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World History

1965–1972

アメリカ|Black Powerと都市社会

Malcolm X、Watts、Black Panther Party、King暗殺

1965年8月、Voting Rights Actが成立した数日後、Los AngelesのWattsで警察と黒人住民の衝突をきっかけに大規模な都市騒乱が起こりました。前年にはCivil Rights Act、同年にはVoting Rights Actが成立し、南部の法的人種隔離と投票権剥奪に対する連邦法は大きく前進していました。それでも住宅、学校、雇用、警察、都市貧困における人種的不平等は残っていました。

ここから1960年代後半の黒人政治は、単純に「公民権運動からBlack Powerへ交代した」と理解することはできません。NAACP、SCLC、SNCC、COREは活動を続け、非暴力運動も消えませんでした。一方で、法的統合だけでは黒人コミュニティが直面する経済的・政治的格差を変えられないという批判が強まり、自己決定、黒人による組織運営、地域警察への監視、住宅、雇用、文化的自尊、反戦などが新しい争点として前面化しました。

その思想的背景にはMalcolm Xの存在がありました。Nation of Islamを離れた後のMalcolm Xは国際的な反植民地主義、人権、黒人の自己決定をより広く論じるようになりましたが、1965年2月21日にNew YorkのAudubon Ballroomで暗殺されました。彼の死後も黒人の誇り、自衛、国際主義をめぐる言葉は若い活動家へ強い影響を与えました。

1966年6月、James MeredithのMarch Against Fearを引き継いだMississippiの行進中、SNCC議長Stokely Carmichaelは「Black Power」という言葉を大衆的なスローガンとして掲げました。この言葉は一つの厳密な政治綱領ではありません。黒人自身による政治組織、経済的統制、文化的自己肯定、白人支配からの自律を意味する場合もあれば、統合主義や非暴力戦術への批判を意味する場合もありました。

同じ頃、Alabama州Lowndes CountyではSNCCと地域住民がLowndes County Freedom Organizationを組織し、黒い豹を選挙シンボルとして使用しました。Oaklandでは同年10月、Huey P. NewtonとBobby SealeがBlack Panther Party for Self-Defenseを結成します。名称と象徴にはつながりがありましたが、二つは別組織です。OaklandのPantherは警察行動の監視から出発し、のちに無料朝食、食料配布、診療所、教育などcommunity programsへ活動を広げました。

一方、都市社会では緊張が深まっていました。1967年にはNewarkとDetroitを中心に大規模な都市騒乱が起こり、Lyndon B. Johnson大統領はNational Advisory Commission on Civil Disorders、いわゆるKerner Commissionを設置しました。1968年の報告書は警察慣行、失業・不完全雇用、劣悪な住宅、人種隔離などを都市騒乱の背景として分析しました。「暴動」という語だけで住民の行動を犯罪として切り取るのか、「反乱」「蜂起」として構造的不平等への反応を重視するのかは現在も議論があります。本記事では、当時の政府用語としてはcivil disordersやriotsが使われたことを示しつつ、出来事の原因を個人犯罪へ還元しません。

Martin Luther King Jr.もこの変化の外側にいたわけではありません。1966年にはChicago Freedom Movementを通じて住宅差別へ挑み、1967年にはVietnam Warへの公然たる反対を表明しました。1967年末からは人種を越えたPoor People’s Campaignを準備し、雇用、所得、住宅を含む貧困問題を連邦政治へ突きつけようとしました。1968年4月4日、KingはMemphisの黒人清掃労働者のストライキを支援するため滞在していたLorraine Motelで暗殺されます。

King暗殺後、多くの都市で暴動・略奪・放火が起こり、同じ4月にCivil Rights Act of 1968のTitle VIII、Fair Housing Actが成立しました。これは住宅の売買・賃貸・融資における人種などを理由とする差別を違法とする大きな転換でしたが、住宅分離が直ちに解消されたわけではありません。

Black Panther PartyをはじめとするBlack Power系組織は、警察暴力への自衛を強調したため武装したイメージで記憶されることが多くあります。しかしSmithsonianが整理するように、各地のPanther支部は無料朝食、無料診療所、食料配布、法的支援、教育など多数の「survival programs」を運営しました。活動の中心には女性党員も多く存在しました。

同時に国家側の監視と抑圧も強まりました。FBIのCOINTELPROは1967年にBlack Panther Partyなど黒人急進組織を対象へ加え、潜入、対立の誘発、信用失墜工作などを行いました。FBI自身の公式史も、合法活動の証拠が乏しい場合まで組織を妨害した事例があり、後に議会と社会から第一修正上の権利を侵害したとして批判されたと認めています。COINTELPROは1971年に正式終了しました。

この時代には、黒人政治が街頭運動だけでなく制度政治へも広がりました。1967年にはClevelandのCarl StokesとGaryのRichard Hatcherが大都市の黒人市長として注目され、1968年にはShirley Chisholmが黒人女性として初めて連邦下院議員に選出されました。1971年にはCongressional Black Caucusが成立し、1972年にはChisholmが民主党大統領候補指名を目指して選挙戦を行いました。同年GaryではNational Black Political Conventionも開かれ、Black Powerの時代は制度政治の外だけに存在していたわけではありません。

1965–1972年は、「非暴力から暴力へ」という単純な移行ではありません。南部の法的人種隔離を崩した後、アメリカ社会に残る住宅、警察、貧困、都市構造、戦争、文化、政治代表をどう変えるのかという問いが前面に出た時代でした。公民権運動で得た権利を、誰が、どの地域で、どのような社会的力へ変えるのか。Black Powerは、その問いに対する複数の答えの総称として理解する必要があります。

1965年 — 公民権立法の達成と次の課題

1965年Voting Rights Actは、南部で黒人有権者を排除するために使われてきた識字試験などを禁止し、連邦政府が登録手続きへ介入する強力な仕組みを作りました。これによって黒人有権者登録は急増し、地域政治への参加可能性が大きく広がりました。

しかし法律上の権利拡大と生活条件の改善は同じ速度では進みませんでした。北部・西部の都市では、住宅市場の人種分離、学校の事実上の分離、失業、低賃金、警察との対立が残りました。南部でも経済的報復や暴力は続きました。

この差が1965年以後の運動を変えます。黒人が白人と同じ公共施設を利用できるかだけでなく、誰が地域経済、警察、学校、住宅、政党を支配しているのかという「権力」の問題が前面に出ました。

Malcolm Xの暗殺と思想的遺産

Malcolm XはNation of Islamの代表的speakerとして1950年代末から全国的に知られ、白人社会への統合より黒人の誇り、自立、自衛を強調しました。1964年にNation of Islamを離れ、Muslim Mosque, Inc.とOrganization of Afro-American Unityを組織しました。

同年のアフリカ・中東訪問後、彼の政治言語にはPan-Africanism、反植民地主義、人権という国際的な枠組みがより強く現れました。アメリカ国内の人種差別を国連など国際機関で問う構想も示しました。

1965年2月21日、Malcolm XはNew YorkのAudubon Ballroomで演説中に暗殺されました。彼自身はBlack Powerという1966年のスローガンを使った中心人物ではありませんが、黒人の自己決定、文化的誇り、国家暴力への批判という思想はBlack Power世代へ強い影響を残しました。

1965年 Watts

1965年8月11日、Los AngelesのWatts近郊でCalifornia Highway Patrolが黒人運転者Marquette Fryeを飲酒運転容疑で逮捕しようとした際、周囲の住民との衝突が起こりました。事件は数日間にわたる放火、略奪、警察・National Guardとの衝突へ拡大しました。

出来事の直接の発端は交通取締りでしたが、背景には住宅隔離、失業、警察への不信、都市サービスの格差がありました。Voting Rights Act成立直後のLos Angelesで起きたことは、南部の投票権問題と北部・西部の都市人種問題が同一ではないことを全国へ示しました。

当時は一般にWatts Riotと呼ばれましたが、後年にはWatts RebellionやWatts Uprisingという表現も使われます。名称の違いは、出来事を秩序破壊として見るのか、構造的不平等への集団的反発として見るのかという解釈の違いを含んでいます。

北部・西部都市の人種構造

北部と西部にはJim Crow型の州法が少なくても、人種分離は住宅市場と都市制度によって維持されました。restrictive covenantsの司法執行は1948年に違憲とされましたが、銀行、不動産業者、郊外開発、学校区、公共住宅の立地などを通じて黒人と白人の居住地域は大きく分離していました。

工業都市では黒人労働者が製造業に入りましたが、職種・昇進・失業率には人種格差がありました。都市高速道路や再開発事業によって黒人居住地域が分断されることもありました。

したがって1960年代後半の都市問題を「南部の差別はなくなったが、都市の若者が暴徒化した」と整理することはできません。都市の土地利用、住宅金融、労働市場、警察制度という長期構造を考える必要があります。

1966年 Chicago Freedom Movement

Martin Luther King Jr.とSCLCは1965年後半からChicagoの地域団体と協力し、1966年にChicago Freedom Movementを本格化させました。King夫妻はWest Sideの劣悪な住宅へ一時的に移り住み、北部都市の住宅・学校・雇用問題へ注目を集めました。

運動はopen housingを主要要求とし、白人居住地域で不動産業者や住宅差別に抗議するmarchを行いました。Gage ParkやMarquette Parkでは参加者が激しい罵声・投石を受け、King自身も石を投げつけられました。

同年8月、市当局、不動産業者、運動側は住宅差別改善へ向けたChicago Summit Agreementをまとめましたが、実施効果は限定的でした。法で明示された分離より市場・地域慣行に埋め込まれた差別を変える難しさが明確になりました。

Lowndes County Freedom Organization

Alabama州Lowndes Countyは1960年代半ば、人口の8割以上が黒人でありながら、黒人有権者登録はほとんど存在しない地域でした。Voting Rights Act成立後、SNCC organizersと地域住民は登録を進め、独自の政治組織を作りました。

1966年、Lowndes County Freedom Organization、LCFOが郡公職へ黒人候補を立てる独立政党として活動しました。Alabama州では識字率を考慮して政党がballot symbolを持つ制度があり、LCFOは黒い豹を選びました。

LCFOはしばしば「Black Panther Party」と呼ばれましたが、Oaklandで後に設立されるBlack Panther Partyとは別組織です。地域住民自身が候補を選び、郡政府の権力獲得を目指した点で、Black Powerの「自己決定」を具体的な地方政治にした重要事例でした。

1966年 March Against Fear

1966年6月、James MeredithはMemphisからJackson, Mississippiまで単独で歩き、黒人住民に恐怖を乗り越えて投票登録するよう呼びかけるMarch Against Fearを始めました。

開始翌日、Meredithは白人男性に銃撃され負傷しました。これを受けSCLC、SNCC、COREなどの活動家が行進を引き継ぎました。

行進は主要公民権組織が同じ道路を歩く場となる一方、非暴力、白人参加、政治的自律をめぐる違いも表面化させました。そしてMississippi州GreenwoodでStokely CarmichaelがBlack Powerを叫び、言葉が全国的な論争の中心になります。

「Black Power」とは何だったのか

Black Powerには統一された定義がありませんでした。Smithsonianは、Black prideとBlack self-determinationを重視し、法的権利と白人社会への統合だけでなく、黒人コミュニティが自らの文化・政治・経済をコントロールする要求として整理しています。

一部の活動家にとっては、黒人が白人主導組織から独立して自分たちの組織を運営することを意味しました。別の人々には、警察への自衛、企業所有、学校教育、文化的自己肯定、Pan-Africanismなどが含まれました。

そのためBlack Powerを「暴力主義」と同義にするのは不正確です。武装自衛を支持する組織も存在しましたが、選挙運動、地域福祉、教育、文化運動を中心とする組織もBlack Powerの言語を共有しました。

SNCCの変化

SNCCは1960年のSit-in運動から生まれ、Freedom Rides、Mississippi voter registration、Freedom Summerを通じて草の根組織化を重視してきました。しかし黒人活動家が暴力・逮捕へ繰り返し直面し、白人liberalとの連携が期待通りの制度変化を生まないという失望も蓄積しました。

1966年にStokely CarmichaelがJohn Lewisに代わってchairmanとなると、SNCCはBlack self-relianceをより強く打ち出しました。組織内では白人staffの役割を縮小し、黒人自身による政治組織を優先する方向が強まりました。

SNCCの変化を単純な「穏健から過激へ」とすると、MississippiやLowndesで経験した暴力と地方政治の現実を見失います。Black Powerは、何年も地域へ入りながら連邦法だけでは変化しない権力構造を見てきたorganizersの経験からも生まれました。

Black is Beautifulと文化的自己肯定

Black Powerの時代には政治だけでなく、外見、言葉、歴史、文化をめぐる価値観も変化しました。「Black is Beautiful」という表現は、白人的な美の基準へ黒人が同化するのではなく、肌、髪、身体、アフリカ系文化を肯定する言葉として広がりました。

Afro hairstyle、African-inspired clothing、黒人史への関心、Swahili語を用いる文化表現などが若い世代を中心に可視化されました。1966年にはMaulana KarengaがKwanzaaを創始しました。

文化的自己肯定は単なるfashionではなく、黒人が自分たち自身をどのように表象するかという政治と結びついていました。

Black Arts MovementとBlack Studies

Malcolm X暗殺後、Amiri BarakaはHarlemでBlack Arts Repertory Theatre/Schoolを設立し、詩、演劇、音楽、出版をBlack liberationの文化的実践として位置づけました。Chicago、Detroit、Los Angeles、San FranciscoなどでもBlack Arts organizationsが生まれました。

Black Arts Movementは一つの美学に統一されていたわけではありませんが、白人文化機関の評価基準ではなく、黒人コミュニティにとって意味を持つ芸術・出版・教育を作ろうとする方向を共有しました。

大学でもBlack Studiesを求める運動が拡大しました。1968–1969年のSan Francisco State CollegeではBlack Student UnionとThird World Liberation Frontが長期ストライキを行い、最終的にCollege of Ethnic Studiesが成立しました。

1966年 Black Panther Party成立

1966年10月、Oakland, CaliforniaでHuey P. NewtonとBobby SealeがBlack Panther Party for Self-Defenseを設立しました。二人はMerritt College周辺の政治教育や地域活動を経験し、Oaklandの警察と黒人住民の関係を重要問題としていました。

党は当初、California州法の範囲内で武器を携帯しながら警察の逮捕・交通取締りを監視するpatrolで注目されました。しかし活動はすぐに警察監視だけではなく、雇用、住宅、教育、医療、食料などへ広がりました。

Black Panther PartyはOaklandだけにとどまらず、1960年代末にはChicago、New York、Los Angeles、Seattleなど各地にchapterを持つ全国組織へ成長しました。

Ten-Point Program

NewtonとSealeらが作成したTen-Point Programは、自由、雇用、搾取の停止、住宅、教育、警察暴力の停止、黒人男性の軍役問題、司法、公正な裁判、最終的には「land, bread, housing, education, clothing, justice and peace」などを要求しました。

このprogramはBlack Panther Partyを単なる武装団体として見るだけでは捉えられない広い社会政策要求を示します。警察と刑事司法は重要でしたが、失業・住宅・学校・貧困も党の中心課題でした。

党の言語にはMarxism、Black nationalism、反植民地主義が混在し、時期によって変化しました。Black Panther Party自身も内部対立と路線変更を経験したため、1966年のTen-Point Programだけでその全歴史を固定することはできません。

警察監視と武装自衛

OaklandのPantherは、黒人住民への警察暴力を監視するため警察の停止・逮捕現場へ赴き、California州法を学んだ上で一定距離から警察行為を観察しました。当時の州法では条件付きで銃器のopen carryが認められていました。

この戦術は南部公民権運動の公開非暴力とは大きく異なりましたが、黒人社会における武装自衛自体は1966年に突然生まれたものではありません。Library of CongressのCivil Rights History Projectでも、南部の活動家が非暴力をmarchの戦術として用いつつ、自宅や地域では自衛を認めていた複雑な経験が記録されています。

Black Panther Partyは警察を国家権力の最前線として捉えました。その考え方は後の警察改革、community control、刑事司法をめぐる黒人政治へ長く影響しました。

1967年 California State Capitol

1967年5月、Black Panther PartyのメンバーはSacramentoのCalifornia State Capitolへ武装して入り、銃器規制案に抗議しました。議会で審議されていたMulford Actは、公共の場でのloaded firearm携帯を制限する法律でした。

この行動によってBlack Panther Partyは全国メディアで急速に知られるようになりました。黒いberet、leather jacket、銃器という視覚イメージは党の象徴として広がります。

しかしこの強烈なイメージが、後に党が展開した地域福祉・教育活動を覆い隠す結果にもなりました。Black Panther Partyの歴史は武装行動とcommunity programsの両方を見なければ理解できません。

無料朝食・医療・community programs

1969年、Black Panther PartyはOaklandでFree Breakfast for Children Programを始め、各地のchapterへ広げました。教会や地域施設で子どもへ朝食を提供し、食料不足を政治問題として可視化しました。

Smithsonian National Museum of African American History and Cultureによれば、Pantherは無料朝食だけでなく、家族・高齢者向け食料配布、free health clinics、sickle-cell testing、legal aid、衣服配布、交通、教育など多数のsurvival programsを運営しました。

これらは慈善活動としてだけではなく、国家や市場が提供しない基本サービスを地域住民自身が作る政治実践と位置づけられました。党の支持が都市の若者だけでなく母親、子ども、高齢者へ広がる重要な経路でもありました。

Black Power運動の女性

Black Powerは男性指導者と武装した男性党員の写真で記憶されることが多い一方、地域組織の日常運営では女性が大きな役割を担いました。SmithsonianはBlack Panther Partyのlocal chaptersがしばしば女性によって指導されていたことを指摘しています。

Kathleen Cleaver、Ericka Huggins、Elaine Brown、Assata Shakurなど、多くの女性が宣伝、教育、地域program、組織運営、政治理論へ関わりました。無料朝食や診療所などcommunity programsにも女性党員の労働が不可欠でした。

同時に、Black Power組織内部にも性差別をめぐる対立がありました。黒人解放と女性解放の関係をどう考えるかは、黒人女性活動家がその後Black feminismを発展させる重要な背景となります。

1967年 Long Hot Summer

1967年夏、Newark、Detroit、Cincinnatiなど多数のアメリカ都市で警察と住民の衝突、略奪、放火、銃撃が起こりました。同時代にはLong Hot Summerと呼ばれました。

National Archivesに残る資料では、1967年には前年を大きく上回る数の重大なcivil disordersが記録されています。都市ごとに発端は異なりましたが、警察行動、失業、住宅、都市サービス、人種的排除が繰り返し問題として挙がりました。

これを全国的な一つの組織が計画した蜂起と見る証拠はありません。むしろ異なる都市で似た社会構造が存在し、警察との局地的衝突が大規模な騒乱へ拡大しました。

Newark

1967年7月、New Jersey州Newarkで黒人taxi driver John Smithが警察に逮捕・暴行されたという情報が広まり、警察署周辺の抗議から大規模な騒乱へ発展しました。

数日間の衝突では住民、警察、National Guardが関与し、多数の死傷者と逮捕者が出ました。商店や住宅への被害も広がりました。

Newarkは工業都市として発達しましたが、郊外化、雇用移転、住宅分離、政治代表の不足が黒人住民に強く影響していました。出来事を逮捕事件だけに還元せず、都市の長期的な経済・政治変化と合わせて考える必要があります。

Detroit

1967年7月23日、Detroit警察が12th Streetの無許可bar、いわゆるblind pigをraidしたことを契機に、大規模な騒乱が始まりました。警察、Michigan National Guard、連邦軍が投入されました。

National Archivesの資料では、Detroitでは43人が死亡し、2000人を超える負傷者と3800人を超える逮捕者が記録されています。1960年代最大規模の都市騒乱でした。

Detroitは黒人中間層と自動車産業の高賃金雇用を持つ一方、住宅隔離、警察との緊張、都市再開発、雇用機会の地域差も存在しました。経済成長が人種的不平等を自動的に解消しないことを示す都市でもありました。

Kerner Commission

NewarkとDetroitの後、Johnson大統領は1967年7月29日にNational Advisory Commission on Civil Disordersを設置しました。Illinois州知事Otto KernerがchairmanとなったためKerner Commissionと呼ばれます。

委員会は都市騒乱が起きた各地で警察、住民、行政、雇用、住宅などを調査し、1968年3月に最終報告書を提出しました。報告はpolice practices、unemployment and underemployment、inadequate housingなどを主要なgrievancesとして扱いました。

報告書は都市騒乱を単にcriminalityや外部扇動の結果とせず、人種隔離と機会格差という社会構造へ原因を求めました。その政策提案がどこまで実施されたかについては議論がありますが、1960年代都市問題を連邦政府自身が構造的に分析した重要資料です。

住宅隔離とopen housing

住宅は1965年以後も最も根深い人種問題の一つでした。黒人世帯が一定の所得を持っていても、real estate steering、融資差別、郊外住宅の販売慣行によって選択できる地域が制限されました。

Chicago Freedom Movementがopen housingを中心に据えたのは、この問題が学校、資産形成、雇用への通勤、治安、都市サービスと結びついていたからです。住む場所の人種分離は世帯資産と次世代の教育機会を長期的に左右しました。

1968年Fair Housing Actはこの構造に対する連邦法上の重要な介入となりますが、法律成立後も住宅差別と地域分離は続きました。

KingとVietnam War

Kingは1965年頃からVietnam Warへの懸念を公にし始め、1967年4月4日、New YorkのRiverside Churchで「Beyond Vietnam」演説を行いました。戦争がVietnamの人々に与える被害と、アメリカ国内の貧困対策から資源を奪う問題を結びつけました。

この反戦姿勢はJohnson政権や一部公民権指導者との関係を悪化させました。公民権立法を支えた大統領との対立が運動への政治的影響力を弱めるという懸念もありました。

しかしKingにとって人種差別、貧困、戦争は別々の道徳問題ではなくなっていました。1960年代後半の黒人政治では、SNCCやMuhammad AliなどもVietnam Warへの批判を強めていきます。

貧困とPoor People’s Campaign

1967年末、KingとSCLCはPoor People’s Campaignを発表しました。目的は黒人だけでなく、白人、Latino、Native Americanなど貧困に直面する人々をWashingtonへ集め、雇用、所得、住宅など経済的権利を要求することでした。

Kingは公民権法によって公共施設・投票の法的権利が拡大しても、食料、家、仕事を持てない人が実質的に自由なのかを問い始めました。

これはKingが従来の公民権運動を放棄したのではなく、権利を経済社会の構造へ拡張しようとした試みでした。

Memphis sanitation strike

1968年2月、Memphisの黒人sanitation workersが賃金、安全、組合承認、尊厳を求めてstrikeに入りました。背景には黒人労働者と白人supervisorsの待遇差、危険な労働条件がありました。

KingはPoor People’s Campaignの準備と並行してstrikeを支援しました。National Park Serviceによれば約1300人の黒人清掃労働者が参加し、「I AM A MAN」というplacardが労働者の尊厳と公民権を結びつける象徴となりました。

Memphisは、1968年のKingが学校・バス統合だけではなく労働と貧困を公民権の中心課題としていたことを示す出来事です。

1968年 King暗殺

1968年4月4日、KingはMemphisのLorraine Motelのbalconyで銃撃され死亡しました。翌日に予定していたsanitation workers支援のmarchのため滞在していました。

National Archivesが公開するHouse Select Committee on Assassinationsの最終 findingsでは、James Earl RayがKingを射殺したと認定されています。Rayは1969年にguilty pleaを行い、その後主張を変えましたが、公式調査はRayが発砲したとの結論を維持しました。

Kingの死は公民権運動の象徴的指導者を失った事件であると同時に、黒人政治がすでに複数の組織・地域・路線へ分岐していた時期に起きました。

暗殺後の都市騒乱

King暗殺の報が広がるとWashington, D.C.、Chicago、Baltimoreなど多数の都市で暴動、放火、略奪が発生し、警察・National Guard・連邦軍が投入されました。

多くの人々がKingの非暴力思想を悼んで追悼行進を行った一方、別の地域では怒りが破壊行為へ転じました。これらをBlack Power組織が一括して指揮したわけではありません。

暗殺後の都市騒乱は、1964・1965年の公民権立法後も都市の人種的不平等と国家への不信が解消されていなかったことを改めて示しました。

1968年 Fair Housing Act

1968年4月11日、King暗殺の一週間後、Johnson大統領はCivil Rights Act of 1968に署名しました。そのTitle VIIIが一般にFair Housing Actと呼ばれます。

HUDの歴史資料によれば、同法は住宅のsale、rental、financingにおける人種、肌の色、宗教、出身国などを理由とする差別を違法とし、HUDに執行責任を与えました。後の改正でsex、disability、familial statusなども保護対象に加えられました。

法律はChicago Freedom Movementなどが訴えてきたopen housingの連邦法的基盤となりました。しかしprivate discriminationや地域分離を直ちに消すものではなく、執行制度の強化にはその後も時間を要しました。

Resurrection City

Kingの死後もSCLCはPoor People’s Campaignを実施しました。1968年5月、全国各地から貧困当事者と活動家がWashingtonへ入り、National MallにResurrection Cityと呼ばれる仮設campを作りました。

National Park Serviceによれば、約3000人を収容する規模のA-frame shelters、食堂、診療施設、行政スペースなどが設けられました。参加者は政府機関を訪れ、雇用・福祉・住宅などを要求しました。

運動にはAfrican AmericanだけでなくNative American、Latino、Puerto Rican、poor white communitiesなども参加しました。人種的正義と経済的正義を横断的に結ぼうとする試みでしたが、悪天候、組織上の困難、政治的支持不足などに直面しました。

COINTELPROと国家監視

FBIは1956年にCOINTELPRO、Counterintelligence Programを開始し、当初はCommunist Partyを対象としました。その後対象を拡大し、FBI公式史によれば1967年にはBlack Panther Partyなど黒人急進組織も含まれるようになりました。

活動には組織へのinfiltration、内部対立の誘発、匿名文書、信用失墜工作などが含まれました。FBI自身の現在の公式史は、違法活動の証拠がほとんどない場合まで対象をdiscreditしようとした事例があり、後にCongressと国民からFirst Amendment rightsを侵害したとして正当に批判されたとしています。

1971年、Pennsylvania州MediaのFBI officeから内部文書が持ち出され報道へ渡ると、COINTELPROの存在が広く知られるようになりました。同年4月、J. Edgar Hooverはprogramを正式終了しました。

Fred HamptonとChicago

Chicago Black Panther PartyではFred Hamptonが若い指導者として台頭し、無料朝食などのprogramと地域組織化を進めました。Hamptonは黒人だけでなくPuerto RicanのYoung Lords、poor whiteのYoung Patriotsなどとの連携を模索しました。

1969年12月4日、Cook County State’s Attorney’s Officeの警察raidでHamptonとBlack Panther member Mark Clarkが死亡しました。この事件はBlack Panther Partyと警察・FBIをめぐる全国的論争の象徴となりました。

当時Panther側はHamptonの死を政治的殺害と位置づけ、政府側説明との間で激しい対立がありました。後の民事訴訟や公開資料を含め、raidの経緯と連邦・地方機関の関係は長く検証対象となりました。

地域連合と他の少数者運動

Black Powerの組織文化は他のminority movementsにも影響を与えました。ChicagoのYoung LordsはPuerto Rican communityで住宅、衛生、医療、教育をめぐる活動を進め、Black Panther Partyのcommunity programsからも影響を受けました。

Asian American、Chicano、Native American活動家の間でもself-determination、community control、文化的自己肯定という言葉が広がりました。1968年San Francisco StateのThird World Liberation FrontはBlack、Asian、Latinoなど複数学生組織が連携しました。

ただし各運動には独自の歴史と要求があり、Black Powerをそのまま模倣したわけではありません。連帯と差異の両方が1960年代末の社会運動を特徴づけました。

黒人政治とVietnam War

Vietnam Warは黒人政治に大きな分裂と新しい連帯を生みました。軍では黒人兵士の比率と戦闘配置が議論され、国内では徴兵が低所得層へ不均等に負担を与えるという批判がありました。

SNCCは1966年にVietnam Warへの反対を公式に表明し、Kingも1967年に全面的な反戦姿勢を明確にしました。Muhammad Aliは徴兵を拒否し、1967年に有罪判決を受け、boxer licenseとtitleを失いました。最高裁は1971年に判決を全員一致で覆しました。

黒人活動家にとってVietnamは外交問題だけではなく、国内の貧困対策、若者の徴兵、反植民地主義と結びつく問題でした。

刑務所・警察・司法への関心

1960年代後半から黒人政治では、警察だけでなく刑務所制度も重要な争点になりました。Black Panther Partyは収監されたmembersへのlegal defenseを組織し、刑務所内でもBlack nationalismやradical politicsが広がりました。

1971年9月、New York州Attica Correctional Facilityで受刑者が施設を占拠し、待遇改善、政治的権利、医療などを要求しました。交渉には多くの外部observerが関わりましたが、州当局が武力で奪還し、多数の受刑者と人質が死亡しました。

Atticaは1970年代のprison reform、刑事司法、国家暴力をめぐる議論の象徴となりました。Black Powerの時代に「自由」の問題が刑務所の内部へも広がったことを示します。

選挙政治への進出

Black Powerは選挙政治の拒否を意味しませんでした。Voting Rights Actによって黒人有権者登録が増えると、地方・州・連邦政治で黒人候補が増えました。

1967年にはCarl StokesがCleveland市長、Richard HatcherがGary市長に選出され、大規模都市のblack mayorとして全国的に注目されました。地方行政の予算、警察、住宅、都市再開発に黒人有権者が直接影響する新しい可能性が生まれました。

一方、黒人政治家が当選しても都市の財政・雇用・住宅問題が自動的に解決するわけではありませんでした。Black Power時代はstreet politicsとelectoral politicsが並行して発展した時代です。

Shirley Chisholm

1968年、Brooklyn選出のShirley Chisholmが黒人女性として初めて連邦下院議員に選出され、1969年に就任しました。National Archivesによれば、彼女は人種・ジェンダー平等、低所得者支援、Vietnam War反対などを議会で主張しました。

1972年、Chisholmは民主党大統領候補指名を目指してcampaignを開始しました。これは黒人候補として主要政党の大統領候補指名を本格的に求めた最初のcampaignであり、同時に民主党候補指名を求めた最初の女性でもありました。

Chisholmは黒人有権者だけではなく、女性、Latino、若者、低所得者、反戦派を含むcoalitionを構想しました。そのためBlack political establishmentの一部とも対立し、黒人政治内部にgenderとcoalition strategyをめぐる違いがあることを示しました。

1971年 Congressional Black Caucus

1960年代の選挙で黒人議員数が増えると、黒人membersは議会内部で共通の政策課題を調整する組織を作りました。1971年、Congressional Black Caucus、CBCが正式に成立しました。

創設membersにはShirley Chisholm、Charles Diggs、John Conyers、Louis Stokesらが含まれました。貧困、雇用、住宅、外交、都市政策など幅広い問題に黒人議員の集合的な声を形成しようとしました。

Black Power時代の政治をBlack Panther Partyのようなradical organizationだけで理解すると、この議会政治への進出を見落とします。

1972年 National Black Political Convention

1972年3月、Indiana州GaryでNational Black Political Conventionが開催され、数千人の黒人活動家、政治家、宗教指導者、文化人が集まりました。

参加者にはelectoral politicsを重視する人、Black nationalismを支持する人、Democratic Party内部で力を拡大したい人など異なる立場があり、統一した長期戦略を作ることは容易ではありませんでした。

それでも1965年以後の黒人政治が全国大会を開き、地方選挙、連邦議会、大統領選、文化運動を同じ政治的空間で論じる段階へ進んでいたことを示しました。

Black Powerを一つの思想にしない

Black Powerという言葉の下には、SNCCの政治的自己決定、Lowndes Countyの独立選挙組織、Black Panther Partyのsocialist・community politics、文化nationalism、Pan-Africanism、Black Arts、議会政治など非常に異なる方向が存在しました。

Martin Luther King Jr.はBlack Powerというsloganの暴力的に受け取られる側面を批判しましたが、黒人の誇りや政治的・経済的力を求める問題意識すべてを否定したわけではありません。Stokely CarmichaelとKingもVietnam War反対などでは立場が重なりました。

したがって「Civil Rights Movement=統合・非暴力」「Black Power=分離・暴力」と二分するのは歴史を単純化しすぎます。両者には対立だけでなく継承・重複・協力がありました。

1965–1972年に何が変わったのか

第一に、黒人自由運動の中心課題が法的人種隔離だけではなく、住宅、警察、雇用、貧困、都市政治へ広がりました。1964・1965年の公民権立法が重要だったからこそ、その法律だけでは解決できない問題がより明瞭になりました。

第二に、Black Powerという言葉が黒人の自己決定と文化的自己肯定を全国的な政治言語にしました。ただしその意味は組織によって大きく異なり、一つのideologyではありませんでした。

第三に、Black Panther Partyは警察監視と武装イメージで注目されながら、無料朝食、診療所、食料配布、教育などcommunity programsを広げました。都市黒人政治が国家暴力批判と福祉実践を同時に持つことを示しました。

第四に、都市騒乱を受けて連邦政府自身が人種隔離、警察、失業、住宅を構造問題として調査しました。Kerner Commissionは都市危機を黒人住民の行動だけに帰責しない重要な転換を示しました。

第五に、Kingの政治も変化しました。Chicagoの住宅問題、Vietnam War反対、Poor People’s Campaignを通じて、人種的平等を経済正義・反戦と結びつけました。1968年の暗殺はその展開を断ち切りましたが、運動自体はSCLCや他組織によって継続されました。

第六に、国家監視も強化されました。COINTELPROはBlack Panther Partyなどを対象とし、後にFBI自身と議会から公民的自由を侵害したとして批判されました。社会運動の歴史は運動側だけでなく、国家がそれにどう対応したかを含めて見る必要があります。

第七に、黒人政治は文化と制度政治の双方へ広がりました。Black Arts、Black Studies、Black is Beautifulと並行して、黒人市長、Shirley Chisholm、Congressional Black Caucusが登場しました。

1972年頃までには、黒人政治は「公民権」という単一の言葉に収まらないほど多様化していました。地域福祉、文化、選挙、議会、反戦、刑事司法、経済格差を含む複数の政治が並行し、その多くが1970年代以後のアメリカ社会へ継承されていきます。

1965–1972年の主な出来事

  • 1965年2月21日 — Malcolm XがNew Yorkで暗殺される。
  • 1965年8月6日 — Voting Rights Act成立。
  • 1965年8月11–16日 — Los AngelesでWattsの都市騒乱。
  • 1966年1月 — King夫妻がChicagoのWest Sideへ移り、Chicago Freedom Movementを本格化。
  • 1966年 — Lowndes County Freedom Organizationが黒い豹をballot symbolとして地方選挙へ参加。
  • 1966年6月 — March Against Fear中、Stokely Carmichaelが「Black Power」を大衆的sloganとして掲げる。
  • 1966年10月 — Huey P. NewtonとBobby SealeがOaklandでBlack Panther Party for Self-Defenseを設立。
  • 1967年4月4日 — KingがRiverside ChurchでVietnam War反対の「Beyond Vietnam」演説。
  • 1967年5月 — Black Panther Party membersがCalifornia State Capitolで銃規制案に抗議。
  • 1967年7月 — Newarkで大規模な都市騒乱。
  • 1967年7月23日 — Detroitで大規模な都市騒乱が始まる。
  • 1967年7月29日 — JohnsonがNational Advisory Commission on Civil Disordersを設置。
  • 1967年 — FBI COINTELPROがBlack Panther Partyなど黒人急進組織を対象へ拡大。
  • 1967年 — Carl StokesがCleveland、Richard HatcherがGaryの市長に選出。
  • 1967年12月 — KingがPoor People’s Campaign構想を公表。
  • 1968年3月 — Kerner Commissionが最終報告を提出。
  • 1968年4月4日 — KingがMemphisで暗殺される。
  • 1968年4月 — 各都市でKing暗殺後の騒乱。4月11日にFair Housing Act成立。
  • 1968年5–6月 — Washington, D.C.でPoor People’s CampaignとResurrection City。
  • 1968年 — Shirley Chisholmが連邦下院議員に当選。
  • 1968–1969年 — San Francisco StateでBlack Studies・Ethnic Studiesを求める長期学生strike。
  • 1969年 — Black Panther PartyのFree Breakfast for Children Programが各地へ拡大。
  • 1969年12月4日 — Chicagoの警察raidでFred HamptonとMark Clarkが死亡。
  • 1971年 — Congressional Black Caucus成立。
  • 1971年4月 — FBIがCOINTELPROを正式終了。
  • 1971年9月 — Attica Correctional Facilityで受刑者蜂起と州による武力奪還。
  • 1972年1月 — Shirley Chisholmが民主党大統領候補指名への立候補を正式表明。
  • 1972年3月 — Gary, IndianaでNational Black Political Convention開催。
  • 1972年 — Black Panther PartyがBlack Community Survival Conferenceなどcommunity programsを全国的に展開。

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1960年代後半のBlack Powerは、同じ時期に進行していたVietnam War、学生運動、第二波feminism、Chicano Movement、American Indian Movement、gay liberationなどと交差していました。1968年以後、アメリカの社会運動は一つの「公民権運動」では括れないほど多方向へ拡大します。

同時に、1965年Immigration and Nationality Act後の移民構成の変化、郊外化、都市の財政危機、製造業雇用の変化も1970年代アメリカを形づくります。WatergateとVietnam Warは連邦政府への信頼を大きく揺さぶります。

アメリカ史シリーズとして次に作るなら、1944–1960|アメリカ|戦後繁栄と郊外化 — GI Bill、Baby Boom、住宅、自動車、テレビ、大量消費へ戻って、今回までの黒人史とは別軸で戦後アメリカ社会全体の構造を補うのが自然です。その後、赤狩り・McCarthyism、Vietnam War、女性運動などを独立記事として追加できます。

参考資料・出典

本ページは、Smithsonian National Museum of African American History and Culture、U.S. National Park Service、U.S. National Archives and Records Administration、Library of Congress、FBI、U.S. Department of Housing and Urban Development、U.S. House of Representatives History, Art & Archives、The Martin Luther King, Jr. Research and Education Instituteなどの公的・研究機関資料を中心に参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。「riot」「rebellion」「uprising」など都市騒乱の呼称には歴史解釈が含まれるため、当時の政府用語と現在の研究・コミュニティで用いられる語を区別しました。またBlack Powerを暴力主義と同一視せず、選挙政治、地域福祉、文化運動、自己決定を含む複数の政治潮流として記述しています。

資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY