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World History

1917–1923

革命と戦後秩序

ロシア革命、ヴェルサイユ、民族自決、国際連盟

第一次世界大戦が終わった1918年11月、世界はすぐに「平和」へ戻ったわけではありません。ロシアでは革命と内戦が続き、旧ロシア帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国の領域では新国家と国境をめぐる戦争が起こりました。ドイツでは帝政が崩壊し、革命と共和国成立が進みました。東ヨーロッパからコーカサス、中東まで、1918年の休戦後も国家形成と武力衝突は続きます。

1919年1月にはパリ講和会議が始まりました。アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソン、フランス首相ジョルジュ・クレマンソー、イギリス首相デイヴィッド・ロイド・ジョージ、イタリア首相ヴィットーリオ・オルランドらが中心となり、戦後の国境、賠償、植民地、国際連盟をめぐる交渉が進みます。日本も戦勝国の一つとして参加し、旧ドイツ権益の山東問題、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島、国際連盟規約への人種平等原則の挿入を重要課題としました。

この時代を象徴する言葉の一つが「民族自決」です。しかし、民族自決が世界中のすべての民族に同じように適用されたわけではありません。ヨーロッパではポーランド、チェコスロヴァキア、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国など新国家が形成される一方、ドイツ人、ハンガリー人、ウクライナ人、ユダヤ人、その他多数の少数派が新しい国境の内外に残りました。アジア・アフリカの植民地社会では、独立の要求が高まったにもかかわらず、旧ドイツ植民地やオスマン領の一部は「委任統治」という新しい制度の下でイギリス、フランス、日本などの管理へ移されました。

戦後秩序はヨーロッパの問題だけでもありません。1919年、朝鮮では三・一独立運動が広がり、中国では山東問題への反発から五・四運動が始まりました。日本代表団はパリで人種差別撤廃に関する条項を国際連盟規約へ入れることを提案しましたが採用されませんでした。同時に、日本は山東の旧ドイツ権益と南洋諸島の委任統治を獲得する側でもありました。平等を求める外交と帝国的権益の拡大が同じ国家の中に併存していました。

1920年代初頭になると、ヴェルサイユ体制を補完・修正する新しい外交が始まります。アメリカはヴェルサイユ条約を批准せず国際連盟へ参加しませんでしたが、1921–22年のワシントン会議を主催し、海軍軍縮、太平洋、そして中国に関する多国間秩序を形成しました。1923年にはローザンヌ条約が締結され、1920年のセーヴル条約で想定されたオスマン帝国解体案の多くが置き換えられ、現在のトルコ共和国につながる国際的枠組みが成立します。

1917年から1923年は、第一次世界大戦の「後処理」の時代ではなく、革命、植民地主義、民族国家、国際機構、軍縮という20世紀政治の新しい仕組みが同時に作られた時代でした。

CONTENTS

  1. 1917年 ロシア革命から始まる戦後
  2. ボリシェヴィキ政権と権力集中
  3. ブレスト=リトフスクと帝国領域の解体
  4. ロシア内戦
  5. 「赤軍対白軍」だけではない内戦
  6. 連合国の軍事介入
  7. 日本のシベリア出兵
  8. 日本軍は1922年まで残った
  9. 戦時共産主義
  10. チェーカーと赤色テロル
  11. 飢饉と社会崩壊
  12. 1921年 クロンシュタット反乱
  13. 新経済政策 NEP
  14. 1922年 ソ連成立
  15. 十四か条と「新しい平和」
  16. 民族自決は何を意味したのか
  17. 1919年 パリ講和会議
  18. 「四巨頭」と講和決定
  19. 誰が講和会議から排除されたのか
  20. 新国家の形成
  21. 新しい国境と少数民族
  22. 1919年 ヴェルサイユ条約
  23. ドイツの領土変更
  24. ドイツ軍備制限
  25. 第231条を「戦争犯罪告白」と単純化しない
  26. 賠償額は1921年に確定した
  27. 1320億金マルク
  28. アメリカ上院はヴェルサイユ条約を批准しない
  29. 国際連盟の成立
  30. 集団安全保障という試み
  31. 提唱国アメリカが加盟しない矛盾
  32. 委任統治制度
  33. 植民地支配の終了ではなかった
  34. 旧オスマン領と中東
  35. イラク・パレスチナ・シリア・レバノン
  36. 日本とパリ講和会議
  37. 人種差別撤廃提案
  38. 11対5でも採択されなかった
  39. 山東問題
  40. 中国代表団は条約へ署名しなかった
  41. 1919年 五・四運動
  42. 1919年 三・一独立運動
  43. 大韓民国臨時政府
  44. アジアが「民族自決」を読み替える
  45. 日本と南洋諸島委任統治
  46. サン=ジェルマン、ヌイイ、トリアノン
  47. ハンガリーとトリアノン条約
  48. ポーランド・ソヴィエト戦争
  49. オスマン帝国の戦後処理
  50. 1920年 セーヴル条約
  51. トルコ民族運動
  52. 希土戦争
  53. 1923年 ローザンヌ条約
  54. ギリシャ・トルコ住民交換
  55. 1921–1922年 ワシントン会議
  56. 五カ国条約と海軍軍縮
  57. 四カ国条約と日英同盟の終了
  58. 九カ国条約と中国
  59. 山東問題の返還交渉
  60. 戦後秩序は誰のための秩序だったのか
  61. 1917–1923年に何が変わったのか
  62. 1917–1923年の主な出来事
  63. 次の時代へ — ファシズム、世界恐慌、民主主義の危機
  64. 参考資料・出典

1917年 ロシア革命から始まる戦後

1917年のロシア革命は、第一次世界大戦の終結を待たずに戦後秩序を先取りする出来事でした。三月、旧暦二月の革命でニコライ2世が退位し、ロマノフ朝は崩壊しました。臨時政府は戦争を継続しましたが、兵士・労働者・農民の間では戦争終結、土地改革、食料問題への要求が強まりました。

