610–750
イスラームの成立と急速な拡大
ムハンマド、正統カリフ、ウマイヤ朝、地中海世界の再編
7世紀初頭、アラビア半島西部でムハンマドが唯一神への信仰を説き始めた時点で、後にイスラームが広がる西アジアと地中海東部の大部分は、東ローマ帝国とササン朝、そして多数の地域王国・都市共同体の世界だった。シリア、パレスチナ、エジプトは主として東ローマ帝国の統治下にあり、メソポタミアとイラン高原はササン朝が支配していた。両帝国は602年から628年まで長期戦争を続け、エルサレム、エジプト、メソポタミアなどをめぐって激しく争った。その直後、アラビア半島で形成された新しい宗教共同体と政治勢力が北方へ進出し、数十年のうちに西アジアと北アフリカの政治地図を大きく変えることになる。
イスラームの成立は、単なる「新しい帝国の誕生」ではない。ムハンマドの啓示として伝えられるクルアーンは、唯一神、最後の審判、預言者、施し、共同体の倫理を説き、アブラハム、モーセ、マリア、イエスなど、ユダヤ教・キリスト教と共有する宗教的伝統を再構成した。622年のメッカからメディナへの移住、ヒジュラ以後、ムハンマドは宗教指導者であるだけでなく、部族間の交渉、戦争、共同体規範を担う政治的指導者でもあった。632年に彼が死去した後、「誰が共同体を率いるのか」「預言者の権威をどのように継承するのか」という問いは、イスラーム史の政治・宗教両面を長く規定することになる。
初期カリフ政権の軍事拡大は非常に急速だった。636年のヤルムークの戦いで東ローマ軍が大敗し、シリアの多くが新政権の支配へ移った。エジプトは640年代初頭までに東ローマから離れ、メソポタミアではササン朝の首都圏が失われた。642年頃のニハーヴァンドの戦い以後、ササン朝は東方へ後退し、最後の王ヤズデギルド3世が651年に死去すると王朝は事実上終焉した。しかし、軍事征服と社会のイスラーム化は同じ速度では進まなかった。シリア、エジプト、イラク、イランの住民の多くは、その後も長期間キリスト教、ユダヤ教、ゾロアスター教などを信仰し続けた。
661年にはムアーウィヤがウマイヤ朝を成立させ、政治の中心をメディナからシリアのダマスクスへ移した。ウマイヤ朝は大西洋岸から中央アジア、インダス川流域にまで軍事的影響力を広げたが、その統治は単純な「アラブ人が非アラブ人を支配する一枚岩の国家」ではなかった。旧東ローマ・ササン朝の官僚、税制、貨幣、都市制度が継承され、ギリシア語、コプト語、中期ペルシア語などの行政慣行も当初は続いた。7世紀末のアブドゥルマリク期から、アラビア語行政、独自貨幣、巨大な宗教建築を通じて、より明確なイスラーム国家の制度と象徴が整えられていく。
この時代は、後のスンナ派とシーア派につながる政治・宗教的分岐が形成された時期でもある。656年の第3代カリフ、ウスマーン暗殺後、アリーをめぐる第一次内乱が起こり、661年にアリーが暗殺された。680年にはムアーウィヤの子ヤズィード1世への忠誠を拒んだフサイン・イブン・アリーがカルバラーで殺害され、この出来事は後世のシーア派宗教記憶の中心となった。ただし、7世紀の時点で後世のスンナ派・シーア派の制度や教義がすでに現在と同じ形で完成していたわけではない。政治的忠誠、預言者一族への支持、法学・神学の形成は数世紀にわたる長い過程だった。
同じ610〜750年、東アジアでは唐が中央アジアへ勢力を広げ、新羅と唐の連合が百済・高句麗を倒した後、新羅が朝鮮半島南部の大部分を統合した。日本列島では飛鳥時代から奈良時代へ移り、律令国家と平城京が形成された。東南アジアではスマトラを中心とするシュリーヴィジャヤが海上交易と仏教の学問拠点として台頭し、南アジアではハルシャ死後の地域王朝が競合した。アフリカではキリスト教ヌビア諸王国やアクスムが存続し、メソアメリカではマヤ王朝国家が繁栄した。イスラーム史を世界史の唯一の中心に据えず、同時期に複数の地域秩序が並行して発展していたことを見る必要がある。
時代背景 — 東ローマ・ササン朝戦争の直後に何が起きたのか
610年頃、東ローマ帝国とササン朝はすでに全面戦争の最中にあった。ササン朝軍は614年にエルサレム、618〜619年頃にエジプトを占領し、東ローマ帝国は一時的にアナトリアとコンスタンティノープル周辺へ押し込まれた。ところが皇帝ヘラクレイオスは622年以後に反攻し、628年までにササン朝中枢を脅かした。ホスロー2世が宮廷クーデターで失脚すると戦争は終結し、東ローマは失地を回復したものの、両帝国は財政・軍事・人口の面で大きく疲弊していた。
アラビア半島も孤立した「砂漠の外部世界」ではなかった。西部ヒジャーズにはメッカやヤスリブ、後のメディナなどの都市・オアシスがあり、南アラビアは紅海とインド洋交易に深く組み込まれていた。北方には東ローマ・ササン朝と関係するアラブ系諸勢力が存在し、ユダヤ教・キリスト教共同体も各地にあった。メッカの交易規模を世界的商業中心として過度に拡大して描くことには研究上の注意が必要だが、巡礼地カアバとクライシュ族の政治的役割が地域社会で重要だったことは、イスラーム伝承の中心的背景となっている。
この環境の中でムハンマドの運動が形成された。後世から見ると、東ローマとササン朝の疲弊が初期イスラーム征服の条件を整えたように見える。しかし、それだけで征服を説明することはできない。アラビア半島内部の政治統合、機動力のある軍事組織、既存帝国の地方統治、征服地の都市・宗教共同体との交渉、指導者たちの戦略が重なって、急速な拡大が可能になった。
CONTENTS
- ムハンマドと啓示 — メッカで始まった運動
- ヒジュラとメディナ共同体
- メッカ掌握とムハンマドの死
- クルアーンはどのように伝えられたのか
- 継承問題と正統カリフ時代
- リッダ戦争とアラビア半島の再統合
- シリア、イラク、エジプト、イランへの征服
- 征服後の統治 — 改宗、税、既存制度
- ウスマーン暗殺と第一次内乱
- ムアーウィヤとウマイヤ朝の成立
- 680年カルバラー — 後世のシーア派記憶へ
- 第二次内乱とアブドゥルマリク
- アラビア語行政と貨幣改革
- 岩のドーム — 新しいイスラーム王権の可視化
- 北アフリカからイベリア半島へ
- 中央アジアとシンドへの拡大
- アラブ軍事社会とマワーリー
- ダマスクス、クーファ、バスラ、フスタート
- ホラーサーンとアッバース革命
- 唐、新羅、日本 — 同時代の東アジア
- 南アジアと東南アジア — 地域王朝と海上交易
- アフリカ — ヌビア、アクスム、北アフリカの再編
- アメリカ大陸 — マヤ、ワリ、ティワナク
- 単純化しやすい論点への注意
- この時代に何が変わったのか
- 主な出来事
ムハンマドと啓示 — メッカで始まった運動
イスラーム伝承では、ムハンマドは570年頃にメッカで生まれたとされる。610年頃、彼は神からの啓示を受け始め、唯一神への信仰、偶像礼拝からの離脱、最後の審判、貧者への施し、社会的責任を説いた。メトロポリタン美術館の解説は、610年を最初の啓示の年とし、啓示が後にクルアーンとして収集・成文化されたことを整理している。
初期のメッカ期の啓示には、神の唯一性、終末、復活、倫理的責任が強く現れる。これは単なる宗教儀礼の変更ではなく、富の配分、弱者保護、共同体の道徳を問うメッセージでもあった。ムハンマドと少数の信徒は、メッカの有力者との緊張を深め、一部の信徒はアクスム支配下のエチオピア方面へ逃れたとイスラーム伝承は伝える。
ムハンマドの教えは、ユダヤ教・キリスト教と共有する預言者伝統を含んでいる。アブラハム、ノア、モーセ、ダビデ、イエス、マリアなどがクルアーンに登場し、ムハンマドはそれらの啓示の系譜に位置づけられる。しかしイスラームは既存宗教の単なる混合ではなく、クルアーンのアラビア語啓示とムハンマドの預言者性を中心に独自の共同体を形成した。
ヒジュラとメディナ共同体
622年、ムハンマドと信徒たちはメッカからヤスリブへ移住した。この出来事はヒジュラと呼ばれ、後にイスラーム暦の起点となった。ヤスリブは以後「預言者の町」を意味するメディナとして知られる。ヒジュラは単なる迫害からの避難ではなく、信徒集団が独自の政治・宗教共同体として組織化される転換だった。
メディナには複数のアラブ部族とユダヤ教共同体が暮らしていた。ムハンマドは共同体内部の紛争を調停し、外部との戦争・同盟を統括した。後世「メディナ憲章」と呼ばれる文書群は、初期共同体が複数集団の権利と義務、共同防衛、紛争処理を定めようとしたことを示す史料として研究されている。ただし、現存形態がどの時点の編集を含むかについては学術的議論がある。
メッカのクライシュ族との対立は軍事衝突へ発展し、624年のバドルの戦い、625年のウフドの戦い、627年頃の「塹壕の戦い」などが起きた。これらは宗教共同体の存続をめぐる戦争であると同時に、アラビア半島の部族政治、交易路、同盟関係をめぐる争いでもあった。
628年頃にはフダイビーヤでメッカ側との休戦が成立し、ムハンマドの政治的立場が強まった。630年頃、ムハンマドは大規模な抵抗を受けずにメッカを掌握したと伝えられ、カアバの偶像を除き、唯一神への礼拝の中心として再定位した。メッカとメディナという二つの都市は、以後イスラーム共同体の宗教的中心となる。
メッカ掌握とムハンマドの死
メッカ掌握後、アラビア半島の多くの部族がムハンマドの共同体と同盟または服属関係を結んだ。631年頃は「使節の年」と呼ばれることがあり、各地の部族代表がメディナへ来たとイスラーム史料は伝える。632年、ムハンマドはメッカへの巡礼を行い、その後メディナで死去した。
ムハンマドの死は重大な制度的問題を生んだ。彼は預言者として神の啓示を伝えたが、その預言者性を別の人物が継承することはできない。一方、共同体には戦争、徴税、裁判、外交、宗教実践を統括する指導者が必要だった。誰を後継者とするかについて、明確な世襲制度や確立した選挙制度が存在していたわけではない。
この継承問題から、アブー・バクルが「カリフ」、すなわち後継者・代理者を意味する称号で共同体を率いることになった。後世のスンナ派伝統ではアブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーの4人を「正しく導かれたカリフ」として特別に位置づける。一方、シーア派の伝統では、ムハンマドの従兄弟で娘婿でもあるアリーとその子孫に固有の指導権があったと理解される。こうした後世の神学的枠組みと、632年当時の複雑な政治交渉は区別して考える必要がある。
クルアーンはどのように伝えられたのか
イスラーム伝承では、ムハンマドが受けた啓示は生前から信徒によって暗誦され、一部は羊皮紙、骨、木片などにも記録された。ムハンマドの死後、共同体が拡大すると、啓示本文を統一的に保存する必要性が高まったとされる。伝統的説明では、アブー・バクル期に最初の収集が行われ、ウスマーン期の7世紀半ばに標準的な本文が複数地域へ送られた。
この成立過程について、歴史研究では伝承史料、初期写本、碑文、言語学などを用いた検討が続いている。重要なのは、非常に早い時期のクルアーン写本が現存していることである。バーミンガム大学所蔵のクルアーン断片は、スーラ18〜20の一部を初期ヒジャーズ書体で記し、羊皮紙そのものは放射性炭素年代測定で568〜645年の範囲に95.4%の確率で位置づけられている。
ただし、この年代は羊皮紙となった動物の死の年代範囲であり、文字が書かれた年を直接測定したものではない。また、現存する断片だけから「現在と完全に同一の一冊のクルアーンがこの年代に完成していた」と単純に断定することもできない。それでも、7世紀の非常に早い段階にクルアーン本文が書写されていたことを示す重要な物証である。
クルアーンの書写はアラビア文字の発達にも大きな影響を与えた。初期写本では母音記号や点が少なく、後世、朗誦をより正確に伝えるための記号体系が整えられた。文字そのものが宗教的・視覚的権威を持つようになり、碑文、建築、貨幣、写本にクルアーンの言葉が用いられるようになる。
継承問題と正統カリフ時代
アブー・バクルは632年から634年まで共同体を率い、その死後ウマルがカリフとなった。ウマルの時代にシリア、イラク、エジプト、イラン方面への大規模征服が進み、新しい軍事都市と行政制度が形成された。644年にウマルが暗殺されると、協議を経てウスマーンが第3代カリフとなった。
ウスマーンはムハンマドと同じクライシュ族のウマイヤ家に属し、征服地の総督に一族や近親者を登用した。これに対し、一部の旧来の有力者や征服軍の集団から、権力と財産の偏りへの不満が高まった。ウスマーン政権を単純な「腐敗政権」と断定するのは後世の党派的史料に影響される危険があるが、征服によって急拡大した国家の富と人事を誰が管理するかが深刻な政治争点になったことは確かである。
656年、反対勢力がメディナのウスマーン邸を包囲し、彼を殺害した。ムハンマドの従兄弟・娘婿アリーが第4代カリフとなるが、ウスマーン殺害の責任追及をめぐって共同体は分裂する。ここから第一次内乱、フィトナが始まった。
リッダ戦争とアラビア半島の再統合
632年、ムハンマド死去の直後、アラビア半島の複数部族がメディナへの忠誠や納税を拒否し、独自の預言者を名乗る指導者も現れた。アブー・バクル政権はこれを離反とみなし、軍事行動を行った。後世これらの戦争はリッダ戦争、すなわち「背教戦争」と呼ばれる。
ただし、すべての反乱を純粋な宗教的背教として理解することには注意が必要である。一部の部族にとって、ムハンマドとの盟約は彼個人との政治関係であり、その死後もメディナ政権へ継続的に従属する義務があるのかが争点だった可能性がある。信仰、税、部族政治、自治が重なった争いだった。
アブー・バクル軍は632〜633年頃までに主要な反乱を鎮圧し、アラビア半島の軍事力を再統合した。この統合によって、次のウマル期にシリアとイラクへ大規模軍を派遣できる政治的条件が整った。ただし、征服をあらかじめ計画された「世界イスラーム化計画」の実行と見るのではなく、戦争の進展に応じて軍事・財政・政治目標が拡大したと考える方が妥当である。
シリア、イラク、エジプト、イランへの征服
634年以後、アラブ軍は東ローマ領シリアへ本格的に進出した。636年のヤルムークの戦いで東ローマ軍が敗れ、その後ダマスクス、エルサレム、アンティオキアなど主要都市が新政権の支配へ入った。メトロポリタン美術館の東地中海年表も、ウマル在位期にシリアの重要な商業・宗教都市がアラブ軍の統治下へ移ったことを示している。
同時にイラク方面では、ササン朝軍との戦闘が続いた。カーディシーヤの戦い、クテシフォン占領を経て、ササン朝王ヤズデギルド3世は東方へ退いた。642年頃のニハーヴァンドの敗北後、ササン朝が西部領土を回復することは困難となり、651年のヤズデギルド死去で約400年続いたササン朝王朝は終わった。
エジプトではアムル・イブン・アル=アース率いる軍が639年頃から進軍し、641〜642年頃までにアレクサンドリアを含む主要地域を掌握した。東ローマ帝国はその後も地中海東部とアナトリアを保持したため、「イスラーム征服によって東ローマ帝国が滅亡した」わけではない。帝国は領域を大きく縮小しながらも、コンスタンティノープルを中心に15世紀まで存続する。
この急速な征服を、東ローマ・ササン朝住民が「解放者としてアラブ軍を歓迎したから」と一括することもできない。地方教会とコンスタンティノープルの神学的対立、税負担、長期戦争への疲弊は地域によって新政権への反応に影響した可能性があるが、抵抗した都市もあり、住民の態度も一様ではなかった。
征服後の統治 — 改宗、税、既存制度
征服地では、旧東ローマ・ササン朝の行政制度をただちに全面廃止するのではなく、多くの官僚と税制が継続利用された。エジプトではギリシア語・コプト語文書、シリアではギリシア語、イラク・イランでは中期ペルシア語などが行政に残り、7世紀末以後にアラビア語化が進む。新政権は巨大な人口を少数のアラブ軍だけで直接管理できなかったため、既存の地方社会と官僚を利用する必要があった。
非ムスリム住民には人頭税として説明されるジズヤや、土地税として発展したハラージュなどの租税制度が関わったが、7〜8世紀の課税実務は地域と時期で異なった。後世のイスラーム法学で整理された分類を、そのまま最初期征服直後へ当てはめることには注意が必要である。税の対象、改宗者への扱い、軍人への給付制度は統治の拡大とともに変化した。
初期征服者はしばしば既存都市の外側または近隣に軍事拠点を築いた。イラクのクーファとバスラ、エジプトのフスタートなどである。軍人とその家族を一定の集団として配置し、征服地住民との関係を管理しながら、俸給と戦利品・税収を分配する仕組みが作られた。こうした軍営都市はやがて商業・学問・宗教の大都市へ発展した。
改宗は一世代で進んだわけではない。イスラーム統治開始後もシリア・エジプトではキリスト教徒が多数を占める時期が長く、イランでもゾロアスター教、キリスト教、ユダヤ教が続いた。イスラーム化とアラビア語化も同じ過程ではない。アラビア語を行政・日常言語として使うキリスト教徒が増える一方、ペルシア語文化を保持しながらムスリムになる人々もいた。
ウスマーン暗殺と第一次内乱
656年のウスマーン暗殺後、アリーがカリフに選ばれたが、ムハンマドの妻アーイシャ、タルハ、ズバイルらはウスマーン殺害者への処罰を求めて対立した。同年の「ラクダの戦い」でアリー側が勝利したが、シリア総督ムアーウィヤはウスマーンの親族として血の復讐と処罰を要求し、アリーの権威を認めなかった。
657年、両軍はスィッフィーンで戦った。戦闘後の仲裁問題をめぐってアリー支持者の一部が離脱し、後にハワーリジュ派と呼ばれる運動につながった。彼らは、重大な罪を犯した指導者の正統性を否定し、カリフは血統ではなく信仰と徳によって選ばれるべきだとする立場を発展させた。
661年、アリーはハワーリジュ派の一員によって暗殺された。アリーの長男ハサンはムアーウィヤと合意し、政治的主導権はシリア側へ移る。これによって第一次内乱は終息し、ムアーウィヤを初代とするウマイヤ朝が成立した。
この内乱は、単に「スンナ派とシーア派が戦った最初の戦争」と表現するには早すぎる。後世の宗派形成につながる対立要素は確かに存在したが、当時はウスマーン殺害への対応、カリフ選出、部族同盟、地方軍団、預言者一族への忠誠など複数の問題が重なっていた。
ムアーウィヤとウマイヤ朝の成立
ムアーウィヤ1世は661年にカリフとして広く認められ、ダマスクスを政治中心とした。シリアは東ローマ時代から都市、街道、税制、官僚制が発達した地域であり、ムアーウィヤはこの行政基盤とシリア軍を利用して広大な国家を統治した。メトロポリタン美術館は、ウマイヤ朝を661〜750年の最初のイスラーム王朝とし、その首都がダマスクスに置かれたことを整理している。
ムアーウィヤは皇帝や王と同じ制度を単純に採用したわけではないが、カリフ権をより王朝的なものへ変化させた。自分の息子ヤズィードを後継者として指名したことは、共同体有力者の協議でカリフを選ぶという先例からの大きな転換だった。これに対して、預言者の孫フサイン、アブドゥッラー・イブン・アッ=ズバイルらが反対した。
ウマイヤ朝は海軍力も発展させ、東ローマとの戦争を継続した。7世紀後半にはコンスタンティノープルへの攻撃も行われたが、東ローマ帝国を征服することはできなかった。地中海は一方の国家が完全に支配する海ではなく、東ローマ、ウマイヤ朝、北アフリカ・イタリアの諸勢力が競合する空間へ変わった。
680年カルバラー — 後世のシーア派記憶へ
680年、ムアーウィヤが死去し、その子ヤズィード1世がカリフとなった。フサイン・イブン・アリーはヤズィードへの忠誠を認めず、イラクのクーファから支持を約束する連絡を受けてメディナからイラクへ向かった。しかしクーファの政治状況は変化し、ウマイヤ朝総督側が反対勢力を抑えた。
フサイン一行はカルバラー近郊でウマイヤ朝軍に阻止され、680年10月、フサインと少数の男性支持者が殺害された。Encyclopaedia Iranicaは、この戦闘が680年10月10日に起き、フサインとその同行者がウマイヤ朝軍に包囲・殺害されたことを整理している。
カルバラーは後世、シーア派において不正な権力に抗して殉教したフサインを記憶する中心的出来事となり、ムハッラム月10日のアーシューラーに追悼される。悲劇、殉教、正義、抵抗という宗教的意味が長い時間をかけて形成され、文学、演劇、巡礼、政治思想にも大きな影響を与えた。
一方、680年の出来事をそのまま「現在のシーア派が完成した瞬間」とするのは適切ではない。アリー一族への支持、イマーム観、法学、儀礼、神学が制度化されるにはその後数世紀を要した。カルバラーは宗派形成の決定的記憶となったが、宗派そのものの完成年ではない。
第二次内乱とアブドゥルマリク
ヤズィード1世は683年に死去し、ウマイヤ朝支配は再び大きく揺らいだ。メッカではアブドゥッラー・イブン・アッ=ズバイルがカリフを称し、ヒジャーズ、イラクなど広い地域で支持を得た。一方、シリアではウマイヤ家内部の再編が進み、684年にマルワーン1世、その後685年にアブドゥルマリクがカリフとなった。
第二次内乱では、クーファの反ウマイヤ運動、ハワーリジュ派、部族対立、イブン・アッ=ズバイル政権など複数勢力が競合した。アブドゥルマリクはシリア軍を再編し、691年までにイラク方面の反対勢力を破った。692年、総督ハッジャージュ・イブン・ユースフがメッカを攻略し、イブン・アッ=ズバイルが死亡したことで、ウマイヤ朝の統一が回復した。
アブドゥルマリクの重要性は内乱終結だけではない。内戦を経験した国家を、より中央集権的で明確なイスラーム的象徴を持つ帝国へ再構築した点にある。郵便・情報網、財政、貨幣、行政言語、宗教建築を通じて、ウマイヤ朝国家の性格が大きく変化した。
アラビア語行政と貨幣改革
征服後数十年間、ウマイヤ朝の行政では旧帝国の言語が広く使われていた。シリア・パレスチナではギリシア語、イラン・イラクの一部では中期ペルシア語、エジプトではギリシア語とコプト語の文書文化が続いた。アブドゥルマリク期から8世紀初頭にかけて、行政記録をアラビア語へ切り替える改革が各地で進んだ。
このアラビア語化は、「征服直後から全住民にアラビア語使用を強制した」という出来事ではない。行政言語が切り替わった後も、コプト語、シリア語、ギリシア語、ペルシア語、ベルベル諸語などは社会で使われ続けた。アラビア語は官僚制、宗教、学問、都市文化を通じて長期的に普及し、その速度は地域によって大きく異なった。
貨幣改革も国家の独自性を示した。初期イスラーム貨幣は東ローマやササン朝の金貨・銀貨の様式を部分的に利用していたが、アブドゥルマリクは690年代に改革を進めた。大英博物館には696〜697年にダマスクスで鋳造された金ディナールが残り、人物像を使わず、アラビア語の宗教文言を中心に構成されている。
大英博物館の人物資料では、アブドゥルマリクが691年に内乱を終息させ、アラビア語を行政言語とし、696年に最初期の非人物像型イスラーム貨幣を導入したことが説明されている。貨幣は経済手段であると同時に、誰が政治的・宗教的権威を持つのかを日常的に示す媒体だった。
岩のドーム — 新しいイスラーム王権の可視化
エルサレムの岩のドームは688〜692年にアブドゥルマリクのもとで建設され、初期イスラーム建築を代表する記念碑となった。中央の岩を囲む八角形平面と大ドームを持ち、内部には金地モザイク、宝石・植物を思わせる装飾、長大なアラビア語碑文が配置された。
建築技術と装飾には東ローマの教会建築・モザイク技術との連続性が見られる。これは「イスラーム美術が東ローマ美術を模倣しただけ」という意味ではない。既存の地中海建築技術を利用しながら、人物像を避けた装飾、クルアーン的文言、唯一神とイエスの位置づけをめぐる碑文によって、新しい宗教的・政治的メッセージを作り出した。
メトロポリタン美術館は岩のドームを691/692年完成とし、ユダヤ教、キリスト教、イスラームにとって宗教的重要性を持つ場所に建つ、異文化的接触を示す建築と位置づけている。UNESCOも旧市街の代表的7世紀建築として岩のドームを挙げている。
岩のドームを「モスク」と単純に呼ぶことにも注意が必要である。共同礼拝用の大モスクとは異なる記念建築・聖所としての性格が強く、隣接するアル=アクサー・モスクとは役割が異なる。初期イスラーム国家が建築によって自らの宗教的存在をエルサレムに刻んだ点が重要である。
北アフリカからイベリア半島へ
エジプト征服後、イスラーム軍は北アフリカ西方へ進んだが、その支配拡大は一度の遠征で完了したわけではない。東ローマ系拠点とベルベル諸集団の抵抗があり、軍事行動と同盟形成が数十年続いた。670年頃に建設されたカイラワーンは軍事・行政・宗教の重要拠点となった。
698年頃、カルタゴがウマイヤ朝側に占領され、東ローマ帝国は北アフリカの主要拠点を失った。その後、ベルベル人の改宗者や軍事勢力もイスラーム国家の西方拡大に重要な役割を持つようになる。北アフリカ征服を「アラブ人だけが一方的に進んだ」と描くと、地域住民の同盟・抵抗・軍事参加を見落とす。
711年、ターリク・イブン・ズィヤード率いる軍がジブラルタル海峡を渡り、西ゴート王国の軍を破った。数年のうちにイベリア半島の大部分がウマイヤ朝系政権の支配下へ入り、後にアル=アンダルスと呼ばれる政治圏が形成された。征服後もキリスト教徒・ユダヤ教徒が多数暮らし、ラテン系・ベルベル系・アラブ系住民が共存する社会が長期的に形成されていく。
732年のトゥール・ポワティエ間の戦闘では、フランク勢力のカール・マルテルがイスラーム軍を破った。後世これを「西洋文明を救った決戦」と誇張する語りが形成されたが、当時の戦争はガリア南部の支配、襲撃、地域政治の一環として理解する方が適切である。ウマイヤ朝の西方支配はすでに内部政治やベルベル反乱など複数の課題に直面していた。
中央アジアとシンドへの拡大
東方では、ウマイヤ朝軍がホラーサーンを拠点としてソグディアナ、バクトリア、トハリスタン方面へ進出した。中央アジアにはソグド人都市国家、突厥系勢力、中国唐朝の軍事拠点などが存在し、イスラーム勢力の進出は単純な空白地への征服ではなかった。ブハラ、サマルカンドなどでは抵抗、講和、反乱、再征服が繰り返された。
Encyclopaedia Iranicaは、ホラーサーンとソグディアにおけるウマイヤ朝支配が税徴収をめぐる不満を生み、8世紀前半には改宗者の課税を含む行政の不統一が政治的不満の一因になったことを論じている。738〜748年頃の総督ナスル・イブン・サイヤールは税制・統治改革を進めたが、その頃には反ウマイヤ運動がすでに拡大していた。
南東方面では711年頃、ムハンマド・イブン・カーシム率いる軍がマクラーンからシンドへ進軍し、インダス川下流域をウマイヤ朝支配に組み込んだ。これは南アジアにおける最初期の恒久的イスラーム政治拠点の一つとなったが、北・中央インド全体を征服したわけではない。ラージャスターン、グジャラート、デカン方面には独立王朝が存続し、イスラーム勢力の本格的な北インド拡大ははるか後の時代である。
東西のウマイヤ朝領域を同じ強度の中央支配として地図に塗ることにも注意が必要である。ダマスクスから遠い辺境では、地方総督、軍司令官、地域王、都市エリートとの関係に統治が左右され、実際の支配力は変動した。
アラブ軍事社会とマワーリー
初期イスラーム国家では、征服軍の中心をアラビア半島出身の部族集団が占めた。軍人は部族単位で登録され、国庫から給付を受ける制度が形成された。征服地に建設されたクーファ、バスラ、フスタートなどでは、アラブ軍人とその家族が独自の社会集団を作った。
非アラブ人がイスラームへ改宗する場合、アラブ部族との保護・所属関係を結び「マワーリー」と呼ばれることがあった。マワーリーの法的・社会的立場は地域と時期で異なり、すべての非アラブ改宗者が同じ差別を受けたとするのは単純化である。ただし、ウマイヤ朝期にアラブ軍人が政治・軍事的特権を持ち、非アラブ改宗者との待遇差が不満を生む場面があったことは、多くの史料で確認される。
特にホラーサーンでは、アラブ軍人自身も北アラブ系・南アラブ系などの部族連合に分かれ、そこへイラン系改宗者や地域社会の不満が重なった。アッバース革命が成功した背景には、単純な「ペルシア人対アラブ人」という民族対立ではなく、部族政治、税制、地方権力、預言者一族への期待、反ウマイヤ感情が複合していた。
ダマスクス、クーファ、バスラ、フスタート
イスラーム帝国の形成は、新しい都市ネットワークの形成でもあった。ダマスクスはウマイヤ朝の首都として宮廷と中央行政を集めたが、都市そのものはローマ・東ローマ時代から続く古都だった。ウマイヤ朝は既存の街路、教会、公共施設のある都市に新しい宮殿・モスク・行政機構を重ねた。
イラクのクーファとバスラは征服軍の駐屯地として成立し、急速に人口と商業を拡大した。クーファはアリー支持勢力、初期シーア派、ハワーリジュ派など政治・宗教運動の重要拠点となり、後にはアラビア語文法や法学の中心にもなる。バスラはペルシア湾交易と東方遠征の拠点として発展した。
エジプトのフスタートは、旧東ローマの要塞バビロン近くに建設され、アムル・イブン・アル=アースのモスクを中心に発展した。アレクサンドリアが地中海港湾都市として続く一方、新政権の行政中心は内陸寄りのフスタートへ移った。後世のカイロはこの都市圏の北側に成立する。
新しい都市はアラブ人だけの閉鎖空間ではなかった。征服地住民、商人、職人、学者、奴隷、改宗者が集まり、アラビア語と地域言語が交差した。イスラーム文化の形成は、宮廷だけでなくこうした都市社会の混合から進んだ。
ホラーサーンとアッバース革命
8世紀前半、ウマイヤ朝は広大な領域を維持しながら、複数の危機に直面した。北アフリカではベルベル人の反乱が起こり、イラクではハワーリジュ派などの反対運動が続き、シリア軍内部や部族連合間の争いも激化した。東方ホラーサーンでは税制、軍事、地方支配への不満が強く、反ウマイヤ運動の重要拠点となった。
アッバース家はムハンマドの叔父アッバースの子孫として、預言者一族に近い家系を主張した。運動は「ムハンマドの家から認められた人物を」という曖昧さを持つ標語を利用し、アリー家支持者を含む幅広い反ウマイヤ層の期待を集めた。ホラーサーンではアブー・ムスリムが運動を組織し、747年に黒旗を掲げて公然と反乱した。
Encyclopaedia Iranicaによれば、アブー・ムスリムは747年にメルヴ周辺で反乱を開始し、748年にメルヴを掌握した。革命軍は西へ進み、749年にはクーファを支配してアッバース家のアブー・アル=アッバースをカリフとして擁立した。750年、ザーブ川の戦いで最後のウマイヤ朝カリフ、マルワーン2世の軍が敗れ、彼はエジプトへ逃れた後に殺害された。
750年はウマイヤ朝の統治が終わり、アッバース朝が始まる大きな区切りとなる。しかし革命を「非アラブ人がアラブ帝国を倒した」と単純化することはできない。革命軍にはアラブ人と非アラブ人がともに参加し、ホラーサーンの部族対立やアリー家支持、マワーリーの不満、中央政府への反感が複雑に結びついていた。
また、ウマイヤ家が完全に消滅したわけでもない。王族の一人アブド・アッラフマーンは西方へ逃れ、756年にイベリア半島のコルドバでウマイヤ朝系政権を樹立する。したがって750年は一つの王朝の世界的消滅ではなく、イスラーム政治の中心がシリアからイラク・イラン方面へ移る転換点だった。
唐、新羅、日本 — 同時代の東アジア
イスラーム勢力が西アジアと中央アジアへ広がっていた同じ時期、中国では唐が東アジア最大級の帝国を形成していた。618年に成立した唐は、太宗期に東突厥を破り、タリム盆地・中央アジアの政治へ積極的に介入した。長安にはインド、イラン、中央アジア、アラビア、朝鮮、日本から商人、僧侶、外交使節が集まったとメトロポリタン美術館は説明している。
唐の西方進出とイスラーム勢力の東方進出は、8世紀前半に中央アジアで接近する。ソグド人都市、突厥系諸勢力、吐蕃、唐、ウマイヤ朝などが同じ地域の政治へ関与した。後の751年タラス河畔の戦いは有名だが、本記事の終点750年の時点ではまだ起きていない。中央アジアを「中国とイスラームの二大帝国が直接ぶつかるだけの場所」とせず、地域勢力自身の政治を見る必要がある。
朝鮮半島では新羅が唐と同盟して660年に百済、668年に高句麗を滅ぼした。しかしその後、唐が旧百済・高句麗領への直接支配を進めようとすると新羅との対立が起こり、676年までに新羅が半島南部の大部分を掌握した。北方では698年に渤海が成立し、高句麗系住民と靺鞨系集団を基盤とする新しい国家となった。
日本では7世紀後半に天武・持統朝の政治再編が進み、701年に大宝律令、710年に平城京遷都が行われた。奈良時代には唐・新羅から制度、仏教、文字文化を取り入れながら、日本列島の王権が律令国家として制度化された。752年の東大寺大仏開眼は本記事の直後にあたり、8世紀前半の国家仏教政策の延長上に位置する。
南アジアと東南アジア — 地域王朝と海上交易
南アジアでは647年頃にハルシャが死去した後、北インドは複数の地域王朝へ分かれた。西部・北西部にはグルジャラ・プラティーハーラにつながる勢力、デカンには前期チャールキヤ朝、南部にはパッラヴァ朝やパーンディヤ朝などが存在した。イスラーム勢力がシンドへ進出した711年以後も、インド亜大陸の大部分はこれら地域王朝の政治圏にあった。
東南アジアでは、メトロポリタン美術館の年表が670年頃をシュリーヴィジャヤ成立の伝統的年代として示している。スマトラ南部のパレンバン周辺を中心に、マラッカ海峡とインド洋・南シナ海を結ぶ海上交通に関与した。シュリーヴィジャヤは後に中国僧義浄が滞在し、サンスクリットと仏教学を学ぶ拠点として記録する重要な仏教中心地となった。
大陸部では、旧扶南の後に「真臘」と中国史料で呼ばれる複数のクメール系政治勢力が現れた。チャムパ系の政治勢力も中部ベトナム沿岸で海上交易に関与した。東南アジアを「インド化した地域」とだけ呼ぶと、地域社会が外来のサンスクリット、仏教、ヒンドゥー教、王権理念を主体的に選択・再構成した過程が見えにくい。
インド洋交易は、ウマイヤ朝の成立後もアラビア海、ペルシア湾、インド西岸、スリランカ、東南アジアを結び続けた。イスラーム商人の活動も次第に広がるが、海域交易をムスリム商人だけが独占したわけではない。インド系、ペルシア系、東南アジア系など多様な商人が参加した。
アフリカ — ヌビア、アクスム、北アフリカの再編
イスラーム軍がエジプトを征服した後、南のヌビア諸王国への遠征も行われたが、マクリア王国は軍事的抵抗を続けた。7世紀半ばにはエジプトのイスラーム政権とヌビア側との間にバクトと呼ばれる長期的な和平・交易関係が形成されたと伝えられる。これによってキリスト教ヌビア諸王国は数世紀にわたって独立を維持した。
アクスム王国もイスラーム成立後ただちに消滅したわけではない。紅海交易の構造が変化し、政治中心が内陸へ移っていく長期的変化はあったが、キリスト教王国としての伝統はエチオピア高地で続いた。初期イスラーム伝承では、迫害を受けたムハンマドの信徒の一部がアクスム支配下へ避難し、キリスト教徒の王に保護されたとされ、イスラームとアクスムの関係は戦争だけでは語れない。
北アフリカではアラブ軍の征服とベルベル諸集団の抵抗・協力が繰り返され、8世紀初頭にはベルベル人ムスリムもイベリア遠征で大きな役割を担った。ところが740年代には北アフリカで大規模なベルベル反乱が起こり、ウマイヤ朝支配に深刻な打撃を与えた。改宗したからといって政治的不満や税負担が消えるわけではなかったことを示している。
アメリカ大陸 — マヤ、ワリ、ティワナク
610〜750年のメソアメリカでは、古典期マヤの王朝都市が繁栄した。ティカル、カラクムル、パレンケ、コパンなどが同盟と戦争を繰り返し、石碑に王の即位、戦争、捕虜、祭祀、王家の系譜を長期暦の日付とともに刻んだ。7世紀は特にカラクムルとティカルを軸とする広域的な競争が激しい時代だった。
マヤ世界には共通する文字、暦、宗教図像があったが、一つの統一国家ではなかった。各都市には王朝があり、従属関係や同盟は変化した。王が神聖な権威を示す儀礼を行う一方、農業人口、工人、商人が都市社会を支えていた。
アンデスでは、メトロポリタン美術館の年代整理でワリ文化はおおむね500〜1000年、ティワナクも500〜1000年頃に大きな影響力を持つ。ワリは現在のペルー中南部高地から広域に行政・宗教拠点を展開し、計画都市、道路、標準化された工芸品を通じて領域的な支配を進めた。
ティワナクはチチカカ湖周辺を中心に巨大な石造儀礼建築と農業基盤を持ち、交易・宗教ネットワークによって高地から低地へ影響を広げた。ワリとティワナクは似た宗教図像を共有するが、同じ国家だったわけではない。隣接地域で接触しながら、異なる政治形態を持つ同時代の広域社会だった。
単純化しやすい論点への注意
第一に、「イスラームは剣によって一気に改宗を強制した」と単純化しない。 7世紀の軍事征服は急速だったが、征服地住民の宗教的改宗は長期的な過程だった。キリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒などは征服後も大規模な共同体を維持した。軍事支配の開始と宗教人口の変化は別の時間軸で進んだ。
第二に、東ローマ・ササン朝の疲弊だけを征服成功の原因としない。 長期戦争は重要な背景だが、初期イスラーム政権の軍事組織、アラビアの政治統合、地方都市との条約、既存官僚制の利用なども重要だった。単一原因では説明できない。
第三に、スンナ派とシーア派が632年に現在の形で分裂したとしない。 継承問題、アリー支持、カルバラーの記憶は後の宗派形成に決定的だったが、法学・神学・宗教制度が現在に近い形へ整うには数世紀を要した。
第四に、ウマイヤ朝を単純な「世俗的アラブ帝国」としない。 王朝的継承とアラブ軍人の優位は重要な特徴だったが、クルアーン碑文、モスク、宗教政策、巡礼地への支援など、イスラーム的正統性を積極的に構築した。アブドゥルマリク期にはその傾向が特に明確になる。
第五に、アラビア語化とイスラーム化を同一視しない。 行政アラビア語化は7世紀末以後に進んだが、非ムスリムのアラビア語話者も増えた。一方、イランなどではイスラーム改宗が進んでもペルシア語文化が存続し、後にイスラーム世界の主要文化言語として再び発展する。
第六に、イベリア征服や中央アジア征服を「文明同士の一回的決戦」にしない。 征服後も地域政治は変動し、同盟、反乱、改宗、税制、民族・部族関係が長く続いた。732年トゥール・ポワティエや、翌751年のタラス河畔の戦いを世界史のすべてを決めた単一の決戦として扱うのは誇張である。
第七に、アッバース革命を「ペルシア人がアラブ人を倒した民族革命」としない。 ホラーサーンには多様なアラブ部族、イラン系住民、改宗者、反ウマイヤ勢力が存在し、革命は宗教的期待、地方政治、税制、部族関係を横断する連合によって成功した。
この時代に何が変わったのか
第一に、西アジアの政治地図が根本的に変わった。610年時点では東ローマとササン朝が西アジアの二大帝国だったが、651年までにササン朝は消滅し、東ローマはシリア・パレスチナ・エジプトを失った。その領域の大部分を初期カリフ政権が継承し、ダマスクスを中心とするウマイヤ朝が新しい広域帝国を形成した。
第二に、アラビア語が地方言語から広域政治・宗教言語へ変化した。クルアーンの言語として宗教的権威を持ち、7世紀末以後には行政と貨幣にも体系的に用いられた。アラビア語の普及は後世の文学、科学、哲学、法学の共通言語を形成する前提となった。
第三に、宗教共同体と国家の関係が新しい形になった。ムハンマドの共同体では宗教的指導と政治的指導が密接に結びつき、その死後、カリフが共同体の政治的統率を担った。だが、預言者のように新しい啓示を受ける存在ではないため、クルアーン、預言者の言行、法学者、宗教共同体の権威が次第に独自の領域を形成していく。
第四に、征服地の既存文明が消えるのではなく、新しいイスラーム文化の素材となった。東ローマの建築技術、ササン朝の宮廷文化と官僚制、コプト・シリア・イランの工芸、中央アジアの交易文化が新政権の中で組み替えられた。岩のドームやウマイヤ朝の貨幣は、この「継承しながら変える」過程を視覚的に示す。
第五に、ユーラシアの広域ネットワークがさらに複雑化した。ウマイヤ朝と唐の影響圏は中央アジアで接近し、インド洋ではイスラーム世界、南アジア、東南アジアを結ぶ商業が続いた。長安、ダマスクス、バスラ、アレクサンドリア、カイラワーン、パレンバンなど、異なる政治圏の都市が広域交流の結節点となった。
第六に、王朝支配内部の政治的・社会的矛盾が、次の制度変化を生んだ。ウマイヤ朝は大帝国を構築したが、部族政治、地方軍、マワーリー、税制、預言者一族をめぐる正統性問題を完全には解決できなかった。その矛盾がホラーサーンの反乱とアッバース革命へ結びつき、750年にイスラーム帝国の中心は新たな段階へ移る。
750年の世界では、アッバース朝が成立した直後であり、唐は中央アジアへ強い影響力を持ち、新羅は朝鮮半島南部を統合し、日本は奈良時代に入っていた。シュリーヴィジャヤは東南アジア海域の有力勢力として成長し、ワリとティワナクはアンデスで広域秩序を築いていた。次の750〜900年は、バグダードを中心とするアッバース朝、唐の変動、カロリング朝、西アフリカ・インド洋交易、ヴァイキング活動などが重なる新しい段階となる。
主な出来事
- 610年頃 — イスラーム伝承で、ムハンマドが最初の啓示を受けた時期とされる。
- 614年 — ササン朝軍がエルサレムを占領する。
- 618年 — 中国で唐が成立する。
- 622年 — ムハンマドと信徒がメッカからメディナへ移住する。ヒジュラ、イスラーム暦の起点。
- 624年 — バドルの戦い。
- 628年 — 東ローマ・ササン朝の長期戦争が終結へ向かう。ムハンマド側とメッカ側のフダイビーヤ合意。
- 630年頃 — ムハンマドがメッカを掌握する。
- 632年 — ムハンマド死去。アブー・バクルが初代カリフとなる。リッダ戦争が始まる。
- 634年 — ウマルが第2代カリフとなる。
- 636年 — ヤルムークの戦いで東ローマ軍が敗北。ササン朝との戦争でもカーディシーヤ前後に大きな転換が起こる。
- 637年頃 — ササン朝の首都圏クテシフォンが初期カリフ政権軍に占領される。
- 639–642年頃 — エジプトが東ローマ支配から初期カリフ政権の支配へ移る。
- 642年頃 — ニハーヴァンドの戦い後、ササン朝の西部支配回復が困難となる。
- 644年 — ウマルが暗殺され、ウスマーンが第3代カリフとなる。
- 650年頃 — イスラーム伝承で、ウスマーン期にクルアーン本文の標準化が進められたとされる。
- 651年 — ササン朝最後の王ヤズデギルド3世が死去し、王朝が事実上終焉する。
- 656年 — ウスマーンが暗殺され、アリーが第4代カリフとなる。第一次内乱が始まる。
- 657年 — スィッフィーンの戦いと仲裁問題。
- 661年 — アリー暗殺。ムアーウィヤ1世のウマイヤ朝が成立し、ダマスクスが政治中心となる。
- 660年 — 新羅・唐連合が百済を滅ぼす。
- 668年 — 新羅・唐連合が高句麗を滅ぼす。
- 670年頃 — シュリーヴィジャヤ成立の伝統的年代。
- 676年 — 新羅が唐勢力を半島南部から後退させ、統一新羅期へ入る。
- 680年 — カルバラーの戦いでフサイン・イブン・アリーが殺害される。
- 685年 — アブドゥルマリクがウマイヤ朝カリフとなる。
- 691–692年 — 岩のドームがエルサレムに建設される。第二次内乱が終結へ向かう。
- 696–697年頃 — アブドゥルマリクの貨幣改革で、アラビア語宗教銘を中心とする金貨が発行される。
- 698年頃 — ウマイヤ朝側がカルタゴを掌握し、東ローマの北アフリカ支配が大きく後退する。
- 698年 — 東アジア北部で渤海が成立する。
- 701年 — 日本で大宝律令が制定される。
- 705年 — アブドゥルマリク死去。ウマイヤ朝はワリード1世期にさらなる拡大へ進む。
- 710年 — 日本で平城京へ遷都する。
- 711年 — ウマイヤ朝系軍がイベリア半島へ進入。シンドへの本格遠征も始まる。
- 712–715年頃 — 中央アジアのブハラ・サマルカンド方面でウマイヤ朝支配が拡大する。
- 720年代 — ホラーサーン・ソグディアで反ウマイヤ運動と反乱が続く。
- 732年 — ガリアでトゥール・ポワティエ間の戦闘。
- 740年 — 北アフリカで大規模なベルベル反乱が始まる。
- 744年 — 中央ユーラシアで第二突厥可汗国が崩壊し、ウイグル可汗国が成立する。
- 747年 — アブー・ムスリムがホラーサーンでアッバース革命を公然化する。
- 749年 — クーファでアブー・アル=アッバースがカリフとして擁立される。
- 750年 — ザーブ川の戦いでウマイヤ朝軍が敗北し、アッバース朝が成立する。
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750年、アッバース革命によってイスラーム帝国の政治中心はシリアからイラク・イラン方面へ大きく移る。翌751年には中央アジアで唐とアッバース朝系軍がタラス河畔で戦い、755年には唐国内で安史の乱が始まる。762年には新都バグダードが建設され、アッバース朝は翻訳、学問、交易、都市文化の巨大な中心へ成長していく。同じ頃、西ヨーロッパではカロリング朝、北ヨーロッパではヴァイキング活動、東南アジアではシュリーヴィジャヤとシャイレーンドラ朝が展開する。次の記事では、750–900|広域帝国と交易の発展 — アッバース朝、唐、カロリング朝、インド洋交易として、この世界を扱う。
参考資料・出典
- The Metropolitan Museum of Art, “The Birth of Islam”
- The Metropolitan Museum of Art, “The Art of the Umayyad Period (661–750)”
- The Metropolitan Museum of Art, “The Eastern Mediterranean, 500–1000 A.D.”
- The Metropolitan Museum of Art, “Byzantium and Islam”
- The Metropolitan Museum of Art, “Abd al-Malik ibn Marwan”
- The Metropolitan Museum of Art, “The Dome of the Rock”
- The British Museum, “‘Abd al-Malik”
- The British Museum, Gold dinar of ‘Abd al-Malik, 696–697
- University of Birmingham, “What is the Birmingham Qur’an?”
- University of Birmingham, “Birmingham Qur’an — Frequently Asked Questions”
- Encyclopaedia Iranica, “Karbala”
- Encyclopaedia Iranica, “Khorasan iv. The Arab Conquest and Omayyad Period”
- Encyclopaedia Iranica, “Abu Moslem Khorasani”
- Encyclopaedia Iranica, “Abbasid Caliphate”
- The Metropolitan Museum of Art, “Tang Dynasty (618–907)”
- The Metropolitan Museum of Art, “Korea, 500–1000 A.D.”
- The Metropolitan Museum of Art, “Korean Buddhist Sculpture (5th–9th Century)”
- The Metropolitan Museum of Art, “Central and North Asia, 500–1000 A.D.”
- The Metropolitan Museum of Art, “Southeast Asia, 500–1000 A.D.”
- The Metropolitan Museum of Art, “Central and Southern Andes, 500–1000 A.D.”
- UNESCO World Heritage Centre, “Old City of Jerusalem and its Walls”
資料確認日:2026年10月2日 / ART LIBRARY