1865–1877
アメリカ|再建期
奴隷制廃止、市民権、黒人参政権、解放民局、KKK、再建の終焉
1865年、南北戦争が終わったアメリカは、単に敗れた南部諸州を連邦へ戻せばよい状態ではなかった。約400万人の奴隷化されていた人々が自由となり、奴隷制を前提に組み立てられていた南部の労働、土地所有、政治、家族、教育、司法、地方行政を根本から作り直す必要があった。同時に、反乱した州をどの条件で連邦へ復帰させるのか、元南部連合指導者を政治へ戻すのか、連邦政府は個人の権利を州政府からどこまで守るべきなのかという、合衆国憲法そのものに関わる問題が噴き出した。
この1865年から1877年までの時期を一般に再建期、再建期と呼ぶ。再建とは、戦争で壊れた南部を物理的に復旧するだけの政策ではない。奴隷制を廃止した後のアメリカで「自由とは何か」「市民とは誰か」「投票権を誰に与えるのか」「連邦政府は州に対してどこまで市民権を保障できるのか」をめぐる巨大な制度実験だった。アメリカ国立公園局が再建期をしばしば「第二の建国」と説明するのは、建国期に十分に解決されなかった市民権と平等の問題が、南北戦争後に憲法レベルで再定義されたためである。
その中心となったのが修正第13条、第14条、第15条だった。第13条は奴隷制を廃止し、第14条は出生または帰化による合衆国市民権と適正な法的手続、法の平等な保護を定め、第15条は人種、肌の色、かつて奴隷状態にあったことを理由に男性市民の投票権を拒否することを禁じた。これらは現在までアメリカ憲法の基礎をなす。しかし条文が成立したことと、それが日常生活で実現したことは同じではない。再建期とは、憲法上の自由と、それを拒もうとする社会的・政治的力が激しく衝突した時代でもあった。
解放された黒人社会は連邦政府から権利を一方的に「与えられる」だけの存在ではなかった。家族を再統合し、法的婚姻を結び、学校を建て、教会を独立させ、土地を求め、労働契約を交渉し、政治集会を開き、投票し、州憲法制定会議や議会へ進出した。1870年代には黒人男性が連邦議会に入り、州・地方レベルではさらに多数が公職を担った。再建期の政治変化は、元奴隷の人々自身が自由を具体的な制度へ変えようとした運動なしには成立しない。
一方、白人南部社会の多くはこの変化を受け入れなかった。黒人法によって黒人労働を旧来のプランテーション秩序へ拘束しようとする州が現れ、クー・クラックス・クランなどの白人至上主義組織は黒人有権者、共和党員、教師、牧師、地方政治家を脅迫・暴行・殺害した。メンフィス、ニューオーリンズ、コルファクス、ハンバーグなどでは集団的な人種暴力が起こった。再建期を理解するには、憲法改正と議会政治だけでなく、投票所、農場、学校、教会、地方裁判所、街路で何が起きていたのかを見る必要がある。
さらに、この時代の最大の未解決問題の一つが土地だった。自由になった人々にとって、白人地主から経済的に独立するには土地所有が重要だった。しかし1865年夏、アンドリュー・ジョンソン政権は連邦管理下にあった多くの旧南部連合系土地を元所有者へ返還した。「40エーカーの土地とラバ1頭」という期待は広範な土地再分配政策にはならず、多くの黒人農民は土地を持たないまま小作・小作制度へ入った。法的自由が成立しても経済的自立は保証されなかったのである。
1877年に再建が終わるまでの12年間、アメリカは一度、黒人男性参政権、異人種間の共和党政治、公教育、連邦による公民権保護という制度を南部で実際に運用した。しかし1870年代になると北部の政治的関心は弱まり、経済恐慌、共和党内部の分裂、連邦最高裁の限定的判断、白人民主党による暴力的な「リディーマー」運動が再建政府を後退させた。1876年大統領選挙をめぐる危機と1877年の連邦軍撤収によって、連邦政府が南部黒人の政治権利を軍事的に保障する時代は終わった。
再建期を「失敗」とだけ呼ぶと、その時代に実現した変化を見失う。逆に「第二の建国」と称賛するだけでは、その成果がなぜ短期間で弱められたのかが見えない。再建期の重要性は、アメリカが奴隷制の廃止だけでなく、人種を越えた市民権という原理を憲法に書き込んだこと、そしてその原理を現実にする国家能力・政治意思が継続しなかったことの両方にある。
CONTENTS
- 再建期とは何を「再建」する時代だったのか
- 奴隷制の終焉 — 自由は何を意味したのか
- 修正第13条 — 奴隷制廃止を憲法へ
- リンカーン暗殺とアンドリュー・ジョンソン
- 大統領主導の再建 — 南部を早期復帰させる
- 解放民局 — 自由社会への移行を支える
- 家族を取り戻す — 婚姻、親族、移動
- 教育を求める — 学校は自由の制度になる
- 黒人教会と自主的コミュニティ
- 土地をめぐる期待 — 「40エーカーの土地とラバ1頭」
- 奴隷労働から自由労働へ
- 小作制度 — 自立と債務の間
- 黒人法 — 奴隷制後の拘束
- 1866年公民権法
- 1866年メンフィス・ニューオーリンズ — 戦争後も続く暴力
- 修正第14条 — 市民権と法の平等な保護
- 議会主導の再建への転換
- 1867年再建法 — 軍政地区と新州憲法
- 黒人男性の有権者登録
- 州憲法制定会議 — 政治制度を書き直す
- 黒人政治参加 — 投票する側から統治する側へ
- ハイラム・レヴェルズとジョセフ・レイニー — 連邦議会へ
- 再建期の州政府は何を変えたのか
- 南部公教育制度の形成
- 市民権とジェンダー — 女性参政権運動との分岐
- アンドリュー・ジョンソン弾劾
- ユリシーズ・S・グラント政権と再建期
- 修正第15条 — 人種を理由とする投票権拒否の禁止
- クー・クラックス・クラン — 政治を暴力で破壊する
- 執行法 — 連邦政府は市民を守れるか
- 司法省と連邦法執行
- 1873年コルファクス — 地方政府をめぐる虐殺
- 最高裁と再建期権限の縮小
- 1873年恐慌と北部の関心低下
- 解放民貯蓄銀行破綻
- 1875年公民権法
- リディーマーと「地方自治」
- ミシシッピ計画 — 暴力と選挙操作
- 1876年ハンバーグ 虐殺
- 1876年大統領選挙
- 1877年 — 再建期の終焉
- 再建後に何が残ったのか
- この時代を理解するための8つの視点
- この時代に何が変わったのか
- 主な出来事
再建期とは何を「再建」する時代だったのか
再建期という言葉からは、戦争で破壊された鉄道、農場、都市を復旧する「復興」が連想されやすい。しかし実際の争点ははるかに深かった。1865年の時点で、南部連合諸州は軍事的には敗北していたが、それらをどの条件で連邦政治へ復帰させるかは決まっていなかった。また、奴隷制度そのものが崩壊したことで、南部社会の法律と労働関係を一から組み替える必要があった。
誰が復帰条件を決めるのかという問題だけでも、大統領と連邦議会が対立した。アンドリュー・ジョンソンは比較的早期に白人南部政治家を復帰させようとし、共和党議員の多くは、黒人市民権を保障しないまま元南部連合勢力を政治へ戻せば戦争前の支配秩序が再生すると考えた。
したがって再建期は、「連邦を元に戻すこと」と「連邦の意味そのものを変えること」という二つの目標の間で揺れた。南部諸州を以前と同じ条件で戻すのか、それとも奴隷制廃止を基礎に市民権・参政権・連邦権限を再構築するのか。この違いが1860年代後半の政治対立を決定した。
奴隷制の終焉 — 自由は何を意味したのか
奴隷化されていた人々にとって、自由は抽象的な法的地位だけではなかった。自分の身体を自分で管理すること、家族と暮らすこと、働く場所を選ぶこと、労働の対価を受け取ること、移動すること、教育を受けること、宗教組織を自分たちで運営すること、暴力から保護されること、土地を持つこと、政治へ参加することが自由の具体的内容だった。
奴隷制下では家族が売買によって分離される可能性が常にあり、婚姻は州法上十分に認められない場合が多かった。解放後、多くの人々が行方不明の配偶者・子ども・親を探し、新聞広告、解放民局、教会、人づての情報を利用した。婚姻の法的登録を行い、家族関係を国家に認めさせることも自由の重要な実践だった。
また、白人監督者の許可なく移動することや、自分の労働時間を決めることも大きな変化だった。旧奴隷所有者の側はそれを「怠惰」や「労働規律の崩壊」と表現することがあったが、元奴隷にとってはまさに奴隷制から離れる行動だった。
修正第13条 — 奴隷制廃止を憲法へ
リンカーンの奴隷解放宣言は1863年に反乱州の奴隷を自由と宣言したが、戦争権限にもとづく措置であり、奴隷制を合衆国全体から恒久的に廃止するには憲法改正が必要だった。修正第13条は1865年1月31日に連邦議会を通過し、同年12月6日に必要な州数の批准を得た。
第1節は奴隷制と本人の意思に反する隷属を禁止した。ただし「犯罪について適正に有罪判決を受けた場合」を例外とした。この例外規定は後に南部刑罰制度と受刑者貸出制度を考える際に重要になる。黒人法や浮浪者取締法で黒人を犯罪化し、刑務労働へ送り込む制度が形成されたためである。
さらに重要なのが第2節で、連邦議会にこの条項を「適切な立法」で執行する権限を与えた。奴隷制廃止を州政府の善意に任せるのではなく、連邦議会が自由を保障する法律を制定できるという考えが明記された。
リンカーン暗殺とアンドリュー・ジョンソン
1865年4月9日、ロバート・E・リーの軍がアポマトックス・コートハウスで降伏し、主要な戦闘は終結へ向かった。そのわずか5日後、リンカーンはジョン・ウィルクス・ブースに撃たれ、翌15日に死亡した。
副大統領アンドリュー・ジョンソンが大統領へ昇格した。ジョンソンはテネシー出身の連邦維持派で、南部連合への反対から1864年に共和党系のナショナル・ユニオン党の統一候補でリンカーンの副大統領候補になっていた。しかし人種平等や黒人参政権には強く反対し、戦後南部を白人中心の政治秩序へ早期復帰させようとした。
リンカーンが存命なら再建期がどのように進んだかを断定することはできない。リンカーン自身も黒人参政権を全面的に提示していたわけではなく、最後の演説では一部の黒人男性への選挙権を支持する方向を示したにすぎない。したがって「リンカーンならすべてうまくいった」という仮定ではなく、彼の死によってジョンソンが再建政策の主導権を握ったことが現実の転換点だったと見る必要がある。
大統領主導の再建 — 南部を早期復帰させる
1865年5月、ジョンソンは大統領主導の再建を開始した。多くの元南部連合支持者に恩赦を与え、南部諸州に臨時知事を置き、奴隷制廃止、連邦離脱の否認、南部連合債務の拒否などを条件に州政府再編を進めた。
一部の南部連合指導者や富裕層は自動恩赦の対象外だったが、ジョンソンは個別恩赦を大量に認め、元南部連合政治家・地主が急速に政治と財産を回復した。黒人男性の参政権は復帰条件とされなかった。
この結果、1865年末には旧南部連合指導者が州・連邦政治へ再登場し始めた。北部共和党員にとっては、戦争で勝ったにもかかわらず旧支配層が権力を取り戻しているように見えた。さらに南部州議会が黒人法を制定したことで、ジョンソン方式への不信は決定的に強まった。
解放民局 — 自由社会への移行を支える
南北戦争終結直前の1865年3月、連邦議会は難民・解放民・放棄地局、通称解放民局を陸軍省内に設置した。アメリカ国立公文書記録管理局によれば、同局は元奴隷と困窮した白人に食料、衣服、医療、住居を提供し、学校設立、家族捜索、婚姻の合法化、土地購入、労働契約の確認などを支援した。
解放民局は巨大な福祉国家ではない。広大な旧南部連合地域に対して人員も予算も限られ、多くの業務は軍、北部慈善団体、教会組織、黒人コミュニティ自身の努力と組み合わせて行われた。
それでも、連邦政府が個人の教育、医療、労働契約、司法アクセスへこれほど直接関与することは当時として異例だった。再建期の重要な特徴の一つは、連邦政府が単に州間関係を管理する存在から、市民の自由を具体的に保護する存在になりうるかが試された点にある。
家族を取り戻す — 婚姻、親族、移動
解放後、多くの元奴隷が最初に行ったことの一つは家族の再建だった。奴隷制度では配偶者や子どもが所有者の売買によって引き離される可能性があり、法的婚姻も十分保障されなかった。
解放民局は婚姻を登録し、家族捜索を支援した。新聞には離別した家族を探す広告が長期間掲載された。数年、時には数十年会っていない親族の消息を求める人々もいた。
自由とは家族生活の時間を取り戻すことでもあった。元奴隷所有者が女性や子どもの労働を当然視していた地域では、黒人家族が家族単位で働き方を決めようとすること自体が旧秩序への挑戦となった。
教育を求める — 学校は自由の制度になる
奴隷制下では黒人への読み書き教育を制限・禁止する州が多く存在した。そのため解放後の教育要求は非常に強かった。学校は単に就職のための技能を得る場所ではなく、奴隷制が否定してきた人格・市民性を獲得する象徴でもあった。
解放民局は北部の慈善団体や宗教団体と協力して学校建設・校舎賃借・教師派遣を支援した。アメリカ国立公文書記録管理局の教育部門記録では1866年後半から1868年にかけて学校数と在籍者が急速に増加したことが確認できる。
しかし教育の主体は外部団体だけではない。黒人コミュニティ自身が建物を提供し、授業料や教師給与を集め、教会を学校として使った。やがて地域出身の黒人教師も増えた。再建期の州政府が州立公教育制度を整備すると、教育は南部政治の中心的公共事業となった。
黒人教会と自主的コミュニティ
解放後、黒人キリスト教徒は白人教会の管理から離れ、アフリカン・メソジスト・エピスコパル教会やバプテスト教会など独立した宗教組織を拡大した。教会は礼拝の場であると同時に、学校、政治集会、相互扶助、選挙運動、地域情報の中心になった。
牧師は地域の政治指導者になることが多く、再建期期の州・地方政治へ進出した人々もいた。そのため白人至上主義者は教会や牧師を政治的脅威とみなし、焼き討ちや暴力の対象とする場合があった。
家族、学校、教会、相互扶助団体、新聞を自分たちで運営することは、黒人社会が白人管理から独立した公共圏を作る過程だった。
土地をめぐる期待 — 「40エーカーの土地とラバ1頭」
元奴隷にとって経済的自由の核心は土地だった。土地を所有できれば、旧所有者と労働契約を結ばずに家族単位で生産し、政治的にも経済的にも自立できる可能性が高まる。
1865年1月、ウィリアム・T・シャーマン将軍の特別野戦命令第15号はサウスカロライナ、ジョージアなど大西洋沿岸部の特定土地を黒人家族へ割り当てる政策を示した。解放民局創設法も一部の放棄・没収地を元奴隷へ一定期間貸与する権限を持っていた。
しかしこれは全国的な土地再分配政策ではなかった。ジョンソンは1865年夏以後、恩赦された旧所有者へ連邦管理土地を返還する方針を進め、多くの黒人入植者は取得した土地を失った。後世「40エーカーの土地とラバ1頭」と象徴される土地所有への期待は、広範な制度としては実現しなかった。
この土地問題は再建期の長期的な限界を決めた。政治的権利が拡大しても、多くの黒人家族は資本・土地を持たず、旧プランテーション経済の中で生計を立てざるを得なかった。
奴隷労働から自由労働へ
奴隷制廃止後、南部農業をどう運営するかは経済全体の問題だった。旧奴隷所有者は大規模綿花・米・砂糖生産を維持するため、黒人労働者に長期契約と集団労働を求めた。一方、解放された黒人たちは監督者の命令から離れ、家族単位の労働、自分の時間、現金賃金、移動の自由を求めた。
解放民局は労働契約を仲介・確認した。これは元奴隷が賃金を受け取る自由労働への移行を助ける側面を持つ一方、契約を通じて農場に労働力を固定しようとする地主側の要求にも利用された。
自由労働市場が自然に形成されたのではなく、「自由な労働とは何か」を政府、地主、労働者が争ったのである。再建期初期の多数の紛争は、賃金額だけでなく、誰が労働時間・家族労働・作物・居住場所を決めるのかをめぐっていた。
小作制度 — 自立と債務の間
土地再分配が進まず、地主にも現金が不足していたため、南部では小作制度が広がった。地主が土地を提供し、小作人が家族労働で作物を栽培し、収穫物の一定割合を地主へ渡す仕組みである。
賃金労働よりも家族単位の自主管理を得られるため、元奴隷側にも一定の魅力があった。しかし種、道具、食料を商人から信用購入する作物先取特権制度と結びつくと、収穫後も債務が残り、翌年も同じ土地・商店へ依存する循環が生まれた。
アメリカ国立公文書記録管理局は、解放民局解散後、多くの黒人農民が小作農や借地農となり、債務による拘束の悪循環に置かれたと説明している。法的自由と経済的依存が共存したことは再建期社会の重要な特徴である。
黒人法 — 奴隷制後の拘束
1865年から1866年にかけて南部州政府は黒人法を制定した。内容は州ごとに異なるが、黒人の移動、職業、労働契約、土地賃借、武器所持、裁判上の権利などを制限する法律が含まれた。
特に浮浪者取締法は、雇用契約を持たない人を「浮浪者」として逮捕し、罰金を払えなければ労働へ出すことを可能にした。これは奴隷制が廃止された後も、刑事法を使って黒人労働を強制する危険を持っていた。
黒人法は北部世論にも強い衝撃を与えた。戦争によって奴隷制を廃止したのに、南部州が別の法律によって同様の従属関係を再構築しているように見えたからである。議会主導の再建が強まる重要な背景となった。
1866年公民権法
共和党主導の連邦議会は1866年、公民権法を成立させた。この法律はアメリカで生まれた人々を人種にかかわらず合衆国市民とし、市民が契約、訴訟、財産所有などにおいて白人と同じ権利を持つことを定めた。
ジョンソンは拒否権を行使したが、連邦議会は4月9日に拒否権を覆した。大統領の反対を越えて主要な公民権法を成立させたことは、大統領と連邦議会の再建期政策が完全に分裂したことを示した。
しかし通常法律だけでは、将来別の連邦議会や裁判所によって弱められる可能性がある。そのため共和党議員は市民権と法の平等な保護を憲法に書き込む修正第14条を進めた。
1866年メンフィス・ニューオーリンズ — 戦争後も続く暴力
1866年5月、テネシー州メンフィスで白人警察と白人群衆が黒人居住地域を襲い、アメリカ国立公園局によれば黒人男性・女性・子ども46人が殺害され、89戸の住宅と12の黒人教会が焼かれた。黒人女性への性的暴力も記録されている。
7月30日にはニューオーリンズで、黒人参政権などを検討しようとする憲法制定会議とその支持者を白人警察・元南部連合系集団が襲撃した。アメリカ国立公園局は黒人支持者34人と代表3人が殺害され、100人を超える黒人が負傷したと記録している。
これらの事件は、ジョンソンの大統領主導の再建下で州・地方政府へ権力を戻した場合、黒人市民の生命と政治活動が保護されない可能性を北部有権者へ示した。1866年中間選挙で共和党が大勝し、議会主導の再建へ転換する政治的背景となった。
修正第14条 — 市民権と法の平等な保護
修正第14条は1866年に連邦議会を通過し、1868年7月9日に批准された。その第1節は「アメリカ合衆国で生まれ、または帰化し、その管轄に属するすべての者」を合衆国および居住州の市民と定義した。これはドレッド・スコット判決が黒人の合衆国市民権を否定した歴史を根本から覆した。
さらに州が市民の市民としての特権・免除を侵害してはならないこと、生命・自由・財産を適正な法的手続なしに奪ってはならないこと、管轄下にあるすべての人へ法の平等な保護を否定してはならないことを規定した。
重要なのは、この条項が州政府による権利侵害を連邦憲法の問題にしたことである。建国以来の連邦制では市民権保障が州法に大きく依存していたが、再建修正条項は連邦政府が個人の権利を州から守る憲法的基盤を拡大した。
ただし第14条の意味が直ちに最大限実現されたわけではない。19世紀後半の連邦最高裁判所はその適用範囲を狭く解釈する判決を出し、法の平等な保護がジム・クロウを止める強力な手段になるのははるか後のことである。
議会主導の再建への転換
1866年選挙で共和党が連邦議会に強い多数を確保すると、ジョンソンの政策を押し返す条件が整った。共和党内部にも穏健派と急進派共和党の差があったが、南部州政府を黒人市民権の保障なしに復帰させることには多くが反対した。
サディアス・スティーヴンス、チャールズ・サムナーら急進派共和党は、南部政治の再編、黒人男性参政権、連邦政府による権利保障を強く主張した。一方、より穏健な共和党員も1865〜1866年の黒人法と人種暴力を見て、より強い連邦介入へ傾いた。
ここで再建期の主体は大統領から連邦議会へ移った。1867年の再建法はその制度的表現である。
1867年再建法 — 軍政地区と新州憲法
1867年3月、連邦議会はジョンソンの拒否権を覆して第1次再建法を成立させた。テネシーを除く旧南部連合10州は5つの軍政地区に分けられ、それぞれ連邦軍司令官の監督下へ置かれた。
連邦議会へ完全復帰する条件として、各州は新しい憲法を制定し、黒人男性参政権を認め、修正第14条を批准することを求められた。続く法律は有権者登録と州憲法制定会議の手続きを具体化した。
軍政という言葉から全面的な軍事独裁を想像するのは適切ではない。日常行政の多くは州・地方機関が続けたが、連邦軍が暴力抑止と政治再編の最終的な権力を持った。黒人有権者が初めて大規模に政治へ参加するには、白人至上主義的地方権力から一定の保護が必要だった。
黒人男性の有権者登録
再建法のもとで、旧南部連合州では成人男性の有権者登録が行われた。人種を理由に登録を拒否することはできず、元南部連合指導者の一部は一定期間政治参加を制限された。
黒人男性は登録所へ集まり、政治集会、ユニオン・リーグ、共和党 組織を通じて選挙へ参加した。奴隷制下では法的主体として政治から排除されていた人々が、数年後には州憲法の批准や政府選出に直接参加した。
この急速な政治変化は白人保守派にとって「社会秩序の逆転」と映った。後にKKKやレッド・シャツが選挙前に黒人有権者を襲撃したのは、投票が単なる象徴ではなく実際に州政府の権力を変える力を持ったためである。
州憲法制定会議 — 政治制度を書き直す
1867〜1868年、南部各州で新しい憲法制定会議が開かれた。黒人代表、北部出身共和党員、南部白人共和党員が参加し、州政治の基礎制度を再設計した。
新憲法は黒人男性参政権を認め、公教育制度を整備し、財産資格を減らし、州によっては債務者保護や女性の財産権に関する改革も含んだ。州政府の公共的役割が奴隷制時代より拡大した。
反対派は北部出身者を「カーペットバッガー」、南部白人共和党員を「スキャラワグ」と侮蔑的に呼び、再建期の州政府を外部勢力が押しつけた腐敗政府と描いた。しかし実際には地元黒人有権者と南部白人共和党員も大きな政治基盤を構成していた。
黒人政治参加 — 投票する側から統治する側へ
再建期の最も大きな変化の一つは、黒人男性が有権者だけでなく政治家として州・地方政府へ進出したことである。アメリカ国立公園局は、黒人男性が州議会で600を超える議席を占め、さらに保安官、治安判事、市議会議員など多数の地方公職に就いたことを紹介している。
黒人政治家の背景は多様だった。奴隷制下で自由人だった者、戦後教育を受けた者、牧師、職人、北軍 退役兵、農民、教師などがいた。全員が同じ政策を持っていたわけではないが、教育、公民権、土地・労働、地方行政への黒人市民の参加を政治課題にした。
後の「失われた大義」史観の歴史叙述では黒人政治家が無知・腐敗の象徴として描かれたが、これは白人支配回復を正当化する政治的神話だった。再建期の州政府には実際に汚職や財政問題があったが、それは同時代の北部都市政治にも存在した問題であり、人種だけで説明できない。
ハイラム・レヴェルズとジョセフ・レイニー — 連邦議会へ
1870年2月、ミシシッピ選出のハイラム・ローズ・レヴェルズが連邦上院議員に就任し、最初の黒人連邦上院議員となった。同年12月、サウスカロライナのジョセフ・H・レイニーが最初の黒人連邦下院議員として就任した。
連邦下院の記録によれば、1870年代には14人の黒人下院議員と2人の黒人上院議員が連邦議会で活動した。彼らはクー・クラックス・クラン対策、選挙権、教育、公共施設差別の禁止などを議論した。
この光景は南北戦争以前には想像しにくかった。かつて奴隷制を保護した連邦議会で、黒人議員が合衆国憲法を根拠に公民権を要求したのである。再建期の政治革命を最も象徴的に示す変化の一つだった。
再建期の州政府は何を変えたのか
再建期の州政府は黒人参政権だけを扱ったわけではない。アメリカ国立公園局は、これらの政府が南部初の州立公教育制度を整備し、税制度をより公平にし、公共交通・公共施設での人種差別を禁止する政策を進め、鉄道など経済開発にも投資したと整理している。
戦争で破壊されたインフラを再建し、学校や福祉制度を整備するには税収が必要だった。そのため州税が上昇し、鉄道補助金と公債発行も増えた。一部では実際に汚職・投機・財政破綻が起き、それが反再建期運動に利用された。
しかし「税が上がった=再建期の州政府が無能だった」とするだけでは不十分である。奴隷制時代の南部州政府は教育・福祉への公的支出自体が少なく、より広い住民へ公共サービスを提供する国家を作ることそのものが財政構造を変えた。
南部公教育制度の形成
再建期以前の南部には、地域差はあるものの、全児童を対象とする州立公教育制度が十分整備されていなかった。奴隷化された黒人への教育制限も存在した。
再建期州憲法・州政府は税を基盤とする公立学校制度を整備した。多くの場合学校自体は人種分離されていたが、黒人児童が公費教育へ制度的に入ることは大きな変化だった。
黒人コミュニティにとって学校建設は政治権利と同じほど重要だった。読み書きは契約、投票、新聞、聖書、土地取引を自分で扱うための手段であり、教育は自由を世代間で定着させる制度と考えられた。
市民権とジェンダー — 女性参政権運動との分岐
再建修正条項は人種をめぐる市民権を大きく変えたが、政治的参政権を性別の境界から解放したわけではない。修正第14条第2節には憲法本文で初めて「男性」という語が明示され、修正第15条は人種を理由とする投票権差別を禁じたが、性別には触れなかった。
これは女性参政権運動内部に深い対立を生んだ。スーザン・B・アンソニー、エリザベス・キャディ・スタントンらは第15条が性別を含まないことを批判し、ルーシー・ストーンらはまず黒人男性参政権を支持したうえで女性参政権を追求する立場を取った。
この分裂は、再建期における「普遍的市民権」がどこまで普遍的だったのかを示す。黒人男性の投票権確立は画期的だったが、女性は依然として全国的な選挙権から排除された。女性参政権が憲法に明記されるのは1920年の第19修正条項まで待つことになる。
アンドリュー・ジョンソン弾劾
ジョンソンと共和党連邦議会の対立は1867〜1868年に頂点へ達した。連邦議会は大統領による再建期政策の妨害を警戒し、公職在任法などで行政権を制限しようとした。
ジョンソンが陸軍長官 エドウィン・スタントンを解任しようとしたことを直接の契機として、下院は1868年2月24日に126対47でジョンソンを弾劾訴追した。これはアメリカ史上最初の大統領弾劾だった。
上院での弾劾裁判では有罪35、無罪19となり、罷免に必要な3分の2へ1票足りなかった。ジョンソンは任期を全うしたが、政治的影響力は大きく低下した。
弾劾は単にStanton解任の技術的問題ではない。敗戦南部の再編を誰が決定するのか、大統領と連邦議会の憲法的権力、黒人市民権をどこまで連邦政府が保障するかという再建期全体の対立が背景にあった。
ユリシーズ・S・グラント政権と再建期
1868年大統領選挙では北軍の英雄ユリシーズ・S・グラントが共和党候補として当選し、1869年に就任した。グラントは修正第15条批准と黒人男性参政権を支持し、南部の白人至上主義暴力に対してジョンソンより積極的に連邦権力を使用した。
1870年までに旧南部連合諸州は新憲法と再建期条件のもとで連邦へ復帰した。しかし州が復帰したことで問題が解決したわけではない。むしろ黒人・白人共和党員が州政府を運営するようになると、それを暴力で倒そうとする組織が強まった。
グラント政権の再建期政策を見る際には、連邦軍の使用を「南部占領」とだけ捉えるのではなく、地方政府そのものが黒人有権者への暴力を防げない、あるいは暴力側と結びつく状況で、連邦政府が市民の投票権を保護しようとした側面を見る必要がある。
修正第15条 — 人種を理由とする投票権拒否の禁止
修正第15条は1869年2月に連邦議会を通過し、1870年2月3日に批准された。アメリカ国立公文書記録管理局が示すように、この条項は合衆国またはいかなる州も人種、肌の色、過去の奴隷身分を理由に市民の投票権を拒否・制限してはならないと定めた。
これは黒人男性参政権を全国的な憲法原則とした。しかし女性は対象外であり、さらに投票税、識字試験、祖父条項のような人種を明示しない制度が後に黒人投票を妨害する手段として使われることになる。
1870年代初頭には黒人男性の投票率が高い地域も多く、南部共和党政治を支えた。だからこそ白人至上主義組織は黒人男性の投票行為を物理的に止めることを重視した。
クー・クラックス・クラン — 政治を暴力で破壊する
クー・クラックス・クランは1860年代半ばテネシーで生まれ、その後南部各地へ広がった。単なる秘密結社や社会団体ではなく、再建期 共和党 連合を破壊するための政治的テロ組織として機能した。
KKKや類似組織は黒人有権者、黒人公職者、教師、牧師、共和党の組織活動家、白人共和党員を夜間に襲撃し、鞭打ち、誘拐、殺害を行った。目的は個人的復讐だけでなく、選挙へ行かせないこと、共和党から離脱させること、学校・教会など黒人社会の制度形成を止めることだった。
つまり再建期の選挙は、単に候補者や政策を選ぶ競争ではなかった。投票すること自体が生命の危険を伴う地域があり、政治暴力が制度の結果を左右した。
執行法 — 連邦政府は市民を守れるか
連邦議会は1870年と1871年に執行法、いわゆる強制法を成立させ、黒人男性の投票権を暴力・脅迫で妨害する行為を連邦犯罪として取り締まる権限を強化した。
1871年4月の第3次執行法、通称クー・クラックス・クラン法は、連邦政府が州内の暴力へ介入し、一定条件で人身保護令状を停止する権限も認めた。グラントはサウスカロライナの一部地域でこれを使用し、軍と連邦司法当局がKKKを大規模に摘発した。
アメリカ国立公園局は、この取締りが短期的には最初のKKKを事実上破壊することに成功したと評価している。しかし白人至上主義の政治暴力そのものが消滅したわけではなく、ホワイト・リーグ、レッド・シャツなど別の組織・形態へ移っていった。
司法省と連邦法執行
1870年、連邦政府は司法省を設置した。成立には複数の行政上の理由があったが、再建期下の公民権法を統一的に執行する司法能力が必要だったことも重要である。
司法長官 エイモス・T・アカーマンはKKK摘発を積極的に進め、連邦検察官と軍を組み合わせてサウスカロライナなどで大量起訴を行った。
この経験は、州政府が市民の憲法上の権利を保護しない場合、連邦法執行機関が介入できるかという後の公民権の法執行へつながる先例となった。
1873年コルファクス — 地方政府をめぐる虐殺
1872年ルイジアナ州選挙は共和党と民主党双方が勝利を主張し、地方でも複数の政府が並立する混乱となった。グラント郡のコルファクスでは黒人共和党員が郡庁舎を占拠し、共和党系地方政府を守ろうとした。
1873年4月13日、武装した白人集団が郡庁舎を攻撃した。アメリカ国立公園局によれば、多数の黒人民兵が降伏後に殺害され、「多数」の黒人が死亡した。正確な死者数は史料によって異なるが、再建期期を代表する大規模人種・政治暴力となった。
事件をめぐる連邦起訴は後に合衆国対クルックシャンク事件へ進み、1876年連邦最高裁判所判決は連邦政府が第14条などを用いて個人による暴力を処罰する範囲を狭く解釈した。州が保護せず、連邦も十分介入できない状況が黒人市民権をさらに脆弱にした。
最高裁と再建期権限の縮小
再建修正条項は連邦政府の権利保障能力を拡大したが、1870年代の連邦最高裁判所はその範囲を限定する方向の判断を示した。1873年スローターハウス事件判決では第14条の特権・免除条項を狭く解釈し、多くの市民権問題を州管轄へ残した。
1876年合衆国対クルックシャンク事件ではコルファクス事件をめぐる連邦起訴が覆され、個人による権利侵害に連邦法を適用する余地が狭められた。
これらは再建修正条項が無意味になったということではない。むしろ条文は残り、20世紀以後の公民権 訴訟で強力な基盤となる。しかし再建期そのものでは、最高裁の限定解釈が連邦公民権保護を弱める方向に働いた。
1873年恐慌と北部の関心低下
1873年、金融危機から深刻な経済不況が始まった。鉄道投資、銀行信用、企業倒産を伴う1873年恐慌は北部経済へ大きな打撃を与え、失業と企業不安が政治課題の中心へ移った。
再建期への北部支持が弱まった理由を恐慌だけで説明することはできない。共和党内部の腐敗批判、自由共和党運動、人種平等への熱意低下、南部政治への疲労なども重なっていた。
しかし経済危機は、「なぜ連邦政府は南部政治へ資金と軍を使い続けるのか」という批判を強めた。1870年代半ばになると、北部有権者にとって再建期は1866〜1868年ほど優先順位の高い問題ではなくなっていった。
解放民貯蓄銀行破綻
解放民貯蓄信託会社は1865年に連邦議会の認可で設立された民間金融機関で、元奴隷とその家族の貯蓄を促進することを目的としていた。アメリカ国立公文書記録管理局によれば、37支店を17州とコロンビア特別区に展開し、約7万人の預金者から累計5,700万ドル以上を受け入れた。
しかし規制変更、不適切な投資、経営不正、過剰拡大に1873年恐慌が重なり、銀行は1874年6月に閉鎖された。フレデリック・ダグラスが崩壊直前に社長へ就任したが、財務状況を立て直すことはできなかった。
破綻は黒人コミュニティに大きな損失と金融制度への不信を残した。自由社会で財産を蓄積する象徴として宣伝された銀行の失敗は、再建期の経済的脆弱性を示す出来事となった。
1875年公民権法
チャールズ・サムナーらは、鉄道、宿泊施設、劇場など公共施設における人種差別を禁止する連邦法を長く求めていた。サムナー死後の1875年、連邦議会は公民権法を成立させた。
連邦下院の資料によれば、元の法案には学校差別禁止も含まれていたが、成立のために削除された。それでも公共施設での人種差別を連邦法で禁止しようとした点で重要だった。議会には当時最多となる7人の黒人下院議員がおり、ジェームズ・ラピアらが自ら受けた差別をもとに法案を支持した。
しかし法律の実効性は弱く、1883年公民権裁判で連邦最高裁判所が主要部分を違憲とした。19世紀の連邦公民権法としては最後の大きな立法となり、その後同規模の公共施設差別禁止法が再び成立するのは1964年公民権法まで待つことになる。
リディーマーと「地方自治」
1870年代、南部白人民主党は州政府を共和党から奪回する運動を「「南部奪還」」と呼んだ。彼らは再建期の州政府を腐敗、重税、外部支配の象徴として攻撃し、「地方自治」、つまり白人南部による地方自治の回復を訴えた。
しかし実際の権力奪回は通常の選挙運動だけではなかった。黒人有権者への解雇、立退き、経済報復、武装パレード、投票所暴力、殺害が選挙戦術として使用された。
「地方自治」という言葉は中央政府から地方への権限返還を意味したが、黒人市民にとっては自分たちを守っていた連邦軍・連邦司法が撤退し、白人支配の州政府へ権力が戻ることを意味する場合があった。
ミシシッピ計画 — 暴力と選挙操作
1875年ミシシッピの白人民主党は、共和党州政府を倒すため「ミシシッピ計画」と呼ばれる選挙戦略を用いた。アメリカ国立公園局は、黒人有権者への威圧と選挙不正を組み合わせ、選挙で民主党を勝利させる計画だったと説明している。
武装白人組織が共和党集会を襲撃し、黒人指導者を殺害・脅迫し、有権者を投票所から遠ざけた。連邦政府が大規模軍事介入を避けたことで、計画は成功し民主党が州議会を支配した。
ミシシッピ計画はサウスカロライナやルイジアナなどでも参考にされ、KKK型の秘密テロから、より公然とした政党系武装組織と選挙威圧へ白人至上主義政治が変化していく一例となった。
1876年ハンバーグ 虐殺
サウスカロライナ州ハンバーグは再建期期に黒人住民が多数を占め、黒人市長・地方公職者を持つ町だった。1876年7月、黒人民兵と白人住民の対立をきっかけに白人武装集団が町を包囲した。
アメリカ国立公園局によれば、事件は複数の黒人男性が殺害されるハンバーグ 虐殺へ発展し、その後サウスカロライナでレッド・シャツ運動と民主党の「ストレート・アウト」運動が強まった。
1876年選挙では、黒人有権者が投票権を持っていること自体より、「安全に投票できるか」「選挙結果を地方政府が維持できるか」が決定的な問題となった。
1876年大統領選挙
1876年大統領選挙では共和党 ラザフォード・B・ヘイズと民主党のサミュエル・J・ティルデンが争った。ティルデンは一般投票でヘイズを上回ったが、フロリダ、ルイジアナ、サウスカロライナなどの選挙人票をめぐって双方が勝利を主張し、選挙結果が確定しなかった。
連邦議会は特別選挙委員会を設置し、争われた選挙人票を審査した。最終的に委員会は8対7の党派的票で争点となった選挙人票をヘイズ側に与え、ヘイズが185対184で勝利することになった。
しかし単に委員会採決だけで政治危機が終わったわけではない。南部民主党 指導者と共和党側の間で、ヘイズ就任を受け入れる代わりに連邦軍の南部政治への関与を終わらせる方向の交渉が行われた。後世これを一般に1877年の妥協と呼ぶが、単一の正式文書として結ばれた「密約」だったと単純化するより、複数の政治交渉と了解の総称として扱う方が適切である。
1877年 — 再建期の終焉
ヘイズは1877年3月に大統領へ就任し、同年春にサウスカロライナとルイジアナで残っていた連邦軍を州政府庁舎周辺から撤収させた。これにより共和党系州政府は崩れ、民主党「リディーマー」政権が南部全域を支配するようになった。
再建期の「終わり」を一日で区切ることには限界がある。解放民局の主要活動はすでに縮小し、州ごとに共和党政権は1877年以前から崩れていた。一方、第13・14・15修正条項はその後も憲法に残った。
しかし1877年を区切りとするのは、連邦政府が軍事力と直接的な政治介入によって南部黒人の選挙権と再建期の州政府を支える政策を事実上終了したためである。アメリカ国立公園局が述べるように、「元奴隷の権利を守る責任を連邦政府が引き受けていた時代」という意味で再建期が終わった。
再建後に何が残ったのか
1877年以後、南部では白人民主党の一党支配が強まり、黒人参政権を削る制度と人種隔離が段階的に作られていった。これは1880〜1890年代にジム・クロウとしてより体系化される。再建期期の黒人政治参加は急速に縮小した。
しかし再建期の成果がすべて消えたわけではない。第13条、第14条、第15条は憲法に残り、出生による市民権、法の平等な保護、投票権という原理を提供し続けた。20世紀の全米黒人地位向上協会(NAACP)の訴訟、公民権運動、ブラウン対教育委員会事件、投票権法などは再建修正条項を再び強力な法的武器として用いることになる。
公教育、黒人教会、大学、政治組織、新聞など再建期期に形成・拡大した制度も黒人コミュニティの基盤となった。連邦政府が市民権保護へ介入できるという考えも、一度実践された歴史として残った。
この時代を理解するための8つの視点
第一に、再建期を「南部を元通りにする復旧事業」と考えない。 最大の争点は、奴隷制廃止後に自由、市民権、参政権、州と連邦の関係をどう作り直すかだった。アメリカ国家の定義そのものを再設計する時代だった。
第二に、黒人を政策の受益者としてだけ描かない。 解放された黒人たちは土地、学校、家族、教会、労働契約、投票、公職を自ら求め、再建期の方向を作った政治主体だった。連邦政策の多くは彼らの要求と行動への応答でもあった。
第三に、奴隷制廃止と経済的自由を同じものとしない。 第13条で法的奴隷制は終わったが、土地再分配は限定的で、多くの黒人農民は小作制度と作物先取特権による債務へ組み込まれた。自由な市民であっても経済的には旧地主へ依存する場合があった。
第四に、再建期の州政府を「黒人支配」と表現しない。 黒人有権者・政治家は重要な役割を持ったが、州政府は黒人、南部白人共和党員、北部出身者の連合だった。多くの州で最高権力の多数を黒人だけが独占したわけではない。
第五に、KKKによる暴力を社会的偏見ではなく政治戦略として見る。 暴力の目的は人種的恐怖を与えるだけでなく、共和党組織を壊し、黒人有権者を投票所から遠ざけ、地方政府を奪回することだった。政治結果を変えるための組織的な暴力である。
第六に、連邦軍の存在を単純な「占領」とだけ見ない。 旧南部連合地域に軍が残ったことは確かだが、黒人有権者や共和党員が地方警察・州政府から保護を受けられない状況では、軍と連邦司法が権利保障の最後の手段になる場合があった。
第七に、1877年を「黒人が権利を失った日」と一日で捉えない。 再建期の後退は1870年代を通じて進み、州政府の転覆、最高裁判決、経済恐慌、北部政治の変化、暴力が重なった。1877年はその長期過程を象徴する政治的区切りである。
第八に、再建期を「失敗した実験」で終わらせない。 当時の権利保障は後退したが、憲法上の市民権・法の平等な保護・人種差別のない投票権という原理は残り、20世紀公民権運動の法的基盤となった。「実現されなかった約束」が後世の運動を支える制度となった。
この時代に何が変わったのか
第一に、奴隷制が合衆国憲法上廃止された。これは単なる労働制度変更ではなく、約400万人の人々の法的身分を「所有物」とされた法的身分から、自立した人間・市民へ転換する出発点となった。
第二に、合衆国市民権の定義が憲法に明記された。第14条の出生による市民権と法の平等な保護は、州が市民の権利を自由に定義できる範囲を大きく変えた。
第三に、黒人男性参政権が南部政治を実際に変えた。黒人有権者、州議員、地方公職者、連邦議員が登場し、人種を越えた共和党政治が短期間ながら現実に存在した。
第四に、南部で公教育という公共制度が拡大した。黒人・白人双方を対象に州が税を用いて学校を運営する考えが制度化され、戦前とは異なる公共責任が生まれた。
第五に、連邦政府が州内の個人の権利を守るという原理が拡張された。公民権法、再建法、執行法、司法省の活動は、公民権を連邦法執行の対象にした。
第六に、白人至上主義も新しい政治形態へ変化した。奴隷所有という法制度が失われた後、黒人法、浮浪者取締法、テロ組織、選挙での威圧、後のジム・クロウという異なる制度を用いて人種支配が再構築された。
第七に、自由と経済的自立の間の距離が明らかになった。土地改革が実現しなかったことで、多くの解放された黒人たちは小作制度と債務へ依存し、政治権利の獲得と財産形成が同じ速度では進まなかった。
第八に、アメリカ政治に「連邦政府は公民権をどこまで守るべきか」という長期的争点が残った。再建期の後退後、この問いは消えず、20世紀公民権運動で再び国家の中心問題になる。
再建期は、奴隷制後の社会を作るためにアメリカが最初に行った大規模な試みだった。そこでは自由、市民権、土地、教育、選挙、暴力、連邦制が一つの問題として結びついていた。1877年の終焉後にジム・クロウが形成されたため、再建期を「結局何も変わらなかった時代」と見ることもできそうに見える。しかし実際には、この12年間に生まれた憲法原理と政治経験がなければ、後の公民権運動の法的言語そのものが大きく異なっていた。再建期は未完成に終わったからこそ、その後のアメリカ史全体に残り続ける問題となった。
主な出来事
- 1865年3月3日 — 解放民局設立。
- 1865年4月9日 — アポマトックス・コートハウスでロバート・E・リーが降伏。
- 1865年4月14–15日 — リンカーン暗殺。アンドリュー・ジョンソンが大統領へ。
- 1865年5月 — ジョンソンが大統領主導の再建を開始。
- 1865年 — 南部諸州で黒人法制定が進む。
- 1865年12月6日 — 修正第13条批准。奴隷制を憲法上廃止。
- 1866年4月9日 — 連邦議会がジョンソンの拒否権を覆し1866年公民権法成立。
- 1866年5月1–3日 — メンフィス 虐殺。
- 1866年6月13日 — 連邦議会が修正第14条を可決。
- 1866年7月30日 — ニューオーリンズ 虐殺。
- 1866年秋 — 中間選挙で共和党が連邦議会の強い多数を確保。
- 1867年3月2日 — 第1次再建法成立。旧南部連合10州を5軍政地区へ。
- 1867年 — 南部で黒人男性を含む有権者登録と州憲法制定会議が進む。
- 1868年2月24日 — 下院がアンドリュー・ジョンソンを弾劾訴追。
- 1868年5月16日 — 上院でジョンソン罷免に1票届かず。
- 1868年7月9日 — 修正第14条批准。
- 1868年11月 — ユリシーズ・S・グラントが大統領選挙に勝利。
- 1870年2月3日 — 修正第15条批准。
- 1870年2月25日 — ハイラム・レヴェルズが最初の黒人連邦上院議員として就任。
- 1870年5月31日 — 第1次執行法成立。
- 1870年6月 — 司法省設置。
- 1870年12月12日 — ジョセフ・レイニーが最初の黒人選出連邦下院議員として就任。
- 1871年2月 — 第2次執行法成立。
- 1871年4月20日 — クー・クラックス・クラン法成立。
- 1871年10月 — グラントがサウスカロライナの一部で人身保護令状を停止しKKK取締りを強化。
- 1872年 — 解放民局の主要活動が終了。
- 1873年4月13日 — ルイジアナ州コルファクスで大規模な黒人虐殺。
- 1873年 — 1873年恐慌。長期不況が始まる。
- 1873年 — スローターハウス事件判決で連邦最高裁判所が第14条の適用を狭く解釈。
- 1874年6月 — 解放民貯蓄信託会社が破綻。
- 1874–1875年 — 南部民主党によるリディーマー運動が州政府支配を拡大。
- 1875年3月1日 — 1875年公民権法成立。
- 1875年 — ミシシッピ計画による黒人有権者への威圧と選挙操作。
- 1876年3月 — 合衆国対クルックシャンク事件判決。コルファクス事件をめぐる連邦公民権執行を制限。
- 1876年7月8日 — サウスカロライナ州ハンバーグ 虐殺。
- 1876年11月 — ヘイズ対ティルデン大統領選挙。複数州の選挙人票が争われる。
- 1877年3月 — ラザフォード・B・ヘイズが大統領に就任。
- 1877年春 — サウスカロライナ・ルイジアナから連邦軍が撤収し、再建期が政治的終焉を迎える。
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再建期が終わると、南部では白人民主党の支配が強まり、黒人参政権を制限する制度と人種隔離が段階的に形成されていく。一方、西部ではホームステッド法、鉄道、鉱山、牧畜、軍事政策によって白人入植地が急速に拡大し、先住民の土地と主権が大きく失われた。次は1862–1890|アメリカ|西部拡張と先住民社会 — ホームステッド法、大陸横断鉄道、保留地、バッファロー・ソルジャー、ドーズ法、ウーンデッド・ニーへ進むことで、南北戦争後の国家再編を「南部」と「西部」という二つの空間から見ることができる。
参考資料・出典
- National Park Service, “About — Reconstruction Era”
- National Park Service, “Reconstruction”
- National Park Service, “Reconstruction Era”
- National Park Service, “Jim Crow & Reconstruction”
- National Park Service, “Reconstruction and Repression, 1865–1900”
- National Archives, “The Constitution: Amendments 11–27”
- National Archives, “14th Amendment to the U.S. Constitution: Civil Rights”
- National Archives, “15th Amendment to the U.S. Constitution: Voting Rights”
- National Archives, “The Freedmen’s Bureau”
- National Archives, “Records of the Bureau of Refugees, Freedmen, and Abandoned Lands”
- National Park Service, “The Rise and Fall of the Freedmen’s Bureau”
- National Park Service, “Reconstruction Era African American Schools in the South”
- U.S. House of Representatives, “Constitutional Amendments and Major Civil Rights Acts of Congress”
- U.S. House of Representatives, “Reconstruction and Black Political Activism”
- U.S. House of Representatives, “The Fifteenth Amendment in Flesh and Blood, 1870–1901”
- U.S. Senate, “Impeachment Trial of President Andrew Johnson, 1868”
- National Park Service, “An Absolute Massacre — The New Orleans Slaughter of July 30, 1866”
- National Park Service, “Protecting Life and Property: Passing the Ku Klux Klan Act”
- National Park Service, “President Grant Takes on the Ku Klux Klan”
- National Archives, “The Freedman’s Savings and Trust Company”
- National Archives, “The Freedman’s Savings and Trust Company and African American Genealogical Research”
- U.S. House of Representatives, “The Civil Rights Act of 1875”
- National Park Service, “The End of Reconstruction”
- National Park Service, “The Reconstruction Era at Appomattox Court House”
- National Park Service, “Hamburg-Carrsville African American Heritage District”
資料確認日:2026年10月3日 / ART LIBRARY