11月、旧暦10月、ボリシェヴィキが臨時政府を打倒しました。新政権は「平和に関する布告」を出し、交戦国へ講和を呼びかけました。

ロシア革命は単なる一国内の政権交代ではありません。帝国主義戦争を批判し、地主制と資本主義を転覆すると主張する政権が世界最大級の帝国の一つに成立したことで、ヨーロッパ各国の社会主義運動、植民地民族運動、反革命勢力すべてに影響を与えました。

ボリシェヴィキ政権と権力集中

ボリシェヴィキは1917年11月に政権を握りましたが、ロシア全土を直ちに安定支配できたわけではありませんでした。1918年1月には、選挙で成立した憲法制定議会がボリシェヴィキ政権を支持しなかったため解散されます。

アメリカ議会図書館のロシア・アーカイブ展は、ボリシェヴィキ政権が内戦と反対勢力に対処する中で政治的権力を急速に集中させ、1917年12月に秘密警察チェーカーを設置したことを示しています。

革命は「民衆による旧体制打倒」と「一党支配の形成」が連続して進む過程でした。どちらか一方だけで1917年を説明することはできません。

ブレスト=リトフスクと帝国領域の解体

1918年3月、ボリシェヴィキ政府は中央同盟国とブレスト=リトフスク条約を締結し、戦争から離脱しました。ロシアはポーランド、バルト地域、ウクライナなど旧帝国西部の広い地域への支配を失いました。

同年11月のドイツ敗戦後、この条約は実質的に失効しました。しかし失われた地域がそのままロシアへ戻ったわけではありません。

フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニアなどでは独立国家形成が進み、ポーランドも国家を再建しました。帝国崩壊後の境界は、革命・戦争・民族運動を通じて改めて争われることになります。

ロシア内戦

1918年から21年頃にかけて、旧ロシア帝国の広大な地域で内戦が続きました。ボリシェヴィキ政権の赤軍に対し、旧帝政軍人、君主主義者、自由主義者、コサック勢力、地方政権など多様な反ボリシェヴィキ勢力が戦いました。

一般に「白軍」と総称されますが、白軍は統一した政治思想や国家構想を持つ一つの勢力ではありませんでした。

さらにウクライナ、バルト諸国、コーカサスなどでは独立を求める民族運動や地域政権があり、農民ゲリラ、アナキストなども活動しました。内戦は「赤対白」の二者だけで説明できない多層的戦争でした。

「赤軍対白軍」だけではない内戦

白軍側の主要な軍事指導者には、シベリアのアレクサンドル・コルチャーク、南ロシアのアントーン・デニーキン、その後のピョートル・ヴラーンゲリらがいました。

しかし白軍勢力は互いに遠く離れ、統一した司令系統を持たず、農民への土地政策や民族地域の独立問題についても一致していませんでした。旧帝国の一体性回復を重視する白軍指導部は、ウクライナやコーカサスなどの民族運動との協力を難しくしました。

赤軍は旧帝国中心部の人口・工業・鉄道網を比較的まとまって支配し、トロツキーの指揮下で旧帝政軍将校も利用しながら軍隊を再編しました。こうした地理・組織上の違いも内戦の結果に影響しました。

連合国の軍事介入

ロシア内戦には外国軍も介入しました。イギリス、フランス、アメリカ、日本などは北ロシア、黒海沿岸、シベリア、極東などへ部隊を派遣しました。

当初の理由には、ロシアに送られていた軍需物資の保護、チェコスロヴァキア軍団の救出、東部戦線再建によってドイツ軍を牽制することなどがありました。しかし1918年11月にドイツが敗北した後も、一部の介入は反ボリシェヴィキ勢力支援という性格を持って続きました。

外国介入は白軍を軍事的に支援した一方、ボリシェヴィキ側には革命政権が外国帝国主義に包囲されているという宣伝材料も与えました。

日本のシベリア出兵

日本は1918年8月2日にシベリア出兵を正式に宣言しました。国立公文書館は、当初の出兵をアメリカなど連合国と共同し、シベリアに集結していたチェコスロヴァキア軍の救援を目的として始めたと説明しています。

日本軍はウラジオストクからシベリア東部へ進出し、反ボリシェヴィキ勢力とも関係を持ちました。

シベリア出兵は日本にとってロシア革命への対応であると同時に、満洲・沿海州を含む北東アジアの安全保障と勢力圏をめぐる政策でもありました。

日本軍は1922年まで残った

欧米各国が撤兵していく中、日本はシベリアへの駐兵を長く継続しました。外務省外交史料館は、日本軍が1922年10月までシベリアに駐兵したと説明しています。

1920年の尼港事件後には、日本は北樺太の一部も占領しました。シベリア出兵は日本国内で多額の軍事費と犠牲を生み、出兵継続の是非をめぐる政治問題となりました。

1918年に「連合国共同作戦」として始まった出兵が、世界大戦終結後も四年にわたり続いたことは、日本の対ロシア政策が単なる第一次世界大戦作戦を超えていたことを示します。

戦時共産主義

内戦中、ボリシェヴィキ政権は工業の国有化、穀物の強制徴発、私的商業の制限などを進めました。後に「戦時共産主義」と呼ばれる政策です。

これらは社会主義経済への急速な転換という理念と、都市・赤軍へ食料を供給する内戦上の必要が重なっていました。

しかし農村では強制徴発への反発が強まり、生産意欲低下、戦争被害、輸送混乱、干ばつなどと重なって深刻な経済危機を招きました。

チェーカーと赤色テロル

ボリシェヴィキ政権は1917年12月に反革命・サボタージュ対策のためチェーカーを設置しました。内戦が激化すると、反革命とみなされた人物への逮捕・処刑を含む政治的暴力が拡大しました。

1918年にはレーニン暗殺未遂やボリシェヴィキ幹部殺害を背景に、「赤色テロル」が公式政策として強化されました。

白軍側でも反ユダヤ人ポグロム、政治的処刑、住民への報復など大規模な暴力が行われました。ロシア内戦は国家・軍隊・武装集団による暴力が民間人へ広がった戦争でした。

飢饉と社会崩壊

内戦、農業生産の低下、徴発、輸送網崩壊に1920–21年の干ばつが重なり、ヴォルガ流域などで大規模な飢饉が発生しました。

アメリカ議会図書館は、1920年までにヴォルガ、クリミア、ウクライナ、アルメニアなどで深刻な食料不足が進み、1000万から2000万人規模の生命が危険にさらされたとする当時の救援状況を紹介しています。

アメリカ救済局をはじめ国際的な救援団体が食料支援を行いました。冷戦以前の米ソ関係には、政治的対立と大規模人道支援が同時に存在していました。

1921年 クロンシュタット反乱

1921年3月、ペトログラード近郊のクロンシュタット海軍基地で水兵らがボリシェヴィキ政権へ反乱を起こしました。彼らはソヴィエト選挙の自由化や経済統制緩和などを要求しました。

赤軍は反乱を武力で鎮圧しました。

クロンシュタット反乱と同時期、農村でもタンボフなどで大規模な反乱が起きていました。内戦には勝利しつつあったボリシェヴィキ政権が、社会的支持と経済政策の危機へ直面していたことを示します。

新経済政策 NEP

1921年、レーニンは穀物強制徴発を廃止し、一定範囲の民間商業・小規模私企業を認める新経済政策、NEPへ転換しました。

国家は重工業、銀行、対外貿易など主要部門を維持しながら、市場取引を部分的に復活させました。

これはボリシェヴィキが社会主義を放棄したというより、内戦後の経済崩壊から回復するため政策を大きく後退・修正したものでした。革命政権は固定された一つの経済制度ではなく、危機に応じて政策を変更していました。

1922年 ソ連成立

1922年12月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、ザカフカースの各ソヴィエト共和国を構成単位としてソヴィエト社会主義共和国連邦、ソ連が成立しました。

形式上は複数の共和国からなる連邦国家でしたが、共産党組織と中央政府を通じて政治権力は強く統合されました。

旧ロシア帝国の全領域が戻ったわけではありません。フィンランド、ポーランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニアなどは独立国家としてソ連の外に残りました。革命は帝国を一度解体し、その一部を異なる連邦形式で再統合しました。

十四か条と「新しい平和」

1918年1月8日、アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンは議会演説で十四か条を提示しました。公開外交、海洋の自由、貿易障壁削減、軍備縮小、植民地問題の調整、ヨーロッパ各地域の政治的再編、ポーランド国家、そして国際連盟の創設などを掲げました。

アメリカ国務省歴史局は、十四か条が戦後講和交渉の重要な基礎となった一方、ウィルソンがロシアを連合国側へつなぎ止め、ドイツ国内の戦争支持を弱めるという現実的目的も持っていたと説明しています。

十四か条は純粋な理想主義文書だけではなく、戦時外交の道具でもありました。

民族自決は何を意味したのか

戦後、「民族自決」は非常に強い政治的言葉となりました。しかし十四か条が世界の植民地すべてへ独立を約束したわけではありません。植民地問題については、支配国の「公正な要求」と住民の利益を同等に考慮するという表現にとどまりました。

ヨーロッパでも民族と国境を完全に一致させることはできませんでした。チェコスロヴァキアには多数のドイツ語話者が入り、ルーマニア領となったトランシルヴァニアにはハンガリー人が多く住み、新生ポーランドにもウクライナ人、ベラルーシ人、ユダヤ人、ドイツ人などがいました。

民族自決は客観的に一つの国境を導く公式ではなく、「誰を一つの民族とみなすのか」「どの地域を単位に投票するのか」という政治判断を含む原則でした。

1919年 パリ講和会議

1919年1月、第一次世界大戦の戦勝国がパリに集まり、講和会議が始まりました。敗戦国ドイツは講和条件の主要部分を作る交渉には参加せず、完成した条約案を提示されました。ボリシェヴィキ政権下のロシアも主要な講和決定から排除されました。

会議ではドイツとのヴェルサイユ条約だけでなく、オーストリア、ハンガリー、ブルガリア、オスマン帝国との講和条件、国際連盟、植民地、少数民族条約、新国境など多数の問題が扱われました。

「パリ講和会議」という一つの会議で世界地図が完成したわけではなく、交渉はその後数年間の条約・国境戦争・国際会議へ続きました。

「四巨頭」と講和決定

重要問題の多くは、ウィルソン、クレマンソー、ロイド・ジョージ、オルランドによる「四巨頭」の会談で処理されました。各国の優先順位は異なりました。

フランスはドイツからの安全保障と賠償を重視し、イギリスはヨーロッパの勢力均衡と帝国利益を考慮し、アメリカは国際連盟と十四か条に基づく秩序を重視しました。イタリアは1915年のロンドン秘密条約で約束された領土を要求しました。

講和は一つの理念をそのまま実現したのではなく、戦勝国間の妥協によって作られました。

誰が講和会議から排除されたのか

講和会議には多数の国家・民族代表が請願を持ち込みましたが、全員が同じ権限を持って交渉へ参加したわけではありません。

植民地支配下の人々、独立運動、民族少数派、女性団体などもパリへ働きかけましたが、主要決定は大国政府によって行われました。

国際秩序を「民族自決」によって再編すると宣言しながら、どの民族が国家を持つ資格を認められるかを大国側が選ぶ構造は、戦後秩序の根本的な矛盾でした。

新国家の形成

第一次世界大戦による帝国崩壊から、ポーランド、チェコスロヴァキア、フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニアなどが独立国家として成立しました。

旧オーストリア=ハンガリー領ではオーストリアとハンガリーが分かれ、セルビア王国を中心にセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国が成立しました。後のユーゴスラヴィアです。

これらの国家形成は講和会議がゼロから「与えた」ものではありません。戦争中・革命期に各民族運動や地方政府が軍事・外交活動を行い、既成事実を作った上で講和条約による国際承認へ進んだ場合が多くありました。

新しい国境と少数民族

民族国家が増えたからといって、少数民族問題がなくなったわけではありません。むしろ多民族帝国の解体によって、新しい少数派が各国国境の中に生まれました。

連合国はポーランドなど新国家へ少数民族保護条約を結ばせ、言語・宗教・市民権上の権利を保障しようとしました。

しかし保護制度の適用は一貫せず、大国自身の植民地住民に同じ原則が適用されたわけでもありません。戦後秩序は「民族国家化」と「少数派の国際保護」という二つの問題を同時に抱えました。

1919年 ヴェルサイユ条約

1919年6月28日、ドイツと連合国はヴェルサイユ宮殿鏡の間で講和条約に署名しました。アメリカ国務省が公開する条約本文は、国際連盟規約、ドイツ国境、軍備、植民地、賠償などを多数の条文で定めています。

条約は1919年に署名されましたが、必要な批准書が寄託され、正式に発効したのは1920年1月10日でした。

ヴェルサイユ条約は第一次世界大戦のすべての戦争状態を一つで終わらせた条約ではありません。オーストリア、ブルガリア、ハンガリー、オスマン帝国とは別の講和条約が結ばれました。

ドイツの領土変更

アルザス=ロレーヌはフランスへ戻り、ポーランド国家形成のため旧ドイツ東部領の一部がポーランドへ移りました。ダンツィヒは国際連盟の保護下にある自由市となり、ザール地方は国際連盟管理下でフランスが炭鉱権益を得ました。

ドイツの海外植民地は失われ、その多くは国際連盟の委任統治地域として戦勝国へ配分されました。

条約はドイツを解体して消滅させたわけではありませんが、戦前帝国より領土・人口・海外帝国・軍事力を大幅に縮小させました。

ドイツ軍備制限

ヴェルサイユ条約はドイツ陸軍を10万人に制限し、徴兵制を禁止しました。戦車、軍用航空機、潜水艦などの保有も禁止または厳しく制限され、ライン川左岸と右岸の一定地域には非武装化規定が置かれました。

戦勝国はこれをドイツ再侵略を防ぐ安全保障措置と考えました。

しかしドイツ国内では、一方的な軍備制限と領土喪失が屈辱として受け取られ、ヴェルサイユ体制への政治的反発が共和国期を通じて続きました。

第231条を「戦争犯罪告白」と単純化しない

ヴェルサイユ条約第231条は、ドイツとその同盟国の「侵略によって」連合国政府と国民が被った損失について責任を認める文章です。後世「戦争責任条項」と呼ばれ、ドイツ国内では強い反発を受けました。

ただし条文の直接的な役割は、賠償請求の法的根拠を設定することでした。条約は「第一次世界大戦の全原因についてドイツ一国だけが歴史的・道徳的に100%有罪」と学術的判定を下した文書ではありません。

戦争原因の歴史研究と、講和条約上の賠償責任は区別する必要があります。

賠償額は1921年に確定した

「ヴェルサイユ条約でドイツに1320億金マルクの賠償が即座に課された」と説明されることがありますが、正確ではありません。

条約は賠償責任と仕組みを定めましたが、最終的な総額の決定は賠償委員会へ委ねられました。

アメリカ国務省史料によれば、賠償委員会が総額を1320億金マルクと決定したのは1921年4月であり、5月の支払計画で具体化されました。

1320億金マルク

1921年の1320億金マルクという数字は、戦間期の国際金融問題の中心になりました。ドイツ政府は支払い能力をめぐって連合国と対立し、1923年にはフランスとベルギーがルール地方を占領します。

ドイツ政府は受動的抵抗を支援し、通貨発行が急増する中でハイパーインフレーションが極端な段階へ進みました。

ただしドイツのインフレを「賠償金だけが原因」と説明することも単純です。戦時債務、財政赤字、政治的決定、通貨政策、ルール危機など複数の要因が重なっていました。

アメリカ上院はヴェルサイユ条約を批准しない

ウィルソンは国際連盟を戦後秩序の中心と考えていましたが、アメリカでは条約批准に上院の3分の2の同意が必要でした。

上院では国際連盟規約第10条などをめぐり、アメリカが議会の判断を超えて海外紛争へ巻き込まれるのではないかという懸念が強まりました。ヘンリー・カボット・ロッジらは留保付き批准を求めましたが、ウィルソンとの妥協は成立しませんでした。

上院は1919年11月と1920年3月に批准を拒否しました。アメリカは国際連盟へ加盟せず、1921年にドイツと別個の平和条約を結びました。

国際連盟の成立

ヴェルサイユ条約第1部には国際連盟規約が組み込まれました。条約発効とともに1920年1月10日、国際連盟が正式に成立しました。

国際連盟は国家間紛争を協議・仲裁し、戦争を防ぐための恒久的な国際機構を作る初めての大規模な試みでした。

総会、理事会、事務局などの制度が置かれ、ジュネーヴが活動の中心となりました。労働、難民、保健、少数民族、麻薬取引など、軍事安全保障以外の国際協力も進めました。

集団安全保障という試み

国際連盟規約は、加盟国が互いの領土保全と政治的独立を尊重し、紛争を戦争前に国際的手続きへ付すという考えを取り入れました。

これは19世紀型の秘密同盟と勢力均衡だけに頼らず、国際社会全体で侵略を抑止する「集団安全保障」の試みでした。

ただし連盟には独自の軍隊がなく、制裁や安全保障の実効性は加盟国政府の協力へ依存しました。全会一致原則が意思決定を難しくする場合もありました。

提唱国アメリカが加盟しない矛盾

国際連盟構想を強く推進したアメリカが加盟しなかったことは、戦後秩序の大きな矛盾でした。

ただし「アメリカが完全な孤立主義へ戻った」という表現も正確ではありません。アメリカは戦債、ドイツ賠償、海軍軍縮、中国問題などで国際政治へ積極的に関与しました。

1921–22年にはワシントン会議を主催し、国際連盟とは別の多国間外交によって太平洋・東アジア秩序を組み立てました。

委任統治制度

国際連盟規約第22条は、敗戦国から切り離された植民地・領土を、国際連盟の監督下で特定国が統治する委任統治制度を設けました。

国際連盟資料では、旧オスマン帝国地域などのA式委任統治、中央アフリカなどのB式、旧ドイツ領南西アフリカや太平洋諸島などのC式といった区分が行われました。

制度上は住民の福祉と発展を国際的責任として扱う新しい考えが導入されましたが、実際の統治は戦勝国の帝国支配と密接に結びついていました。

植民地支配の終了ではなかった

委任統治領は「植民地ではない」と国際法上区別されましたが、住民が即時独立を選択できる制度ではありませんでした。

A式委任統治では旧オスマン領の共同体が将来的独立を前提に「暫定的に独立国家として認められる」とされながら、イギリス・フランスなどが行政上の助言・支援を行いました。

B式・C式ではより直接的な統治が認められました。戦前のドイツ植民地支配が消滅しても、植民地主義そのものが消えたわけではなく、国際連盟という新しい制度の中へ組み替えられました。

旧オスマン領と中東

オスマン帝国のアラブ地域では、戦時中のアラブ反乱、英仏間のサイクス=ピコ協定、バルフォア宣言など複数の約束と構想が存在していました。

戦後、アラブ側には独立への期待がありましたが、パリ講和会議とその後の連合国会議は、シリア、レバノン、パレスチナ、メソポタミアなどを委任統治制度へ組み込みました。

「民族自決」が掲げられた時代に、旧オスマン領ではヨーロッパ列強の管理が新しい法形式で継続したことになります。

イラク・パレスチナ・シリア・レバノン

イギリスはメソポタミア、後のイラクとパレスチナの委任統治を担い、フランスはシリアとレバノンを管理しました。トランスヨルダンもパレスチナ委任統治の枠組みから分かれて形成されます。

国際連盟資料はA式委任統治の地域について、独立国家としての存在を暫定的に認める一方、単独で国家運営できる段階まで委任統治国の助言・援助を受けると説明しています。

しかしどの勢力が「住民の意思」を代表するのか、国境をどこに引くのか、ユダヤ人の民族的郷土を支持したバルフォア宣言とパレスチナのアラブ住民の政治的権利をどう両立するのかという問題が残されました。

日本とパリ講和会議

日本は第一次世界大戦の戦勝国として、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアとともに主要国の一つとしてパリ講和会議へ参加しました。

国立国会図書館によれば、日本政府は旧ドイツ領南洋諸島の赤道以北地域、山東省の旧ドイツ権益、そして国際連盟規約への人種差別撤廃条項を主要課題としていました。

日本外交には「欧米諸国と対等な大国として承認されたい」という要求と、「中国・太平洋における帝国的権益を維持・拡大したい」という要求が同時に存在しました。

人種差別撤廃提案

日本代表団は国際連盟規約に、人種による不平等を否定する原則を盛り込むよう提案しました。移民排斥や人種差別に直面していた日本人・日系移民の問題を背景に、日本政府は大国間の形式的平等を国際制度へ組み込もうとしました。

外務省外交史料館によれば、牧野伸顕は人種的・宗教的憎悪が国際紛争の原因になってきたと主張し、複数回にわたって妥協案を提示しました。

この提案は、後世の普遍的人権条項と同じ内容ではありません。日本国内や植民地下の朝鮮・台湾での平等を包括的に保証する政策でもありませんでした。それでも当時の国際制度に人種平等原則を明記しようとした重要な外交提案でした。

11対5でも採択されなかった

1919年4月11日の国際連盟委員会最終会合で、日本側は規約前文へ「各国の平等及びその国民に対する公正待遇」の原則を入れる案を提示しました。

外務省の説明では、出席者16名中11名が賛成しました。しかし委員長ウィルソンは、このような重要事項には全会一致が必要だとして提案を採択しませんでした。

この結果は日本国内で「西洋列強による人種的な不平等」の象徴として受け止められました。一方で、日本自身が朝鮮・台湾を植民地支配していたことを含め、国際的平等要求と帝国内の不平等は並存していました。

山東問題

中国山東省の膠州湾と鉄道などには、戦前ドイツが権益を持っていました。1914年、日本は青島を攻略し、それらを占領しました。

パリ講和会議で中国代表団は旧ドイツ権益を中国へ直接返還するよう要求しました。一方、日本は1915年の中国との条約・交換公文などを根拠に、ドイツ権益を日本が継承することを主張しました。

アメリカ国務省が公開する1919年4月の中国代表団文書には、ドイツが権益を戦勝国側へ放棄した後、日本が一定期間内に中国へ返還するという中国側提案が記録されています。

中国代表団は条約へ署名しなかった

最終的にヴェルサイユ条約は山東の旧ドイツ権益を日本へ移す内容となりました。中国国内では強い反発が起こり、中国代表団は1919年6月28日のヴェルサイユ条約署名を拒否しました。

中国は戦勝国側として第一次世界大戦へ参加していましたが、講和で自国領内の旧ドイツ権益が直接回復されない結果となりました。

民族自決と「公正な平和」を掲げた講和会議への期待が大きかっただけに、山東問題は戦後中国政治の転換点となりました。

1919年 五・四運動

1919年5月4日、北京の学生がパリ講和会議の山東処理に抗議してデモを行いました。運動は学生から商人・労働者・知識人へ広がり、全国的な政治・文化運動へ発展しました。

イギリス国立公文書館の史料には、中国各地からパリの中国代表団へ「山東権益を日本へ渡す条約へ署名するな」という電報が送られていたことが残されています。

五・四運動は外交問題への抗議だけでなく、儒教批判、科学・民主主義、新文学、社会主義などをめぐる新文化運動とも結びつき、その後の中国国民党・中国共産党双方の政治形成へ影響を与えました。

1919年 三・一独立運動

同じ1919年、植民地下の朝鮮でも大規模な独立運動が起こりました。3月1日、民族代表が独立宣言を発表し、ソウルをはじめ各地で独立を求める万歳デモが広がりました。

韓国国史編纂委員会の三・一運動データベースには、全国各地で学生、宗教者、労働者、農民、商人などが参加した多数の示威行動が記録されています。

日本の植民地当局は警察・軍隊を動員して運動を鎮圧し、多数の死傷者・逮捕者が生じました。犠牲者数は資料によって異なるため、単一の数字だけで運動規模を判断する必要はありません。

大韓民国臨時政府

三・一運動後、上海など海外の独立運動家は大韓民国臨時政府を組織しました。共和国を名乗り、外交活動・独立運動を継続する拠点となりました。

臨時政府は国際的に正式承認された国家政府ではありませんでしたが、朝鮮独立運動に共和政という政治構想を与えた重要な組織でした。

パリ講和会議そのものが朝鮮独立を認めたわけではありません。しかし戦後の民族自決言説は、植民地支配に対して「なぜこの原則が自分たちには適用されないのか」と問う政治言語を提供しました。

アジアが「民族自決」を読み替える

ウィルソンが想定した民族自決の適用範囲と、アジアの活動家が受け取った意味は必ずしも同じではありませんでした。

朝鮮、中国、インド、エジプトなどでは、戦争中に連合国が掲げた自由・民主主義・民族の権利を植民地支配へも適用するよう要求する声が強まりました。

つまり「民族自決」は大国が上から世界へ与えた原則というより、各地域の運動が自分たちの要求へ転用し、意味を拡張した政治言語でもありました。

日本と南洋諸島委任統治

日本が第一次世界大戦中に占領した赤道以北の旧ドイツ領ミクロネシア諸島は、戦後、国際連盟のC式委任統治領として日本の管理下へ入りました。

外務省外交史料館には1920年の「赤道以北旧独逸領諸島委任統治」に関する記録が残されています。

日本は国際連盟で人種平等を主張した一方、連盟制度を通じて新たな太平洋支配地域を得ました。戦後国際主義と帝国拡張が同時に進んだ事例です。

サン=ジェルマン、ヌイイ、トリアノン

ドイツ以外の中央同盟国とも個別に講和条約が結ばれました。1919年9月のサン=ジェルマン条約はオーストリア、11月のヌイイ条約はブルガリア、1920年6月のトリアノン条約はハンガリーとの講和条件を定めました。

旧ハプスブルク帝国領はオーストリア、ハンガリー、チェコスロヴァキア、ポーランド、ルーマニア、セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国、イタリアなどへ分かれました。

帝国解体は「抑圧された民族すべてが自国へ戻った」単純な解放ではなく、国境変更によって新しい少数民族問題を作りました。

ハンガリーとトリアノン条約

トリアノン条約によってハンガリー王国は戦前領土・人口の大部分を失いました。トランシルヴァニアはルーマニア、スロヴァキアなどはチェコスロヴァキア、クロアチア・スラヴォニアなどは南スラヴ国家へ移りました。

その結果、多数のハンガリー語話者が新しいハンガリー国外へ残りました。

戦間期ハンガリー政治ではトリアノン修正が強い国家目標となり、戦後国境に対する不満がその後のヨーロッパ国際政治へ影響しました。

ポーランド・ソヴィエト戦争

再建されたポーランドとボリシェヴィキ政権は、旧ロシア帝国西部の国境をめぐって1919–21年に戦争を行いました。

1920年にはポーランド軍がキエフへ進み、その後赤軍が反攻してワルシャワ近郊へ迫りましたが、ポーランド軍が反撃しました。

1921年のリガ条約によって国境が定まり、現在のベラルーシ・ウクライナ西部の一部がポーランド領となりました。民族自決だけでなく、軍事力によって戦後東欧国境が形成された代表的な例です。

オスマン帝国の戦後処理

オスマン帝国は1918年10月にムドロス休戦協定を結びました。その後、連合国軍はコンスタンティノープルを含む重要地域へ進駐し、帝国領の処理を進めました。

アラブ地域はすでに委任統治へ向かい、アナトリア西部にはギリシャ軍が上陸しました。

イスタンブルのスルタン政府が連合国との講和を受け入れる一方、ムスタファ・ケマルを中心とするアンカラの民族運動は領土分割に反対し、別の政治権力を形成しました。

1920年 セーヴル条約

1920年8月に連合国とオスマン政府が署名したセーヴル条約は、オスマン帝国領の大規模な分割を想定しました。ギリシャ、アルメニア、クルド地域、海峡、アラブ地域などをめぐって帝国主権を大きく制限する内容でした。

しかしアンカラのトルコ大国民議会政府はこの条約を受け入れませんでした。

そのためセーヴル条約は「現在のトルコ国境を決めた最終講和」ではなく、トルコ独立戦争によって実施を阻止され、後にローザンヌ条約へ置き換えられる講和案となりました。

トルコ民族運動

ムスタファ・ケマルを中心とする民族運動はアンカラに大国民議会を設立し、イスタンブル政府とは別の政治権力を形成しました。

民族運動は東部でアルメニア勢力、西部ではギリシャ軍、南部ではフランス勢力などと戦いました。

この戦争を単純な「トルコ対西洋」と考えることはできません。ソヴィエト・ロシアはアンカラ政府を支援し、フランスやイタリアは途中から政策を修正しました。連合国側も統一してセーヴル体制を軍事的に維持できませんでした。

希土戦争

ギリシャ軍は1919年にイズミルへ上陸し、アナトリア内陸へ進出しました。しかし1921–22年にトルコ民族軍が反攻し、1922年9月にはイズミルを奪回しました。

戦争中、ギリシャ系・トルコ系・アルメニア系住民など民間人が殺害、追放、難民化に直面しました。1922年のイズミル大火も大量の避難民を生みました。

帝国崩壊後に「民族的に均質な国家」を作ろうとする戦争は、住民混在地域で大規模な強制移動を伴いました。

1923年 ローザンヌ条約

トルコ民族運動の軍事的勝利を受け、連合国は講和条件を再交渉しました。1923年7月24日、ローザンヌ条約が締結されました。

アメリカ国務省史料は、ローザンヌ会議がセーヴル条約に続く「東方の戦争」を終結させ、連合国がトルコ側と新たな平和条約を結んだことを記録しています。

ローザンヌ条約は現在のトルコ共和国につながる国際的な領土・主権枠組みを確立し、オスマン帝国期の治外法権制度であるカピチュレーションの廃止も認めました。

ギリシャ・トルコ住民交換

ローザンヌ体制にはギリシャとトルコの住民交換も含まれました。宗教を主な基準として、トルコのギリシャ正教徒とギリシャのイスラム教徒が強制的に移動させられました。ただしイスタンブルのギリシャ人など一部は対象外とされました。

住民交換は国境紛争を減らす解決策として国際的に承認されましたが、実際には故郷、財産、地域社会を失う大規模な強制移動でした。

戦後の民族国家形成が、少数民族を保護する制度と同時に、人々を国境の「適切な側」へ移動させる政策も生み出したことを示します。

1921–1922年 ワシントン会議

第一次世界大戦後、アメリカ、イギリス、日本の海軍建艦競争と東アジアの緊張が新たな問題となりました。1921年11月から1922年2月、アメリカ政府はワシントンで国際会議を開催しました。

アメリカ国務省歴史局によれば、会議には主要海軍国のアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアに加え、中国、ベルギー、オランダ、ポルトガルなどが参加し、海軍軍縮と太平洋・中国問題を協議しました。

ヴェルサイユ条約を批准しなかったアメリカが、国際秩序から撤退するのではなく、自国主導の別の多国間制度を作ったことが分かります。

五カ国条約と海軍軍縮

アメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアは主力艦保有を制限する五カ国海軍軍縮条約を結びました。主力艦トン数比率は概ねアメリカ5、イギリス5、日本3、フランス1.75、イタリア1.75とされました。

建造中の一部主力艦は廃棄され、新造も制限されました。また太平洋の特定基地・要塞拡張を制限する条項も置かれました。

これは世界初の本格的な多国間海軍軍備制限の一つであり、戦後軍縮外交の象徴となりました。

四カ国条約と日英同盟の終了

アメリカ、イギリス、日本、フランスは太平洋の島嶼領土・属地をめぐる問題が生じた場合に協議する四カ国条約を結びました。

この条約が発効することで、1902年以来続いてきた日英同盟は終了しました。

日本にとってこれはイギリスとの二国間軍事同盟から、多国間協議を中心とする太平洋秩序への移行でした。

九カ国条約と中国

ワシントン会議では九カ国条約も結ばれ、中国の主権・領土的一体性と各国の商業機会均等を尊重する原則が確認されました。

アメリカ国務省は、これをそれまで非公式に唱えてきた門戸開放政策を条約制度へ組み込んだものと説明しています。

しかし中国における外国の租界、治外法権、租借地などが直ちにすべて廃止されたわけではありません。九カ国条約は帝国的権益を一挙に終わらせる制度ではなく、列強競争を一定のルールへ収める試みでした。

山東問題の返還交渉

ワシントン会議と並行して、日本と中国は山東問題について直接交渉を行いました。1922年の協定によって、膠州湾旧ドイツ租借地は中国へ返還され、山東鉄道などについても処理が決まりました。

外務省外交史料館のワシントン会議記録には、「山東ニ関スル日中直接交渉」が独立した交渉項目として残されています。

1919年のパリ講和で解決できず五・四運動を引き起こした問題は、三年後に別の国際会議の枠内で再調整されました。

戦後秩序は誰のための秩序だったのか

1919年以後の国際秩序には、明らかに新しい要素がありました。国際連盟という常設機構、国際的な少数民族保護、委任統治の監督、労働・保健・難民分野の協力、海軍軍縮条約などです。

一方で、その秩序は戦勝国の権力を強く反映していました。敗戦国は講和条件の形成に限定的にしか参加できず、植民地住民は民族自決を平等に適用されませんでした。国際連盟の委任統治は植民地を「国際的責任」の対象にしましたが、実際の支配権は帝国国家が持ち続けました。

アメリカは国際連盟に参加せず、日本は人種平等を要求しながら朝鮮・台湾を植民地支配し、中国で権益を求めました。イギリスとフランスは民族自決を掲げながら中東の委任統治を獲得しました。ソヴィエト政権は帝国主義批判を掲げながら旧ロシア帝国地域の一部を軍事的に再統合しました。

したがって「ヴェルサイユ体制」は理想が失敗しただけの秩序でも、単なる戦勝国による報復制度でもありません。国際協力の新制度、民族国家化、植民地主義、革命国家、帝国的勢力均衡が矛盾したまま共存する20世紀型国際秩序の出発点でした。

1917–1923年に何が変わったのか

1917年、ロシア帝国は革命によって崩壊しました。ボリシェヴィキ政権は戦争から離脱し、その後の内戦で多数の反対勢力と戦いました。外国軍も介入し、日本は1918年から1922年までシベリア駐兵を続けました。内戦に勝利したボリシェヴィキは1921年にNEPへ転換し、1922年にはソヴィエト社会主義共和国連邦を成立させました。

西ヨーロッパでは1919年パリ講和会議が開かれ、ヴェルサイユ条約と国際連盟が戦後秩序の中心として作られました。旧ドイツ・オーストリア=ハンガリー・ロシア帝国の領域から多くの国家が成立しましたが、国境内部には新しい少数民族が生まれました。ドイツへの賠償総額は条約署名時ではなく1921年に1320億金マルクと決められ、賠償問題はその後のヨーロッパ経済と政治を不安定化させます。

民族自決はヨーロッパだけに閉じ込められませんでした。1919年、朝鮮で三・一独立運動、中国で五・四運動が起こりました。日本は国際連盟規約への人種平等原則を提案しましたが採用されず、一方で山東の旧ドイツ権益と南洋諸島委任統治を求めました。戦後秩序の「平等」は、大国間・植民地・人種・民族によって異なる意味を持ちました。

中東では旧オスマン領の多くが委任統治となりましたが、アナトリアではムスタファ・ケマルを中心とするトルコ民族運動がセーヴル条約を拒否して戦争を続けました。1923年のローザンヌ条約はセーヴル体制を置き換え、トルコの主権を新たに認めました。

そして太平洋では1921–22年ワシントン会議が海軍軍縮、日英同盟終了、中国の門戸開放・領土保全という新しい秩序を作りました。つまり1923年までの戦後世界は、ヴェルサイユ一つで完成したのではなく、革命、地域戦争、国際連盟、ワシントン体制、ローザンヌ体制が重なりながら形成されたのです。

1917–1923年の主な出来事

  • 1917年3月 — ロシア二月革命。ニコライ2世が退位。
  • 1917年11月 — ロシア十月革命。ボリシェヴィキ政権成立。
  • 1917年12月 — チェーカー設置。
  • 1918年1月8日 — ウィルソン米大統領が十四か条を発表。
  • 1918年3月3日 — ブレスト=リトフスク条約。
  • 1918年 — ロシア内戦が本格化。
  • 1918年8月2日 — 日本がシベリア出兵を宣言。
  • 1918年11月11日 — 第一次世界大戦休戦。
  • 1918–1919年 — ポーランド、チェコスロヴァキア、バルト諸国など新国家・独立国家の形成が進む。
  • 1919年1月 — パリ講和会議開始。
  • 1919年3月1日 — 朝鮮で三・一独立運動開始。
  • 1919年4月11日 — 国際連盟委員会で日本の人種平等提案。11対5となるが採択されず。
  • 1919年5月4日 — 北京で五・四運動開始。
  • 1919年6月28日 — ヴェルサイユ条約調印。中国代表団は署名せず。
  • 1919年 — 大韓民国臨時政府が上海で活動を開始。
  • 1919年9月10日 — オーストリアとのサン=ジェルマン条約。
  • 1919年11月 — ブルガリアとのヌイイ条約。
  • 1919–1921年 — ポーランド・ソヴィエト戦争。
  • 1920年1月10日 — ヴェルサイユ条約発効。国際連盟成立。
  • 1920年6月4日 — ハンガリーとのトリアノン条約。
  • 1920年8月 — オスマン政府がセーヴル条約に署名。
  • 1920–1921年 — ロシア・ウクライナなどで大規模飢饉が深刻化。
  • 1921年3月 — クロンシュタット反乱。ボリシェヴィキ政権がNEPへ転換。
  • 1921年4月 — ドイツ賠償総額が1320億金マルクに決定。
  • 1921年11月 — ワシントン会議開始。
  • 1922年2月6日 — 五カ国・九カ国条約などワシントン会議諸条約調印。
  • 1922年 — 山東問題の日中協定により旧ドイツ租借地返還へ。
  • 1922年10月 — 日本軍がシベリアから撤兵。
  • 1922年12月 — ソヴィエト社会主義共和国連邦成立。
  • 1923年 — ドイツでルール占領とハイパーインフレーションが深刻化。
  • 1923年7月24日 — ローザンヌ条約調印。
  • 1923年10月 — トルコ共和国成立。

次の時代へ — ファシズム、世界恐慌、民主主義の危機

1923年までに戦後国際秩序の基本構造は形を取りました。しかし、その安定は限定的でした。ドイツでは賠償とルール占領を背景に1923年のハイパーインフレーションが社会を揺さぶり、イタリアではすでに1922年にムッソリーニが政権へ入り、ファシズムが国家権力を獲得し始めていました。

ソ連ではレーニンの健康悪化と死を前に党内権力闘争が進み、革命国家は新しい体制の制度化へ向かいます。アメリカでは大量生産と金融市場が拡大し、日本でも都市化、大衆消費、普通選挙運動、社会運動が広がる一方、帝国支配は継続しました。

そして1929年の世界恐慌が国際金融・貿易を崩壊させると、ヴェルサイユ=ワシントン体制を支えていた政治的妥協も急速に不安定化します。

次の記事では、1922–1933|ファシズムと世界恐慌 — ムッソリーニ、1929年恐慌、ナチ党台頭として、戦後民主主義の危機と権威主義の拡大を追います。

参考資料・出典

本ページは、アメリカ国務省歴史局のパリ講和会議・ヴェルサイユ条約史料、アメリカ上院歴史局、国際連合が公開する旧国際連盟資料、アメリカ議会図書館のロシア・アーカイブ、国立公文書館、外務省外交史料館、国立国会図書館、韓国国史編纂委員会、イギリス国立公文書館などを参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。民族自決については世界の植民地に自動適用された普遍的独立原則として扱わず、パリ講和会議の実際の決定との距離を明記しています。ヴェルサイユ賠償については1320億金マルクが1919年条約本文で確定したのではなく1921年に賠償委員会が決定した点を区別しています。ロシア革命・内戦についてはボリシェヴィキ、白軍、民族運動、外国介入を単純な二陣営へ還元せず、日本のシベリア出兵も戦後まで継続した政策として扱っています。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY