Art Library
World History

1924–1929

アメリカ|大量消費社会と都市文化

自動車、ラジオ、映画、広告、ジャズ・エイジ、新しい女性像

1920年代後半のアメリカは、「豊かさ」が日常生活の形そのものを変え始めた時代だった。自動車、ラジオ、電気冷蔵庫、掃除機、洗濯機、化粧品、既製服といった商品が全国規模で宣伝され、百貨店やチェーン店、通信販売、分割払いを通じて家庭へ入っていった。商品を大量に作る能力だけでなく、商品への欲望を作り、全国へ同じイメージを送り、将来の収入を前提に買わせる仕組みが成長した。アメリカ社会は工業生産中心の国から、本格的な大量消費社会へ移行しつつあった。

アメリカ議会図書館は1920年代を、第一次世界大戦後の社会変化と大恐慌の直前に位置する、深い社会変化と激しい論争の10年として整理している。この10年間に、アメリカ史上初めて都市・町に暮らす人口が農村人口を上回り、製造された商品と娯楽の消費がそれまでにない規模へ拡大した。1922年から1928年には工業生産が大きく伸び、就業していた賃金労働者の実質所得も上昇した。一方、その繁栄は社会全体へ均等に広がったわけではなく、農村、不熟練労働者、黒人住民、移民などには貧困と不安定が残った。

この時代の象徴的な商品が自動車だった。大量生産によって価格が下がり、1925年には人口約6人に1台、1930年には人口約4.6人に1台の自動車が存在するまでになった。スミソニアン国立アメリカ歴史博物館によれば、1930年までに道路上の自動車は約2,300万台に達し、アメリカの家庭の半数以上が自動車を所有していた。自動車は単に移動を便利にしたのではない。道路、ガソリンスタンド、修理工場、郊外、観光、ロードサイド店舗、駐車場を増やし、都市と農村の空間構造を変えた。

フォードのT型車が「安価で標準化された一台」を大量に作る方式を代表したのに対し、1920年代のゼネラル・モーターズは異なる価格帯と車種、毎年変わる新型車、分割払いを組み合わせ、消費者が「必要だから買う」だけでなく「新しいものへ買い替える」市場を作った。自動車産業は、大量生産から大量消費へ移るアメリカ企業の代表的な実験場になった。

そして分割払いは、自動車だけに限られなかった。スミソニアンによれば、1920年代には耐久家庭用品の80%以上が信用購入された。現金を十分に貯めてから買うのではなく、商品を先に家庭へ入れ、将来の給料から月々返済する。「今買って、後で払う」という考えが大衆的な生活様式になった。冷蔵庫、家具、ラジオ、掃除機など高価な商品を中間層・労働者層にも広げる一方、家計は毎月の固定支払いを抱えるようになった。

広告も大きく変わった。商品が全国規模で大量生産されると、企業には「作ったものを売る」だけでなく、人々に新しい必要を感じさせる仕事が必要になった。雑誌、新聞、看板、映画館、ラジオが広告媒体となり、広告代理店は商品の機能だけでなく、美しさ、成功、若さ、衛生、恋愛、家庭の幸福と商品を結びつけた。商品を買うことが、自分がどのような人間であるかを表現する手段になっていった。

この変化はとくに女性を消費者として強く意識した。百貨店は化粧品や衣服を目立つ場所へ配置し、映画女優の外見や流行を広告へ取り込んだ。1920年代の「フラッパー」は、短い髪、短くなったスカート、化粧、ダンス、喫煙、都市娯楽と結びついた若い女性像として雑誌や広告に大量に現れた。しかし、これはすべての女性の日常を代表する姿ではない。農村女性、既婚女性、黒人女性、移民女性、低所得の工場労働者の生活は大きく異なっていた。フラッパーは社会統計上の平均像というより、1920年代に流通した強力な文化的イメージだった。

女性は1920年の修正第19条によって、性を理由に投票権を否定されない憲法上の権利を得た。しかしアメリカ国立公文書記録管理局が注意を促すように、この修正だけで全女性が実際に投票できたわけではない。南部では黒人女性も黒人男性と同じく、人頭税、識字試験、暴力などによって投票を阻まれた。参政権獲得後も、女性が一つの「女性票」として同じ政治行動を取ったわけではなかった。女性同士でも禁酒、労働保護、人種、平等権をめぐって意見は分かれた。

ラジオは、全国文化を作るうえで自動車に匹敵する影響を持った。1920年11月、ピッツバーグのKDKAが大統領選挙結果を放送したことは、定期的な商業ラジオ放送の象徴的な始まりとして知られている。その後わずか数年で放送局と受信機は急増し、1920年代末には推計でアメリカ家庭の約40%がラジオを所有した。遠く離れた家庭が同じニュース、音楽、スポーツ中継、広告を同時に聞く社会が生まれた。

ラジオは都市文化を農村へ届けた。ニューヨークやシカゴの演奏、政治演説、商品広告、野球・ボクシングなどが、物理的に会場へ行けない人々の居間へ入った。同時に、広告による放送費用の回収が商業放送の基盤となり、番組と販売が密接に結びついた。雑誌を「読む」広告から、人の声が毎日家庭へ届き、親しい助言のように商品名を伝える広告へ変わった。

映画も全国的な共通文化を作った。1914年から1929年までのアメリカ無声長編映画期には、映画表現の基本的な文法が発達し、ハリウッドの作品とスターが世界へ広がった。1920年代には豪華な映画館が都市に建ち、映画を見ること自体が週末の大衆娯楽になった。チャーリー・チャップリン、バスター・キートン、クララ・ボウなどのスターは、映画館だけでなく雑誌、広告、商品を通じて全国的な人物像となった。

1927年公開の『ジャズ・シンガー』は、長編映画の一部に同期した会話と歌を導入した作品として映画史の転換点となった。作品の大部分はなお無声だったが、観客は人の声と映像が同期する体験に強く反応した。1928年には全編会話中心の作品が登場し、1929年までに映画会社は急速に無声映画から音声映画へ移行した。俳優の声、歌、言語、録音設備が映画産業の新しい条件となった。

ただし『ジャズ・シンガー』には、主演のアル・ジョルソンが黒塗りの舞台扮装で演じる場面がある。これは、ジャズやブルースなど黒人文化由来の音楽がアメリカ大衆文化の中心へ入りながら、同時に黒人を戯画化するミンストレル表象が娯楽産業に残っていたことを示す。大衆文化の「新しさ」は、人種表象の古い慣習を自動的に消したわけではなかった。

1920年代を「ジャズ・エイジ」と呼ぶとき、その言葉を単に派手なパーティーの時代という意味に縮めてはいけない。ジャズはニューオーリンズなどの黒人音楽文化から発達し、大移動によって北部都市へ移った黒人住民とともにシカゴやニューヨークへ広がった。ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、ベッシー・スミスらの演奏と録音は、レコード、クラブ、劇場、ラジオを通じて全国へ流通した。

ニューヨークのハーレムでは文学、音楽、美術、演劇、思想が集中的に発展し、後にハーレム・ルネサンスと呼ばれる文化運動を形成した。ラングストン・ヒューズ、ゾラ・ニール・ハーストン、クロード・マッケイ、カウンティー・カレン、アーロン・ダグラスなど、多様な作家・芸術家が黒人の経験、都市生活、歴史、自己像をそれぞれ異なる方法で表現した。アメリカ議会図書館が強調するように、参加者全員が自分を一つの統一運動の一員と考えていたわけではない。後世に「ハーレム・ルネサンス」と総称される創造的集中だった。

ここには大移動の影響が大きい。南部のジム・クロウと人種暴力から離れ、北部の工業都市へ移った黒人住民は、新しい教会、新聞、企業、政治組織、音楽・演劇文化を作った。ただし北部にも住宅差別、雇用差別、人種隔離は存在した。ハーレムの文化的活況は「北部では差別がなくなった」結果ではなく、差別の存在する都市で黒人社会が文化的・経済的空間を自ら形成した結果だった。

1920年代の文化は同時に、若者、性、宗教、科学をめぐる衝突の時代でもあった。1925年のスコープス裁判では、テネシー州法に反して公立学校で進化論を教えたとされた高校教師ジョン・スコープスが裁かれた。弁護側にはクラレンス・ダロウ、検察側には元国務長官で大統領候補経験者のウィリアム・ジェニングス・ブライアンが参加し、全国の新聞とラジオが裁判を大きく報じた。

この裁判はしばしば「科学対宗教」の単純な対決として描かれるが、より広く見ると、公教育の内容を誰が決めるのか、聖書をどう読むのか、都市的な近代文化と地方社会の価値観をどう調整するのかという争いだった。裁判自体ではスコープスが有罪となったが、事件は全国規模のメディア・イベントとなり、「近代」と「伝統」の対立を象徴する出来事として記憶された。

禁酒法も同じように、都市文化の変化を照らす。憲法修正第18条とヴォルステッド法によって1920年から酒類の製造・販売が原則禁止されたが、取り締まりは困難で、密造酒、密輸、地下酒場が広がった。アメリカ議会図書館が示すように、「ブートレッガー」「スピークイージー」といった言葉が一般化し、酒類の闇市場をめぐって犯罪組織が力を持った。

禁酒法を単純な「古い田舎の道徳対自由な都市」とするのも適切ではない。禁酒運動には女性、プロテスタント中間層、労働改革者など多様な支持者がおり、家庭内暴力、貧困、酒造業と政治腐敗への批判という社会改革的背景があった。一方1920年代になると、法を守らない都市娯楽文化と大規模な闇市場が禁酒政策の実効性を弱め、社会的支持を徐々に失わせた。

排外主義と白人至上主義も、都市的近代化と同時に強まった。1915年に再結成された第二次クー・クラックス・クランは1920年代半ばに全国的な勢力の頂点へ達し、黒人だけでなくカトリック、ユダヤ人、移民を攻撃した。スミソニアン国立アメリカ歴史博物館によれば、最盛期にはクラン自身が約400万人の会員を称していた。南部だけの組織ではなく、インディアナ、オレゴン、コロラドなど北部・西部でも政治的影響力を持った。

1924年移民法も、この排外的な社会環境と結びついていた。国籍別割当によって南・東欧からの移民を大幅に制限し、アジアからの移民をさらに閉ざした。都市では移民文化が日常生活を変えている一方、連邦政策は「将来どのような人口構成の国にするのか」を国籍・人種で選別する方向へ進んだ。この二つは矛盾ではなく、1920年代社会の同時進行する現実だった。

一方、技術と速度への憧れは非常に強かった。1927年5月20日、チャールズ・リンドバーグは「スピリット・オブ・セントルイス号」でニューヨークを出発し、33時間30分後にパリ近郊ル・ブルジェ飛行場へ到着した。単独無着陸大西洋横断飛行の成功は世界的ニュースとなり、リンドバーグは瞬時に国際的な有名人になった。

飛行そのものの技術的意義だけでなく、彼が「メディア時代の英雄」になった点が重要である。新聞、ニュース映画、ラジオ、写真が同じ出来事を巨大な観衆へ伝え、個人の顔と名前を全国の家庭へ送り込んだ。スポーツ選手、映画俳優、飛行士が「会ったことのないが誰もが知っている人物」となる大衆スター文化が発達した。

1920年代の繁栄を支えたのは、工場だけでなく電力と通信でもあった。工場の電化は生産配置を柔軟にし、家庭への電力供給拡大は電気製品市場を作った。スミソニアンによれば1920年代には100万台を超える電気トースターが販売され、1926年には両面を焼いて自動的に持ち上げるトースターも登場した。電力会社自身が家庭用電気製品を販売し、「電気を使う生活」を新しい快適さの基準として宣伝した。

都市では百貨店、映画館、ホテル、オフィスビル、地下鉄、電飾看板が密集し、夜間の街路景観も変化した。商品はショーウィンドウに並べられ、映画スターや雑誌モデルの身体がファッションと化粧品を売り、ネオンサインや広告が都市の視覚環境を形成した。「都市を見ること」と「商品を見ること」が近づき、現代的な商業視覚文化が成立した。

この点は美術史との接点でも重要である。1920年代のアメリカでは、芸術作品だけでなく、広告、雑誌表紙、映画ポスター、写真、百貨店展示、工業デザインが都市の日常的な視覚経験を作っていた。芸術と商業デザインの境界も変わり、企業は商品の形や包装、広告表現に「美しさ」を積極的に利用した。アメリカ議会図書館は、1920年代の百貨店が工業製品のデザインへ美的価値を組み込む動きを販売方法へ取り込んだことを紹介している。

しかし「繁栄の20年代」という呼び名には注意が必要である。農業は第一次世界大戦後の需要低下と過剰生産による価格下落に苦しみ、農家は土地・機械購入のための債務を抱えていた。アメリカ議会図書館によれば、アメリカ人口のおよそ5分の1が農業で生活していたにもかかわらず、1920年代を通じて農業経済は長い不況状態にあり、1920年から1932年までに約4分の1の農場が債務履行のため売却された。

黒人住民についても同様である。北部都市では雇用・商業・文化の新しい機会が広がったが、南部農村の貧困とジム・クロウは続き、北部でも住宅・雇用差別が存在した。消費市場の中でも黒人消費者は無視されたり、差別的広告表象の対象となったりする一方、黒人経営の新聞、保険、金融、商業組織が独自の市場を形成した。

繁栄は地域と階級で大きく異なった。大量生産工場で安定した賃金を得る労働者や都市中間層は自動車・ラジオ・家具を買えるようになったが、失業、季節労働、低賃金の不熟練労働者には同じ生活水準が保証されていなかった。「アメリカ人が皆豊かになった」のではなく、大量消費に参加できる人口が急速に増え、その生活様式が広告によって全国標準のように見えるようになったのである。

株式市場も繁栄の象徴となった。企業収益への期待と株価上昇が続く中、証券会社や投資信託が増え、一般の個人も株式投資へ参加した。信用取引では購入価格の一部だけを現金で支払い、残りを借金で株式購入することができた。連邦準備制度史によれば、典型的には価格の約10%を自己資金として株を買い、残りを借りる取引も行われた。

連邦準備制度内部では、株式投機へ信用が流れすぎているのではないかという懸念が強まった。1928年には連邦準備銀行が国債売却や金利引き上げを行い、信用を引き締めようとした。1929年初めには、株式投機に融資する銀行へ連邦準備銀行から資金を供給すべきではないという方針も議論された。しかし金融政策をどのように使うべきかについて、連邦準備制度内部でも意見は一致していなかった。

1929年夏には経済活動そのものが後退し始めた。連邦準備制度史は大恐慌の景気後退開始を1929年8月としている。株式市場はその直後まで上昇を続け、ダウ工業株30種平均は9月3日に381.17で最高値をつけた。経済全体と株価が同じ方向に動くとは限らないことが、この時点ですでに示されていた。

10月になると株価は急落した。10月28日の「ブラック・マンデー」にはダウ平均が約13%下落し、翌29日の「ブラック・チューズデー」にはさらに約12%下落した。11月中旬までにダウ平均は高値からほぼ半分になった。しかし「1929年株価暴落だけが大恐慌を起こした」と説明するのは正確ではない。暴落は消費・投資心理を悪化させ、経済収縮を深めたが、その後1930〜1933年の銀行危機や金融収縮などが不況を歴史的な大恐慌へ変えていく。

なぜ1924年から始めるのか

1924年は、第一次世界大戦後の社会不安と戦後反動の時期から、1920年代後半の大量消費社会へ軸足が移る境目として使いやすい。カルビン・クーリッジは1923年にウォレン・ハーディングの死去を受けて大統領となり、1924年選挙で自ら当選した。戦後の景気後退はすでに終わり、工業生産、消費、株式市場が拡大する局面に入っていた。

同じ1924年には移民法が成立し、国籍別割当制度を強化した。経済と都市文化は国際化・多民族化しているにもかかわらず、政治制度は入国者の民族的構成を厳しく選別する方向へ進んだ。この「開かれる消費文化」と「閉じられる国境」の同居は1920年代後半を特徴づける。

「繁栄の20年代」とは何だったのか

工業製品の大量生産、技術改善、電化、全国流通、広告、信用購入が互いを強化した。商品価格が下がり、以前なら富裕層しか持てなかった自動車や家電を中間層・労働者層も購入できるようになった。しかし「繁栄」という語は平均値を示しているだけである。農村不況、低賃金労働、地域格差、人種差別が残り、所得格差も拡大した。

大量生産から大量消費へ

1910年代までの工業化では「いかに大量に安く作るか」が主要課題だった。1920年代になると、生産能力が拡大した企業は「いかに大量に買わせ続けるか」という課題へ直面した。標準化、大量生産、全国流通、広告、ブランド、分割払いが結びつき、企業は商品そのものだけでなく、「新しい型」「便利な生活」「現代的な家庭」という意味まで販売するようになった。

自動車が日常生活を変える

自動車は1920年代の大量消費社会を最もわかりやすく象徴する。仕事と居住地の距離を広げ、道路、ガソリンスタンド、修理工場、観光、飲食店を増やした。交通事故、渋滞、駐車、道路建設も新しい行政問題となり、歩行者中心だった都市空間が自動車を前提として再設計され始めた。

フォードとゼネラル・モーターズ

フォードは標準化されたT型車を安く大量に売る方式を代表した。一方、1920年代のゼネラル・モーターズは所得と好みに応じた複数の車種、信用購入、毎年の型変更を組み合わせた。まだ使用できる商品でも、新しい外観や機能の製品へ買い替えたくなる市場が形成された。

分割払い — 「今買って、後で払う」

分割払いは大量消費を成立させる重要な金融技術だった。生活水準を先に引き上げ、将来所得から支払う考えが一般化した。一方、家計は毎月の固定支払いを負うようになり、失業や賃下げが起きたときには債務が重荷となる。この仕組みは1929年以後の不況で大きな意味を持つ。

電化される家庭

冷蔵庫、掃除機、トースター、アイロン、洗濯機、扇風機が「近代的な家庭」の象徴として販売された。電力会社自身も家庭用品を販売し、便利さ、衛生、時間節約を宣伝した。ただし家電が家事を消滅させたわけではなく、より清潔な家庭を維持するという新しい期待を作る側面もあった。

広告産業と広報

広告は商品の存在を知らせるだけでなく、商品を若さ、成功、恋愛、清潔さ、家庭の幸福と結びつけた。企業は商品だけでなく企業そのものの好ましいイメージを作るため、広報活動も体系化した。1920年代は商品と同じように「イメージ」も大量に作られ、全国へ配布される時代だった。

フラッパーと新しい女性像

短い髪、短くなったスカート、化粧、ダンス、喫煙、自動車と結びついたフラッパー像は、女性の自由の象徴として雑誌・映画・広告に大量に現れた。しかしこれはすべての女性の実態ではない。フラッパーは、女性の教育・就労・消費・恋愛をめぐる変化を社会がどのように想像したかを示す強力な視覚記号だった。

参政権獲得後の女性政治

修正第19条後も、黒人女性をはじめ多くの女性が差別的州法によって投票を妨げられた。また女性有権者が一つの政治集団として動いたわけでもない。禁酒、労働保護、平等権、人種政策をめぐって女性の意見は分かれた。女性参政権の獲得は重要な制度変化だったが、それだけで女性の社会的地位が一様に変わったわけではなかった。

ラジオが家庭へ入る

1920年代、ラジオは急速に家庭へ普及し、音楽、ニュース、宗教、スポーツ、広告を同時に全国へ届けた。都市の演奏や政治演説が農村の家庭でも聞けるようになり、「全国で同じ出来事を同時に経験する」文化が成立した。広告を財源とする商業放送も発達し、販売者の声が家庭の日常空間へ直接入り込むようになった。

映画、ハリウッド、スター制度

1920年代には映画館が大衆娯楽の中心となり、豪華な映画館そのものが都市の非日常空間となった。ハリウッドの大規模映画会社は製作、配給、俳優の管理を体系化し、スターの私生活や服装まで雑誌・広告で商品化した。映画は物語だけでなく、生活様式、家具、服装、自動車を見せる巨大な視覚メディアとなった。

『ジャズ・シンガー』と音声映画

1927年の『ジャズ・シンガー』は同期した歌と短い会話を含み、音声映画への転換を加速させた。1929年末までに映画会社は急速に無声映画中心の体制から離れた。一方、同作には黒塗りの舞台表現が含まれており、新しい映画技術が19世紀以来の人種的ステレオタイプをそのまま運ぶこともあった。

ジャズ・エイジ

ジャズは黒人音楽文化から発達し、大移動によって北部都市へ移った人々とともにシカゴ、ニューヨークへ広がった。レコードとラジオはルイ・アームストロング、デューク・エリントン、ベッシー・スミスらの音楽を全国へ届けた。白人社会がジャズを都市的自由の象徴として消費する一方、演奏会場や音楽産業の人種差別は残った。

ハーレム・ルネサンス

ハーレムでは文学、音楽、美術、演劇、出版が集中的に発展した。ラングストン・ヒューズ、ゾラ・ニール・ハーストン、クロード・マッケイ、カウンティー・カレン、アーロン・ダグラスらは、黒人の経験と自己像を異なる形で表現した。この動きを単なる「ジャズの流行」と見るのではなく、黒人が自分自身をどう表象するかをめぐる知的・美術的運動として見る必要がある。

大移動と黒人都市社会

南部から北部・中西部へ移住した黒人住民は、新しい教会、新聞、企業、政治組織、音楽文化を作った。しかし北部にも住宅・雇用差別は存在した。ハーレムの文化的活況は「差別から完全に自由になった結果」ではなく、差別が残る都市で黒人社会が独自の空間と制度を作った結果だった。

禁酒法と都市娯楽

全国禁酒法のもとで酒類の製造・販売は禁止されたが、密造、密輸、地下酒場が広がった。禁酒運動には家庭内暴力や政治腐敗を減らそうとする社会改革の背景があった一方、1920年代には大規模な闇市場と組織犯罪が法の実効性を弱めた。地下酒場、ジャズ、若者文化が結びつき、禁じられた行為そのものが都市的な自由の記号になる場合もあった。

1925年スコープス裁判

テネシー州の公立学校で進化論を教えたとされたジョン・T・スコープスの裁判は、クラレンス・ダロウとウィリアム・ジェニングス・ブライアンが参加したことで全国的事件になった。裁判は科学と宗教だけでなく、公教育を誰が決めるのか、地方社会と都市的近代文化をどう調整するのかという論争だった。新聞、写真、ラジオが小さな町の裁判を全国的な見世物へ変えたこと自体が、1920年代的だった。

第二次クー・クラックス・クラン

第二次クー・クラックス・クランは1920年代半ばに全国的な最盛期を迎えた。黒人だけでなく、カトリック、ユダヤ人、移民も攻撃対象とし、白人至上主義、排外主義、プロテスタント中心主義、禁酒法支持を組み合わせた。南部だけでなく北部・西部の州でも政治へ影響し、近代的大衆組織の宣伝技術を使って会員を拡大した。

1924年移民法と国民の境界

1924年移民法は国籍別割当制度を強化し、南・東ヨーロッパからの移民を抑え、アジアからの移民をさらに厳しく制限した。移民文化が都市の音楽、食、労働、商業を変えている同じ時代に、国家は将来の人口構成を選別する制度を強化した。大量消費文化の「全国化」と移民政策の「排除」は同時進行した。

1927年リンドバーグ大西洋横断飛行

チャールズ・リンドバーグは1927年5月、ニューヨークからパリまで33時間30分で単独無着陸飛行に成功した。航空技術の成果だけでなく、新聞、ニュース映画、ラジオ、写真が一人の飛行士を短期間に世界的有名人へ変えた点が重要である。スポーツ選手、映画俳優、飛行士が「誰もが顔を知る人物」になる有名人文化が成立していた。

広告と都市の視覚文化

電飾看板、映画ポスター、雑誌、百貨店のショーウィンドウ、商品包装が都市の視覚環境を埋めた。都市を歩くこと自体が、大量の商品イメージを見る経験になった。企業は工業製品へ美的価値を加え、外観や包装、色によって商品を差別化した。美術、デザイン、広告、映画の境界がより近くなり、視覚表現が直接販売へ結びついた。

繁栄は誰に届かなかったのか

1920年代の大量消費経済は広範な生活水準向上をもたらしたが、全員が同じように恩恵を受けたわけではない。農村電化は都市より遅く、低所得者は自動車や家電を買えず、人種差別は雇用、住宅、信用の利用にも影響した。広告が描く「平均的な豊かな家庭」は、実在する平均像というより、社会が目標として見る生活像だった。

農業不況

第一次世界大戦中の高需要を見込んで土地・機械へ投資した農家は、戦後の農産物価格低下によって重い債務を抱えた。過剰生産も価格を押し下げ、1920年代を通じて農業経済は不況状態だった。都市工業の繁栄と農村不況が同時に存在していたことは、1929年以前から経済が均衡していなかったことを示す。

株式市場と信用取引

1920年代後半には株価上昇が続き、一般の個人も証券会社を通じて株式へ参加した。信用取引では購入代金の一部だけを自己資金として払い、残りを借りることができた。株価上昇時には利益を大きくできるが、下落時には損失も急拡大する。将来の所得を前提に商品を買う分割払いと同じように、将来の株価上昇を前提に借金で投資する行動が広がった。

連邦準備制度と投機への懸念

連邦準備制度は1920年代に公開市場操作を景気安定へ使う方法を発達させた。1924年と1927年には信用条件を緩和したが、1928年には株式投機への懸念から国債売却と金利引き上げへ向かった。どの程度金融を引き締めるべきか、株式投機をどう扱うべきかについて制度内部でも意見は分かれていた。

1929年株価暴落

ダウ工業株30種平均は1929年9月3日に381.17で最高値をつけた。10月28日のブラック・マンデーには約13%、翌29日のブラック・チューズデーにはさらに約12%下落した。11月中旬までに指数は最高値からほぼ半分となった。

ただし株価暴落だけが大恐慌を作ったわけではない。経済活動はすでに1929年夏から後退しており、暴落は消費と投資をさらに冷え込ませた。その後1930年以後の銀行危機、通貨・信用収縮、国際金融問題が重なり、不況は歴史的な大恐慌へ変わっていく。

この時代を理解するための8つの視点

第一に、1920年代を単純な好景気の時代としない。 工業生産と消費は伸びたが、農業は長期不況にあり、黒人、移民、低所得労働者の多くは広告が描く豊かな生活から遠かった。

第二に、大量消費を物量だけで捉えない。 信用、広告、ブランド、モデルチェンジ、百貨店、ラジオが、人々の欲望の作られ方まで変えた。

第三に、自動車を一つの商品としてだけ見ない。 道路、住宅、余暇、観光、石油、郊外、都市設計まで変える空間技術だった。

第四に、フラッパーを女性全体の代表にしない。 それは強力な文化的イメージだが、女性の実生活は階級、人種、地域、婚姻状態によって大きく異なった。

第五に、ジャズとハーレム・ルネサンスを白人娯楽文化の流行としてだけ扱わない。 黒人社会の大移動、出版、自己表象、政治、芸術の歴史が背景にある。

第六に、ラジオと映画を娯楽だけと考えない。 同じ音楽、ニュース、広告、有名人を全国へ送り、共通の時間と国民文化を組織した。

第七に、技術的近代化と社会的寛容を同一視しない。 自動車、ラジオ、映画、広告が拡大した同じ時代に、移民制限、クラン、人種隔離、進化論規制が存在した。

第八に、1929年を一日の事故として見ない。 株価暴落は大きな転換だったが、大恐慌はその後の銀行・信用危機を含む長い過程で深刻化した。

この時代に何が変わったのか

第一に、消費が生活様式と自己表現の中心へ入った。何を所有し、何を着て、どの映画を見るかが個人のイメージと結びついた。

第二に、信用が日常生活へ入った。分割払いによって将来所得を現在の消費へ変換できるようになり、耐久消費財市場が拡大した。

第三に、自動車が国土と都市を再編した。移動距離、道路、商業立地、余暇、住宅地が自動車を中心に変化した。

第四に、全国大衆メディアが成立した。ラジオと映画は同じ音楽、ニュース、俳優、広告を大量の人々へ送り、地域を越えた共通文化を作った。

第五に、画像と商品がより深く結びついた。広告、映画、雑誌、百貨店展示が理想的な身体、家庭、生活を視覚化した。

第六に、黒人都市文化がアメリカ文化の中心へ大きな影響を与えた。ハーレム・ルネサンス、ジャズ、ブルース、黒人新聞・企業は大移動によって成長した都市社会の表現だった。

第七に、文化の全国化と社会的排除が同時に進んだ。黒人・移民由来の文化が全国で消費される一方、移民制限、人種隔離、クー・クラックス・クランが存在した。

第八に、経済的期待そのものが金融市場へ拡張した。商品を将来所得で買うのと同じように、株式も将来の値上がりを前提に借金で買われた。1929年の暴落は、1920年代の信用社会が持つもう一つの側面を露出させた。

1924年から1929年までのアメリカでは、現代社会の基本的な風景がかなり明瞭に姿を現した。道路を走る自動車、家庭のラジオ、映画スター、ブランド広告、分割払い、百貨店、音楽産業、スポーツ中継、都市の電飾、株式市場。人間の生活が大量生産だけでなく、大量の情報とイメージによって組織され始めたのである。その意味で1920年代後半は単なる「大恐慌前の好景気」ではなく、20世紀のアメリカ型消費文化が社会制度として成立した重要な時代だった。

主な出来事

  • 1924年 — 移民法成立。国籍別割当制度を強化し、南・東欧からの移民を抑制、アジアからの移民をさらに制限。
  • 1924年11月 — カルビン・クーリッジが大統領選挙で当選。
  • 1924年 — 連邦準備制度が景気後退への対応として国債購入を進める。
  • 1925年 — アメリカで人口約6人に1台の自動車が存在する水準へ。
  • 1925年7月 — テネシー州デイトンでスコープス裁判。
  • 1925年頃 — 第二次クー・クラックス・クランが全国的な最盛期を迎える。
  • 1926年 — 自動式電気トースターが登場し、家庭電化製品市場が拡大。
  • 1927年 — 連邦準備制度が景気後退へ対応して大規模な国債購入を行う。
  • 1927年5月20–21日 — チャールズ・リンドバーグがニューヨークからパリへの単独無着陸飛行に成功。
  • 1927年10月6日 — 『ジャズ・シンガー』公開。音声映画への転換点となる。
  • 1928年 — 連邦準備制度が株式投機への懸念から信用引き締めへ。
  • 1928年 — ハリウッドで音声映画への転換が急速に進む。
  • 1928年11月 — ハーバート・フーヴァーが大統領選挙で当選。
  • 1929年3月 — フーヴァーが大統領に就任。
  • 1929年 — 国籍別移民割当が恒久的制度として整備される。
  • 1929年8月 — アメリカ経済の景気拡大が終わり、収縮が始まる。
  • 1929年9月3日 — ダウ工業株30種平均が381.17で最高値を記録。
  • 1929年10月24日 — ブラック・サーズデー。大量の売り注文が殺到。
  • 1929年10月28日 — ブラック・マンデー。ダウ平均が約13%下落。
  • 1929年10月29日 — ブラック・チューズデー。ダウ平均がさらに約12%下落。
  • 1929年11月中旬 — ダウ平均が9月高値からほぼ半分の水準まで低下。

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1929年の株価暴落は、1920年代に成立した大量消費・信用・金融社会を大きく揺さぶった。しかし大恐慌は株価暴落だけで完成したのではなく、1930年以後の銀行危機、企業倒産、失業、農業危機によってさらに深刻化する。次は1929–1941|アメリカ|大恐慌とニューディール — 株価暴落、銀行危機、失業、ルーズベルト、公共事業、連邦美術計画へ進み、消費社会の崩壊と、連邦政府が経済・雇用・文化へ大規模に介入する国家へ変わっていく過程を見る。

参考資料・出典

資料確認日:2026年10月3日 / ART LIBRARY