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World History

1924–1929

戦間期の安定と大衆社会

ドーズ案、ロカルノ、消費文化、ファシズム

1924年から1929年までの時代は、しばしば第一次世界大戦後の「安定期」あるいはアメリカの「狂騒の20年代」として語られます。1923年のドイツ・ハイパーインフレーションとルール占領の危機が収束に向かい、1924年のドーズ案によって賠償支払いの仕組みが再編されました。1925年にはロカルノ条約が成立し、翌年ドイツが国際連盟へ加盟します。1928年には多国間の不戦条約が結ばれ、戦争を国家政策の手段として放棄するという国際的原則まで掲げられました。

しかし、この「安定」は第一次世界大戦以前の秩序へ戻ったことを意味しません。ドイツ経済の回復はアメリカからの資本流入に大きく依存し、ヨーロッパの戦争債務と賠償は国際金融を複雑に結びつけていました。農業地域や旧帝国周辺部では不況が続き、国際連盟にもアメリカとソ連はまだ参加していませんでした。西ヨーロッパで国境保障が進む一方、東ヨーロッパの国境問題は同じ強さでは保証されませんでした。

政治も一方向に「民主化」していたわけではありません。ドイツのヴァイマル共和国では議会政治が一時的に安定した一方、イタリアではムッソリーニが1925–26年に自由主義国家の制度を解体し、ファシスト独裁を構築しました。ソ連では1924年のレーニン死後に権力闘争が進み、1928年から第一次五カ年計画による急速な工業化へ転換します。

東アジアでも変化は大きく、中国では1926年に国民革命軍の北伐が始まり、1928年には南京国民政府が北京方面まで政治的勢力を広げました。日本では1925年に男子普通選挙が成立する一方、同じ年に治安維持法が制定され、1928年には最初の男子普通選挙が実施されます。政治参加の拡大と政治的取り締まりが同時に進んでいました。

そして社会生活を最も目に見える形で変えたのが、大量生産と大衆消費でした。アメリカでは自動車、ラジオ、家庭電化製品、チェーンストア、広告、割賦販売が生活空間を変え、映画と音楽は国境を越えて流通しました。ニューヨークではハーレム・ルネサンスが黒人の文学・音楽・美術・自己表象を新しい文化運動へ変えました。1920年代は単なる「好景気」ではなく、政治、消費、メディア、都市生活のあり方そのものが再編された時代でした。

1929年10月、ニューヨーク株式市場が急落します。しかし株価暴落だけを世界恐慌の唯一の原因とすることはできません。アメリカ経済にはすでに1929年夏から減速が見られ、国際金融、農業不況、信用構造、金本位制など複数の脆弱性が存在していました。1924–1929年の「安定」は、その内部に次の巨大な危機を抱えていたのです。

CONTENTS

  1. 「安定の時代」はどのように作られたのか
  2. 1924年 ドーズ案
  3. アメリカ資本とヨーロッパ復興
  4. 賠償・戦債・融資の循環
  5. ドイツ経済の安定
  6. シュトレーゼマン外交
  7. 1925年 ロカルノ条約
  8. 西の国境と東の国境
  9. 1926年 ドイツの国際連盟加盟
  10. 「ロカルノ精神」
  11. 1928年 不戦条約
  12. 戦争を「違法化」すれば戦争はなくなるのか
  13. アメリカの1920年代繁栄
  14. 大量生産とフォーディズム
  15. 自動車が都市と生活を変える
  16. 割賦販売と消費者信用
  17. 広告が需要を作る
  18. ラジオという同時代メディア
  19. 映画と大衆文化
  20. ジャズ・エイジ
  21. ハーレム・ルネサンス
  22. 大移動と黒人都市文化
  23. 繁栄は均等ではなかった
  24. 農業不況
  25. ヴァイマル共和国の相対的安定
  26. ベルリンの大衆文化と実験
  27. イタリア — 連立政権から独裁へ
  28. マッテオッティ危機
  29. 1925–1926年 ファシスト独裁の制度化
  30. コーポラティズムと労働統制
  31. 1929年 ラテラノ条約
  32. ソ連 — レーニン死後
  33. NEPの社会
  34. スターリンの権力拡大
  35. 1928年 第一次五カ年計画
  36. 農業集団化への転換
  37. 中国 — 軍閥政治から国民革命へ
  38. 1926–1928年 北伐
  39. 1927年 革命陣営の分裂
  40. 南京国民政府
  41. 日本 — 政党政治の拡大
  42. 1925年 男子普通選挙
  43. 同じ年の治安維持法
  44. 1928年 最初の男子普通選挙
  45. 無産政党の議会進出
  46. 1927年 昭和金融恐慌
  47. 日本と中国東北部
  48. 1928年 張作霖爆殺事件
  49. 国際金本位制の復元
  50. 安定を支えた国際金融の脆さ
  51. ニューヨーク株式市場の熱狂
  52. 1929年10月 株価暴落
  53. 株価暴落=世界恐慌ではない
  54. 1924–1929年に何が変わったのか
  55. 1924–1929年の主な出来事
  56. 次の時代へ — 世界恐慌
  57. 参考資料・出典

「安定の時代」はどのように作られたのか

1923年のヨーロッパは、安定とはほど遠い状態にありました。ドイツではハイパーインフレーションが進み、フランス・ベルギー軍がルール地方を占領し、ドイツ政府は「消極的抵抗」を支援していました。賠償支払いと戦争債務をめぐる対立は、第一次世界大戦後の経済秩序そのものを不安定にしていました。

1924年以後の相対的安定は、こうした問題が消えたからではなく、支払い方法と国際金融を再設計した結果でした。その中心にあったのがドーズ案です。

同じ時期、フランスとドイツも軍事的対立から外交的調整へ移りました。1925年のロカルノ条約は西ヨーロッパの国境保障を制度化し、1926年のドイツ国際連盟加盟へつながります。経済と安全保障を同時に調整することで、戦後ヨーロッパは一時的な安定を得ました。

1924年 ドーズ案

1923年末、ドイツ賠償をめぐる行き詰まりを解くため、賠償委員会はアメリカ人銀行家チャールズ・G・ドーズを長とする専門家委員会を設置しました。委員会は1924年4月に案を提出しました。

アメリカ国務省歴史局によれば、ドーズ案はドイツの年間賠償支払額を当初軽くし、経済回復に合わせて段階的に増やす仕組みを作りました。ただし最終的な賠償総額そのものは確定しませんでした。

さらに通貨・財政制度を安定させ、フランス・ベルギー軍がルールから撤退する方向を作り、外国銀行がドイツ政府へ約2億ドルの融資を行うことになりました。アメリカのJ・P・モルガンが中心となって債券を市場へ売り出し、資金は急速に集まりました。

アメリカ資本とヨーロッパ復興

第一次世界大戦前、ヨーロッパは世界の主要な資本輸出地域でした。しかし戦争によってアメリカは巨大な債権国となり、1920年代の国際金融でニューヨークの役割が大きくなりました。

ドーズ案以後、アメリカの銀行・投資家からドイツへ大量の資金が流入しました。ドイツ政府や地方自治体、企業は借款によって設備投資や財政再建を進めることができました。

この資金はドイツ国内だけに留まりません。ドイツが賠償をフランスやイギリスなどへ払い、それらの国々が第一次世界大戦中にアメリカから借りた戦債を返済するという国際的な資金循環が形成されました。

賠償・戦債・融資の循環

1920年代後半の国際金融は、アメリカからドイツへの民間融資、ドイツから連合国への賠償、連合国からアメリカ政府への戦債返済という循環に強く依存していました。

これは一見すると複雑な債務問題を機能させる仕組みでした。しかし新しいアメリカ資本が流入し続けることが前提となっていた点で脆弱でした。

1929年以後、アメリカの資金供給が急速に縮小すると、この国際決済構造自体が大きな圧力を受けます。1924年の安定策は危機を解決したというより、時間を買った側面もありました。

ドイツ経済の安定

ハイパーインフレーション終息後、レンテンマルク、続いてライヒスマルクによって通貨が安定し、ドーズ案と外国融資によってドイツ経済は回復しました。

工業生産が回復し、都市建設、住宅、交通インフラなどへの投資も進みました。失業や財政問題が消えたわけではありませんが、1923年の国家的危機と比較すればヴァイマル共和国は安定した時期へ入りました。

この時代はしばしば「黄金の20年代」と呼ばれます。ただしその黄金期は1924年頃から1929年までの比較的短い期間でした。

シュトレーゼマン外交

ドイツ外相グスタフ・シュトレーゼマンは、ヴェルサイユ体制を軍事的に破壊するのではなく、国際協調を利用しながらドイツの地位を回復する外交を進めました。

賠償条件の緩和、フランスとの関係改善、国際連盟加盟、占領地域からの外国軍撤退などを段階的に実現しようとしました。

一方、シュトレーゼマンがヴェルサイユ条約のすべてを恒久的に受け入れたわけではありません。とくに東部国境の修正可能性を残そうとしました。協調外交と国家的修正要求は両立していました。

1925年 ロカルノ条約

1925年10月、ドイツ、フランス、ベルギー、イギリス、イタリアなどの代表はスイスのロカルノで一連の条約をまとめました。

中心となるラインラント保障条約では、ドイツ・フランス・ベルギーの既存国境とラインラント非武装化を尊重し、ドイツとフランス・ベルギーが相互に攻撃しないことを約束しました。イギリスとイタリアは保障国となりました。

条約は1926年、ドイツの国際連盟加盟とともに発効しました。第一次世界大戦後の旧敵国が安全保障の枠組みを再構築した点で大きな意味を持ちました。

西の国境と東の国境

ロカルノ条約で重要なのは、ドイツのすべての国境が同じ形で保証されたわけではないことです。フランス・ベルギーとの西部国境は相互保障の対象になりましたが、ポーランド・チェコスロヴァキアとの東部国境には同じ形式の恒久保証が置かれませんでした。

ドイツはポーランド、チェコスロヴァキアとは仲裁条約を結び、フランスは両国との援助条約を締結しました。

したがって「ロカルノによってヴェルサイユ後の全ヨーロッパ国境が完全に確定した」という理解は正確ではありません。西欧の安定が進む一方、東欧では国境修正をめぐる余地と不安が残りました。

1926年 ドイツの国際連盟加盟

1926年9月8日、ドイツは国際連盟へ加盟しました。ロカルノ保障条約もドイツ加盟を発効条件の一つとしていました。

第一次世界大戦の敗戦国ドイツが、国際秩序から排除され続けるのではなく、常任理事国として国際連盟へ参加したことは戦後外交の大きな変化でした。

フランスのアリスティード・ブリアンとドイツのシュトレーゼマンは和解外交の象徴となり、1926年には両者がノーベル平和賞を受賞しました。

「ロカルノ精神」

1925–26年以後、欧州外交には「ロカルノ精神」と呼ばれる楽観的な言葉が広がりました。戦争ではなく交渉によって国境・安全保障問題を処理できるという期待です。

外国軍によるドイツ占領地域の縮小も進み、ドイツは国際協調の場へ戻りました。

しかしこの空気を「第一次世界大戦の対立が完全に解消した」と理解すべきではありません。フランスの対独安全保障不安、ドイツの東部国境修正要求、賠償、軍備制限は残り、政治的安定は経済環境にも大きく依存していました。

1928年 不戦条約

1928年8月27日、パリでアメリカ、フランス、イギリス、ドイツ、イタリア、日本など15カ国が「戦争抛棄に関する条約」、一般にパリ不戦条約またはケロッグ=ブリアン条約と呼ばれる条約へ署名しました。その後、多数の国が加入しました。

条約は国際紛争解決のため戦争に訴えることを非難し、国家政策の手段として戦争を放棄することを約束しました。

アメリカ国務省史料に残るケロッグの提案では、当初の仏米二国間構想を主要国による多国間条約へ拡大し、最終的にはあらゆる国の参加を可能にすることが目標とされていました。

戦争を「違法化」すれば戦争はなくなるのか

不戦条約は、戦争そのものを正当な外交政策手段として扱ってきた国際秩序に大きな規範的変化を加えました。

一方、条約には違反国へ自動的に軍事・経済制裁を科す強力な執行機構はありませんでした。また自衛権の扱いなど、実際の危機で何が条約違反になるかには解釈の余地が残りました。

そのため1930年代の侵略戦争を止めることはできませんでした。しかし第二次世界大戦後の国際法で侵略戦争を犯罪化していく思想的・法的流れの一つとして重要でした。「失敗したから意味がなかった」とも、「条約があれば平和が保証された」とも言えない制度でした。

アメリカの1920年代繁栄

1920年代のアメリカでは工業生産と消費市場が拡大しました。大量生産、電化、自動車、ラジオ、広告、消費者信用が互いに結びつき、日常生活のリズムを変えました。

Library of Congressは、1920年代末までに自動車、ラジオ、掃除機、洗濯機などの耐久消費財が広く普及し、チェーンストアや通信販売が拡大したことを「Coolidge Era」の消費経済の特徴として紹介しています。

この繁栄はアメリカの国内現象に留まりません。アメリカの資本、映画、音楽、広告、商品は世界経済と大衆文化に大きな影響を与えました。

大量生産とフォーディズム

大量生産の象徴となったのが自動車産業です。フォード社が1910年代に発展させた流れ作業方式は、作業を細かく分解し、標準化された製品を大量に低コストで作る方法を広めました。

1920年代には自動車だけでなく、家電、食品、衣料など多くの商品で規格化・大量流通が進みました。

「フォーディズム」という言葉は工場技術だけでなく、高い生産性、大量生産、大量消費を結びつける社会モデルとして後に広く使われるようになります。

自動車が都市と生活を変える

Library of Congressの資料によれば、1925年のアメリカでは約6人に1台の割合で自動車が存在し、1930年には約4.6人に1台まで普及しました。

自動車は通勤、買い物、旅行、余暇、若者の交際など生活圏を拡大しました。道路建設、ガソリンスタンド、モーテル、郊外開発、駐車場といった新しい都市・商業空間も生まれました。

交通の自由が増す一方、事故、渋滞、都市構造の自動車依存など新しい問題も発生しました。一つの消費財が都市の設計そのものを変え始めた時代でした。

割賦販売と消費者信用

自動車や家電の価格は、多くの家庭にとって現金一括で簡単に買えるものではありませんでした。そこで頭金を払い、残額を分割して支払う割賦販売が拡大しました。

Library of Congressの消費経済資料は、1920年代の耐久消費財普及を支えた重要な要素として消費者信用を挙げています。

「まず貯蓄し、その後購入する」だけでなく、「将来所得を前提に現在消費する」という生活様式が広がりました。これは市場を拡大しましたが、家計を信用循環へより深く組み込むことにもなりました。

広告が需要を作る

大量生産された商品を売り続けるため、企業は広告とマーケティングを拡大しました。新聞・雑誌の広告だけでなく、ラジオ番組のスポンサー、パレード、店頭ディスプレイ、広報活動などが利用されました。

Library of Congressは、1920年代に百貨店、チェーンストア、広告会社、広報専門家が消費文化形成へ大きく関与したことを記録しています。

広告は単に商品の存在を知らせるだけではなく、便利さ、近代性、美しさ、成功、家庭生活と商品を結びつけるイメージを作るようになりました。

ラジオという同時代メディア

1920年代に急成長したラジオは、それまでの新聞とは異なり、離れた場所の人々が同じ時間に同じ音声を聞くメディアでした。

ニュース、音楽、スポーツ、演説、娯楽番組、広告が家庭へ直接届きました。Library of Congressによれば、1920年代末にはアメリカ家庭の約40%がラジオを所有していたと推定されています。

ラジオは全国的な大衆文化を作る一方、企業広告と政治宣伝の新しい基盤にもなりました。20世紀の政治が「声」を大量の人々へ直接届ける時代へ入り始めます。

映画と大衆文化

映画産業も1920年代に巨大な大衆娯楽となりました。ハリウッド映画はアメリカ国内だけでなく世界各地へ輸出され、スター、ファッション、都市生活のイメージを国際的に流通させました。

1927年の《ジャズ・シンガー》は同期した台詞・歌を持つ長編映画の普及を象徴し、1920年代末には映画産業が無声映画からトーキーへ急速に移行しました。

映画館は単なる作品鑑賞の場所ではなく、大都市でも地方都市でも多数の観客が共有する新しい公共的娯楽空間になりました。

ジャズ・エイジ

第一次世界大戦後、ジャズはニューオーリンズ、シカゴ、ニューヨークなどを結ぶ音楽文化として広がり、レコードとラジオによって国際的にも流通しました。

「ジャズ・エイジ」という呼び名は1920年代アメリカの都市文化全体を指す言葉としても使われました。ダンスホール、ナイトクラブ、若者文化、禁酒法下の違法酒場などと結びつきます。

一方、ジャズの商業的成功の背後には人種差別と文化の商品化もありました。黒人音楽家が新しい音楽を作りながら、出演場所や報酬、録音産業では人種的な制約を受ける社会でした。

ハーレム・ルネサンス

1920年代のニューヨーク、ハーレムではアフリカ系アメリカ人の文学、音楽、美術、写真、舞台芸術が大きく発展しました。Library of Congressはこの時代を「New Negro Movement」とも呼ばれた文化的革新期として紹介しています。

ラングストン・ヒューズ、ゾラ・ニール・ハーストン、クロード・マッケイ、ネラ・ラーセンなどの作家が黒人の日常、都市経験、アイデンティティを新しい言葉で表現しました。

Smithsonian National Museum of African American History and Cultureは、ハーレム・ルネサンスが差別的な黒人表象に対抗し、黒人自身による文化的自己表象と政治意識を強めたことを重視しています。

大移動と黒人都市文化

ハーレム・ルネサンスの背景には、第一次世界大戦期から続くアフリカ系アメリカ人の「大移動」がありました。南部の人種隔離と暴力から離れ、北部・中西部の工業都市で仕事と生活機会を求める人々が増えました。

ニューヨークのハーレムはその代表的集住地となり、新聞社、出版社、クラブ、宗教組織、政治団体、芸術家ネットワークが形成されました。

北部へ移動すれば人種差別がなくなるわけではありませんでした。住宅差別、雇用差別、人種暴動も存在しました。その中で都市黒人文化が自らの社会・文化的空間を作ったことが重要です。

繁栄は均等ではなかった

1920年代アメリカの繁栄を「全国民が豊かになった時代」と捉えることはできません。工業都市や中間層で消費が拡大する一方、農村部、鉱業地域、低賃金労働者、人種的少数者などには大きな格差が残りました。

家電や自動車が広がっても、すべての家庭が同じ条件で利用できたわけではありません。信用を使って消費を拡大することは、所得が不安定になれば家計負担にもなります。

株価上昇と消費文化の華やかさだけを見ると、繁栄の社会的偏りを見失います。

農業不況

第一次世界大戦中、ヨーロッパの生産減少を背景にアメリカ農業は増産しました。農家は土地・機械への投資を拡大し、借金も増えました。

戦争終結後にヨーロッパ農業が回復すると、農産物価格は下落し、アメリカ農村は工業部門ほど1920年代繁栄の恩恵を受けませんでした。

世界的にも一次産品輸出に依存する地域では価格下落が大きな問題でした。1929年以前から国際経済には部門間・地域間の不均衡が存在していました。

ヴァイマル共和国の相対的安定

1924年以後のドイツでは、1920–23年のクーデタ、政治暗殺、ハイパーインフレーションほどの危機は一時的に後退しました。

政党間対立は残りましたが、議会政治が機能し、外交的地位も回復しました。外国資本による投資、都市行政、社会政策も進みました。

しかし共和国への支持が社会全体で定着したわけではありません。共産党と国家主義・極右勢力は存在し続け、1929年以後の経済危機で政治的分極化が再び急速に拡大することになります。

ベルリンの大衆文化と実験

ヴァイマル期のベルリンは、演劇、映画、キャバレー、建築、写真、グラフィックデザイン、新聞文化などで国際的な文化都市となりました。

第一次世界大戦後の社会変化、女性の社会進出、都市人口、広告、大量印刷、映画産業が文化表現の条件を変えました。

一方、性的自由、都市文化、前衛芸術を「退廃」とみなす保守・民族主義的反発も存在しました。1920年代文化の開放性と、それに対する反動は後のナチズムの文化政策を理解する背景にもなります。

イタリア — 連立政権から独裁へ

ムッソリーニは1922年に首相となりましたが、最初から完成した一党独裁国家を持っていたわけではありません。政権初期には自由主義者、ナショナリスト、カトリック系政治家なども含む連立的な構造が残っていました。

Treccaniは1922–24年を、既存国家制度とファシスト運動を結びつけながら権力を拡大した段階として説明しています。ファシスト大評議会、国家義勇軍、1923年のアチェルボ法などによって政権基盤が強化されました。

転換点となったのが1924年のマッテオッティ事件とその後の政治危機でした。

マッテオッティ危機

1924年6月、社会主義者ジャコモ・マッテオッティはファシストによる選挙暴力を議会で批判した後、誘拐・殺害されました。事件への憤激から野党議員の多くは議会を離れる「アヴェンティーノ離脱」を行いました。

事件はムッソリーニ政権を深刻な危機に陥れましたが、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はムッソリーニを解任せず、反対派も統一した政権転覆手段を作れませんでした。

1925年1月3日の議会演説を境に、ムッソリーニは自由主義的制度との妥協を縮小し、独裁体制構築へ進みます。

1925–1926年 ファシスト独裁の制度化

Treccaniによれば、1925–26年に成立した一連の法律は、イタリア自由主義国家の基本構造を大きく変えました。

政府首班の権限が強化され、議会の統制力が縮小され、出版・結社の自由が制限されました。1926年には反ファシスト政党が解散させられ、特別裁判所や政治警察を通じた反対派弾圧が制度化されました。

独裁は1922年10月のローマ進軍一日で完成したのではなく、既存の王政・官僚制を残しながら数年かけて制度を変えることで成立しました。

コーポラティズムと労働統制

ファシズムは自由主義的議会政治と社会主義的階級闘争の双方を否定し、国家の下で労働者と経営者を職能別に組織する「コーポラティズム」を掲げました。

1927年の労働憲章はこの構想を示す重要文書となり、独立した労働組合やストライキの自由は抑えられました。

しかし企業と労働者が対等に国家へ統合されたわけではありません。体制は労働運動を統制し、国家・党・経営者の力を強くする仕組みとして機能しました。

1929年 ラテラノ条約

1929年2月11日、ムッソリーニ政府とローマ教皇庁はラテラノ条約・政教協約などを締結しました。

これによって1870年のローマ併合以来続いてきた「ローマ問題」が解決され、バチカン市国の主権が認められました。カトリック教会とファシスト国家の関係も制度的に調整されました。

Treccaniは、この和解がファシスト政権の国内的安定と正統性強化に寄与した重要な要素として位置づけています。

ソ連 — レーニン死後

1924年1月にレーニンが死去すると、ソ連共産党指導部では後継権力をめぐる競争が本格化しました。

スターリン、トロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフ、ブハーリンなどの指導者が党内政策と同盟関係を変化させながら争いました。

スターリンは党書記長として人事・組織を掌握する立場を利用し、段階的に競争相手を政治的に孤立させました。「レーニン死去の瞬間にスターリン独裁が完成した」のではなく、数年にわたる党内闘争を経た過程でした。

NEPの社会

1920年代半ばのソ連では新経済政策、NEPが続いていました。重工業や金融など国家が主要部門を保持しながら、小規模商業や農民市場を一定範囲で認める混合的経済制度でした。

内戦期の経済崩壊から生産を回復させる効果があり、都市には私営商人や小規模企業家も存在しました。

しかし党内では、農民市場と民間商業をどこまで許すか、工業化をどの速度で進めるかをめぐって対立が続きました。

スターリンの権力拡大

1920年代後半までにスターリンはトロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフら左派反対派を党指導部から排除しました。1927年にはトロツキーらが党から除名され、トロツキーは後に国外追放となります。

その後、スターリンはNEP継続を重視していたブハーリンら右派との対立へ移り、急速な工業化と農業集団化を採用しました。

党内権力闘争と経済政策の転換が同時に進んだことが、1920年代末のソ連を理解する重要な点です。

1928年 第一次五カ年計画

Library of Congressの旧ソ連公文書展は、1928年に採用された第一次五カ年計画が、重工業を中心とする急速な工業化を目標としたことを示しています。

国家計画によって鉄鋼、石炭、機械、電力などの生産目標が設定され、新しい工業都市や巨大工場建設が進められました。

これはNEP期の市場要素を縮小し、経済をより強い国家計画下へ移す転換でした。ソ連指導部は欧米工業国との差を短期間で縮めることを安全保障と社会主義建設の双方に不可欠と考えました。

農業集団化への転換

急速な工業化には都市・工業労働者への食料供給と輸出用穀物が必要でした。1927–28年の穀物調達危機の中で、スターリン指導部は農民市場への依存を問題視するようになります。

1929年から農業集団化が急速に進められ、個々の農家をコルホーズなどの集団農場へ統合する政策が拡大します。

本格的な強制集団化とその巨大な人的被害は1930年代初頭に展開するため、ここでは「1920年代安定期の末に始まった大転換」として位置づける必要があります。

中国 — 軍閥政治から国民革命へ

1920年代半ばの中国では、北京政府と地方軍閥が複雑な軍事・政治関係を形成し、国家の統一は不完全でした。

孫文の中国国民党は広州を拠点にソ連の支援を受け、中国共産党との第一次国共合作を進めました。1925年に孫文が死去した後、国民党内部では指導権をめぐる競争が起こります。

その中で軍事力を掌握した蔣介石が国民革命軍を率い、1926年に北伐を開始しました。

1926–1928年 北伐

北伐の目的は軍閥勢力を打倒し、中国を国民政府のもとで政治的に統一することでした。国民革命軍は華南から長江流域へ急速に勢力を広げました。

武漢、南京、上海など主要都市が北伐の政治的・軍事的争点となり、労働運動と農民運動も国民革命の拡大と結びつきました。

アメリカ外交史料によれば、1928年6月までに北伐は北京方面への進出をほぼ完了し、奉天軍閥の張作霖は満洲へ撤退しました。

1927年 革命陣営の分裂

北伐の進展とともに、中国国民党と中国共産党の協力関係は崩れていきました。労働運動・農民運動の急進化、軍・商工業者・地主層との関係、国民党内部の権力争いが対立を深めました。

1927年、上海で共産党員・労働運動関係者が大規模に弾圧され、国共合作は崩壊しました。その後、中国共産党は都市蜂起の失敗を経験しながら農村部へ活動基盤を移していきます。

「国民革命による統一」は同時に、中国の長い国共内戦の始まりでもありました。

南京国民政府

蔣介石を中心とする南京国民政府は1928年までに中国の主要地域を名目的に統合しました。北京は北平と改称され、首都は南京に置かれました。

しかし地方軍閥が完全に消滅したわけではなく、中央政府の支配力は地域によって大きく異なりました。満洲では張学良が南京政府への帰属を表明しましたが、独自の軍事・政治力を維持しました。

1928年は「中国の統一が完成した年」というより、南京政府を中心とする新しい国家統合が始まった年と見る方が正確です。

日本 — 政党政治の拡大

1920年代の日本では、政党を基盤とする内閣政治が定着し、選挙権拡大を求める運動が続きました。1924年の第二次護憲運動後、加藤高明内閣が成立し、男子普通選挙法の制定が現実化します。

この時代は「大正デモクラシー」の成熟期として語られる一方、植民地支配と治安政策は継続しました。

帝国内地で政治参加が拡大することと、朝鮮・台湾の植民地住民が同じ政治的権利を持つことは別問題でした。

1925年 男子普通選挙

1925年、衆議院議員選挙法が改正され、直接国税額による選挙資格制限が撤廃されました。国立国会図書館によれば、成人男子へ選挙権を広げる普通選挙制度が成立しました。

ただし女性には選挙権がなく、公私の救恤を受ける者などにも制限が残りました。「普通選挙」という当時の呼称は、現代の男女普通選挙と同じ意味ではありません。

それでも有権者数は大幅に増加し、政党はそれまで以上に広い社会層へ選挙運動を行う必要が生まれました。

同じ年の治安維持法

男子普通選挙法と同じ1925年、治安維持法も成立しました。国立国会図書館は、普通選挙制度の導入とともに反共産主義政策として治安維持法が制定されたことを記録しています。

同法は国体の変革や私有財産制度の否認を目的とする結社などを取り締まり対象としました。その後改正され、共産主義運動や社会運動への弾圧に広く利用されます。

1925年は政治参加の拡大と、国家が急進政治を抑える法制度の強化が同時に起きた年でした。

1928年 最初の男子普通選挙

1928年2月20日、男子普通選挙制度のもとで最初の衆議院総選挙が実施されました。

国立国会図書館によれば、政友会217議席、立憲民政党216議席と二大政党がほぼ拮抗し、無産政党も合計8議席を獲得しました。

有権者の大幅な増加によって、ポスター、新聞、演説会などを通じた大衆向け選挙政治の重要性がさらに高まりました。

無産政党の議会進出

男子普通選挙を見据え、1920年代後半には労働者・農民を支持基盤とする複数の無産政党が結成されました。

国立国会図書館は、1928年総選挙で社会民衆党4、労働農民党2、日本労農党などが議席を得て、無産政党全体で8議席となったことを記録しています。

議席数は小さくても、労働・農民問題が議会政治へ直接持ち込まれる新しい段階でした。一方、政府は共産党・左派運動への治安取り締まりを強化していきます。

1927年 昭和金融恐慌

日本経済では第一次世界大戦後の反動不況と1923年関東大震災後の金融問題が完全には処理されていませんでした。

日本銀行金融研究所によれば、1927年の昭和金融恐慌は、戦後の企業整理と金融機関の不良債権処理が不完全なまま残っていた国内金融システムの問題が表面化した危機でした。震災手形問題も信用不安を強めました。

銀行取り付けが広がり、多数の銀行が休業しました。日本銀行は非常貸出を実施し、その後銀行合同など金融制度の再編が進みます。

日本と中国東北部

日露戦争以後、日本は関東州租借地と南満洲鉄道を中心に中国東北部で強い権益を持っていました。一方、満洲では張作霖の奉天軍閥が独自の政治・軍事勢力を形成していました。

日本政府は中国での権益維持を重視しながら、南京国民政府の北伐と中国統一運動を警戒しました。関東軍の一部は政府外交とは異なる強硬な軍事的判断を取るようになります。

この軍と政府のずれが明確に表面化した事件が1928年の張作霖爆殺です。

1928年 張作霖爆殺事件

1928年6月、北伐軍の進撃を受けて北京から満洲へ撤退していた張作霖の列車が奉天郊外で爆破され、張は死亡しました。

国立国会図書館の年表も、1928年6月4日に日本の関東軍将兵によって張作霖が暗殺された事件を記録しています。

事件は日本政府の正式命令によるものではなく、関東軍内部の一部将校による謀略でした。首相田中義一は事件処理をめぐって天皇の信任を失い、1929年に内閣総辞職へ至ります。軍部の現地行動を政府が十分に統制できない問題が、この後さらに深刻になります。

国際金本位制の復元

第一次世界大戦中、多くの国で停止・変形していた金本位制は1920年代に再建されました。イギリスは1925年に戦前平価で金本位制へ復帰しました。

金本位制は各国通貨の交換関係を安定させ、国際貿易・投資を促す制度として期待されました。

しかし戦前とは経済力の分布が変わり、アメリカとフランスに金が集中する一方、債務国は国内景気より為替・金準備を守るため金融引き締めを迫られる可能性がありました。1920年代後半の国際通貨制度は外見上の安定の下に大きな不均衡を抱えていました。

安定を支えた国際金融の脆さ

ドイツ復興、連合国戦債返済、アメリカの海外融資は互いに結びついていました。アメリカの投資家がヨーロッパ債券を買い続ける限り、この仕組みは機能しました。

しかし1928–29年、アメリカ国内の株式投資が急増すると、海外への資本供給が弱まります。より高い収益を期待して資金がニューヨーク市場へ向かったためです。

国際金融の中心が一国の民間信用市場へ大きく依存していたことが、1929年以後の世界的な金融収縮を深刻化させる条件となりました。

ニューヨーク株式市場の熱狂

1920年代後半、ニューヨーク株式市場では株価が急速に上昇しました。Federal Reserve Historyによれば、ダウ工業株平均は1921年8月の約63から1929年9月には381まで約6倍になりました。

株式購入には信用取引も広く使われました。投資家は価格の一部を自己資金で払い、残額を借りて株式を購入しました。株価が上昇し続ければ高い利益を得られますが、下落すれば損失と返済負担が急速に大きくなる仕組みでした。

連邦準備制度内部では投機的信用をどう抑制するかをめぐり意見が分かれ、1929年には金融政策も引き締め方向へ動きました。

1929年10月 株価暴落

1929年9月に株価はピークを迎え、その後不安定化しました。10月24日の「ブラック・サーズデー」を経て、28日月曜日にはダウ工業株平均が約13%、29日「ブラック・チューズデー」には約12%下落しました。

Federal Reserve Historyによれば、11月中旬までにダウはピークからほぼ半分の水準まで下落しました。その後も下落は続き、底を打つのは1932年でした。

株価暴落は投資家の資産を失わせ、企業と消費者の信頼を傷つけました。とくに自動車など信用購入される高額商品の需要低下が生産と雇用を圧迫しました。

株価暴落=世界恐慌ではない

1929年10月の株価暴落を「翌日から世界恐慌が始まった唯一の原因」と考えると、因果関係を単純化します。

Federal Reserve Historyは、アメリカ経済の景気後退が株価暴落前の1929年夏に始まっていたこと、株価暴落後にも一時は回復期待があったこと、その後の銀行危機などが景気後退を史上最悪の大恐慌へ変えたことを説明しています。

さらに国際的には、金本位制、戦債・賠償、アメリカ融資への依存、農産物価格低迷などが危機を世界へ伝える構造になりました。

したがって1929年10月は「大恐慌のすべてを一日で生んだ事件」ではなく、それまで蓄積していた不均衡を大きく表面化させ、次の数年間の金融・経済危機を加速する転換点でした。

1924–1929年に何が変わったのか

1924年、ドーズ案はドイツ賠償問題を再編し、アメリカ資本をヨーロッパ復興へ大量に流しました。ドイツ経済は安定し、1925年ロカルノ条約、1926年国際連盟加盟によって、旧敵国ドイツは外交秩序へ再統合されます。1928年の不戦条約は、国家政策としての戦争そのものを放棄するという新しい国際規範を掲げました。

しかし政治秩序は一様ではありませんでした。ヴァイマル共和国で議会政治が相対的に安定する一方、イタリアでは1925–26年にムッソリーニが一党独裁を制度化しました。ソ連ではレーニン死後の党内闘争を経てスターリンの力が強まり、1928年から計画経済と急速な工業化へ転換しました。

中国では北伐によって南京国民政府が全国統合の中心となりましたが、国共合作は崩壊し、新しい内戦構造が始まりました。日本では男子普通選挙によって有権者が拡大する一方、治安維持法による政治的統制も強化されました。1927年には国内金融恐慌、1928年には関東軍将校による張作霖爆殺が起き、議会政治と帝国・軍部の緊張が同時に存在しました。

社会面では、大量生産、自動車、ラジオ、広告、消費者信用、映画が大衆社会を変えました。ハーレム・ルネサンスのように、都市化と人口移動から新しい文化運動も生まれました。大衆社会は人々を同じ商品・放送・スターへ結びつける一方、広告・政治宣伝が大量の人々へ直接届く仕組みも作りました。

この時代の最大の特徴は、繁栄と安定が本物でありながら、同時に非常に脆かったことです。ヨーロッパ安定はアメリカ資本に依存し、金本位制は各国の政策自由度を制約し、農業不況と所得格差が残りました。独裁政治もすでに成立していました。

1929年10月の株価暴落は、その矛盾を一気に生み出したのではありません。1920年代に形成された金融・消費・国際決済の構造が危機にさらされた瞬間でした。次の数年間に、その金融ショックは銀行、雇用、貿易、政治体制を巻き込む世界恐慌へ変化していきます。

1924–1929年の主な出来事

  • 1924年4月 — ドーズ委員会がドイツ賠償再編案を提出。
  • 1924年 — ドーズ案が実施され、アメリカを中心とする外国融資がドイツへ流入。
  • 1924年6月 — 日本で加藤高明内閣成立。政党政治が続く。
  • 1924年6月 — イタリア社会主義者ジャコモ・マッテオッティが誘拐・殺害される。
  • 1924年1月 — レーニン死去。ソ連共産党内の後継権力闘争が本格化。
  • 1925年1月3日 — ムッソリーニが議会演説。イタリアの独裁体制構築が加速。
  • 1925年 — イギリスが戦前平価で金本位制へ復帰。
  • 1925年5月5日 — 日本で改正衆議院議員選挙法公布。男子普通選挙制度成立。
  • 1925年5月12日 — 日本で治安維持法施行。
  • 1925年10月16日 — ロカルノ諸条約に仮調印。
  • 1925–1926年 — イタリアで「ファシスト諸法」が整備され、一党独裁が制度化。
  • 1926年 — 中国国民革命軍が北伐を開始。
  • 1926年9月8日 — ドイツが国際連盟へ加盟。
  • 1926年 — ブリアンとシュトレーゼマンがノーベル平和賞。
  • 1927年 — 中国で国民党と共産党の協力関係が崩壊。
  • 1927年3–4月 — 日本で昭和金融恐慌。銀行休業と取り付けが拡大。
  • 1927年 — イタリアで労働憲章が発表される。
  • 1927年 — ソ連共産党でトロツキーら左派反対派が排除される。
  • 1928年2月20日 — 日本で最初の男子普通選挙による衆議院総選挙。
  • 1928年6月 — 中国の北伐軍が北京方面を掌握し、北伐が事実上完了。
  • 1928年6月4日 — 関東軍将校らが張作霖の列車を爆破し、張が死亡。
  • 1928年 — ソ連で第一次五カ年計画が採用され、急速な工業化へ転換。
  • 1928年8月27日 — パリ不戦条約/ケロッグ=ブリアン条約調印。
  • 1928年末 — 中国東北部の張学良が南京国民政府への帰属を表明。
  • 1929年2月11日 — イタリア政府と教皇庁がラテラノ条約を締結。
  • 1929年 — ソ連で農業集団化が急速に進み始める。
  • 1929年7月 — 日本で浜口雄幸内閣成立。
  • 1929年9月 — ニューヨーク株式市場が最高値圏へ到達。
  • 1929年10月28日 — ブラック・マンデー。ダウ工業株平均が約13%下落。
  • 1929年10月29日 — ブラック・チューズデー。株価がさらに急落。

次の時代へ — 世界恐慌

1929年末の時点では、株価暴落がどこまで長期的な経済崩壊へ発展するかはまだ明らかではありませんでした。ニューヨーク連邦準備銀行は市場へ流動性を供給し、金融システム中心部の銀行は当初大規模崩壊を回避しました。

しかし1930年以後、アメリカで銀行破綻が広がり、信用と貨幣供給が収縮しました。国際的には金本位制が各国の金融引き締めを連鎖させ、アメリカの海外融資縮小がドイツ・中欧へ深刻な影響を与えます。貿易も急減し、失業が各国で拡大しました。

経済危機は政治体制も揺さぶります。ドイツでは議会制民主主義への支持が弱まり、ナチ党と共産党が急伸します。日本では1930–31年の昭和恐慌、金本位制復帰、農村危機が政治・軍事の急進化と重なります。アメリカでは1933年からニューディールが始まります。

次の記事では、1929–1933|世界恐慌 — 金融崩壊、失業、金本位制、政治の急進化として、1929年株価暴落を「唯一の原因」とせず、銀行危機、国際金本位制、保護貿易、ドイツ・日本・アメリカの政治変化までを世界規模で扱います。

参考資料・出典

本ページは、アメリカ国務省歴史局、League of Nations Treaty Series、Library of Congress、Federal Reserve History、日本銀行金融研究所、国立国会図書館、Treccaniなどを参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。1920年代を一括して「繁栄の時代」とせず、ドーズ案による金融安定とアメリカ資本への依存を同時に扱いました。ロカルノ体制については西部国境の保障と東部国境の扱いの違いを区別し、不戦条約についても規範的意義と執行機構の弱さを分けています。1929年の株価暴落については、世界恐慌の唯一の原因とせず、暴落前からの景気後退とその後の銀行危機・国際金融問題を区別しています。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY