1700–1800
帝国競争と大西洋革命
清、ムガル後継国家、七年戦争、奴隷貿易、独立革命
18世紀は、しばしば「啓蒙の世紀」「革命の世紀」と呼ばれます。アメリカ独立革命、フランス革命、サン=ドマングの奴隷蜂起は確かに世界史を大きく変えました。しかし1700年から1800年までを革命だけで組み立てると、この一世紀に同時進行していた巨大な帝国形成、商業拡大、奴隷貿易、人口増加、農業開発、先住民社会の外交、アジアの地域国家形成を見落とします。
東アジアでは清朝が康熙帝、雍正帝、乾隆帝の治世を通じて巨大な領域帝国へ成長し、中国内地だけでなくモンゴル、チベット、新疆などとの関係を再編しました。18世紀の中国は世界でも有数の人口と生産規模を持ち、茶、絹、陶磁器などが海外へ大量に輸出されました。朝鮮では英祖・正祖期に政治改革と実学の展開が進み、日本では徳川政権下で都市、出版、市場経済、蘭学が発達しました。
南アジアでは1707年のアウラングゼーブ死後、ムガル皇帝の直接統治力が弱まりました。しかしこれは「無政府状態」への崩壊ではありません。ベンガル、アワド、ハイダラーバードなどのムガル後継国家、マラーター、マイソール、シク教勢力などが独自の政治・軍事・財政制度を発達させました。その多極的な政治環境へイギリス東インド会社とフランス東インド会社が軍事的に介入し、1757年のプラッシー、1764年のブクサール、1765年のディーワーニー獲得を経て、会社は商人組織から徴税権を持つ領域権力へ変化しました。
18世紀半ばの七年戦争は、ヨーロッパだけではなく北アメリカ、カリブ海、西アフリカ、インド洋、南アジアで戦われました。近年の研究では「最初の世界戦争」と表現されることもあります。戦争後の1763年体制は北米における英仏植民地競争を大きく変えましたが、先住民諸国は単なる英仏の同盟者ではなく、自らの領土と主権を守るために外交と戦争を行っていました。
アフリカではアシャンティ、ダホメ、オヨなどの国家が成長し、中央・東・南部アフリカにも多様な政治社会が存在しました。同時に大西洋奴隷貿易は史上最大規模へ達し、SlaveVoyagesの推計では1701–1750年に約256万人、1751–1800年には約393万人がアフリカから大西洋航路へ積み込まれました。これは「労働力移動」ではなく、捕虜化、売買、強制行進、船内拘束によって成立した大規模な人身取引でした。
太平洋ではポリネシア、ミクロネシア、メラネシア、オーストラリア先住民社会が独自の航海・農耕・漁労・政治秩序を維持していました。1769年以後のジェームズ・クック航海はヨーロッパ側の地理認識を大きく変えましたが、訪れた土地は「未発見の空白」ではありません。アオテアロアではマオリ社会、オーストラリアでは数百の先住民集団がすでに土地を所有・管理していました。1788年のシドニー植民開始は、こうした社会に対する恒常的な植民地占拠の始まりでした。
そして世紀後半、「自由」「権利」「人民主権」といった政治言語が革命の中で強い力を持つ一方、植民地支配と奴隷制は拡大を続けていました。1776年のアメリカ独立宣言は平等と権利を掲げましたが、新国家には奴隷制が残り、多くの先住民国家は独立後の領土拡張に直面しました。1789年のフランス人権宣言も普遍的権利を掲げましたが、フランス植民地の奴隷制は直ちには廃止されませんでした。
この矛盾を最も根本的に問い直したのが1791年に始まるサン=ドマングの奴隷蜂起でした。奴隷化された人々自身が武装して植民地奴隷制を揺るがし、1793年の現地解放、1794年のフランス国民公会による奴隷制廃止へつながりました。ハイチ独立そのものは1804年で次の時代に入りますが、18世紀末にはすでに「革命」と「自由」の意味が大西洋世界全体で問い直されていました。
したがって1700–1800年は、単純に「近代ヨーロッパが世界を主導した世紀」ではありません。清、ムガル後継国家、オスマン、ロシア、東南アジア諸王国、アフリカ諸国、先住民国家、ヨーロッパ帝国、植民地社会が同時に動き、交易・戦争・奴隷制・革命によって新しい接続と不均衡が形成された一世紀でした。
CONTENTS
- 18世紀をどう見るか
- 人口増加と商業
- 清朝の最盛期
- 乾隆帝と帝国拡張
- ジュンガル、中央アジア、新疆
- 茶・絹・陶磁器と広州貿易
- 1793年 マカートニー使節
- 朝鮮王朝 — 英祖・正祖と実学
- 徳川日本 — 都市、市場、出版
- 享保・天明期の危機と改革
- 蘭学と外部知識
- ピョートル1世とロシア帝国
- エカチェリーナ2世と帝国拡張
- ポーランド分割
- 18世紀オスマン帝国
- アラビア中央部の新しい政治勢力
- 1707年以後のムガル世界
- 1739年 ナーディル・シャーのデリー侵攻
- マラーター勢力
- ベンガル、アワド、ハイダラーバード
- 1757年 プラッシーの戦い
- 1764–1765年 ブクサールとディーワーニー
- 1770年 ベンガル飢饉
- マイソール、ハイダル・アリー、ティプー
- 東南アジアの地域国家
- 1767年 アユタヤ陥落
- コンバウン朝とシャム再編
- ベトナムと西山朝
- 18世紀アフリカの国家形成
- アシャンティ
- ダホメとオヨ
- 大西洋奴隷貿易の最大化
- 奴隷制批判と廃止運動
- 1756–1763年 七年戦争
- 北米先住民諸国と帝国競争
- 1763年体制と先住民抵抗
- 1775–1783年 アメリカ独立革命
- 1776年 独立宣言
- 合衆国憲法と新国家
- 啓蒙、公共圏、権利
- 産業革命の初期段階
- 1789年 フランス革命
- 人権宣言とその限界
- 1791年 サン=ドマング奴隷蜂起
- 1793–1794年 奴隷解放
- 太平洋世界とヨーロッパ航海
- 1769年 アオテアロアでの遭遇
- 1770年 カマイ/ボタニー湾
- 1788年 シドニー植民
- 帝国競争と革命はどうつながったか
- 1700–1800年に何が変わったのか
- 1700–1800年の主な出来事
- 次の時代へ — 革命戦争と19世紀
- 参考資料・出典
18世紀をどう見るか
18世紀には複数の歴史が同時に進みました。清朝やロシア帝国は陸上領域を拡張し、ヨーロッパの海洋帝国は大西洋・インド洋で植民地競争を激化させました。南アジアではムガル帝国の中央権力が弱まる一方、多数の地域国家が成長しました。アフリカでは新しい王国と交易都市が発達しました。
同じ時期、砂糖、コーヒー、茶、綿織物、陶磁器、毛皮、銀などへの需要が世界の交易を動かし、大西洋奴隷貿易は最大規模へ達しました。消費の拡大は自由な商業だけでなく、奴隷労働、植民地徴税、土地収奪、強制生産によって支えられていました。
世紀後半の革命はこの帝国的・商業的世界の外部で起きたのではありません。七年戦争の戦費、植民地課税、奴隷制、帝国間競争がアメリカ独立、フランス財政危機、サン=ドマング革命の背景にありました。18世紀は帝国の世紀であると同時に、その帝国秩序が新しい政治言語によって問い直され始めた世紀でした。
人口増加と商業
18世紀にはユーラシアとアメリカの多くの地域で人口が増加しました。中国では清朝の安定と農地開発、トウモロコシ・サツマイモなど新大陸作物の普及、国内交易の発達などが人口増加を支えました。ヨーロッパでも死亡率の変化、農業生産、都市化によって人口が増えました。
人口増加は農地拡大と森林利用を進め、都市市場への食料供給を増やしました。同時に、土地不足や価格上昇、飢饉への脆弱性を高めた地域もあります。日本の天明飢饉やベンガル飢饉は、自然条件だけでなく政治・市場・徴税制度の影響を示します。
商業化も進みましたが、世界全体が一つの自由市場になったわけではありません。清の広州貿易、徳川日本の長崎交易、オスマン商業、インド商人網、ヨーロッパ特許会社、アフリカ沿岸商人など、異なる制度が並存していました。
清朝の最盛期
18世紀の清朝は康熙帝晩年、雍正帝、乾隆帝の時代に政治的安定と領域拡大を経験しました。メトロポリタン美術館の解説でも、とくに乾隆帝治世は清朝の権力と富が頂点に達した時期として位置づけられています。
清は満洲人王朝でしたが、漢人官僚制、科挙、儒教的皇帝理念を用いる一方、満洲・モンゴル・チベット仏教など異なる政治伝統を組み合わせました。帝国の各地域を同じ制度で統治したわけではありません。
中国内地では農業・商業・出版が発達し、茶、絹、陶磁器などの生産が国内外の需要と結びつきました。18世紀の清を後の19世紀の危機から逆算して『停滞した帝国』とみなすことは適切ではありません。
乾隆帝と帝国拡張
乾隆帝は1736年から1795年まで統治し、清朝の領域を中央アジア方面へ大きく広げました。皇帝は儒教的な中国皇帝としてだけでなく、満洲君主、モンゴル的なハーン、チベット仏教の保護者など複数の政治的役割を示しました。
宮廷では大規模な文書編纂、地図作成、美術品収集が進み、皇帝は文化的正統性を強く演出しました。一方、『四庫全書』編纂に伴う書籍収集では、清に批判的と判断された文献の禁圧・破棄も行われました。
乾隆期の拡張と文化的繁栄は巨大な財政・軍事資源に支えられました。世紀末には人口増加、官僚腐敗、地方財政、白蓮教反乱など、次世紀へ続く問題も現れ始めます。
ジュンガル、中央アジア、新疆
18世紀半ばまで中央アジア東部ではジュンガル・ハン国が強力なオイラト・モンゴル国家として存在し、清朝と長期的に競争しました。ジュンガルはチベット、カザフ草原、タリム盆地などの政治に影響を持ちました。
1750年代、清軍はジュンガルを軍事的に制圧しました。戦争、疫病、殺害、移住によってジュンガル人口は壊滅的な減少を経験し、その旧領域には清の軍事・行政支配が拡大しました。タリム盆地のオアシス地域も清帝国へ組み込まれていきます。
現在『新疆』と呼ばれる地域の清支配は、中国内地の省と同一制度ではありませんでした。軍事駐屯、現地有力者、イスラーム社会、モンゴル・満洲系統治制度を組み合わせた辺境帝国統治でした。
茶・絹・陶磁器と広州貿易
18世紀の中国製品は世界各地で高い需要を持ちました。茶はイギリスなどで大衆的消費へ広がり、絹、陶磁器、漆器も大量に輸出されました。中国側はヨーロッパ製品を同じ規模では必要とせず、決済には銀が重要でした。
18世紀後半、清政府はヨーロッパ商人との海上貿易を広州へ集中させ、公行商人を通じて管理しました。後世『広州体制』と呼ばれる仕組みです。ただし中国の対外交易が広州だけに限定されたわけではなく、東南アジア・中央アジア・ロシアとの陸上・海上交易もありました。
欧州側から見ると対中貿易赤字と銀流出が問題化し、18世紀末以後、イギリス商人はインド産アヘンを中国市場へ拡大していきます。これは19世紀のアヘン戦争へつながる重要な前史です。
1793年 マカートニー使節
1793年、イギリス政府はジョージ・マカートニーを清朝へ派遣し、外交関係の常設化、貿易条件の拡大、追加港湾などを求めました。乾隆帝宮廷は使節を受け入れましたが、要求の多くを認めませんでした。
この使節はしばしば『近代的イギリスと停滞した中国の衝突』として語られますが、その単純化には注意が必要です。清朝側には独自の朝貢・外交秩序と沿岸安全保障があり、イギリス側も自由貿易だけでなく帝国的商業利益を追求していました。
1793年の交渉失敗は直ちに戦争へつながりませんでしたが、両国が外交・主権・商業を異なる制度で理解していたことを明確にしました。
朝鮮王朝 — 英祖・正祖と実学
18世紀の朝鮮王朝では、英祖と正祖の長い治世のもとで政治安定と改革が模索されました。朋党間の激しい対立を抑える蕩平策が採られ、王権と官僚政治の均衡が再調整されました。
知識人の一部は農業、土地制度、商業、地理、技術など実際の社会問題を研究し、後世『実学』と呼ばれる学問傾向を発展させました。メトロポリタン美術館も1600–1800年朝鮮文化の特徴として、自国の歴史・地理・農業・社会への関心を挙げています。
中国・日本との外交交流も継続しました。清への燕行使、徳川日本への朝鮮通信使は書籍、知識、文物が移動する経路でした。18世紀末には北京を経由してカトリック書籍が入り、朝鮮人知識人の中から自発的なカトリック共同体も生まれました。
徳川日本 — 都市、市場、出版
18世紀の日本では、徳川幕府と諸藩の政治秩序が続き、江戸、大坂、京都などの都市が巨大化しました。全国的な米市場、商品作物、海運、問屋制度が発達し、農村も商品経済へ深く組み込まれました。
江戸時代を単純な『封建的農業社会』と見ることはできません。商人や職人が都市文化を支え、出版、貸本、芝居、浮世絵などが大規模な市場を持ちました。識字能力の広がりも書籍・実用知識の流通を支えました。
幕府は社会身分と大名統制を維持しましたが、実際の経済力は公式身分秩序と一致しなくなりました。財政難に苦しむ武士・大名と、資本を蓄積する商人の関係は18世紀政治の重要な背景でした。
享保・天明期の危機と改革
18世紀の徳川社会は平和と成長だけではありません。幕府と諸藩は財政問題に直面し、徳川吉宗による享保の改革など、年貢・新田開発・行政の再編が行われました。
1732年には西日本で享保の飢饉が起こり、1780年代には冷夏、浅間山噴火などと重なって天明の飢饉が深刻化しました。東北地方を中心に大量の死者・流民が生じました。
飢饉を気候だけで説明することはできません。藩ごとの備蓄、商品作物化、米流通、年貢政策、救済制度によって被害は異なりました。飢饉と米価高騰は打ちこわしや社会不安の背景にもなりました。
蘭学と外部知識
対外交易が統制されていた徳川日本でも、長崎を通じて中国・オランダの書籍と知識が流入しました。18世紀にはオランダ語文献を用いる蘭学が発達し、医学、天文学、地理、博物学などへ広がりました。
1774年に杉田玄白らが刊行した『解体新書』は、オランダ語解剖書の翻訳をもとに人体解剖知識を紹介しました。翻訳は単純な知識輸入ではなく、日本語の専門語を作りながら異なる知識体系を理解する作業でした。
同時に中国医学・漢籍の影響は依然として大きく、蘭学がそれを即座に置き換えたわけではありません。18世紀日本の知識世界は、中国由来の学問、在来経験、ヨーロッパ知識が併存していました。
ピョートル1世とロシア帝国
18世紀初頭、ピョートル1世は軍事・行政・都市制度を大規模に再編しました。1700–1721年の大北方戦争でスウェーデンと戦い、バルト海への出口を確保しました。1703年に建設されたサンクトペテルブルクは新しい帝国首都となります。
1721年、ピョートルは皇帝の称号を採用し、ロシア帝国を宣言しました。軍隊、官僚制、徴税、造船を再編する一方、農民への負担と農奴制は強化されました。
ロシアの拡張はヨーロッパ方向だけではありません。シベリア横断支配を背景に北太平洋へ進み、18世紀後半にはアラスカ方面で毛皮交易を拡大しました。先住民社会との交易、徴収、暴力的衝突も増加しました。
エカチェリーナ2世と帝国拡張
1762年に即位したエカチェリーナ2世の時代、ロシア帝国は黒海・ポーランド方面へ領域を拡大しました。オスマン帝国との戦争に勝利し、1774年のキュチュク・カイナルジャ条約などを通じて黒海地域への影響力を強めました。
1783年にはクリミア・ハン国を併合しました。これは長くオスマン帝国と結びついていた黒海北岸の政治秩序を大きく変える出来事でした。
エカチェリーナは啓蒙思想家と書簡を交わし、法制改革を論じましたが、国内では農奴制が存続・拡大しました。1773–1775年のプガチョフ反乱は農民、コサック、少数民族などの不満を示し、啓蒙的君主という自己像と帝国支配の矛盾を表しました。
ポーランド分割
18世紀後半、ポーランド=リトアニア共和国はロシア、プロイセン、オーストリアの圧力を強く受けました。共和国の選挙王制や貴族議会制度が政治改革を困難にする一方、周辺列強が国内政治へ介入しました。
1772年、1793年、1795年の三度の分割によって共和国領は周辺三国に併合され、独立国家としてのポーランド=リトアニア共和国は消滅しました。
1791年には改革派が憲法を制定しましたが、国内反対派とロシアの軍事介入によって維持できませんでした。ポーランド分割は18世紀の『主権』『改革』『列強均衡』の限界を示す事例です。
18世紀オスマン帝国
18世紀のオスマン帝国は、しばしばヨーロッパ列強に押される『衰退帝国』と描かれてきました。しかし帝国は領土損失を経験しながらも、イスタンブル、カイロ、アレッポ、イズミルなどの都市と広大な農業・商業圏を維持しました。
地方ではアーヤーンと呼ばれる有力者、徴税請負人、軍人家系などの力が増しました。これは中央政府の完全な崩壊ではなく、帝国支配が地方エリートとの協力により再編された面があります。
ヨーロッパとの外交・商業も増え、1720年代のフランス使節などを通じて宮廷文化の交流が進みました。1790年代にはセリム3世が軍事・行政改革を試み、19世紀の改革へつながります。
アラビア中央部の新しい政治勢力
18世紀中頃、アラビア半島中央部のナジュドでは、宗教改革者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブとディルイーヤの支配者ムハンマド・イブン・サウードが同盟を結びました。1744年頃を第一サウード国家形成の起点とすることが一般的です。
この同盟はイスラーム実践の改革運動と地方王権の軍事拡張を結びつけ、ナジュド各地へ勢力を広げました。18世紀末にはアラビア半島内の重要な政治勢力となっていました。
現代のサウジアラビア国家をそのまま18世紀へ投影することはできませんが、サウード家とワッハーブ派宗教運動の結びつきは後世のアラビア政治に長期的影響を与えました。
1707年以後のムガル世界
1707年にアウラングゼーブが死去した後、ムガル皇帝の地方への直接統制は弱まりました。しかしムガル帝国の政治文化と制度が突然消えたわけではありません。
地方総督や有力者は独立性を高めながらも、ムガル皇帝の称号、官職、貨幣、ペルシア語行政文化を利用しました。ベンガル、アワド、ハイダラーバードなどの地域国家は、帝国からの離脱であると同時にムガル制度の再編でもありました。
メトロポリタン美術館の地域史も、アウラングゼーブ死後にムガル宮廷の力が弱まる一方、従属・後継諸国で文化的繁栄が生じたことを指摘しています。18世紀インドを単純な『ムガル衰退期』と呼ぶだけでは、多極化した政治秩序を捉えられません。
1739年 ナーディル・シャーのデリー侵攻
イランではサファヴィー朝崩壊後にナーディル・シャーが軍事力を背景に台頭し、1736年に即位しました。1739年、彼はムガル帝国領へ侵攻し、カルナールでムガル軍を破ってデリーへ入りました。
デリーでは大量殺害と略奪が起こり、王室財宝の多くがイランへ運ばれました。ムガル皇帝の象徴的権威は残りましたが、帝国の軍事的脆弱性が明確になりました。
ただし1739年を『ムガル帝国が終わった年』とするのは適切ではありません。皇帝制度は存続し、地方国家もムガル的正統性を利用しました。政治的重心が中央から複数の地域へ移ったことが重要です。
マラーター勢力
18世紀前半、マラーター国家はデカンから北インドへ勢力を広げました。ペーシュワーを中心とする政治体制の下、シンディア、ホールカル、ガーイクワード、ボーンスレーなど複数の有力家が広域に活動しました。
マラーターは単一中央集権帝国というより、共同の政治文化と徴税権、軍事同盟で結ばれた複合的勢力でした。ムガル後継諸国と戦う一方、協定や徴税関係も結びました。
1761年の第三次パーニーパットの戦いでアフマド・シャー・ドゥッラーニー軍に敗れましたが、マラーター勢力が消滅したわけではありません。18世紀後半にも北・西・中央インドで主要政治勢力として存続しました。
ベンガル、アワド、ハイダラーバード
18世紀のインドではベンガル、アワド、ハイダラーバードなどが事実上の自立国家として発展しました。これらの支配者はムガル皇帝との形式的関係を維持しながら、独自の徴税、軍隊、宮廷、外交を行いました。
ベンガルは肥沃な農業地域と綿・絹織物生産を持ち、世界交易の重要地域でした。イギリス、フランス、オランダなどの会社は現地商人、金融家、官僚との関係に依存して取引しました。
ヨーロッパ会社の台頭は、この地域国家の内部政治と切り離せません。会社は単に軍事力で外から征服したのではなく、地方有力者、銀行家、王位継承争いとの同盟を利用して政治的影響力を拡大しました。
1757年 プラッシーの戦い
1757年6月、イギリス東インド会社軍はベンガル太守シラージュ・ウッダウラ軍とプラッシーで戦いました。会社側はロバート・クライヴが指揮し、ベンガル宮廷内部の反対派と秘密協定を結んでいました。
戦闘そのものは大規模な正面決戦というより、太守軍内部の離反が結果を左右しました。会社はミール・ジャファルを新太守として支え、ベンガル政治へ決定的な影響を持つようになります。
Cambridge University Pressの研究が指摘するように、1757年は会社の軍事・政治的地位が大きく上昇した転換点でした。ただしベンガルの正式な徴税権を得るのは1765年であり、一戦で直ちにイギリスが『インドを征服した』わけではありません。
1764–1765年 ブクサールとディーワーニー
1764年のブクサールの戦いで東インド会社軍は、ベンガル前太守ミール・カーシム、アワド太守シュジャー・ウッダウラ、ムガル皇帝シャー・アーラム2世の連合軍を破りました。
1765年、アラーハーバード条約を経てムガル皇帝は会社にベンガル、ビハール、オリッサのディーワーニー、すなわち歳入徴収権を認めました。会社は商業組織でありながら巨大地域の税収を管理する政治権力へ変化しました。
この変化は後の英領インドの重要な起点ですが、当時の会社は依然としてムガル法的権威とインド人徴税官・金融家・地方有力者に依存していました。植民地国家は既存制度を利用しながら段階的に形成されました。
1770年 ベンガル飢饉
1769年から1770年にかけてベンガルでは深刻な旱魃と食料不足が発生し、大規模な飢饉となりました。Cambridge University Pressの研究では死亡者は人口の6分の1から3分の1ほどと推定され、数字には大きな幅があります。
自然条件だけでは被害を説明できません。戦争後の経済混乱、会社による歳入徴収、穀物市場、地方の扶養・救済能力が複雑に関係しました。会社が飢饉期にも高い歳入要求を維持したことは研究上重要な論点です。
この飢饉は東インド会社統治への批判と会社自身の財政危機を深め、1773年規制法などイギリス議会が会社経営へ介入する背景の一つとなりました。
マイソール、ハイダル・アリー、ティプー
南インドでは18世紀後半にマイソール王国が強力な軍事国家へ成長しました。ハイダル・アリーとその子ティプー・スルタンは軍隊・財政・武器生産を改革し、マラーター、ハイダラーバード、東インド会社と戦いました。
ティプーはフランス、オスマン帝国などとの外交関係も模索し、会社の南インド拡大に対抗しました。ロケット兵器の運用でも知られます。
四次にわたるマイソール戦争の末、1799年にティプーはシュリーランガパトナで戦死しました。この事件は19世紀初頭の会社領域拡大へつながりますが、18世紀のインド政治が『イギリス対インド』という単純な二極構造ではなかったことも重要です。
東南アジアの地域国家
18世紀東南アジアでは、VOCがインドネシア諸島の一部で強い支配力を持った一方、大陸部にはビルマ、シャム、ベトナムなど大規模な在地王国が存在しました。島嶼部でもVOCの直接支配地域と独立王国・スルタン国が複雑に入り混じっていました。
メトロポリタン美術館の地域史が示すように、1600–1800年の東南アジアでは宮廷・都市文化、上座部仏教、イスラーム、キリスト教、織物・陶磁器交易などが多中心的に発展しました。
18世紀後半にはVOCの財政悪化も進み、1799年に会社は解散します。オランダ国家が資産を引き継ぎますが、19世紀型の植民地支配が18世紀中に完成していたわけではありません。
1767年 アユタヤ陥落
シャムのアユタヤ王国は1351年以来400年以上続き、国際交易都市として発展していました。しかし18世紀中頃、ビルマのコンバウン朝との戦争が激化しました。
1767年、ビルマ軍はアユタヤを包囲・攻略し、都市は大きな破壊を受けました。長期王朝は崩壊しましたが、シャム政治社会そのものが消滅したわけではありません。
タークシンがトンブリーを拠点に地域を再統合し、1782年にはチャクリー朝が成立してバンコクを首都としました。アユタヤ崩壊は『ビルマによる恒久征服』ではなく、シャム国家が新しい中心へ再編される契機でした。
コンバウン朝とシャム再編
ビルマでは1752年にコンバウン朝が成立し、アラウンパヤーと後継者たちが上ビルマ・下ビルマを統合しました。王朝はマニプル、シャム、中国南西辺境などへ軍事遠征を行いました。
1765–1769年には清朝との戦争も起こりました。清軍は複数回侵攻しましたが決定的征服に失敗し、最終的に双方は戦闘を終えました。これは清帝国の拡張にも限界があったことを示します。
一方シャムではタークシン、続いてラーマ1世が新政権を構築しました。1782年以後のバンコク王朝はアユタヤの制度・宗教・文化を継承しながら、新しい首都秩序を形成しました。
ベトナムと西山朝
18世紀のベトナムでは、形式上の黎朝皇帝の下で北部を鄭氏、南部を阮氏が支配する分裂状態が長く続きました。南部ではメコンデルタ方面への開拓とクメール地域への政治的進出が進みました。
1770年代、西山地方で始まった反乱が急速に拡大し、阮氏・鄭氏双方の政権を倒しました。西山軍は1789年に清軍を破り、阮恵が光中帝として権力を確立しました。
光中帝死後、西山政権は不安定化し、阮福映が勢力を回復します。1802年の阮朝成立は次の記事に入りますが、その前提は18世紀後半の内戦と地域統合の中で形成されました。
18世紀アフリカの国家形成
18世紀アフリカ史を大西洋奴隷貿易だけで説明することはできません。西アフリカではアシャンティ、ダホメ、オヨなどが軍事・交易国家として成長し、中央アフリカではルバ・ルンダ・クバなどが広域政治秩序を維持しました。
北アフリカではオスマン支配下の諸州と独立したモロッコがあり、東アフリカ沿岸ではオマーン勢力とスワヒリ都市の関係が変化しました。エチオピア高原でもゴンダールを中心とする政治秩序が続きました。
沿岸交易の拡大は内陸社会へ影響しましたが、その程度は地域によって異なります。国家形成、農業、牧畜、地域市場、宗教、王権は大西洋交易とは別の論理でも動いていました。
アシャンティ
現在のガーナ内陸では17世紀末から18世紀初頭にアシャンティ国家が形成されました。オセイ・トゥトゥと祭司オコムフォ・アノキェに結びつけられる黄金の床几は、アシャンティ政治共同体の象徴となりました。
アシャンティは金産地と交易路を支配し、周辺国家との戦争と同盟を通じて領域を拡大しました。クマシは政治・商業中心として成長しました。
大西洋沿岸との交易では金、コーラ、奴隷などが扱われ、銃器・織物などが輸入されました。しかし国家経済を奴隷貿易だけに還元することはできず、農業・内陸交易・貢納も重要でした。
ダホメとオヨ
現在のベナン周辺ではダホメ王国が18世紀に拡大しました。アガジャ王は1720年代にアラダと沿岸港ウィダーを征服し、ヨーロッパ奴隷商人との直接取引を強めました。
メトロポリタン美術館は、ダホメが1748年から19世紀初頭までヨルバ系オヨ帝国へ朝貢する関係にあったことを指摘しています。つまりダホメは沿岸の強国でしたが、地域政治ではさらに大きなオヨ勢力と関係していました。
18世紀のベニン湾では奴隷貿易が国家戦争と密接に関係しましたが、捕虜化された人々の出身は多様でした。国家支配者、地域商人、ヨーロッパ商人が異なる利害で人身取引へ関与しました。
大西洋奴隷貿易の最大化
18世紀は大西洋奴隷貿易が最も大きな規模へ達した時代です。SlaveVoyagesの推計では、1701–1750年に約256万人、1751–1800年に約393万人、合計で650万人近くがアフリカから奴隷船へ積み込まれました。
最大の移送先はブラジルとカリブ海で、砂糖、コーヒー、鉱業などの労働へ投入されました。中間航路では過密、疾病、暴力、栄養不足により多数が死亡しました。到着後も過酷な労働と高い死亡率が続く植民地がありました。
大西洋奴隷制は人種概念の制度化とも結びつきました。植民地法はアフリカ系住民とその子孫を世襲的財産として扱い、自由人との法的区別を固定しました。それでも奴隷化された人々は逃亡、反乱、家族形成、宗教・言語・音楽文化の維持など多様な形で主体性を保ちました。
奴隷制批判と廃止運動
18世紀後半になると、大西洋両岸で奴隷貿易と奴隷制を批判する運動が拡大しました。クエーカーなど宗教集団、黒人著述家、自由黒人共同体、奴隷経験者、白人改革者が異なる立場から廃止を訴えました。
イギリスでは1780年代に奴隷貿易廃止運動が全国的な請願運動へ発展しました。元奴隷オラウダ・エクィアーノの自伝なども世論形成に影響しました。
しかし18世紀中に大西洋奴隷貿易が終わったわけではありません。むしろ輸送規模は非常に大きく、経済利害は強固でした。革命的権利思想と奴隷制の併存が、この時代の根本的矛盾の一つでした。
1756–1763年 七年戦争
七年戦争は1756年にヨーロッパで正式に始まりましたが、北米では1754年から英仏植民地勢力と先住民同盟を巻き込む戦闘が始まっていました。ヨーロッパではプロイセン、オーストリア、ロシア、フランス、イギリスなどが戦いました。
戦場は北アメリカ、カリブ海、西アフリカ、インド、フィリピンにも広がりました。Cambridge University Pressの近年の研究は、この戦争を多民族の帝国と先住民・黒人兵士が参加した最初の本格的な世界戦争として位置づけています。
1763年の講和でイギリスはカナダなどを獲得し、インドでもフランスの政治的影響を大きく後退させました。しかし戦費は膨大で、イギリス政府が北米植民地へ課税を強める背景となり、十数年後の独立革命へつながる新しい対立を生みました。
北米先住民諸国と帝国競争
18世紀北アメリカはイギリス、フランス、スペイン植民地だけで構成されていたわけではありません。イロコイ連邦、チェロキー、クリーク、オジブワ、オタワ、ショーニーなど多数の先住民諸国が、広大な領域で外交・交易・戦争を行っていました。
ヨーロッパ帝国との同盟は従属を意味しませんでした。各先住民国家は武器・商品・軍事支援を得ながら、競合する帝国同士を利用して自国の領土を守ろうとしました。
七年戦争でフランスが北米内陸から後退すると、英仏の均衡を利用していた外交環境が崩れました。イギリス植民地の西方拡大は先住民の土地主権へ直接的な圧力を強めました。
1763年体制と先住民抵抗
1763年、オタワの指導者ポンティアックを含む五大湖・オハイオ地域の多数の先住民勢力がイギリス砦や入植地へ攻撃を行いました。NPS資料が示すように、これはフランス敗北後にイギリスが交易慣行を変更し、植民地拡大が進むことへの抵抗でした。
イギリス王権は同年の国王宣言でアパラチア山脈以西への植民地入植を制限し、先住民領域を一定程度承認しようとしました。しかし土地投機家と入植者は強く反発し、実際の西方進出を止めることはできませんでした。
1763年以後の対立は、アメリカ独立革命を単純な『植民地人対イギリス』の物語として理解できないことを示します。多くの先住民国家にとって、イギリス王権よりも植民地入植者の拡大が直接的な脅威でした。
1775–1783年 アメリカ独立革命
七年戦争後、イギリス政府は帝国防衛費を植民地にも負担させようとし、印紙法、タウンゼンド諸法、茶法などをめぐって対立が深まりました。植民地側では代表なくして課税なしという主張が広がりました。
1775年4月、レキシントンとコンコードで武力衝突が始まりました。1776年7月には大陸会議が独立を宣言しました。1778年にフランスがアメリカ側として参戦すると戦争は大西洋・カリブ海・インド洋にも広がり、スペインやオランダもイギリスと戦う国際戦争となりました。
1783年のパリ条約でイギリスはアメリカ合衆国独立を承認しました。しかし戦争は奴隷化された人々、ロイヤリスト、先住民諸国にそれぞれ異なる結果をもたらしました。独立を自由の普遍的実現としてだけ語ることはできません。
1776年 独立宣言
1776年7月4日、大陸会議は独立宣言を採択しました。アメリカ国立公文書館が保存する文書は、人間の平等、生命・自由・幸福追求などの権利、政府の正当性を被治者の同意に置く政治原理を宣言しています。
この文書は後世の権利思想へ大きな影響を与えましたが、1776年の社会でその原理がすべての人に適用されたわけではありません。奴隷制は存続し、女性に政治参加権はなく、先住民の主権も新国家の西方拡張によって侵害されていきました。
したがって独立宣言の歴史的重要性は、その理念と同時代社会の現実との緊張にあります。後の廃奴運動、女性参政権運動、公民権運動も、この宣言の言葉を新しい対象へ拡張する形で利用しました。
合衆国憲法と新国家
独立後の13州は当初、連合規約の下で緩やかな連合を形成しました。しかし財政、州間交易、外交、治安の問題から中央政府強化を求める声が高まり、1787年にフィラデルフィアで憲法制定会議が開かれました。
合衆国憲法は連邦政府の立法・行政・司法を制度化し、1789年に新政府が発足しました。1791年には権利章典が批准されました。
一方、憲法は奴隷制を直ちに廃止せず、奴隷人口を議席配分へ部分的に算入する制度などを含みました。また連邦政府と州は先住民領域への拡大を続けました。新しい共和政の成立と植民地的拡張は同時に進行しました。
啓蒙、公共圏、権利
18世紀ヨーロッパでは自然法、宗教寛容、統治、経済、教育をめぐる議論が広がり、後世『啓蒙思想』と総称されました。モンテスキュー、ヴォルテール、ルソー、ディドロ、ヒューム、カントなどは異なる立場から権威と理性を論じました。
書籍、新聞、サロン、コーヒーハウス、学会、フリーメイソンなどの場が議論の流通を支えました。啓蒙は単一思想ではなく、宗教や植民地支配を支持する思想家も批判する思想家もいました。
また思想はヨーロッパ内部だけで形成されたわけではありません。中国、オスマン世界、アメリカ先住民社会、太平洋などに関する旅行記・宣教師報告・比較論が政治哲学に利用されました。ただしそこには誤解やステレオタイプも多く含まれました。
産業革命の初期段階
18世紀後半のイギリスでは、綿工業、石炭、鉄、蒸気機関などを中心に生産技術と工場制度が変化し始めました。後世『産業革命』と呼ばれる長期過程の初期段階です。
1709年にはコールブルックデールでアブラハム・ダービーがコークスを利用した製鉄を進め、18世紀後半には紡績機械とワット式蒸気機関が生産能力を拡大しました。British Museumもコールブルックデールを産業革命初期の重要拠点として紹介しています。
ただし工業化を発明だけで説明することはできません。石炭資源、農業生産、市場、金融、道路・運河、植民地原料と消費市場、インド綿織物との競争などが複合的に関係しました。工業化の速度もヨーロッパ内で大きく異なりました。
1789年 フランス革命
フランス王国は18世紀後半、七年戦争とアメリカ独立戦争への参加による財政負担、複雑で不平等な課税制度、政治代表をめぐる対立に直面しました。1789年、ルイ16世は財政問題解決のため三部会を招集しました。
第三身分代表を中心とする議員は国民議会を宣言し、政治主権の所在をめぐる根本的な変化が始まりました。7月14日のバスティーユ襲撃、農村部の『大恐怖』、8月の封建的特権廃止など、革命は議会政治だけでなく都市民衆・農民の行動によって進みました。
1792年には王政が廃止され共和政となり、1793年にルイ16世が処刑されました。国内反乱と対外戦争の中で革命は急進化し、恐怖政治へ進みました。フランス革命は一つの出来事ではなく、1789年以後長く続く政治・社会変動でした。
人権宣言とその限界
1789年8月、フランス国民議会は『人間と市民の権利の宣言』を採択しました。UNESCOの『世界の記憶』に登録された原資料は、自由、権利の平等、国民主権、法の前の平等、表現・宗教意見の自由などを掲げました。
宣言は近代的権利思想の重要文書ですが、当時の『市民』の範囲は自動的に女性、奴隷化された人々、植民地住民を含みませんでした。オランプ・ド・グージュは1791年に女性の権利宣言を発表し、女性排除を批判しました。
植民地では自由有色人、白人植民者、奴隷化された人々が革命の権利言語をそれぞれ異なる要求に用いました。普遍的権利の宣言が、その適用範囲をめぐる政治闘争を生み出したのです。
1791年 サン=ドマング奴隷蜂起
フランス領サン=ドマングは18世紀末、大西洋世界で最も収益性の高い砂糖・コーヒー植民地の一つでした。その富は大量に輸入されたアフリカ人奴隷の過酷な労働に支えられていました。
1791年8月、北部平原を中心に大規模な奴隷蜂起が始まりました。UNESCOとLibrary of Congressの資料は、この蜂起が最終的に1804年のハイチ独立へつながる革命過程の起点となったことを示しています。
蜂起の参加者は一枚岩ではなく、アフリカ出身集団、クレオール、指導者、自由有色人、白人植民者、フランス革命政府、スペイン、イギリスなど複数勢力の利害が絡みました。トゥーサン・ルーヴェルチュールもこの戦争の中で台頭します。
1793–1794年 奴隷解放
サン=ドマングの戦争が激化し、フランス共和国がスペイン・イギリスとも戦う中、共和政委員ソントナックスは1793年8月に北部の奴隷解放を宣言しました。ポルヴェレルも他地域で解放を進めました。
1794年2月、フランス国民公会はフランス植民地における奴隷制廃止を法制化しました。これは奴隷化された人々自身の軍事蜂起と植民地戦争がフランス本国政治へ影響を与えた結果であり、単に本国から与えられた改革ではありません。
しかし奴隷制は大西洋世界全体で廃止されたわけではなく、フランスでもナポレオン政権が1802年に植民地奴隷制を復活させようとします。サン=ドマングではそれが独立戦争をさらに激化させ、1804年のハイチ成立へつながります。
太平洋世界とヨーロッパ航海
18世紀の太平洋は、ヨーロッパ航海者によって初めて結ばれた海ではありません。ポリネシア人、ミクロネシア人、メラネシア人は高度な航海知識を持ち、島々の間を移動・交易してきました。オーストラリアでは先住民社会が数万年にわたり土地と海域を管理していました。
18世紀後半、ヨーロッパの航海は天文学、地図作成、自然史、帝国競争を結びつけました。クックの三回の航海は太平洋の欧州地図を大きく更新し、標本・物品・知識をヨーロッパへ運びました。
しかし『探検』は双方向の遭遇でした。航海者たちは現地の水先案内、食料、言語知識に依存し、島社会側も交易・外交・抵抗を行いました。接触は疾病や暴力ももたらしました。
1769年 アオテアロアでの遭遇
アオテアロア/ニュージーランドには、ポリネシア系祖先を持つマオリ社会が数世紀にわたり暮らし、イウィやハプーを単位として土地・漁場・交易・戦争を組織していました。
1769年、ジェームズ・クックのエンデバー号が到来しました。Te Papaは、この遭遇を『ヨーロッパによる発見』だけではなく、マオリと英国人の複雑で時に暴力的な接触として扱っています。最初の接触では複数のマオリが船員の武器によって死亡しました。
クック一行にはタヒチ人航海者トゥパイアが同行し、ポリネシア諸言語の近さを利用して通訳・外交に重要な役割を果たしました。太平洋探検の歴史に現地・島嶼民の知識が不可欠だったことを示す例です。
1770年 カマイ/ボタニー湾
1770年4月、エンデバー号は現在のシドニー南部にあるカマイ/ボタニー湾へ入りました。National Museum of Australiaは、この土地をグウィーガル、ビジガルなどダラワル/エオラ系住民のカントリーとして説明しています。
上陸を拒もうとしたグウィーガルの男性に対し、クック側は銃を発砲し、一人を負傷させました。船員は集落から盾や槍などを持ち去りました。これは『友好的な発見』という単純な物語ではありません。
クックの航海は18年後の植民地建設と同じ出来事ではありません。しかしイギリス側が東海岸に関する地理情報を持ち帰ったことは、後の植民地計画に利用されました。
1788年 シドニー植民
1788年1月、11隻からなる第一艦隊が到着し、アーサー・フィリップはシドニー・コーブに流刑植民地を建設しました。National Museum of Australiaはこれをオーストラリアにおけるヨーロッパ植民地化の開始として位置づけています。
この土地にはエオラ諸集団が暮らしており、植民地の建設は土地・水・食料資源を直接奪うものでした。抵抗と暴力が起こり、ペムルウイらが入植者に対する武装抵抗を続けました。
1789年頃にはシドニー周辺の先住民社会で天然痘とみられる疫病が発生し、甚大な人口被害をもたらしました。病原体の具体的な導入経路については研究上議論があり、意図的感染を断定できる証拠には注意が必要です。
帝国競争と革命はどうつながったか
18世紀の革命は帝国競争と切り離せません。七年戦争で膨大な債務を負ったイギリスは北米植民地への課税を強め、フランスも戦争とアメリカ独立支援によって財政問題を悪化させました。
アメリカ独立とフランス革命が広めた権利言語は、奴隷制植民地サン=ドマングでも利用されました。しかし権利は自動的に拡大したわけではなく、自由有色人と奴隷化された人々は武装蜂起と政治行動によってその適用を争いました。
同時に東インド会社はインドで徴税権を拡大し、清とロシアは大陸内部で帝国領域を拡張しました。革命によって『帝国の時代』が終わったのではなく、革命と帝国拡張は並行して進みました。
1700–1800年に何が変わったのか
第一に、18世紀は帝国の規模と接続がさらに拡大しました。清とロシアは中央・北アジアへ領域を広げ、イギリス・フランス・スペインは大西洋・インド洋で競争しました。海洋帝国と陸上帝国は別々に発展したのではなく、交易と外交を通じて接触していました。
第二に、南アジアではムガル帝国の中央統制が弱まり、多数の地域国家が成長しました。その多極化の中で東インド会社が軍事・徴税権を獲得しました。これはヨーロッパ勢力の技術的優位だけではなく、インド内部の同盟・金融・軍事政治を利用した変化でした。
第三に、大西洋奴隷貿易が最大規模へ達し、砂糖・コーヒーなどの商品消費と強制労働が世界的に結びつきました。アフリカ国家は独自の政治史を持ちながら、その一部は奴隷交易によって深く変化しました。
第四に、七年戦争によって世界規模の帝国戦争が明確になりました。北米では先住民国家が英仏競争の中で主体的に外交しましたが、1763年以後の植民地拡大によって領土圧力が強まりました。
第五に、18世紀後半の革命は主権と権利の新しい政治言語を広めました。しかしアメリカ独立もフランス革命も、当初からすべての人の平等を実現したわけではありません。女性、奴隷、植民地住民、先住民の権利は別の闘争を必要としました。
第六に、サン=ドマング革命は奴隷化された人々自身が大西洋革命の主体となったことを示しました。1791年の蜂起と1793–94年の奴隷解放は、自由の範囲を植民地奴隷制度そのものへ広げる出来事でした。
第七に、太平洋とオーストラリアではヨーロッパの恒常的な航海・植民が始まりました。しかしそこにはすでに長い歴史を持つ先住民社会が存在し、遭遇は発見ではなく既存の土地権と政治秩序への侵入でもありました。
1800年頃、世界は革命によって旧秩序を捨てたのではありません。帝国、奴隷制、植民地、王朝国家、共和政が同時に存在していました。19世紀は、この18世紀末に生まれた新しい国家と思想が、工業化・帝国主義・国民国家形成と結びつく時代になります。
1700–1800年の主な出来事
- 1700–1721年 — 大北方戦争。ロシアがバルト海方面で勢力を拡大。
- 1707年 — ムガル皇帝アウラングゼーブ死去。南アジアの政治的多極化が進む。
- 1709年 — コールブルックデールでコークスを用いた製鉄が進展。
- 1713年 — ユトレヒト条約。スペイン継承戦争の主要部分が終結。
- 1721年 — ピョートル1世がロシア帝国の皇帝号を採用。
- 1720年代 — ダホメ王国がアラダ、ウィダーを征服し沿岸交易への直接関与を強める。
- 1724年 — 朝鮮で英祖即位。
- 1732年 — 日本で享保の飢饉。
- 1736年 — 乾隆帝即位。イランでナーディル・シャー即位。
- 1739年 — ナーディル・シャーがデリーを占領・略奪。
- 1740–1748年 — オーストリア継承戦争。北米・インドでも英仏が競争。
- 1744年頃 — ナジュドでムハンマド・イブン・サウードとイブン・アブドゥルワッハーブの同盟。
- 1752年 — ビルマでコンバウン朝成立。
- 1750年代 — 清がジュンガルを軍事的に制圧し、中央アジア支配を拡大。
- 1754年 — 北米オハイオ地域で英仏植民地勢力の戦闘が始まる。
- 1756–1763年 — 七年戦争。ヨーロッパ、北米、カリブ海、西アフリカ、南アジアなどで戦闘。
- 1757年 — プラッシーの戦い。東インド会社がベンガル政治への影響力を強める。
- 1761年 — 第三次パーニーパットの戦い。
- 1763年 — パリ条約で七年戦争終結。北米で先住民による大規模抵抗が始まる。イギリスが国王宣言を公布。
- 1764年 — ブクサールの戦い。
- 1765年 — 東インド会社がベンガル、ビハール、オリッサのディーワーニーを獲得。
- 1767年 — ビルマ軍がアユタヤを攻略。アユタヤ王国終焉。
- 1769年 — クックのエンデバー号がアオテアロア/ニュージーランドへ到来。
- 1770年 — クック一行がオーストラリア東海岸を航海し、カマイ/ボタニー湾へ上陸。ベンガル飢饉が深刻化。
- 1773年 — イギリス規制法。東インド会社統治への議会監督が強化。
- 1774年 — 日本で『解体新書』刊行。ロシアとオスマン帝国がキュチュク・カイナルジャ条約。
- 1775年 — 北米でアメリカ独立戦争始まる。
- 1776年 — アメリカ独立宣言。朝鮮で正祖即位。
- 1782年 — シャムでチャクリー朝成立、バンコクを首都とする。
- 1783年 — パリ条約でアメリカ合衆国独立承認。ロシアがクリミアを併合。
- 1780年代 — 日本で天明の飢饉。大西洋世界で奴隷貿易廃止運動が拡大。
- 1787年 — アメリカ合衆国憲法制定。
- 1788年 — 第一艦隊がシドニー・コーブに植民地を建設。
- 1789年 — フランス革命開始。西山軍が清軍を破る。
- 1791年 — サン=ドマングで大規模奴隷蜂起。アメリカ合衆国で権利章典批准。
- 1792年 — フランスで王政廃止、共和政成立。
- 1793年 — ルイ16世処刑。サン=ドマング北部でソントナックスが奴隷解放を宣言。マカートニー使節が清宮廷を訪問。
- 1794年 — フランス国民公会が植民地奴隷制を廃止。
- 1795年 — 第三次ポーランド分割。ポーランド=リトアニア共和国消滅。
- 1796年 — 乾隆帝退位。清で白蓮教反乱が拡大。
- 1798年 — ナポレオン軍がオスマン領エジプトへ侵攻。
- 1799年 — マイソール戦争でティプー・スルタン戦死。VOC解散。
- 18世紀 — 大西洋奴隷貿易が史上最大規模に達し、650万人近くがアフリカから奴隷船へ積み込まれたと推計される。
次の時代へ — 革命戦争と19世紀
1800年頃、18世紀に始まった革命はまだ終わっていませんでした。フランス革命戦争はヨーロッパ・地中海へ拡大し、ナポレオン・ボナパルトが1799年のクーデタで実権を握りました。1804年には皇帝となり、その戦争はヨーロッパの王朝秩序を大きく揺るがします。
サン=ドマングではフランスによる奴隷制復活の試みとの戦争が続き、1804年にハイチ独立が宣言されます。これは奴隷化された人々によって成立した初の独立国家となり、大西洋奴隷制と植民地帝国に巨大な衝撃を与えます。19世紀初頭にはスペイン領アメリカでも独立革命が拡大します。
南アジアでは1799年のマイソール敗北後、東インド会社がさらに勢力を広げます。マラーターとの戦争を経て、19世紀前半には会社がインド亜大陸最大の政治権力となっていきます。
中国では乾隆期の最盛期を過ぎ、人口・官僚・財政・辺境統治の問題が表面化します。日本では徳川体制が続きますが、ロシア船などの接近が増え、対外関係が新たな課題となります。オスマン帝国とエジプトでも軍事・行政改革が進みます。
産業化は19世紀にイギリスからヨーロッパ・北米へ拡大し、蒸気船、鉄道、機械制工業が距離と生産の意味を変えます。その一方、奴隷制、植民地支配、先住民土地収奪はむしろ拡大する地域もありました。
次の記事では、1800–1850|革命後の世界と産業化 — ナポレオン、ハイチ独立、ラテンアメリカ独立、清、東インド会社、蒸気と工場として、18世紀の帝国と革命が19世紀前半の国民国家・産業社会・植民地拡張へどう接続したかを追います。
参考資料・出典
本ページは、The Metropolitan Museum of Art、Cambridge University Press、U.S. National Archives、U.S. National Park Service、UNESCO、Library of Congress、SlaveVoyages、National Museum of Australia、Museum of New Zealand Te Papa Tongarewa、British Libraryなどの研究・公的機関資料を参照し、ART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。革命史については宣言文の理念と実際の権利範囲を区別し、南アジアではムガル帝国の「衰退」を英国支配への直線的前史として扱わず、地域国家の形成を重視しました。奴隷貿易人数はSlaveVoyagesの推計であり、史料欠落を含む推定値です。
- The Metropolitan Museum of Art — China, 1600–1800 A.D.
- The Metropolitan Museum of Art — Eighteenth-Century Qing China
- The Metropolitan Museum of Art — Central and North Asia, 1600–1800 A.D.
- The Metropolitan Museum of Art — Korea, 1600–1800 A.D.
- The Metropolitan Museum of Art — Art of the Edo Period
- The Metropolitan Museum of Art — South Asia, 1600–1800 A.D.
- Cambridge University Press — India before Europe: Epilogue
- Cambridge University Press — East India Company, Plassey and Diwani
- Cambridge University Press — The Famine of 1770
- British Library India Office Records — Bengal and Behar Revenue, Famine of 1770
- The Metropolitan Museum of Art — Southeast Asia, 1600–1800 A.D.
- The Metropolitan Museum of Art — Europe and the Islamic World, 1600–1800
- The Metropolitan Museum of Art — The Greater Ottoman Empire, 1600–1800
- The Metropolitan Museum of Art — Arts of Africa: Asante and Dahomey
- SlaveVoyages — Estimates: Trans-Atlantic Slave Trade
- Cambridge University Press — The Seven Years’ War as a Global Conflict
- U.S. National Park Service — French and Indian War / Seven Years’ War
- U.S. National Park Service — Seven Years’ War, Indigenous Lands and the Proclamation of 1763
- U.S. National Archives — Declaration of Independence
- U.S. National Archives — Declaration, Constitution and Bill of Rights
- UNESCO Memory of the World — Declaration of the Rights of Man and of the Citizen
- Archives nationales de France — 1789, construire un nouvel ordre politique
- Library of Congress — Saint-Domingue Emancipation Proclamation, 1793
- UNESCO — 1791 Saint-Domingue Slave Uprising and the Haitian Revolution
- British Museum — Coalbrookdale and Early Industrialisation
- Museum of New Zealand Te Papa Tongarewa — Voyage and Discovery in the Pacific
- Te Papa — Māori and the British
- National Museum of Australia — Kamay / Botany Bay
- National Museum of Australia — Gweagal and Bidjigal Country
- National Museum of Australia — First Fleet Arrives at Sydney Cove
資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY