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World History

1904–1914

第一次世界大戦前夜

同盟、軍拡、バルカン、帝国競争

第一次世界大戦は、1914年6月28日のサラエヴォ暗殺事件だけで突然生まれたわけではありません。20世紀初頭のヨーロッパとその周辺では、帝国主義、植民地競争、軍備拡張、民族主義、バルカン半島の国家間対立が重なり、危機が何度も発生していました。しかし、それらの危機の多くは外交交渉によって収束しています。1905年のモロッコ危機、1908–09年のボスニア併合危機、1911年の第二次モロッコ危機、1912–13年のバルカン戦争はいずれも重大でしたが、その時点で世界大戦が必然だったわけではありません。

同盟関係も同様です。1882年に成立していたドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリアの三国同盟に対し、1904年の英仏協商と1907年の英露協商によって、イギリス・フランス・ロシアの「三国協商」と呼ばれる組み合わせが形成されました。しかし英仏協商や英露協商は、もともと植民地・アジアにおける利害対立を調整する協定であり、三国同盟と完全に同じ種類の軍事同盟ではありませんでした。協商関係は危機のたびに政治・軍事協力を深めていきましたが、1914年夏まで各国政府にはなお選択の余地がありました。

軍拡も戦争の条件を変えました。ドイツ帝国はティルピッツの海軍政策によって大洋艦隊を拡張し、イギリスは1906年に戦艦《ドレッドノート》を就役させて海軍競争を新しい段階へ進めました。陸軍でもドイツ、フランス、ロシア、オーストリア=ハンガリーなどが兵力を増強しました。鉄道による大規模動員計画は、危機発生時に「先に動員しなければ相手に遅れる」という圧力を生みました。

最大の不安定地域となったのがバルカン半島です。オスマン帝国の後退、オーストリア=ハンガリーによるボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合、セルビアの拡大、ロシアの影響力回復、ブルガリア・ギリシャ・モンテネグロなどの領土要求が交差しました。1912–13年の二度のバルカン戦争はオスマン帝国のヨーロッパ領を大幅に縮小し、セルビアを強化する一方、オーストリア=ハンガリーの危機感を高めました。

1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝位継承者フランツ・フェルディナント大公と妻ゾフィーがサラエヴォで暗殺されると、ウィーン政府はセルビアを抑え込む機会として事件を利用する方向へ進みました。ドイツはオーストリア=ハンガリーへ強い支持を与え、7月23日にセルビアへ厳しい最後通牒が出されます。セルビアは多くの要求を受け入れましたが、オーストリア側は不十分と判断し、7月28日に宣戦しました。

その後の数日間、ロシアの動員、ドイツの対露・対仏宣戦、ベルギー侵攻、イギリス参戦が連鎖しました。第一次世界大戦の開戦を理解するには、「一つの原因」を探すより、長期的な緊張と1914年7月に各政府が行った具体的な決定を区別して見る必要があります。戦争は避けられない自然現象ではなく、危機の中で選択が積み重なった結果でした。

CONTENTS

  1. 戦争は「必然」だったのか
  2. 三国同盟という既存の枠組み
  3. イタリアは単純なドイツの同盟国ではなかった
  4. 1904年 英仏協商
  5. エジプトとモロッコをめぐる帝国間取引
  6. 1905–1906年 第一次モロッコ危機
  7. アルヘシラス会議
  8. 1906年 《ドレッドノート》
  9. 英独海軍軍拡競争
  10. ティルピッツの「リスク艦隊」
  11. 1907年 英露協商
  12. ペルシア・アフガニスタン・チベット
  13. 「三国協商」はどのような関係だったのか
  14. 1908年 青年トルコ革命
  15. ボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合
  16. セルビアと南スラヴ問題
  17. 日露戦争後のロシア
  18. 1908–1909年 ボスニア危機
  19. 1911年 第二次モロッコ危機
  20. 砲艦《パンター》のアガディール派遣
  21. 英仏軍事協力の深化
  22. 1911–1912年 伊土戦争
  23. リビアをめぐるイタリアの植民地戦争
  24. バルカン同盟の形成
  25. 1912–1913年 第一次バルカン戦争
  26. オスマン帝国のヨーロッパ領縮小
  27. アルバニア独立とセルビアの海への出口
  28. 1913年 第二次バルカン戦争
  29. ブルガリアとセルビアの対立
  30. 拡大したセルビアとウィーンの不安
  31. 陸軍軍拡競争
  32. 鉄道と動員計画
  33. 戦争計画は戦争を自動化したのか
  34. 民族主義という複数の力
  35. 大衆政治・新聞・軍国的文化
  36. 同じ時代の日本 — 同盟と帝国拡張
  37. 1910年 韓国併合
  38. ヨーロッパの危機は世界帝国の危機でもあった
  39. サラエヴォという都市
  40. フランツ・フェルディナント大公
  41. 青年ボスニアと暗殺者たち
  42. 「黒手組」とセルビア国家を同一視しない
  43. 1914年6月28日 サラエヴォ暗殺
  44. 暗殺後すぐに戦争になったわけではない
  45. ドイツの「白紙委任状」
  46. オーストリア=ハンガリーの対セルビア方針
  47. 7月23日 最後通牒
  48. セルビアの回答
  49. 7月28日 オーストリア=ハンガリーが宣戦
  50. ロシアの動員
  51. 8月1日 ドイツがロシアへ宣戦
  52. フランスが戦争へ入る
  53. ベルギー中立とドイツ軍の侵入
  54. 8月4日 イギリス参戦
  55. イタリアは中立を選んだ
  56. 局地戦争が世界大戦へ変わる
  57. 「誰が第一次世界大戦を始めたのか」
  58. 1904–1914年に何が変わったのか
  59. 1904–1914年の主な出来事
  60. 次の時代へ — 第一次世界大戦
  61. 参考資料・出典

戦争は「必然」だったのか

第一次世界大戦前の歴史は、しばしば「同盟」「軍拡」「民族主義」「帝国主義」が蓄積し、1914年に当然のように爆発したと説明されます。しかし1914–1918 Onlineの研究が強調するように、1900年代から1913年までには戦争へ発展し得た複数の危機がありながら、各国は何度も外交的解決に成功していました。

同盟は抑止として作用することもあり、相手国に対して「この国を攻撃すれば他国も関与する」と知らせることで危機を抑える効果もありました。軍備拡張も、当事者自身は相手を攻撃するためではなく、相手の攻撃を思いとどまらせる「安全保障」として説明することがありました。

問題は、各国が自国の安全を高めるために取った政策が、相手には脅威として見えることでした。こうして安全保障のための軍備や同盟が、互いの不安を増幅する構造が生まれます。

三国同盟という既存の枠組み

ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリーは1879年に同盟を結び、1882年にはイタリアが加わって三国同盟が成立しました。条約はその後繰り返し更新され、20世紀初頭にも存在していました。

ドイツにとってはフランスとロシアという東西二正面の危険へ備えるうえでオーストリア=ハンガリーが最も重要な同盟国となりました。オーストリア=ハンガリーにとっては、バルカンやロシアとの対立でドイツの支援が不可欠でした。

ただし三国同盟を「ドイツ・オーストリア・イタリアが必ず一緒に戦う攻撃同盟」と考えるのは正確ではありません。条約には防御的性格があり、条件によって参戦義務が変わりました。

イタリアは単純なドイツの同盟国ではなかった

イタリアは三国同盟に参加していましたが、オーストリア=ハンガリーとはトレンティーノ、トリエステなどイタリア語話者を含む地域をめぐる領土問題を抱えていました。

また1902年にはフランスとの秘密了解によって相互の植民地政策を調整するなど、三国同盟の外でも外交関係を構築していました。

1914年にオーストリア=ハンガリーがセルビアへ宣戦すると、イタリア政府は同盟が防御的なものであり、オーストリア側が攻撃を開始した今回の状況では参戦義務がないと判断して中立を選びました。これは「同盟があれば自動的に全参加国が戦争へ入る」という理解が誤りであることを示します。

1904年 英仏協商

1904年4月8日、イギリスとフランスは複数の植民地問題を調整する協定を締結しました。一般に「英仏協商」「アンタント・コルディアル」と呼ばれます。

長く植民地競争を続けてきた両国が、エジプトとモロッコを中心とする利害を相互に調整したことが核心でした。イギリスはフランスがモロッコで秩序維持と改革に特別な利益を持つことを認め、フランスはイギリスのエジプトにおける行動を妨げないことを認めました。

英仏協商は当初から「ドイツと戦うための軍事同盟」として締結されたわけではありません。イギリス政府の歴史資料も、協商の主要目的を長年の植民地紛争の整理として説明しています。しかし、その後ドイツとの危機が続くことで、英仏の政治的協力は安全保障分野へ広がりました。

エジプトとモロッコをめぐる帝国間取引

英仏協商の背景には、両国が植民地支配をめぐる対立を互いに調整したという事実があります。イギリスは1882年以来エジプトを軍事占領しており、フランスはモロッコへの影響力拡大を求めていました。

協定の秘密条項では、将来モロッコの政治状況が変化した場合のスペインの勢力圏まで検討されていました。

したがって英仏協商を単に「民主主義国の友情」と理解することはできません。植民地をめぐる競争を整理し、それぞれの帝国的利益を相互承認した協定でした。

1905–1906年 第一次モロッコ危機

ドイツ政府は英仏協商によってフランスのモロッコ支配が拡大することを警戒しました。1905年3月、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はモロッコのタンジールを訪問し、スルタンの主権と各国の経済的権利を支持する姿勢を示しました。

これはフランスへ外交的圧力をかけると同時に、新しく形成された英仏協商の強さを試す行動でした。

危機は戦争には至らず、国際会議で処理されることになります。しかし結果としてイギリスはフランスを外交的に支持し、ドイツの試みはむしろ英仏関係を強める方向に働きました。

アルヘシラス会議

1906年、スペインのアルヘシラスでモロッコ問題を扱う国際会議が開かれました。モロッコの形式的独立と各国の経済的機会均等が確認される一方、警察組織などではフランスとスペインが重要な役割を持つことになりました。

ドイツはオーストリア=ハンガリー以外から十分な外交支持を得られず、国際的孤立を意識する結果となりました。

ただしこの時点でもヨーロッパ戦争は回避されています。モロッコという植民地問題が列強間危機へ発展しても、会議外交が機能した例でした。

1906年 《ドレッドノート》

1906年、イギリス海軍は戦艦《HMSドレッドノート》を就役させました。大口径主砲を統一的に搭載し、蒸気タービンを使用する新設計は、それ以前の戦艦を急速に旧式化させました。

1914–1918 Onlineは、《ドレッドノート》が英独海軍競争の性格を変え、1914年まで主要海軍がドレッドノート型戦艦・巡洋戦艦の保有数で海軍力を測るようになったと説明しています。

皮肉なことに、世界最大の海軍を持っていたイギリスが新型艦を導入したことで、それまで蓄積してきた旧式戦艦の優位の一部が帳消しとなり、ドイツにも新しい競争で追いつく機会が生まれました。

英独海軍軍拡競争

ドイツ帝国は1898年と1900年の海軍法を中心に大洋艦隊建設を進めました。イギリスは自国の安全と帝国航路が海軍力に依存していたため、北海に強力なドイツ艦隊が成長することを重大な脅威と受け取りました。

両国では海軍建艦が国内の大衆政治とも結びつき、海軍協会、新聞、議会、予算論争を通じて競争が可視化されました。

しかし海軍競争だけで第一次世界大戦が起きたわけではありません。1912年以後は英独間で一定の緊張緩和も見られ、植民地問題をめぐる協定交渉も進んでいました。1914年の直接的な危機はバルカンから始まります。

ティルピッツの「リスク艦隊」

ドイツ海軍長官アルフレート・フォン・ティルピッツの構想では、ドイツ海軍がイギリス海軍全体を上回る必要はありませんでした。イギリスがドイツ艦隊を攻撃した場合、自国の海軍優位そのものを危険にさらすほどの損害を受ける可能性を作ることが目的でした。

German History in Documents and Imagesに収録された1900年の海軍省文書は、イギリスに対する有効な海軍力を作り、戦闘を「リスク」にすることでドイツの安全と外交的地位を高めようとする考えを示しています。

ドイツ側には抑止政策でも、イギリス側から見れば自国本土近くに拡大する戦艦艦隊は直接的な軍事脅威でした。安全保障政策が相互不信を生む典型的な構造です。

1907年 英露協商

1907年8月31日、イギリスとロシアはペルシア、アフガニスタン、チベットをめぐる協定を締結しました。

イギリス政府の外交史資料が強調するように、この協定はヨーロッパの軍事問題ではなく、主としてアジアで長く続いた英露対立を調整するものでした。ペルシアでは北部をロシア側の利益圏、南東部をイギリス側の利益圏とし、その間に中立的な区域を置きました。

日本との戦争に敗れ、1905年革命を経験したロシアと、インド防衛の負担を抑えたいイギリスにとって、アジアでの直接対立を減らすことには共通利益がありました。

ペルシア・アフガニスタン・チベット

英露協商の成立は、ヨーロッパ諸国が自国同士の対立を第三地域の政治空間を分けることで解決した例でもあります。

ペルシア政府や住民が英露交渉の主体となったわけではありません。イギリス政府自身の歴史解説も、交渉が対象国を十分に参加させずに行われた植民地的協定だったことを指摘しています。

「三国協商の成立」というヨーロッパ外交史の背後に、イラン、アフガニスタン、チベットの主権が大国間調整の対象となった世界帝国史があります。

「三国協商」はどのような関係だったのか

1904年の英仏協商と1907年の英露協商によって、既存の仏露同盟と合わせてイギリス・フランス・ロシアの協力関係が形成されました。これを一般に三国協商と呼びます。

しかし三国協商は、三国が一枚の軍事同盟条約に署名した制度ではありません。フランスとロシアには正式な軍事同盟がありましたが、イギリスのフランス・ロシアとの関係は協商から発展したものでした。

それでもモロッコ危機、海軍軍拡、バルカン危機を通じて参謀本部間の協議や海軍配置の調整が進み、1914年には政治的な結びつきが強くなっていました。

1908年 青年トルコ革命

1908年、オスマン帝国で青年トルコ革命が起こり、1876年憲法が復活しました。帝国各地では議会政治と改革への期待が高まりました。

しかしこの変化は、オスマン帝国の弱体化を利用していた周辺国家にも新たな判断を迫りました。オーストリア=ハンガリーは、1878年以来占領・統治していたボスニア=ヘルツェゴヴィナでオスマン主権が再び政治的意味を持つことを警戒しました。

そのためウィーン政府は同年秋、同地域を正式に併合する決定へ進みます。

ボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合

1908年10月、オーストリア=ハンガリーはボスニア=ヘルツェゴヴィナの正式併合を宣言しました。この地域は1878年のベルリン条約以来、形式上はオスマン帝国領でありながらオーストリア=ハンガリーが占領・行政を行っていました。

併合は既成事実を法的領有へ変えるものでしたが、セルビアとロシアに強い反発を引き起こしました。

ボスニアにはセルビア正教徒、イスラム教徒、カトリック教徒など多様な住民が暮らし、南スラヴ民族主義が成長していました。セルビアではボスニアのセルビア系住民を含む南スラヴ統合への期待が強くありました。

セルビアと南スラヴ問題

1903年にセルビアで王朝交代が起きると、外交政策はオーストリア=ハンガリーから距離を取り、ロシアやフランスへ接近しました。

セルビアの国家的民族主義には、オーストリア=ハンガリー領内のセルビア人や他の南スラヴ住民との統合を求める動きが含まれていました。一方、帝国内部の南スラヴ政治運動は一枚岩ではなく、セルビアへの統合、帝国内改革、ユーゴスラヴ的統合など複数の構想が存在しました。

オーストリア=ハンガリー政府にとって、セルビアの拡大は領土問題だけでなく、多民族帝国そのものの統合を脅かす可能性を持つ問題でした。

日露戦争後のロシア

ロシア帝国は1904–05年の日露戦争敗北と1905年革命によって軍事・政治的に弱体化していました。そのため1908年のボスニア危機で、ロシア政府はセルビアを外交的に支持してもオーストリア=ハンガリーやドイツと戦争する準備が十分ではありませんでした。

1914–1918 Onlineは、ロシアの弱体化が1908年の併合時にウィーンが行動へ踏み切りやすくした要因の一つだったと説明しています。

その後ロシアは軍制改革と軍備拡張を進め、バルカンでの影響力回復を目指します。1908年と1914年でロシアの対応が異なった背景には、この軍事的回復もありました。

1908–1909年 ボスニア危機

ボスニア併合をめぐってセルビアは強く抗議し、ロシアも反発しました。しかしドイツがオーストリア=ハンガリーを支持する姿勢を明確にすると、ロシアは全面戦争を避け、1909年春に併合を事実上受け入れました。

セルビアも軍事的に対抗できず、併合承認を余儀なくされます。

危機は戦争を回避しましたが、セルビア側には屈辱と反オーストリア感情を残し、ウィーン側には「強硬に出ればロシアとセルビアを後退させられる」という経験を与えました。1914年の政策判断にも影響した重要な前例です。

1911年 第二次モロッコ危機

1911年、モロッコ国内の反乱を背景にフランス軍がフェズへ進駐すると、ドイツ政府はフランスのモロッコ支配拡大への補償を要求しました。

7月1日、ドイツは砲艦《パンター》を大西洋岸のアガディールへ派遣しました。この行動は「ドイツがモロッコに海軍基地を作るのではないか」という警戒をイギリスに生みました。

危機は最終的に、フランスがドイツへフランス領コンゴの一部を譲る代わりに、ドイツがモロッコでフランスの優位を認める協定で解決されました。

砲艦《パンター》のアガディール派遣

《パンター》派遣は軍事力そのものより、砲艦を外交圧力として使用した象徴性が大きな事件でした。

German History in Documents and Imagesに収録されたティルピッツの回想でも、1911年のモロッコ危機が英独関係に重大な悪影響を与えた出来事として記されています。

イギリス政府はドイツの意図が不透明であることを警戒し、ロイド・ジョージ財務相はマンション・ハウス演説で、イギリスの重大な利益が無視されるならば平和だけを選ぶわけではないという趣旨を示しました。

英仏軍事協力の深化

二度のモロッコ危機と英独海軍競争を通じ、イギリスとフランスの参謀・海軍当局は戦争時の協力について協議を深めました。

フランス海軍は地中海へ重点を移し、イギリス海軍は北海・英仏海峡方面で大きな役割を担う配置へ進みました。

ただしこの協議が、イギリス政府を法的に自動参戦させる条約になったわけではありません。1914年7月末にもイギリス閣内では参戦の是非をめぐる重大な議論が続きました。

1911–1912年 伊土戦争

1911年9月、イタリアはオスマン帝国領トリポリタニアとキレナイカ、現在のリビアを獲得するため戦争を開始しました。

イタリア軍は沿岸都市を占領しましたが、内陸ではオスマン軍人や現地勢力の抵抗を受けました。戦争では航空機による偵察や爆撃など、新しい軍事技術も試されました。

オスマン帝国が北アフリカで戦争に拘束されたことは、バルカン諸国に「今ならオスマン領を獲得できる」という判断を促しました。翌1912年、バルカン同盟が戦争へ進みます。

リビアをめぐるイタリアの植民地戦争

1912年の講和によってオスマン帝国はリビアに対する実効支配を失い、イタリアが植民地支配を進めました。しかし現地の武装抵抗はその後も長く続きます。

イタリアは三国同盟の構成国でありながら、独自の植民地帝国建設を進めていました。1914年に中立を選び、1915年に協商側へ参戦する外交的柔軟性を理解するうえでも、イタリアの国家利益がドイツ・オーストリアと完全には一致していなかった点が重要です。

バルカン同盟の形成

1912年、セルビア、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロは複数の二国間協定を結び、一般に「バルカン同盟」と呼ばれる連合を形成しました。

ロシア外交はセルビアとブルガリアの接近を後押ししましたが、同盟の実際の目的はオスマン帝国領の獲得へ向かいました。

セルビアとブルガリアの秘密協定ではマケドニアの分割についても取り決めがあり、戦争前から戦後の領土配分をめぐる潜在的対立を抱えていました。

1912–1913年 第一次バルカン戦争

1912年10月、モンテネグロを皮切りにバルカン諸国がオスマン帝国と戦争へ入りました。セルビア軍はコソヴォ・マケドニア方面、ブルガリア軍はトラキア方面、ギリシャ軍はテッサロニキ方面へ進撃しました。

オスマン軍は相次いで敗北し、ヨーロッパ領の大部分を失います。

1914–1918 Onlineは、二度のバルカン戦争によってオスマン帝国がヨーロッパから大幅に後退し、ギリシャ、セルビア、モンテネグロ、ブルガリアが領土を拡大し、新たにアルバニアが成立したことを第一次世界大戦前の政治地図再編として位置づけています。

オスマン帝国のヨーロッパ領縮小

第一次バルカン戦争の結果、オスマン帝国はイスタンブル周辺を除いてヨーロッパ領の大部分を失いました。

これは単に「衰退する帝国が領土を失った」だけではありません。新たな国境によって多数のイスラム教徒、キリスト教徒、アルバニア人、スラヴ系住民、ギリシャ人などが移動・難民化し、地域社会に大きな暴力を残しました。

国家の「民族的領土」を作ろうとする戦争は、住民構成が混在したバルカンでは必然的に少数派問題と強制移動を生みました。

アルバニア独立とセルビアの海への出口

1912年、アルバニア側指導者は独立を宣言し、列強も新しいアルバニア国家を作る方向へ進みました。

セルビアはアドリア海への出口を求めてアルバニア方面へ進軍していましたが、オーストリア=ハンガリーとイタリアはセルビアが海へ進出することを強く警戒し、アルバニア国家の形成を支持しました。

セルビアにとっては戦争で勝利しながら重要な戦略目標を列強外交によって阻止されたことになり、オーストリア=ハンガリーとの対立がさらに深まりました。

1913年 第二次バルカン戦争

第一次バルカン戦争後、マケドニアの分配をめぐって旧同盟国が対立しました。1913年6月、ブルガリア軍がセルビア・ギリシャ軍を攻撃し、第二次バルカン戦争が始まります。

ルーマニアとオスマン帝国もブルガリアに対して参戦し、ブルガリアは敗北しました。8月のブカレスト条約によって領土が再配分されます。

昨日まで同盟してオスマン帝国と戦った諸国が、数か月後には互いに戦争する状況は、バルカン同盟が民族的連帯だけでなく領土獲得の利害に基づく不安定な協力だったことを示します。

ブルガリアとセルビアの対立

第二次バルカン戦争の敗北によってブルガリアはセルビア・ギリシャへの強い不満を残しました。ロシアはそれまでブルガリアをバルカン政策の重要な相手としていましたが、両国関係は悪化しました。

1914–1918 Onlineは、1913年以後ロシアにとってセルビアがバルカンにおける最も重要な同盟的相手として残ったことを指摘しています。

この変化によって、1914年にオーストリア=ハンガリーがセルビアを攻撃した場合、ロシアがセルビアを見捨てる政治的余地は1908年より小さくなっていました。

拡大したセルビアとウィーンの不安

二度のバルカン戦争でセルビアは領土と人口を大きく増やしました。軍も実戦経験を積み、地域における政治的地位が上昇しました。

オーストリア=ハンガリー政府は、強くなったセルビアが帝国内のセルビア人・クロアチア人・その他南スラヴ住民の民族運動を刺激することを警戒しました。

1912–13年にはアルバニア問題をめぐり、ウィーンとセルビアが戦争寸前まで緊張する場面が繰り返されました。1914年の暗殺事件は、すでに長期化していたこの対立の上に起きました。

陸軍軍拡競争

海軍競争ほど象徴的ではありませんが、1910年代には陸軍軍拡も加速しました。ドイツは1912年・1913年に軍備増強法を成立させ、フランスは1913年に兵役期間を二年から三年へ延長しました。ロシアも日露戦争後に軍制を再建し、大規模な軍備計画を進めました。

各政府は相手の軍拡を自国の増強理由として説明しました。自国側では「防御」のための予算でも、相手には攻撃準備に見えました。

軍備量だけでなく、徴兵人口、工業力、鉄道網、動員速度までが国家安全保障の比較対象となっていきます。

鉄道と動員計画

数百万人規模の徴兵軍を戦争開始直後に前線へ送るには、精密な鉄道運行計画が必要でした。各国参謀本部は、どの部隊を何日目にどの駅へ集結させるかを平時から詳細に準備しました。

こうした計画は国家の軍事力を大きく高める一方、外交危機で「部分的に少しだけ動員する」柔軟性を低下させる場合がありました。

相手が先に総動員すれば、自国が遅れて決定的に不利になるという恐怖が、1914年7月末のロシア・ドイツ双方の判断へ強い圧力をかけました。

戦争計画は戦争を自動化したのか

ドイツの西方攻撃計画は、フランス軍正面を直接突破するだけでなく、ベルギー方面からフランス北部へ進撃する構想を中心としていました。ロシアとの二正面戦争で、動員の遅いロシアより先にフランスを破ることが基本的な発想でした。

しかし「鉄道時刻表が政治家を自動的に戦争へ引きずり込んだ」とまで考えるのは単純です。最終的に動員・宣戦・侵攻を決める政治的・軍事的決定は人間が行いました。

軍事計画が選択肢を狭めたことと、選択そのものが消えたことは区別する必要があります。

民族主義という複数の力

第一次世界大戦前の民族主義も一種類ではありません。フランスでは1871年に失ったアルザス=ロレーヌへの関心があり、ドイツでは帝国的愛国主義と世界政策が語られ、セルビアでは南スラヴ統合を求める思想が広がりました。

同時にオーストリア=ハンガリー、ロシア、オスマン帝国のような多民族帝国内では、国家への忠誠と民族的・言語的アイデンティティが複雑に重なっていました。

民族主義が存在したから自動的に戦争になったわけではありませんが、領土と民族が一致しないバルカンで「民族国家」を作る要求が国境問題を激化させました。

大衆政治・新聞・軍国的文化

20世紀初頭には新聞の大量発行、識字率上昇、選挙政治、国民教育によって外交問題が以前より広い大衆へ共有されました。海軍建艦、植民地危機、国境問題は新聞や大衆団体によって政治化されました。

各国には海軍協会、軍事愛国団体、民族主義組織が存在し、政府へ強硬政策を求める声を上げました。一方、社会主義運動や労働組合、平和運動も戦争反対を組織していました。

1914年以前のヨーロッパ社会全体が一様に戦争を熱望していたわけではありません。軍国的文化と反戦政治が同時に存在していました。

同じ時代の日本 — 同盟と帝国拡張

ヨーロッパで同盟再編が進んだ同じ時期、日本も世界的な帝国秩序の一部になっていました。1902年の日英同盟は1905年、1911年に改訂され、東アジアだけでなくイギリスの帝国防衛と日本の地域的利益を結びつけました。

日露戦争後、日本は南満洲鉄道と関東州租借地の権益を持ち、南樺太を領有しました。中国東北部でのロシアとの競争はその後も続きますが、1907年以後には日露協約による勢力調整も進みました。

つまり1914年の国際秩序は、ヨーロッパだけの同盟図ではありません。日英同盟を通じ、日本もイギリス中心の世界的安全保障関係に接続していました。

1910年 韓国併合

1905年に大韓帝国の外交権を掌握した日本は、その後統監府を通じて内政統制を強化しました。1907年には高宗退位、韓国軍解散などが進み、義兵闘争も拡大しました。

1910年8月、日本は韓国併合条約を公布し、朝鮮半島を日本帝国へ正式に編入しました。

第一次世界大戦前の日本は、欧米列強から不平等条約を受けていた幕末日本とは異なり、台湾・朝鮮を植民地として支配し、中国大陸にも租借地・鉄道権益を持つ帝国国家となっていました。この位置から1914年の世界大戦へ参加することになります。

ヨーロッパの危機は世界帝国の危機でもあった

1914年に戦争へ入った主要国の多くは広大な植民地帝国を持っていました。イギリスはインド、カナダ、オーストラリア、アフリカ各地、フランスは北・西アフリカとインドシナ、ロシアはユーラシア大陸、ドイツもアフリカ・太平洋に植民地を保有していました。

そのためヨーロッパの大国間戦争が始まれば、兵士、原料、航路、軍事基地、植民地境界が世界中で戦争へ巻き込まれる条件が最初から存在しました。

「第一次世界大戦」は、ヨーロッパで始まった戦争が偶然世界へ広がっただけではなく、帝国主義によってすでに政治・軍事・経済的に結びついていた世界で起きた戦争でした。

サラエヴォという都市

1914年のサラエヴォはオーストリア=ハンガリー領ボスニア=ヘルツェゴヴィナの中心都市でした。1878年以来ハプスブルク帝国が行政を行い、1908年に正式併合されていました。

都市にはイスラム教徒、正教徒、カトリック教徒、ユダヤ人など多様な住民が暮らし、帝国行政、南スラヴ民族運動、近代教育、青年政治運動が交差していました。

1914年6月28日、帝位継承者がこの都市を公式訪問したこと自体が、ハプスブルク支配の政治的象徴性を持っていました。

フランツ・フェルディナント大公

フランツ・フェルディナント大公は、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の後継者でした。彼は帝国内の政治構造改革について独自の構想を持っていましたが、具体的にどの制度を実現したかを評価することはできません。彼は即位する前に暗殺されたからです。

1914年6月、大公はボスニアで行われる軍事演習視察のため訪問し、28日に妻ゾフィーとともにサラエヴォ市内を移動しました。

その日はセルビア民族史でコソヴォの戦いを記憶する日でもあり、訪問日程は民族主義者に強い象徴性を持って受け取られました。

青年ボスニアと暗殺者たち

暗殺に参加した若者たちは、一般に「青年ボスニア」と呼ばれる緩やかな革命的・民族主義的環境に属していました。セルビア人だけでなく、南スラヴ統合を志向する複数の背景を持つ青年たちが存在しました。

実行犯ガヴリロ・プリンツィプはボスニア出身のセルビア人青年で、オーストリア=ハンガリー支配から南スラヴ人を解放する革命思想を持っていました。

青年ボスニアをセルビア政府の正式機関として扱うことはできません。秘密結社・民族主義ネットワーク・学生運動の境界が重なった運動でした。

「黒手組」とセルビア国家を同一視しない

暗殺者たちはセルビア側の地下組織を通じて武器・訓練・国境越えの支援を受けました。その背景には、セルビア軍情報部長ドラグティン・ディミトリエヴィチ、通称アピスが関係した秘密結社「統一か死か」、一般に黒手組と呼ばれる組織との接点がありました。

しかし、セルビア政府が暗殺計画を正式に決定・指揮したとする単純な説明には証拠上の問題があります。セルビア国家機構内部には政府が完全には統制できない軍人・民族主義ネットワークが存在していました。

セルビア政府が陰謀に関する曖昧な警告を得ていた可能性や、十分な阻止措置を取れなかった問題と、「政府が暗殺命令を出した」という主張は区別する必要があります。

1914年6月28日 サラエヴォ暗殺

6月28日朝、大公夫妻の車列に対して最初に爆弾が投げられましたが、夫妻は無事でした。その後予定を変更し、負傷者を見舞うため病院へ向かう途中、運転経路の混乱で車が停止しました。

そこでガヴリロ・プリンツィプが至近距離から発砲し、フランツ・フェルディナントとゾフィーを殺害しました。

暗殺はオーストリア=ハンガリーに大きな衝撃を与えました。しかしその日のうちにヨーロッパ戦争が始まったわけではありません。次の約一か月間に各政府が何を選択したかが決定的でした。

暗殺後すぐに戦争になったわけではない

暗殺からオーストリア=ハンガリーのセルビア宣戦まではちょうど一か月あります。ウィーン政府は捜査を進める一方、ドイツとの協議を行い、セルビアへの要求内容と軍事行動の可能性を検討しました。

欧州各国の政治家の多くも当初、暗殺事件が過去のバルカン危機と同様に局地的に処理される可能性を考えていました。

1914–1918 Onlineの「七月危機」研究は、戦争回避を求める外交提案が最後まで存在した一方、ウィーンとベルリンの指導者がセルビアへの軍事的処罰を受け入れる姿勢を取ったことを重視しています。

ドイツの「白紙委任状」

7月5–6日、オーストリア=ハンガリーの特使がベルリンを訪れ、セルビアに対する強硬措置を取った場合のドイツの立場を確認しました。

ドイツ皇帝と政府は、オーストリア=ハンガリーがセルビアに対して行動する場合、ロシアとの戦争へ発展する可能性があっても支持する姿勢を伝えました。後に「白紙委任状」と呼ばれる保証です。

この支持によってウィーン政府は、セルビアへ軍事行動を取った場合でも同盟国ドイツの支援を期待できるようになりました。1914年危機を理解するうえで重要な決定の一つです。

オーストリア=ハンガリーの対セルビア方針

ウィーンの政策決定者の多くは、暗殺を単なる司法事件ではなく、セルビア民族主義によって帝国の存続が脅かされているという長期問題の一部として捉えました。

政府内では、セルビアの影響力を軍事的に抑えなければ今後さらに危険になるという議論が強まりました。

戦争がロシア介入を招く可能性は認識されていました。それでもオーストリア=ハンガリー指導部は、危険を冒してでもセルビアへ強硬措置を取る方向へ進みました。

7月23日 最後通牒

1914年7月23日、オーストリア=ハンガリーはセルビア政府へ最後通牒を提出し、48時間以内の回答を要求しました。

要求には反オーストリア宣伝の抑制、関係組織の解散、関係者の処罰などに加え、暗殺事件捜査・司法措置にオーストリア=ハンガリー側の機関がセルビア国内で関与する内容が含まれていました。

セルビア政府にとって、外国官憲が自国内の捜査・司法手続きへ直接参加する要求は主権に関わる問題でした。

セルビアの回答

7月25日、セルビア政府は最後通牒の多くの要求を受け入れました。反オーストリア的出版物・組織への対応、関係者の捜査など広範な譲歩を示しました。

一方、オーストリア=ハンガリー官憲がセルビア国内の司法調査へ直接参加する要求などについては、そのまま受け入れず国際的仲裁などを提案しました。

当時のアメリカ外交文書でも、セルビアの回答は多数の要求を受諾しつつ、国家主権と両立しないと判断した部分を留保したものとして報告されています。オーストリア=ハンガリー政府は回答を不十分とし、ただちに外交関係を断絶しました。

7月28日 オーストリア=ハンガリーが宣戦

7月28日、オーストリア=ハンガリーはセルビアへ正式に宣戦しました。翌日にはドナウ川方面からベオグラードへの砲撃が始まりました。

ウィーン政府の一部は戦争をセルビアとの局地的なものに限定できる可能性を期待していました。

しかしロシア政府はセルビアの軍事的敗北とオーストリア=ハンガリーのバルカン支配強化を受け入れ難いと考え、動員措置を進めました。ここから危機は同盟国を巻き込みます。

ロシアの動員

ロシアは当初、オーストリア=ハンガリーに向けた部分動員を検討しましたが、軍事計画上の困難もあり、7月30日に総動員へ進みました。

ドイツ政府はロシアの総動員を自国の安全に対する直接的脅威と認識しました。大規模なロシア軍が動員を完了する前に自国も行動しなければ不利になるという参謀本部の考えが、政治判断へ強く影響しました。

しかし動員は必ず宣戦と同じではありません。外交圧力として利用する意図もありました。問題は各国が相手の動員を最悪の軍事シナリオとして読み取ったことでした。

8月1日 ドイツがロシアへ宣戦

ドイツはロシアへ動員停止を要求しましたが、満足する回答を得られず、1914年8月1日にロシアへ宣戦しました。

これによってオーストリア=セルビアの局地戦争は、ドイツとロシアを含む大国間戦争になりました。

ドイツ軍事計画ではロシアとの戦争がフランスとの戦争を伴うことが前提に近く、軍の主力はまず西方へ向けられます。

フランスが戦争へ入る

フランスはロシアと軍事同盟を持っていました。七月危機の中でフランス政府はロシアを外交的に支持しながら、自国軍も動員しました。

ドイツは8月3日にフランスへ宣戦しました。

仏露同盟が危機の拡大に重要だったことは確かですが、同盟条約だけで宣戦日程が機械的に決まったわけではありません。ドイツの二正面戦争計画とフランス・ロシア双方の軍事判断が重なっていました。

ベルギー中立とドイツ軍の侵入

ドイツはフランスを短期間に破るため、ベルギー領を通過する計画を実行しました。ベルギー政府へドイツ軍の通過を認めるよう要求しましたが、ベルギーはこれを拒否しました。

8月4日、ドイツ軍はベルギーへ侵入しました。

ベルギーの中立は19世紀以来国際条約で保障されており、イギリスにとって低地地方を敵対的大国が支配することは戦略的にも重大でした。侵攻はイギリス政府内で参戦支持を強める決定的要因となりました。

8月4日 イギリス参戦

イギリス政府は七月危機の当初から自動的に参戦を決定していたわけではありません。自由党内には大陸戦争への介入に慎重な閣僚も多く、フランスへの支持をどこまで行うか議論が続きました。

しかしドイツ軍のベルギー侵入によって状況は大きく変わり、イギリスはドイツにベルギー中立尊重を求める最後通牒を出しました。

期限までに受け入れられず、8月4日、イギリスはドイツと戦争状態に入りました。ここで世界最大の植民地帝国が参戦し、戦争の地理的範囲が急速に拡大することになります。

イタリアは中立を選んだ

三国同盟の構成国イタリアは1914年8月に中立を宣言しました。イタリア政府は、同盟は防御的性格を持ち、オーストリア=ハンガリーがセルビアへ攻撃を開始した今回の戦争では参戦義務が生じないと解釈しました。

さらにイタリアはオーストリア=ハンガリー領のトレンティーノやトリエステなどを要求しており、同盟国同士でも領土利害は対立していました。

翌1915年、イタリアは協商国側から領土獲得を約束され、旧同盟国オーストリア=ハンガリーへ宣戦することになります。1914年の同盟ブロックは固定された文明的陣営ではなく、国家利益によって変化する外交関係でした。

局地戦争が世界大戦へ変わる

7月28日の時点で戦争当事国はオーストリア=ハンガリーとセルビアでした。しかし8月1日にドイツとロシア、3日にドイツとフランス、4日にドイツとイギリスが戦争へ入りました。

わずか一週間で、バルカンの局地紛争はヨーロッパ主要大国の戦争へ転化しました。

さらに各国の植民地、自治領、海外軍事基地、海上航路、同盟国がつながっていたため、戦争はアフリカ、アジア、太平洋、中東へ広がります。日本も日英同盟を背景に8月23日にドイツへ宣戦し、青島や太平洋のドイツ領島嶼を攻撃することになります。

「誰が第一次世界大戦を始めたのか」

第一次世界大戦の責任をめぐっては、1914年以来膨大な議論があります。長期要因だけを挙げて「全員が同じ程度に責任を持つ」とまとめるのも、サラエヴォの暗殺者一人だけを原因とするのも、歴史の過程を十分に説明しません。

近年の研究では、各国が異なる時点で行った具体的判断を比較することが重視されています。暗殺計画へのセルビア軍人ネットワークの関与、オーストリア=ハンガリーがセルビアへの軍事的処罰を選択したこと、ドイツが強力な支持を与えたこと、ロシアが総動員へ進んだこと、各国が動員・戦争計画を危機管理より優先したことなどです。

1914–1918 Onlineの研究は、同盟や軍拡が長期的な条件を作った一方、戦争は不可避ではなく、七月危機の複数の段階で外交的解決の可能性が残っていたと整理しています。

したがって重要なのは「戦争原因を一個選ぶ」ことではなく、なぜそれ以前の危機では戦争を回避できたのに、1914年には各国が危険な選択を連鎖させたのかを問うことです。

1904–1914年に何が変わったのか

1904年の英仏協商は、イギリスとフランスがエジプト・モロッコなどの植民地問題を調整するための協定でした。1907年にはイギリスとロシアもペルシア、アフガニスタン、チベットをめぐる競争を調整し、仏露同盟と合わせて三国協商と呼ばれる政治的組み合わせが形成されました。

一方、ドイツはオーストリア=ハンガリーとの同盟を外交の中心に置き、海軍建設によって世界的大国としての地位を高めようとしました。英独海軍競争と二度のモロッコ危機は英仏協力を強めましたが、1914年まで英独関係が一直線に悪化し続けたわけではありません。

より危険になったのはバルカンでした。1908年のボスニア併合でオーストリア=ハンガリーとセルビアの対立が深まり、1912–13年の二度のバルカン戦争でセルビアが拡大しました。オスマン帝国はヨーロッパ領の大部分を失い、アルバニアが新たに成立し、ブルガリアは旧同盟国と対立するようになりました。国境変更のたびに民族・国家・帝国の要求が重なり、次の危機を生みました。

1914年6月28日のサラエヴォ暗殺は、その緊張の中で起きました。しかし暗殺だけでは世界大戦にはなりません。ドイツの強い支持を得たオーストリア=ハンガリーがセルビアへ最後通牒と戦争を選び、ロシアがセルビア支援と自国の大国的地位を守るため動員し、ドイツが二正面戦争計画のもとロシアとフランスへ宣戦し、ベルギーへ侵入したことでイギリスも参戦しました。

つまり1904–1914年に形成されたのは、「ボタンを押せば自動的に世界大戦になる同盟システム」ではありません。帝国競争、軍拡、民族問題、動員計画、同盟関係が危機の選択肢を狭め、1914年7月に各政府がその狭い選択肢の中で戦争へ向かう決定を積み重ねた世界でした。

1904–1914年の主な出来事

  • 1904年4月8日 — イギリスとフランスが英仏協商を締結。
  • 1905年3月 — ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がタンジールを訪問し、第一次モロッコ危機が本格化。
  • 1906年 — アルヘシラス会議でモロッコ問題を処理。
  • 1906年 — イギリス海軍が戦艦《ドレッドノート》を就役。
  • 1907年8月31日 — イギリスとロシアがペルシア・アフガニスタン・チベットをめぐる協定を締結。
  • 1908年7月 — オスマン帝国で青年トルコ革命。
  • 1908年10月 — オーストリア=ハンガリーがボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合を宣言。
  • 1908–1909年 — ボスニア併合危機。ロシアとセルビアは最終的に併合を受け入れる。
  • 1910年8月 — 日本が韓国を併合。
  • 1911年7月1日 — ドイツ砲艦《パンター》がアガディールへ到着し、第二次モロッコ危機が激化。
  • 1911年9月 — イタリアがオスマン帝国領リビアへ侵攻し、伊土戦争が始まる。
  • 1912年 — セルビア、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロのバルカン同盟が形成される。
  • 1912年10月 — 第一次バルカン戦争開始。
  • 1912年11月 — アルバニア独立宣言。
  • 1913年5月 — ロンドン条約。オスマン帝国のヨーロッパ領が大幅に縮小。
  • 1913年6–8月 — 第二次バルカン戦争。ブルガリアがセルビア・ギリシャなどに敗北。
  • 1913年 — ドイツが大規模な陸軍増強法を成立。
  • 1913年 — フランスが三年兵役法を成立。
  • 1914年6月28日 — サラエヴォでフランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺される。
  • 1914年7月5–6日 — ドイツがオーストリア=ハンガリーに強い支持を伝える「白紙委任状」。
  • 1914年7月23日 — オーストリア=ハンガリーがセルビアへ48時間期限の最後通牒。
  • 1914年7月25日 — セルビアが回答。多くの要求を受諾するが一部を留保。両国の外交関係断絶。
  • 1914年7月28日 — オーストリア=ハンガリーがセルビアへ宣戦。
  • 1914年7月30日 — ロシアが総動員を決定。
  • 1914年8月1日 — ドイツがロシアへ宣戦。
  • 1914年8月3日 — ドイツがフランスへ宣戦。
  • 1914年8月4日 — ドイツ軍がベルギーへ侵入。イギリスがドイツへ宣戦。
  • 1914年8月 — イタリアは中立を維持。
  • 1914年8月23日 — 日本が日英同盟を背景にドイツへ宣戦。

次の時代へ — 第一次世界大戦

1914年8月、ヨーロッパ主要大国が戦争へ入ると、各政府や軍部の一部には短期間で戦争を終えられるという期待がありました。しかし実際には、西部戦線でドイツ軍の進撃が止まり、北海からスイス国境へ長い塹壕線が形成されます。

戦争はヨーロッパだけに留まりません。ロシア・オスマン帝国の戦線、中東、コーカサス、アフリカのドイツ植民地、青島と太平洋、さらに海上封鎖と世界貿易まで巻き込みました。植民地からは兵士と労働者が大量に動員されます。

次の記事では、1914–1918|第一次世界大戦 — 塹壕戦、総動員、帝国、革命として、西部・東部戦線だけでなく、オスマン帝国、植民地軍、海上封鎖、民間社会、アルメニア人虐殺、アメリカ参戦、ロシア革命、1918年休戦までを世界規模で扱います。

参考資料・出典

本ページは、Freie Universität Berlinを中心に編纂されたInternational Encyclopedia of the First World War(1914–1918 Online)、ドイツ歴史資料プロジェクトGerman History in Documents and Images、イギリス政府外交史資料、イギリスForeign, Commonwealth & Development Office条約資料、アメリカ国務省歴史局、Imperial War Museumsなどを参照してART LIBRARYが独自に構成・執筆しています。同盟体系や軍拡を第一次世界大戦の「自動的原因」とみなさず、それらが作った長期的条件と1914年七月危機における各政府の具体的な決定を区別しています。英仏協商と英露協商については、もともと植民地・アジアの利害調整から成立したことを明示し、三国協商を三国同盟と同一形式の軍事条約として扱っていません。サラエヴォ暗殺についても、暗殺者とセルビア軍人ネットワークとの関係を記述する一方、セルビア政府そのものが暗殺を正式に命令したと断定していません。

資料確認日:2026年10月1日 / ART LIBRARY