1607–1754
北米植民地社会の形成
ジェームズタウン、ニューイングランド、先住民、プランテーション、奴隷制、大西洋交易
北米植民地社会の形成 — ジェームズタウン、ニューイングランド、先住民、プランテーション、奴隷制、大西洋交易
1607年、イングランドの投資会社によってジェームズタウンが建設されました。後のアメリカ合衆国史では、この出来事が「北米における最初の恒久的なイングランド植民地」の出発点として語られます。しかし、1607年の北米は、空白の土地にヨーロッパ人が社会を築き始めた場所ではありませんでした。大西洋岸から五大湖、ミシシッピ流域、南東部、南西部に至るまで、多数の先住民社会が土地を利用し、農耕、狩猟、漁撈、交易、外交、戦争を行い、それぞれの政治秩序を形成していました。チェサピーク湾周辺ではポウハタンを中心とする広域的な政治連合が存在し、ニューイングランドではワンパノアグ、ナラガンセット、ピクォート、モヒガンなどの社会が互いに競合しながら暮らしていました。さらに北方にはフランス人が進出し、ハウデノショーニーをはじめとする先住民諸勢力と毛皮交易や軍事同盟を結んでいました。
したがって、1607年から1754年までの北米史を理解するには、のちの「13植民地」を最初から一まとまりの社会として見るのではなく、複数の植民地計画と先住民の政治世界が重なり合いながら変化した過程として見る必要があります。ヴァージニアではタバコ輸出を軸にプランテーション経済が成長し、ニューイングランドでは宗教共同体を掲げた移住が進みました。オランダ人が築いたニューアムステルダムはイングランドに奪われてニューヨークとなり、ペンシルヴェニアにはクエーカーを中心として多様な移民が集まりました。カロライナでは米とインディゴが奴隷労働によって商品作物化され、フランスはセントローレンス川、五大湖、ミシシッピ川を結ぶ広大な交易圏を形成しました。スペイン領フロリダもまた、北米南東部の政治と奴隷制をめぐる競争に深く関わっていました。
この約150年間に形成された植民地社会の最大の特徴は、土地、労働、交易、宗教、政治が大西洋規模で結びついたことです。ヨーロッパからは移民と商品が渡り、アフリカからは奴隷化された人々が強制的に連行され、アメリカ大陸からはタバコ、米、インディゴ、毛皮、木材、魚などが輸出されました。カリブ海の砂糖と糖蜜、ニューイングランドの船舶とラム酒、アフリカ沿岸の奴隷貿易、イングランドの金融と製造業は、単純な三角形では表せない多数の航路で接続されていました。1754年までに北米植民地は、ヨーロッパから離れた辺境ではなく、大西洋経済の重要な構成部分になっていたのです。
同時に、この社会形成は暴力を伴いました。ヨーロッパ由来の感染症は先住民社会に深刻な人口減少をもたらし、植民地人口の増加と家畜の拡大は土地利用を変えました。交易は相互利益を生むこともありましたが、武器や信用取引への依存、土地取得、捕虜の奴隷化を通じて対立も拡大しました。また、植民地経済が成長するにつれて、アフリカ人とその子孫を世襲的な動産として扱う人種化された奴隷制が法制度の中に固定されていきます。北米植民地社会は自由な移住者だけが作った社会ではなく、先住民の土地、契約奉公人の労働、奴隷化されたアフリカ人の強制労働、女性や子どもの家族労働など、多様で不均衡な力関係の上に成立しました。
目次
1.ジェームズタウンの建設とポウハタン世界
1607年5月、ロンドンのヴァージニア会社が派遣した入植者たちは、チェサピーク湾に注ぐジェームズ川の島にジェームズタウンを建設しました。これはイングランドが北米大西洋岸に築いた最初の恒久的な植民地となりますが、当初から安定した農業社会として成功したわけではありません。ヴァージニア会社は株主から資金を集める株式会社であり、植民地には利益を生むことが期待されていました。入植者の多くは金や輸出商品を探すことを優先し、食料生産、飲料水、衛生、季節への適応は十分ではありませんでした。湿地に近い立地、病気、飢餓、統治上の混乱が重なり、初期の死亡率はきわめて高くなりました。
重要なのは、ジェームズタウンの存続が周囲の先住民社会との関係なしには理解できないことです。ジェームズ川流域には、英語史料で「ポウハタン連合」あるいは「ポウハタン首長国」と呼ばれる政治秩序が存在していました。最高首長ワフンスナコックは、英語史料ではしばしば「ポウハタン」と呼ばれ、複数の共同体から貢納を受ける広域的な権力を形成していました。ジェームズタウンが築かれた場所も、パスパヘグの人々が利用していた地域の内部でした。イングランド人は未知の荒野に自力で拠点を作ったのではなく、すでに政治的に組織された世界の中へ入り込んだのです。
初期の関係は、交易、外交、威嚇、暴力が混在していました。イングランド人はトウモロコシなどの食料を必要とし、ポウハタン側は金属製品、銅、道具などのヨーロッパ製品に関心を持ちました。しかし、双方は相手を長期的な主権者として認めていたわけではありません。ポウハタンはイングランド人を自らの政治秩序に組み込もうとし、イングランド側は国王の権威と会社の特許状を根拠に土地と統治権を主張しました。同じ交易や儀礼でも、双方が異なる意味を読み込んでいた可能性があります。関係悪化は文化の「誤解」だけではなく、食料、武器、土地、従属関係をめぐる具体的な利害の衝突から生まれました。
1609年から1610年にかけての冬は「飢餓の時代」と呼ばれ、包囲状態、食料不足、病気によってジェームズタウンの人口は激減しました。一時は植民地放棄が決まりかけましたが、増援と新総督の到着によって維持されます。この危機は、初期植民地がヨーロッパ人の技術的優位だけで存続したわけではないことを示しています。海を越えて人と物資を送り続ける資本、王権と会社の支援、先住民との食料交換、そして新たな移民の継続的な投入があって初めて、植民地は消滅を免れました。
ジェームズタウンとポウハタン諸社会の対立は、その後も断続的に続きました。1614年にはワフンスナコックの娘ポカホンタスとジョン・ロルフが結婚し、一時的な和平が成立しましたが、それは植民地拡張そのものを止めるものではありませんでした。1622年、オペチャンカノーを中心とする先住民勢力は広範な攻撃を行い、イングランド人入植者の約3分の1を殺害しました。これに対して植民地側は長期的な報復戦争を展開し、土地の占有をさらに拡大します。1644年にも大規模な攻撃が起こりましたが、1646年までにポウハタン政治秩序は大きく弱体化し、植民地との条約によって従属的な位置に置かれていきました。
2.タバコが変えたヴァージニア — 商品作物と土地拡張
ジェームズタウンの転機となったのは、金鉱の発見ではなくタバコでした。先住民社会では以前からタバコが栽培・利用されていましたが、ジョン・ロルフは1610年代初頭にカリブ海系統のタバコをヴァージニアで試作し、イングランド市場で好まれる品質の商品として輸出することに成功しました。1610年代半ば以降、タバコは植民地に現金収入をもたらす中心的な輸出品になります。ヴァージニア会社が期待した採鉱や工業は成果を上げませんでしたが、ヨーロッパで需要が拡大していた嗜好品が植民地経済を救ったのです。
しかし、タバコの成功は単なる経済的な朗報ではありませんでした。タバコは地力を消耗しやすく、栽培と加工に多くの労働力を必要とします。生産者はより広い土地と多くの働き手を求めるようになり、ジェームズ川沿いから内陸へ農園を拡大しました。これによって、ポウハタン諸社会が狩猟、耕作、居住に利用してきた土地との競合が強まりました。1622年や1644年の戦争は、宗教や文化の対立だけでなく、急速に拡大する商品作物農業が土地を必要としたことと密接に結びついていました。
タバコ経済はまた、植民地の居住形態を特徴づけました。大規模な都市に人口が集中するのではなく、河川沿いに農園が広がり、各農園から船へ直接商品を積み込むことが可能でした。ジェームズタウンは政治的中心ではあっても、ヨーロッパの商業都市のような巨大港にはなりませんでした。川そのものが輸送路となり、農園、倉庫、船舶、ロンドン商人がつながる構造が形成されたのです。この分散的な社会は、土地所有者の地域的な権力を強める一方で、道路や都市公共施設の発達を遅らせる要因にもなりました。
価格の変動も植民地社会に大きな影響を与えました。タバコ生産が増えるほど供給過剰によって価格は下がり、生産者は収入を維持するためにさらに多くの土地と労働力を求めるという循環に入りました。17世紀後半のヴァージニアでは、タバコ価格の低迷、英国内市場への依存、輸入品価格、土地不足、先住民との境界紛争が不満を高めました。1676年のベーコンの反乱も、この経済的不安と辺境地域の土地要求、総督の先住民政策、植民地内部の権力争いが絡み合って生じた事件でした。
この意味で、タバコは単なる作物ではありません。土地制度、移民政策、労働制度、対先住民戦争、商業金融、社会階層を一つに結びつける植民地社会の基盤でした。ヨーロッパの消費者が吸うタバコの需要が、チェサピーク湾周辺の土地利用を変え、契約奉公人を大西洋の向こうから呼び寄せ、やがてアフリカ人奴隷労働を大規模に必要とする社会へとつながっていったのです。
3.土地・労働・植民地政治の形成
ヴァージニア会社は植民地人口を増やすため、土地を移民誘致の手段として利用しました。1618年以降に整えられたヘッドライト制では、渡航費を負担して人を植民地へ連れてきた者に土地が与えられました。自費で渡航できない多くのヨーロッパ人は、数年間働く契約と引き換えに船賃を支払ってもらう契約奉公人として大西洋を渡りました。17世紀のチェサピーク社会では、この契約奉公が重要な労働供給源でした。奉公期間を終えれば法的には自由になり、土地や自営農場を得る可能性もありましたが、高い死亡率、不安定なタバコ価格、良い土地の集中によって、その機会は次第に狭まっていきました。
1619年にはジェームズタウンで植民地議会が開かれ、後にハウス・オブ・バージェシズと呼ばれる代表制の伝統が始まりました。ただし、これは現代的な民主主義の成立を意味しません。投票や公職への参加は自由民男性を中心に制限され、女性、奴隷化された人々、多くの使用人、そして植民地の支配外とされた先住民は政治共同体から除外されていました。植民地議会は地域の土地所有者の利益を代表する制度でもあり、王権や総督と交渉しながら課税、労働、土地、宗教などを規制しました。
同じ1619年、ヴァージニアにはアフリカ出身者が到着したことが記録されています。彼らの法的地位は17世紀初頭にはまだ一様ではなく、初期のアフリカ人の中には後に自由身分を得て土地を所有した例もあります。そのため、1619年を北米英領植民地で完成した人種奴隷制が突然始まった一点として説明するのは正確ではありません。しかし、17世紀を通じて植民地議会と裁判所は、アフリカ系の人々を生涯にわたり奴隷化し、その地位を子どもへ継承させる法的区別を強めていきました。奴隷制は一度に完成したのではなく、数十年をかけて制度化されたのです。
植民地の政治制度も、会社支配、王領植民地、領主植民地など地域によって異なりました。ヴァージニア会社は財政難と高い死亡率、対先住民戦争などによって批判を受け、1624年に勅許を失い、ヴァージニアは王領植民地となりました。それでも植民地議会は復活し、地方の土地所有者層が政治を担う仕組みは存続しました。イングランド本国の王政、議会、内戦、共和政、王政復古、名誉革命といった変化は大西洋の向こうにも影響し、植民地の統治制度は本国政治と切り離されていたわけではありません。
この時期の「自治」は、王権から独立した主権ではなく、帝国内部で地域社会が日常行政を担う仕組みとして発達しました。広大な距離と遅い通信のため、本国政府が個々の土地紛争や道路整備、教会維持、地方裁判まで直接統治することは困難でした。そのため郡、町、植民地議会などが多くの実務を担当しました。後に独立革命の際に重要となる代表制や地方自治の経験は、この植民地期に蓄積されましたが、それは同時に土地所有、性別、人種、身分によって参加資格を限定する社会の中で発展した制度でもありました。
4.プリマス植民地とワンパノアグ — 「感謝祭」の前後にあった政治
1620年、メイフラワー号に乗ったイングランド人入植者が現在のマサチューセッツ州沿岸に到着し、プリマス植民地を築きました。彼らの一部は、イングランド国教会から完全に分離しようとした宗教的分離派でした。航海の物語は後世、宗教の自由を求めて新世界へ向かった「ピルグリム」の物語として象徴化されますが、実際の植民地建設は宗教だけでなく、会社との契約、土地確保、家族移住、経済的生存といった現実的条件に左右されました。
彼らが上陸した地域では、すでに大きな人口変動が起きていました。1610年代後半、ヨーロッパとの接触によってもたらされた感染症がニューイングランド沿岸の先住民社会に甚大な被害を与えており、ワンパノアグを含む複数の社会が人口減少を経験していました。プリマス入植者が「利用されていない土地」と考えた場所の中には、実際には感染症によって住民が減少した村落や耕地も含まれていました。この人口危機は、先住民政治の勢力関係にも影響しました。
ワンパノアグの指導者ウサメクィン、英語史料でマサソイトと呼ばれる人物は、1621年にプリマス植民地と同盟を結びました。これは単純な友好や慈善だけでなく、周辺勢力との均衡を考えた外交判断でもありました。感染症によって弱体化したワンパノアグにとって、武器を持つイングランド人との同盟はナラガンセットなどに対抗する選択肢となり得ました。他方、プリマス側にとっては、食料、農耕知識、地域情報、軍事的安全を確保するうえでワンパノアグとの関係が不可欠でした。双方は異なる目的を持ちながら協力したのです。
1621年秋に行われた収穫を祝う集まりは、後世のアメリカで「最初の感謝祭」として国民的物語に組み込まれました。しかし、現在の感謝祭の制度やイメージをそのまま1621年へ投影することには注意が必要です。ワンパノアグとイングランド人が一定期間共同で食事をしたことは史料から確認できますが、それを長期的な平和共存の証明とすることはできません。17世紀後半になると土地売買、家畜による作物被害、法的管轄、布教、政治的従属をめぐって緊張は深まり、1675年にはキング・フィリップ戦争へと至ります。
プリマスの歴史は、先住民とヨーロッパ人の関係を「最初は友好、後に対立」と単純化することもできません。先住民側には複数の政治勢力があり、イングランド側にもプリマス、マサチューセッツ湾、ロードアイランド、コネティカットなど異なる植民地が成立します。同盟は固定されたものではなく、ある時期にはイングランド人と協力した先住民勢力が別の時期には抵抗し、逆に先住民間の競争が植民地勢力との提携を促すこともありました。北米の植民地化は、二つの単純な集団が向き合った歴史ではなく、多数の主体が状況に応じて選択した歴史でした。
5.マサチューセッツ湾植民地と清教徒社会
1630年、ジョン・ウィンスロップらを含む約1000人の清教徒がマサチューセッツ湾植民地へ移住しました。その後1630年代を中心に数万人規模の移民がニューイングランドへ渡り、一般に「大移住」と呼ばれる人口移動が起こります。ヴァージニア初期の移民が若い男性に偏っていたのに対し、ニューイングランドでは家族単位の移住が比較的多く、町、教会、農地を組み合わせた定住社会が形成されました。気候や土壌条件もチェサピークとは異なり、単一の商品作物に依存する巨大プランテーションより、小規模農業、漁業、木材、造船、海上交易などが組み合わされました。
清教徒は、単に「宗教の自由」を求めた人々と説明すると不十分です。彼らはイングランド国教会をより徹底して改革し、自分たちが正しいと信じる信仰に基づいた共同体を築こうとしました。ウィンスロップが語った「丘の上の町」という比喩は、世界に模範を示す契約共同体を意識したものでした。教会員資格、道徳規律、家族秩序、教育、地方政治は密接に結びつき、宗教は個人の私的信仰だけではなく公共秩序の中心に置かれました。
そのため、マサチューセッツ湾植民地はすべての宗派に寛容な社会ではありませんでした。ロジャー・ウィリアムズは、政教関係や宗教的強制に異議を唱え、さらに先住民の土地を王の特許状だけで正当に取得できるのかという問題にも批判的でした。彼は1636年に追放され、ナラガンセットとの交渉を通じてプロヴィデンスに拠点を築き、のちのロードアイランド植民地の形成へつながります。アン・ハッチンソンも1630年代後半、信仰と救済をめぐる論争の中で政治・宗教指導者と衝突し、追放されました。
こうした対立は、植民地社会が宗教的理念を共有しながらも内部に意見の違いを抱えていたことを示します。ピューリタン共同体は均質ではなく、教会の権威、個人の良心、女性の宗教的発言、国家による宗教規制をめぐって論争が起こりました。ロードアイランドやペンシルヴェニアのように比較的広い信仰の自由を認める植民地も生まれ、メリーランドではカトリックの安全確保が建設理念の一つとなりました。北米植民地における宗教的多元性は、最初から完全な寛容が存在した結果ではなく、迫害、追放、移住、法的妥協を通じて形成されたものでした。
ニューイングランドでは識字と教育も重視されました。聖書を読む能力が宗教生活にとって重要だったため、学校教育や印刷文化が比較的早く発達し、1636年にはハーバード・カレッジが設立されました。これは聖職者養成を重要な目的としながら、後に植民地知識人の形成にも大きな役割を果たします。町の集会、教会、学校、印刷物が結びついた社会構造は、チェサピークの分散したプランテーション社会とは異なる地域文化を生み出しました。
6.ニューイングランドの土地拡張と戦争 — ピクォート戦争からキング・フィリップ戦争へ
ニューイングランドの植民地人口が増えるにつれ、土地と交易路をめぐる競争は激しくなりました。1636年から1638年のピクォート戦争では、ピクォートとイングランド植民地勢力の対立に、モヒガンやナラガンセットなど先住民諸勢力の同盟関係が複雑に絡みました。1637年、コネティカット植民地軍とその先住民同盟勢力はミスティックのピクォート集落を攻撃し、多数の住民を殺害しました。戦後、ピクォートの生存者は他の先住民共同体へ組み込まれたり、奴隷として移送されたりし、植民地側は土地と交易上の優位を拡大しました。
ここでも「ヨーロッパ人対先住民」という二分法だけでは理解できません。モヒガンやナラガンセットがイングランド側と協力したのは、それぞれがピクォートとの既存の競争や安全保障上の利害を持っていたからです。しかし、戦後にイングランド植民地が急速に勢力を伸ばすと、その同盟関係そのものが新たな不均衡を生みました。先住民勢力はヨーロッパ人の単なる被害者でも補助兵でもなく、自らの政治的判断を行っていましたが、植民地人口と土地需要の増大は選択肢を次第に狭めていきました。
1675年から1676年を中心に起こったキング・フィリップ戦争は、ニューイングランド社会を大きく揺るがしました。「キング・フィリップ」と呼ばれたワンパノアグの指導者メタコムと植民地側の緊張は、土地売買、植民地法の適用、家畜と農地の競合、先住民共同体への布教と政治介入など長期的な圧力の中で高まりました。戦争にはワンパノアグだけでなくナラガンセットを含む複数の先住民勢力が関わり、植民地側でもマサチューセッツ湾、プリマス、コネティカットなどが連携しました。
戦争は双方に甚大な被害を与えました。多くの植民地集落が攻撃され、住民が死亡し、避難を余儀なくされました。一方、先住民側の被害はさらに深刻で、多数が戦闘で殺され、飢餓や避難によって共同体が崩壊し、捕虜が奴隷としてカリブ海などへ送られました。1675年のグレート・スワンプの戦闘では、ナラガンセットの集落が攻撃され、女性や子どもを含む多数が死亡しました。戦後、ニューイングランド南部における植民地側の土地支配は大きく拡大します。
ただし、先住民社会そのものが消滅したわけではありません。生存者は共同体を再編し、近隣社会へ移動し、植民地社会の周縁で労働や交易を行い、あるいはより遠方の先住民ネットワークと結びつきました。現代まで続くワンパノアグ、ナラガンセット、モヒガン、ピクォートなどの諸民族の存在は、「戦争で先住民がいなくなり、植民地社会に置き換わった」という単純な交代史観が不正確であることを示しています。
7.ニューアムステルダムからニューヨーク、ペンシルヴェニアへ — 中部植民地の多様性
北米大西洋岸の植民地化はイングランドだけの事業ではありませんでした。オランダは17世紀前半、ハドソン川流域と現在のニューヨーク周辺にニューネーデルラントを築き、ニューアムステルダムを主要港としました。オランダ西インド会社が商業の中心となり、毛皮交易を通じてハウデノショーニーをはじめとする先住民勢力と関係を形成しました。オランダ植民地にはオランダ人だけでなく、ドイツ系、スカンディナヴィア系、ユダヤ人、アフリカ系住民などが暮らし、港湾商業を中心とする多言語的な社会が形成されました。
1664年、英蘭競争の中でイングランド艦隊がニューアムステルダムを掌握し、地域はヨーク公にちなみニューヨークと改称されました。支配者が変わっても住民構成や商業慣行がただちに消えたわけではなく、オランダ的な制度や文化は継続しました。中部植民地はニューイングランドとチェサピークの中間に位置し、穀物生産、毛皮交易、港湾商業、手工業などが組み合わされました。ニューヨーク港は大西洋交易の主要拠点となり、奴隷労働も都市と農村の双方で利用されました。
1681年、クエーカーのウィリアム・ペンは国王から広大な領地の特許を受け、ペンシルヴェニア植民地を設立しました。ペンは宗教的寛容と比較的広い政治参加を掲げ、フィラデルフィアを計画都市として建設しました。クエーカーだけでなく、ドイツ語圏のメノナイト、ルター派、改革派、モラヴィア派など多様な移民が到来し、18世紀にはスコットランド系・アイルランド系移民も増加しました。肥沃な土地と港湾、宗教的多様性が組み合わさり、ペンシルヴェニアは人口と経済を急速に拡大させます。
ペンと先住民の関係は、同時代の他植民地と比べて比較的交渉を重視したことで知られていますが、これを恒久的な平等関係と理想化することにも注意が必要です。移民人口が増加するほど土地需要は高まり、ペン家や植民地政府、土地会社とレナペなど先住民との関係は緊張していきました。土地購入の文書や地図に対する理解の違い、植民地側の測量と私有地概念、人口圧力は、18世紀に新たな対立を生みました。
中部植民地の発展は、後のアメリカ社会に見られる宗教・民族的多様性の一つの源になりましたが、そこにも奴隷制は存在していました。ウィリアム・ペン自身を含む多くの植民者が奴隷化された人々を所有し、フィラデルフィアも奴隷貿易港として機能しました。一方、1688年にはジャーマンタウンのクエーカーたちが奴隷制を批判する請願を提出しています。信仰の自由を求めた社会の内部で他者を奴隷化する矛盾は、すでに植民地時代から認識され、議論され始めていました。
8.契約奉公から人種化された奴隷制へ
17世紀前半の英領北米では、ヨーロッパから渡った契約奉公人が重要な労働力でした。とくにヴァージニアとメリーランドでは、タバコ生産の拡大に伴って多数の若者が数年間の奉公契約を結びました。奉公人は自由人ではなく、契約期間中の移動や結婚を制限され、過酷な労働や懲罰にさらされました。しかし、原則として奉公期間には終わりがあり、終了後には自由身分となる点で、生涯にわたり財産として扱われる動産奴隷制とは法的に異なっていました。
アフリカ系住民の地位は17世紀前半には必ずしも一様ではありませんでしたが、世紀中葉以降、植民地法は人種と奴隷身分を強く結びつける方向へ進みました。ヴァージニアでは1662年、子どもの身分を母親の身分に従わせる原則が法制化され、奴隷化された女性から生まれた子どもも奴隷とされる仕組みが作られました。これはイングランドの通常の父系的身分原則とは異なる制度で、奴隷制を自己再生産可能な世襲制度へ変える重要な法律でした。その後も結婚、改宗、逃亡、武器所持、証言、移動などをめぐる差別的規定が積み重なります。
1705年のヴァージニア奴隷法典は、それまで積み重ねられてきた規定を整理し、アフリカ系・先住民系の非白人を財産として扱う制度をさらに明確にしました。「白人」という法的・社会的区分も、こうした過程の中で重要性を増していきます。つまり人種は、植民地社会に最初から固定的に存在していた単なる外見分類ではなく、誰が自由を持ち、誰が土地を所有し、誰を生涯労働させられるかを定める法制度と社会慣行によって強化されました。
1676年のベーコンの反乱は、この変化を考える際によく取り上げられます。タバコ価格の低迷、政治的不満、土地への要求、先住民との境界紛争が重なり、ナサニエル・ベーコンの支持者たちは総督ウィリアム・バークリーに反旗を翻しました。反乱には土地所有者、元契約奉公人、奉公中の者など多様な人々が加わり、先住民共同体への攻撃が重要な争点となりました。反乱は最終的に鎮圧されますが、植民地支配層が土地を持たない自由民の不満を強く意識する契機となりました。
ただし、「ベーコンの反乱の後、白人支配層が階級対立を避けるため突然アフリカ人奴隷制へ切り替えた」と単一の原因で説明するのは慎重であるべきです。奴隷制の拡大には、大西洋奴隷貿易の供給増加、イングランドの貿易政策、タバコ農園の長期労働需要、アフリカ人を生涯労働力とみなす法制度、ヨーロッパ移民の条件変化など複数の要因がありました。17世紀末から18世紀初頭にかけて、これらが重なった結果、チェサピークのプランテーション経済は契約奉公中心から奴隷労働中心へ大きく転換していきました。
9.カロライナ、ジョージア、南部植民地経済
1660年代以降、イングランドは北米南東部でも植民地建設を進めました。カロライナ植民地、とくにチャールズタウンを中心とする南部地域には、カリブ海のバルバドスで砂糖プランテーションを経験した植民者や資本が流入しました。バルバドスではすでに17世紀中葉までに、大土地所有、輸出用単一作物、アフリカ人奴隷労働を組み合わせた極めて収益性の高い社会が形成されていました。その制度と人々が北米南東部へ移動したことで、サウスカロライナの社会は早い段階から奴隷制との結びつきを強めました。
17世紀末から18世紀初頭にかけて、米が主要輸出品として成長しました。湿地の多い低地での米作には高度な水管理と加工技術が必要であり、西アフリカの米作地域から連行された人々の農業知識が大きな役割を果たしたと研究されています。奴隷化されたアフリカ人は単なる筋力労働として使われたのではなく、栽培、灌漑、脱穀、選別などの技術と知識を持ち込みました。植民地の富はその知識と強制労働を取り込みながら形成されました。
サウスカロライナでは18世紀初頭までにアフリカ系人口がヨーロッパ系人口を上回るようになりました。沿岸低地の大農園では、奴隷化された人々が比較的大きな集団で暮らし、西・中部アフリカの多様な言語と文化を接触させました。そこからガラ・ギーチー文化へつながる独自の言語、食文化、工芸、宗教的伝統が形成されます。奴隷制は人々の文化を完全に消去したわけではなく、暴力的な強制移住の中でも、アフリカ出身者とその子孫は新しい共同体を作り、知識と記憶を再構成しました。
カロライナ植民地の拡大は、先住民奴隷貿易とも結びついていました。イングランド人交易者は南東部の先住民勢力と同盟し、敵対勢力の捕虜を奴隷として売買する交易を拡大しました。これは先住民間の政治関係を変化させ、武器の流通と戦争を激化させました。交易上の不正、債務、奴隷化、土地圧力への反発は1715年のヤマシー戦争につながり、サウスカロライナ植民地は存続を脅かされるほどの危機に直面します。戦後、植民地は先住民奴隷貿易への依存を縮小し、アフリカ人奴隷の輸入をさらに増やしました。
1733年には南側にジョージア植民地が建設されました。ジェームズ・オグルソープら植民地管理者は、スペイン領フロリダとの間に防衛的な緩衝地帯を作り、小規模自営農民を育成する構想を持っていました。当初は奴隷制とラム酒を禁止し、大土地所有も制限しましたが、サウスカロライナ型の農園経営を望む入植者の圧力によって規制は徐々に崩れ、1750年には奴隷制禁止が撤廃されました。一方、スペイン領フロリダはカロライナから逃亡した奴隷に、カトリックへの改宗とスペイン王への忠誠などを条件として自由を認める政策を取り、1738年にはセントオーガスティン近郊にフォート・モセという自由黒人共同体が成立しました。奴隷制をめぐる境界は、英西帝国競争の一部でもあったのです。
10.大西洋奴隷貿易と植民地経済 — 北米はどこに位置していたのか
英領北米の発展を理解するには、大西洋奴隷貿易を地域内部の制度としてではなく、アフリカ、ヨーロッパ、カリブ海、南北アメリカを結ぶ巨大な強制移住として見る必要があります。16世紀から19世紀にかけて、およそ1200万人以上のアフリカ人が大西洋を越える船に乗せられ、その多くがブラジルとカリブ海へ送られました。現在のアメリカ合衆国となる地域へ直接運ばれた割合は全体の一部でしたが、それは北米植民地が奴隷制と無関係だったことを意味しません。北米の商業、造船、金融、保険、食料輸出は、カリブ海の砂糖経済や奴隷貿易と深く結びついていました。
アフリカからアメリカへ向かう「中間航路」は、奴隷化された人々にとって極端に過酷な移送でした。船倉には多数の人々が密集させられ、換気、衛生、水、食料が不足し、感染症が広がりました。船上で死亡する人々も多く、暴力、性的虐待、拘束は日常化していました。しかし、奴隷化された人々は受動的に従っただけではありません。船上反乱、自殺の試み、食事拒否、逃亡、到着後の抵抗、労働の遅延、共同体形成など、多様な形で自由を取り戻そうとしました。
大西洋交易はしばしば「三角貿易」として、ヨーロッパからアフリカへ製品、アフリカからアメリカへ奴隷化された人々、アメリカからヨーロッパへ砂糖やタバコが運ばれたと図式化されます。この図は基本構造を理解するには便利ですが、実際の航路はもっと複雑でした。ニューイングランドの商船はカリブ海へ魚、木材、家畜、穀物を送り、糖蜜を持ち帰り、それをラム酒に加工しました。チェサピークからはタバコ、カロライナからは米とインディゴ、北部からは小麦や木材、船舶用品が輸出されました。一つの船が必ず三角形を一周したわけではなく、複数の港と商人が信用取引を通じて連結していました。
奴隷制は南部だけの制度でもありませんでした。マサチューセッツ、ロードアイランド、ニューヨーク、ペンシルヴェニアなどにも奴隷化されたアフリカ系住民が存在し、家事労働、港湾労働、工房、農業、船舶などで働きました。ニューイングランドの商人の一部は奴隷貿易に直接参加し、また砂糖、糖蜜、ラム酒など奴隷労働で生産された商品から利益を得ました。北部植民地の経済規模や奴隷人口比率は南部と異なりますが、大西洋奴隷制から切り離されていたわけではありません。
18世紀になると、チェサピークと南部植民地で生まれた奴隷人口も増加し、アフリカ生まれの人々と北米生まれの世代が混在するようになります。奴隷化された人々は家族を形成し、宗教、音楽、食文化、言語、農業知識を再構成しました。植民地社会の「文化」はヨーロッパ移民だけが持ち込んだものではありません。アフリカから強制的に移動させられた人々もまた、北米社会を形成した主体でした。その貢献を語ることと、奴隷制の暴力性を曖昧にしないことは両立します。
11.フランス領・スペイン領北米と先住民外交
1607年から1754年の北米を英領植民地だけで見ると、当時の政治地図を大きく誤解します。フランスは1608年にケベックを恒久拠点として建設し、セントローレンス川から五大湖、さらにミシシッピ川流域へ交易網を広げました。フランス植民地のヨーロッパ系人口は英領植民地より少なかったものの、毛皮交易と水路交通を通じて広大な地域に影響力を持ちました。宣教師、交易商、兵士、探検者は先住民共同体との同盟関係に依存し、交易拠点と砦のネットワークを形成しました。
毛皮交易では、先住民が単なる毛皮供給者だったわけではありません。誰と交易するか、どの経路を使うか、どの物品を要求するかは先住民側の政治判断に左右されました。ハウデノショーニー連邦は、オランダ、のちにはイングランドとの交易を利用しながら、自らの外交と軍事的立場を強化しました。一方、フランスはヒューロン=ウェンダット、アルゴンキン系諸民族などと同盟し、交易と軍事支援を結びつけました。銃器、金属器、織物などヨーロッパ製品の流入は生活を変えましたが、先住民側はそれらを独自の社会関係の中へ組み込みました。
17世紀の五大湖・セントローレンス地域では、毛皮交易をめぐる競争と戦争が拡大しました。感染症による人口減少も重なり、集団の移動、統合、再編が進みました。1701年のモントリオール大平和では、フランスと多数の先住民勢力が大規模な外交協定を結び、地域秩序の安定を図りました。こうした外交は、ヨーロッパ帝国が先住民を一方的に支配していたというより、少なくとも18世紀前半までは帝国側も先住民の軍事力、交易路、食料供給、地域知識に依存していたことを示しています。
1682年、ラ・サールはミシシッピ川を下って河口に達し、広大な流域をフランス王ルイ14世にちなみ「ルイジアナ」として領有宣言しました。実効支配は限定的でしたが、1699年以降フランスはメキシコ湾岸に拠点を作り、1718年にはニューオーリンズを建設しました。ミシシッピ川は北米内陸とメキシコ湾を結ぶ巨大な交通軸となり、フランスの砦、交易所、先住民同盟、農園、奴隷労働が組み合わされた植民地社会が形成されました。
スペインも北米から消えていたわけではありません。フロリダのセントオーガスティンは1565年以来の拠点であり、宣教網と軍事拠点を通じて南東部に影響を維持しました。英領カロライナとジョージアが南下すると、スペイン領フロリダは対抗拠点となり、逃亡奴隷や先住民同盟をめぐる政策も軍事戦略と結びつきました。北米は英・仏・西の帝国が境界線を明確に分けて統治した空間ではなく、重複する領有宣言と先住民の実際の支配領域が交差する「境界地域」でした。
12.重商主義、航海法、大西洋交易
17世紀のヨーロッパ諸国は、海外植民地を国家の富と軍事力に結びつける政策を強めました。イングランドでは、貿易を自国船と自国商人に集中させる航海法が17世紀中葉から整備されます。1651年の航海法を皮切りに、1660年代以降の法律は、植民地との輸送をイングランドまたは植民地の船舶に限定し、タバコや砂糖など特定の商品を帝国内の規定された市場へ向けることを求めました。目的の一つは、当時海運と中継貿易で強大だったオランダ商業を排除することでした。
この制度は一般に「重商主義」と呼ばれます。植民地は原料と農産物を供給し、本国は製造品を販売し、海運と関税を帝国内で管理するという考え方です。ただし、実際の経済は法律の設計図通りには動きませんでした。密貿易、迂回貿易、植民地商人の独自取引が広く存在し、北米の港はカリブ海、アフリカ、南ヨーロッパ、大西洋諸島と複雑につながっていました。本国政府の執行能力も時期によって大きく異なりました。
18世紀前半になると、ボストン、ニューポート、ニューヨーク、フィラデルフィア、チャールズタウンなどの港町が成長しました。船大工、商人、船員、職人、荷役労働者、店主、印刷業者などが集まり、農村とは異なる都市社会が形成されます。北部植民地はカリブ海へ塩漬け魚、穀物、木材、家畜を輸出し、砂糖植民地の人口と農園を支えました。カリブ海では農地の多くが砂糖に集中していたため、食料や木材を北米から輸入する必要がありました。英領北米と西インド諸島は競争相手ではなく、相互依存する経済圏でもあったのです。
植民地側はイングランドの製造品を大量に消費しました。布地、陶磁器、金属製品、書籍、家具、茶、砂糖などが大西洋を渡り、18世紀には一般家庭の物質文化も変化しました。消費の拡大はロンドン商人による信用取引と結びつき、農園主や商人は将来のタバコや米の収穫を担保に商品を購入することもありました。植民地の経済的成長は、本国からの自立だけではなく、むしろ大西洋市場への依存を深める側面を持っていました。
この帝国経済には戦争も組み込まれていました。17世紀の英蘭戦争、18世紀初頭のスペイン継承戦争、1740年代のオーストリア継承戦争は、北米とカリブ海にも波及しました。ヨーロッパで起きた王朝戦争が植民地では砦、航路、漁場、毛皮交易、先住民同盟をめぐる戦いになります。1754年に始まる北米での英仏衝突は、こうした長期的な帝国競争の延長上にありました。
13.宗教、移民、都市、印刷文化 — 一つではなかった植民地社会
18世紀前半までに英領北米の人口は大きく増えましたが、その住民は「イングランド人」だけではありませんでした。イングランド、スコットランド、アイルランド、ドイツ語圏などから移民が到来し、地域によってはオランダ系、スウェーデン系、フランス系ユグノー、ユダヤ人などの共同体も存在しました。さらに、強制的に連行されたアフリカ人とその子孫、そして各地の先住民社会が同時に存在していました。植民地社会は民族、言語、宗教、法的身分の異なる人々によって構成されていました。
宗教制度も地域ごとに異なりました。マサチューセッツなどでは会衆派教会が公的秩序と強く結びつき、ヴァージニアなどではイングランド国教会が制度化されました。メリーランドは当初カトリックに比較的安全な場所を提供する構想を持ち、1649年には一定範囲のキリスト教徒に宗教的保護を与える法律が成立しましたが、政治変動によってカトリックの権利は後に制限されました。ロードアイランドやペンシルヴェニアでは、より広い宗教的寛容が制度化され、多宗派社会が発達しました。
植民地の宗教的多様性は、ヨーロッパの宗教対立と移民政策によってもたらされました。クエーカー、ドイツ語圏の再洗礼派系諸集団、長老派、バプテストなどが、それぞれ異なる地域に共同体を築きました。宗教は生活規範、教育、結婚、救貧、政治参加に影響を与えましたが、宗派間の境界は時間とともに変化しました。都市では異なる教会が近接し、市場や職業を通じて宗教を越えた交流も増えました。
印刷文化も拡大しました。新聞、説教集、パンフレット、暦、商業広告が植民地間を流通し、港町を中心に情報のネットワークが発達しました。郵便制度と海運が各植民地を結び、ロンドンで起きた政治事件やヨーロッパの戦争、宗教論争が数週間から数か月遅れで北米へ届きました。ベンジャミン・フランクリンのような印刷業者・出版人が18世紀前半に広域的な読者層を獲得したことは、植民地が文化的に孤立した地方ではなく、大西洋知識圏の一部だったことを示します。
一方、日常生活の大部分は都市ではなく農村で営まれていました。家族は生産単位でもあり、女性は農作業、乳製品加工、紡績、家事、商店経営、宿屋、出産と育児など多様な労働を担いました。しかし既婚女性の財産権はイングランド法の影響で大きく制限され、政治参加もほぼ認められませんでした。社会階層も均等ではなく、大農園主と商人が富を蓄積する一方、契約奉公人、土地を持たない労働者、奴隷化された人々が存在しました。「植民地社会」は自由な小農民だけから成る社会ではありませんでした。
18世紀前半の人口増加は、自然増と移民の双方によって進みました。ニューイングランドでは家族単位の定住と比較的安定した人口再生産が進み、チェサピークでも17世紀末以降は初期ほど極端な死亡率が続かなくなりました。一方、大西洋を渡る移民は同じ条件で移動したわけではありません。自費で土地を求める人、宗教共同体として移住する人、船賃の代わりに年季奉公を約束する人、債務や貧困から新天地を選ぶ人、そして意思に反して奴隷として連行される人が同じ港へ到着しました。「移民社会」という言葉の内部には、自由な移動と強制移動の大きな差が存在します。
人口が増えるにつれ、植民地社会には富の格差も広がりました。大規模なタバコ農園や米農園を所有する層、海外信用を利用できる商人、地方政治を担う有力者は土地と労働力を蓄積しました。その下には独立自営農民、職人、船員、店員、借地人、日雇い労働者、契約奉公人が存在し、さらに法的自由そのものを奪われた奴隷化された人々がいました。北米植民地を後世の「機会の社会」としてのみ見ると、この階層差と強制労働を見落とします。ただしヨーロッパの固定的な身分制とまったく同じでもなく、土地の取得や商業によって社会的位置を変える余地も地域によって存在しました。
港町は、この複雑な社会が最も目に見えやすい場所でした。ボストン、ニューヨーク、フィラデルフィア、チャールズタウンでは、大西洋から到着した船が商品、人、手紙、新聞、感染症、噂を同時に運び込みました。港には商人の倉庫だけでなく、造船所、酒場、市場、教会、印刷所、奴隷売買の場所が集まりました。自由黒人と奴隷化された人々、ヨーロッパから来た奉公人、先住民交易者、船員、商人が接触する都市空間は、植民地文化を混合させる一方、監視と身分差を日常的に可視化する場所でもありました。
植民地化は環境も変えました。ヨーロッパ由来の牛、豚、馬などの家畜が放牧され、森林が農地や牧草地へ転換され、柵と測量によって土地が細分化されました。先住民社会も農耕、火入れ、狩猟などを通じて長く環境へ働きかけていましたが、植民地人口の急増と輸出農業は変化の規模と速度を大きくしました。とくに放し飼いの豚や牛が先住民の畑へ入り込むことは、単なる農業上の事故ではなく、誰が土地をどのように使う権利を持つのかという政治問題になりました。土地争いは地図上の境界線だけでなく、日常の作物、家畜、森林利用から発生したのです。
18世紀前半には消費文化も広がりました。茶、砂糖、陶磁器、布地、金属器、家具、書籍といった商品が、富裕層だけでなくより広い層に少しずつ浸透します。砂糖入りの茶を飲むという日常的な行為も、カリブ海の奴隷労働、イングランドの商業、北米の港湾を結ぶ大西洋経済の上に成立していました。植民地人は帝国による規制を受ける一方、その帝国市場が提供する商品を積極的に消費していました。後に本国との対立が深まる前の段階では、経済的な結びつきそのものが植民地社会の繁栄を支えていた点が重要です。
14.第一次大覚醒 — 植民地を横断する宗教運動
1730年代から1740年代、英語圏大西洋世界で大規模な宗教復興運動が広がりました。北米では一般に「第一次大覚醒」と呼ばれます。説教者たちは、形式的な教会所属だけでなく、罪の自覚と個人的な回心、「新生」の体験を重視しました。ジョナサン・エドワーズはニューイングランドでのリバイバルを理論化し、イングランド出身のジョージ・ホウィットフィールドは植民地各地を巡回して、野外を含む大規模な聴衆に説教しました。
この運動の重要性は、単に宗教感情が高まったことではありません。ホウィットフィールドの巡回説教は、ニューイングランドから中部植民地、南部植民地まで共通の出来事として報道され、新聞と印刷物がその評判を拡散しました。異なる植民地の住民が同じ説教者、同じ論争、同じ出版物について語ることで、植民地を越える公共圏が形成されました。後の独立革命を直接生み出したと単純化することはできませんが、地域を横断する情報と感情のネットワークを強めた点は重要です。
大覚醒は教会を統一したのではなく、むしろ分裂も生みました。熱心な復興運動を支持する「新しい光」と、感情的な説教や権威批判を警戒する「古い光」が対立し、会衆派や長老派内部で分裂が起きました。バプテストなど既存の国教的秩序から距離を取る宗派も勢力を拡大します。誰が正当な牧師なのか、学問的訓練と個人的回心のどちらを重視するのか、教会権威に一般信徒がどこまで異議を唱えられるのかが議論されました。
奴隷化された人々や先住民への布教もこの時期に展開されましたが、その意味は一様ではありません。キリスト教への改宗は奴隷身分からの解放を自動的に意味せず、植民地法はむしろ改宗しても奴隷身分が変わらないよう規定しました。他方、聖書の言葉やキリスト教共同体は、奴隷化された人々が独自の宗教文化を形成する基盤の一つにもなりました。18世紀以降、アフリカ系住民のキリスト教は白人教会の単なる受容ではなく、独自の解釈と共同体形成へ発展していきます。
大覚醒は、1750年前後の植民地社会がすでに人口的にも情報的にも密接に結ばれていたことを示します。1607年のジェームズタウンでは、生き残ること自体が最大の課題でした。それから約140年後には、複数の植民地を横断して同じ説教者が移動し、その言葉が新聞で拡散され、大西洋の向こうの宗教論争と連動する社会が成立していました。これは植民地社会の成熟を示す一つの指標でした。
15.1754年直前の北米 — 帝国競争の前線へ
1750年代初頭までに、英領北米の人口と経済規模は大きく拡大していました。大西洋岸の植民地は北から南まで連続するように広がり、農地を求める移民はアパラチア山脈方面へ進出し始めました。しかし、その西側は「空き地」ではありません。オハイオ川流域にはショーニー、デラウェア、ミンゴなど多様な先住民共同体が存在し、ハウデノショーニーも広域的な外交権を主張していました。フランスも五大湖とミシシッピを結ぶ交通路を守るため、オハイオ地域への影響力を強めようとしていました。
英領植民者にとって西方への土地拡張は、新しい農場と投機利益の機会でした。ヴァージニアの土地会社や有力者はオハイオ地方への権利を求め、測量と入植計画を進めました。フランス側から見れば、イギリス人がオハイオへ進出すれば、カナダとルイジアナを結ぶ内陸ネットワークが分断される危険がありました。先住民側から見れば、英仏双方の進出は自らの土地と主権に直接関わる問題でした。そのため1750年代の危機は、英仏二国だけの領土争いではありませんでした。
先住民諸勢力は、英仏のどちらかに自動的に従ったわけではありません。交易条件、武器供給、贈与外交、過去の戦争、土地侵入の程度を比較しながら、同盟、交渉、中立、離反を選びました。ヨーロッパ帝国は広大な地図上に領土線を引きましたが、内陸部で実際に移動路と地域政治を支配していたのは先住民共同体である場合が多く、帝国側は彼らとの外交なしに戦争を遂行できませんでした。
1754年、ヴァージニア植民地の若い士官ジョージ・ワシントンがオハイオ地方へ派遣され、フランス軍との衝突が起こります。これが北米におけるフレンチ・インディアン戦争の直接的な始まりとなり、やがてヨーロッパの七年戦争へ拡大します。この戦争は1754年以前に形成された植民地社会の力関係を一変させ、英領北米と本国政府の財政・軍事関係を変え、1760年代以降の課税問題と独立革命へつながる新しい局面を開きます。
つまり1607年から1754年までの時期は、独立革命の「前史」としてだけ見るべきではありません。この時代そのものに、先住民外交、植民地間競争、宗教移民、商品作物、奴隷制、港湾商業、地方自治、大西洋戦争という固有の歴史があります。後のアメリカ合衆国を知っている私たちは、13植民地が最終的に一つの国になったことから逆算しがちですが、1754年の時点でその結末は決まっていませんでした。
16.この時代に何が変わったのか
第一に、北米大西洋岸に恒久的なヨーロッパ系植民地人口が大規模に定着しました。1607年のジェームズタウンは存続さえ危うい小拠点でしたが、18世紀半ばには大西洋岸に港町、農村、プランテーション、道路、教会、学校、議会が広がっていました。土地の利用方法も変わり、植民地的な私有地、測量、農園拡張が先住民の季節的・共同体的な土地利用と衝突するようになりました。
第二に、植民地ごとに異なる地域経済が形成されました。ニューイングランドでは家族農業、漁業、木材、造船、海上交易、中部植民地では穀物と港湾商業、チェサピークではタバコ、南部低地では米とインディゴが重要になりました。地域差は大きかったものの、すべてが大西洋市場によって結ばれていました。ロンドンの信用、カリブ海の砂糖需要、西アフリカの奴隷貿易、北米の食料輸出は互いに依存していました。
第三に、労働制度が変化しました。17世紀前半には契約奉公人が大きな役割を担いましたが、17世紀末から18世紀にかけて、南部を中心にアフリカ人奴隷労働への依存が深まりました。奴隷身分を母から子へ継承させ、人種的区分によって自由と不自由を分ける法律が整備され、奴隷制は植民地社会の一時的な労働方法ではなく、財産制度、家族制度、政治秩序を含む長期的な社会制度となりました。
第四に、先住民とヨーロッパ人の力関係が地域によって大きく変化しました。大西洋岸の一部では植民地人口の増加によって先住民の土地支配が後退しましたが、五大湖、オハイオ、ミシシッピ流域などでは先住民諸勢力が依然として軍事・外交上の中心的存在でした。先住民社会は崩壊して一方的に退場したのではなく、移動、同盟、戦争、交易、共同体再編を通じて植民地化に対応しました。
第五に、各植民地が互いに結びつき始めました。港湾交易、郵便、新聞、巡回説教、戦争、移民が地域を越えて人と情報を動かしました。植民地住民には依然としてヴァージニア人、マサチューセッツ人、ペンシルヴェニア人など地域的な帰属意識が強く、統一された「アメリカ国民」が存在したわけではありません。それでも、1754年までに複数植民地が共通の帝国制度、市場、戦争、宗教論争に参加する条件が整いつつありました。
第六に、北米がヨーロッパ帝国間競争の主要舞台になりました。英仏西の領有権主張、毛皮交易、砂糖経済、海運、漁業、奴隷貿易が結びつき、ヨーロッパの戦争は北米へ波及しました。1754年にオハイオ地方で始まった衝突は、この約150年間に蓄積された植民地人口の増加、西方土地要求、フランスの内陸交易網、先住民外交の緊張が一つの地点で交差した結果でした。
17.この時代を理解するための8つの視点
視点1 「13植民地」を最初から一つの国として見ない
1607年から1754年の時点で、後のアメリカ合衆国は存在していません。各植民地は異なる時期、異なる目的、異なる統治制度で設立されました。ヴァージニア会社の営利植民地、清教徒のマサチューセッツ湾、クエーカーのペンシルヴェニア、プランテーション中心のサウスカロライナでは社会構造が大きく異なります。後の統一を前提にせず、それぞれの地域社会がどのように形成されたかを見ることが重要です。
視点2 北米の政治主体はヨーロッパ植民地だけではない
ポウハタン、ワンパノアグ、ナラガンセット、ピクォート、モヒガン、ハウデノショーニー、レナペ、チェロキー、クリークなど、多数の先住民社会が外交と戦争の主体でした。彼らはヨーロッパ人に一方的に反応するだけではなく、既存の同盟や競争、交易利益を考えながら政策を選択しました。英仏帝国も、18世紀半ばまで内陸部では先住民の協力なしに安定した支配を実現できませんでした。
視点3 土地問題は植民地化の中心にある
ヨーロッパ人と先住民の対立を宗教や文化の違いだけで説明すると、最も重要な問題が見えなくなります。植民地人口が増えるほど、農地、狩猟地、家畜放牧地、河川交通路をめぐる競争が激しくなりました。ヨーロッパ的な測量と私有地売買の考え方、先住民の共同体的・重層的な土地利用の間には大きな差があり、条約や購入の意味をめぐる対立も生じました。
視点4 植民地経済は大西洋経済だった
タバコ、米、インディゴ、魚、木材、毛皮、穀物は北米内部だけで消費されたのではなく、大西洋市場へ送られました。植民地の生活用品もイングランドやカリブ海から輸入されました。したがって、北米の経済成長を「自給自足の開拓農民」の物語だけで捉えることはできません。商人、船員、保険、信用、港湾、カリブ海市場が不可欠でした。
視点5 奴隷制は南部だけの歴史ではない
大規模プランテーションと奴隷人口の集中は南部で顕著でしたが、北部植民地にも奴隷化された人々が存在し、北部商人も奴隷貿易や奴隷労働産品の流通から利益を得ました。大西洋経済全体を見ると、砂糖、糖蜜、ラム酒、魚、木材、船舶、信用が奴隷制と結びついていました。「自由な北部」と「奴隷制の南部」という後世の区分を17〜18世紀前半へそのまま適用することはできません。
視点6 人種化された奴隷制は歴史的に作られた制度である
1619年にアフリカ人がヴァージニアへ到着した時点で、後のアメリカ奴隷制のすべての法制度が完成していたわけではありません。17世紀を通じて、子の身分、改宗、婚姻、逃亡、証言、所有権に関する法律が積み重ねられ、アフリカ系の人々を世襲的に奴隷化する制度が固定されました。この過程を見ることで、「人種」を自然な分類ではなく、労働と財産を支配する制度が作り上げた社会的区分として理解できます。
視点7 宗教の自由は最初から完成していなかった
北米植民地には宗教的迫害から逃れてきた人々が多くいましたが、自分たちが迫害された経験が直ちに他宗派への寛容を生んだわけではありません。マサチューセッツ湾では異端とされた人物が追放され、クエーカーも迫害されました。他方、ロードアイランドやペンシルヴェニアでは比較的広い信仰の自由が制度化されました。宗教的多元性は、対立と実験を通じて徐々に形成されたのです。
視点8 1754年は独立革命ではなく帝国戦争の入口である
1754年の北米では、多くの英領植民地住民は自分たちを大英帝国の一員と考えていました。最大の外部競争相手はフランスであり、オハイオ地方の支配と先住民同盟が焦点になっていました。ここから始まるフレンチ・インディアン戦争と七年戦争によってフランス勢力が大きく後退し、その戦費負担をめぐってイギリス本国と植民地の関係が変化します。独立革命を理解するには、その前に植民地人が帝国の拡大を支えていた時期を理解する必要があります。
18.主な出来事
- 1607年 — ヴァージニア会社がジェームズタウンを建設。北米における最初の恒久的イングランド植民地となる。
- 1608年 — サミュエル・ド・シャンプランがケベックを建設し、フランスの恒久的な北米拠点が形成される。
- 1609–1610年 — ジェームズタウンが「飢餓の時代」を経験し、人口が激減する。
- 1612年頃 — ジョン・ロルフがヴァージニアで輸出向けタバコ栽培を成功させる。
- 1619年 — ヴァージニアで植民地議会が開催される。同年、記録上最初期のアフリカ人がヴァージニアへ到着する。
- 1620年 — メイフラワー号の入植者がプリマス植民地を建設する。
- 1621年 — プリマス植民地とワンパノアグの指導者ウサメクィンが同盟を結ぶ。
- 1622年 — オペチャンカノーを中心とする先住民勢力がヴァージニア植民地を大規模に攻撃する。
- 1624年 — ヴァージニア会社の勅許が取り消され、ヴァージニアは王領植民地となる。
- 1630年 — ジョン・ウィンスロップら清教徒がマサチューセッツ湾植民地へ大規模移住する。
- 1636年 — ロジャー・ウィリアムズがマサチューセッツ湾植民地から追放され、プロヴィデンスに拠点を築く。
- 1636–1638年 — ピクォート戦争。イングランド植民地軍と先住民同盟勢力がピクォートを攻撃する。
- 1644–1646年 — ヴァージニアでオペチャンカノーを中心とする最後の大規模戦争が起こり、ポウハタン政治秩序が大きく弱体化する。
- 1651年 — イングランド議会が航海法を制定し、帝国貿易の規制を強め始める。
- 1662年 — ヴァージニアで子どもの身分を母親の身分に従わせる法律が成立し、世襲奴隷制の法的基盤が強化される。
- 1664年 — イングランドがニューアムステルダムを占領し、ニューヨークと改称する。
- 1670年 — イングランド植民者がチャールズタウンを建設し、カロライナ植民地の本格的な発展が始まる。
- 1675–1676年 — キング・フィリップ戦争。ニューイングランドの植民地と複数の先住民勢力が激しく衝突する。
- 1676年 — ヴァージニアでベーコンの反乱。土地、先住民政策、経済不満、植民地政治をめぐる対立が噴出する。
- 1681年 — ウィリアム・ペンがペンシルヴェニア植民地の特許を得る。
- 1682年 — ラ・サールがミシシッピ川流域をフランス領ルイジアナとして領有宣言する。
- 1688年 — ジャーマンタウンのクエーカーらが奴隷制を批判する請願を提出する。
- 1690年代 — サウスカロライナで米生産が主要輸出産業として成長する。
- 1699年 — フランスがメキシコ湾岸でルイジアナ植民地の恒久的拠点建設を進める。
- 1701年 — モントリオール大平和。フランスと多数の先住民勢力が広域的な外交協定を結ぶ。
- 1705年 — ヴァージニア奴隷法典が成立し、人種化された世襲奴隷制の法制度がさらに整理される。
- 1715–1717年 — ヤマシー戦争。サウスカロライナの先住民交易・奴隷貿易体制が大きく揺らぐ。
- 1718年 — フランスがニューオーリンズを建設する。
- 1733年 — ジョージア植民地が建設される。
- 1738年 — スペイン領フロリダにフォート・モセが成立し、逃亡奴隷を含む自由黒人共同体の拠点となる。
- 1730–1740年代 — 第一次大覚醒が英領北米各地に広がる。
- 1750年 — ジョージアで奴隷制禁止が撤廃される。
- 1754年 — オハイオ地方で英仏軍事衝突が始まり、フレンチ・インディアン戦争へ発展する。
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1754–1789|アメリカ独立革命と国家の成立 — 七年戦争、課税、独立宣言、独立戦争、憲法
参考資料
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資料確認日:2026年10月3日 / ART LIBRARY