一つの兵器カテゴリーを全面廃棄した点が重要でした。

さらに相互査察を含む詳細な検証制度が導入されました。国務省史料はこれを冷戦期軍備管理の画期的成果と位置づけています。

1987年 第一次インティファーダ

1987年12月、ガザ地区での交通事故と葬儀を契機に、イスラエル占領下のパレスチナ地域で大規模な抗議運動が始まりました。ヨルダン川西岸とガザへ急速に広がりました。

デモ、ストライキ、商店閉鎖、納税拒否、投石など多様な抵抗が行われました。イスラエル軍・治安部隊との衝突では多数の死傷者が出ました。

インティファーダはパレスチナ問題の中心を周辺アラブ国家間の戦争だけでなく、占領下住民自身の政治運動へ移す契機となりました。

1988–1989年 ソ連軍のアフガニスタン撤退

ゴルバチョフ政権はアフガニスタン戦争を長期的な負担と判断し、撤退を模索しました。

1988年4月、アフガニスタンとパキスタンは国連仲介のジュネーヴ協定へ署名し、アメリカとソ連が保証国となりました。ソ連軍は同年5月から段階的撤退を開始しました。

1989年2月15日、最後のソ連軍部隊がアムダリヤ川を越えて撤退しました。ただし戦争そのものは終わらず、ソ連支援のナジブラ政権とムジャヒディンの内戦は続きました。

1988年 イラン・イラク戦争停戦

国連安全保障理事会は1987年に決議598を採択し、停戦、軍撤退、捕虜交換などを求めました。

イランは当初受諾しませんでしたが、1988年には戦場状況、経済負担、アメリカ軍との湾岸衝突などを背景に受諾へ転じました。

1988年8月20日に停戦が発効しました。八年間の戦争は国境を大きく変えないまま終結し、双方に膨大な人的・経済的損失を残しました。

1989年 ポーランド円卓会議と選挙

1988年、ポーランドで新たなストライキが起こり、経済危機も深刻化しました。政府は非合法化していた連帯との交渉を開始しました。

1989年2月から4月の円卓会議で、連帯の再合法化、上院新設、部分的に自由な議会選挙などが合意されました。

6月の選挙では、自由に争われた議席のほぼすべてを連帯系候補が獲得しました。8月にはタデウシュ・マゾヴィエツキが首相となり、東欧で戦後初の非共産党系首相が率いる政府が成立しました。

ハンガリー改革と国境開放

ハンガリーでは1980年代後半に政治・経済改革が進み、1989年には複数政党制への移行が始まりました。

同年5月、ハンガリー政府はオーストリア国境の鉄条網撤去を開始しました。夏以後、多数の東ドイツ市民がハンガリー経由で西側へ移動しようとしました。

9月にはハンガリーが東ドイツ市民の西側への出国を認め、東ドイツ政権への圧力が急激に高まりました。ドイツ連邦議会も、ハンガリーの国境開放が東ドイツからの大量流出を加速したと記録しています。

1989年 中国・天安門

1989年4月、改革派指導者として知られた胡耀邦の死を契機に、北京の学生が追悼集会を始めました。要求は腐敗批判、報道の自由、政府との対話、政治改革などへ広がりました。

天安門広場には学生だけでなく市民・労働者も集まり、五月には大規模な抗議運動となりました。政府内部では対応をめぐる意見が分かれました。

6月3日夜から4日にかけて人民解放軍が北京中心部へ進み、武力で抗議運動を鎮圧しました。死者数は現在も確定しておらず、推計には幅があります。アメリカ国務省史料は6月4日の武力鎮圧後、米中関係が大きく冷却したと記録しています。

東ドイツの平和革命

東ドイツでは1989年、ハンガリーなどを経由して西側へ出国する市民が増加しました。一方国内では教会を基盤にしていた市民運動が公然化し、言論・旅行・自由選挙を求めるデモが広がりました。

ライプツィヒでは月曜デモが拡大し、10月9日には数万人が参加しました。政府は大規模流血弾圧を行わず、抗議はさらに広がりました。

ドイツ連邦議会は、1989年秋の平和革命を市民自身がSED独裁体制を変化させた運動として位置づけています。

1989年11月9日 ベルリンの壁開放

11月9日、東ドイツ政治局員ギュンター・シャボウスキーは記者会見で、新しい旅行規則について質問され「直ちに、遅滞なく」適用されると受け取られる説明をしました。

多数の市民が国境検問所へ押し寄せ、現場の警備隊は明確な指示を得られないまま通行を認め始めました。ボルンホルマー通りをはじめ検問所が次々に開かれました。

壁はこの夜ただちに物理的にすべて撤去されたわけではありません。しかし1961年以来、東西ベルリン間の移動を強制的に遮断してきた国境体制が実質的に崩壊しました。

チェコスロヴァキアのビロード革命

1989年11月17日、プラハで学生デモが警察に弾圧されたことを契機に抗議運動が急拡大しました。ヴァーツラフ・ハヴェルら反体制知識人を中心に「市民フォーラム」が形成されました。

大規模デモとゼネストの圧力で共産党は憲法上の指導的役割を放棄し、非共産党勢力を含む政府が成立しました。

12月末にはハヴェルが大統領へ選出されました。比較的流血が少なく政治体制が急速に転換したため「ビロード革命」と呼ばれます。

ルーマニア革命

東欧1989年の政権崩壊はすべて平和的だったわけではありません。ルーマニアではニコラエ・チャウシェスク政権が強い個人独裁と秘密警察による統制を維持していました。

12月、ティミショアラでの抗議が軍・治安部隊との衝突へ発展し、ブカレストにも拡大しました。軍の一部が政権から離反し、チャウシェスク夫妻は逃亡後に拘束されました。

12月25日、夫妻は短時間の軍事裁判後に処刑されました。東欧革命の中で最も暴力的な政権交代となりました。

「1989年=冷戦終結」なのか

ベルリンの壁崩壊は冷戦終結の象徴として広く記憶されています。しかし1989年11月9日に冷戦に関するすべての制度が終了したわけではありません。

東西ドイツはまだ別国家で、ドイツ統一は1990年10月です。ワルシャワ条約機構とソ連は存続し、ソ連解体は1991年12月でした。米ソの核兵器も残りました。

それでも1989年の東欧革命によって、ソ連が軍事・政治的に東欧共産党政権を維持する戦後体制は崩壊しました。したがって1989年は冷戦「終結の過程」が不可逆的になった決定的年と位置づけるのが適切です。

1979–1989年に何が変わったのか

1979年の世界は、第二次石油危機、インフレーション、イラン革命、ソ連のアフガニスタン侵攻によって不安定化していました。十年後の1989年には、東欧の共産党政権が相次いで崩壊し、米ソ対立そのものも終結へ向かっていました。この変化は単なる「西側の勝利」や「ソ連の敗北」という一行では説明できません。

経済では、サッチャー・レーガン政権が市場競争、規制緩和、減税、民営化を重視し、1970年代までの国家介入型政策を修正しました。FRBの金融引き締めはインフレーションを低下させましたが、高失業と世界的な債務危機を伴いました。ラテンアメリカでは債務危機を契機に国際金融機関の影響力が強まりました。

市場化は西側だけの現象ではありませんでした。中国は共産党支配を維持しながら農村改革、経済特区、外国投資を導入しました。中国の改革は英米型の民営化政策とは異なる経路でしたが、世界経済へ参加する巨大な労働・生産市場を形成し始めました。

日本は1980年代に先進工業国の主要経済大国として存在感を強め、対米貿易摩擦の中心となりました。プラザ合意後の急速な円高を経て内需拡大が進み、1980年代後半には資産価格バブルが形成されました。世界経済の中心は大西洋だけでなく東アジアへも広がっていました。

政治面では、民主化が複数地域で進みました。フィリピンのピープルパワー、韓国六月民主抗争、南米の民政移管、ポーランド「連帯」は、冷戦下でも市民社会・労働組合・学生・宗教組織などが政治体制を変える力を持ったことを示しました。

ただし1980年代を「民主化の十年」とだけ見ることもできません。イラン・イラク戦争、アフガニスタン戦争、レバノン戦争、南アフリカ非常事態、天安門での武力鎮圧など、大規模な国家暴力と戦争も続きました。

冷戦では、レーガン政権初期の軍備増強から、ゴルバチョフ登場後の軍備管理へ大きな変化が起きました。INF条約は一つの核兵器カテゴリーを廃棄し、ソ連軍はアフガニスタンから撤退しました。ゴルバチョフが東欧への軍事介入を控えたことで、1989年の政治変化は1956年ハンガリーや1968年チェコスロヴァキアのようなソ連軍介入を受けませんでした。

そして1989年、ポーランドの選挙、ハンガリーの国境開放、東ドイツの平和革命、ベルリンの壁開放、チェコスロヴァキアのビロード革命、ルーマニア政権崩壊が連鎖しました。1945年以来のヨーロッパ分断は急速に解体へ向かいました。

しかしこの時点で未来が決まっていたわけではありません。中国では同じ1989年に天安門で民主化要求が武力鎮圧されました。ソ連自体の改革も経済・民族問題を深刻化させていました。1990年代に「自由民主主義と市場経済が世界的に一方向へ広がる」と考えられる時期が訪れますが、それが長期的に確定した結論ではなかったことは後の歴史が示します。

1979–1989年の主な出来事

  • 1979年5月 — マーガレット・サッチャーがイギリス首相に就任。
  • 1979年8月 — ポール・ボルカーがFRB議長に就任。
  • 1979年12月 — ソ連軍がアフガニスタンへ介入。
  • 1980年 — 中国が深圳などに経済特区を設置。
  • 1980年8月 — ポーランドでグダニスク合意、「連帯」成立。
  • 1980年9月 — イラク軍がイランへ侵攻、イラン・イラク戦争開始。
  • 1981年1月 — ロナルド・レーガンがアメリカ大統領に就任。
  • 1981年8月 — レーガン政権がスト中の航空管制官多数を解雇。
  • 1981年12月13日 — ポーランドで戒厳令。
  • 1982年4–6月 — フォークランド戦争。
  • 1982年6月 — イスラエル軍がレバノンへ侵攻。
  • 1982年8月 — メキシコ債務危機が表面化。
  • 1983年3月 — レーガンが戦略防衛構想SDIを発表。
  • 1983年9月 — ソ連軍が大韓航空007便を撃墜。
  • 1983年 — NATOが西欧へのパーシングIIなどの配備を開始。
  • 1984年 — 中国が14沿海都市を対外開放。
  • 1984年3月–1985年3月 — イギリス炭鉱ストライキ。
  • 1985年3月 — ミハイル・ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任。
  • 1985年7月 — 南アフリカが一部地域に非常事態を宣言。
  • 1985年9月22日 — G5がプラザ合意。
  • 1986年2月 — フィリピンでピープルパワー、マルコス政権崩壊。
  • 1986年4月26日 — チェルノブイリ原発事故。
  • 1986年 — 南アフリカで全国的非常事態。米議会が包括的反アパルトヘイト法を成立。
  • 1987年6月 — 韓国で六月民主抗争。
  • 1987年12月8日 — 米ソがINF条約へ署名。
  • 1987年12月 — 第一次インティファーダ開始。
  • 1988年 — イラン・イラク戦争停戦。
  • 1988年4月 — アフガニスタン問題をめぐるジュネーヴ協定。
  • 1988年5月 — ソ連軍がアフガニスタンからの段階的撤退を開始。
  • 1989年2月15日 — ソ連軍のアフガニスタン撤退完了。
  • 1989年2–4月 — ポーランド円卓会議。
  • 1989年6月 — ポーランド選挙で連帯系候補が圧勝。
  • 1989年6月3–4日 — 中国政府が北京の抗議運動を武力鎮圧。
  • 1989年夏–秋 — ハンガリー経由の東ドイツ市民流出が拡大。
  • 1989年秋 — 東ドイツ各地で平和的な大規模デモ。
  • 1989年11月9日 — ベルリンの壁の国境検問所が開放。
  • 1989年11–12月 — チェコスロヴァキアでビロード革命。
  • 1989年12月 — ルーマニアでチャウシェスク政権崩壊。

次の時代へ — 冷戦後とグローバル化

1989年の東欧革命によって冷戦のヨーロッパ分断は崩れ始めました。しかし次の二年間にはさらに大きな変化が続きます。1990年には東西ドイツが統一され、1991年にはワルシャワ条約機構が解体され、12月にソ連そのものが消滅します。

一方、冷戦終結が平和な世界を保証したわけではありません。1990年にはイラクがクウェートへ侵攻し、翌年湾岸戦争が起きます。ユーゴスラヴィアも解体過程で内戦へ入り、民族浄化と大量難民を生みます。

経済では市場化と国際資本移動がさらに拡大します。欧州ではマーストリヒト条約を通じてEU形成へ進み、1995年には世界貿易機関WTOが成立します。旧社会主義諸国も市場経済への急速な移行を始めます。

日本では1980年代後半の資産価格バブルが1990年代初頭に崩壊し、不良債権と長期停滞が大きな問題となります。東アジアでは中国が改革開放を再加速し、1997年にはアジア通貨危機が発生します。

そしてインターネットの普及によって情報・金融・企業活動の国境を越える速度が大きく変わります。

次の記事では、1989–2001|冷戦後とグローバル化 — ソ連崩壊、湾岸戦争、EU、インターネット、アジア通貨危機として、冷戦終結後に成立した世界秩序が2001年までどのように形成されたのかを扱います。

参考資料・出典

本ページは、Bank of England、Federal Reserve History、Ronald Reagan Presidential Library、International Monetary Fund、U.S. Department of State Office of the Historian、Foreign Relations of the United States、International Atomic Energy Agency、Library of Congress、ドイツ連邦政府・連邦議会、South African History Online、日本銀行、日本財務省などの資料を参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。「新自由主義」はサッチャー、レーガン、国際金融機関などの政策を同一視する言葉としてではなく、市場競争・民営化・規制緩和を重視する方向が強まったことを示す分析概念として限定的に使用しました。日本のバブル形成はプラザ合意だけに原因を求めず、金融緩和、信用膨張、金融自由化、資産価格期待など複数要因を含めています。1989年は冷戦終結の象徴的年ですが、ソ連解体とワルシャワ条約機構解散は1991年であるため、「冷戦が一日で終了した」とは扱っていません。

資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY