Art Library
World History

1890–1914

アメリカ|進歩主義時代

都市改革、労働、調査報道、女性運動、反トラスト、自然保護

19世紀末のアメリカでは、鉄道、鉄鋼、石油、金融を中心に巨大企業が成長し、都市人口が急増し、数百万の移民が工場と都市生活へ組み込まれていた。その経済成長は新しい富と技術を生み出す一方、企業集中、政治腐敗、危険な労働環境、過密住宅、食品の品質、児童労働、自然資源の乱開発といった問題を全国規模で可視化した。1890年代から第一次世界大戦直前まで広がった進歩主義運動は、こうした変化に対し「政府と市民社会は何をすべきか」を問い直す大きな改革潮流だった。

進歩主義は一つの政党や思想ではない。都市改革者、女性クラブ、セツルメント運動、労働組合、ジャーナリスト、大学研究者、医師、科学者、中間層の専門家、企業規制を求める政治家など、異なる立場の人々が参加した。共和党にも民主党にも改革派が存在し、社会主義者や黒人公民権運動家も独自の方向から同時代の制度を批判した。共通していたのは、急速に巨大化した都市・企業・市場を、19世紀的な地方自治や個人責任だけでは管理できないという認識だった。

この時代には「調べること」が政治の新しい武器になった。都市の住宅状況を地図化し、工場労働を統計化し、企業の内部文書を調査し、写真で児童労働や貧困を記録し、食品を化学分析する。問題を道徳的に非難するだけでなく、専門知識と証拠によって社会の構造を可視化し、その結果を法律・行政制度へ変える方法が広がった。進歩主義とは、近代社会を「測定し、調査し、規制する」統治の発達でもあった。

ジャーナリズムも重要な役割を果たした。アイダ・ターベルは『マクルーアズ・マガジン』でスタンダード・オイルの企業支配を詳細に調査し、1902年から1904年に連載した。リンカーン・ステフェンズは都市政治の腐敗を追い、アプトン・シンクレアの1906年の小説『ジャングル』はシカゴ食肉加工業の衛生状態を全国へ知らしめた。Library of Congressが整理するように、こうした調査報道は企業・政治・食品安全を公的問題として広く共有させ、改革立法を後押しした。

連邦政府の役割も変化した。セオドア・ルーズベルト大統領は1902年の無煙炭ストライキで、従来のように軍を使って単純にストライキを破るのではなく、労使双方をホワイトハウスへ呼び、公共の利益を理由に仲裁を進めた。労働省の公式史はこの事件を、連邦政府が大規模労働争議に「中立的な第三者」として関与した転換点の一つと位置づけている。委員会の裁定で鉱夫は10%の賃上げと10時間から9時間への労働時間短縮を得たが、組合の正式承認までは実現しなかった。

ルーズベルトは「トラスト・バスター」と呼ばれたが、すべての大企業を解体しようとしたわけではない。巨大企業の存在そのものを否定するより、競争を破壊し公共利益を損なう企業行動を連邦政府が監督すべきだと考えた。Northern Securities鉄道持株会社に対する訴訟、鉄道規制、食品・薬品規制、企業情報公開の強化は、政府が全国市場へ直接介入する範囲を広げた。

1906年には純正食品・薬品法と食肉検査法が成立した。食品・薬品規制を求める運動は数十年続いており、農務省化学局のハーヴェイ・ワイリーによる研究、女性団体、医師・薬剤師、州行政官、調査報道など多数の力が法律成立を支えた。『ジャングル』の衝撃は最終的な立法を強く後押ししたが、シンクレア一人が突然法律を作ったわけではない。連邦政府が市場に流通する商品の表示と安全性を監督する原則が確立されたことが重要だった。

同時に自然保護も連邦政策の中心へ近づいた。セオドア・ルーズベルト政権は国有林、鳥類保護区、国立公園、国定記念物を拡大し、1905年には森林局が設立された。1906年古物保存法は、大統領が連邦所有地上の歴史・考古・自然資源を国定記念物として保護する権限を与えた。National Park Serviceによれば、ルーズベルト政権は約2億3,000万エーカーの公有地を何らかの形で保護した。

しかし自然保護にも一つの考えしかなかったわけではない。ギフォード・ピンショーは森林や水資源を長期的・科学的に管理して利用する「保全」を重視し、ジョン・ミューアらは自然景観を開発から守る「保存」を強く訴えた。ヨセミテ国立公園内のヘッチ・ヘッチー渓谷をサンフランシスコの水源貯水池にする計画をめぐる論争は、この違いを象徴した。1913年に連邦議会が計画を認めたことで、近代都市の公共需要と自然保存のどちらを優先するのかが全国的論争になった。

都市改革では、セツルメント運動が大きな役割を持った。シカゴのハル・ハウスではジェーン・アダムズらが移民地区に住み、保育、教育、文化活動、労働調査、児童保護を行った。女性は全国的な選挙権をまだ持っていなかったが、学校、衛生、住宅、労働、安全、消費者保護を通じて都市政治へ深く関わった。こうした活動は「家庭を守る女性の役割」を公共社会へ拡張する論理で正当化される場合もあり、そのことが女性参政権運動を支える一つの基盤となった。

女性参政権運動もこの時期に再び大きく成長した。1890年に全国女性参政権協会が統合され、州ごとの参政権獲得と連邦憲法修正の双方を進めた。西部ではWyoming、Colorado、Utah、Idahoなどで女性参政権が早く実現し、1910年代にはWashington、California、Arizona、Kansasなどへ広がった。1913年3月には大統領就任式前日のWashington D.C.で大規模な全国女性参政権行進が行われた。第19修正条項が成立するのは1919〜1920年だが、その政治的基盤は進歩主義時代に大きく拡張された。

選挙制度そのものにも改革が及んだ。政党幹部が候補者を決める仕組みに対し、直接予備選挙、住民発案、住民投票、解職請求などを州・地方レベルで導入する動きが広がった。1913年には修正第17条が批准され、それまで州議会が選んでいた連邦上院議員を有権者が直接選ぶ制度へ変更された。これは「政治マシーンや企業利益が州議会を通じて上院を支配している」という批判への制度的応答だった。

税制でも大きな転換が起きた。1913年に修正第16条が批准され、Congressが人口比例配分なしに連邦所得税を課す憲法上の権限が明確になった。National Archivesによれば、導入当初は控除額が大きく、実際に所得税を支払ったのは人口の1%未満だった。しかしこの制度は、その後の連邦政府が社会政策、戦争、行政を支える財政基盤となる。

金融制度改革も進んだ。1907年恐慌では銀行取り付けが広がり、中央銀行を持たないアメリカがJ・P・モルガンら民間金融家の調整へ依存して危機を収束させた。この経験を背景に金融制度改革が進み、1913年12月に連邦準備法が成立した。連邦準備制度は中央機関と地域の連邦準備銀行を組み合わせ、通貨・銀行制度の安定性を高めることを目的とした。

1912年大統領選挙は、進歩主義が一つの政治勢力に収まらなかったことをよく示している。共和党現職William Howard Taft、共和党を離れてProgressive Partyを結成したTheodore Roosevelt、民主党Woodrow Wilson、社会党Eugene V. Debsがそれぞれ異なる改革案を掲げた。Rooseveltは大企業を連邦政府が積極的に監督する「New Nationalism」を、Wilsonは競争を回復し企業集中を抑える「New Freedom」を訴えた。選挙後、Wilson政権は関税、銀行、反トラスト制度の改革を進めた。

1914年にはFederal Trade Commission ActとClayton Antitrust Actが成立した。前者は不公正な競争方法を監視する恒久的な連邦行政機関を設置し、後者は企業結合・価格差別などへの規制を補強した。進歩主義時代の大きな変化は、政府が問題が起こった後だけ裁判するのではなく、専門行政機関を設けて市場を継続的に監視する方向へ進んだことである。

しかし進歩主義を「民主主義と平等が一方向に拡大した時代」とすることもできない。南部ではジム・クロウと黒人参政権剥奪が続き、連邦政府の多くの改革はそれを根本的に変えなかった。1905年にはW・E・B・デュボイスらがNiagara Movementを組織し、完全な公民権と政治権を要求した。1909年には黒人・白人双方の活動家によってNAACPの前身となる全国会議が組織され、1910年に現在の名称を採用した。進歩主義の改革空間から人種平等が外されがちだったからこそ、独立した公民権運動が発展した。

また一部の改革者は優生思想や人種・民族の序列化を受け入れていた。専門知識と科学を社会改革へ利用する姿勢は、衛生や食品安全に成果をもたらす一方、「望ましい人口」と「望ましくない人口」を分類する発想とも結びついた。移民制限論、強制不妊政策、人種差別的な社会政策が「科学」の言葉で正当化されることもあった。進歩主義の専門性そのものが自動的に平等を保証したわけではない。

1890年から1914年の改革を通じて、アメリカ政府は企業、食品、鉄道、銀行、公有地、選挙制度へ以前より深く関与するようになった。20世紀のアメリカ国家は、巨大企業をただ放置する国家でも、すべてを直接所有する国家でもなく、調査、規制、行政委員会、専門家を通じて民間社会を管理する方向へ進んだ。この制度的変化が、後のNew Dealや公民権政策へつながる重要な前史となる。

CONTENTS

  1. 進歩主義時代とは何だったのか
  2. 金ぴか時代から改革へ
  3. 「進歩主義者」は一枚岩ではない
  4. 調査・統計・専門家という新しい政治手法
  5. セツルメント運動と都市改革
  6. ハル・ハウスとジェーン・アダムズ
  7. 衛生、住宅、公園、都市行政
  8. 都市美運動と「美しい都市」
  9. 調査報道の台頭
  10. アイダ・ターベルとスタンダード・オイル
  11. リンカーン・ステフェンズと都市政治
  12. アプトン・シンクレア『ジャングル』
  13. 1906年純正食品・薬品法
  14. 1906年食肉検査法
  15. 労働問題と改革
  16. 1902年無煙炭ストライキ
  17. 「公共の利益」という第三者
  18. 児童労働をめぐる運動
  19. 1911年トライアングル工場火災
  20. 裁判所と労働規制
  21. 1905年ロックナー判決
  22. 1908年ミュラー判決
  23. セオドア・ルーズベルトと「スクエア・ディール」
  24. 大企業は解体するのか、規制するのか
  25. ノーザン・セキュリティーズ事件
  26. 鉄道規制の強化
  27. 1911年スタンダード・オイル解体判決
  28. 自然保護を国家政策にする
  29. 森林局と科学的資源管理
  30. 1906年古物保存法
  31. ミューアとピンショー — 保存と保全
  32. ヘッチ・ヘッチー論争
  33. 女性が公共政治へ進出する
  34. 女性参政権運動の再拡大
  35. 1913年Washington D.C.参政権行進
  36. 選挙制度改革
  37. 修正第17条 — 上院議員直接選挙
  38. 修正第16条 — 連邦所得税
  39. 1907年恐慌と金融改革
  40. 1913年連邦準備法
  41. タフト政権と進歩主義の分裂
  42. 1912年大統領選挙
  43. ウィルソン政権の「ニュー・フリーダム」
  44. 1914年連邦取引委員会法とクレイトン反トラスト法
  45. 進歩主義と人種平等の限界
  46. ナイアガラ運動
  47. 1909–1910年 NAACPの形成
  48. 専門知識と優生思想
  49. この時代を理解するための8つの視点
  50. この時代に何が変わったのか
  51. 主な出来事

進歩主義時代とは何だったのか

進歩主義時代という名称は、1890年代から1920年代初頭までの改革潮流を大きくまとめる歴史用語である。開始年と終了年は研究者によって異なり、1890年、1896年、1900年、1901年などが起点として使われる。本記事では、金ぴか時代の問題が全国的改革運動へ変わり始める1890年頃から、第一次世界大戦によって国内政治の条件が大きく変化する1914年までを中心に扱う。

「progressive」という語は当時から使われていたが、すべての改革者が同じ理念を共有していたわけではない。企業規制を求める人、都市の衛生を改善したい人、労働者保護を求める人、禁酒を進める人、女性参政権を求める人、自然保護を進める人は、ときに協力し、ときに対立した。

共通していたのは、人口数百万の都市、全国企業、複雑な金融市場、大量移民、工場労働という新しい社会を、従来と同じ制度だけで管理することへの疑問だった。進歩主義時代は「改革の内容」だけでなく、政府そのものを専門化・制度化しようとした時代でもある。

金ぴか時代から改革へ

進歩主義の背景には19世紀後半の急速な工業化があった。鉄道会社、Standard Oil、Carnegie Steelのような巨大企業が全国市場を形成し、都市には工場と移民人口が集中した。1877年鉄道大ストライキ、1886年Haymarket事件、1892年Homestead Strike、1894年Pullman Strikeは労働問題が全国政治へ広がることを示した。

1893年恐慌による失業と金融不安は、市場を完全に自己調整へ任せることへの疑問を強めた。農民は鉄道運賃と債務を批判し、都市住民は住宅と衛生を問題にし、中間層は政治マシーンと企業癒着を批判した。

つまり進歩主義は、金ぴか時代を外側から否定した運動ではない。同じ工業化が生み出した都市、中間層、大学、新聞、専門家、女性団体が、その工業社会を修正する主体になった。

「進歩主義者」は一枚岩ではない

都市のセツルメント活動家とWall Street改革派、労働組合と企業経営者、禁酒運動家と移民労働者では、望む社会像が同じではなかった。Theodore Rooseveltのように巨大企業を認めながら連邦規制を強めようとする立場もあれば、Woodrow Wilsonのように企業集中を抑えて競争を回復しようとする立場もあった。

社会主義者Eugene V. Debsは、企業規制だけでは資本主義の根本問題を解決できないと主張した。黒人公民権運動家は、人種隔離と参政権剥奪を放置する改革を不十分と考えた。

「進歩主義」という言葉は一つの答えではなく、工業社会をどの方向へ調整するかをめぐる多くの競争する案をまとめた名称として使う方がよい。

調査・統計・専門家という新しい政治手法

進歩主義者は、社会問題を感情や道徳だけでなく調査によって把握しようとした。住宅の採光、児童労働者の年齢、工場事故、食品添加物、鉄道運賃、企業株式、森林資源などが数字と報告書の対象になった。

大学、行政委員会、研究所、専門職団体が政策形成へ関わる比重が高まり、化学者、医師、社会調査員、森林官、会計士、都市計画家などの知識が政府に取り込まれた。

これは現代的な行政国家の始まりの一つである。法律を作るだけでなく、専門職員が継続的に調査し、免許・検査・基準・報告を通じて社会を管理する制度が広がった。

セツルメント運動と都市改革

急成長する移民地区では、セツルメント運動が都市改革の重要な拠点となった。活動家が労働者・移民地区に居住し、保育、教育、医療、職業訓練、文化活動を提供すると同時に、地域の生活条件を調査した。

セツルメントは慈善事業にとどまらず、住宅、児童労働、衛生、少年司法、労働時間などを行政問題として提起した。支援現場で得た知識を法律改革へ接続することが特徴だった。

一方、改革者の中には移民文化を「改善されるべきもの」と見なす同化主義的態度も存在した。生活支援と社会規範の押し付けが同時に起こりうる点も、この運動を理解するうえで重要である。

ハル・ハウスとジェーン・アダムズ

1889年にChicagoで開設されたHull Houseは、進歩主義時代の代表的なセツルメントとなった。Jane AddamsとEllen Gates Starrを中心に、移民住民へ保育、講座、芸術、音楽、職業支援などを提供した。

National Park Serviceによれば、AddamsはHull Houseを拠点に労働条件、公園、清潔な街路、少年裁判制度など幅広い改革を訴えた。施設は「困窮者に何かを与える場所」というより、地域社会と改革者が接触し、都市問題を調査する場所でもあった。

Addamsは女性参政権も支持し、1912年にはProgressive Partyの大会でTheodore Rooseveltの大統領候補指名を支持する演説を行った。女性がまだ連邦選挙権を持たない中で、社会改革を通じて政治的発言力を持つようになった象徴的存在である。

衛生、住宅、公園、都市行政

都市改革では、上下水道、ゴミ処理、住宅検査、消防、公園、学校などが公共政策の対象となった。人口密集都市では、一つの家屋の不衛生や火災危険が周囲へ影響するため、私有財産であっても行政が規制する根拠が強まった。

1901年New York Tenement House Lawは、新しい長屋住宅に換気、採光、衛生、火災安全の基準を要求した。都市政府は建築・保健・工場監督に専門部署を置くようになった。

都市行政の目標は「腐敗をなくす」だけではない。数百万の人口を安定的に管理するため、専門官僚とデータを使う行政構造そのものを作ることだった。

都市美運動と「美しい都市」

1893年Chicago万国博覧会の大規模な新古典主義都市景観は、都市計画へ大きな影響を与えた。公園、並木道、記念建築、広場を整備し、混沌とした工業都市に秩序と美を与えようとする「City Beautiful」運動が広がった。

Daniel Burnhamらが関わった1909年Plan of Chicagoは、湖岸、公園、交通、道路を都市全体の構想として設計した。都市を個別の建物の集合ではなく、総合的な空間として計画する考えが強まった。

ただし都市美運動は貧困や住宅問題を景観整備だけで解決できるものではない。美しい公共空間を作る政策と、住民の生活条件を改善する政策が一致するとは限らなかった。

調査報道の台頭

20世紀初頭、雑誌市場の拡大と印刷技術の発達によって、長文の調査記事が全国の中間層読者へ届くようになった。McClure’s、Collier’s、Cosmopolitanなどの雑誌は企業、政治、食品、労働を扱う連載を掲載した。

Theodore Rooseveltは1906年の演説で、社会の汚れだけを探し続ける記者を『天路歴程』の「muck-rake」を持つ人物になぞらえた。後にこの言葉が調査報道記者の呼称となった。

Rooseveltは彼らを全面否定したわけではなく、腐敗を暴く報道の必要性も認めていた。重要なのは、雑誌記事が世論を作り、その世論が議会・行政改革へ圧力をかける新しい政治経路が形成されたことである。

アイダ・ターベルとスタンダード・オイル

Ida Tarbellは1902年から1904年にかけてMcClure’sにStandard Oilの歴史を連載し、企業買収、鉄道との取引、競争相手への圧力を詳細に調査した。Library of Congressによれば連載は19回に及び、その後書籍化された。

Tarbellの特徴は、企業家を単純に悪人として描くのではなく、会社文書、議会資料、裁判記録、当事者取材を積み重ねて企業支配の仕組みを示したことにある。

1911年、最高裁はStandard OilがSherman Antitrust Actに違反すると判断し、会社は34社へ分割された。判決はTarbellの記事だけで生じたものではないが、調査報道が企業問題を公共的知識へ変える力を示した代表例となった。

リンカーン・ステフェンズと都市政治

Lincoln Steffensは都市政治の腐敗を調査し、St. Louis、Minneapolis、Pittsburgh、Philadelphia、Chicago、New Yorkなどを取材した。記事は1904年に『The Shame of the Cities』としてまとめられた。

彼の関心は個々の悪徳政治家だけではなく、企業、市議会、警察、政党組織、有権者がどのような関係で腐敗を維持するかにあった。

都市腐敗を「一人のボスを追放すれば終わる問題」とせず、制度構造として見る視点は、行政改革、選挙制度改革、専門管理へつながった。

アプトン・シンクレア『ジャングル』

Upton SinclairはChicagoの食肉加工労働者を取材し、1906年に小説『The Jungle』を刊行した。作品の主な関心は移民労働者の搾取と社会主義的社会批判だったが、読者は食肉加工現場の不衛生な描写に強く反応した。

Library of CongressとFDAの歴史資料はいずれも、この作品が1906年の食品・食肉規制成立を強く後押ししたと位置づけている。

しかし法律成立には、Harvey Wileyによる長年の食品分析、女性団体、州行政官、医師、薬剤師、複数の調査報道が積み重なっていた。『ジャングル』は長期改革運動に世論を集中させた「最後の強い押し」と考える方が適切である。

1906年純正食品・薬品法

1906年6月、Pure Food and Drugs Actが成立した。FDAによれば、この法律は偽装表示された食品・薬品や不純物を含む製品を州際取引で流通させることを禁止し、農務省化学局が執行を担当した。

Harvey Wileyは1880年代から食品混入物を研究し、1902年には保存料などの影響を調べる実験を行った。彼は女性団体、医療・薬学団体、州の食品監督官などをまとめ、連邦規制法の成立を長年働きかけた。

現在のFDAという名称になるのは1930年である。1906年法を「FDAが完成した年」とするのではなく、連邦政府が食品・薬品市場へ恒常的に介入する近代的な規制機能の出発点として捉える方が正確である。

1906年食肉検査法

同じ1906年、連邦食肉検査法が成立した。食肉加工施設の衛生、検査、州際・輸出向け食肉の管理が連邦政府の責任として強化された。

『ジャングル』が消費者の不安を急速に高めたことに加え、輸出市場でアメリカ食肉への信頼を維持することも産業側にとって重要だった。

企業規制は常に「企業対政府」という対立だけで決まるわけではない。一定の共通基準が市場への信頼を高める場合、規制を受け入れる企業も存在した。

労働問題と改革

進歩主義時代にも全国的な最低賃金、失業保険、包括的な労働安全制度はまだ存在しなかった。工場事故、長時間労働、児童労働は州・地域によって規制の程度が異なった。

American Federation of Laborは賃金・労働時間・組合承認を求め、女性労働者組織、消費者団体、社会改革者も工場法を支持した。州政府は工場監督官、最大労働時間、安全基準などを導入し始めた。

同時に裁判所が「契約の自由」を重視して労働規制を無効にする場合もあり、改革は立法・行政・司法の間で争われた。

1902年無煙炭ストライキ

1902年5月、Pennsylvaniaの無煙炭鉱山でUnited Mine Workersが賃上げ、労働時間短縮、組合承認を求めてストライキを開始した。約14万7,000人の労働者が関わり、秋まで続いた。

無煙炭は家庭暖房に重要で、冬を前に価格が急騰した。Theodore Rooseveltは「公共への重大な影響」を理由に10月3日、経営者と労働側をWashingtonへ呼んだ。大統領にはストライキへ直接介入する明確な法的権限がなかったため、この行動は異例だった。

交渉は難航したが、最終的に双方は大統領委員会の仲裁を受け入れ、10月23日にストライキは終了した。翌年の裁定で鉱夫はおおむね10%の賃上げと9時間労働を得たが、組合の正式承認は認められなかった。

「公共の利益」という第三者

1902年無煙炭ストライキの長期的な意味は、結果だけではない。U.S. Department of Laborは、連邦政府が「経営者対労働者」のどちらか一方としてではなく、公共を代表する第三者として大規模争議へ関与した転換点としている。

19世紀の大規模ストライキでは、軍や州兵が交通・企業財産を守るため労働者側に対して投入されることが多かった。Rooseveltは今回、経営側にも譲歩を求めた。

この考えは後の労働調停、行政委員会、New Deal期の労使関係へつながる。「労働問題は私人同士の契約であり政府は関係ない」という考えから、社会全体へ重大な影響を与える場合は政府が関与できるという方向へ移った。

児童労働をめぐる運動

工場、鉱山、農業、新聞販売などでは多くの子どもが働いていた。家庭収入にとって児童労働が不可欠な場合もあり、単純に「親が子どもを働かせた」という問題ではない。低賃金と貧困が子どもの労働を必要とする家庭経済を作っていた。

1904年にNational Child Labor Committeeが設立され、写真家Lewis Hineらが子どもの労働現場を記録した。写真は年齢、職場、労働条件を視覚的な証拠として示し、州法強化を求める運動に使われた。

連邦レベルの児童労働規制が本格化するのは1916年以後であり、本記事の期間外である。重要なのは、進歩主義時代に児童労働が「家庭の私的判断」から「国家が規制すべき社会問題」へ変わったことである。

1911年トライアングル工場火災

1911年3月25日、New YorkのTriangle Shirtwaist Factoryで火災が発生し、146人が死亡した。多くが若い移民女性だった。避難経路の不足、一部出口の施錠、届かない消防はしごなどが被害を拡大した。

Library of Congressによれば、火災後New York州では工場安全を調査する委員会が設置され、避難路、防火、建築、労働条件に関する多数の改革法が成立した。

事故は「悪い一企業」の問題を越え、行政検査と建築基準をどこまで義務づけるかという制度問題になった。後にNew Dealで労働長官となるFrances Perkinsも火災を目撃し、労働安全政策へ深く関わることになる。

裁判所と労働規制

進歩主義改革は州議会で法律を作れば終わりではなかった。企業や労働者が裁判を起こし、最高裁を含む司法が「財産権」「契約の自由」「州の警察権」をどう解釈するかによって改革の範囲が変わった。

19世紀末から20世紀初頭の裁判所は、修正第14条のdue processを根拠に経済規制を厳しく審査することがあり、この時期は後に「Lochner era」と呼ばれることがある。

ただし裁判所がすべての労働規制を無効にしたわけではない。どの規制が公共衛生・安全として合理的かが事件ごとに争われた。

1905年ロックナー判決

1905年Lochner v. New Yorkで最高裁は、パン職人の労働時間を1日10時間・週60時間に制限するNew York州法を違憲とした。多数意見は雇用主と労働者の契約の自由を修正第14条のlibertyの一部として扱い、この規制を正当化する十分な健康上の理由がないと判断した。

この判決は、州が労働条件をどこまで規制できるかをめぐる進歩主義時代の対立を象徴した。

後世には強く批判される判決だが、当時の司法が単に「企業の手先」だったと説明するより、契約自由を憲法的権利と考える法律思想と、社会的交渉力の不平等を重視する改革思想が衝突した事件として見る方がよい。

1908年ミュラー判決

1908年Muller v. Oregonでは、最高裁は女性の一日10時間労働を定めたOregon州法を支持した。弁護士Louis Brandeisは法律論だけでなく、女性労働の健康影響を示す社会科学・医学資料を大量に提出した。

この「Brandeis Brief」は、統計や社会調査を裁判へ持ち込む進歩主義的手法の代表例として知られる。

一方、判決は女性を母性・身体的弱さを理由に特別保護の対象とする考えに依拠しており、男女平等という観点からは限界を持つ。女性保護法が労働条件改善になる一方、高賃金職から女性を排除する根拠として利用される場合もあった。

セオドア・ルーズベルトと「スクエア・ディール」

William McKinleyが1901年9月に暗殺されると、副大統領Theodore Rooseveltが大統領へ就任した。彼は連邦政府が企業、労働、消費者、自然資源に対してより積極的な役割を持つべきだと考えた。

Rooseveltの国内政策は後に「Square Deal」と呼ばれ、企業規制、消費者保護、自然保護が主要な柱となった。彼の目標は富裕者を罰することではなく、巨大経済組織が公共利益を害する場合に国家が介入できる制度を作ることだった。

この「公共利益」という言葉は進歩主義時代の重要な特徴である。企業、労働組合、地方政治のどれか一つに社会全体を委ねるのではなく、連邦政府が全体の調整者になろうとした。

大企業は解体するのか、規制するのか

Rooseveltは巨大企業をすべて同じものとは見なさなかった。規模が大きいこと自体ではなく、競争を破壊したり法律を無視したりする企業を「悪いトラスト」として規制すべきだと考えた。

これはPopulistなどの強い反独占思想とも、完全な自由放任とも異なる立場だった。巨大企業が技術的・経済的に不可避なら、それを透明化し、行政が監督するという方向である。

1903年にはDepartment of Commerce and Laborが設立され、そのBureau of Corporationsが大企業の調査を担当した。企業情報を政府が継続的に集める行政機能が強化された。

ノーザン・セキュリティーズ事件

1901年、J. P. MorganらはNorthern Securities Companyを設立し、北西部の主要鉄道会社を一つの持株会社のもとへまとめた。Roosevelt政権はこれをSherman Antitrust Actに反する企業結合として訴えた。

1904年、最高裁はNorthern Securitiesの解体を支持した。これはRoosevelt政権の反トラスト政策を象徴する勝利となり、「政府は巨大金融・鉄道企業にも法律を適用する」という政治的印象を強めた。

ただし反トラスト政策の目的は大企業の全面禁止ではない。企業結合をどこまで許容し、どこから公共利益を損なう独占と判断するかという基準づくりが中心問題だった。

鉄道規制の強化

1887年州際通商法で連邦鉄道規制は始まっていたが、初期のInterstate Commerce Commissionの権限は弱かった。進歩主義時代には鉄道運賃やrebateへの規制を強化する法律が追加された。

1903年Elkins Actは鉄道会社による秘密割引への規制を強め、1906年Hepburn ActはInterstate Commerce Commissionに運賃を審査・変更するより大きな権限を与えた。

鉄道は全国経済に不可欠な民間インフラだったため、料金設定を完全な私人間契約として扱えないという認識が広がった。公益事業規制の考え方が成長した例である。

1911年スタンダード・オイル解体判決

Standard Oilをめぐる連邦訴訟はRoosevelt政権下で進められ、1911年に最高裁は同社がSherman Antitrust Actに違反すると判断した。会社は34社へ分割された。

判決は企業の「大きさ」そのものを違法としたわけではなく、不合理な取引制限と独占化を問題とした。この「rule of reason」と呼ばれる考えはその後の反トラスト法解釈に大きな影響を与えた。

Tarbellの調査報道、州・連邦の訴訟、世論、法律論が長期間重なって結果に至った点が重要である。一つの記事が巨大企業を直接倒した、という単純な物語ではない。

自然保護を国家政策にする

工業化と西部開発が進む中、森林伐採、水資源、野生動物、景観保護が国家的問題になった。Rooseveltは狩猟・野外活動の経験を背景に自然保護を大統領政策の中心へ置いた。

National Park Serviceによれば、Rooseveltは在任中に5つの国立公園、18の国定記念物、51の連邦鳥類保護区、4つのgame preserve、150の国有林を設置・拡大し、合計約2億3,000万エーカーの公有地を保護した。

ただし当時はNational Park Serviceそのものはまだ存在せず、創設は1916年である。森林は農務省、国立公園は内務省など複数機関に分かれて管理されていた。

森林局と科学的資源管理

1905年、連邦森林保護区の管理が農務省へ移され、United States Forest Serviceが設立された。初代長官Gifford Pinchotは森林を放置するのではなく、長期的に持続可能な形で木材・水資源として管理することを重視した。

この考えは「conservation」と呼ばれ、資源を永久に使わないのではなく、「最大多数のために、最長期間、賢く利用する」という発想に近い。

近代森林行政の形成は、自然を科学的に測定し計画管理する進歩主義的国家の一部だった。森林もまた統計・専門家・行政の対象となった。

1906年古物保存法

1906年6月8日、Antiquities Actが成立した。National Park Serviceによれば、この法律は連邦所有地の歴史的・考古学的遺跡を保護する初の包括的な連邦法で、大統領に国定記念物を指定する権限を与えた。

Rooseveltはこの権限を積極的に使い、Devils Tower、El Morro、Montezuma Castle、Petrified Forest、Grand Canyonなどを保護対象とした。

考古遺物の略奪を防ぐ目的から始まった法律が、自然景観も含む広い保護制度へ発展したことは、文化財保護と自然保護が同じ行政枠組みで成長したことを示す。

ミューアとピンショー — 保存と保全

John MuirとGifford Pinchotはどちらも自然保護に重要な人物だが、考え方は同じではなかった。Muirは特定の自然景観を開発から守る価値を強く訴え、Sierra Clubを通じて国立公園・原生自然の保護を進めた。

Pinchotは森林を公共資源として科学的に管理し、木材利用・水利用と保全を両立させようとした。都市や産業による利用を必ずしも否定しなかった。

この違いは「自然を守るか開発するか」という単純な二択ではなく、自然を何のために、誰のために、どこまで利用できるのかという政策哲学の違いだった。

ヘッチ・ヘッチー論争

San Franciscoは水供給を安定させるため、Yosemite National Park内のHetch Hetchy Valleyへ貯水池を建設する計画を進めた。MuirとSierra Clubは国立公園内の景観を破壊するとして反対した。

一方、市側は増加する都市人口へ安全な水を供給する公共事業として必要だと主張した。1913年、CongressはRaker Actを成立させ、President Wilsonが署名した。

National Park Serviceはこの争いを、自然地域を保存する価値を全国規模で議論した初期の重要な論争として位置づけている。進歩主義の「公共利益」が自然保存と都市公共事業の双方から主張された例である。

女性が公共政治へ進出する

進歩主義時代、多くの女性はまだ連邦選挙で投票できなかった。しかし都市改革、教育、保健、労働、禁酒、児童福祉、消費者保護を通じ、政治的影響力を拡大した。

Library of Congressによれば、1880年から1910年の間に雇用される女性は260万人から780万人へ増加した。女性クラブや労働組合も公共政策へ関与した。

「家庭を守る責任があるからこそ、学校・食品・水・住宅・労働環境にも発言する必要がある」という論理は、従来の性別役割を完全に否定せずに女性の公共参加を正当化する方法として使われた。

女性参政権運動の再拡大

1890年、National Woman Suffrage AssociationとAmerican Woman Suffrage Associationが統合し、National American Woman Suffrage Associationとなった。州ごとの参政権拡大と連邦修正条項を組み合わせた運動を進めた。

Coloradoは1893年、Idahoは1896年に女性参政権を導入し、1910年Washington、1911年California、1912年Arizona・Kansasなどが続いた。

西部州での成功は「女性が投票しても社会秩序が崩壊しない」という実例を運動側へ与えた一方、全国的参政権はまだ実現していなかった。

1913年Washington D.C.参政権行進

1913年3月3日、Woodrow Wilsonの大統領就任式前日、Washington D.C.で全国規模の女性参政権行進が行われた。Library of CongressのNAWSA記録では、これは同組織による最初の全国的な参政権パレードとして位置づけられている。

Alice Paul、Lucy Burnsら若い活動家は、行進、視覚的演出、報道を使って連邦修正条項を全国的議題へ押し上げようとした。

行進内部でも人種差別の問題が存在し、黒人女性参加者の配置をめぐる対立が起きた。女性参政権運動も人種問題から独立していたわけではない。

選挙制度改革

進歩主義者は、政党ボスと企業利益が候補者選定を支配しているという批判から、選挙制度を変えようとした。州レベルでは直接予備選挙、住民発案、住民投票、解職請求などが導入された。

WisconsinのRobert La Folletteは、大学専門家と州政府を結ぶ「Wisconsin Idea」を進め、鉄道税制、予備選挙などの改革を推進した。Oregonでも住民投票制度が発達した。

これらは「代表を選んだ後は任せる」という代議制だけでなく、有権者が政策決定へ直接関与する仕組みを増やす試みだった。

修正第17条 — 上院議員直接選挙

合衆国憲法の原制度では、連邦上院議員は州議会が選出した。19世紀末には州議会で選出が行き詰まり議席が長期間空席になる例や、企業・政治マシーンが州議会を通じて上院議員を選んでいるという批判が強まった。

National Archivesによれば、1890年代以後直接選挙を求める修正案が繰り返し提出され、多くの州が事実上の直接選挙制度を先行して導入した。

1913年4月8日に修正第17条が批准され、上院議員は各州の有権者による直接選挙へ変わった。進歩主義時代の「政治を政党組織から有権者へ近づける」という改革の代表例である。

修正第16条 — 連邦所得税

1894年にCongressが所得税を成立させたが、最高裁は翌年その主要部分を違憲と判断した。そこで所得税を明確に認める憲法改正が進められた。

修正第16条は1909年にCongressを通過し、1913年2月に批准された。National Archivesによれば、Congressが人口による州別配分をせず所得税を課す権限を明記した。

導入当初、控除額が高かったため実際に所得税を支払ったのは人口の1%未満だった。しかし関税に強く依存していた連邦財政を変え、所得に応じて税負担を求める制度の基礎となった。

1907年恐慌と金融改革

1907年秋、New Yorkを中心に金融不安が広がり、信託会社への取り付けが起きた。Federal Reserveが存在しないアメリカでは、銀行へ緊急資金を供給する中央的仕組みが弱かった。

J. P. Morganら民間金融家と財務省が資金を集め、金融機関を支えることで恐慌は収束した。しかし「全国経済の安定を一人の民間銀行家の信用へ依存してよいのか」という問題が明確になった。

1908年Aldrich-Vreeland Actは緊急通貨制度とNational Monetary Commissionを設け、中央銀行制度の検討へ進んだ。

1913年連邦準備法

数年の議論の末、1913年12月23日にWoodrow WilsonがFederal Reserve Actへ署名した。Federal Reserve Historyによれば、法律は中央の監督機関と8〜12の地域連邦準備銀行を設ける制度を定めた。

最終的に12の地域銀行が設置され、1914年に業務を開始した。制度は民間銀行だけでもWashingtonの中央政府だけでもなく、地域分散と連邦監督を組み合わせた構造になった。

金融制度改革も進歩主義的な「専門制度による市場安定化」の一部と見ることができる。銀行を国有化するのではなく、公共的な中央制度で金融市場を管理しようとした。

タフト政権と進歩主義の分裂

1909年にTheodore Rooseveltの後継としてWilliam Howard Taftが大統領へ就任した。Taft政権も反トラスト訴訟を積極的に進め、Standard Oil解体判決もその在任中に出た。

一方、関税政策やBallinger-Pinchot controversyなどをめぐり、共和党内の保守派と進歩派の対立が深まった。RooseveltはTaftが改革路線から後退したと批判し、1912年共和党大統領候補をめぐって両者が衝突した。

党大会でTaftが共和党候補となると、Roosevelt支持者はProgressive Partyを結成した。進歩主義が既存二大政党の内部対立を超え、独立した大統領選挙運動へ発展した。

1912年大統領選挙

1912年選挙ではRepublicanのTaft、Progressive PartyのRoosevelt、DemocratのWoodrow Wilson、Socialist PartyのEugene V. Debsが主要候補となった。

Rooseveltの「New Nationalism」は巨大企業を不可避なものとして認めつつ、強い連邦政府が企業、労働、社会福祉を規制する構想だった。Wilsonの「New Freedom」は企業集中を抑え、競争を回復することをより重視した。

Debsは資本主義そのものの所有構造を批判し、労働者による社会的所有を訴えた。進歩主義時代には「改革」と呼ばれる範囲の内部に、かなり異なる国家・市場像が存在していた。

ウィルソン政権の「ニュー・フリーダム」

Wilsonは1913年に就任すると、関税、銀行、企業規制を中心に改革を進めた。Underwood Tariffは関税率を大きく引き下げ、修正第16条による所得税を新たな財源として組み合わせた。

Federal Reserve Actは金融制度を再編し、1914年にはFederal Trade Commission ActとClayton Antitrust Actが成立した。

ただしWilson政権の進歩主義には明確な限界もあった。1913年以後、財務省や郵政省などの連邦職場で人種分離が導入・強化され、黒人公民権団体から批判を受けた。経済改革と人種平等が同じ速度で進んだわけではない。

1914年連邦取引委員会法とクレイトン反トラスト法

1914年9月、Federal Trade Commission Actが成立し、Federal Trade Commissionが設立された。同委員会は企業の不公正な競争方法を調査・規制する恒久機関として構想された。

同年10月のClayton Antitrust Actは、価格差別、排他的取引、一部の企業結合などをより具体的に規制した。また労働組合や農業団体を単純に独占禁止法上の違法結合として扱わない方向を示した。

Sherman Actが主に裁判を通じて適用される法律だったのに対し、FTCの設置は専門行政機関が市場を継続監督する仕組みを加えた。20世紀型規制国家への重要な一歩である。

進歩主義と人種平等の限界

進歩主義時代は民主政治改革の時代だったが、黒人参政権剥奪とJim Crow segregationは南部で続いていた。白人改革者の多くはこの問題を優先せず、選挙制度改革が黒人の実質的投票権を回復することにも直結しなかった。

改革者の一部は人種隔離、移民制限、優生思想を支持した。National Park Serviceが現在の保全史で指摘するように、自然保護運動に関わった人物の中にも白人至上主義・優生思想を持つ者がいた。

したがって「progressive」という当時の政治名称を、現在の意味で自動的に平等主義・人権重視と理解するのは適切ではない。何を「進歩」と定義するか自体が時代の権力関係を反映していた。

ナイアガラ運動

Booker T. Washingtonは職業教育と経済的自立を重視し、白人社会との正面衝突を避けながら黒人社会の基盤を強化する戦略を取った。これに対しW. E. B. Du Boisらは、政治的権利と高等教育を後回しにすべきではないと批判した。

1905年、Du BoisらはNiagara Movementを結成し、投票権、人種差別撤廃、教育機会、公民権を明確に要求した。Library of CongressはDu Boisを同運動の創設者・事務局長の一人としている。

組織自体は長く続かなかったが、その人脈と要求はNAACP形成へつながった。

1909–1910年 NAACPの形成

1908年のSpringfield人種暴動を受け、黒人・白人双方の活動家、社会改革者、女性参政権運動家、社会主義者、宗教者らが新しい全国公民権組織の必要性を議論した。

1909年に全国会議を呼びかける「Call」が発表され、5月末から6月にNew Yorkで会議が開かれた。Library of Congressによれば約300人が参加し、1910年の第二回会議でNational Association for the Advancement of Colored Peopleという正式名称が採用された。

NAACPは人種隔離、参政権剥奪、リンチ、雇用・教育差別を法律、調査、広報を通じて争う全国組織へ成長した。進歩主義時代の調査・法律・専門組織という方法を、人種平等のために用いたとも言える。

専門知識と優生思想

進歩主義時代には「科学的に社会を改善できる」という信頼が強まった。食品化学、公衆衛生、森林学、社会調査では大きな成果を生んだ一方、優生思想のように人間を遺伝的価値で分類しようとする考えも「科学」の名で広がった。

犯罪、貧困、障害を遺伝によって説明し、特定の人々の生殖を制限すべきだという政策が州レベルで支持された。移民集団を「人種的に劣る」と分類する議論にも優生思想が影響した。

専門家主導の統治は、それ自体が善でも悪でもない。どのデータを集め、誰を正常と定義し、誰に政策決定権を与えるのかによって、社会保護にも排除にも使われうる。この点は進歩主義を現代から理解するうえで重要である。

この時代を理解するための8つの視点

第一に、進歩主義を一つの統一思想と考えない。 企業規制、都市改革、女性参政権、自然保護、労働、安全、禁酒などは異なる運動であり、参加者の価値観も一致していなかった。「改革したい」という方向性の中に複数の社会像が競合していた。

第二に、「大きな政府が突然始まった」と考えない。 19世紀にも政府は鉄道土地供与、関税、軍事介入などで経済へ深く関わっていた。進歩主義期に変わったのは、専門行政機関が継続的に市場・都市・資源を監督する形が増えたことである。

第三に、調査報道を一人の英雄が社会を変えた物語にしない。 TarbellやSinclairは世論形成に大きな役割を持ったが、法律成立には長年の行政研究、社会運動、議会活動、企業側の判断が重なっていた。報道は複雑な改革連合の一部だった。

第四に、労働改革を労働者保護だけから見ない。 行政・中間層改革者は社会不安や急進主義を抑え、工業社会を安定させる目的も持っていた。改革は資本主義を廃止するより、持続可能に調整する役割を果たす場合が多かった。

第五に、女性の政治参加を1920年から始めない。 投票権獲得以前から、女性はセツルメント、労働組合、消費者運動、学校・衛生改革を通じて公共政策へ関与していた。参政権はその活動経験の上に拡大した。

第六に、自然保護を単純な「自然対開発」の対立にしない。 RooseveltやPinchotは資源利用を前提とする保全を進め、Muirは景観そのものの保存を強く訴えた。Hetch Hetchy論争は、公共水道と自然保存という二つの「公共利益」が衝突した例である。

第七に、進歩主義と人種平等を同一視しない。 民主制度を改革した人物が人種隔離や移民制限を支持する場合もあり、連邦改革がJim Crowを終わらせることもなかった。同時代のNAACPなどを独立した改革運動として見る必要がある。

第八に、進歩主義の最大の遺産を個々の法律だけに置かない。 食品行政、森林行政、中央銀行、企業監督、労働調査など、専門的な恒久機関が作られたことが長期的には重要だった。国家が社会問題を継続的に測定・管理する仕組みが定着し始めた。

この時代に何が変わったのか

第一に、巨大企業を公共的規制の対象とする考えが定着した。Sherman法の執行強化、鉄道規制、FTC設置によって、全国企業は完全な私的領域ではなくなった。

第二に、政府が消費者を守る役割を持つようになった。食品・薬品・食肉に連邦基準を設定し、表示と衛生を監督する制度が生まれた。

第三に、労働争議が公共問題として扱われ始めた。1902年無煙炭ストライキでは連邦政府が労使の仲裁へ入り、「社会全体の利益」という第三者の立場を明確にした。

第四に、都市生活が行政規制の対象となった。住宅、消防、工場、児童保護、公衆衛生を専門職員が検査する近代都市行政が発達した。

第五に、自然資源を連邦政府が長期管理する制度が拡張した。森林局、国立公園、鳥類保護区、国定記念物など、土地を市場利用だけに委ねない政策が制度化された。

第六に、民主制度の設計そのものが変わった。直接予備選挙、住民投票、修正第17条などによって政党組織と州議会の仲介を減らし、有権者が直接関わる仕組みが増えた。

第七に、連邦財政と金融制度が近代化した。修正第16条による所得税と1913年連邦準備法は、20世紀の大きな連邦政府を支える財政・金融基盤となった。

第八に、「専門家が調査して政策を設計する」という統治方法が社会に定着した。化学者、社会調査員、森林官、行政委員会が問題を定義する力を持つ一方、その専門性が差別や排除へ利用される危険も同時に現れた。

1890年から1914年の進歩主義時代は、工業社会を否定して過去へ戻ろうとした時代ではない。巨大企業、都市、大量生産、多民族社会が既に存在することを前提に、それらをどう管理し、誰が利益と危険を負担するのかを制度として設計し直そうとした時代だった。政府が市場と社会へ関与する範囲を広げたことで、後のNew Deal、公民権行政、消費者保護、環境政策へつながる国家の骨格が形成された。

主な出来事

  • 1890年 — Sherman Antitrust Act成立。連邦反独占政策の基本法となる。
  • 1890年 — 女性参政権団体が統合されNational American Woman Suffrage Association成立。
  • 1893年 — Chicago万国博覧会。都市美運動へ大きな影響。
  • 1893年 — Coloradoで女性参政権が住民投票によって承認。
  • 1896年 — Idahoで女性参政権成立。
  • 1898–1900年頃 — 都市改革・企業規制・社会調査を掲げる進歩主義運動が全国的に拡大。
  • 1901年9月 — McKinley大統領暗殺後、Theodore Rooseveltが大統領へ就任。
  • 1902年 — Ida TarbellがStandard Oil調査連載を開始。
  • 1902年5–10月 — Anthracite Coal Strike。Roosevelt政権が仲裁へ介入。
  • 1903年 — Department of Commerce and Labor設立。
  • 1903年 — Elkins Act成立。鉄道の秘密割引規制を強化。
  • 1904年 — Supreme CourtがNorthern Securities解体を支持。
  • 1904年 — National Child Labor Committee設立。
  • 1905年 — United States Forest Service設立。
  • 1905年 — Lochner v. New York判決。労働時間規制を違憲と判断。
  • 1905年 — W. E. B. Du BoisらがNiagara Movementを結成。
  • 1906年 — Upton Sinclair『The Jungle』刊行。
  • 1906年6月 — Pure Food and Drugs Act、Meat Inspection Act成立。
  • 1906年6月8日 — Antiquities Act成立。
  • 1906年 — Hepburn Act成立。Interstate Commerce Commissionの鉄道規制権限を強化。
  • 1907年 — Panic of 1907。金融制度改革論が加速。
  • 1908年 — Muller v. Oregon判決。女性労働時間規制を支持。
  • 1908年 — Aldrich-Vreeland Act成立、National Monetary Commission設置。
  • 1909年 — 黒人・白人活動家が全国公民権会議を開催。NAACP形成へ。
  • 1909年 — Plan of Chicago発表。近代都市計画の代表例となる。
  • 1910年 — National Negro CommitteeがNAACPの名称を採用。
  • 1910年 — Washington州で女性参政権成立。
  • 1911年3月25日 — Triangle Shirtwaist Factory fire。146人死亡。
  • 1911年 — Supreme CourtがStandard Oil解体を命令。
  • 1911年 — Californiaで女性参政権成立。
  • 1912年 — Roosevelt支持者がProgressive Partyを結成。
  • 1912年11月 — Woodrow Wilsonが大統領選挙に勝利。
  • 1912年 — Arizona・Kansasで女性参政権成立。
  • 1913年2月 — 修正第16条批准。連邦所得税の憲法上の根拠を確立。
  • 1913年3月3日 — Washington D.C.で全国女性参政権行進。
  • 1913年4月8日 — 修正第17条批准。連邦上院議員直接選挙へ。
  • 1913年 — Underwood Tariff成立。関税率を引き下げ所得税と組み合わせる。
  • 1913年12月19日 — Raker Act成立。Hetch Hetchy Valleyでの貯水池建設を認める。
  • 1913年12月23日 — Federal Reserve Act成立。
  • 1914年9月26日 — Federal Trade Commission Act成立。
  • 1914年10月 — Clayton Antitrust Act成立。
  • 1914年 — ヨーロッパで第一次世界大戦が始まり、アメリカ国内改革の環境も大きく変わり始める。

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進歩主義時代の国内改革と並行して、1898年以後のアメリカはCuba、Puerto Rico、Philippines、Hawaii、Panama Canalなどを通じて海外での軍事・政治的影響力を急速に拡大した。次に独立記事を追加するなら、1898–1914|アメリカ|海外帝国への転換 — 米西戦争、フィリピン、Puerto Rico、Hawaii、Panama Canalとすることで、「国内では規制国家を作り、国外では影響圏を拡大する」という同時代の二つの動きを並行して見ることができる。

参考資料・出典

資料確認日:2026年10月3日 / ART LIBRARY