1914–1919
アメリカ|第一次世界大戦と国内総動員
中立から参戦へ、徴兵、グレート・マイグレーション、女性労働、言論統制
第一次世界大戦期のアメリカを理解するには、1917年4月の参戦だけを見るのでは不十分である。1914年にヨーロッパで戦争が始まったとき、アメリカ合衆国は中立を宣言した。多くの市民はヨーロッパの戦争への介入を望まず、国内には平和主義者、軍備拡張論者、社会主義者、親英派、ドイツ系・アイルランド系をはじめとする移民社会など、多様で相互に対立する立場があった。しかし政治的に中立を掲げている間にも、アメリカの工業、金融、農業、海運は戦争経済へ深く組み込まれていった。
1917年に参戦すると、変化の速度は一気に上がった。政府は数百万人規模の軍隊を作るため全国徴兵制度を実施し、工場生産、鉄道、食料、燃料、労働力、金融を調整する多数の戦時機関を整備した。国債購入や食料節約まで一般家庭へ求められ、ポスター、映画、新聞、短時間演説を通じて「戦争への参加」が日常生活の中へ入った。戦場が大西洋の向こう側にあっても、国家による総動員は家庭、職場、学校、教会、映画館、鉄道駅、街路にまで及んだ。
この戦争は、アメリカ社会の人口移動も加速させた。南部のジム・クロウ体制から逃れ、北部・中西部の軍需産業で働こうとするアフリカ系アメリカ人の移動、後に「グレート・マイグレーション」と呼ばれる長期的な人口移動が勢いを増した。女性の就業範囲も広がり、軍需工場、事務、運輸、通信、軍の補助業務などで存在感を高めた。一方、軍隊も職場も人種平等になったわけではなく、黒人兵は基本的に隔離部隊へ配属され、北部都市でも住宅・雇用差別と白人暴力が続いた。
さらに、戦争は「誰が真のアメリカ人なのか」という問いを鋭くした。1917年当時、アメリカ国民のおよそ3人に1人が移民一世または二世であり、陸軍にも外国生まれの兵士が多数いた。政府と民間団体は英語教育と市民教育を進め、「アメリカ化」を国家統合の手段として利用した。その中でドイツ系アメリカ人は特に強い疑念を向けられ、ドイツ語教育やドイツ語新聞、音楽、地域文化まで攻撃の対象になる場合があった。
国家は世論形成にも積極的に介入した。Committee on Public Information(CPI)はポスター、パンフレット、映画、新聞記事、講演を組み合わせた大規模な広報活動を展開し、政府が示す戦争目的を全国へ伝えた。同時に1917年のEspionage Act、1918年のSedition Actによって徴兵妨害や特定の反戦表現が処罰され、郵政当局は反戦・急進派出版物の郵送を停止した。愛国心と市民の相互監視が結びつき、社会主義者、労働運動家、移民、反戦活動家が強い圧力を受けた。
1918年にはインフルエンザ・パンデミックが戦時動員と重なった。兵士を大規模な訓練キャンプへ集め、大西洋を越えて大量輸送する体制は感染拡大の条件となり、アメリカでは推定約67万5,000人が死亡した。戦争終結の喜びと感染症による大量死が同じ年に存在したのである。
そして1918年11月に休戦しても、戦争による社会動員はすぐに消えなかった。復員兵が仕事へ戻り、軍需契約が減少し、物価・賃金・雇用をめぐる緊張が高まった。1919年には多数のストライキ、共産主義革命への恐怖、爆弾事件を背景とするFirst Red Scareが広がり、夏から秋にはシカゴ、ワシントンD.C.などで大規模な人種暴力が起きた。「民主主義を守るための戦争」として正当化された第一次世界大戦は、アメリカ国内では、市民権、自由、忠誠、人種、ジェンダー、国家権力をめぐる新しい対立を残した。
したがってこの時期は、単に「アメリカがヨーロッパ戦線へ参戦した二年間」ではない。第一次世界大戦を契機として、連邦政府が社会を大規模に動員する能力が拡大し、広告・広報・マスメディアを使う国家政治が発達し、都市人口と労働構成が変化し、女性参政権運動と黒人公民権運動が新しい局面へ入った。1920年代の大量消費社会、ハーレム・ルネサンス、移民制限、禁酒法、反共主義へ続く多くの要素が、この戦時社会の中で強く形を取り始めていた。
CONTENTS
- 1914年 — 「中立」のアメリカ
- 移民国家は戦争をどう見たのか
- 政治的中立と経済的な連合国接近
- 軍備拡張か平和か — Preparednessをめぐる論争
- 1916年大統領選挙と「戦争に入らない」期待
- 1917年 — 無制限潜水艦戦とツィンメルマン電報
- 「世界を民主主義にとって安全なものにする」
- Selective Service — 2,400万人を登録する国家
- 地域社会へ入り込む徴兵制度
- 人種隔離された軍隊
- 黒人兵の軍務と帰国後の意識
- 移民兵と「アメリカ化」
- 戦争国家の形成 — 産業・輸送・労働を調整する
- War Industries Board — 民間経済を戦争へ向ける
- 鉄道の連邦管理
- Food Administration — 食卓も戦場になる
- National War Labor Board — 戦争と労働者
- 女性労働の拡大
- Liberty Loan — 国債を買うことが愛国行為になる
- Committee on Public Information — 国家による大規模広報
- Four Minute Men — 映画館から教会まで
- 戦争ポスターと視覚文化
- 100% Americanism — 移民国家の忠誠を測る
- ドイツ系アメリカ人への圧力
- 市民が市民を監視する
- Espionage ActとSedition Act
- 社会主義者・反戦運動への弾圧
- グレート・マイグレーション
- 1917年イースト・セントルイス
- Silent Protest Parade — 黒人市民権運動の可視化
- ニューヨーク、シカゴ、デトロイト — 都市文化の再編
- 女性参政権運動と戦争
- Silent Sentinels — 戦時下で大統領を批判する
- 第19修正条項へ
- 1918年インフルエンザ — 総動員の陰で
- 休戦 — 戦争経済をどう解除するのか
- 1919年Red Summer
- First Red Scare — 戦時の統制から戦後の反共へ
- 1920年代への入口
- この時代を理解するための8つの視点
- この時代に何が変わったのか
- 主な出来事
1914年 — 「中立」のアメリカ
1914年8月、ウッドロウ・ウィルソン大統領はヨーロッパ戦争に対するアメリカの中立を宣言した。Library of Congressが第一次世界大戦展で整理するように、多くのアメリカ人はヨーロッパの王朝・領土・同盟をめぐる戦争へ自国が巻き込まれる理由を感じていなかった。19世紀以来の「ヨーロッパ政治への深い関与を避ける」という伝統も根強かった。
しかし「中立」は無関心を意味しなかった。新聞は戦争を大きく報道し、アメリカ各地ではベルギー救援などの人道活動が組織された。実業家ヘンリー・フォードのように和平仲介を試みる人物もいれば、ドイツの軍国主義を民主主義への脅威と考え、英仏を支援すべきだと主張する人々もいた。逆に社会主義者、労働運動家、平和主義者、女性平和運動の一部は、戦争そのものを資本・帝国主義・軍国主義が生んだものとして批判した。
ウィルソンは国民に「思想と行動の双方において中立である」よう求めたが、それ自体が難しい要求だった。アメリカ社会は、ヨーロッパからの移民とその子孫によって形成された多民族社会だったからである。
移民国家は戦争をどう見たのか
ドイツ系アメリカ人は国内最大級の民族集団の一つで、ドイツ語新聞、学校、教会、音楽協会、ビール産業など独自の文化圏を形成していた。アイルランド系住民の中にはイギリス支配への歴史的反感から、イギリスへの支援に否定的な人々も多かった。東欧やロシア帝国から移住したユダヤ系住民にはロシア帝政への反感があり、1917年ロシア革命以前は「英仏露の連合国」を単純に民主主義陣営として支持することに抵抗を感じる場合があった。
一方、英語圏文化との結びつき、イギリスから伝わる戦争報道、ベルギー侵攻への反発などから、政治・経済エリートの多くは連合国側に共感した。Library of Congressは、アメリカ国内に多様な立場が存在しながらも、文化的結びつきと海上交通の条件によってイギリスとの関係が強くなったと説明している。
この多様性は1917年参戦後に大きな問題となる。戦争以前には「ドイツ系」「アイルランド系」「イタリア系」という複合的なアイデンティティが社会生活の一部として受け入れられていたが、戦時にはそれが「二重の忠誠ではないか」と疑われるようになった。
政治的中立と経済的な連合国接近
アメリカは1914〜1917年に中立国として貿易を続けたが、戦争による海上支配の非対称性によって実際の経済関係は連合国側へ傾いた。イギリス海軍の封鎖によりドイツ・中央同盟国との直接貿易は大きく制限される一方、イギリスとフランスはアメリカから小麦、綿花、鉄鋼、機械、爆薬、軍需品などを大量に購入した。
アメリカ企業にとって戦争は巨大な需要を生んだ。1914年以前の景気停滞から生産が回復し、農産物価格も上昇した。銀行・金融機関は英仏への信用供与と戦時物資購入の決済で重要な役割を持つようになった。
これは「アメリカは利益のため参戦した」と一つの動機へ還元できることを意味しない。しかし1917年までに、アメリカ経済が連合国の戦争遂行能力と強く結びついていたことは重要である。政治的中立と経済的中立は同じではなかった。
軍備拡張か平和か — Preparednessをめぐる論争
戦争が長期化すると、ドイツ潜水艦による海上攻撃やアメリカ権益への懸念から「Preparedness」、つまり参戦に備えて軍備を拡張すべきだという運動が強まった。元大統領セオドア・ルーズベルト、軍事関係者、企業家などが大規模陸軍・海軍の整備を訴えた。
一方、反軍備運動も強かった。社会主義者や平和主義者だけでなく、アメリカがヨーロッパの帝国競争へ引き込まれることを恐れる市民も多かった。軍備拡張は戦争参加そのものを促すという批判もあった。
1916年にはNational Defense Actや海軍拡張法によって軍備増強が進んだが、アメリカ軍は依然としてヨーロッパ大国の数百万規模の陸軍とは比較にならないほど小さかった。1917年参戦後、国家はこの限界を短期間で埋める必要に迫られる。
1916年大統領選挙と「戦争に入らない」期待
1916年の大統領選挙ではウィルソンが共和党候補チャールズ・エヴァンズ・ヒューズを破って再選された。民主党側は「He kept us out of war」という言葉を選挙運動で利用し、ウィルソンがこれまで参戦を避けてきたことを強調した。
ただしウィルソン自身は単純な孤立主義者ではなく、戦後の国際秩序へアメリカが関与すべきだと考え、1916年には「勝利なき平和」の可能性を模索していた。中立を保ちながら、戦後和平を仲介する立場を目指していたのである。
その再選からわずか数か月後、国際環境は急変した。ドイツが無制限潜水艦戦を再開したことで、ウィルソンの中立政策は維持困難になっていく。
1917年 — 無制限潜水艦戦とツィンメルマン電報
1917年1月、ドイツはイギリスへの海上補給を断つため、指定海域の船舶を警告なしに攻撃する無制限潜水艦戦の再開を決定した。米国務省の外交史資料によれば、ウィルソン政権は2月3日にドイツとの外交関係を断絶し、その後アメリカ船舶が相次いで攻撃される中で参戦論を強めた。
同時に、ドイツ外相アルトゥール・ツィンメルマンがメキシコへ送った秘密電報の内容が明らかになった。もしアメリカがドイツと戦争になった場合、メキシコに対米同盟を提案し、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナの回復を支援するという内容だった。イギリスが傍受・解読した電報は1917年3月にアメリカで公表され、対ドイツ感情を大きく悪化させた。
4月2日、ウィルソンは議会へ宣戦を要請し、4月6日、アメリカはドイツとの戦争状態を正式に宣言した。ただしアメリカは英仏などと正式な「同盟国」になるのではなく、自らを「associated power」と位置づけ、独自の戦争目的を保持しようとした。
「世界を民主主義にとって安全なものにする」
ウィルソンは参戦を海上権益の防衛だけではなく、より普遍的な理念によって正当化した。ドイツ帝国の潜水艦戦を国際秩序への攻撃として位置づけ、戦争の目的を民主主義、法、平和の擁護として説明した。
この言語は国内動員に強い力を持った。「民主主義のために戦う」という説明は、国債購入、徴兵、食料節約、労働奉仕などを単なる国家命令ではなく道徳的義務として意味づけた。
一方、その理念は国内社会の矛盾を可視化した。南部では黒人の選挙権剥奪とジム・クロウが続き、軍隊は人種隔離され、女性には全国的選挙権がなかった。黒人指導者や女性参政権活動家は、「国外で民主主義を守るなら国内でも実現すべきではないか」と政府へ問い返した。
Selective Service — 2,400万人を登録する国家
参戦時のアメリカ陸軍は大規模なヨーロッパ戦争へ投入できる規模ではなかった。志願兵だけで必要人数を確保することも難しく、議会は1917年5月18日にSelective Service Actを成立させた。
National Archivesによれば、第一次世界大戦中に約2,400万人の男性が徴兵登録を行った。これは1918年のアメリカ人口のおよそ23%に相当する。最初の登録対象は21〜30歳だったが、1918年には18〜45歳へ拡大された。
最終的に約280万人が徴兵され、さらに志願兵を合わせて400万人を超える兵士が軍務に就いた。1917年以前には大規模な常備軍を持たないことを一つの共和国的伝統としてきたアメリカが、短期間に数百万規模の軍事組織を作ったこと自体が社会史上の大きな変化だった。
地域社会へ入り込む徴兵制度
第一次世界大戦のSelective Serviceはワシントンがすべての徴兵者を直接選ぶ制度ではなかった。National Archivesによれば、全米に4,648の地方徴兵委員会が置かれ、地域の民間人が登録者の職業、扶養家族、身体条件などをもとに分類した。中央政府の方針を地域組織が実施する「監督された分権」が制度の特徴だった。
この仕組みは国家権力を地域社会の内部へ入り込ませた。若い男性は氏名、生年月日、職業、出生地、市民権、人種、家族情報、身体的特徴を政府へ登録し、自分が軍務に適するか判定された。今日残る徴兵登録カードは、その意味で20世紀初頭のアメリカ社会を国家が巨大なデータとして把握した記録でもある。
徴兵には良心的兵役拒否の制度も設けられたが、その範囲や扱いをめぐって対立があった。国家への軍事奉仕は、市民権が権利だけでなく義務を伴うという考えを強く可視化した。
人種隔離された軍隊
全国徴兵は黒人男性にも適用されたが、軍隊は人種統合されなかった。Smithsonianによれば35万人以上のアフリカ系アメリカ人が軍務に就いたが、基本的に隔離部隊へ配属された。多くは補給・労務部隊で働き、一部戦闘部隊はフランス軍指揮下で戦った。
これは「民主主義のための戦争」と国内人種秩序の矛盾を最も直接的に示した。制服を着て国家へ奉仕しても、訓練所、輸送、宿舎、軍内部の昇進で差別が続いた。
一方、軍務は多くの黒人兵に新しい政治意識も与えた。ヨーロッパで異なる人種関係を経験した兵士もおり、帰国後に「国家のために戦った市民として完全な権利を要求する」という意識を強める人々が現れた。
黒人兵の軍務と帰国後の意識
第369歩兵連隊、いわゆるHarlem Hellfightersは黒人部隊の象徴となった。アメリカ軍の人種差別的制度の中で、同部隊はフランス軍に配属されて長期間前線で戦い、帰国時にはニューヨークで大規模な歓迎行進を受けた。
軍楽隊の活動も重要だった。ジェームズ・リース・ヨーロップ率いる369連隊軍楽隊はフランスで演奏し、アメリカの黒人音楽文化をヨーロッパへ伝える役割を果たした。第一次世界大戦は軍事だけでなく音楽・文化の大西洋移動の契機でもあった。
しかし帰国した黒人兵は完全な市民として迎えられなかった。Library of Congressは1917〜1919年にNAACP会員数が大きく増え、黒人退役兵の一部が公民権運動へ参加したことを紹介している。戦争経験は人種秩序への服従を強化するのではなく、その不合理をより鮮明にする場合があった。
移民兵と「アメリカ化」
Library of Congressによれば、アメリカ遠征軍の下士官・兵のうち約50万人は比較的新しい移民で、約10万人は英語を話せなかった。1917年のアメリカでは国民の約3分の1が移民一世または二世であり、軍隊はその多言語・多民族社会をそのまま反映した。
陸軍は英語教育、市民教育、歴史教育を通じて兵士を「アメリカ化」しようとした。当初は「100% Americanism」と呼ばれる強い同化主義的姿勢が目立ったが、軍指導部の一部は後に出身文化を完全に捨てさせるより、アメリカ市民としての忠誠を形成する方向へ調整した。
外国生まれの兵士には軍務を通じた帰化手続きも進められ、約30万人が戦時軍務を通じて市民権を取得した。軍隊は兵士を作る場所であると同時に、移民を「国民」へ組み込む制度として機能した。
戦争国家の形成 — 産業・輸送・労働を調整する
数百万の兵士を装備し、ヨーロッパへ輸送し、連合国へ物資を送り続けるためには、従来の連邦政府の仕組みだけでは足りなかった。参戦後、アメリカ政府は企業、生産、輸送、食料、燃料、労働を調整する新しい組織を急速に整えた。
これはソ連型の全面国有化ではなく、民間企業を基本的に残しながら、政府が優先順位、価格、原材料配分、輸送、契約を調整する方式だった。企業家、専門家、労働組合指導者を政府委員会へ取り込み、官民協力によって総動員を実現しようとした。
この経験は1918年末に多くが解除されたが、「国家が非常時に巨大な経済を調整できる」という前例を残した。1930年代のニューディール、1940年代の第二次世界大戦動員を見る際にも重要な先行経験となる。
War Industries Board — 民間経済を戦争へ向ける
1917年7月、Council of National DefenseのもとでWar Industries Board(WIB)が設けられた。National Archivesの資料によれば、政府各機関の軍需需要を整理し、どの産業が何を優先的に生産するか、原材料をどう配分するか、生産をどう増やすかを調整する「clearing house」として始まった。
1918年3月に金融家バーナード・バルークが委員長となるとWIBの権限は強まり、政府発注の優先順位、資源配分、規格標準化、価格協議などを通じて産業へ大きな影響を及ぼした。
重要なのは、国家と大企業の関係が単純な命令・服従ではなかったことだ。企業側の専門知識や経営者が政策形成へ参加し、政府契約が企業の拡大を支えた。戦争は20世紀アメリカにおける官民協調型の経済管理を大規模に実験する機会となった。
鉄道の連邦管理
戦時物資と兵士の大量輸送によって、民間鉄道網は深刻な混雑に直面した。各社の自主協力では効率的な全国輸送を十分に実現できず、ウィルソンは1917年12月26日の大統領布告によって鉄道を連邦管理下へ置いた。
United States Railroad Administration(USRA)は鉄道を地理的な系統として調整し、重複する旅客サービスを削減し、貨車・機関車の運用を統一した。National Archivesによれば、政府管理は1920年3月まで続いた。
私企業の象徴だった大陸鉄道を連邦政府が直接運用したことは、戦時国家の規模をよく示す。日常的な移動手段が国防資源として再定義されたのである。
Food Administration — 食卓も戦場になる
1917年8月、ウィルソン政権はHerbert Hooverを長とするU.S. Food Administrationを設置した。目的は軍隊と連合国へ十分な食料を送りながら、国内市場を安定させることだった。
第二次世界大戦のような全国的配給制ではなく、第一次世界大戦では主として自主的節約が強調された。「Meatless」「Wheatless」などの曜日、Victory Garden、食品を残さない運動が広報され、「Hooverize」という言葉まで生まれた。National Archivesによれば、州・郡・都市レベルの食料行政組織が作られ、休戦時には3,200を超える地方管理者が存在した。
食料節約は家庭、とりわけ食事管理を担うとされた女性へ「愛国的奉仕」として呼びかけられた。女性団体は数百万世帯の誓約カードを集め、家庭の献立を国際戦争と直接結びつけた。国家総動員は兵役や工場だけではなく、家庭の食卓まで政治化した。
National War Labor Board — 戦争と労働者
軍需生産を維持するにはストライキを抑え、労働者を必要な産業へ配置する必要があった。一方、物価上昇や長時間労働に対する労働者の不満を無視すれば、生産そのものが止まる危険があった。
1918年4月にNational War Labor Boardが設置され、企業側と労働側の代表を同数参加させて争議を仲裁した。U.S. Department of Laborの公式史によれば、政府の戦時労働政策は団体交渉権の承認、苦情処理機構、8時間労働と時間外賃金などを一定程度支持した。
これは戦時中だけ労働者が全面的に保護されたことを意味しない。政府は戦争生産を最優先し、急進的労働運動には強い弾圧も行った。しかしAFLなど主流労組との協調を通じて、連邦政府が労使関係へ介入する規模は大きく拡大した。
女性労働の拡大
男性の徴兵と軍需需要によって、女性がそれまで男性中心だった職種へ入る機会が広がった。Smithsonianによれば、第一次世界大戦期には約100万人の女性が新たに労働力へ加わった。工場、造船所、交通、事務、通信などで女性雇用が拡大した。
軍組織でも新しい役割が生まれた。海軍ではYeoman (F)として約1万3,000人の女性が制服を着て事務・通信などに従事し、陸海軍看護部門では2万人以上が勤務した。ただし女性が戦闘部隊へ対等に統合されたわけではなく、賃金・職務・昇進には性別格差が残った。
戦争が女性労働を「始めた」わけでもない。戦前から多数の女性、とりわけ労働者階級・移民・黒人女性は家事労働、縫製、食品加工、農業などで働いていた。変化は、戦時需要によって職種の幅が広がり、国家が女性労働を戦争遂行に不可欠な資源として公的に認識するようになった点にある。
Liberty Loan — 国債を買うことが愛国行為になる
戦争には巨額の資金が必要だった。政府は増税に加えてLiberty Loanを発行し、一般市民へ国債購入を大規模に呼びかけた。Library of Congressによれば、4回のLiberty Loanと戦後のVictory Loanで約200億ドルが調達され、その約3分の1は年収2,000ドル未満の人々から購入された。
国債販売は金融政策であると同時に政治参加の儀式だった。俳優、著名人、地域指導者が購入を呼びかけ、職場や学校で販売目標が設定され、購入者はボタンや証明を身につけた。
その結果、「国債を買うこと」が愛国心の可視的証拠となった。これは戦費調達を社会全体へ分散する一方、購入しない人を「非協力的」と見なす同調圧力にもなりえた。
Committee on Public Information — 国家による大規模広報
1917年4月、ウィルソン政権はジャーナリストGeorge Creelを長とするCommittee on Public Information(CPI)を設置した。政府は公式な「プロパガンダ省」という名称を避けたが、実際には新聞、パンフレット、ポスター、写真、ニュース映画、広告、演説など多数のメディアを横断した大規模な戦時広報を行った。
CPIの役割は単にドイツを敵として描くことではなかった。「なぜアメリカは戦うのか」「なぜ徴兵に登録するのか」「なぜ国債を買うのか」「なぜ食料を節約するのか」を一貫した物語に結びつけ、数千万の市民へ伝えることだった。
Library of Congress所蔵の『How the War Came to America』は英語だけでなくドイツ語、スペイン語でも発行され、625万部以上が流通した。多言語社会へ政府の戦争目的を直接届けようとした点は、アメリカが大量メディア時代の戦争へ入ったことを示す。
Four Minute Men — 映画館から教会まで
CPIの最も特徴的な事業の一つがFour Minute Menだった。映画館でフィルムを交換する約4分の時間を利用し、地域の市民が短い政府公認演説を行ったことからこの名が付いた。
Library of Congressによれば、7万5,000人以上の市民がこのプログラムに参加し、映画館、労働組合会館、教会、公園などで演説を行った。推定では累計数億人規模の聴衆が短時間演説を聞いた。
これは中央政府のメッセージを「ワシントンの役人」ではなく近所の弁護士、教師、商店主、地域指導者が語る仕組みだった。国家広報が地域社会の人間関係を利用した点に特徴がある。
戦争ポスターと視覚文化
第一次世界大戦はアメリカのグラフィックデザイン・広告史にとっても重要な時期だった。徴兵、国債、食料節約、赤十字、海軍入隊、救援活動を訴えるカラーリトグラフが大量に制作され、駅、路面電車、学校、工場、店舗などに掲示された。
James Montgomery Flaggによる《I Want YOU for U.S. Army》の「Uncle Sam」は、その代表的なイメージである。見る人へ正面から指を向ける構図は、国家の呼びかけを抽象的な政策ではなく個人への直接命令として視覚化した。
Liberty Bondポスターでは、自由の女神、国旗、兵士、家族、敵の脅威などが繰り返し使われた。Food Administrationのポスターも、食事や家庭菜園を戦争参加として表現した。広告産業で培われた短いコピー、強い図像、反復配布の技術が国家の総動員へ転用されたのである。
この視覚文化は「美術作品」と「政治宣伝」を明確に分けにくい領域でもある。画家・イラストレーター・広告制作者が国家事業へ参加し、近代社会における画像の大量流通が政治行動をどう形成するかという問題を示した。
100% Americanism — 移民国家の忠誠を測る
参戦後、移民の忠誠は国家的な関心事となった。Library of Congressによれば、1917年時点で国民のおよそ3人に1人が移民一世または二世だった。軍隊の約5分の1は外国生まれで、多言語社会を一つの戦争目的へまとめることは政府にとって現実的な課題だった。
「Americanization」は英語教育、市民権教育、国旗儀礼、独立記念日の行事、工場内教育など多くの形で行われた。その中には移民が新しい社会へ参加しやすくする支援もあったが、同時に「古い言語・文化・忠誠を捨てて完全にアメリカ人になれ」と要求する強い同化主義も存在した。
「100% Americanism」という言葉は、複数の文化的帰属を持つことそのものを疑わしく見る方向へ向かう場合があった。戦争は移民統合を加速する一方、文化的多様性を狭める圧力も生んだ。
ドイツ系アメリカ人への圧力
その圧力を最も強く受けたのがドイツ系アメリカ人だった。Library of Congressは、戦時中にドイツ語新聞が廃刊し、ドイツ語授業が停止・禁止され、ドイツ語書籍が焼かれ、ドイツ語を話す市民が脅迫やボイコットの対象になった事例を紹介している。
ドイツ系の音楽・料理・団体名さえ政治的に疑われる場合があり、姓を英語化する人々もいた。文化的習慣が敵国への忠誠の証拠であるかのように扱われたのである。
National Archivesの資料は、ドイツ系市民の大多数がアメリカに忠実だったという当時の証言を示しながら、地方のCouncil of Defenseや民間愛国団体が忠誠調査へ深く関わったことを伝えている。戦争は民族的偏見に国家安全保障の言語を与えた。
市民が市民を監視する
当時の連邦政府には現在のような巨大な国内情報機関が存在しなかった。そのため政府は地域の愛国団体や一般市民による通報・監視に頼った。
American Protective Leagueは20万人を超える民間ボランティアを抱え、司法省と協力しながら徴兵逃れ、反戦活動、敵国への同情と疑われる行動を調査した。国家公務員ではない市民が、隣人・同僚の忠誠を判断する状況が生まれた。
Library of Congressが指摘するように、こうした「警戒」はしばしば自警行為や強制へ変化した。国旗への敬礼、国債購入、国歌斉唱、英語使用といった日常行動が、愛国心の試験として機能する場合もあった。
Espionage ActとSedition Act
1917年6月、議会はEspionage Actを成立させた。敵国への軍事情報提供を取り締まるだけでなく、徴兵・軍務を妨害する活動や文書にも適用された。郵政長官Albert Burlesonはこの法律を用いて、政府や戦争へ批判的な新聞・雑誌を郵便から排除した。
1918年にはSedition Actによって規制がさらに広げられ、政府、憲法、国旗、軍などについて「不忠実」「侮辱的」とされる表現が刑事訴追の対象となった。
戦時中の自由権制限をめぐる裁判は、後のアメリカ憲法史へ大きな影響を残した。1919年のSchenck v. United Statesなどを通じ、最高裁は戦時に言論をどこまで制限できるかを判断した。戦争はアメリカの「言論の自由」の範囲そのものを再検討させた。
社会主義者・反戦運動への弾圧
参戦反対を続けた社会主義者、アナキスト、Industrial Workers of the World(IWW)などの急進的労働運動は強い弾圧を受けた。社会党指導者Eugene V. Debsは1918年、徴兵・戦争に反対する演説を行ったことでEspionage Act違反として有罪となり、禁錮刑を受けた。
反戦雑誌『The Masses』も郵送を禁止され、経営継続が困難になった。Library of Congressは編集者Max Eastmanが反戦演説後にリンチされかけた事例を紹介している。
戦争への反対意見すべてが法律上禁止されたわけではないが、政府法規制と民間の愛国的圧力が重なったことで、反戦言論の実質的な活動空間は大きく狭まった。
グレート・マイグレーション
戦争がアメリカ国内の人口地図へ与えた最も長期的な影響の一つが、アフリカ系アメリカ人のGreat Migrationである。移動自体は戦前から始まっていたが、1914年以後の戦争はその速度を大きく高めた。
ヨーロッパからの移民流入が戦争で減少し、北部・中西部の工場が軍需生産を拡大したことで労働力不足が生じた。鉄鋼、食肉加工、鉄道、自動車、造船などが南部黒人労働者を採用し、黒人新聞も北部の求人と生活情報を伝えた。
一方、南部から離れる理由は賃金だけではなかった。ジム・クロウ人種隔離、選挙権剥奪、リンチ、農業小作制度から逃れ、自分と家族により広い可能性を求める移動でもあった。
Library of Congressが指摘するように、この長期移動はアメリカの文化、社会、政治を根本的に変えた。ただし北部は「人種差別のない場所」ではなく、住宅隔離、雇用差別、白人労働者との競争、暴力が新しい都市生活の一部となった。
1917年イースト・セントルイス
戦時工業都市イースト・セントルイスでは、黒人労働者の流入と労働市場をめぐる緊張が人種対立を激化させた。1917年7月、白人集団が黒人住宅・住民を襲撃する大規模な人種暴力が起きた。
Library of CongressのNAACP資料では48人が死亡し、数百人が負傷し、数千人の黒人住民が家を追われたとされる。別の同館展示では少なくとも39人の黒人死亡者を確認しており、当時の記録によって犠牲者数には差がある。重要なのは、暴力が一時的な「暴動」ではなく、黒人住民を標的とする組織的な襲撃と財産破壊を含んでいたことである。
「民主主義のために戦う」と宣言した国家の国内で黒人市民が集団暴力を受けたことは、黒人指導者に強い怒りを引き起こした。
Silent Protest Parade — 黒人市民権運動の可視化
1917年7月28日、約1万人の黒人男性・女性・子どもがニューヨーク5番街を無言で行進した。NAACPが組織したSilent Protest Paradeである。イースト・セントルイスの暴力、リンチ、人種差別へ抗議し、連邦政府に黒人市民の権利保護を求めた。
参加者は声を上げる代わりにプラカードを掲げ、ドラムの低い音だけで行進した。その沈黙自体が視覚的・政治的表現となった。
この行進は後の公民権運動と同一ではないが、都市空間を集団的に占有し、画像と標語を通じて国家へ要求を示す20世紀型の黒人抗議政治の重要な先例となった。
ニューヨーク、シカゴ、デトロイト — 都市文化の再編
Great Migrationは人口統計だけの出来事ではない。ニューヨークのハーレム、シカゴのSouth Sideなどに黒人住民、新聞、教会、企業、音楽家、作家、政治団体が集中し、新しい都市文化の基盤が形成された。
黒人新聞は南部からの移住を促すだけでなく、リンチ、人種差別、軍務、政治参加を全国規模で議論するメディアとなった。NAACPも戦時中から戦後にかけて会員を急増させた。
1920年代のHarlem Renaissanceは突然現れた文化運動ではない。その人口的・政治的・出版的条件の重要部分が第一次世界大戦期の都市移動によって作られた。
女性参政権運動と戦争
女性参政権運動は第一次世界大戦よりはるか以前から続いていた。したがって「女性が戦争で働いた褒美として選挙権を与えられた」と説明するのは正確ではない。数十年にわたる州別運動、議会ロビー活動、デモ、組織形成が前提にある。
しかし戦争は運動の政治環境を大きく変えた。National American Woman Suffrage Association(NAWSA)などは戦争協力を通じ、「国家へ奉仕している女性に政治的市民権を認めるべきだ」と訴えた。女性はFood Administration、赤十字、軍需産業、農業、看護などで戦時社会を支えた。
他方、National Woman’s Party(NWP)は戦争を理由に大統領への批判を止めなかった。民主主義を国外へ広げると主張するウィルソン政権が国内女性へ投票権を認めない矛盾を直接突いた。
Silent Sentinels — 戦時下で大統領を批判する
1917年1月、Alice PaulらNWPの活動家はホワイトハウス前で継続的なピケを始めた。これは大統領官邸を対象としたアメリカ史上初の継続的ピケとされ、「Silent Sentinels」と呼ばれた。
4月参戦後、戦時中に大統領を批判する行為への社会的敵意は強まった。活動家は「交通妨害」などの名目で逮捕され、拘禁された。National ArchivesとLibrary of Congressは、収監女性の一部がハンガーストライキを行い、強制給餌を受けたことを記録している。
戦争協力を強調する穏健派と、戦時下でも政府批判を続ける急進派は方法が異なった。しかし両方が女性参政権を全国的政治問題として維持し、ウィルソン政権へ圧力をかけた。
第19修正条項へ
ウィルソンは1918年に連邦女性参政権修正を公然と支持するようになった。Library of Congressは、参政権団体による長期的なロビー活動、市民的不服従、投獄への世論同情、女性の戦時貢献が支持転換に影響したと整理している。
下院では1918年に修正案が可決されたが、上院で必要票を得るにはさらに時間がかかり、最終的に1919年6月に議会を通過した。州批准を経て第19修正条項が成立するのは1920年8月である。
ただし修正条項によってすべての女性が同じように投票できるようになったわけではない。南部の黒人女性はジム・クロウの登録制限・暴力・差別によって投票を妨げられ、先住民やアジア系住民にも市民権・帰化制度上の制限が残った。法的な性別障壁の撤廃と実際の普遍的投票権は別の過程だった。
1918年インフルエンザ — 総動員の陰で
1918年春、アメリカの軍事キャンプでインフルエンザの流行が確認され、その後世界的パンデミックとなった。CDCによれば、世界人口のおよそ3分の1に相当する約5億人が感染し、少なくとも5,000万人、アメリカでは推定約67万5,000人が死亡した。
戦争そのものがウイルスを生み出したわけではないが、兵士を巨大キャンプへ集め、鉄道で移動させ、大西洋を越えて輸送する条件は感染拡大を助けた。CDCは過密環境と世界規模の兵員移動が1918年パンデミックの拡散に寄与したと説明している。
当時はインフルエンザワクチンも、二次性細菌感染を治療する抗菌薬もなかった。自治体は隔離、学校・劇場・集会の閉鎖、マスク着用などを試みたが、対応は地域によってばらついた。
パンデミックは「戦争に勝つため集まれ」という総動員の論理と、「感染を防ぐため集まるな」という公衆衛生の要請を衝突させた。戦時社会の人の移動と公共イベントが、健康危機をさらに複雑にしたのである。
休戦 — 戦争経済をどう解除するのか
1918年11月11日に休戦が成立すると、アメリカ社会は今度は総動員を解除する課題へ直面した。数百万人の兵士が短期間で復員し、軍需契約が縮小し、女性や黒人労働者を含む戦時労働者は職場で復員兵と競合するようになった。
政府の戦時統制機関の多くは急速に縮小・解散された。戦時中に一時的に強まった労働組合への政府保護も弱まり、1919年には鉄鋼、炭鉱、港湾などで大規模ストライキが相次いだ。
戦争中の「国家的一体性」という宣伝の後に、賃金、物価、人種、仕事、政治思想をめぐる対立が表面化した。総動員は社会問題を消したのではなく、しばらく戦争目的の下に包み込んでいただけだった。
1919年Red Summer
1919年夏から秋、ワシントンD.C.、シカゴ、オマハ、ロングビューなど多数の都市で白人による黒人住民への暴力と、黒人側の自衛・反撃を伴う衝突が起きた。NAACPのJames Weldon Johnsonはこの一連の事件を「Red Summer」と呼んだ。
Library of Congressは1919年に少なくとも25都市で人種暴力が発生したことを紹介している。背景にはGreat Migrationによる都市人口変化、住宅競争、雇用競争、労働争議、白人優越主義、黒人退役兵の権利要求など複数の要因が重なっていた。
第一次世界大戦後の重要な変化は、黒人住民が以前より組織的に自衛する場面が増えたことである。海外で軍務を経験した黒人兵にとって、帰国後に従来通りの人種的服従を要求されることは受け入れにくかった。
「民主主義のために戦った戦争」の直後に起きたRed Summerは、アメリカ民主主義の国内的限界を鮮明にした。これが1920年代の黒人政治・文化運動の急速な成長へつながる。
First Red Scare — 戦時の統制から戦後の反共へ
1917年ロシア革命とボリシェヴィキ政権成立は、アメリカ国内の社会主義・アナキズム・労働運動への恐怖を強めた。戦時中は「ドイツへの忠誠」が監視の中心だったが、戦後には「革命思想への忠誠」が新しい疑念の対象となった。
1919年には大規模ストライキと一連の爆弾事件が起き、司法長官A. Mitchell Palmerは急進派摘発を進めた。同年11月から1920年1月にかけて、後にPalmer Raidsと呼ばれる全国的な逮捕・捜索が行われ、数千人が拘束され、一部外国人活動家が国外追放された。
Library of Congressは、法的に問題のある捜査・拘禁手法が多く用いられたことを紹介している。戦時のEspionage Act、忠誠監視、反急進主義が、休戦後には反共・反移民政治へ接続した。
1920年代への入口
1919年までに、戦争前とは異なるアメリカ社会が現れていた。連邦政府は徴兵、産業調整、鉄道管理、食料政策、広報を通じて全国社会へ介入する経験を得た。広告・映画・ポスター・大量出版は、国家が世論を形成する重要な道具となった。
北部都市では黒人人口が拡大し、黒人新聞、NAACP、音楽、文学、商業が新しい都市文化を形成し始めた。女性参政権は議会を通過し、1920年には第19修正条項として成立する。移民社会では100% Americanismの圧力が残り、1920年代の移民割当制度へつながる排外主義が強まった。
同時に、1919年には禁酒法の第18修正条項が批准され、First Red Scareが始まり、Red Summerが社会を揺らした。1920年代のアメリカは「戦争が終わって平常へ戻った社会」ではない。第一次世界大戦が拡大した国家能力、人口移動、メディア文化、権利要求、排外主義が新しい形で展開する社会だった。
この時代を理解するための8つの視点
第一に、1917年参戦だけを起点にしない。 1914〜1917年の中立期にもアメリカ経済は戦争需要によって変化し、連合国との貿易・金融関係が深まっていた。軍事参戦以前から社会は世界大戦の影響を受けていた。
第二に、「孤立主義から国際主義へ」という単純な一本線にしない。 アメリカ人の戦争観は移民背景、地域、政党、階級、宗教によって異なった。参戦後でさえ反戦論・戦争目的をめぐる対立は存在した。
第三に、第一次世界大戦を連邦政府の社会介入能力が急拡大した時代として見る。 徴兵登録、War Industries Board、鉄道管理、Food Administration、War Labor Boardなどを通じ、国家は人間・企業・輸送・食料を全国規模で把握し調整した。
第四に、プロパガンダを「嘘のポスター」だけとして扱わない。 CPIはパンフレット、映画、広告、新聞、演説を結びつけ、国民が戦争をどう理解し、どう参加するかを設計した。20世紀型の政府広報とマスメディア政治の重要な実験だった。
第五に、女性と黒人の社会進出を単純な「戦争による解放」としない。 戦争は労働・軍務・政治参加の機会を広げたが、同時に女性への制度的排除、軍の人種隔離、都市人種暴力も続いた。機会拡大と差別の強化は同時に存在した。
第六に、Great Migrationを文化史と結びつけて見る。 軍需労働を求めた人口移動は、ハーレムなどの黒人都市コミュニティを拡大し、新聞、音楽、文学、政治組織の密度を高めた。1920年代の文化変化には第一次世界大戦の人口動態が深く関わっている。
第七に、「民主主義のための戦争」と国内の自由権制限を同じ歴史として見る。 戦争目的として民主主義が語られた一方、Espionage Act、Sedition Act、出版規制、民間監視、反移民圧力が強まった。この矛盾が後のアメリカ自由権論争を形成した。
第八に、1918年11月を終点にしない。 復員、Red Summer、First Red Scare、女性参政権、禁酒法、労働争議は戦時動員の直接的な余波だった。1919年まで見ることで、第一次世界大戦と「1920年代アメリカ」が連続していることが分かる。
この時代に何が変わったのか
第一に、連邦政府が国民生活へ介入する規模が変わった。約2,400万人の徴兵登録、数百万人の軍務、産業・鉄道・食料・労働政策を通じて、国家はそれ以前よりはるかに多くの市民と企業を直接管理・調整した。
第二に、アメリカが世界経済と世界政治に占める位置が変わった。中立期の輸出・金融拡大と1917年参戦によって、アメリカはヨーロッパ大国の戦争遂行と戦後復興へ不可欠な工業・金融国家として存在感を高めた。
第三に、都市の人口構造が変わった。Great Migrationは南部黒人社会の一部を北部・中西部の都市へ移し、雇用、住宅、政治、文化、人種関係を大きく変えた。
第四に、女性の政治的位置が変わった。戦時労働だけが原因ではないが、長期参政権運動と戦時貢献、急進的抗議が重なり、1919年の第19修正条項議会通過へ至った。
第五に、愛国心の可視化と測定が日常化した。国債購入、英語使用、国旗、国歌、食料節約、徴兵登録など、個人の日常行動が「国家への忠誠」と結びつけられた。
第六に、マスメディアと政治の関係が変わった。CPIは広告技術、映画、ポスター、大量印刷、地域スピーカーを統合し、全国規模の世論形成を行った。視覚文化は国家動員の中心的な装置となった。
第七に、「市民の権利」と「国家安全保障」の境界が大きな政治問題となった。戦時言論統制への反発と裁判は、その後の20世紀アメリカで自由言論・市民的自由をどこまで保障するかという議論の出発点の一つとなった。
第八に、戦争後の社会対立が1920年代の政治を準備した。Red Summer、First Red Scare、移民への疑念、禁酒法、参政権拡大、都市文化の成長は、第一次世界大戦の後始末ではなく、次の時代そのものを形作った。
第一次世界大戦は、アメリカが海外へ200万人規模の兵力を送り出した軍事史上の事件である。しかし国内史として見ると、その意味はさらに広い。国家が市民を登録し、企業を調整し、家庭へ節約を求め、画像と言葉で世論を動員し、忠誠を判定する仕組みが急速に拡大した。同時に、その国家に対して黒人市民と女性が「民主主義というなら自分たちにも適用せよ」と要求した。戦争によって強くなった国家と、戦争によって権利意識を強めた市民が、同じ時期に登場したことこそ、この時代の最も重要な構造変化の一つである。
主な出来事
- 1914年8月4日 — ウィルソン大統領がヨーロッパ戦争に対するアメリカの中立を宣言。
- 1915年5月7日 — ドイツ潜水艦が客船ルシタニアを撃沈。アメリカ人123人を含む多数が死亡。
- 1916年 — National Defense Actなどにより陸海軍拡張が進む。
- 1916年11月 — ウィルソンが大統領に再選。
- 1917年1月 — ドイツが無制限潜水艦戦再開を決定。National Woman’s Partyがホワイトハウス前の継続ピケを開始。
- 1917年2月3日 — アメリカがドイツとの外交関係を断絶。
- 1917年2–3月 — ツィンメルマン電報の内容がアメリカ政府・世論に知られる。
- 1917年4月6日 — アメリカがドイツへ宣戦。
- 1917年4月 — Committee on Public Information設置。
- 1917年5月18日 — Selective Service Act成立。
- 1917年6月5日 — 第一次全国徴兵登録。
- 1917年6月15日 — Espionage Act成立。
- 1917年6月 — 最初の大規模なAmerican Expeditionary Forces部隊がフランスへ到着。
- 1917年7月 — イースト・セントルイスで大規模人種暴力。
- 1917年7月28日 — NAACPがニューヨーク5番街でSilent Protest Paradeを実施。
- 1917年7月 — War Industries Board設置。
- 1917年8月 — U.S. Food Administrationが本格稼働。
- 1917年後半 — 女性参政権活動家への逮捕・投獄が強まる。
- 1917年12月7日 — アメリカがオーストリア=ハンガリーへ宣戦。
- 1917年12月26日 — 連邦政府が鉄道を管理下に置きUnited States Railroad Administrationを設置。
- 1918年1月 — ウィルソンが女性参政権の連邦憲法修正を公然と支持する。
- 1918年1月8日 — ウィルソンが「十四か条」を発表。
- 1918年春 — アメリカ国内の軍事キャンプでインフルエンザ流行が確認される。
- 1918年4月 — National War Labor Board設置。
- 1918年5月 — Sedition Act成立。
- 1918年6月 — Eugene V. Debsが反戦演説を行い、後にEspionage Act違反で有罪。
- 1918年9月12日 — 18〜45歳男性を対象とする大規模徴兵登録。
- 1918年9–11月 — インフルエンザの深刻な第二波がアメリカ各地を襲う。
- 1918年11月11日 — 休戦成立。ヨーロッパ戦線での戦闘終結。
- 1919年1月 — 第18修正条項、禁酒法の憲法修正が批准。
- 1919年3月 — Schenck v. United Statesで最高裁が戦時言論規制を支持。
- 1919年6月4日 — 連邦議会が女性参政権の第19修正条項を可決し、州批准へ送付。
- 1919年夏〜秋 — Red Summer。ワシントンD.C.、シカゴなど多数の都市で人種暴力。
- 1919年 — 鉄鋼・炭鉱などで大規模労働争議が発生。
- 1919年11月 — Palmer Raidsの最初の大規模摘発が始まり、First Red Scareが本格化。
- 1919年11月19日 — 上院がヴェルサイユ条約批准を否決。
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第一次世界大戦中の総動員は、アメリカ社会を「戦争が終われば元に戻る」状態にはしなかった。1919年以後、復員、Red Summer、First Red Scare、禁酒法、第19修正条項、移民への反発、大量消費と都市文化が同時に展開していく。次にアメリカ社会を掘り下げるなら、1919–1924|アメリカ|戦後反動と1920年代への入口 — Red Summer、First Red Scare、禁酒法、女性参政権、移民制限という一本へつなぐと、今回の記事から1920年代の社会構造が自然に連続する。
参考資料・出典
- Library of Congress, “Echoes of the Great War: American Experiences of World War I”
- Library of Congress, “Arguing Over War”
- Library of Congress, “Over Here”
- Library of Congress, “Raising an Army”
- Library of Congress, “Americanization”
- Library of Congress, “A Changing America”
- Library of Congress, “Surveillance and Censorship”
- Library of Congress, “Four Minute Men”
- Library of Congress, “Funding the War”
- Library of Congress, “German Immigration: Shadows of War”
- Library of Congress, “NAACP: Founding and Early Years”
- Library of Congress, “Racial Massacres and the Red Summer of 1919”
- Library of Congress, “Historical Overview of the National Woman’s Party”
- Library of Congress, “Hear Us Roar: Victory, 1918 and Beyond”
- National Archives, “World War I Draft Registration Cards”
- National Archives, “World War I Draft 100th Anniversary”
- National Archives, “Being German, Being American”
- National Archives, “Records of the United States Railroad Administration”
- National Archives, “Food Conservation Efforts During World War I”
- U.S. Department of Labor, “Start-up of the Department and World War I, 1913–1921”
- U.S. Department of Labor, Women’s Bureau, “History”
- Smithsonian National Museum of American History, “The Yanks Are Coming!”
- Smithsonian Institution, “Women in World War I”
- U.S. Department of State, Office of the Historian, “U.S. Entry into World War I, 1917”
- U.S. Department of State, Office of the Historian, “Wilson’s Fourteen Points, 1918”
- Centers for Disease Control and Prevention, “1918 Pandemic (H1N1 virus)”
- Centers for Disease Control and Prevention, “1918 Pandemic Influenza Historic Timeline”
資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY